2025年7月6日日曜日

「御手の中で」日曜日のお話の要約

聖餐式・聖霊降臨後第4主日礼拝(2025年7月6日)(緑)

イザヤ書66章10―14節(旧1170)

ガラテヤの信徒への手紙6章7―16節(新350)

ルカによる福音書 10章1―11節、16―20(新125)


 本日読みましたルカ福音書は、イエス様が宣教の役割を弟子達に委ねたお話です。これと関連して、マタイ、マルコ、そしてルカ福音書の9章には12人の弟子を派遣することが記されています。しかし改めて72名もの人を任命し、宣教の業を委託されたのはルカ福音書だけです。


 3つの福音書の派遣された12人というのは、たくさんいる弟子集団の中からイエス様が選ばれた特別な人々で、イエス様は彼らを「使徒」、つまり「遣わされた者」と名付けられました。イエス様は12人の使徒たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」ります。これはイエス様が弟子たちの前で実践された出来事です。使徒たちはその力を授けられることに驚きつつも「村から村へと巡り歩き、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」のです。


 そして今度はその力をさらに多くの弟子たち、つまり72人にお授けになった、というのが今日のところです。彼らは名前も記されておらず、側から見て特別な人ではなかったかもしれません。それでもイエス様は彼らをお選びになりました。


 ここで72人と書かれている数は実は70人という説もあります。その昔、聖書は「写本」と呼ばれ、ちゃんとした専門家の手によって正確に書き写されていました。それでもごくたまに主観が入り込むことで間違いが起こったようです。この場合主観が入り込んだ可能性があるのがこの72という数字で、写本によっては70となっているものがあります。


 72という数字は創世記10章で、神様がこの世の民族を72に定められた。それを表す数字として登場してきます。


 一方70の方は、エジプトを脱出して約束の地に向かう途中で、モーセがリーダーとしての役割を他の70人に分け与えた、という出来事です。これは民数記の11章に記されています。壮年男子だけで60万人の大移動。モーセが全ての責任を負うのは不可能ですから、神様は他に70人を召し出し、指導者として立てるように、とお命じになったのです。


 こういったエピソードから、70、あるいは72という数字が聖書に登場する時、癒し的リーダーが登場して世を導くという時の人数として用いられ、一定の想いを込められてその数字を用いているのです。


 ルカによる福音書から推測できるのは、神様がお作りになった世界で、人々がさまざまな民族に分かれ、国同士が争うようになったので、神の国の教え、神の愛の教えを伝え、平和に戻す必要が出てきます。そのためにはまずこの72名の働き人が必要であった、という意味に理解できます。


 このエピソードが語られた時、イエス様は、まだ肉体というものに縛られていたため、神様の愛を伝えるために多くの場所に行きたいと望まれたても、同時にあちらこちらに出かけることは不可能でした。そこでイエス様はご自分で選んだ人々に「私ひとりでは手が足りないから、代わって行って欲しい」と頼まれたのです。


 選ばれた72人は、イエス様から召し出されたことを喜び、名誉に感じ、役割を果たそうと決心して出かけて行きます。そして出かけた先で体験した試練や成功を通して、イエス様を信じる心と神様への信仰に強く結びついて行ったのです。


 福音記者ルカがこの福音書を記した時代、ローマ帝国は強い武力と経済力によって多くの国や地方を支配していました。各民族の自治や宗教は容認されていましたが、それでもローマ皇帝を神と崇める考え方は他の民族にも押し付けられました。


 しかしどれほど強い力でローマ帝国を築き上げようとも、当然反発する人々も出てきます。世の中は混乱し、人の命は戦争の道具として使われ、軽んじられて行きます。争いというものは一度始まってしまったら、燃え広がる炎のようで、なかなか止めることができません。それは先の世界大戦でも起こったことです。


 「広島や長崎に原爆を落としたから戦争が終わった」などと平気な顔をして言ってのける「自称クリスチャン」が、大国の政治家として君臨している現在、ますます争いの火種は広がって行きます。人間は誰しも、権力者に限らず、一般人と言われるような人々であっても、自分勝手な思いに走りやすい性質を持っています。


