2026年9月20日日曜日

「様々な苦労」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2026年9月20日)(緑)

ヨナ書 3:10~4:11 (旧1447)   フィリピ 1:21~30 (新362) 

マタイによる福音書20:1~16(新38)


 今日の福音書の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、真面目で誠実なクリスチャンであればあるだけ共感しにくいお話だと言われています。実際、私の知人のクリスチャンが「この話はわからない」とぼやくのを聞いたことがあります。


 「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とイエス様のお話が始まります。主人が出かけたのは日雇い労働者が職を求めて集まる「寄せ場」のようなところだったのでしょう。


 主人は1日につき1デナリオン支払う約束をして労働者達を自分のぶどう園に送ります。1デナリオンは当時の労働者の1日分として標準の給料ですから、彼らは納得して出かけて行きました。


 主人はその後、何度も寄せ場に出かけては、人を雇い入れます。朝の9時、昼の12時、夕方の3時、そしてほとんどの仕事が終わろうかという夕方5時にもまた出かけて、誰からも雇われず、一日中立ち尽くしていた人々に声をかけてぶどう園に行かせたのです。


 やがて労働時間が終わり、主人は監督に、最後に来たものから順に支払うように命じます。監督は主人に言われた通り、まず夕方5時ごろに来た人々に1デナリオンずつ支払います。順番に支払いを終え、最初に雇われた人の番がきます。しかし彼らが受け取ったのも同じ1デナリオンでした。


 早朝から働いた人々は、「遅く来た彼らが1デナリオンもらえるなら、自分はもっともらって良いはずだ」と、主人に不満をぶつけます。 しかし主人は彼らに向かって、「1日1デナリオンで雇われたのだから、自分の分を受け取って帰りなさい。」と言います。そして「最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分がしたいようにするのは当たり前だ」とも言ったのです。


 約束通りとはいえ、あまりにも不公平だと揉める人々の気持ちもわかります。まして夕方5時ごろまで仕事もせず、ぶらぶらしている人をたった1時間だけ雇い、1日分の給料を払うとは、とんでもない話です。


 さらには「私は自分のものを自分がしたいようにする」とか「彼にいくら払おうが、あなたには関係がない」と言うのですから、これは大問題です。この噂が広まれば、この主人のぶどう園で朝早くから汗を流して働く人はいなくなるでしょう。


 しかし、このお話を読むとき大切なのは、これは「この世の話」ではなく、「神様がお決めになった、天の国のルール」である、と言うことです。天の国のルールだからこそ、神様は日が暮れる直前まで誰からも見向きもされなかった人を、あえてぶどう園に招かれるのです。


 すでにお気づき方も多いと思いますが、夕方5時ごろに雇われた人、とは人生の遅い時期に神様を信じ、何一つ奉仕ができなかったような人のことで、夜明けから働いた人とは長い間奉仕を続けてきた人です。


 神様は、たとえ人生の最後の残りわずかな時間であっても、ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人が愛おしいのです。そして、長い間共に働いたあなた方は、悔い改めた人を「滑り込みだ」「ずるい」などと裁いたりせず、一緒に喜んでほしい、と思っておられるのです。


 この神様のルールは、もう一つの聖書箇所、旧約聖書のヨナ書にも、はっきりと見ることができます。主人公のヨナは、ぶどう園で朝から働いて1デナリオンもらった人々よりも、もっともっと不条理な思いをした人物でしょう。


 ヨナは、神様からニネベという大きな町に行って「あなた方は滅びる」と告げるよう命じられます。ニネベというのは当時の大国アッシリアの首都で、イスラエルの敵国ともいうべき国です。ヨナはそんな町に行くのは嫌だとばかり、役目を拒んで逃亡しようとしますが、海に放り込まれたり魚に呑み込まれたり、と散々な目に遭います。苦労の末に悔い改めたヨナはニネベに辿り着くと、神様から命じられた通り「あと40日でニネベは滅びる」と人々に告げました。


