2024年11月17日日曜日

「わたしは主、あなたの神」(日指のお話の要約)

日曜学校こども祝福礼拝(2024年11月17日)(赤)

出エジプト記20章2節


 今日のお話のタイトルは「わたしは主、あなたの神」です。「主」という言葉はすごく簡単に言うと「誰よりも偉くて、全ての中心にいて、どんなことでも命令できる方」という意味です。う~ん、難しいですね。小さなお友達は、教会で信じている神様を「主」と呼ぶことがあると覚えてください。「主イエス」と言うのは「イエス様は神様」と言う意味だと思ってくれればいいです。


 今日はその「主」である「神様」が、私たちをとっても愛してくださっている、と言うお話をします。


 昔々、神様は一つの星を作り、そこに海や山、美しい花や美味しい実をつける果物を作りました。空を飛ぶ鳥や森に住む動物、海に住む魚、虫たちも作りました。神様はこの星がとても美しくできたので、満足して「これで、よし」と頷きました。これが私たちの住む地球です。


 昼は青空、夜はお月様やたくさんの星が見えてとても綺麗です。でも残念なことに、動物たちは元気いっぱい走り回っているけれど、空を見上げたり、美味しい空気を吸って「幸せだなあ」なんて言ってくれません。そこで神様は、地球が美しいことを喜んで、大切に守ってくれる生き物を作りました。神様はその生き物に「人間」と名前をつけました。


 神様は人間を地球で一番美しい「エデン」につれてきました。そして「地球にあるものを全部、あなたたちに預ける」と言いました。なんでも自由にして良いのです。でも一つだけ約束がありました。「どの木の実も食べて良いけれど、エデンの真ん中の、あの木の実だけは食べてはいけません。食べると死んでしまうから」


 人間は素直に「はい」と返事をしました。食べるものはたくさんあるし、大好きな神様が、わざわざ「あれを取って食べてはだめだよ」と言うんだから、きっと訳があるんだろうな、と考えたのです。


 そのうち神様は人間が寂しくないようにお嫁さんを連れてきました。人間の男の人はアダム、女の人はエバという名前になりました。アダムとエバは神様に守られながら、エデンで楽しく暮らしていました。


 ところが、そこに意地悪をしに来たものがいます。蛇です。蛇はエバに言いました。「あの木の実を食べても死なないよ。食べると神様と同じくらい頭が良くなるから、神様は嘘をついてるんだよ」


 エバは、やめておけばいいのに、木の実を取って食べてみました。その実はとても美味しくて、もちろん死んだりしませんでした。それでアダムを誘って一緒にパクパク食べてしまったのです。


 神様との、たった一つの約束を破ってしまったアダムとエバは、それまで神様を怖いと思ったことは一度もなかったのに、きっとすごく怒られると思って木の影に隠れました。でも神様はすぐに二人を見つけ、約束を破ったことに気がつきました。神様が「どうして?」と聞くと、二人は「ごめんなさい」も言わないで言い訳し始めました。アダムは「神様が私にくれたお嫁さんのエバが悪いんです」と、まるで神様が悪いみたいな言い方をしました。エバも「蛇が悪いんです」と他の人のせいにして全然反省しません。


 神様は、約束を破った二人に、エデンから出て行ってもらうことにしました。エデンの外で土を耕して畑を作っても、エデンのような美味しい野菜も果物もできません。人間は大変な苦労をしながら生活することになりました。


 辛い思いをしている人間を見て、実は神様も、とても悲しかったのです。それなら、なぜ神様はわざわざこんな木の実をおいたのか、わかりません。一つだけわかるのは、神様との約束を、何があっても守って欲しかった、ということです。


 神様は人間を「神様の命令をなんでも聞く生き物」に作ることもできたのですが、そうはしないで、人間が自分の頭で考える力を上げました。その力を正しく使って、蛇がきた時、「私は神様がいけないと言ったことはしません」と断って欲しかったのです。でも人間は一番大事な時にちゃんと考えられなくて、騙されてしまったのです。


 それからのこと、人間は地球の上に村や町、国を作って、どんどん増えましたが、いつもエデンでやったのと同じ失敗をしました。それは、喧嘩をすると「あいつが悪い」と素直にごめんなさいが言えなかったり、欲しいものを我慢できなくて、人から奪い取ったりすることです。