 それを食い止めることができるのは、イエス様が述べ伝えられた「平和を作り出す方法」を、ひたむきに、愚かと言われてもその教えを述べ伝えていくことだけなのです。だからこそイエス様は宣教することを、私達に望まれるのです。


 私達が思う以上に、神様に反した世界を神様が悲しまれます。神様は人の世界が滅んでいくのを、そのまま黙って過ごすことはおできにならないのです。ですから、イエス様がご自分のお役目を終えて天に帰られた後は、聖霊なる神様がそれを引き継ぎ、どこの国民であろうと、どんな人であろうと関係なく、これはという人を招き、送り出す働きを続けておられるのです。誰が次の72名になるかわかりません。そして神様によって招かれ、厳しい世の中に宣教のために送り出されることがあらかじめ定められている。それが私たち一人一人なのです。


 今の時代「宣教」について考えるとき、インターネットの知識が必要であるとか、高い学歴が求められるとか、外国語に堪能であるとか、あれこれ勝手に考えて、自分では無理だと思い込むかも知れません。しかしあなただからこそ声をかけられる、そんな人が必ずいるのです。


 まず、私たちはこの礼拝堂に、あなたのそばにいる、親しい誰かを招くところから始めましょう。それはあなたしかできない役割なのです。


 飯田教会と幼稚園は120年の歴史がありますが、神様からご覧になれば、やはりまだまだこれからなのです。これからも神様は私たちを導き、人々の期待、関わる人に希望を抱かせ、信仰へと導いてくださるはずです。それを信じて、完成した建物の整備を行いながら、この場所で、御手の中で、選ばれたものにふさわしく宣教にいそしんでまいりましょう。




教会をリノベーションしている間
牧師館で管理していたプルメリア
冬中そこそこ暖かい室内に置いていたので
ずいぶん早く花が咲きました
でも少し色が薄い感じです


数年前、最初に咲き始めた頃の写真
(今はもう無い)牧師館のベランダで育てていました
リノベーションも終わったので
改めて教会の敷地に置くことにしました
色が濃くなってくれると楽しくなります

2025年6月29日日曜日

「キリスト者の自由」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2025年6月29日)(緑)

列王記上19章15―16節、19―21(旧566)

ガラテヤの信徒への手紙5章1節、13ー25節(新349)

ルカによる福音書9章51―62節(新124)


 本日のお話のタイトルは「キリスト者の自由」といたしました。これはガラテヤ書5章の小見出しで、マルティン・ルターの著書としても有名です。「信仰によってのみ人は救われ、神の前に義とされる」という考え方です。ルターがこの結論を導き出したのはガラテヤ書の学びを通してですが、本日はルターの思いを心に留めつつ、ルカ福音書からイエス様のなさったことをご一緒に聞いてまいりましょう。


 本日の福音書は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、」という書き出しです。これは十字架にかかる日が近づいてきた、という意味でもあります。苦難が待っているエルサレム目指して、イエス様は固い決意と共に出発されたのです。


 しかし、そんなイエス様を失望させるような出来事が立て続けに起こります。まず一つ目はサマリア人たちの態度でした。


 この頃、イエス様はユダヤ人の間で有名になっており、イエス様を熱狂的に支持する人もいれば、イエス様の働きを妨害しようとする祭司長やファリサイ人たちのような人々もいました。そこでイエス様一行は混乱を避けるために、多くのユダヤ人が利用する街道を避けて、サマリアを経由しようと計画し、泊まる場所を確保するために 使いの者を送られました。おそらく今までに交流のあったサマリア人の住む村に宿泊されるおつもりだったのでしょう。しかしこの村人はイエス様を拒んだのです。


 ヨハネ福音書と読み比べてみますと、この時エルサレムでは祭りが行われていたようです。サマリア人たちはイエス様がエルサレム神殿を目指しているので、自分達の信仰するゲリジム山が無視されたように感じて反発し、お世話することを拒んだのかもしれません。仕方なく一行は別の村に宿泊することにしました。


