日本福音ルーテル・飯田教会
ようこそ!飯田ルーテル教会は、プロテスタント・キリスト教会「日本福音ルーテル教会」に属する教会です。飯田で教会と幼稚園を運営して、皆様のために奉仕しています。ルーテル教会は世界中に広がる安心できる伝統的教会です。
2025年8月31日日曜日
本日は松本教会とZOOMで繋いでの礼拝でした
2025年8月24日日曜日
「安息日の癒し」(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第11主日礼拝(2025年8月24日)(緑)
イザヤ書58章9b―14節(旧 1157)
ヘブライ人への手紙12章18―29節(新418)
ルカによる福音書 13章10―17節(新124)
本日読みましたルカ福音書には「腰の曲がった女性の癒し」が記されています。安息日にイエス様が会堂で「神の国」についてお教えになっていた時、体の不自由な女性に目をとめられます。イエス様は彼女の苦しみに心を寄せ、一刻も早く病から解放してやりたいとお考えになります。
一方、彼女は病に取り憑かれて腰が異様にも曲がり始め流と同時に周囲から「あの女はサタンに取りつかれたのではないか」と陰口を言われるようになったでしょう。それが18年も続いたのですから、心が折れ、すっかり卑屈になっていたとしてもおかしくありません。自分のようなものをイエス様が相手にしてくださるだろうか、もしイエス様に断られたら後がない、という不安もあったでしょう。
そんな追い詰められた彼女の心の内をイエス様はすぐに見抜きました。ですからイエス様は彼女が申し出る前に自らお話を中断して声をかけ、ご自分の近くに呼び寄せたのです。
イエス様が「婦人よ。病気は治った」と言って曲がった腰に手を置かれると、たちどころに腰がまっすぐになります。彼女は神様が病から解放してくださったことを心から感謝し、周りの目も気にせず賛美したのです。
礼拝のために会堂に集っていた人々はその奇跡を目の当たりにして大いに驚きます。そこにいた皆が皆彼女を差別していたわけではないでしょうから、この奇跡に感謝し、彼女と共に喜ぼうとした人もいたはずです。しかしその雰囲気に冷水をかけるような発言をしたのが、この礼拝の責任者である会堂長でした。
会堂長は、この癒しが行われる直前まで、イエス様の話に感動して聞いていたことでしょう。「さすがはイエス様だ、お話を聞いていると神様の愛が近くに感じられるように思える。」そんな感想さえ抱いていたかもしれません。
ところがイエス様がいきなりお話を中断して、まさにその「神様の愛」を目に見える具体的な奇跡としてお示しになったのです。女性が癒されて感謝の讃美した時、会堂長は素直に感動することがnoできませんでした。
会堂長は地域の世話役を務めることも多かったので、彼は18年にも及ぶ彼女の苦しみを近くで見ていたはずです。しかしいざ彼女ギヤされた時、一緒になって喜んでやることもなく、自分が責任を持つ礼拝の礼拝秩序が大いに乱されたことへの怒りが先に立ったのです。
残念なことに、神様の業が目の前で行われても、信仰に直結しないことはよくあります。礼拝の中で「いい話を聞いたなあ」「神様は愛なんだなあ」と感動しても、自分の価値観と一致しない愛の業は認めることができない方もたくさんいます。
私事ですが、施設や団体に招かれてキリスト教の話をする時、気にかかる人が目に止まることがあります。思わず関わろうとすると、「それは後でやってください」と注意されるのです。会を取り仕切っている人から見れば私の行動はわがままに映るのでしょう。その方の立場もわかるので、会合に支障がないように予定通りお話しするしかありません。
もちろん、そこにいる方々皆がご自分の判断で席を立って、良かれと思うことを始めてしまったら、会はメチャクチャになりますから、神様から与えられたタイミングや秩序に従う判断力は必要です。ですから、会堂長の怒りもわからないわけではないのです。
そもそも、安息日というのは、ユダヤ教を信じる人々にとって、天地創造の最終日、神様が休まれたから休むという創世記の教えそのものです。
また、紀元前2世紀、マカバイ戦争という大きな戦争が起きた時、ユダヤ教徒は安息日に戦うことを拒否し、多くの犠牲者を出しました。しかし結果的に戦いに勝利した、という歴史があります。
