2025年7月27日日曜日

「祈りについて」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2025年7月27日)(緑)

創世記18章20―32節(旧 24)

コロサイの信徒への手紙2章6―15節(新370)

ルカによる福音書 11章1―13節(新127)


 本日は皆さんもよくご存知の「主の祈り」について聞いてまいります。聖書の中で、主の祈りはマタイ福音書とルカ福音書に記されていますが、本日はルカ福音書を中心に見て行きましょう。


 最初の部分は、イエス様の弟子たちが「祈りについて」尋ねる場面です。弟子たちはイエス様に「私たちにも祈りを教えて下さい」とお願いしています。


 私たちは皆、イエス様が神様の一人子であることを知っていますが、この時点で弟子たちはまだわかってはいません。イエス様に接した人々は、イエス様が嵐を沈め病を癒す大きな奇跡の力を持っていることや、障がい者や病の人を差別しない公平な方であることを知り、新しい王様になって欲しいとまで望みました。イスラエルを押さえつけているローマ帝国を追い出してもらって自由な国を作りたいと考えたのです。


 そこで、イエス様の素晴らしいお力や正しい判断の源は祈りにあるのかも、と考えた弟子の一人がイエス様に「ヨハネが弟子たちに教えたように祈りを教えて下さい」とお願いしています。


 ヨハネのメッセージは力強く強烈で、社会現象を引き起こしました。多くの人々がヨハネの元に群がり「悔い改めます」と宣言して洗礼を受けました。ヨハネは食べ物も着る物も一切の贅沢をせず、禁欲的な生活を送り、自分の弟子たちにも厳しく指導し、神様に忠実に生活し、祈る方法を教えていたようです。


 イエス様もたくさんの弟子を教えたり導いたりしながら質素な生活をしていましたが、ヨハネと違って、決して禁欲的とか、お堅い人物ではありませんでした。誰かから家に来てお話を聞かせてほしいと誘われれば、誘った相手が世の中の嫌われ者やはみ出しものであっても迷うことなく食事を共にし、酒を酌み交わしました。そんな気さくな方でしたが、ヨハネのように積極的に何かを教えてくださる様子がないのです。


 誰でも興味本位とか好奇心を満たすために誰かに質問したり尋ねたりします。しかし、そこに切実さがないと、その時は「なるほど」と思ってもすぐに忘れてしまい、身につくことがありません。イエス様は人間のそんな性質をよく知っておられましたから、弟子たちが強い学びの意欲を持ち始めるタイミングを待っていたと思われます。弟子の方から「ぜひ教えて下さい」と乞われるまで、イエス様は待っておられたのです。


 そしてその時まず教えられたのが「主の祈り」なのです。この祈りはご存知のように「神よ」ではなく「父よ」で始まります。しかも堅苦しい「父上」ではなくて、一般的な「お父さん」という言葉で呼びかけるよう教えられます。それはイエス様ご自身がそうであるように、全ての人が神様に信頼して語りかけるように祈ることを願われたからです。


 この祈りの後に続く言葉の一つ一つは、聖書研究等でお話するチャンスがあればと思うのですが、要は私たちが神様に守られながらのびのびと生きて行けますように、と言うお祈りです。


 ただ4節には、誰もが一瞬「うっ」となってしまう言葉があります。それは「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という言葉です。私たちが日々祈る主の祈りでは「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。


 この箇所は誤解を生みやすく、例えば自分や自分の身内が殺された場合や裏切られたという場合にも赦せというのか、私にはそんなことは出来ませんと、主の祈りの中でこの言葉だけ口をつぐんでしまう方までいます。


 ルカ福音書はただ一人の神を信じるユダヤ教徒だけでなく、様々な宗教を信じる環境で育った外国人が読むことを想定して書かれました。この時代、ユダヤ世界を取り巻く地中海諸国で信じられたいた神々は、信頼して心の中を打ち明けられるような存在ではありませんでした。ギリシャ神話をご存知の方はお分かりのように、非常に人間臭い神様が多く、神自身の感情に任せて、怒ったり裁いたりする存在でした。人間は神々の怒りを買わないように、たたられないように、なんとかお祈りを聞いてもらおうと捧げ物に工夫を凝らしたりしました。


