2025年11月23日日曜日

「我らの救い」(日曜日のお話の要約)

永遠の王キリスト・聖霊降臨後最終主日礼拝(2025年11月23日)緑

エレミヤ書23章1―6節(旧1218)

コロサイの信徒への手紙1章11―20節(新368)

ルカによる福音書 23章33―43節(新158)


 私たちはこの1年間、ルカ福音書から学び、御言葉を分かち合ってきました。著者ルカはイエス・キリストという神の御子の姿を、当時の人々にとっては当たり前だった人種や貧富の違いによる偏見を軽々と超えていく救い主としてリアルに描きました。そして、この世の全ての人々は過ちや罪を犯すけれど、イエス・キリストによって救われる価値があるのだと、宣教のメッセージを記し、私たちの心を導いていくのです。


 ニュースを見ても新聞を見ても明るい話題には乏しく、未来への不安を抱えながらも、社会がどのような状態となっても福音を信じ福音を伝えていく使命を神様からいただいています。だからこそ私たちはイエス・キリストが死に向かう物語を共に読み、受け止めていくのです。


 イエス様の十字架の出来事は福音書の最もたいせつな記述で、4つ全ての福音書に記されており、イエス様が十字架に付くまでの間に様々な人々が登場し、さまざまな人間模様も描かれています。


 私たちはゲツセマネでイエス様を捕らえに来たのは兵士たちだったと漠然と思っていますが、実は兵士という言葉はヨハネ福音書に記されているだけで、それ以外の福音書は祭司長や律法学者に煽動された群衆がイエス様を捕らえにきた、と書かれています。


 この人々は権力者から「イエスを捕らえることが正義だ」と煽られたのでしょうか。ホサナホサナと迎えた人々と同一かどうかはわかりませんが、凄まじい手のひら返しと言えるでしょう。


 そして、そんな群衆に翻弄されたのがユダヤの総督ポンティオ・ピラトです。彼はイエス様を死刑にしないで釈放しようとしますが「十字架につけろ」という群衆の声に押し負けて死刑判決を下してしまいます。自分が信じた正義を貫けなかった結果、ピラトの名前はイエス様に苦しみを与えた悪名高い人物として、使徒信条に刻まれてしまいました。


 これらの計画を実行に移した祭司長たちは、何も悪役として君臨しようとしたわけではなく、政治的な駆け引きでイスラエルを守ろうとした結果、ローマとの争いの火種になりそうなイエス様を排除したのです。


 イエス様を十字架に押し上げた人々は、それぞれが個人的に、あるいは社会的に「平和」を願い、守ろうとしたのかもしれません。しかし選んだ方法は最悪でした。それでもイエス様はご自分の命を奪おうとする人々の、自己保身や身勝手さという心の醜さや思いの貧しさを全てご存じで受け入れ、赦そうとされたのです。ゲツセマネの園で弟子達が眠ってしまった後も、血が滴るように汗が流れる中で、十字架に掛かることを決断されたのです。


 人々の心の醜さに触れ続けたイエス様にとって、十字架の上で聞いた犯罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という信仰告白は、どれほど大きな慰めになったでしょう。


 この人物は十字架につけられるほどの重い罪を犯した犯罪人です。社会からは救いようのない人物と判断され、捨てられたのです。しかし彼は最後の瞬間にイエス様を神の子と信じ、天国への希望に縋ろうとしました。そしてイエス様は人生で最も苦しく辛い瞬間に、ご自分の行動が決して無駄ではなかったことを改めて確信されたのです。残酷な場面ではありますが、絶望の中で光り輝く瞬間のようです。


 神のひとり子イエスが、貧しさの中で人として生まれ育ち、王として私の罪を背負い十字架にかかって下さったことを宣べ伝えていく、それがキリスト教です。


 私たちの人生は、自分を愛し、受け入れててくれる人と出会うことで大きく変わります。昨日までとは比べものにならない悦びに満ちた日々がやってくるのです。残念ながら人の愛は変わりやすく気まぐれなところもありますが、イエス様と父なる神様の愛は、一度思いを交わしたならば決して変わることはありません。


