2026年1月18日日曜日

「聖霊に招かれて」(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2026年1月18日(日)(緑))

イザヤ書49章1―7節(旧)  

Ⅰコリントの信徒への手紙 1章1-9節

ヨハネによる福音書 1章29―42節(新)


 以前、他の教会の信徒さんから伺った話なのですが、自分がこの教会に来たのは、たまたま青年時代に仲間達と教会に集まることが流行って、仲間の多くは教会から離れてしまったが、自分だけはたまたま進学先にも、就職先にも教会があったので礼拝や教会の集会に出て、たまたま昔からのクリスチャンの家系の方と結婚をして、子ども達はそれぞれ独立し、今、自分は教会のお役に立てることが出来ればと思うようになっていると。


 こんなふうに「私が教会に来るようになったのは、たまたま」と言われる方が多いのです。「たまたま来ました」と連呼され、まるでそんなふうに言うことが謙虚さであると考えているようで悲しくなるのです。


 皆さんお一人お一人が教会に来るようになったのは、決してたまたまではありません。神様があなたを招かれたからであり、つまりは聖霊の招きがあったからなのです。自分で教会に来て、自分で教会につながり続けているのだ、と思い込んでいるなら、それはあなたを愛し、尊い犠牲を払ってまでもここに招いた神様を悲しませ、あなたに働きかけ続けている聖霊の働きを無視していることになるのです。


 クリスチャンや教会員が、自分のことを会社や何かの組織の構成員と同じだと考え、神様に招かれて結び合わされている、と言う自覚を持てない時、自分の都合や損得感情で礼拝に来るのをやめ、好きなように行動するでしょう。「たまたま来た」と言う言葉は、「自分優先でやめて構わない」と言う恐ろしいニュアンスを含んだ言葉だと皆さんには知っておいていただきたいのです。


 さて本日の福音書は、洗礼者ヨハネがイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時の様子を語っています。


 この福音書を書いたのは、イエス様の弟子のヨハネです。ヨハネは自分を取り巻く世界に納得がいきませんでした。ローマ帝国に押さえつけられ、宗教指導者たちは建前ばかりで保身や権力闘争に明け暮れている。信仰も宗教も国家も指導者も信用できないのです。洗礼者ヨハネなら、この世界をよくしてくれるに違いない、と言う思いで弟子となったのでしょう。


 ところで、イスラエルには神様がいつか救い主を遣わして国を建て直してくださる、という信仰がありました。イスラエルは神に愛される国だから、滅んでも滅びない。ただし、そのためには深く悔い改め、律法に定められた生贄を捧げることなど、いくつかの条件が旧約聖書に記されていたのです。


 ヨハネ福音書では、他の福音書の描写とは異なり、洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介しています。そして彼こそ「神の子」である、と断言したのです。


 しかし、この神の小羊というのは元々神様に捧げる生贄を意味する言葉です。イエス様がお生まれになる1000年以上も前、イスラエル民族がエジプトから脱出する時、聖なる子羊の血を門に塗ることで神様への信仰を表し、無事にエジプトを脱出できたという史実があります。


 この世の罪を帳消しにするためには、聖なる小羊を捧げる必要があります。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と信じた言葉を口にしたのです。しかしそれを聞いた人々はすぐには理解することはできませんでした。「イエス様こそ、我々の罪を神さまから許していただくために犠牲者になるのだ」という意味だと知るのはまだしばらく後のことだったのです。


 35節に「洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいた」とあります。読み進めますと、この二人の弟子のうちの一人が福音記者ヨハネであり、もう一人がのちに12弟子の一人となったアンデレ、つまりペトロの弟であることがわかります。


 洗礼者ヨハネは歩いておられるイエス様を見つめて、アンデレとヨハネに向かって「見よ、神の子羊だ」と言います。するとそれまで洗礼者ヨハネの弟子であった二人は、吸い寄せられるようにイエス様の後をついていきます。


 やがてイエス様が振り向いて二人に「何を求めているのか」と問いかけられたので、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と問い返します。これは元の言語から考えると「あなたが招いてくださるなら、あなたに繋がりたい」と言う意味になるようです。それに対してイエス様は「来なさい」と答えて二人を招きます。これがヨハネとアンデレがイエス様の弟子となった瞬間でした。