 ルカ福音書はそんな宗教観を持つ読者を想定して書かれましたから、著者であるルカはイエス様が「『天の父は求める者に聖霊を与えてくださる』と言われた」と強調して記しています。


 つまりこういうことです。「神様に祈る時、あなたの欲しいあれやこれやが叶えられるかどうかを基準にするのではなく、まず神様と真剣に向き合いなさい。そうすれば神様がお考えになる『最も良いこと』が聖霊なる神を通してあなたに与えられる」という意味なのです。


 ですから「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という言葉も「あなたが神様に愛されるには、まずあなたが悪者を許さなければならない」という意味ではありません。神様は怒りに燃える人に向かって語りかけます。「誰かを赦さないで怒りを溜め込んで生きるのは苦しくないか?その怒りは私が引き受けるから聖霊が最も良いものを与えてくれるのを信じて待ちなさい」。


 本日ご一緒に読んだ中には「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言う言葉があります。私たちは主の祈りを通して「聖霊なる神の力を得るなら、不可能に思える扉が開かれていく」ことを心に刻んでまいりましょう。


 私たちは、人間の個人的な欲望によって引き起こされる争いの絶えない世界を、神様を中心とした慈しみあふれる世界に変えていくように召されています。私たちはイエス様の教えをもっと深く知るために聖書を学び、神様と隣人を愛し、奉仕に仕事にあたることができるのです。


猛烈に暑かった1日もようやく夕暮れ
茜色の雲、というのでしょうか
形がちょっと禍々しいので
美しいというより何やら不気味です



似たような色ですが
こちらは可愛らしいプルメリア
園庭に面した場所で
暑さにめげず元気に咲いています

2025年7月20日日曜日

「マルタとマリア」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(2025年7月20日)(緑)

創世記18章1―10a節(旧 23)

コロサイの信徒への手紙1章15―28節(新368)

ルカによる福音書 10章38―42節(新127)


 本日はルカ福音書から「マルタとマリア」のエピソードを聞きます。イエス様とその弟子達をもてなそうと忙しく働いていたマルタが、姉妹のマリアが自分の手伝いをせずイエス様のお話に聞き入っているのを見てイラつき、イエス様から心の乱れを指摘されるのです。


 これは女性会員の多い今のキリスト教会では少し話にくい聖書箇所かも知れません。と言いますのも、多くの牧師先生にとって、説教中に女性会の方々が愛餐準備のために台所と礼拝堂を行ったり来たりするのを見るのは、皆さんが思っているよりもずっとダメージを受けるからです。そこで、この「マルタとマリア」のお話を引き合いにして、「礼拝に集中してください」と訴えることが多いのですが、本日はそう言った切り口ではなく、別の角度から見ていきたいと思います。


 イエス様が天に帰られた後、聖霊の導きによって信徒が集まり、12弟子を中心としてキリスト教会が生まれました。信徒が日々増えるのは喜ばしい事でしたが、母国語や習慣の違う人々をまとめていくのは難しい問題でした。食事の配分一つとっても不平不満が湧き上がり、御言葉を聞くのが疎かになります。見方を変えれば、これこそが「マルタとマリア」問題なのです。


 誕生したばかりの教会はこの問題を解決するために二つの役職「長老」と「執事」を作ったことが使徒言行録の6章に記されています。長老とは「祈りと御言葉の奉仕に専念する人々」、執事とは「食事をはじめとする奉仕に心を配る者」と言う役割分担です。


 ルーテル教会では、牧師と共に教会の秩序を守る人々を「役員」と呼びますが、プロテスタント教会では、担当する奉仕の内容によって「長老」、「執事」と分けて任命を行っているところも多くあります。


 始めの「長老」は直接イエス様から教えを受けた12弟子がにない、実働「執事」は評判の良い信徒の中から選ばれました。最初の執事として有名なのはステファノという人物です。彼は恵と力に溢れ、律法学者も驚くほどの聖書知識を持ち、人々の前でイエス様が神様の一人子であることを証しました。