 そして、私たちの人生は、積み重ねてきた過ちや失敗や性格上の欠点から解放される時、大きく変わります。キリストの十字架は、私たちの罪を完全に償い、ゆるし、私たちの生活を一変させるのです。過去について言い訳をしたり、自分の性格について悩みながら虚勢を張って生きなくても良いのです。罪人のまま私たちを主は受け入れ、ゆるし、愛してくださるのです。


 さて、最後に一つお話ししておきたいのが、23章34節の「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という部分です。ここは大きなかっこでくくられているのにお気づきになったでしょうか。ここはルカ以外の人が、かなり早い段階で付け加えた大切な一文である、ということがわかります。


 実はこれは重要な意味を持ちます。ルカが福音書を記したと思われる前後に、イスラエルはローマとの戦争に敗れ、神殿は跡形もなく破壊され、ユダヤの人々は祖国を失います。しかしそれでも神は赦す、と言われるのです。ローマの人々は自分が何をしているのか知らないままに神を冒涜し、信仰を蹂躙しました。それでも神は赦すと言われている、とこの一文は表しています。これほどの悲劇を経験しもなお、強い愛のメッセージが込められているのです。


 イエス様は、ユダヤ人だけでなく、全ての人が経験するであろう、貧しさや心無い仕打ちなどなど、全ての苦しみから救うために、十字架にかかられたからです。


 現代に生きる私たちもイエス様の思いを知り、十字架の思いを受け取り、神の国に迎え入れられたものなのです。イエス様こそ「我らの救い主」と信じているからこそ、貧しさや弱さを持つ人を神の国へといざなうために、愛し、赦すことを、主イエスに学び、与えられた使命として行い、イエス様のお誕生を喜び、心を神様に向けて、新たな教会の暦を歩んで参りましょう。



一週間遅れとなりましたが、こども祝福式と

土曜学校の写真をUPいたします


今年の祝福式はキッズバンドも含めて17名の子どもたちが参加してくれました

昨今は色々と差し支えがありますので

許可の取れたお子さんの写真だけですが(^^;)


前後しますが日曜日の写真から


キッズバンドの一人、Mさん
みんな壇上に上がって祝福を受けましたが
このようにちょっと大きいお子さんは
聖書に手を置いて牧師の祝福を受けました

こんな感じで「祝福の順番待ち」です(^^)


このページではお馴染み
ルーテルキッズバンドの賛美です



そして土曜学校の写真を少しだけ
素敵な作品を、よく見えるように
カメラにむけてくれたUさんとNさん


次の土曜学校は12月13日です
みんな来てね(^^)

2025年11月16日日曜日

「かみさまの ゆめ」(日曜日のお話)

こども祝福式礼拝(2025年11月16日)(赤)

ルカによる福音書 18章15-17節(新144)

説教「かみさまの ゆめ」         


 「かみさまのゆめ」という絵本があります。「デズモンド・ツツ」という人がお話を書いて、ウエインさんという人が絵を描きました。ツツツさんは1984年にノーベル平和賞というすごい賞を受賞した人です。中が見たい?ごめんね、ちょっと待ってくださいね。


 みんなはノーベル平和賞って知ってますか?一年に一回、世界の平和のために一生懸命働いた人やグループだけがもらえる、ご褒美です。毎年12月10日に授賞式があります。世界中の専門家が真剣に話し合って、誰にあげるのがよいか決めるのです。「この人がノーベル平和賞をもらうのは当たり前だ」と認められた人だけがもらうことができます。


 昨年は日本の被団協というグループが受賞しました。本当の名前はちょっと長くて「日本原水爆被害者団体協議会」と言います。核兵器という恐ろしい兵器が地球から無くなるよう、何十年も頑張ってきたのです。この人たちは、ちょうどルーテルキッズバンドの皆さんぐらいの時、長崎や広島に住んでいて原子爆弾を落とされました。家族や友だちが死んだり家が吹き飛ばされたり、ひどい火傷をしたりしました。すごく辛い目にあったけれど、何とか生きて大人になることができました。


 この人たちは「爆弾を落とした人に復讐してやる」とは全然思いませんでした。核爆弾でひどい目に遭うのは自分達で最後にしたいと決めたのです。核爆弾を落とせばどれだけたくさんの人がひどいことになるか、世界中の人たちに話して回りました。お話を聞いたたくさんの人が驚き、感動し、核兵器は良くないと考える人がどんどん増えました。その活動が立派だと認められてノーベル平和賞をもらったのです。