 それを聞いたニネベの王様は豪華な服を脱ぎ捨て、ボロボロの衣に着替えて国民に呼びかけます。「人も家畜も断食して神様の前に祈り、いっさいの悪いことをやめなさい。そうすれば神様が思い直してくださるかもしれない。」国民は皆、このおふれに従います。


 神様は彼らが悔い改め、悪の道を離れたことをご覧になって、なんとニネベを滅ぼす予定を取りやめられます。ニネベの人々はどんなに喜んだことでしょう。


 しかし収まらないのはヨナの方です。こんなに大変な思いをして神様の御心を告げに来たのに、神様の方が予定変更するなんてあんまりだと嘆き、こんなことなら死んだ方がマシだ、とまで言い始めます。


 そんなヨナに神様は、ニネベの人々が悔い改め、悪から離れたことがどれほど嬉しかったかしれない、と告げるのです。


 お話は神様の言葉で終わっているので、ヨナがどんな顔をして聞いていたかはわかりません。しかし自分もまた神様を裏切り、苦しみの中で悔い改め、救われ、赦された存在だった、と苦難の一つ一つを思い返すことができたなら、きっと清々しい顔で納得できたことでしょう。


 そしてここにもまた「ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人の存在がどんなにか愛おしい」という神様の思いが込められています。そこにはヨナ自身も含まれていて、「ヨナも一緒に喜んでほしい」と言う神様のメッセージもまた、ここにあるのです。


 今日共に読みました「ぶどう園の労働者」と「ヨナ書」のエピソードは、一生懸命働く奉仕者の視点から見ると、ただただ不公平であんまりなお話かもしれません。しかし神様はそんな私たちにも目を注いでくださっています。


 私たち一人ひとり、信仰生活の長い人がいればも短い人もいる、教会から離れた経験のある人もいれば、ずっと通い続ける人もいる。そんな私たちが神様によって一つ所に集められたのには、神様にしかわからない理由があります。その理由は御国に招かれて神様の御前に立つ時、はっきりとわかることでしょう。その時まで、私たちはイエス様と共に労苦を重ねながら、神様に与えられた人生を歩んでまいりましょう。



本日は甲信地区にある5つのルーテル教会「長野教会」「松本教会」「諏訪教会」「飯田教会」「甲府教会」をzoomで結んでの礼拝でした

朝比奈牧師が前日から甲府教会に宿泊してセッティング

牧師夫人が飯田教会に残って受診する、という方法を取りました

他の教会の皆さんもそれぞれ工夫して参加できたようです


教会を預かるものとしては

直接顔と顔を合わせて祈り

一堂に介して礼拝するのが一番いいと思えますが

止むを得ない事情があるときに諦めて礼拝を休むのではなく

自宅からでも交流できるのは感謝なことです

実際、飯田教会の病気療養中の教会員も日頃から

zoomを活用して礼拝参加してくれているので
今日も慣れた様子で加わってくれました



土曜の午後、飯田教会でセッティングを終えて
一路、甲府教会へ


3時間後、甲府教会に到着して設定開始
このモニターに写っているのは甲府教会の礼拝堂です
zoom調整中のため、普段着で失礼します
礼拝ではもちろん牧師シャツに着替えました(^-^;)


飯田教会の献花(礼拝堂に捧げられた花)が
秋らしくてとても美しかったので
思わず撮影


2026年9月13日日曜日

「寄り添う御心」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2026年9月13日)(緑)

創世記 50:15~21 (旧92)   ローマ 14:1~12 (新293) 

マタイによる福音書18:21~35(新35)


 大抵の人間は怒りや恨みの感情をうまくコントロールすることができません。そんな私たちに向けてイエス様は、とても変わった赦しのたとえ話を語っておられます。ただし、この話を一度聞いただけで理解できるするは難しいかもしれません。


 イエス様の話される譬え話は、少し聞いただけでは極端な話にも思えますから、イエス様の語り口に慣れているはずの弟子達でさえ、「よくわからないので、話の意味を教えてください」と願うほどです。


 今回のたとえ話も、解説されてなるほどとすんなり納得できるのは、イエス様を信じて救われたものだけ、本気で神様に感謝しているものだけ、というお話です。

 と言いますのも、イエス様を信じていると自負していても、なかなか神様の恵みに気づかないで、「神様を信じて本当に良いことあったかなあ」とぼやきつつ地上での生活を終える人も多いからです。