 自分さえ良ければ他の人はどうでもいい、とか、いつでも自分が一番正しい、そんなふうに考える人が地球にどんどん増え、国の偉い人になったので、その人の命令で戦争が始まって、地球はどんどんボロボロになってしまいました。もし、今度大きな戦争があったら、地球には私たちの住める場所は無くなるかもしれません。


 神様は人間が相変わらず失敗ばかりしているのを見て悲しんでいます。でも、何度も言うように、強引に人間の考えを変えることはしません。人間たちに「大切な地球を守るために、今こそちゃんと考えよう」と言って欲しいのです。そして「神様がいけないと言ったことは、しません」と言える人間になって欲しいのです。


 お話の最後になりますが、今日のタイトルの「わたしは主、あなたの神」と言う言葉は旧約聖書の「出エジプト記」と言うところにあって、神様から人間に、守って欲しい10個の命令と一緒に書かれていています。実はこれは守ると幸せになれる、10の方法なのです。


 でも人間は最初のたった一つの約束も守れません。それで随分後になって、イエス様が10個をぎゅっとまとめて、2個にして教えてくれました。「神様を愛しなさい」と「人を愛しなさい」の二つです。


 神様はいつでも私たちを愛していて、幸せを願っています。それは絶対本当のことです。それを信じて、神様がやってはいけないと言ったことは止めて、神様がやって欲しいことをしていきましょう。


 小さくてもみんなで力を合わせてこの二つの約束を守るなら、神様からお預かりした大切な星は綺麗な星に戻るでしょう。そして、人を愛して、誰かのものを力づくで取ることはやめて、喧嘩をしてもごめんなさいが言えるなら、やがて戦争もなくなるのです。


 神様は言われました「私は主、あなたの神」。だから私たちも神様に向かって「あなたは私の主、私の神」と答え、従って参りましょう。



昨日の土曜日と本日・日曜日は

二日間連続してこども祝福式を行いました

と言いますのも、今までは日曜礼拝の中で

こども祝福式をやってきたのですが

今は場所が狭く、お客さまを迎え入れることができないので

日曜はバンド練習をしているレギュラーの子どもたちのために

土曜日は土曜学校や幼稚園の在園児を中心に、と

2回に分けたのでした



順序がバラバラですが

こどもたちの写真を見ていただければ幸いです


日曜学校のルーテルキッズバンド
こども祝福式でも元気いっぱい讃美してくれました

賛美が終わると
祝福式のプレゼントが手渡されました

記念撮影です
お家の方も
送迎してくださったり
ホルンやキーボードで重要なパートを
担ってくださったり
本当に感謝です



前後しますが
こちらは土曜日に行われた
幼稚園の遊戯室でのこども祝福式です
かつてお子さんをこの幼稚園に送ってくださった
お母さんがたが「リーベクワイヤ」と言うハンドベルチームを
結成、長年奉仕してくださっています

土曜日も記念のカード入り
プレゼントが手渡されました


2024年11月10日日曜日

「レプトン銅貨2枚」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第25主日礼拝(2024年11月10日)(緑)

列王記上 17章8-16節(561) 

ヘブライ人への手紙 9章24-28節(412)

マルコによる福音書 12章38-44節(6)


 献金について、求道者の方から相談を受けることがあります。「相場として、献金というのは、一回の礼拝につきどれくらいで、ひと月にどれくらい捧げるものなのですか」と聞かれることもしばしばです。


 「基本的には、マラキ書にはっきり書かれているように、収入の十分の一です」とお答えすると、「そんなに取るのか」と驚かれてしまいます。大抵は牧師の言っていることが無理難題に思えたり、もっと自由に信じたいと言ってみたり、キリスト教の指導者というのは、お金に執着してはいけないでしょう?と逆に説教をされてしまうこともあります。


 長くその地域に根を下ろしている教会は、その地域の福祉や精神衛生の潤滑剤というような働きや奉仕ができるはずなのですが、教会員になると日曜日が潰れる、という思いや、多額の献金を巻き上げられる、といった誤解のため、働きに加わる方々が少ないのが現状です。安い運営費でなんとか貢献しても、いざ信仰や宗教性を全面に出そうとすると胡散臭く危ない、と敬遠されてしまいがちです。