 では、この絵本を作ったツツさんはどんな活動をしたと思いますか?ツツさんは南アフリカという国に生まれました。その頃の南アフリカでは、黒人がひどい差別を受けていて、白人ばかりが威張っていました。黒人は仕事を見つけるのも大変、勉強するのも大変でした。病気になってもお医者さんがちゃんと診てくれないので、死んでしまう人もいました。ツツさんの家は貧乏でしたが、彼はものすごく頑張って、まず学校の先生になり、それからキリスト教の先生になりました。そして南アフリカで黒人が差別されるのをやめさせるために戦いました。


 戦いと言っても暴力は使いません。白人を酷い目に合わせよう、とは思いません。殴られたら殴り返すのではないのです。ツツさんはいっぱい勉強して、たくさんの人の前で「同じ国民なのに黒人が差別されるのはおかしい」とお話ししたのです。いじめられることもありましたが、やがてツツさんやその仲間の働きで、南アフリカは大きく変わり、黒人を差別する決まりは無くなりました。これはすごいぞ、ということでノーベル平和賞をもらったのです。


 その後、ツツさんは子どもたちにも「差別はやめて仲良くしよう」とお話ししたくてこの絵本を作ったそうです。


 ノーベル平和賞は他にどんな人がいるかな、皆さんが知っていそうな人は、そうですね、マザー・テレサとかマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとかシュバイツァー博士とか。知っている人はいるかな?


 この人たちは、例えば「俺のいうことを聞いて喧嘩をやめろ」と脅かしたり、「お金をあげるから、とりあえず仲良くしようよ」なんて変な誘い方をしたりはしません。「世界が平和になるためには今のままではいけない」と信じて、自分が正しいと思うことをたくさんの人に知ってもらえるように勉強し、行動し、コツコツ努力をして頑張ったのです。


 さて、ここでとても大事な質問です。「正しいこと」って何だと思いますか?実は「正しいこと」というのは時代や国、人によってすごく変わります。みんなは「人を殺すのはいけない」と知っていますね。でも戦争の時には敵をたくさん殺した人が偉い、と褒められます。


 それから、お金を盗むのはいけないと知っていますね。でもお金があれば何でもできると信じている人は、お金持ちになるためにずるいことをしても平気です。「騙される方が悪い」と言ったりします。


 他にも「俺が世界で一番正しいんだ、偉いんだ、俺に反対する人は馬鹿だ」と威張っている人もいます。昔の話ではありません。今もそんな人がたくさんいます。この人たちは自分が間違ったことをしているとは思ってなくて、「自分は正しいことをしている」と思っています。そんな人たちが増えると、世の中がどんどん滅茶苦茶になって平和な世界ではなくなります。


 いつ爆弾が落ちて死んでしまうかわからない。ご飯がものすごく高くなって買えなくて、いつもお腹ぺこぺこ。病気になってもお医者さんに見てもらえない。そんな世界になったら嫌でしょう?だから私たちは、「本当の正しさ」ってどんなことか知って、それを目標に、ちょっとずつでも頑張ることが大切なのです。平和な世界になるためには、子どもの時から「本当の正しさ」を知ることはとても大切です。


 「こうすれば正しく生きられます」と書いてある本は世界中にいっぱいあります。でもどれが一番いいのかなあって悩まなくて大丈夫です。「正しいこと」を教えてくれるすごい本は、みんなに一番近いところにあります。それがルーテル幼稚園でも、ルーテル教会でも大切にしている「聖書」なのです。聖書はとっても昔に書かれましたが、今でも世界で一番読まれている本だと言われています。


 聖書には、この世界をお作りになった神様と、その一人子イエス様のことが書かれています。神様もイエス様も私たちのことが大好きだから幸せに暮らして欲しいのです。そしてどうすれば世界は平和になるか、イエス様はお手本をみせてくださいました。イエス様を信じて真似して、神様にお祈りすれば力がもらえることも、聖書に書いてあります。


 神様もイエス様も、いっしょに頑張ってくれる人をいつでも探しています。だから先生たちも神様の仲間になってくれる人をいつでも探していて、おとなの人にも子どもたちにも神様のことをお話ししています。