 しかし、イスラエルの指導者達はステファノが目障りで、彼が神様を冒涜したと偽りの罪に定め、石打の刑を行って命を奪います。ところがステファノは死ぬ直前「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びます。その言葉はイエス様の「父よ彼らをお赦しください」を思い出させます。彼は給仕係としての奉仕を忠実に行い、人々に慕われ、キリストのあかし人としてその短い生涯を全うしたのでした。


 このステファノの生涯と、福音書の「マルタとマリア」のお話には共通したものがあります。もう一度福音書を見てみましょう。


 マルタはエルサレムの近くに住む女性で、その家の女主人としてイエス様一行をたびたびもてなしていました。どうやら彼女は料理が上手だったようで、尊敬するイエス様に美味しいものを食べさせてあげたいと心から思っていたのでしょう。しかしその思いが行き過ぎて、自分の奉仕こそ重要であり、座っているだけのマリアを手伝いに寄越さないイエス様は間違っている、と感じ始め、ついにはイエス様のお話を遮って食ってかかったのです。


 マルタがステファノのように謙虚に給仕係の奉仕できれば理想的だったのですが、彼女は「私だけがやらされている」と言う怒りに囚われ、信仰がお留守になって、状況が見えなくなってしまったのです。


 イエス様はそんなマルタを諌め、今はもてなしよりもご自分の話に耳を傾けてほしい、と告げられました。ただ、イエス様はこのような出来事があっても彼女を嫌うことはなく、引き続き彼女の奉仕を受け入れ、それを喜ばれたことがヨハネ福音書などを通してわかります。


 一方マリアはどうだったでしょうか。「マルタとマリア」の説教の中にはマリアの行動を高く評価しているものが多くありますが、この状況でマルタを批判しマリアを褒めるだけでは公平でないような気もします。イエス様は「マリアは素晴らしい」と言われたのではなく「マリアは良い方を選んだ」とおっしゃいました。それは何があってもイエス様の御言葉に耳を傾ける事を一番にした、そしてイエス様はそれが何より嬉しかった、と言うことです。


 私たちはこの聖書箇所から二人の行動をよく見て学び、奉仕するときは謙虚に奉仕し、御言葉を聞くときはそれに専念する、と言う信仰を大切にしていきたいと思うのです。


 このエピソードは、キリストに関わる人々に対して、今この瞬間あなたがやるべき大切なことは何か、と何度も何度も問いかけます。教会が2000年の間残り続けてきたのも、実際的なこの教えがあるからです。繰り返しここから学び直すことで、新たな発見をしながら主の声を聞いて、傲慢にならずに、したたかに行っていくことが私たちの使命でもあるのです。


私たちは神様が愛されるこの場所で、楽しくキリストの宣教活動をして参りましょう。私たち一人一人主の言葉に学び、聖書を深く捉え、主の言葉に生きるものとなっていくことが、この世の救いとなるのです。


先週は幼稚園と教会学校の教師就任式礼拝でした。

日本人の多くはお祭りや初詣などは大好きで

キリスト教にとって大切なクリスマスもイベントとして取り入れ

最近ではイースターも「イエス様の復活」抜きの

春のお祭りとして定着しつつあります

世の流れで仕方のないことかもしれませんが

そんな社会の中で真剣にキリスト教を

信じていることを表明すると

たちまち胡散臭い人と思われることがあります


だからと言って、イエス様を否定したり

信仰を持たない人のように振る舞ったりするのは

私たちのやることではありません

幼稚園で、また教会学校で

胸を張って聖書の御言葉を子どもたちに伝えるために

就任式を行い、神様のお力をいただいてまいります


ルーテル幼稚園の先生と
教会学校の先生が共に祈ります

2025年7月13日日曜日

「隣人になる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2025年7月13日)(緑)

申命記30章9―14節

コロサイの信徒への手紙6  1章1―14節

ルカによる福音書 10章25―37節


 本日の福音書には神の子であるイエス様と、そのイエス様に敵対する「律法の専門家」たちが登場します。「律法」は神様がユダヤ民族に与えた大切な決まりで、専門家とはそれを人々に教える学者であり先生です。ところが彼らは自分の知識を鼻にかけ、一般人に向かって「ちゃんとできないと神の怒りを買うぞ」などと脅かしたり、自分に都合良く教えを捻じ曲げることすらありました。