 そんな私たちではありますが、神様はなんとかして私たちを愛しておられることを伝えようと思われます。神様はご自分の御心はこの喩えのなかに表されるから受け止めてほしい、と願っておられるのです。


 福音書をもう一度見て参りましょう。ここには「仲間を許さない家来のたとえ」という見出しがついています。はじめにペトロが「私に罪を犯したものを7回くらいは赦すべきでしょうか」とイエス様に問いかけます。普段なら赦す気になれないような相手に対して、自分は寛大だから7回くらいは赦すことができますよ、というアピールだったのかもしれません。しかしイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と答えられます。これは「何度でも何度でも赦しなさい」という意味です。驚くペトロと弟子達に対し、無限に赦すことは神様の御心だから、と例えを持って語られたのです。


 この例えには裕福な王様と、王様からお金を借りながら返済できない家来が登場します。彼は仕事を失敗したのでしょうか、王様から借りた金は1万タラントン、日本円に換算して約6000億円にまで膨れ上がっており、もはやにっちも、さっちもいかなくなってしまいました。


 王様は彼に向かって「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じます。要するに家族全員奴隷になって、家も家財道具も全部売って返済に当てなさい、と言われたのです。これは身の破滅です。家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と、とことん詫び続けました。


 一家全員奴隷に身を落としても、全財産を売り払っても、彼が作ってしまった借金には到底及びません。王様もそれは分かっておられました。しかし王様は侘び続ける彼を見て非常に憐れに思い、その借金を帳消しにして、全てなかったことにしてやろうと決めたのです。


 王様からそう告げられた家来の喜びは言葉では言い表せないほどだったのでしょう。返済不可能なほど膨らんでしまった借金をどうやって返すか、という重圧から解放された家来は、新たな生き方をしようと心に決めたはずです。


 もし彼が、『主人を見習って、主人のように人を赦すような、寛大な心で生きる人になりました』となればめでたしめでたしだったのですが、残念ながらそうはなりませんでした。


 この家来は外に出た時、自分に100デナリオンの借金をしている友人と出逢います。100デナリオンは日本円にすると100万円ほどです。もしこの家来が王様の慈悲深さに心から感謝していたなら、きっとこう言ったでしょう。「私はたった今、王様から6000億円の借金を帳消しにしてもらったんだ。それに比べれば君が私から借りている100万円なんてちっぽけなものだ。返済なんていつでもいいからね」


 しかし家来はそうは言わず、相手を捕まえて首を絞め、友人がひれ伏して「どうか待ってくれ」と願う言葉に耳も貸しませんでした。そしてついには牢屋に引っ張っていき、借金を返すまで牢屋に放り込んでしまったのです。


 王様は、自分が許した家来が、寛大に、憐れみを持って弱い立場の人に接することができれば良い、と思っておられたのでしょう。だからこそ、家来が自分の友人にやったことを知った王様は怒りと失望を持って、家来をもう一度呼び出します。そして借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡すのです。家来はもう二度と日の目を見ることはないでしょう。


 このたとえ話は、最後のイエス様のお言葉からわかるように、王様が天の父である神様を表しており、哀れみによって一度は赦された家来というのは私たち一人ひとりのことです。


 人間の中には、わずかですが、なんらかの苦難に遭遇し「神様助けて」と祈って救われて、神様の存在に気づく人がいます。ただ、その人が神様に救われたことを心から喜び、神様が望まれる愛や寛容の心を持った生き方をしようとして努力が続けられるかというと、また別の問題のようです。それは、神様は人間には、自由意志というものを与えおられ、自ら進んで、御心を果たす方を喜ばれるからです。


 神様の愛がわかって、御心に忠実に生きようとする人は、人としても磨かれ、さらなる恵みが増し加わりますが、救われたにも関らず、それを忘れてしまうなら、牢につながれるような人生を選択してしまうこともあるのです。

 