 ヨハネがここで伝えたかったのは、一見自分達から積極的に弟子入りを願ったように見えるけれど、実はイエス様の方が、自分たちを見ておられ、この世のあらゆる疑問、不条理に苦しむ自分達の思いを見抜き、ご自分に繋がるようにと招いてくださったのだ、と言うことなのです。


 聖霊の力をいただき、イエス様に繋がって、改めて世の中を見るとき、世の中の醜さが鮮明に見えてくることがあります。自分の目や心を偽れなくなるからです。それは辛い事ではありますが、そうしたものは全て神様ご自身が私たちに与えたものであり、神様から私たち、そしてその先へと繋がるものを根こそぎ救うために、私たちを用いるために与えられた力なのです。


 私たちの歩むこれからの道は、やはり苦難はあり続けることでしょう。けれどもわたしたちには、神様の招きがあり、私たちを見つめておらえるイエス様が、私たちに「繋がりなさい」と声をかけてくださり、手を握って勇気を与え、なすべきことを示してくださいます。


 神様が与えてくださる招きに応えながら、歩んでいきましょう。なんで私だけ、と苦しみを覚え犠牲になっている、と感じる時には、主イエスもかつて同じ道を歩まれ、今も私たちの前を歩いてくださっていることを、私たちの誇りといたしましょう。



昨日は今年最初の土曜学校

13人のお友達が集まってくれました

礼拝では31年前に起きた阪神淡路大震災の事も

少し聞いてもらいました


工作の時間は毛糸のポンポンを使った

ふわふわうさぎ

みんなかなり苦心しましたが

可愛いうさぎが完成しました

代表して4人のお友達の作品をご紹介




次は2月21日です
予定しておいてくださいね

2026年1月11日日曜日

「洗礼の恵み」(日曜日のお話の要約)

降誕後第3主日礼拝(2026年1月4日(日)(白))

イザヤ書42章1―9節(旧)  使徒言行録 10章34-43節

マタイによる福音書 3章13―17節(新)


 本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネの元を訪れ、洗礼を「正しいこと」と言い、ご自身も受けられる姿がはっきりと記されてます。又、先ほどの使徒言行録には、ユダヤ人以外の異邦人が真剣にキリスト教を学ぶ姿勢に心打たれたペトロが、彼らに洗礼を授けています。


 私たちはキリスト教は誰でもその気になれば洗礼が受けられる、と考えていますが、信仰を持ち、洗礼を受けるということは神様から厳しく問いかけられていることなのだと、もう一度聖書から学ぶ必要があります。


 世界にはさまざまな宗教があって、長い学びや修行の期間を必要とするものもありますし、入信の資格を得るために、試験がある場合も少なくありません。それに比べればキリスト教の洗礼というのは、宗教の入信儀式としては簡素な方です。


 とはいえ、教会、教派によっては洗礼に至るまでに準備講座が何週間にもわたって行われ、礼拝出席や献金についても指導を受け、最後に教会の主だった人々の前で証を求められることもあります。「厳しいなあ」と感じる人もいるでしょうが、それでもなお、洗礼を受けたいという思いが消えないのは、その人が神様に招かれ、聖霊に導かれていると堅く信じているからであり、「今までの自分を悔い改め、新しい生き方を始める」ことを渇望するからです。


 ルーテル教会では事前準備は比較的あっさりしていますが、洗礼を受けようとする想いについては確認させていただきます。一般的には人生の目標は名声や富を得ることです。キリスト者はそれを否定こそしませんが「それらは決してキリストには代えられない」と明言します。この考え方が多くの人々には異質なのです。


 日本のように古来からの宗教が強い土地では、キリスト教の教えは理解されにくいもので、辛い思いをすることもあります。ただ日曜礼拝を優先しようとするだけで異質なものを見る目で見られることも多いのです。


 周囲の目に負けて隠れキリシタンになるのではなく、堂々と証しをしつつ切り抜けていくには、過去のクリスチャンたちが、さまざまな宗教を信じる人々と相対しながらどうやって伝道を行ったか、聖書から学び続け知恵をいただこうとする強い意志が必要です。


