聖霊降臨後第14主日礼拝(2025年9月14日)(緑)
出エジプト32章7―14節(旧147)
Ⅰテモテ1章12―17節(新384)
ルカによる福音書 15章1―10節(新138)
どんな方にも生き方の支柱となるものがあると思います。クリスチャンの少ないこの国で生きるのは大変なことも多いのですが、それを乗り越えて信仰生活をする上で最も大切なのは「神のために」という考え方、生き方であります。私たちの毎日は神の為にあり、神が与えてくださった恵みを有効に使い、神様が与えてくださった平和の為に生きていくのです。
ところが「神のために」という思いは、一つ間違えると大きなトラブルを引き起こします。キリスト教の母体であるユダヤ教は古代イスラエルの民族宗教、国の中心でした。彼らは聖書に記された「神のために」という言葉を全てのことの基準としました。
ただ、政治のトップというものは悪意のあるなしに関わらず、民衆の真剣な信仰を自分の政治活動のために利用します。しかしそれでは間違った方向に行きやすいので、神様ご自身が預言者を遣わし、神の言葉を伝え、軌道修正しようとなさるのですが、政治や陰謀に長けた人々は巧みに預言者を排除します。その結果国全体が壊滅的な方向へ進む、ということがイスラエルの歴史で繰り返されました。
そしてイエス様の時代、イスラエルはローマとの戦争に敗れ、ローマ帝国の属国となっていました。ですから「ローマ皇帝のために」とか「ローマのために」と、いわば「お国のために」という忠誠心を持つ必要がありました。
しかしユダヤの民は先祖から「神のために」生きるという信仰を受け継いでいました。主なる神よりローマ皇帝の方が偉いなどとは、考えたこともなかったのです。属国として重い税金を払わされ、皇帝崇拝を強制されればされるだけ、民衆は必死で神様に、そして神様が与えてくださった律法に頼りました。
そのような状況の中、律法の教師たちは民衆の不満を政治から逸らすためにも、律法に記されている掟をより一層厳しく解釈し、結果的に社会の嫌われ者、「罪人」を作り出して行きます。
ユダヤ人の政治指導者や宗教指導者は、ローマの手先になって税金を取りたてる徴税人を「罪人」とし、「遊女」にしても、「病人」にしても、「障害をもっている人」にも、律法を拡大解釈して全てを神に見捨てられた罪人と定めたのです。
しかし神様は人間の自分本位なやり方をよくご存知でしたから、ご自分の一人子イエス様を地上に遣わされました。そしてイエス様は神様が本心から人間に何を望んでおられるかを教えられるために、時には奇跡を行い、時には罪人に手を差し伸べ、民衆にもわかりやすいお話をして導こうとされたのです。
イエス様は、集まる人々によって語り口を変えながらお話をなさいました。この日は社会から罪人のレッテルを貼られている人々もお話を聞こうと集まってきましたが、それを律法の教師たちが見咎め、不平を言い出します。そこでイエス様はたとえ話を用いてわかりやすく御心を教えてくださいました。
印象深く誰の心にも残るのは「迷える羊」の話でしょう。そして続いて同じテーマでドラクメ銀貨10枚の内、一枚を無くした女性のお話をなさいました。羊の話の影に比べて礼拝説教で取り上げられることは少ないですが、羊と銀貨を同列に喩えられたところにイエス様の深い思いが隠されています。
1ドラクメは、当時の労働者の1日分の賃金に相当しましたから、彼女が銀貨を必死で探すのは当然ですが、実はこの銀貨とは婚約式の指輪相当するようなものではなかったか、という説があります。
婚約者から10枚のドラクメ銀貨をもらうと、女性はネックレスなどに加工して、大切に管理します。仮に女性の家の全財産が差し押さえられても、10枚の銀貨は彼女から取り上げられることはないほど、社会的にも特別なものだったようです。ただし10枚でワンセット、揃っていてこそ価値があります。それなのに、10枚うちの1枚を無くしてしまったのですから、彼女は死に物狂いで探し続け、長い時間を費やしてようやく見つけ出した時、喜びのあまり友達を招き、一緒に喜んでください、と宴会まで開いたのです。
ここで考えますのは、もし迷子の羊なら助けを求めて鳴き声を上げたかもしれません。しかし銀貨はただ持ち主が落とした場所でじっとしているだけです。自分が持ち主の元を離れてしまったことへの不安も悲しみも感じません。家のどこか片隅に転がって、埃にまみれ、価値を失っていくことを残念とも思いません。
イエス様は、救いを求めて泣くこともなく、救いなどというものがあることすら知らないその一枚が、私たちにより近いとお考えになっていたのでしょう。「神から離れてしまった、私は罪人だ」そんな自覚のないまま生きている一人一人を探し出すために、イエス様はこの地上に来られ、神様が探しておられることを伝えるために、罪人と関わってくださったのです。
私たちは失われた一枚のコインでした。10枚の銀貨が全体で価値を取り戻したように、私たちもイエス様によって教会に結び合わされることで、価値のあるものになったのです。その意味を受け取ってこそ、このたとえ話の御心を理解したことになるのです。
日本では神様から離れた人を「罪人」と呼ぶ考え方はありません。しかし、この罪人と神様をつなぐのは、救い主から託された大事な役割です。イエス様は「罪人と神様」を結び付ける役割に生涯を捧げてくださいました。私たちはイエス様によって互いに結び合わされ、失われたかに思えた存在だったのが招き入れられ、無価値に見えたものが変わらぬ価値あるものとされ神様の元に戻されたのです。
私たちは、イエス様を遣わしてくださった「神様のため」に生き、それこそを自分の信仰のモチベーションとしてまいりましょう。救い主イエス様の導きを信じ、今日も、明日もその次の日々も、神様の元に戻ってくる人々がこの場に導かれますようにと祈りつつ信仰生活を送ってまいりましょう。
土曜日は幼稚園の運動会でした
大きなトラブルもなく
無事に終えられて感謝です!
例年でしたら、土曜学校でも
運動会を控えた園児のために
楽しんでがんばってね、と言うエールを込めて
運動会にちなんだ讃美歌やお話をするところなのですが
8月の土曜学校をお休みしたので
そこのところもマルっとお休みになりました
「主の業に常に励みなさい」という聖句にふさわしい
紙芝居を選んで聞いてもらう予定です
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秋から冬にかけて 幼稚園では行事がいっぱいです 牧師も行事に参加しますので 土曜学校の日程の方をズラす必要が出てきて 第2週だったり第4週だったりしてしまいます 保護者の皆様、実施日をご確認の上 お子様をお連れください お手数おかけして申し訳ありません(><) |
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