そうした歴史体験を持っているので、ローマ帝国に支配されていてもなお、ローマの神々には目もくれず安息日を守り続け「神様に忠実に信仰生活をおっくっていれば、必ずイスラエルを独立に導いてくださる」と信じていました。安息日の礼拝はそれほど大切な宗教儀式と認識されていたのです。会堂長としては律法に沿った厳格な礼拝を行うことこそ神の前に正しいことで、個人の癒しなどは後回しにするべき、という感覚でした。
しかしイエス様は、安息日は「守っているから神様に愛される」という交換条件のようなものではなく、あらゆるものから解放された自由の日、天の国の前味を味わう日なのだ、とおっしゃいます。病気であっても、苦難があっても、神様の国に行けば必ず自由になる、癒される。イエス様はそのようにお示しになり、「神様はサタンに縛られて体や心の自由を奪われている人の苦しみを放置したりなさらない」と示すために、今この時、皆の前で女性を癒されたのです。
現代では、こうした教えを真正面から受け止め、信じ、伝えるクリスチャンが少なくなったようにも感じます。胡散臭く思われるのが嫌で、イエス様の奇跡を素直に信じられず、合理的な解説をつけ用途する人も増えました。
宗教を信じているといえば周りから嫌がられるかもしれない、それが怖くて、もう一歩聖書の世界に分けいることができず、「教会に行ってはいるけれど、そんなに真剣に信じているわけではない」などと言い訳をしながらも、辛うじて信仰に繋がっていられるとしたら、イエス様の方があなたを離さず、言い訳だらけ、ごまかしだらけの不自由な信仰生活から解放してあげたいと願っておられるからです。
私たちは世の中を支配する富や権力に振り回されることをやめて、愛と自由と解放について共に思い巡らし、天の御国を仰ぎながら主を讃美しましょう。その時、私たちの上に安息日の癒しは必ず行われるのです。
ルーテル幼稚園の新しい後援会を作ることになりました
宗教法人から学校法人に代わった時
以前の講演会を解散したため、再スタートです
教会の役員会の中に「準備委員会」のようなものを置き
最初の仕事として募集要項のチラシを作りました
多くの方に関心を持っていただければ幸いです
2025年8月17日日曜日
「信仰の完成者」(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第10主日礼拝(2025年8月17日)(緑)
エレミヤ書23章23―29節(旧 1221)
ヘブライ人への手紙11章29―12章2節(新416)
ルカによる福音書 12章49―56節(新133)
夏といえば全国高校野球選手権大会。日本福音ルーテル教会の関係では、熊本の「九州学院」が野球の強豪校で、全国大会にも何度も出場しています。ミッションスクールあるあるで、生徒やその家族がクリスチャンとは限りませんが、応援歌や校歌の歌詞などが讃美歌的なことが多いので心を惹かれます。今回私が興味を持ったのは福島県の聖光学園と静岡県の聖隷クリストファー学園でした。
聖光学園の校歌は「復活の主 仰ぎゆく 高き望みに 恵あれ」「復活の主 仰ぎゆく 高き望みに 恵みあれ」で、なかなかいい歌詞だな、キリスト教精神、信仰を良く表した歌詞だなと思いました。
聖隷クリストファーの母体であるキリスト教事業体はかなり大きな団体です。「聖隷」という言葉はキリストに誠心誠意仕える「聖なる奴隷」という意味です。また、クリストファーはキリスト教初期の伝説的な男性の名前です。
彼は少年に姿を変えたイエス様を、そうとは知らずに背負って濁流の中を運ぶのですが、この少年はありえないほど重く、大変な思いをします。ようやく川を渡りきったところで少年は正体を明かし、ご自分は全世界の人々の罪を背負っているために重いのだ、と告げられます。イエス様は彼を祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストファー(クリストフォロス)」と名乗るよう命じた、と言われています。
ところで、「クリストフォロス」以外にも、キリスト教にはたくさんの伝説が生まれました。カトリックで聖人と呼ばれている人々の多くは、厳しい迫害に遭ってもキリストのために命を惜しまなかったとされています。キリスト教は迫害を受けつつ、それに耐えて発展していったのです。
そもそもイエス様ご自身も、神様の力を使って一気にキリスト教を広めたわけではなく、辛く苦しい十字架の死と蘇りを経験されています。そしてその事実を受け入れた弟子たちが真の信仰を獲得していく過程を、私たちはよく知っています。