 しかし弟子のヤコブとヨハネはイエス様に「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と提案します。自分達にそんな力はありませんが、非常に腹が立ったので、イエス様にやっつけてもらおう、と子どもじみた復讐心を燃やしたのです。イエス様は弟子たちの態度や考え方を悲しみ、強く戒められたのです。


 イエス様は武力によって人を従わせるようなことは一切望まず、神様の教えに従うことで隣人の良いところを引き出し、信仰を育てる心得を弟子たちに教えられました。仮にその先に待っているのが殉教であっても、それこそが御心に従うことであると教えられたのです。


 そんなイエス様を次に失望させたのは「覚悟の足りない人が弟子入りを志願する」という出来事でした。12名弟子と呼ばれる人々は、苦労を重ねながらも、イエス様を尊敬する先生と仰ぎ、共に旅をしてきました。一番弟子のペトロが「私たちは何もかも捨ててイエス様に従って参りました」と豪語しています。これはこの時点での弟子たちの偽らざる思いだったのでしょう。


 イエス様は、弟子たちにも人間的な弱さがあることを知った上で丸ごと受け入れ、愛を注いで教え導いてきました。堅い絆で結ばれていた彼らの前に、新たな弟子志願者が現れるのです。


 一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いますが、イエス様には、この人が中途半端に見え、断りの言葉を語られます。そして別の人に「私に従いなさい」と語りかけます。


 するとこの人は「まず父を葬りに行かせてください」と答えます。イエス様はこれが単なる言い訳だと見抜かれました。そこで「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言葉をかけられます。「死んでいる者」とは「霊的な意味で死んでいる人」という意味で、あなたの本当の父は天におられる神様なのに、そのお方を優先させない人生は死んでいるのも同然だ、と言われたのでしょう。


 3人目の人物は、イエス様に声をかけられると「主よ、あなたに従います」と言いつつ、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と答えます。イエス様はこの答えにも失望なさいました。


 イエス様はこの人も中途半端であると見抜き、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。どんな理由があろうとも、やりかけたことを早々に放り出す人は弟子にふさわしくない、そう言われたのです。


 この福音書の箇所では、サマリヤの人々を含めて、多くの人たちが「神の国にふさわしくない」と言われています。もし私たちが「ただの人」としてこの箇所を読むなら、イエス様とはずいぶん厳しいと感じるかもしれません。弟子志願者を自分のもとに縛り付け、自由を奪い、好き勝手な方向に行くことを許さない。「なんと傲慢な先生なのだろう」と思うかもしれません。


 しかしイエス様は全てを見通される神の御子です。そしてご自分の力の全てをご自分の元に来る人々に向け、命を捨てても良いほどに愛される方です。イエス様が「そちらへ行ってはいけない」と言われる方向は、人生を堕落させる方向です。「やってはいけない」ということは、人としての破滅の道です。


 ですから、もし私たちが「気が向いた時だけイエス様に従います」とか「クリスチャンと言っても、無理だと思うことは最初からしません」などと自分の都合ばかりを優先させるならば、大きく道を踏み外してしまうことになるのです。


 イエス様は私たちの自由を奪い取るように見えて、実は強い愛の力で守り、導き、真の自由をくださるのです。御言葉を通してイエス様の思いを学び続けるなら、イエス様の導いてくださる方向と、自分の心が喜ぶ方向は一致していきます。そして2度と「不自由に縛り付けられている」などとは感じなくなるのです。


 私たちはイエス様に導かれ、キリスト者として、イエス様の弟子として、ガラテヤ書の記す「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を一生涯かけて身につけていきます。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」にはならず、イエス様から与えられる自由と喜びを感じつつ、共に歩んでまいりましょう。



7月の土曜学校は12日に行います。

本来なら第3週、19日に実施するのですが、この日が幼稚園のお泊まり保育の二日目にあたっており、牧師の手が塞がっているので、一週繰り上げた次第です。

工作はフィギュアの金魚をガラス瓶に閉じ込めて、涼しそうな「瓶詰め(?)」を作ります。

やぶれにくいポイを購入して、金魚掬いをやってもいいかなと思っています

いつもに比べて準備時間が少ないのですが、子どもたちが楽しく安全に集えるよう手は抜けません(^^;)