 使徒言行録5章には、イエス様の一番弟子であるペトロたちの伝道が大きく前進した様子が記されています。ガマリエルという有名な律法教師に「キリスト者は只者ではない」と思わせたのです。


 ガマリエルはファリサイ人としてユダヤの民衆から尊敬されており、人格的にも優れた人物でした。ガマリエルはペトロや他の弟子たちがイエス様の教えを大胆に伝えたことを咎められて取り調べられた時、裁判の場でペトロたちを庇ってこう言いました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」


 ガマリエルは冷静にペトロたちの言動を観察していたのでしょう。もしかしたら心の中ではすでに、キリスト教信仰を肯定していたのかもしれません。


 しかしガマリエルの弟子であるパウロは、キリスト教は神様を冒涜する教えだと頑なに信じ、ガマリエルの判断を無視してキリスト教の大迫害を実行に移します。男女を問わず縛り上げ、牢に放り込むという許可を大祭司から得たのです。


 ところがキリスト者迫害の旅のさなか、イエス様から直接お叱りを受けて、悔い改めに導かれます。その後パウロは自分の特性を生かして、ペトロたちとは違う方法で異邦人に伝道していくこととなりました。ペトロとパウロは時にぶつかり合い、意見を戦わせながらも、イエス様を神の子と信じる人々を導いていきます。


 キリスト教を信じるということは、人によってそのスタイルが違い、お互いに切磋琢磨してちょこちょこと軌道修正をしていくことが必要で、本質をしっかり押さえているならば、互いの違いを受け入れる心が大切であることを使徒言行録の出来事は教えてくれます。


 さて、もう一度本日の福音書に戻りましょう。イエス様が洗礼を授けているヨハネの元に来た時、ヨハネは「私の方こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と大いにためらい、思いとどまらせようとします。しかしイエス様はヨハネに向かって「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語りかけます。


 正しいことを成し遂げるのは私たちしかいない、という意味に取れるのです。これから先、世の人々からあざけられ、馬鹿にされようとも、神様から与えられた正しさは世の中を救い、世の中を変えていく基となる。そのためには罪人と呼ばれる人との関わりや、そう言った人々に愛を注ぐ働きも待っているが、それこそが神様のご計画であり、その決意を示すことが公の洗礼なのだとイエス様は言われます。


 洗礼の恵みを思う時、大前提として、私は私たちは罪人だったということを思い出す必要があるのです。私たちは愛することも愛されることも不器用な人に、神様から頂いた愛を分かち合い、注いでいく必要について、またその具体的な方法について、常に心備えしておく必要があります。苦手なところはお互いに補い合いながら、本当に良い社会、神の国を作っていくために、本当に良くしたいことを、ちゃんと言葉にし、意見を交わし、ちゃんと参加することが大切なのです。


 「せっかく洗礼を受けたのに何もいいことがない」と口にする人がいます。しかし洗礼の恵みはぼんやり待っているのではなく、一歩進んで手を伸ばす時、与えられたと実感することができるのです。一人一人が積極的に恵みに預かり、その恵みが恵みとして分かるまで、私たちは与えられた使命や生涯を、先人に見習って、歩んで参りましょう。


 恵みをいただき恵みを注ぐ、そのために私たちは神様に招かれ、キリストの名の元に洗礼を受けたのです。



みんなの聖書・絵本シリーズ「少年イエスと洗礼者ヨハネ」より
洗礼者ヨハネから受洗の順番を待つ人々の列の後ろに
イエス様が立っておられます

2026年1月4日日曜日

「言葉が肉となった」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・降誕後第2主日礼拝(2026年1月4日(日)(白))

エレミヤ書31章7―14節(旧)

エフェソの信徒への手紙 1章3-14節

ヨハネによる福音書 1章1―8節(新)


 新年あけましておめでとうございます。新しく始まったこの1年が私たちにとって、安定と平穏をもたらす年となることを祈ります。


 さて、いきなりですが、皆さん「もの忘れ」に悩むことはないでしょうか。人の名前や物の名前、自分が探しているものの名前、何か指示したり教えたりするときに示す、的確な言葉や単語。すべて「あれ」や「これ」で済ませられれば楽なのですが、そういうわけにも行きません。そんな時は苛立って、自分を否定するような言葉を使ってしまうこともあります。