 これに対して、イエス様は神様の一人子ですから、律法について誰よりもご存知です。イエス様は「律法は人を縛り付けるのではなく、人が幸せに生きるためのルールです」とお話をして回りました。


 それを知った律法学者はイエス様に論争を挑みますが、逆にやり込められてしまいます。今日の聖書箇所でもイエス様に「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しますが、実は律法の中にその答えはちゃんと書かれていて「神を敬い、隣人を愛する」が正解でした。彼らはイエス様がきちんと答えられるか試したのです。


 結果はあきらかでした。イエス様は彼らに向かって「あなた方は答えを知っているのだから、『神を敬い、隣人愛する』ことを実行しなさい」と言われます。焦った学者たちは「では、あなたの言う隣人とは誰のことですか」と質問します。「抽象的な説明でなく、ちゃんとわかるように言ってみろ」という失礼な態度です。


 そこでイエス様が「隣人とは誰か」についてたとえ話としてお話になったのが「善いサマリア人」だったのです。


 お話はシンプルです。あるユダヤ人が旅の途中、寂しい場所で強盗に襲われ、瀕死の重傷を負います。そこに3人の人物が順番に通りかかります。一人目は神様に仕える祭司、二人目は神殿で仕事をする人です。しかし彼らは倒れた旅人に関わろうとしませんでした。


 強盗がどこかに隠れて自分を狙っていると思ったのでしょうか。それとも、旅人がもう死んでいると思ったのでしょうか。わざわざ道の反対側を通って行ってしまいます。状況を考えれば、彼らが特別悪い人というわけではないでしょう。しかし見捨てられた旅人は、もはや死を覚悟するしかありませんでした。


 そこに通りかかった3人目の人物がサマリヤ人です。サマリヤ人というのは歴史的な事情からユダヤ人と対立するようになった民族です。


 このサマリヤ人は倒れている人を見て憐れに思います。元々の言葉は「自分自身が強盗に襲われたかのように辛くなり、腹の底からかわいそうに思った」という非常に思いやりにあふれた強い意味があります。


 サマリア人は怪我人の応急手当てをした後、自分のロバに乗せて宿屋に運び、宿代や治療費まで支払うのです。たまたま出会っただけの、見ず知らずの人に、これほど親切ができるだろうか、と思うほど徹底した思いやりが描かれています。


 こうしてイエス様は譬え話を終えると、学者に問いかけます。「あなたはこの3人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか?」イエス様のお言葉には、言い逃れを許さない威厳がありました。


 追い詰められた学者は「サマリヤ人」という言葉を口にしたくなかったのか、悔しそうに「その人を助けた人です」と答えます。それを聞いたイエス様は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」


 さて、このお話を聞いてみなさんはどう感じられるでしょうか。


 先ほど「このお話は有名です」と申し上げました。それはこの譬え話が「人の善意」の大切さについて教えていて、「私を必要としている誰かに親切にしたい」という思いを後押ししてくれるからです。


 大きな意味では「民族的な対立や偏見を超えて、困っている人々に手を差し伸べよう」と理解することができます。また、人を助けるには自分の時間や労力、財力もつぎ込む自己犠牲の精神が必要だ、とも受け取れます。もし「善いサマリア人」というワードでネット検索すれば、AIはさまざまな教訓を拾い出すでしょう。


 ただ、「そういう意味なのか、勉強になったな」で終わってしまうのはちょっとつまらないと思います。このお話は私たち一人ひとりの立場に当てはめて理解し、応用することができるからです。


 お話の中に、怪我人を助けた人と見捨てた人が登場したように、誰の心にも優しさと自己中心の思いがあります。「良いことはしたいが、自分に都合の悪いことは避けたい」という迷いは誰でも持っています。ではなぜ迷うかと言えば、誰かから助けを求められるのは、自分にとってタイミングが悪い場合が多いからです。そんな時、一瞬でいいですから、心の中で神様にお祈りしてみてください。「神様、私は自分の心の矛盾に苦しんでいます。助けてください。」そう祈る時、神様はあなたに力を与えてくださるはずです。