それから1500年経って、やっと日本にキリスト教が伝わりますが、キリスト教が伝来して3年ほどで、人口の3%が洗礼を受けたという資料もあります。しかしキリスト教の基本的な考え方である「神はお一人だけ」という信仰や、キリストのためなら死を恐れない姿勢、さらにはその後ろ盾となっているヨーロッパ社会に脅威を感じた日本の為政者、豊臣秀吉は神父を追放し、徳川幕府もキリスト教を信じることを禁じました。
為政者たちはキリスト教組織の弱点を探り、広がらないようにするためにキリスト教を研究したそうです。日本では世界に類を見ないほどの徹底した迫害が200年にわたって行われたのです。その時作られた制度は今も呪いのようにクリスチャンたちを苦しめていることが恐ろしくも感じます。
そういった背景を持つ日本は、キリスト教が定着しにくい国と言われ続けていますが、なんとか細々とでも生き残り少数でも信徒たちがブレずに生きていられるのは、もちろん信徒の生き方の基準となる聖書が読み継がれて来たからです。
聖書には単に道徳的な良い話が書かれているわけではありません。旧約聖書には、ドロドロの戦争の歴史が描かれると同時に、キリスト教の母体となったユダヤ教が、幾多の迫害の中、子どもたちをどうやって教育し、信仰を継承していったかが記されています。
また新約聖書では、キリスト教が誕生した後、今度はユダヤ教徒の迫害を受け、悪者のように扱われながらも、イエス様をお手本として必死で生き、宣教を行っていった様が記されています。
ただ粛々と良い子でいただけでは、キリスト教はとっくの昔に地上から消えていたでしょう。しかしそうではなく、イエス様を信じた人々は信仰において妥協しない頑固者と罵られ、周囲から苛立ちや迫害を呼ぶことを理解した上で、聖書に示された知恵も用いていきました。
本日読みました福音書には、イエス様ご自身の言葉として「私が来たのは地上に火を投ずるため」と記されています。これは、イエス様はご自分の教えや存在によって、分裂や対立が引き起こされる可能性がある、という意味です。まるで悪者の開き直りのように聞こえかねませんが、これは真理を求めること、そして神様の御意志に従うことの難しさ、そしてそれによって周りと葛藤や価値観のズレがおき、争いの元になってしまうであろうことを表しています。
世の中には、理解できない相手は、和解するより叩き潰してしまえ、という恐ろしい発想を持った人々もいまだにいます。しかしキリスト者の基準は「イエス様ならきっとこうするはず」です。そしてそれがその時その時の社会通念と対立するとしても、対立した相手と理解し合える日を信じ、神様の御心に沿って社会を変えていくために怯んではいけない、と教えられるのです。
キリスト者には強い影響力を持った人々もいますが、多くのクリスチャンはそこまでの力はありません。ただ、本日読んでいただいた「ヘブライ人への手紙」にあるように、おびただしい数の無名のクリスチャンたちが、周りの価値観に揺れ動きながらも、復活の主が共にいてくださることを信じ、対立があっても絶望せず、必死で次の一歩を進めて来たからこそ今があるのです。イエス様はそうした信仰的な生き方を完全に私たちに示してくださるのです。
ヘブライ人への手紙12章2節には「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら」という御言葉が記されています。イエス様は私たちに信仰を与え、信仰を持って歩み続けられるよう聖霊を下さいました。そして、聖霊は、信仰だけでなく、礼拝を大切に守り、世の終わり、イエス様が再び来られるその時まで続けるように導いてくださいます。私たちも、礼拝を守り続ける姿勢が実はこの世の救いに繋がることを信じて、誠実な信仰と者として歩んで参りましょう。
戦後間もない1947年4月20日に大火が発生します
Wikipediaには「焼損棟数は3,742棟、焼損面積は48万198m2
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「戦前の仲之町」 (おそらく)地域の団体が保管しているのでしょう |
でも飯田は挫けませんよ
市のシンボルでもある愛らしいりんご並木は
暑さの中も今年も健在です
下の写真は以前、9月に撮影したもの
