2025年7月6日日曜日

「御手の中で」日曜日のお話の要約

聖餐式・聖霊降臨後第4主日礼拝(2025年7月6日)(緑)

イザヤ書66章10―14節(旧1170)

ガラテヤの信徒への手紙6章7―16節(新350)

ルカによる福音書 10章1―11節、16―20(新125)


 本日読みましたルカ福音書は、イエス様が宣教の役割を弟子達に委ねたお話です。これと関連して、マタイ、マルコ、そしてルカ福音書の9章には12人の弟子を派遣することが記されています。しかし改めて72名もの人を任命し、宣教の業を委託されたのはルカ福音書だけです。


 3つの福音書の派遣された12人というのは、たくさんいる弟子集団の中からイエス様が選ばれた特別な人々で、イエス様は彼らを「使徒」、つまり「遣わされた者」と名付けられました。イエス様は12人の使徒たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けにな」ります。これはイエス様が弟子たちの前で実践された出来事です。使徒たちはその力を授けられることに驚きつつも「村から村へと巡り歩き、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」のです。


 そして今度はその力をさらに多くの弟子たち、つまり72人にお授けになった、というのが今日のところです。彼らは名前も記されておらず、側から見て特別な人ではなかったかもしれません。それでもイエス様は彼らをお選びになりました。


 ここで72人と書かれている数は実は70人という説もあります。その昔、聖書は「写本」と呼ばれ、ちゃんとした専門家の手によって正確に書き写されていました。それでもごくたまに主観が入り込むことで間違いが起こったようです。この場合主観が入り込んだ可能性があるのがこの72という数字で、写本によっては70となっているものがあります。


 72という数字は創世記10章で、神様がこの世の民族を72に定められた。それを表す数字として登場してきます。


 一方70の方は、エジプトを脱出して約束の地に向かう途中で、モーセがリーダーとしての役割を他の70人に分け与えた、という出来事です。これは民数記の11章に記されています。壮年男子だけで60万人の大移動。モーセが全ての責任を負うのは不可能ですから、神様は他に70人を召し出し、指導者として立てるように、とお命じになったのです。


 こういったエピソードから、70、あるいは72という数字が聖書に登場する時、癒し的リーダーが登場して世を導くという時の人数として用いられ、一定の想いを込められてその数字を用いているのです。


 ルカによる福音書から推測できるのは、神様がお作りになった世界で、人々がさまざまな民族に分かれ、国同士が争うようになったので、神の国の教え、神の愛の教えを伝え、平和に戻す必要が出てきます。そのためにはまずこの72名の働き人が必要であった、という意味に理解できます。


 このエピソードが語られた時、イエス様は、まだ肉体というものに縛られていたため、神様の愛を伝えるために多くの場所に行きたいと望まれたても、同時にあちらこちらに出かけることは不可能でした。そこでイエス様はご自分で選んだ人々に「私ひとりでは手が足りないから、代わって行って欲しい」と頼まれたのです。


 選ばれた72人は、イエス様から召し出されたことを喜び、名誉に感じ、役割を果たそうと決心して出かけて行きます。そして出かけた先で体験した試練や成功を通して、イエス様を信じる心と神様への信仰に強く結びついて行ったのです。


 福音記者ルカがこの福音書を記した時代、ローマ帝国は強い武力と経済力によって多くの国や地方を支配していました。各民族の自治や宗教は容認されていましたが、それでもローマ皇帝を神と崇める考え方は他の民族にも押し付けられました。


 しかしどれほど強い力でローマ帝国を築き上げようとも、当然反発する人々も出てきます。世の中は混乱し、人の命は戦争の道具として使われ、軽んじられて行きます。争いというものは一度始まってしまったら、燃え広がる炎のようで、なかなか止めることができません。それは先の世界大戦でも起こったことです。


 「広島や長崎に原爆を落としたから戦争が終わった」などと平気な顔をして言ってのける「自称クリスチャン」が、大国の政治家として君臨している現在、ますます争いの火種は広がって行きます。人間は誰しも、権力者に限らず、一般人と言われるような人々であっても、自分勝手な思いに走りやすい性質を持っています。


 それを食い止めることができるのは、イエス様が述べ伝えられた「平和を作り出す方法」を、ひたむきに、愚かと言われてもその教えを述べ伝えていくことだけなのです。だからこそイエス様は宣教することを、私達に望まれるのです。


 私達が思う以上に、神様に反した世界を神様が悲しまれます。神様は人の世界が滅んでいくのを、そのまま黙って過ごすことはおできにならないのです。ですから、イエス様がご自分のお役目を終えて天に帰られた後は、聖霊なる神様がそれを引き継ぎ、どこの国民であろうと、どんな人であろうと関係なく、これはという人を招き、送り出す働きを続けておられるのです。誰が次の72名になるかわかりません。そして神様によって招かれ、厳しい世の中に宣教のために送り出されることがあらかじめ定められている。それが私たち一人一人なのです。


 今の時代「宣教」について考えるとき、インターネットの知識が必要であるとか、高い学歴が求められるとか、外国語に堪能であるとか、あれこれ勝手に考えて、自分では無理だと思い込むかも知れません。しかしあなただからこそ声をかけられる、そんな人が必ずいるのです。


 まず、私たちはこの礼拝堂に、あなたのそばにいる、親しい誰かを招くところから始めましょう。それはあなたしかできない役割なのです。


 飯田教会と幼稚園は120年の歴史がありますが、神様からご覧になれば、やはりまだまだこれからなのです。これからも神様は私たちを導き、人々の期待、関わる人に希望を抱かせ、信仰へと導いてくださるはずです。それを信じて、完成した建物の整備を行いながら、この場所で、御手の中で、選ばれたものにふさわしく宣教にいそしんでまいりましょう。




教会をリノベーションしている間
牧師館で管理していたプルメリア
冬中そこそこ暖かい室内に置いていたので
ずいぶん早く花が咲きました
でも少し色が薄い感じです


数年前、最初に咲き始めた頃の写真
(今はもう無い)牧師館のベランダで育てていました
リノベーションも終わったので
改めて教会の敷地に置くことにしました
色が濃くなってくれると楽しくなります