2025年12月14日日曜日

「わたしたちがみつめるもの」(日曜日のお話の要約)

待降節第三主日礼拝(2025年12月14日(日)(紫))

イザヤ書35章1―10節(旧)

ヤコブの手紙5章7―10節(新)

マタイによる福音書 11章2―11節(新)


 本日の福音書も先週に続いて洗礼者ヨハネにまつわるエピソードです。それも洗礼者ヨハネが、イエス様に対して疑いの思いを抱く、という内容です。


 ヨハネはヨルダン川でイエス様に洗礼を授けるという大役を担いました。ヨハネはイエス様と出会う前から、自分とは比べ物にならない尊い方が来られると信じ、出会った時、イエス様こそその方だと確信しました。「見よ、神の子羊」とか「わたしより優れた方」という言葉はそれを表し、「この方こそ救い主だ」と証ししたはずです。ところがしばらく経つうちに、洗礼者ヨハネでさえ、その確信がぐらついているという描写なのです。


 ルカ福音書には洗礼者ヨハネとイエス様は親戚関係で、それぞれが母親の胎内にいる時にその存在を知り、認め合う仲であったと記されています。聖書にはそれ以上のエピソードは書かれていませんが、もしかしたら年の近い親戚同士、一緒に遊ぶ機会もあったかもしれません。


 しかし、洗礼者ヨハネは今頃になってイエス様のことを疑い、「この方は本当に、聖書に約束されたあの救い主なのだろうか」と疑い始めたのです。


 なぜ迷いが生じたのかといえば、洗礼者ヨハネの置かれている状況が大きく変わってしまったからでしょう。ヨハネはこの時牢獄に繋がれていたのです。


 ヨハネは天の国が近づいたことを知らせ、多くの人々を悔い改めに導き、信頼を得て、立場役割に関係なく洗礼を授けました。さらには自らの信念と律法に基づいて、イスラエルの領主の一人であるヘロデの倫理的な間違いを指摘しました。これは、領主ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻だったヘロディアを奪い、妻にしたことで、大きなスキャンダルでした。相手が相手なので、表立って批判する人はいなかったようですが、洗礼者ヨハネは少しも恐れず糾弾したのです。


 しかし、それで世界が劇的に変化したかといえば、そうではありませんでした。ヨハネは当のヘロデによって捉えられ、牢に繋がれてしまったのです。ヘロデはヨハネが民衆に人気があるのを知っていましたし、ヨハネの教えに惹かれていましたので、すぐに処刑しようとは思いませんでした。しかし結局なり行きまかせの他人任せで、ヘロデアの策略によって、洗礼者ヨハネは斬首されることになります。


 本日の福音書の「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」という記述は、そういう状況を表しているのです。


 洗礼者ヨハネから見れば、救い主キリストがやってきたはずなのに世の中は一向に良くなる気配がないのはなぜなのだ、という焦りがあったでしょう。神の子であるはずのイエス様は、社会的弱者や罪人と呼ばれるような社会の底辺にいるような人々にばかり手を差し伸べ、大胆な世直しをする気配はありません。イエス様の容姿もぱっと目を引くような姿ではなく、その辺を歩いている普通のユダヤ人と区別もつきません。ヨハネから見れば、神の子ならば威厳を持って人々を一気に回心に導き、この世界を神の国に作り変えてほしい、そして自分もそんな活動に参加したい、そう思っていたことでしょう。


 洗礼者ヨハネは薄暗い牢屋の中で、神様のご計画に思いを巡らしながら、必死にイエス様こそ本当に救い主、神の子なのだと信じようとしたことでしょう。しかしヨハネの弟子たちのは心はもっと弱かったのです。彼らは自分の先生の方がストイックで堂々としていて、権力者と渡り合う威厳もあり、救い主と呼ぶにふさわしく見えたと思われます。


 ヨハネの弟子たちはイエス様のなさった奇跡や、語られるお話を耳にして、高く評価はしていました。しかしイエス様本人の口から救い主だと言ってもらわないと安心できかったのです。


 イエス様は捕らえられたヨハネやその弟子を哀れに思われたのでしょうか。すでにあなた方は救いの業を見ているではないか。どんな目的で私の口から「わたしは救い主だ」という言葉を聞こうとするのか、それは信仰ではない、と諭しました。見た目や言葉に左右されず、信じる心を強く持つように、と教えられたのです。