 イエス様はこんなふうに言っています。人間は誰も完璧ではなくて、間違えるし、失敗もするけれど、それでもいいんだよ。みんなが仲良くできるようちょっとずつでも頑張る人は、私の友達、いつも一緒にいるからね。イエス様はそう約束してくださいました。


 そうそう、皆さんはクリスマスがイエス様のお生まれをお祝いする日だと知っていますね。イエス様が馬小屋でマリヤさんから生まれたことをお祝いする日です。え?忘れてた?じゃあ今日しっかり覚えて忘れないでくださいね。


 教会では、今年は11月30日からアドベントと言ってクリスマスの準備が始まります。毎年のこども祝福式礼拝は、このちょっとだけ前にあるのです。こども祝福式はイエス様から「愛と平和があなたにありますように、あなたが元気で過ごせますように」と祝福してもらう日です。その時、ああ、もうすぐイエス様のお祝いのクリスマスが来るんだなあ、と思い出してもらえると、イエス様もとても嬉しいはずです。


 最後に、こうして絵本を持っているだけだとつまらないので、この絵本の中で、先生が好きだなあと思うところを読んでお話を終わりにしたいと思います。


かみさまのゆめ

かみさまの ゆめは みんなが たがいに てをつなぎ

いっしょに あそび えがおで いることなんだよ

でもね、かみさまは むりに みんなを ともだちに させたり

なかよく させようとは なさらないんだ

かみさまの こどもだけど ときに おこったり

きずつけあったり してしまうことが あるでしょう

そのときは かなしくなったり ひとりぼっちに なったような

きもちに なるものだね

ときどき ないたりするけど そんなときは 

かみさまも いっしょに ないているんだ 

でも ごめんなさいをしたり ゆるしてあげたり するときは

じぶんたちの なみだだけじゃなくなくて

かみさまの なみだを ぬぐうことにも なるんだよ

わたしたち ひとりひとりの なかには 

かみさまの こころの かけらが あるんだよ

そして みんなが たがいを たいせつに しあうとき

かみさまの こころの かけらは 

あつまって ひとつのものに なるんだ


毎年こども祝福式に来てくれたお友達に
カードとささややかプレゼントを
差し上げています

2025年11月11日火曜日

「土曜学校」と「こども祝福式礼拝」どうぞお越しください

今年は暦の関係で「土曜学校」と「こども祝福式礼拝」を
土曜日曜と連続して開催いたします
どうぞお越しください



2025年11月9日日曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝(2025年11月9日)(緑)

詩編17編1―9節(旧)

Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章1―5節、13―17節(新381)

ルカによる福音書 20章27―38節(新150)

説教「神の愛と赦しの中」         朝比奈晴朗


 本日福音書にはサドカイ派という人々が登場し、イエス様に論争を挑みます。イエス様とやりあうといえばファリサイ派が思い浮かびますが、サドカイ派はファリサイ派とは立場も考え方も違います。


 ファリサイ派は律法を守って生きることを何より大切にし、それが神様に喜ばれることであると信じ、一般民衆にもそれを求めました。律法の教師として、また政治家として、社会に強い影響を与えていました。いわば歩くルールブックのような人々です。


 一方ここに登場するサドカイ派というのは、貴族階級で先祖代々神殿に仕える人々でした。大祭司はこのサドカイ派から選ばれました。


 ファリサイ派とサドカイ派の大きな違いは、ファリサイ派は天国や復活を信じていましたが、サドカイ派は死者の復活や死後の世界は信じなかった、ということです。


 復活についての考え方は、聖書学者たちの長年の研究のうちに「神様の御心」として理解され、定着したものでした。しかしサドカイ派は「神殿があればそれで良い」と考え、「モーセ五書」と言われる旧約聖書の冒頭にある5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを信じ、聖書全体を掘り下げて学ぶことをせず、単純に「モーセ五書に書かれていない」という理由で復活を否定したのです。


 しかしイエス様は多くの人々に神様や天国の話をされ、人々の心を捉えていました。その中には神殿にろくに献金できない貧しい人々や罪人と呼ばれる人々も含まれていました。裕福ななサドカイ派の人々にとって貧乏人は目障りな存在でしたから、イエス様の動きそのものが目障りだったのでしょう。