 ただ、知っておいていただきたいのは、神様は一度堕ちた人間でも、なんとかして救いたいという願いを持っておられることです。今日読んでいただいた旧約聖書「エジプトのヨセフ」はそれが非常によくわかる記録です。


 主人公のヨセフは父のヤコブに甘やかされて育ったため、兄たちに嫉妬され、嫌われてエジプトに売り飛ばされます。頑張って上司に気に入られ上手くいったかと思えば罠に嵌められて牢屋に繋がれ、それでも誠実に働くうちに才能を認められてエジプトの大臣にまで上り詰め、エジプトを食糧危機から救います。

 

 一方ヨセフを売り飛ばした兄達は飢饉に見舞われ、エジプトの大臣になったヨセフに気づかないまま、その前に平伏して、食料を売ってもらうように頼みます。苦労を重ねて神様の愛と導きに気づいたヨセフは、かつての恨みを晴らそうとは思わず、彼らを受け入れます。時が流れ、兄弟が再びその赦しを疑ったとき、ヨセフは本心から赦していることを告げるのです。その思いがこの創世記50章19節、20節にはっきりと記されています。後ほどもう一度読んでみてくださればと思います。


 人間一度、悪に染まったら、悪事を積み重ねる人生になるかもしれない、しかし、神様はそれを良しとせず、救いの出来事を成し遂げてくださる。私たち一人一人は何からどんなふうに救われたかに関わらず、神の愛の御手に救われ、赦された存在なのです。


 赦されたことに気づいたなら、次の行動は、悪にさえ寄り添う御心を知るものとなることです。人に与える赦しや寛大さをけちけちとはせず、神様が出会わせてくださった、この世に悩みがあるものや、負債や罪あるものに寄り添い、御心を表していくこと、示すこと、実現することを、キリスト者として、喜びとしてまいりましょう。


昨日は土曜学校でした
一人一人こだわりの模様の甲羅を描き
可愛い顔の亀さんを作って
マグネットでぶら下げて楽しく遊びました
いろいろ事情がありまして
子ども達の顔をUPできないのが残念ですが
みんな笑顔で帰っていきました(^▽^)

2026年9月6日日曜日

「教会に託された愛」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(2026年9月6日)(緑)

エゼキエル書 33:7~11 (旧1350)   ローマ 13:8~14 (新293) 

マタイによる福音書18:15~20(新35)


 本日の福音書は「兄弟の忠告」という小見出しが付けられています。イエス様は将来キリスト教会の中で頻繁に起きる様々な問題を解決するために、前もってご自分の弟子たちにお話しされています。


 イエス様のお言葉の根底には神様の愛があるのはいうまでもなく、先に読んでいただいだ旧約聖書のエゼキエル書にも、人間に対する神様の愛が、高い倫理観を持って記されています。かいつまんで言いますと、「神様に選ばれた人には、神様が悪と定めた人に警告する義務がある」ということです。


 もしあなたが神様から委ねられていながら、その悪人に何の警告も発しないまま放置し、結果的にその悪人が死んだなら、その責任は忠告しなかったあなたにある、というのです。逆にもし悪人が警告を無視して死んでしまった場合は、あなたには責任はない、とも書かれています。本日はこの御言葉を心に留めながらイエス様のお言葉を改めて見てみましょう。


 イエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語り始めます。この「兄弟」とはもちろん、教会の仲間という意味です。


 間にかトラブルが起きた場合、陰口や噂話を広めるのではなく、当事者同士で静かに話し合い、解決できなければ証人を連れていき、教会に相談するなど、段階を踏むことの大切さを教えておられます。


 マタイ福音書は、ユダヤ人でありながら徴税人に身を落としたマタイが記録した福音書です。罪人であった自分を神様の元に連れ戻してくださったイエス様の愛の深さは人一倍知っていました。そんなマタイが「何度警告しても神の愛を忠告を受け入れない人間は、徴税人と同様に扱いなさい」というのです。その言葉の裏には「自分のような者を救ってくださった神様の愛がその人に伝わるなら、きっと更生できる」という思いがあったことでしょう。