 民衆はそう言ったやりとりを見て、いったんはイエス様こそ救い主だと納得したようでした。けれどもそれは移ろいやすい思い込みで、信仰ではなかったのです。イエス様にとって信仰とは、自分が思っていたこととは違うことが起きても、また、予想もしない展開が起きたとしても、神様の御心と受け止めて信じていく、歯を食いしばってでも信じぬいていく、そこに意味があるとお教えになったのです。


 さて、12月も半ばとなり、来週はいよいよクリスマス礼拝、クリスマス・イブ礼拝が行われます。この場所で久しぶりにお祝いすることができて、本当に嬉しく思います。とはいえ、世の中はどんどん景気が悪くなり、思い描いていた幼稚園の安泰運営は少し遠いものになってしまいました。やはり今後もみなさんの祈りや支えなくしては立ち行かないのが現状です。ただ、全国あちらこちらに住まわれるルーテル教会員の方々が飯田ルーテル幼稚園に関心を寄せてくださり、後援会を発足する計画が与えらえれました。これも用意された恵みのようです。


 クリスマスの日、ベツレヘムに着いたヨセフとマリアは泊まる場所がありませんでした。あまり詳しいことは記されていませんが、イエス様は無事に誕生し、飼い葉おけに寝かされ、礼拝に来た羊飼いたちに見守られながら、最初の聖なる夜を過ごされました。


 私たちはこの方を救い主と信じて、信じぬいて人生を歩むものです。クリスマスの恵みもイエス様の誕生の意味も興味を持てない、分からない、という方々に囲まれていますから、苦難の多い人生かもしれません。しかしその先に、神様が用意してくださった場を見つけることができるのです。


 わたしたちは信仰でしか見ることのできないものを見つめながら、その経過には喜びばかりではありませんが、共に信じ、共に歩んで参りましょう。


昨日は土曜学校でした

13名のお友達と5名の大人たち

礼拝、工作、ゲーム、ガラポンと盛りだくさんの内容で

楽しく過ごしました

来年も元気で集まれますように

そしてクリスマスの礼拝も都合がつけば来てくださいね




クリスマス礼拝にどうぞおいでください
クリスマスの限らず、日曜ごとの礼拝でも
お越しをお待ちしています

2025年12月7日日曜日

「洗礼者ヨハネの思い」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・待降節第二主日礼拝 2025年12月7(日)(紫)

イザヤ書11章1―10節(旧1078)

ローマの信徒への手紙15章4―13節(新320)

マタイによる福音書 3章1―12節(新3)


 先週、12月1日月曜日に、礼拝堂で幼稚園の合同礼拝を行いました。園児たちがこの場所で礼拝を守ったのは、この場所のリノベーションが終わってから初めてのことです。これからはおおよそ毎週、この場所で合同礼拝を行います。


 幼稚園と教会、そしてピアノ教室に集まる皆さんとも気持ちよく空間を共有していくために、お互いに配慮し合いながら大切に使っていけることを願っています。


 さて、今更ですが、クリスマスは元々ギリシャ語で「クリス」と「マス」の合わさった言葉です。クリスが救い主、マスが集まる・礼拝する。つまり「クリスマス」とは救い主イエス・キリストの元に集まるという意味です。


 幼稚園の合同礼拝では、「集まる」ことの大切さを少しでも伝えたくてお話をしてみました。


 みんなは病気になった時、どこに行くかな?「病院」だね。病院に行ったら誰に見てもらうかな?「お医者さん」だね。そんなやりとりの後、「悪いことをしてしまったり、悪いことが起こってしまったら、どうなるかな?」と訊ねると、「地獄に落ちる」「地獄になる」といった分かりやすい答えが返ってきました。


 日本で育った私たちは仏教徒でなくても「因果応報」という考え方が染み付いています。自分がやった悪いことの報いは必ず帰ってくる、どこかで思っているのです。ですから、何か悪いことが起きると過去の何がいけなかったのかとくよくよしますし、死期が近づくと「地獄に落ちたくない」と苦しむことが多いのです。


 けれども、神の子イエス様は、地獄のような苦しみの中に生きる人や地獄への恐怖に囚われている人々を救うという特別な使命を与えられこの世に来られました。そのためにイエス様は苦難の道、十字架の道を歩まれたのです。