今年ももうすぐこの姿が見られるはずです
2025年8月10日日曜日
「信仰で造る世界」(日曜日のお話の要約)
聖霊降臨後第9主日礼拝(2025年8月10日)(緑)
創世記 15章1―6節(旧19)
ヘブライ人への手紙11章1―3節、8―16(新414)
ルカによる福音書 12章32―40節(新132)
みなさんは「キリスト教会」と聞いて、どんなイメージを持たれるでしょうか。
一般的にはイタリアやフランスの大聖堂のように、荘厳な鐘の音やきらびやかなステンドグラス、パイプオルガンの調べなど、そこに入っただけで心身共に清められ、日頃の罪深さや心の醜さが吹き飛ぶように思える別世界のような場所、それこそが教会、というイメージを多くの人は持っています。
しかしクリスチャンである私たちまでそうだと少し困ったことになります。豪華なカトリックの大聖堂に憧れるあまり、今自分達が集っている教会に足りない設備ばかり数えて、ここもまた神の宮・教会であることをすっかり忘れてしまうことがある、これはあるプロテスタントの牧師の手記に記されていました。
プロテスタント教会にとって「教会」という言葉は建物だけを意味しません。神様への信仰を持つ一人一人が寄び集められた集まりを教会と呼ぶのです。集う人々によって、運営も形態も異なります。大きさも働きもそれぞれですが、ただ、キリストと共にある天国を生涯かけて証していく集団であると言うことは同じです。礼拝に集まり、聖書の言葉と説教、祈りと讃美に押し出されて神様が遣わしてくださる場所へと押し出されていくのです。
プロテスタント教会の特徴の一つは、祈りと話し合いと御言葉の示しによって今の自分達のやり方を改めながら行動していくことにあります。ルターが宗教改革を行い、結果としてカトリック教会から分かれてプロテスタント教会が誕生した、そのスタイルを重んじるのです。
ところが、私たちは結局過去に縛られてしまい、あの時はこうだったとか、あの時代は良かったとか、せっかく話し合いの時を持っても、声が大きく押しが強い人の意見ばかりが通って、結局先に進めないこともしばしばです。これが繰り返されると、せっかく教会に繋がっていながら、神様に与えられた目的意識を失い、信仰的成長とかどうでもいいわ、という諦めのような思いに囚われ、礼拝に来るのも惰性になって緊張感が失われ、聖書に記されている数々の教えも絵空事になり、ついには存在感のない形だけの薄っぺらいクリスチャンになってしまうのです。
これを踏まえて本日ご一緒に読みましたルカによる福音書を見てまいりましょう。ここには「小さな群れよ、恐るな」と言うイエス様のお言葉が記されています。当時、イエス様を慕う人々は、周りを圧倒的多数のユダヤ教徒に囲まれており、自分達がイエス様抜きには満足に世間に立ち向かうこともできない頼りない群れであると知っていました。
とはいえ、彼らはイエス様がいてくれるから大丈夫、自分達はいずれ天下を取ることもできる、などととどこか楽観的に構えていたようです。しかしイエス様ご自身は、遠からず弟子たちの前で捉えられ、十字架にかからなければならないことをご存知でした。だからこそ限られた時間の中で彼らの教育に心血を注がれました。イエス様は弟子たちに「恐れるな小さな群れよ」と呼びかけられ、御言葉とその正しい解釈を教え、日常の生活にも取り入れるよう導かれたのです。
こうした集まりには、貧しい者も裕福な者もいました。ローマの支配の中で政情は不安定で、いつ暴動や内戦が起きるか分からない状況でした。イエス様はそんな世界で生きる人々に、どれほど絶望が深くても、自暴自棄になることなく、神様の願っておられる平和な世界を作り出すために働いてほしいと望まれました。たとえ途中で命を落としても、この世界が終わりを迎える時が来ても、神様の愛に生きた人々は、神様ご自身が喜んで天の御国迎え入れてくださると教えられたのです。その御国にはもちろんイエス様もおられるのだと教えられました。
その御言葉を深く心に刻み、受け継いだ人々が世間の目立たないところからコツコツと世界を造っていく、それがこの小さな群れの特長でした。小さな群れはやたら人数を増やしたり権力を握ったりすることよりも、イエス様のように愛を持って教えあうことを大切にしたのです。