 先ほどのお話でイエス様は、人間がお互いに幸せになるためには「神様を敬い、隣人を愛する心」が大切だ、と教えられました。人間は自分の力だけでは誰かを助けるのは難しいから、神様の力をいただきながら、一歩踏み出しなさい、とイエス様は語りかけてくださるのです。


 最後にもう一つだけ。この教会と幼稚園が飯田の地に誕生したのは120年も前のことです。最初の先生方は遠くフィンランドからやって来ました。この人々を後押ししたのは、単なる理想ではなく「神を敬う」想いでした。まだ見ぬ日本の人々こそ、神様が与えてくださった隣人であると信じて、神様の愛とそれに根ざす教育を届けるために、命懸けで海を渡ってきたのです。この場所には、その方々が届けてくださった神様の想いと愛が、今も受け継がれています。


 神様はフィンランドの人々にしてくださったのと同じようにあなたを守り、導き、力を与え続けてくださいます。どうぞそれを信じていてください。



昨日は土曜学校でした

久しぶりに20人を超えるお友達が集まってくれました


金魚の瓶詰め(笑)を作るわけで

魚繋がりで紙芝居は「ヨナのおはなし」

「暴力に訴える解決は良くないよ!」

神様がニネベを滅ぼそうとなさらなかったお気持ちを

紙芝居のセリフに託しました

少しでも考えてもらえたら嬉しいです


工作が終わって

恒例の記念写真

良いお顔&ポーズの写真をどうぞ見てあげてください



新一年生のKちゃん
可愛いポーズが決まっています



M家兄弟
時々手を焼かされますが
ちゃんとお話も聞いてくれます


もう一組のM家
お姉さんがしっかり妹さんのお世話をしてくれて
二人とも素敵な作品ができました


金曜日の夜、牧師が製作した作品です
工作指導は牧師夫人なのですが
牧師も「一回作っておけば
お友達に教える時うまく行くはず」と
頑張ってみました
参加お友達の人数が多かったので
サポートのためにも
ちゃんと予習しておいてよかったです

2025年7月6日日曜日

「御手の中で」日曜日のお話の要約

聖餐式・聖霊降臨後第4主日礼拝(2025年7月6日)(緑)

イザヤ書66章10―14節(旧1170)

ガラテヤの信徒への手紙6章7―16節(新350)

ルカによる福音書 10章1―11節、16―20(新125)


 本日読みましたルカ福音書は、イエス様が宣教の役割を弟子達に委ねたお話です。これと関連して、マタイ、マルコ、そしてルカ福音書の9章には12人の弟子を派遣することが記されています。しかし改めて72名もの人を任命し、宣教の業を委託されたのはルカ福音書だけです。


 3つの福音書の派遣された12人というのは、たくさんいる弟子集団の中からイエス様が選ばれた特別な人々で、イエス様は彼らを「使徒」、つまり「遣わされた者」と名付けられました。イエス様は12人の使徒たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」ります。これはイエス様が弟子たちの前で実践された出来事です。使徒たちはその力を授けられることに驚きつつも「村から村へと巡り歩き、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」のです。


 そして今度はその力をさらに多くの弟子たち、つまり72人にお授けになった、というのが今日のところです。彼らは名前も記されておらず、側から見て特別な人ではなかったかもしれません。それでもイエス様は彼らをお選びになりました。


 ここで72人と書かれている数は実は70人という説もあります。その昔、聖書は「写本」と呼ばれ、ちゃんとした専門家の手によって正確に書き写されていました。それでもごくたまに主観が入り込むことで間違いが起こったようです。この場合主観が入り込んだ可能性があるのがこの72という数字で、写本によっては70となっているものがあります。


 72という数字は創世記10章で、神様がこの世の民族を72に定められた。それを表す数字として登場してきます。


 一方70の方は、エジプトを脱出して約束の地に向かう途中で、モーセがリーダーとしての役割を他の70人に分け与えた、という出来事です。これは民数記の11章に記されています。壮年男子だけで60万人の大移動。モーセが全ての責任を負うのは不可能ですから、神様は他に70人を召し出し、指導者として立てるように、とお命じになったのです。