 幼稚園の子どもたちがよく歌う讃美歌に「海と空作られた主は」という曲があります。「海と空作られた主は、あなたの主、わたしの神、罪を赦し、救いたもう、みんなの主、イエスは主、ハレルヤ、みんなの主」


 以前手話の先生から教わったことは、一般的な救いというのは「藁にもすがる」というイメージで表現するが、キリスト教の救いは、もがき苦しむものを神が全身全霊をかけて底辺から掬い上げると表す、ということでした。


 神様は、地獄に行くしかない、と私たちが思っていても、助けてくださる方なんだよ、と、子どもたちの心に染み込むまでお話を続けたいと思うのです。


 世の中には正しく生きる術を知らず、悪い方向へ、悪い方向へと進んだ人達がいます。人を苦しめ、傷つけて楽しんだり、自分が利益を得るためならどんな酷いことでもする「極悪人」としかいえない人々もいます。しかし神様はそのような人々を地獄に落として「はい終わり」ではなく、なんとかして救うことを願われます。


 神様は、そういった人々はそもそもご自分の元から離れてしまったことが原因なのだ、と受け止めておられます。ですからなんとかして連れ戻し、救いあたいという思いが旧約聖書に記されており、そのお言葉を実現するために、救い主イエス様がこの地上にお生まれになったのです。


 本日の福音書にはイエス様の登場に先駆けて、洗礼者ヨハネという人物が登場します。福音書を書いたヨハネと区別するために「洗礼者」あるいは「バプテスマの」と付けて呼ばれています。彼は荒野に住まい、野蜜を食い、毛皮の毛衣を着て、「神の国が近づいた、悔い改めなさい」と宣教しました。


 すると彼の呼びかけに応え、多くの方々がヨルダン川に集まりました。人々は神の国に行くためには、自分の犯した罪や悪を悔い改めることが必要だと納得し、導かれるままに洗礼を受けました。民衆は洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書に記され、約束されていた「救い主・キリスト」なのかと期待しますが、ヨハネは「わたしより優れた方が後から来られる」というばかりです。


 と言いますのも、ヨハネ自身も、多くの人を悔い改めに導くことはできましたが、中には「自分は救いに値しない」とそっぽを向く人々や、「自分は悔い改めるような罪は犯していない」と思い込んでいる傲慢な人々もおり、それに対しては打つ手立てはありませんでした。彼はただ、天国に望みをおく人に洗礼を授け続けることしかできませんでした。


 私たちは、洗礼者ヨハネのジレンマがよくわかるのではないでしょうか。家族や友人に神様の愛や天国を伝えたい、けれども、なかなかうまくいかない。さまざまな行事の時には教会に集まってくるけれどなかなか信仰と結びつかない人に、どうやってあなたは神様に愛されているんだよ、と伝えたら良いのかわからない。


 今の時代、キリスト教さえあやしげな宗教のように思われ、気軽に礼拝に誘うことも難しいですし、生成AIを用いればさまざまな牧師や学者のメッセージを合わせたような文章も読むことができ、教会に来る必要を感じないかもしれません。


 さらに厄介なのはSNSを使って、あそこの教会は愛がないとか、神がいないとか、有る事無い事書かれることです。これを読んだ人が本気にして次々拡散することさえあります。なんという大変な時代なのだろう、と思います。それでも、私たちは救われた者として、神様の御心を示す役割を与えられている。めまいがしそうな時もあるますが、やるしかありません。


 この季節、普段は礼拝に来ることのない人が教会を訪れやすいタイミングです。先に、「キリストの元に集まる」のがクリスマスだ、とお話ししました。そのようなことは全く知らず、ただ雰囲気を求めて集まるのであっても、私たちは受け止めていく必要があります。


 多くの人はこの場所でしか具体的にイエス様を通しての神の心を知ることができないのです。だからこそどんな時も「メリークリスマス」とにこやかに、イエス様の思いを伝えるために、訪れる人々を迎え入れてまいりましょう。



13日は土曜学校です
クリスマスの学びとクラフトを楽しみましょう
どうぞお集まりください(^▽^)



リノベーションした教会玄関は
少しスペースに余裕があるので
今まで聖壇の上にあって
少し窮屈だったクリスマスツリーを
玄関に移してみました
ルターの紋章のステンドグラスとともに

2025年11月30日日曜日

「主は来ませり」(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝(2025年11月30日)(紫)