 日本では古くから、発した言葉には言葉通りの結果が表れる力がある、と信じられていました。これは「言霊(ことだま)」と呼ばれ、言葉には霊的な力や魂が宿ると考える日本固有の概念だそうです。


 とはいえ、どんな国の人でも、言葉一つで元気になったり、落ち込んだり、腹を立てたり、憎しみを覚えたりすることがあるでしょう。だからこそ、自分のことや身近な誰かのことで「こりゃ~ひどい」と思うような時も、マイナス評価の言葉をそのまま投げかけるのでなく、発想を変えて少しでも肯定的な言葉を使うよう工夫するのが良いのです。言葉には発した本人の想像を超えた力や影響力があるものなのです。


 福音記者ヨハネは、言葉がなぜそんなふうに人の心を左右するのかと思考した結果、言葉は「神」から出るからだ、と明言しました。人に言葉を与えたのは神なのだから、言葉を正しく発し、正しく受け取ることで人は命を得ることができると考えたのです。


 しかし創世記に記されたアダムとエバの物語を読めばわかるように、人間は最初から神の言葉を正しく受け取らず、疑い、軽んじ、否定さえしました。


 天地創造の始まりには、神が光を生み出し、地球を取り巻くあらゆるものを創造し、生き物を生み出してゆきます。その過程を全て「神は言われた」と、言葉によって完成されたのです。ただ人間だけは「ご自身にかたどって人を創造された」と記されていて、神様にとって人間が特別な存在だったことがわかります。


 それなのに全てが完成して間もなく、人は蛇に唆されて禁断の木の実に手を出して楽園から追放され、厳しい労働なしには生きていけなくなります。そうやって生きて、食べて、死んでゆく。下手をすると神様を見失うという、危ういものになってしまったのです。


 旧約聖書には、アダムの子孫から生まれたイスラエルの人々が、神様から「私の民」と呼ばれ、愛されたにも関わらず、たびたび信仰を失い、その度に悲しい歴史が繰り返される様子が記されています。


 一族の不和から国の分裂や崩壊の危機もありました。ある時は侵略のきっかけをイスラエル自らが生み出してしまい、敗戦して国や神殿を焼き払われ、他国に強制的に連れて行かれ、奴隷のようになることさえありました。


 しかし、その都度彼らは信仰に立ち返り、ついには信仰を言葉として残し、正しく子孫に伝える方法を編み出しました。それが旧約聖書です。そうやって受け継がれた言葉の中には、苦しみの中に生きる人間のために、神様がいつか救い主を送ってくださること「イエス・キリストの誕生」がはっきりと予告されていたのです。


 ただ、旧約聖書を何百年も受け継ぎ続けたユダヤの民は「救い主」のイメージを自分達に都合の良いように膨らませたり歪めたりしていったようです。ですから、本当にイエス様がお生まれになって公に活動を始められた時「なんか違うんじゃないか」と思った民衆もいたのです。


 その辺りのすれ違いや、政治家たちの保身や計算の結果として、イエス様は十字架にかけられましたが、神様の力によって蘇られ、改めてご自分が「救い主」である事を証明されたのです。そのお姿が弟子たちの手によって新約聖書に残されることになりました。


 では福音書に記されているイエス様はどのような方なのでしょうか。


 イエス様は悪霊に取りつかれた者、重い皮膚病を患っている人、罪人、罪深い女たちとも分け隔てなく接し、望むものにはためらわず癒しを与えられました。病気で死にかかっていた子を持つ「王の役人」。池のほとりで「38年も病気で苦しんでいる人」「生まれつき目の見えない人」、「墓に葬られて4日もたった『死んでいた人』」このような人達をイエス様は見つめ、病を癒し、甦らせました。心病む人や、自分の力ではどうすることも出来ない危機に陥った人々にも手を差し伸べられました。


 しかしイエス様は、この世の幸せだけをお与えになったのではありません。イエス様の言葉は力強く、人間の究極的な幸せは神様が天国へ招いてくださることであり、そこに永遠の命があることをお伝えになったのです。