ただイエス様の御言葉に従って実践し続けることは小さな群れにとって負担になることも多くあります。そこでイエス様は「目を覚ましている僕」のお話をなさいました。イエス様が見ていないからと言って手を抜いたり、やっているふりをするだけ、と言うのではいけない。「人の子は思いがけない時に来るからである」と締めくくっておられます。
この御言葉はテサロニケの信徒への手紙一5:2やペトロの手紙二3:10にも登場します。「主の日は盗人のようにやって来ます。」と言うギョッとするような言葉が用いられています。これは天に帰られたイエス様が、誰一人として全く予期しない時、むしろ油断している時に地上に戻ってこられることを表しているのです。
もちろん、自分に与えられた使命をいつもいつも全力投球でやり続けるのは難しいことです。だからこそ、たった一人で孤独にやり続けるのではなく、群全体が互いの働きを補い合い、誰かが疲れれば誰かが引き継ぐ、と言うふうにやっていくのです。そしてイエス様が見ていてくださることを信じ続けるのです。
先ほど創世記から信仰の父アブラハムのエピソードを読んでいただきました。ここでも神様はアブラハムに「恐れるな」と語りかけておられます。アブラハムは自分の後を継ぐ子孫がおらず、それに関しては諦めの境地でした。しかし神様は「今はいないけれど、その数は星の数のようになる」と言われ、「アブラハムは主を信じた」と書かれています。目に見える証拠がなくても神様の言葉を信じる、それこそが信仰であるとヘブライ人の手紙にも書かれています。
私たちは誰一人完璧ではありませんし、むしろ欠けの多い存在です。イエス様が誰よりもそれをご存知なのですから、神様の前で見栄を張ったり格好をつけたりする必要はありません。ただイエス様を信じ、御言葉に学び、イエス様ならどうなさるかを指針として取り組み続けましょう。私たち一人ひとりが教会を形作り、世界を造っていくのです。
8月の土曜学校はお休みです
暇を持て余しているお子さんもいると思うので
なんだか申し訳ないのですが
スタッフがいささか暑さでへばっておりますので
今月だけはお休みをいただきます
本当にごめんなさい
2025年8月3日日曜日
「御心に促され 分かち合う」(日曜日のお話の要約)
聖餐式・聖霊降臨後第8主日礼拝(2025年8月3日)(緑)
コヘレトの言葉 1章2節、12-14節、2章18-23節(旧1034)
コロサイの信徒への手紙3章6-11節(新371)
ルカによる福音書 12章13-21節(新131)
本日読みましたルカ福音書ではイエス様のお話を聞くために大勢の人々が集まっているのですが、突然「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」と、空気を読まないような発言が飛び出します。周りの人々も「今この流れでそれを言う?」という雰囲気になったことでしょう。
当時のユダヤでは、親が亡くなった時、まず長男が財産を受け取り、その後で弟たちに分け与えることになっていました。ここに登場するこの人はおそらく弟の立場でしょう。兄が自分の正当な取り分を渡してくれず困ってしまったようです。
こう言った揉め事の調停役は律法学者が担っていました。社会のルールやイスラエルの掟に精通した彼らは、財産問題なども律法に基づいて指導し、調停をしていたのです。そしてイエスもそう言った教師の一人と見られていましたから、相談のタイミングはともかく、兄弟で遺産を分け合えるよう、イエス様から口添えして欲しいと願った内容そのものは、非常識なことではなかったのです。
しかしイエス様は直接彼の悩みに関わろうとはなさらず、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と言い放ちます。とはいえ、これは「そんな俗っぽいことで私を煩わすな」という意味ではありません。イエス様はご自分が一般の律法学者のようにこの世のルールを教えるのではなく、神様のルールを教えるためにいるのだと言うことをお示しになったのです。
そしてイエス様は彼にではなく、そこにいた一同に向かって言われました。「どんな貪欲にも注意を払いなさい。有り余るほどの者を持っていても、人の命はどうするものはできないからである」
イエス様がここで「貪欲」と言われたのは、「自分の正当な取り分を越えて、あれもこれも欲しがること」を意味してはいません。「人の命は財産によってどうすることもできないのに、金さえあれば長く豊かに生きられると考えて、そればかりを求める、それこそが貪欲なのだ」とお話しなさいました。