 しかし、今の日本社会には深い闇があります。社会性を見失った人々が、闇バイトに取り込まれて凶悪犯罪に手を染めたり、自分の価値を見失った人が、無差別な殺傷事件を引き起こし「誰でもいいから殺して自分も死刑になりたかった」などと発言するのを聞くと、怒りや悲しさで言葉を失ってしまいます。


 「人が生きる意味」ということは、本来宗教でしか答えを出すことができないのに、伝統的な宗教を無視したり軽んじたりした結果、悩む人々は怪しげな宗教に囚われてしまい、不幸も闇ももっともっと深いところに落ちていってしまいます。


 色々と暗いお話をしましたが、改めて今日のマルコによる福音書を見て参りましょう。イエス様が、貧しい未亡人の献金する姿をご覧になり、それについてお話をなさったのは、エルサレム神殿の献金コーナーでのことでした。献金箱は投入口がラッパのような形をしており、コインを投入すると派手な音が鳴る仕組みで、金持ちたちの自尊心をくすぐり、競い合って献金しました。


 しかし神ご自身は、心の奥の奥まで見通す眼差しでそこを訪れる人々を見つめておられたことでしょう。その厳しい眼差しは、神の御子であるイエス様も当然お持ちだったのです。神殿に仕える祭司たちや、経済的に成功した金持ちは、ローマ帝国にへつらうことで得た特権や、庶民から巻き上げて作り出した利益、不正や差別の心があることをそっくり見通しておられたのです。


 悲しいことに、彼らの誇りであるこの神殿は、神様のご計画によりこれより数十年後にはローマ帝国によって破壊し尽くされることになっていました。権力者たちがどれほどローマに擦り寄ろうとも、それらの試みは空しく、彼らはやがては消えてなくなる神殿に頼り、歪んだ情熱を注いでいたのです。


 さて、改めてこの未亡人の行動に目を注いでみましょう。普通ならば、金持ちたちがこれ見よがしに献金箱にコインを投げ込み、派手な音を鳴らしている姿を見て、自分がこれから捧げようとしている金額に惨めさを覚えたでしょう。しかし、彼女は、他人がいくら捧げるかなど、どうでも良いことだったようです。


 彼女にとっては、自分と神様の関係の方が最も重要だったのです。はた目には、夫に先立たれた貧しい彼女が、神様に愛され、恵まれているようにはとても見えなかったことでしょう。しかし彼女は神様が自分の為に、どれほど心を砕いてくださるか感じ続けてきたのです。神様は最も親しい友であり、夫亡き後唯一の頼れる存在であり、尊敬してやまない父親でもありました。


 おそらく、ろくな働き口もなかった彼女の捧げられる金額が、レプトン銅貨2枚、今のお金に換算すればおおよそ100円くらいだったとしても、「これっぽち」と自分を卑下したり、捧げても捧げなくても同じ、と引っ込めてしまうのでもなく、自分と神様との関係において捧げる姿勢を貫いたのです。


 一方この時、イエス様は十字架に掛かるためにエルサレムに来ておられ、数日後にその日が迫っていたのです。そのような時に、この女性の全き信頼に基づいた行動を目にしたのです。イエス様の喜びは非常に大きかったことでしょう。


 遡ること3年半前、イエス様が活動を始めた時、サタンはイエス様を堕落させようとしました。神様を利用して飢えから救ってもらえ、神様を利用して死なない体にしてもらえ。そして、神様を捨てて悪魔を拝み、この世の権力の全てを手に入れろ、と誘惑したのです。しかしイエス様はそんな誘惑には乗りませんでした。


 ただ、イエス様は人間の弱さを知りぬいておられましたから、ご自分を信じる人々が、どんな時も完全に神様に委ね、完璧に誘惑を跳ね除けることはできない、とわかっておられました。しかし、だからこそ、どんな小さいことでも良いから、誘惑に晒された時「神様は私がそんな誘惑に乗ることを望んではいない」と心の中で決心してほしい、神様はきっと自分を守ってくださるのだから、と、その信頼から始めていってほしいと願われたのです。そのために、ご自分は神様に信頼して命を捨てるのだ、とお伝えになったのです。