 イエス様が天に帰られてしばらく後、マタイは教会の指導者の一人となります。その頃にはユダヤ教からキリスト教に移ろうとする人々がたくさんいました。また地道な宣教活動により、外国出身のクリスチャンも増えていきました。それは喜ばしいことでしたが、同時に教会で共に過ごすうち、お互いに、常識だ、当たり前の行動だ、と思うことが違うことが見えてきました。


 例えば、ユダヤの人々にとっては、以前は律法を守ることは義務でしかなかったものが、イエス様の新しい教えを学ぶことで、律法の奥深さを知ります。そこで、異邦人にも立法を守ってもらいたいという熱意が強くなっていきます。


 それが先ほど読んでいただいたローマ信徒への手紙にあるような、盗むな殺すな浮気するな、といった倫理的な教えであれば、文化の違いがあっても共感も得やすかったでしょう。しかし例えば「豚肉は汚れているから食べてはいけない」と言った教えとなると、外国人クリスチャンは、そんなことを守る必要があるのか、とイラついたはずです。


 異邦人クリスチャン達は、イエス様の愛の教えに打たれて洗礼を受けました。彼らの中には奴隷出身者や無学なものもいましたから、ユダヤ人クリスチャンが知識や歴史を自慢して自分達を見下しているように思えたかもしれません。この二つのタイプの人間が教会の中にいたなら、揉め事が起きないはずはないでしょう。


 しかしイエス様は排他的な気質をもっているユダヤ人に繰り返し、関わりを持つように、と勧められます。イエス様のお言葉には、罪を犯した人があなたを通して再び神様とのつながりを得られるように、との願いが込められているのです。つまりこれはキリスト教会の始まりの人間関係の繋がりを示している箇所なのです。


 ちなみに先ほどのローマ書の少し後には「信仰の弱い人を受け入れなさい」という御言葉があります。ローマ書はマタイ福音書よりも先に書かれています。この二つの聖書箇所を同時に読む時、この教えを持って教会が成り立ち、発展していったことがよくわかるのです。

 飯田ルーテル教会の始まりも、最初からスムーズに伝道が進んだわけではありません。かつては遊郭のあった町ですから、記録によれば、やくざが日本刀を持って怒鳴り込んできたり、病気の女の人をも搾取しようとする悪人もたくさんいる中での宣教であり、恐れをなして教会を離れた人々もいたと思います。


 そのような環境で、はるばるフィンランドから来日した女性宣教師達は毅然とした態度で働き続けました。全ての女性の尊厳を守ることを、宣教の軸にすえ、迷える女性を救う嘔吐した彼女達は、ヤクザだけでなく町の有力者から嫌がらせを受けても決して諦めなかったのです。


 こうした人道的な働きは、やがて、人々の心を変えてゆきます。最初は、町の発展の為には歓楽街もいたしかたないとしていた有力者が、義勇団として、フィンランドの女性宣教師の教えに従い、キリスト者として生きる決意をし、その数は200人はいたと聞きます。


 今、私たちの周りには極悪人もいない代わりに強い正義感を抱く人も見当たらないように思えます。教会に集う方々も、なんとなく今が幸せなので、教会であえて考え方の違う人たちと苦労しようとも思わないのかもしれません。ただ、そのような態度を取り続けるならフィンランドの女性宣教師が命がけで開いた幼児教育事業は、看板だけ、建前だけとなり、身内から崩れることも知っておきましょう。


 日本のキリスト教は存続の岐路に立っていると言われますが、岐路に立っているのはキリスト教ではなくて、私たち自身なのです。何事も他人事、他人任せで、少し離れたところから眺めて生きるのは楽ですが、神様のみもとで生き、宣教のために苦しみがあっても、そこに本当に生きる意味があるのです。


 それこそがイエス様が味合われた苦しみでもあります。私たちはイエス様から託された愛をもち、それをバトンしていくことへ強い自覚を持って、諦めずに宣教の業を勤しんで参りましょう。



この数ヶ月、地震や水害が日本だけでなく世界各国で続いています

あまりの悲惨さに、どこにどう支援したらいいのか分からなくて、混乱してしまいます。みなさんはいかがですか?