遺産問題に悩むこの人は揉め事のことで頭がいっぱいだったため、イエス様のお話が途切れたら相談しよう、とそればかり考えていましたから、イエス様のお話をすぐ近くで聞きながら、今の自分の状況に当てはめたり、抱えている問題を解決するための心構えに活かそうとは少しも思えなかったのです。ですから側から見ればおかしなタイミングでイエス様に質問することになってしまったのでしょう。
そのようなわけで、イエス様は改めて神様の目から見た「貪欲」とは何なのか、皆が理解できるようお話ししようとお決めになり、お話に集中できない子どもを導くかのように、「愚かな金持ちのたとえ」と語られたのです。
そのお話には一人の金持ちが登場します。彼の畑はその年素晴らしく豊作で、採れた作物をしまっておく場所がないほどでした。そこで彼は「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまうこと」を思いつきます。
そして「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に向かってつぶやくのです。
彼の心の声は、この世の権力者や暴君たちが望むようなことで、まるで神の声のように響きました。しかし、実際の神様のお考えは全く違っていました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」
こうしてこの金持ちは死んでしまいます。ただ死ぬのではなく、神様に命を取り上げられるのです。イエス様は、私たちの命は神様によって与えられ、生かさているのだとを知りなさい、と仰るのです。
イエス様は、自分のものだと思っていたものも、全ては神様の物だったことに気づくことが大切だ言われます。命も健康も豊かな財産も、全ては神様から人間に貸し与えられているに過ぎないのです。だからこそ、「自分のためだけに富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と締めくくっておられます。
最後にイエス様が言われた「神の前に豊かになる」とは、一瞬理解しにくいように思えますが、神様との関係を豊かにすること、と理解することができます。
神様のことを、自分勝手に人の命を取り上げる怖い方だと思ってしまえば豊かな関係は築けません。しかしイエス様のお話を通して、神様ほどわたしたちを愛してくださる方はいないと信じられるなら、もっともっと神様と豊かな関係を結びたいと思うようになるはずです。
本日登場した人々は、イエス様の教えを聞きに集まっていても、ただ自分が聞きたいように都合の良いところだけ聞き、実践的に当てはめて考えるようなこともしませんでした。それどころかいっそ早くお話が終わったら自分の言いたいことが言えるのに、などと考えていました。
これは、キリスト教会が今のような礼拝スタイルを取るようになってからも繰り返されました。讃美の歌が歌われ、聖書が読まれ、説教が行われ、祈りに促される。長い伝統の中で作り上げられてきた信仰の形、礼拝の形です。しかし他のことで心が占められ、神様との関係が薄れてしまったら、どんなにきっちりと礼拝がとり行われようと、それらは神様にも人間にも虚しいものになってしまうのです。
神様はその人にはこの場所が必要だから、と教会に招かます。誰かの心が苦しみや悩みで上の空になったなら、互いに祈り、神様の愛を証しあうことで、互いに信仰を取り戻してまいりましょう。天の御国にたどり着くまで、寄り添い合い、ここにはいつも神様の豊かな祝福があると教えてくださるイエス様を信じて参りましょう。
毎日凄まじい暑さが続いています
飯田は午後の気温が体温越え
元々飯田市は海抜500メートルあるので
紫外線が強く、日中はサングラスなしでは歩けません
教会専用の玄関ができたお話は以前もしましたが
アピールのために道沿いのフェンスの内側に
お手製の立て看板を立てています
コンディションの良い時に撮影しようと思いながら
今日まで来てしまい
ものすごい紫外線の中で撮る羽目になってしまいました
別の意味で眩しいですね
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花壇に植えたポーチュラカ 暑さにも乾燥にも強い花のはずなのですが なんだかばてているようにも見えます |