 イエス様は私たちが一人ぼっちで孤独に信仰を貫いていけ、とはおっしゃいません。教会に招かれ、集う場が与えられ、共に信仰を紡いでいくのです。その場所に感謝し、教会を通して、信仰の証、神の国の実現を果たして参りましょう。


幼稚園舎の新築と礼拝堂の改築は順調に進んでいます

…と言いたいところなのですが、折りからの物価高騰で

建築担当の方から不穏な申し出(><)

礼拝堂のリノベーションは当初の予算を大幅に超える見込みとのこと

全国の皆様から募金をいただいて予定金額に達し

一安心したところでこのお話

それはないよ!と泣き出しそうですが

途中で止めるわけにもいきません

完成が御心だと信じて

もう一息、頑張ります


ご近所にある古民家も改修中

工程を公開するとのことで行ってみましたら

この町の昔の写真に混ざって礼拝堂の写真も展示されていました

まさにこの建物をリノベするのです

どうぞ応援してくださいね




2024年11月3日日曜日

「真の神の子達の使命」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒主日礼拝(2024年11月3日)(赤)

ヨハネの黙示録 7章9-17節(460) 

ヨハネの手紙Ⅰ 3章1-3節(433)

マタイによる福音書 5章1-12節(6)


 今の若い方たちは、心のうちに孤独を抱えながらも、教会がそれを癒してくれるところとはあまり考えません。自分を見つめる時間とか、自分が社会にどう役立つ人間になるかということは、学校のカリキュラムの中で一通り学べますし、学校が休みの日曜の朝テレビやYouTubeを見たりゲームをしたりすること1、2時間を費やし、無駄なことをしたとは思わないようです。その1時間半あれば礼拝の最初から最後まで出席できるのですが、そういう発想にはなかなかなってくれないようです。教会のやることは、もうないのかもと思われがちです。


 社会が目まぐるしく変化する中で、教会は時代遅れの組織のようにさえ見られます。社会の変化に何の対応策も講じないままに、「神様が導いてくださる」という祈りを繰り返し繰り返し語り、もちろんそれは真理なのですが、それがいつの間にか形骸化してもどうすることもできない、今の状態が引き起こされたと言っても過言ではありません。今一度私たちは神様から、何をどう期待されているのかを、教会が辿ってきた足跡を通して確認する必要があるのです。


 キリスト教が誕生し定着していく時代、それはとても過酷な時代でした。イスラエルに住むクリスチャン達はローマ帝国の圧政の中、ユダヤ人からもローマ人からも迫害されました。神様の召し出しに従って集まったからといって、経済的に楽になるわけでも高い地位につけるわけでもなく、ただイエス様の教えに従って新しい神の国を作っていくことが神様が喜ばれることであり、苦労はあっても究極的には幸せになれるのだ、そういう強い思いをもった人々が集まってきたのです。


 始まりは、イエス様から直接教えを受けたユダヤ人の弟子達が主なメンバーでした。彼らは先祖から受け継いだ律法の教えに縛られていましたが、イエス様は「律法とは神を愛し、隣人を自分のように愛することに集約できる」と教えられました。その教えを通して神様が自分達をどれほど愛しておられるか、人間同士が手を取り合うことをどれほど望んでおられるかに気づいていきます。


 ただ、イエス様の教えに素直に従える人々は思いのほか少なかったのです。今の生活に満足し変化を好まない人は、批判されているように感じて反発さえ覚えます。それはイエス様の教えを推し進めていけば、自分の立場が危うくなるかも知れないと思ったからです。


 私たちは、聖書の「ある金持ちが『全財産を捧げて私に従いなさい』とイエス様に誘われ、悲しみながら立ち去った」というエピソードを知っています。神の国を作っていくという大事な使命を与えられても、自分に損害があると思えた時、受け入れることができず、極端な場合は迫害する側に回るのです。この迫害を承知の上で、黙々と教えに従うこと、それがキリスト教会に集まる者の宿命なのです。