2025年6月22日日曜日

「キリストを着る者として」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(2025年6月22日)(緑)

イザヤ書65章1―9節(旧 1167)

ガラテヤの信徒への手紙3章23―29節(新346)

ルカによる福音書 8章26―39節(新119)


 本日はルカ福音書から聞いて参りますが、何やらおどろ恐ろしい言葉がたくさん記されています。「悪霊」とか「墓場」とか「レギオン」とか「たくさんの豚が崖から落ちる」とか、まるで怪談話です。


 イエス様がわざわざユダヤの地を離れ、人々から疎んじられた、どうしようもない状況に置かれた男性を救いに行かれたのです。このゲラサ人の地方とは、諸説ありますが、ガリラヤの反対側のデカポリス地方にある都市の名前です。ユダヤ人が飼わない豚を大量に飼っていたところから、異邦人の住む街であったことはまちがいありません。そこでは異教の神々が拝まれていたのです。


 ここに到着するまでは非常に困難な出来事がありました。湖を渡っている時に突風に襲われ、船が水を被ってしまったのです。溺れそうになった弟子たちはすっかり怯えてしまいますが、イエス様が風と波を叱って嵐を静め、一行はようやく向こう岸に到着することができました。


 イエス様たちが陸に上がるとすぐ、一人の男がやって来ます。これこそイエス様が癒したいと思っていた人物なのですが、彼は衣服も身につけず、ひと目でまともな状態でないことがわかりました。鎖で繋がれても、足枷をはめられてもそれを引きちぎってしまうとのことでした。


 彼はイエス様の前にひれ伏し「いと高き神の子イエス」と呼びかけます。しかし「癒してください」とは言わず、「自分にかまわないでくれ」と叫ぶのです。行動と言葉がチグハグなのです。


 繰り返しになりますが「彼は裸だった」のです。創世記には、禁断の木の実を食べた人間は神様の前で裸であることが恥ずかしくなって隠れた、と書いてあります。つまり裸でいるのが恥ずかしいのは罪の結果と言えますが、恥ずかしいと思う心さえ麻痺してしまったら、人としてもう手に負えません。


 その上、彼は「墓場」を住処としていました。当時は「墓場」とは非常に汚れた場所と考えられていました。悪霊はそんな場所を好むようこの人を縛り付けたのです。誰もが関わりを持つことを躊躇するようなこの男に向かって、イエス様は「名はなんというのか」とお尋ねになります。すると彼は自分の本来の名前ではなく「レギオン」と答えます。「レギオン」とは、通常5000~6000人から成るローマ軍隊の部隊の名前です。悪霊がこの男に「レギオン」と言わせたのです。


 ローマ軍は多くの都市を占領し、初めのうちは「パックスロマーナ」「ローマの平和」という理想を掲げました。しかし結局はそこに暮らす人たちの思いを踏み躙り、力で押さえつけます。「レギオン」によって占領されたこの人も、悪霊の力によって自分の思いが制圧され、抑圧されてしまっていたのです。


 悪霊は自分たちはどんなに数が多くても、結局はイエス様にかなわないことを知っていました。悪霊たちは「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに願い、「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた」ので、せめてその豚の中に入ることをイエスに願います。


 イエス様がそれをお許しになると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだのです。マルコ福音書にはこの豚の数は2千匹ほど、と書いてあります。それは凄まじい光景だったことでしょう。


 しかし、この出来事によって、この町の人々を恐怖に陥れていた男が正気に戻ったのです。レギオンに支配されていた時の面影はなく、きちんと服を着てイエス様の足元に座っています。これは、彼が神様から罪を赦されて人としてもう一度やり直しを始めたことを表しています。


 不思議な顛末ですが、これでこの異邦の地を支配していた悪霊がいなくなり、「神の平和」と「神の平安」が実現する場所となれたはずでした。しかし、今度はここの住民達が、イエス様がここに滞在することを拒んだのです。


