2016年12月7日水曜日

「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第3章1節~12節)

マタイによる福音書第31-12節、2016124日(日)、待降節第2主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第111-10節、ローマの信徒への手紙第154-13節、讃美唱72(詩編第721-15節)

 説教「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第31節~12節)
 
  先週から、アドベントに入り、今年は、3年サイクルのペリコペ、聖書日課のA年に戻り、マタイ福音書が主たる福音として与えられており、今日の福音は、マタイ福音書第31節から、12節までであります。
週報にも、予告の欄に、次の主の日の、各聖書個所を前もって、お読みくださり、十分に黙想した上で、礼拝にお臨みくださいと記していますが、今朝は、主たる福音のマタイ福音書の記事から、この教会歴の新年に当たるアドベントの時期をどのように過ごすべきなのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 それにしましても、今は、クリスマスを前にして、町の中の商店などでは、クリスマスソングが繰り返し流されて、主イエスのご降誕を前に、にぎやかで、それを待つ喜びで一色になっているようでもあります。
 しかし、み子のご降誕の意味を考えるということは、必ずしも、2000年前のその出来事を喜び、それを心待ちにするということだけではないのであります。
すなわち、アドベントというのは、到来、あるいはそれを待ち望むという意味でありますが、2000年前のあの馬舟の中でのみ子の到来という意味のみならず、その主イエスの終わりの日の到来をも待ち望む。それが、アドベント、待望節、この教会の新しい年の始めに、私どもが心すべきことなのであります。  
そのようなことも、思い起こしつつ、伝統的な教会で、アドベントの第2主日に必ず読まれてきたと言います洗礼者ヨハネの主イエスの道備えの記事をマタイ福音書に従って、聞いていきましょう。
 今日の記事は、「そのころ」と始まっていますが、これは、「その日々に」と元の文にはあり、大事な出来事が起こるときに使われる聖書の言い方であります。救いの時が到来したのです。
マタイ福音書では、この第3章から、洗礼者ヨハネの宣教と、主イエスの宣教へと大きく、幕が変わっていきます。2章までのみ子の誕生の時代から、一気に一世代の間隔があき、この世界での主イエスの宣教のときがいよいよ近づいたのであります。
そして、それに先駆けて、洗礼者ヨハネが、現われ、主イエスの道備えをするために、悔い改めの洗礼を授けたことが、4つの福音書いづれにも記されているのであります。
 そして、それは、旧約聖書にも預言されていたことだと福音書記者たちは語っています。そして、不思議なことに、神はご自身で人間、ことにその民を、救われるのではなく、人間でもあるメシアを通して、救われるのであります。そして、その前にその道備えをする使者をお立てになる、それが再来のエリヤであり、今日登場する洗礼者ヨハネであるというのです。
 このヨハネは、荒れ野において、到来します。それは、預言者イザヤによって、言われていた者であり、主の道を、あなた方は備えよ、その小路を真っ直ぐにせよと呼ばわる声であると紹介されています。
その出で立ちは、預言者エリヤと同じであり、彼は、いなごと野蜜を食し、らくだの毛衣と、腰に革の帯をしていました。そして、悔い改めへの洗礼を施し、エルサレムと全ユダヤ、全ヨルダン近域は、彼に向かってやって来つつあったと言い、彼らはヨルダン川で彼によって、罪を告白しながら、洗礼を受けつつあったと記されています。
 その当時でも、クムラン教団やエッセネ派の共同体では、入会式のためや清めのための水浴、洗礼があり、ユダヤ教への改宗のための洗礼はあったといい、ヨハネの洗礼との関係が論じられていますが、ヨハネの悔い改めの洗礼は、そのいずれにもまさって、全ユダヤに大きな反響を引き起こすものでありました。
 ところが、その中には、ファリサイ派やサドカイ派の大勢もいるのを見たヨハネは、「蝮の子らよ、迫っている神の怒りから逃れられるとだれが教えたのか。自分たちはアブラハムの子らであると言おうと考えたりするな。神は、これらの石からでもアブラハムの子らをもうけることがおできになる」と激しく非難するのであります。
自分たちは律法を守り、悔い改めていると自負していた者たちが、ヨハネの洗礼に与ろうとするのに対して断固として異議を申し立てます。そして、悔い改めにふさわしい実を結べと警告しています。
 そして、自分より後に来られる方は、自分より強い方で、私はそのお方の靴を脱がせるにも価しないというのです。
そして、私は水で洗礼を授けているが、その方は聖霊と火において、あなた方に洗礼を授けようと告知しています。聖霊と火において洗礼を授けるとは、どういう意味でしょうか。聖霊という火で終わりの日に私たちを厳しく裁くということでしょうか。
ヨハネは、今は、天の国、主の主権の到来に備えて、神に全存在を持って立ち帰るようにと、水での、メシア到来に備えての洗礼を授けました。
 しかし、その方が来るときには、結ばない木は皆、切り倒され、火の中へと投げ込まれるとも言いました。そして、重ねるように、その方は、聖霊と火で洗礼を授け、農夫が箕を手に持って、麦と殻を吹き分けるようにして、麦を御自分の倉におさめ、殻は、おさまることのない火で焼き払われると、ここで宣言しているのです。
 洗礼者ヨハネは、主イエスが再び来られる時、そのような厳しい裁きをなさり、全存在をもって、神へと立ち返った者は、火で純化された者としてお救いになり、そうでない実を結ばない者は、焼き滅ぼされると、私どもに強い警告を発しているのであります。
 しかし、その後、お出でになられた主イエスは、そのような厳しい裁き手としてお出でになられたのではありませんでした。そのようなお厳しい神の裁きを、御自分が十字架におかかりになることによって、引き受けられたのであります。
 私どもは、このようにして、神の恵みを受けて、悔い改め、全存在が神に立ち帰る生き方へと招かれているのであります。クリスマスの祝いを前にしながらも、私どもは、このような主イエスが再び終わりの日にお出でになられることを待ち望みつつ、日々悔い改めながら、選ばれた者として、終わりの日に備えてつつ歩んでいきたいものです。

アーメン。

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