イザヤ書2章1―5節(旧)

ローマの信徒への手紙13章11―14節(新)

マタイによる福音書 24章36―44節(新)


毎週一回、幼稚園で子ども達と一緒に合同礼拝をおこない、讃美歌を歌ったり園長先生と交代でお話をしたりしています。今回は「ライオンもなかよし」という紙芝居の読み聞かせをしました。


 信仰深い大臣のダニエルが、政敵の罠に嵌められ、空腹なライオンの穴に入れてしまいます。しかしダニエルは神様に守っていただいたので怪我ひとつせず、再び元の地位に戻る、というお話です。


 この物語の舞台は今から3000年近く前に実際に栄えたバビロニア帝国です。主人公のダニエルはユダヤ人で、バビロニアとの戦争で祖国を滅ぼされ、捕虜とされながらも神様への信仰を捨てず、地位を築いていった人物です。


 子どもたちに紙芝居を読む前に少しだけ質問をしました。「なくなるもの」ってなあに?すると年長のある園児が「おじいちゃん」と答えました。「なくなってどうなったの」と聞きますと「死んだ」と答えました。幼い子どもでも「なくなる」は「死ぬ」と同じ意味だと知っていたようです。


 ともあれ、子どもたちはすんなり物語の中に入り込んで、素直な合いの手を入れ始めました。「それはバビロンの王様が悪い」とか「大丈夫だよ、ダニエルは神様が守っているんだから」とか「ダニエルがいるから、この国は安心だね」という大人顔負けの感想を聞きながら読み進めました。


 読み終わった後「クリスマス劇に出てくる東の国の博士さんたちはバビロンの国のあたりからやってきたんだよ」と伝えると、劇で博士の役を演じる予定の園児が、歌詞をかみしめるように歌ってくれ、それが祈りの言葉にもなりました。


 私たちはこの世の中に大切なものがたくさんあります。多くの人にとって最も失いたくないものは自分の命でしょう。もちろん例外はあって、自分の命よりも大切なものをお持ちの方もおられるかもしれませんが、それでも自分の命に限りがあることをリアルに知る時、私たちは苦しみ絶望するでしょう。死んだら何もかも終わりだ、あるいは恐ろしい地獄が待っている、そんな思いが死を前にした人間をなおさら苦しめるのです。


 しかし、人間がそのように絶望することこそ、人間をお作りになった神様にとって最大の哀しみなのです。ですから神様はどのような方法を用いても人間を死の苦しみから救わなければならない、と考えておられるのです。限られた時間を大切に生きた後は、すべてを神様にゆだねる信仰さえあれば天の国に導かれることを信じて、一人子イエス様から差し出された御手を取ることを望んでおられるのです。


 ところで、先ほどマタイ福音書をご一緒に読みました。クリスマスの準備に入る待降節第一の礼拝は、例年イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城される箇所を開き、イエス様が民衆にホサナホサナと迎えられる様子を読んできました。


 この時イスラエルの人々はイエス様を王様として迎えます。しかし1週間も経たないうちに人々は権力者に扇動されるままに「十字架につけろ」と叫び出します。そうしてイエス様はこの世界の反乱者として捕えられ、十字架に付けられて殺されてしまいます。イエス様を心底尊敬していたはずの弟子たちでさえ、自分とイエス様とは無関係だと言い張って、見限るかのように逃げてしまいます。


 栄光から挫折へ、十字架のイエス様はこの世の全ての絶望を一身に背負っているかのように見えます。しかし、これは神様のご計画でした。


 神様はあえてご自分の一人子であるイエス様を人として生まれさせ、苦難の全てを負わせますがイエス様はどんな時も神様を信頼し、十字架の死さえも耐え忍ばれました。そして神様はイエス様を三日目に復活させられます。この出来事は、2000年前のイスラエルのエルサレムで本当に起こった出来事なのです。


 この出来事を通し、神様は死は決して全ての終わりではないことを示されたのです。神様の国は地上のどんなことにも侵略されることのない、変わらずに、永遠に在り続ける場所なのです。


 本日の福音書には「二人のうち一人は連れていかれ、一人は残される」という謎めいた言葉が記されています。これはイエス様の救いの言葉を聞いても、それを信じて天の国に招かれる人と、拒否する人に分かれる、という意味です。