 生きる事を諦めてしまっていた人々にとって、イエス様のお言葉は光のようでした。あなたが、あなたのいる場所からこの世界を変えていくのだと、その光の言葉はまっすぐにその人々の心を照らしたのです。


 キリストの言葉は聖書に刻まれ、長きにわたって受け継がれました。世界を変えるほどの力を持つその言葉を、2026年の今、私たちは預かり、これから後も人々に教え、伝えていく役割が、神様のご命令として与えられているのです。閉塞感のある時代の中で、人が競争するしか生きることの希望を見いだせない社会の中で、その暗闇に光を届かせ、「生きよ」と言えるでしょうか。


 それは私たちイエス様を信じるキリスト者の役目なのです。福音書を記したヨハネは「暗闇はそれを理解できなかった」と記していますが、光を求めている人、神の言葉、イエス・キリストを求めている人は必ずいます。私たちは主イエスの言葉を伝えるものとして、この1年の歩みを始めて参りましょう。


あけましておめでとうございます

小さな教会の発信する目立たないブログですが

今年も見にきてくださってありがとうございます


今年の土曜学校は1月17日からスタートします

震災から4年目に新人牧師として

まだ震災の傷跡の残る神戸に遣わされました

神戸教会の庭に集まるご近所の子どもたちやお母さんたちと

「ルーテルこどもクラブ」という教会学校組織を作り

毎週火曜日午後3時30分からの礼拝のほかに

お餅つきにチャリティコンサート

オリジナル聖誕劇などなど

賑やかに楽しく、無我夢中で9年間を過ごしました


土曜学校の日は震災から31年

「ぶどうの木」の御言葉は私が選んだのではなく

幼稚園が1月の御言葉として決めておいたものですが

「ボランティア元年」と呼ばれた

当時の姿を、この御言葉を用いて

今の子どもたちに伝えられたらいいな、と思っています


工作は午年なのにうさぎです(^^;)
ふわふわあったかいものを作りたくて
数年前の工作の手順を少し簡単にして制作します
いつも幼児から小学校3、4年生くらいまでの参加で
作業の能力に差があるため準備はかなり工夫が必要ですが
集まってくれる子どもたちと楽しもうと思います

2025年12月28日日曜日

「学者達の礼拝」日曜日のお話の要約

降誕節第一主日礼拝(2025年12月28日)(白)

イザヤ書63章7―9節(旧)

ヘブライ人への手紙2章10―18節(新)

マタイによる福音書 2章13―23節(新)


 本日の福音書は、クリスマス劇でお馴染みの3人の学者たちが登場します。クリスマス劇では、イエス様が誕生した夜に羊飼いと博士達が馬小屋に大集合する様子が演じられますが、実際は、羊飼い達はルカ福音書に、学者達はマタイ福音書に、と別々に記載されており、よく読みますと、場所こそ同じベツレヘムですが、二つの出来事が起こった時期にはズレがあることがわかります。


 マタイ福音書の記者マタイは、イエス様の弟子となる前は徴税人で、社会からは罪人扱いでした。そんな彼は社会の暗黒面や、人間の裏側、ドロドロしたところを人一倍知っていたはずです。そのマタイが学者の来訪を記録するからには、隠された意図があるに違いないのです。


 この学者達の祖国・東の国は、今のイラン辺り、当時の名前で言えばペルシャ辺りであったと思われます。ペルシャは文化的にも経済的にも優れた地域でした。


 ペルシャはかつてユダヤの民を支配していましたが、そのおりユダヤ人の信仰の書物であった旧約聖書を知り、そこに書かれている「救い主誕生」に興味を持ったようです。それでユダヤ人が独立を勝ち取ってペルシャから去った後も、ずっと研究を続けていました。


 数百年が過ぎた頃、ペルシャは同時代に台頭してきたローマと抗争を繰り返しており、心ある人々は状況を憂いていたでしょう。そんな時ペルシャの天文学者達は星の動きによって、旧約聖書に記されている「世界を救う王様」が誕生されたことを知ったのです。


 学者達は分析を重ね、王様が生まれた場所がエルサレム周辺と見当をつけます。そして「世界を救う王様の誕生」なのだから、今頃エルサレムはお祭りムードになっているだろう、と思い込んだのでしょう。