 そこでユダヤ民族が大切にしてきた律法の中からレビラト婚という掟を持ち出し、論争を挑んだのです。この掟は、子どもがいないまま夫が死亡した場合、その妻が死んだ夫の兄弟と結婚し、血を絶やさないようにする、という決まりです。しかし彼らがたとえとして出したのは、7人兄弟全ての妻となるというような非現実的なケースです。死者が本当に復活したら困ったことになるだろう?というような、極端な例を出したのです。


 復活も天国も信じず、貧しい人々を顧みることもなく、神様の思いそっちのけで神殿でただ誇らしげに振る舞い、かと言って清廉潔白ではなく保身のためならローマとも手を組む。そんな彼らに悔い改めを求めるために、イエス様はこの滑稽な問答にあえて付き合ってくださったのでしょう。


 イエス様は、サドカイ派がモーセ五書しか信じないことを知っておられました。とはいえ深く研究しているわけでもないと知っておられました。ですから、ズバリ「死者が復活することはモーセ五書の中にも書かれている」と指摘することで無益な論争を終わらせたのです。


 この復活についての問答は、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカに福音書にも記されています。ただその結末の言葉がそれぞれ違っていて、マルコは「あなたたちは大変な思い違いをしている」、マタイは「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」そしてルカは「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」とあります。


 これはそれぞれの福音書が書かれた時代を反映していると言われています。福音書は一斉に書かれたわけではなく、イエス様が天に帰られた後、おおよそ100年間にわたって別々に書き記されたとの研究があります。この100年の間に、イスラエルも、その首都エルサレムも大きく変化していきます。


 簡単に申しますと、イエス様の活躍した時代から30年ほどたちますとローマ帝国との戦いが起こり、エルサレム神殿は陥落、ユダヤの民は国を追われてしまいます。そして、神殿の消滅と共にサドカイ派が滅びてしまったのです。


 神殿もなくし、復活信仰もない彼らは、自分達の存在意味を失ったのでしょう。一方律法の学びと教えを中心としていたファリサイ派は苦難の中を生き延び、ユダヤ教の正統派として現在も存在しています。


 神殿とサドカイ派が滅びたことは当時のユダヤ人たちに強いメッセージとして響いたことでしょう。どれほど立派な神殿があっても神様の愛や赦しは伝わらないのだ、では私たちは何を重んじるべきか、と考えた結果、福音書には著者それぞれの書き方で記されたと考えられます。


 さて、イエス様の時代から2000年が過ぎ、その間にキリスト教の礼拝もさまざまに変化していきました。神様の愛や招き、赦しをより多くの人々に伝えようとして、儀式やしきたりを重んじ過ぎた時もありましたし、学問偏重主義に走ったこともありました。今も何が正解かわからないままに様々な形のキリスト教の礼拝の形が存在しています。


 私たちルーテル教会も典礼主義という側面を持っています。「歌う教会」と言われたこともあり、先々週の宗教改革記念礼拝では、中島先生が考案した式文を用いて礼拝に預かりました。


 しかし高齢化に伴い、連続して歌うことに困難を覚える教会もあり、同じルーテル教会でもほとんど式文は使わない教会もあります。ルーテル以外では、牧師が聖書の解釈に心血を注ぎ、信徒に分け与えることを重んじる教会もあります。


 おそらくどの形も絶対ではなく、集まる人によって変化することは、神様の愛と赦しの中で認められています。私たちはまず第一に福音をどう伝えていくのか考え続けましょう。もし赦された心と愛の心があるなら、必ずこの場所が、神様の存在を感じられる場所として、多くの人が集って来るのを、私たちは見ることになるでしょう。



昨日8日(土)は幼稚園と教会のために

チャリティコンサートが行われました

歌ってくださったのはタテタカコさん

地元飯田出身のミュージシャンです

ルーテル飯田幼稚園の卒園ということで

名古屋のキリスト教者会館の方に繋いでいただき

この度実現しました

諸般の事情でライブ中の写真は掲載できないのが残念です(><)


せめて牧師がレゴブロックでPRのために作った

ライブのイメージ作品と、当日のポスターをご覧ください




タテさんのオフィシャルFBには礼拝堂で歌ってらっしゃる

写真が1枚掲載されていますので

よければご覧ください(教会のFBにもシェアさせていただきました)



さて、次週11月15日(土)は土曜学校です

お近くの皆さま、どうぞお越しください