この夏休み、ルーテルキッズバンドのメンバーは「こども讃美歌」に収録されている「コスレボナヨ」がお気に入りでした。これはネパール語の讃美歌なのです。子どもたちはネパールがどこにあるのか、どんな国なのか説明してもあまり興味を持てなかったようで、ただただコスレボナヨ フルハルライ」と大声で楽しそうに歌っていました。

ネパールで大水害が起こった後、練習の中でネパールの人たちを覚えて皆で祈りました。

さまざまな被災地に目を向けるようにとの神様のお導きなのかもしれません。

これからも子ども達と共に祈り続けていきます。


ネパールの国旗
三角形を二つ重ねた国旗はとても珍しいですね
ヒマラヤ山脈の山並みや、ネパールの二大宗教を表しているそうです


2026年8月30日日曜日

「十字架の愛」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2026年8月30日)(緑)

エレミヤ書 15:15~21 (旧1206)   ローマ 12:9~12 (新292) 

マタイによる福音書16:21~28(新32)


 知らない町を歩くとき、たまに中世の教会を模したような、豪華な教会を見かけます。しかしそういう建物はかなりの確率で結婚式場です。こういう建物にどんな気持で十字架を掲げるのか、眺めていて不思議な気持ちになることがあります。


 キリスト教は最初のうちローマ皇帝から迫害されたため、目立たないよう地下で礼拝を行い、建物自体ありませんでしたし、十字架刑という処刑の象徴をわざわざシンボルに据えることはなかったはずです。むしろクリスチャンの証としては、こっそり地面に魚や羊の簡単な模様を書いてお互いがクリスチャンであることを確認しあったり、キリストの集会に集うものであることを示したようです。


 クリスチャンは祖国イスラエルでも、ローマでも、迫害される立場でしたが、イエス様に従って生きることを常に意識し、倫理観や人間性を磨いていたので、次第に周囲の人々を惹きつけるようになり、いつの間にかキリスト者の生き方を受け入れる人々は無視できない数に膨れ上がっていきました。


 その影響は、ローマ皇帝にまで及び、4世紀初め、コンスタンティヌス1世が天空に輝く十字架の幻を見て、十字架を掲げて戦をすれば勝てるお告げだと考え、軍旗や兵士の盾に十字架を刻んで戦ったら本当に勝利してしまいました。


 この劇的な勝利と奇跡の体験をきっかけに、コンスタンティヌス1世はキリスト教を受け入れ、313年にキリスト教を公認する法令、ミラノを発布し長い迫害の時代は終わり、380年にはキリスト教がローマ帝国の国教となりました。


 また、コンスタンティヌス1世の母ヘレナがエルサレムを訪れた際、「イエスの本物の十字架」を見つけたというニュースがローマ中を駆け巡り、本物の十字架とされる木片が細かく分割され、ヨーロッパや中東の教会に配られました。貴族や熱心な信者は、この木片を入れた小さなペンダントを首から下げるようになり、これが現在の「十字架ネックレス」の遠いルーツとなったようです。


 5世紀くらいになると、金や宝石をちりばめた美しい「装飾的十字架」が生まれ、十字架が装飾品としても定着していったようです。


 しかし、15世紀、宗教改革が始まると、あまりにも華美なものや、イエス様の像をあしらったものは、聖書を基盤とした信仰にそぐわないと考えられるようになり、十字架のデザインもシンプルなものになっていきました。が、十字架はキリスト教の不変のシンボルとなって定着し、教会堂の屋根に十字架が掲げられたり、十字架をあしらった塔が建設されるのは普通のこととなりました。


 時代が移り、近年になると、十字架がファッションに積極的に取り入れられるようになり、パンクロックやゴシックファッションなど、宗教とは無関係に用いられるようになり、単なるお守りのような感覚で身いつける人も多くなって現在に至っています。こうして十字架のイメージは一人歩きするようになりました。


