2025年7月20日日曜日

「マルタとマリア」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(2025年7月20日)(緑)

創世記18章1―10a節(旧 23)

コロサイの信徒への手紙1章15―28節(新368)

ルカによる福音書 10章38―42節(新127)


 本日はルカ福音書から「マルタとマリア」のエピソードを聞きます。イエス様とその弟子達をもてなそうと忙しく働いていたマルタが、姉妹のマリアが自分の手伝いをせずイエス様のお話に聞き入っているのを見てイラつき、イエス様から心の乱れを指摘されるのです。


 これは女性会員の多い今のキリスト教会では少し話にくい聖書箇所かも知れません。と言いますのも、多くの牧師先生にとって、説教中に女性会の方々が愛餐準備のために台所と礼拝堂を行ったり来たりするのを見るのは、皆さんが思っているよりもずっとダメージを受けるからです。そこで、この「マルタとマリア」のお話を引き合いにして、「礼拝に集中してください」と訴えることが多いのですが、本日はそう言った切り口ではなく、別の角度から見ていきたいと思います。


 イエス様が天に帰られた後、聖霊の導きによって信徒が集まり、12弟子を中心としてキリスト教会が生まれました。信徒が日々増えるのは喜ばしい事でしたが、母国語や習慣の違う人々をまとめていくのは難しい問題でした。食事の配分一つとっても不平不満が湧き上がり、御言葉を聞くのが疎かになります。見方を変えれば、これこそが「マルタとマリア」問題なのです。


 誕生したばかりの教会はこの問題を解決するために二つの役職「長老」と「執事」を作ったことが使徒言行録の6章に記されています。長老とは「祈りと御言葉の奉仕に専念する人々」、執事とは「食事をはじめとする奉仕に心を配る者」と言う役割分担です。


 ルーテル教会では、牧師と共に教会の秩序を守る人々を「役員」と呼びますが、プロテスタント教会では、担当する奉仕の内容によって「長老」、「執事」と分けて任命を行っているところも多くあります。


 始めの「長老」は直接イエス様から教えを受けた12弟子がにない、実働「執事」は評判の良い信徒の中から選ばれました。最初の執事として有名なのはステファノという人物です。彼は恵と力に溢れ、律法学者も驚くほどの聖書知識を持ち、人々の前でイエス様が神様の一人子であることを証しました。


 しかし、イスラエルの指導者達はステファノが目障りで、彼が神様を冒涜したと偽りの罪に定め、石打の刑を行って命を奪います。ところがステファノは死ぬ直前「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びます。その言葉はイエス様の「父よ彼らをお赦しください」を思い出させます。彼は給仕係としての奉仕を忠実に行い、人々に慕われ、キリストのあかし人としてその短い生涯を全うしたのでした。


 このステファノの生涯と、福音書の「マルタとマリア」のお話には共通したものがあります。もう一度福音書を見てみましょう。


 マルタはエルサレムの近くに住む女性で、その家の女主人としてイエス様一行をたびたびもてなしていました。どうやら彼女は料理が上手だったようで、尊敬するイエス様に美味しいものを食べさせてあげたいと心から思っていたのでしょう。しかしその思いが行き過ぎて、自分の奉仕こそ重要であり、座っているだけのマリアを手伝いに寄越さないイエス様は間違っている、と感じ始め、ついにはイエス様のお話を遮って食ってかかったのです。


 マルタがステファノのように謙虚に給仕係の奉仕できれば理想的だったのですが、彼女は「私だけがやらされている」と言う怒りに囚われ、信仰がお留守になって、状況が見えなくなってしまったのです。


 イエス様はそんなマルタを諌め、今はもてなしよりもご自分の話に耳を傾けてほしい、と告げられました。ただ、イエス様はこのような出来事があっても彼女を嫌うことはなく、引き続き彼女の奉仕を受け入れ、それを喜ばれたことがヨハネ福音書などを通してわかります。


 一方マリアはどうだったでしょうか。「マルタとマリア」の説教の中にはマリアの行動を高く評価しているものが多くありますが、この状況でマルタを批判しマリアを褒めるだけでは公平でないような気もします。イエス様は「マリアは素晴らしい」と言われたのではなく「マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。それは何があってもイエス様の御言葉に耳を傾ける事を一番にした、そしてイエス様はそれが何より嬉しかった、と言うことです。


 私たちはこの聖書箇所から二人の行動をよく見て学び、奉仕するときは謙虚に奉仕し、御言葉を聞くときはそれに専念する、と言う信仰を大切にしていきたいと思うのです。


 このエピソードは、キリストに関わる人々に対して、今この瞬間あなたがやるべき大切なことは何か、と何度も何度も問いかけます。教会が2000年の間残り続けてきたのも、実際的なこの教えがあるからです。繰り返しここから学び直すことで、新たな発見をしながら主の声を聞いて、傲慢にならずに、したたかに行っていくことが私たちの使命でもあるのです。


私たちは神様が愛されるこの場所で、楽しくキリストの宣教活動をして参りましょう。私たち一人一人主の言葉に学び、聖書を深く捉え、主の言葉に生きるものとなっていくことが、この世の救いとなるのです。


先週は幼稚園と教会学校の教師就任式礼拝でした。

日本人の多くはお祭りや初詣などは大好きで

キリスト教にとって大切なクリスマスもイベントとして取り入れ

最近ではイースターも「イエス様の復活」抜きの

春のお祭りとして定着しつつあります

世の流れで仕方のないことかもしれませんが

そんな社会の中で真剣にキリスト教を

信じていることを表明すると

たちまち胡散臭い人と思われることがあります


だからと言って、イエス様を否定したり

信仰を持たない人のように振る舞ったりするのは

私たちのやることではありません

幼稚園で、また教会学校で

胸を張って聖書の御言葉を子どもたちに伝えるために

就任式を行い、神様のお力をいただいてまいります


ルーテル幼稚園の先生と
教会学校の先生が共に祈ります

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