 本日読みましたヨハネの手紙第一の3章は「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで…」と書き出されています。2節以降には、わたしたちはいずれキリストに似たものになれるとも記されています。


 私たちが自分の思い込みでジタバタし、見当外れな努力をして苦しむのではなく、神様はどんな時でも私達を見守ってくださり、私達が何者であっても、真の神の子である、と宣言されています。そして神の子である以上、イエス様と同じように、この世でなすべき使命が与えられているのです。


 正真正銘神の子であるイエス様は地上に来られた時、弱々しい赤ん坊としてお生まれになりました。ですから、私たちが神の子である、と言っても、天使のような羽が生えるわけでもなければ、超能力が使えるわけでもありません。ただ、神様の御言葉が心に迫ってきて、難しいと思い込んでいた聖書が、まるで父親からの大切な手紙を読むように、理解できるようになってくるのです。


 マタイによる福音書5章の「山上の垂訓」には「こころの貧しき者たちは幸いである」とあります。何度も何度も聞いたことのある言葉ですが、この言葉を旧約聖書の約束の言葉と照らし合わせると、イザヤ書57章15節と対応していることがわかります。イザヤ書には「わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊と人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」とあります。


 山上の垂訓で「心が貧しい」という表現が使われているのは、金銭的な裕福さとの対比ではなく、貧しいゆえに、私たちは誰かを頼らなければならないこと、霊的なことにおいても精神的なことにおいても、決して一人では、満たされない、そこを神様が満たしてくださることを信じるのです。


 キリストを知り、キリストなしに生きることのできない者は、この世で貧乏籤を引いて本当に貧しくなることもあるかもしれませんが、この世の命を終えた後キリストのおられる天国に永遠に住むことができるのです。それを信じ抜くことこそが、最も強い宣教の力となるのです。


 今の時代にあって私たちは様々な情報に翻弄され、信仰がぐらつきます。私たちは「心の貧しき者」であり、共に信仰を紡いできた兄弟姉妹なしに力強く生きることは難しいことを知っておきましょう。それは決して恥ずかしいことではなく、そのように生きなさい、と神様がる仲間のもとに招いてくださったのです。


 主に選ばれた、真の神の子の使命、私たちの使命は、神こそが自分達の欠けを満たしてくださると確信し、愚直に神様から与えられた使命に忠実に宣教に励んで参りましょう。


教会と幼稚園の共通の掲示板は正門の横にありますが

今は工事中でそこからは工事の方以外出入りしないので

掲示板の中をじっくり見てくださる方は

あまりいないかもしれません


でも説教題と教会学校のお知らせ

それに朝比奈牧師のレゴは

更新を続けています


11月はラーメン屋さんです

2枚目の写真は10月の作品で

羊の毛刈りをするおじさんでした





2024年10月27日日曜日

「悔い改めと恵み」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・宗教改革記念礼拝(2024年10月27日)(赤)

ヨハネの黙示録 14章6-7節(468) 

ローマの信徒への手紙 3章19-28節(277)

ヨハネによる福音書 8章31-36節(182)


 キリスト教は歴史の中で一般人には理解できないような神秘的な方向に向かった時もありますが、元々は人々の不安に寄り添い、どのような人にもわかりやすくなるよう語り、やがて聖書が生まれてきました。


 しかし、次第にこういう場合にはこう答えるべき、というパターンが生み出されます。定型的な答えから脱線することは神様の御心ではない、と指導され、正解だけを教え込まれます。信徒達は聖書を読まなくても答えを知っていることになります。この繰り返しによってキリスト教を信じる人々から自分で考えることを奪い取り、思考停止に追い込んでいくのです。


 子ども達への教育も、まるで誘導尋問のように「神様は守ってくださいます」「神様は許してくださいます」「神様は全てを知っておられます」と教え、本来真理であるこれらのことが、本心から信じないまま、教え込まれたことだけを語らせ、薄っぺらな信仰者を生み出してしまい、自分も周りの人も次第に信仰が薄くなり、イエス様に倣って生きる本当の意味など、全くわからなくなってしまったのです。


 さて、本日読みました聖書の箇所は、宗教改革記念を覚えて選ばれています。「真理はあなたがたを自由にする」という御言葉から、「真理とは何か」という説教が良く語られるところです。