 確率が二分の一、という意味ではありません。一緒に寝ている家族であっても、仲良く仕事をする間柄であっても、どちらの人がイエス様を信じて天国に招かれ、どちらの人が一生イエス様を拒否し続けて天国に行きそびれるかは、人間にはわからない、という意味なのです。ただイエス様は「信じる人は幸いだ」と語られ、ご自分と出会った時にその手をとってほしいと強く願われます。そして聖書にはその御言葉が記されているのです。


 世界の終わり。昔は観念的に捉えていました。ところが今、どこかの国が核兵器を用いてが始まれば、わたしたちの命はあっという間に消し飛んでしまいます。平凡な日常も、ささやかな幸せも、夢や幻のように消えてしまうのです。それはおとぎ話や仮定の話ではなく、今わたしたちの目の前に迫っている危機なのです。


 かつては世界の先進的な国々はイエス様の教えを信じることで、愛や良識、平和への願いを育みました。しかし今、欧米諸国のクリスチャンの多くは権力や金銭による支配に心を奪われ、かつてのような「平和を作り出す人々」とは程遠い、形式的なキリスト教になっています。


 イエス・キリストはご自分が極限まで苦しんでもなお、私たちとこの世界を愛してくださいました。間も無くクリスマスがやってきます。ここから始まるキリストの平和が、実現していきますように、また、みなさんに与えられた信仰が深く、豊かになりますように。今まさに来られる主イエスを迎え入れ、この場所にも天国のと変わらない愛が満ちる場所となりますように祈り、支え合ってまいりましょう。



今日から待降節(アドベント)

聖家族像を飾ります

小さくて素朴なファーストクリスマスの情景

同じ像ですが昨年までと今年の違いわかりますか?

上が今年、下が昨年です



はい、ヨセフさんの杖です
ずっと手ぶらで気になっていたので(^^)
ワイヤーを捻って杖を作って
持ってもらいました


リーベクワイヤさんのハンドベルで
アドベント気分が盛り上がります

2025年11月23日日曜日

「我らの救い」(日曜日のお話の要約)

永遠の王キリスト・聖霊降臨後最終主日礼拝(2025年11月23日)緑

エレミヤ書23章1―6節(旧1218)

コロサイの信徒への手紙1章11―20節(新368)

ルカによる福音書 23章33―43節(新158)


 私たちはこの1年間、ルカ福音書から学び、御言葉を分かち合ってきました。著者ルカはイエス・キリストという神の御子の姿を、当時の人々にとっては当たり前だった人種や貧富の違いによる偏見を軽々と超えていく救い主としてリアルに描きました。そして、この世の全ての人々は過ちや罪を犯すけれど、イエス・キリストによって救われる価値があるのだと、宣教のメッセージを記し、私たちの心を導いていくのです。


 ニュースを見ても新聞を見ても明るい話題には乏しく、未来への不安を抱えながらも、社会がどのような状態となっても福音を信じ福音を伝えていく使命を神様からいただいています。だからこそ私たちはイエス・キリストが死に向かう物語を共に読み、受け止めていくのです。


 イエス様の十字架の出来事は福音書の最もたいせつな記述で、4つ全ての福音書に記されており、イエス様が十字架に付くまでの間に様々な人々が登場し、さまざまな人間模様も描かれています。


 私たちはゲツセマネでイエス様を捕らえに来たのは兵士たちだったと漠然と思っていますが、実は兵士という言葉はヨハネ福音書に記されているだけで、それ以外の福音書は祭司長や律法学者に煽動された群衆がイエス様を捕らえにきた、と書かれています。


 この人々は権力者から「イエスを捕らえることが正義だ」と煽られたのでしょうか。ホサナホサナと迎えた人々と同一かどうかはわかりませんが、凄まじい手のひら返しと言えるでしょう。


 そして、そんな群衆に翻弄されたのがユダヤの総督ポンティオ・ピラトです。彼はイエス様を死刑にしないで釈放しようとしますが「十字架につけろ」という群衆の声に押し負けて死刑判決を下してしまいます。自分が信じた正義を貫けなかった結果、ピラトの名前はイエス様に苦しみを与えた悪名高い人物として、使徒信条に刻まれてしまいました。


 これらの計画を実行に移した祭司長たちは、何も悪役として君臨しようとしたわけではなく、政治的な駆け引きでイスラエルを守ろうとした結果、ローマとの争いの火種になりそうなイエス様を排除したのです。