 ゲラサの人たちは、悪霊に取りつかれていた男が救われたことに関してはイエス様に感謝を覚えたでしょう。しかし豚飼いたちにとって、豚の群れを失うことは軽い出来事ではありません。経済的なことを重んじるあまり、一人の人間の救いをどうでも良いことと感じてしまったのでしょう。そして、長い間、悪霊に取りつかれいた人が、自分たちの社会に戻ってくることも恐れたかもしれません。結局彼らは、主イエスをゲラサから追い出すことにしたのです。


 さてレギオンから解放され、正気に戻った男はイエス様について行くことを願いました。イエス様に離れ難いほど感謝していただけでなく、隣近所の人々の冷たい目を感じていたからです。しかし、イエス様は「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」とおっしゃいます。


 イエス様が彼に与えた使命は、イエス様と舟に乗ることではなく、ゲラサに留まって自分の家に帰り、神様が自分にしてくださったことを語ることでした。彼はイエス様に命じられた通り、イエス様が自分にしてくださったことを町中に言い広めます。彼はイエス様によって宣べ伝える者、証しする者となったのです。


 ガラテヤ書には「キリストを着る」という信仰的な言葉が記されています。ゲラサの男のように、人間性を失い、素っ裸になっても恥を恥じとも思わない者が、イエス様に救われ「キリストを着る」ものに変わったのです。「キリストを着る」とは、生まれ変わってイエス様の使命を果たすために生きる、ということなのです。


 私たちは今、いつ大戦争が始まるともしれない危うい世界で生きています。日本は民主主義と言いつつも、正々堂々と異議を申し立て、平和社会を取り戻すほどの力は私たち自身にはないかもしれません。


 けれども、私たちには、キリストが与えられています。この場所から平和を作り出す者へと一人一人が召されているのです。この喜ばしき信仰を、共にキリストを着る者として喜び、平和の場所を作り出してまいりましょう。



昨日は土曜学校でした

リノベーションの終わった会堂での

初めての土曜学校です

土曜学校の常連さんには

見慣れたはずの教会礼拝堂なのに

1年ぶりだからかそわそわウロウロ

初めてこの建物に入る新一年生の方が

落ち着いた感じでしたww

改修のため、少し残響が強くなったようで

工作しながらふざけ合う子どもたちの声が

ワンワン響いて、指導する方は大変でした

次回は落ち着いてくれるといいのですが(涙)


遠方から久しぶりに来てくれた

Kちゃんご一家、ありがとうございます

チャンスがあったらまた来てくださいね




Kちゃん、遠いところから来てくれてありがとう
また会えたらいいな



礼拝堂の後ろで工作
ベンチを前の方に少し寄せれば
15人くらいの参加者は十分座れることがわかりました
冷房もよく効きますし、次回もここで行います




2025年6月15日日曜日

「父、御子、聖霊の神」(日曜日のお話の要約)

三位一体主日礼拝(2025年6月15日)(白)

箴言8章1―4節、22―31(旧 1000)

ローマの信徒への手紙5章1―5節(新279)

ヨハネによる福音書 16章12―15節(新200)


 昔も今も、私達は教会のあり方や自分の信仰について悩むことがあります。先ほど読んでいただいた旧約聖書の箴言や、パウロが書いた様々な手紙は難しいと言われがちですが、自分自身の信仰的な悩みに向き合いながら読む時、神のメッセージを聞き取ることができます。そしてまた同じように教会全体にも信仰的な課題が与えられますから、共に祈り乗り越える道を探ることで、神の祝福が与えられるのです。


 本日は、福音書を紐解く前に、ローマによる信徒への手紙から聞いてまいりましょう。ローマというと、その中心にはあのバチカンがあります。世界で最も小さい国家でありながら、カトリックの中心として世界に大きなな影響を与える場所です。


 ローマはかつて皇帝を神と崇め、キリスト教を否定し信徒を迫害していたのは有名な話です。そんな辛い環境でも、イエス様を信じる人々はローマで集会を行なっていました。伝道者パウロはそんな信徒たちに向けて、遠く離れたコリントから信仰の慰めや励ましや導きの手紙を書き送ったのです。


 パウロはローマで殉教したと言われています。パウロ本人もいずれ自分がローマで殉教するであろうことを知っていました。それでも、彼は福音を恥とすることなく、イエス・キリストが示された愛は世界の全ての人々を救う原動力になると確信していました。その為に自分が天国を信じ、死を恐れず殉教することが必要ならばそのように導かれるだろうと信じたのです。