 聖書が教える「真理」とは「イエス・キリストを信じることこそが唯一の救いであり、他のことでは誰も救われることはない」という意味です。クリスチャンはそれを信じて洗礼を受け、信仰生活をしているはずなのですが、それを信じない人々や拒否する人々に囲まれて生活する時、心がぐらつくことが多くあると思います。


 本日の福音書は「イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人に言われた。」と書き出しています。ここに登場するユダヤ人達は、イエス様の他の弟子達のように、その御教えと言葉に救いがあると信じたようでした。その様子を見ると、イエス様に対する信仰が確立したかのように思えました。が、彼らには大きな問題があったのです。それは、イエス様の弟子達とは決定的に違う問題でした。


 このユダヤ人達は、イエス様を信じると言いつつ、もう一つの信仰、つまり先祖から受け継いできたユダヤ教という信仰を手放そうとはしなかったのです。神様はご自身は従来のユダヤ教ではもはや人は救えない、と思われたからこそ、前もって約束しておいた神の御子・イエス様を地上に送られたのですが、このユダヤ人たちは神様の預言を素直に受け入れることができませんでした。


 イエス様を信じてはいるけれど、今まで信仰の対象としてきたものも信じ続けて何が悪い?と言う態度です。彼らはそれを全く無意識の内に行っていたので、イエス様の指摘がなければ、自分の矛盾に気づかなかったです。おもいっきり俗な言葉で言えば、彼らは神様に対して無意識に二股をかけていた、ということになるかも知れません。


 そんな彼らにイエス様は「真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃいました。大切なポイントですが、何が真理であるかを知ることによって、自分自身がどう生きるべきかが見えてきます。今何が自分を縛りつけていて、本来こうありたいという自分になれないのか、きちんと知ることで、他の人が解放されていく手助けをすることができます。


 イエス様は、「私こそあなた方を救い、あなた方を自由にするためにこの世に生まれた、神の子イエス・キリストである。あなた方はそれを信じなさい」と呼びかけられたのです。


 しかし、ユダヤ人達はこのお言葉に逆らいました。「わたしたちが今、生きているのは先祖のおかげであり、神様に選ばれ愛されたアブラハムの子孫なのですから、あえてあなたから自由にしていただく必要はごさいません」と答えたのです。


 今の自分があるのは、ご先祖様がいたから、という考え方は日本人も含め、どの民族にもあります。もちろん先祖を敬うことは大切ですが、神格化して、ご先祖は神様と対等、あるいは神様よりも偉い、と感じているとしたら、神様が尊いご計画を持ってイエス様を地上に送られたことを否定したことになります。イエス様こそ唯一の救い、と口では言いながら、心の中ではすり替えが起きているのです。


 信仰というものは、誰かに問われたとき「これは先祖の教えだから大事にしているのです」と言えば反論されることも少なく、説明も楽かも知れません。しかし、そこには自分の頭と心で自分が何を、もっと言い換えればどなたを信仰しているのかを信仰を見失う危険があり、悪魔の策略ともいうべきものがあることを聖書は示しているのです。


 私たちは自分の生涯をかけてイエス様を信じきるほど強い心をもっていないかも知れません。しかしイエス様は私たちの弱さを知った上で、31節にあるように「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子なのである」とおっしゃいます。イエス様の言葉、聖書に刻まれた御言葉に「とどまる」努力をすることを、イエス様はご自分を信じる人々に求められたのです。


 この「留まる」という言葉は、ヨハネによる福音書で40回使われており、重要な意味が込められています。この世においてキリストの言葉を守っていくことがどれほど大変であるかをご存知の上で、イエスという神の子と人格的なふれあい続けることを望まれたのです。キリスト者としてその教えを守る努力をしても、うまく守れなかったら、素直にごめんなさいと涙してお詫びしてやり直す、そのような、愛のある会話をイエス様は求めてられるのです。

11月の土曜学校は上記のように幼稚園の遊戯室で行われます
場所の都合上、どちらかという幼稚園の行事となります
日曜日にバンド練習を行なっているお友達は
17日にそのまま主日礼拝に出席して賛美してもらい
一緒に祝福に預かる予定です