 イエス様を十字架に押し上げた人々は、それぞれが個人的に、あるいは社会的に「平和」を願い、守ろうとしたのかもしれません。しかし選んだ方法は最悪でした。それでもイエス様はご自分の命を奪おうとする人々の、自己保身や身勝手さという心の醜さや思いの貧しさを全てご存じで受け入れ、赦そうとされたのです。ゲツセマネの園で弟子達が眠ってしまった後も、血が滴るように汗が流れる中で、十字架に掛かることを決断されたのです。


 人々の心の醜さに触れ続けたイエス様にとって、十字架の上で聞いた犯罪人の言葉「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という信仰告白は、どれほど大きな慰めになったでしょう。


 この人物は十字架につけられるほどの重い罪を犯した犯罪人です。社会からは救いようのない人物と判断され、捨てられたのです。しかし彼は最後の瞬間にイエス様を神の子と信じ、天国への希望に縋ろうとしました。そしてイエス様は人生で最も苦しく辛い瞬間に、ご自分の行動が決して無駄ではなかったことを改めて確信されたのです。残酷な場面ではありますが、絶望の中で光り輝く瞬間のようです。


 神のひとり子イエスが、貧しさの中で人として生まれ育ち、王として私の罪を背負い十字架にかかって下さったことを宣べ伝えていく、それがキリスト教です。


 私たちの人生は、自分を愛し、受け入れててくれる人と出会うことで大きく変わります。昨日までとは比べものにならない悦びに満ちた日々がやってくるのです。残念ながら人の愛は変わりやすく気まぐれなところもありますが、イエス様と父なる神様の愛は、一度思いを交わしたならば決して変わることはありません。


 そして、私たちの人生は、積み重ねてきた過ちや失敗や性格上の欠点から解放される時、大きく変わります。キリストの十字架は、私たちの罪を完全に償い、ゆるし、私たちの生活を一変させるのです。過去について言い訳をしたり、自分の性格について悩みながら虚勢を張って生きなくても良いのです。罪人のまま私たちを主は受け入れ、ゆるし、愛してくださるのです。


 さて、最後に一つお話ししておきたいのが、23章34節の「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という部分です。ここは大きなかっこでくくられているのにお気づきになったでしょうか。ここはルカ以外の人が、かなり早い段階で付け加えた大切な一文である、ということがわかります。


 実はこれは重要な意味を持ちます。ルカが福音書を記したと思われる前後に、イスラエルはローマとの戦争に敗れ、神殿は跡形もなく破壊され、ユダヤの人々は祖国を失います。しかしそれでも神は赦す、と言われるのです。ローマの人々は自分が何をしているのか知らないままに神を冒涜し、信仰を蹂躙しました。それでも神は赦すと言われている、とこの一文は表しています。これほどの悲劇を経験しもなお、強い愛のメッセージが込められているのです。


 イエス様は、ユダヤ人だけでなく、全ての人が経験するであろう、貧しさや心無い仕打ちなどなど、全ての苦しみから救うために、十字架にかかられたからです。


 現代に生きる私たちもイエス様の思いを知り、十字架の思いを受け取り、神の国に迎え入れられたものなのです。イエス様こそ「我らの救い主」と信じているからこそ、貧しさや弱さを持つ人を神の国へといざなうために、愛し、赦すことを、主イエスに学び、与えられた使命として行い、イエス様のお誕生を喜び、心を神様に向けて、新たな教会の暦を歩んで参りましょう。



一週間遅れとなりましたが、こども祝福式と

土曜学校の写真をUPいたします


今年の祝福式はキッズバンドも含めて17名の子どもたちが参加してくれました

昨今は色々と差し支えがありますので

許可の取れたお子さんの写真だけですが(^^;)


前後しますが日曜日の写真から


キッズバンドの一人、Mさん
みんな壇上に上がって祝福を受けましたが
このようにちょっと大きいお子さんは
聖書に手を置いて牧師の祝福を受けました

こんな感じで「祝福の順番待ち」です(^^)


このページではお馴染み
ルーテルキッズバンドの賛美です



そして土曜学校の写真を少しだけ
素敵な作品を、よく見えるように
カメラにむけてくれたUさんとNさん


次の土曜学校は12月13日です
みんな来てね(^^)