 パウロは元々このような強いキリスト教信仰を持っていたわけではありません。むしろその逆で、ファリサイ派の一員としてキリスト者を神の敵と信じ込み、牢に送り込み殺害するという見当違いの罪を犯したのです。しかしイエス様に天から直接語りかけられ、自分自身の間違いを示され悔い改めます。パウロは、自分が途中で倒れても、救いと平和の神を伝える人々が現れて自分の働きを引き継いでくれるとわかっていました。


 改めてローマ書の5章2節を見てみましょう。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。」難しい表現ですが、思いっきりわかりやすく解釈するならば「イエス様を信じる信仰は豊かな恵みを与えてくれて、神様にも愛される、と胸を張って言える」と理解することができるでしょう。


 イエス様によって生まれ変わったパウロは、自分に才能があるとか、財産を持っているとか、社会的地位があるとか、そう言った個人的なことを誇ることは無駄だと思い知りました。それどころかそのようなものを「ちりあくた」だと言いました。自分自身に誇れるものは何一つなく、ただ素晴らしい神の子、主イエスを知り、主イエスが共に歩んでくださっているということだけを誇る、つまり「主を誇れ」と示したのでした。


 私たちはこの世では悩みや困難、苦労や苦しみがあります。これらをまとめて「艱難辛苦」などと呼び、「艱難辛苦なんじを玉とす」という言葉もあります。「困難や苦労は、あなたを磨いて素晴らしいものにしてくれる」という意味ですが、艱難辛苦の真っ只中で、自分の信念だけを支えにでそんなふうに行動し続けるのはよほど精神力の強い人だけでしょう。


 世の人々の妙な誤解や、間違った思い込みに晒されながら、上手くいけば妬みから足を引っ張られたり嫌味を言われたり。うまくいかず落ち込んでいる時には、傷口に塩を塗られるような屈辱を受ける。それでも必死で耐えて、無責任な外野のようなことだけ言っている人にも救いが訪れるといいなと希望を持つ。この世の基準で言えばお人好しの大馬鹿者、ということになるでしょう。


 しかし私達に与えられている聖霊なる神はそれを望むのです。神の愛が私たちの心に注がれていることを実感し、委ねていく。自力でやろうとするのではなく、神様が何を望んでおられるのか心を研ぎ澄ませながら耐え、その先にはきっと希望があると信じ続ける。それが「苦難をも誇りとする」ことであり、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉の意味なのです。この希望が今、私達にはこの教会によって与えられているのです。


 さて、最後に本日の福音書であるヨハネ福音書についても耳を傾けましょう。ヨハネ福音書は4つの福音書の中で最後に書かれたもので、地中海世界にキリスト教が大きく広がっていった頃にまとめられました。キリスト教が成立していく過程で、ユダヤ教や、ギリシャ哲学を信じる人々と渡り合い、論争を繰り返し、迫害を受けながら、前進していきました。


 そのような中、信徒自身も何が正しいのか混乱することもしばしばでした。それでもさまざまな思想や教えに教えに取り囲まれながらでも、自分自身に神の愛が注がれていることを信じ、祈り続けていくならばおのずと自分はどう生き何を選ぶべきかさえも分かってくる、それが聖霊の働きであり、神様ご自身が私たちの中心にいらっしゃることが見えてくる。初めの信徒たちはそうやって忍耐することで人として洗練されてゆき、希望を失わない信仰を獲得していったのです。


 「父、御子、聖霊の神」という表現は、教会の始まりに、初代教会の人々が、間違った教えに陥らない為に、教会の神様とはどなたなのかを示す為に、三位一体という考え方を打ち出しました。


 難しい考え方に発展するのですが、ようは神様は、あなたの優しいお父さんと呼んでもらいたいということと、友達として心配する神様であり、教会は同じ愛の思いをもって、あなた自身に注入する神ご自身であることが、この「父、御子、聖霊の神」によって示されているのです。



エル・グレコ「聖三位一体」
油彩/1577-1579年