 こういったエピソードから、70、あるいは72という数字が聖書に登場する時、癒し的リーダーが登場して世を導くという時の人数として用いられ、一定の想いを込められてその数字を用いているのです。


 ルカによる福音書から推測できるのは、神様がお作りになった世界で、人々がさまざまな民族に分かれ、国同士が争うようになったので、神の国の教え、神の愛の教えを伝え、平和に戻す必要が出てきます。そのためにはまずこの72名の働き人が必要であった、という意味に理解できます。


 このエピソードが語られた時、イエス様は、まだ肉体というものに縛られていたため、神様の愛を伝えるために多くの場所に行きたいと望まれたても、同時にあちらこちらに出かけることは不可能でした。そこでイエス様はご自分で選んだ人々に「私ひとりでは手が足りないから、代わって行って欲しい」と頼まれたのです。


 選ばれた72人は、イエス様から召し出されたことを喜び、名誉に感じ、役割を果たそうと決心して出かけて行きます。そして出かけた先で体験した試練や成功を通して、イエス様を信じる心と神様への信仰に強く結びついて行ったのです。


 福音記者ルカがこの福音書を記した時代、ローマ帝国は強い武力と経済力によって多くの国や地方を支配していました。各民族の自治や宗教は容認されていましたが、それでもローマ皇帝を神と崇める考え方は他の民族にも押し付けられました。


 しかしどれほど強い力でローマ帝国を築き上げようとも、当然反発する人々も出てきます。世の中は混乱し、人の命は戦争の道具として使われ、軽んじられて行きます。争いというものは一度始まってしまったら、燃え広がる炎のようで、なかなか止めることができません。それは先の世界大戦でも起こったことです。


 「広島や長崎に原爆を落としたから戦争が終わった」などと平気な顔をして言ってのける「自称クリスチャン」が、大国の政治家として君臨している現在、ますます争いの火種は広がって行きます。人間は誰しも、権力者に限らず、一般人と言われるような人々であっても、自分勝手な思いに走りやすい性質を持っています。


 それを食い止めることができるのは、イエス様が述べ伝えられた「平和を作り出す方法」を、ひたむきに、愚かと言われてもその教えを述べ伝えていくことだけなのです。だからこそイエス様は宣教することを、私達に望まれるのです。


 私達が思う以上に、神様に反した世界を神様が悲しまれます。神様は人の世界が滅んでいくのを、そのまま黙って過ごすことはおできにならないのです。ですから、イエス様がご自分のお役目を終えて天に帰られた後は、聖霊なる神様がそれを引き継ぎ、どこの国民であろうと、どんな人であろうと関係なく、これはという人を招き、送り出す働きを続けておられるのです。誰が次の72名になるかわかりません。そして神様によって招かれ、厳しい世の中に宣教のために送り出されることがあらかじめ定められている。それが私たち一人一人なのです。


 今の時代「宣教」について考えるとき、インターネットの知識が必要であるとか、高い学歴が求められるとか、外国語に堪能であるとか、あれこれ勝手に考えて、自分では無理だと思い込むかも知れません。しかしあなただからこそ声をかけられる、そんな人が必ずいるのです。


 まず、私たちはこの礼拝堂に、あなたのそばにいる、親しい誰かを招くところから始めましょう。それはあなたしかできない役割なのです。


 飯田教会と幼稚園は120年の歴史がありますが、神様からご覧になれば、やはりまだまだこれからなのです。これからも神様は私たちを導き、人々の期待、関わる人に希望を抱かせ、信仰へと導いてくださるはずです。それを信じて、完成した建物の整備を行いながら、この場所で、御手の中で、選ばれたものにふさわしく宣教にいそしんでまいりましょう。




教会をリノベーションしている間
牧師館で管理していたプルメリア
冬中そこそこ暖かい室内に置いていたので
ずいぶん早く花が咲きました
でも少し色が薄い感じです


数年前、最初に咲き始めた頃の写真
(今はもう無い)牧師館のベランダで育てていました
リノベーションも終わったので
改めて教会の敷地に置くことにしました
色が濃くなってくれると楽しくなります