 では、本来十字架が象徴している「救い主」への思いはどうなのでしょうか。これも実は残念ながら移ろいやすいもののようです。


 前回、ペトロがイエス様に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したお話をしました。この時ペトロはイエス様が自分を救ってくださる、神様から遣わされた尊い方だと心から信じてこの言葉を発します。そしてこの言葉に偽りがなかったからこそ、イエス様は大いに喜ばれたのです。


 しかしそれからあまり時間が経たないうちにペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ」と言われてしまうのです。この時イエス様は、ご自分がいずれ祭司長や律法学者たちに捉えられ、十字架にかかって殺されるが、三日目に復活すると初めて弟子たちに打ち明けれました。それは弟子たちを信頼してのことでしたが、非常に衝撃的だったため、ペトロは思わず叱るような口調で「そんなことがあってはなりません」と言ったのです。


 ペトロはイエス様が苦しんだり死んだりしなくても、メシアとして栄光や成功を掴めるはずだと思っていました。強い思い込みがあったので、イエス様の言葉の意味や神様のご計画を理解しようとはしなかったのです。この態度はイエス様の御心に叶いませんでした。イエス様はペトロに間違いを気づかさせるために「引き下がれサタン」と言われたのです。篤い信仰を持っていたはずのペトロさえも気づかないほどに、サタンの誘惑は忍び寄ってくるのです。


 これは私たちにも同じことが言えます。誰でも、洗礼を受けるときには自分がイエス様に救われた感謝や喜びがあったはずです。イエス様に導かれ、クリスチャンとして誠実に生きた結果として、社会的な地位や成功を得る人もいるでしょう。しかし一度この世の幸せを手に入れてしまうと、それを守ろうとするあまり、今度はクリスチャンでない人々の目を気にして、信仰的な行動が取れなくなってしまう。それが人間の弱さなのです。


 イエス様から「あなたの信仰の上にキリストの教会を立てる」と祝福されたかと思えば「引き下がれサタン」と叱責されてしまうペトロの出来事を通して、私たちが、どれほどキリストの愛から離れやすい存在であるかを自覚し、この叱責を自分に向けられたものとしてしっかりと受け止め続ける必要があります。


繰り返しになりますが「十字架」は、現代ではアクセサリーや様々なデザインのモチーフの一つで、元々は大罪を犯した者がかけられた死刑の道具です。イエス様は政府に対する反逆罪として、ローマとイスラエル両方に死刑宣告をされ、十字架にかかりました。しかし、それはやがて私たちの罪の為にイエス様が十字架に掛かり、死んで、償ってくださったのだと信じられるようになりました。そして、それは私たち一人一人を愛しているから、と理解するようになりました。イエス様の行いは自己犠牲と呼ばれるようになりました。


自己犠牲の生き方は、キリスト教の特長的な生き方ですが、なかなか実行できないでしょう。貧しい人や、虐げられた人、困難の中にある人に対し、誰の善意に便乗し、自分が困らない程度に手を差し伸べることは比較的簡単です。しかし、自ら率先して困難の中にある人々と共に歩み、周囲から誤解されても耐え忍び、何を失ってもこれは神様から与えられた使命なのだという信念を持って続けていく、これは非常に難しい生き方です。


しかしそのような心を抱いて生きる人が一つの所に集まる場所、それが教会が教会の始まりであり、わたしたちが受け継いでゆく信仰なのです。


私たちは今、災害や戦争、痛みや悲しみの中にある人々に囲まれるように生活しています。いつ自分の日常が破壊されるかわからず、閉塞感や無力感に苛まれ、未来が見えなくなります。悲惨な情報から目を背けて楽しいことで気を紛らわしたり、無関心に走りたくなることもあります。


それでも、こんな時代だからこそ、イエス様から十字架の愛を受けた私たちは心に十字架を刻みつけ、恥じることなく心のうちにそれを掲げ、前を向いて共に生きてまいりましょう。


9月12日に実施する土曜学校の
お知らせポスターができました
工作はゼリーカップのカメさん

「これ、受けるかなあ」とサンプルを作りつつも
何やら心配でしたが、眺めているうちに
間の抜けた顔がちょっと可愛く見えてきて
子どもたちがどんなカメさんを作ってくれるか
楽しみになりました