 ところが長い旅をしてたどり着いたエルサレムは何かを祝った形跡もなく、尋ねても誰も知らないのです。焦った学者達は手当たり次第聞いて回ったと思われます。そしてそれが暴君・ヘロデ王の耳に入ります。ヘロデ王は、この知らせに怒り、ユダヤ人の専門家を集め「メシアはどこに生まれることになっているのか」と調査を命じます。しかしそれは旧約聖書を知るものにとっては難しい調査ではありませんでした。


 専門家達はすぐに旧約聖書のミカ書の5章1節にたどり着きます。ミカ書箱のように記されています。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」これによりますと、ミカ書の方がより具体的で、新しい王がベツレヘムで誕生し、ヘロデの時代は終わると神が預言されていることがわかります。


 実は、ヘロデ王とは本来イスラエルの王座につく資格のない人物でした。しかしローマに対して政治的に立ち回り、権力を手に入れたのです。心の内では正当な王が現れた時立場を失うかもしれないと、常に不安を抱いていたことでしょう。


 そこでヘロデは、学者達を呼び寄せ、「救い主はベツレヘムに生まれたようだ」と教えた後「その子を見つけたら知らせてくれ、私も行って拝もう」と告げます。これはヘロデが「神様の言葉を逆手に取るようなもので」イエス様を暗殺するために学者達を泳がせ、スパイに使おうとしたのです。クリスマスだというのに、何ともどろどろしたお話です。


 しかし救い主の誕生は全ての人の希望だと信じ込んでいる学者達は、ヘロデ王のためにも一刻も早く探さねば、と使命感に燃えました。世界のあらゆる国が手に手をとりあって平和を築いていくためにこの方が必要なのだ。何百年も待ち望んだ方は、どれほど威厳を持った赤ん坊だろう。財産の全てを捧げても、無駄とは思えない方とはどのような方なのか、とワクワクする思いを抑えられませんでした。


 ところが、やっとのことで探し当てたのは小さな家でした。さらに言えば、彼らが出会った幼子イエス様は、一眼見ただけでは、どこにでもいるような赤ん坊だったのです。


 聖書からは学者達が即座に「ひれ伏して拝んだ」という印象を受けますが、実際にはちょっと間があって、母マリアやヨセフに、「あなた達はどういう方なのか」と尋ねたかもしれません。マリアとヨセフから、天使のお告げのことや、苦難の末にベツレヘムにたどり着いたことなど、イエス様誕生の経緯を聞いたのかもしれません。


 話を聞くうちに、しみじみと、この方は力の無い幼子に見えても、神様のご計画はもう始まっていて、この方こそ世界を平和に導く、まことの王となられるのだと、納得したことでしょう。だからこそ心の底から喜びに溢れて、用意した宝の数々を捧げることができたのです。


 このエピソードは、救い主に出会い、信じることは偶然や理屈ではないと教えています。イエス様と出会ったなら、自分の思い込みを脇に置いてそこに導いてくださった神様に素直に心を開くこと、そうすれば、どんな人も平和を愛する神の子として生きることができるのです。


 しかし、マタイ福音書が伝えるのはそれだけではありません。平和や愛を喜ばず、神の言葉は信じてはいるが、敵対する者は常にいることも同時に教えています。学者達は夢でヘロデの悪巧みを知り、ヘロデに利用されることなく自分の国へと帰って行きます。


 騙されたことに気づいたヘロデは、恐ろしいことにベツレヘムの2歳以下の赤ん坊を全て殺すという暴挙に出ます。光に照らされることを拒んだ者の心の闇はどこまでも深くなる、それがマタイの描き出したクリスマスの出来事なのです。


 私たちはこの聖書の物語を繰り返し心に刻んで、どんな時も救い主を目指して進み、妬みや不安からくる闇に囚われないよう共に祈って参りましょう。


イブ礼拝には、ささやかなプロジェクションマッピングや
プラネタリウム機能を使って
少しでも心に残るような演出を試みました
聖壇に飾っているのは小さな聖家族像ですが
こんなふうにライティングすると
なかなかドラマチックです