全聖徒主日礼拝・聖餐式(白) (2019年11月3日)
出エジプト34:4-9 Ⅱテサロニケ 1:1-12 ルカ19:1-10
本日の福音書は「ザアカイ」という人物が登場します。ガリラヤ地方からエルサレムに向かって十字架への旅をして来たイエス様が途中立ち寄られた町です。旧約聖書にも登場する古いオアシスで、ヨルダン川の畔の、貿易で栄える豊かな町でした。そこに住んでいたのが徴税人のザアカイです。
彼は「徴税人の頭で、金持ちであった」と書かれています。徴税人としてはかなり腕が良かったのでリーダーになったのでしょう。大抵の徴税人は同胞のユダヤ人から割り当てられた税額以上を取り立て、私腹を肥やしていましたので、同胞から憎まれ、神の国に行けない罪人と呼ばれていました。
しかしザアカイもユダヤ人ですから、現在がどうあれ、幼い頃は信仰の教育を受けたはずです。ザアカイという名前は「正しい人」「純な人」という意味を持っています。子どもの頃はその名に恥じないように熱心に宗教施設に通い、信仰を熱くした経験もあったでしょう。
しかし彼は非常に背が低かったようで、そのことに強いコンプレックスを持っていたでしょう。大人になるにつれて、自分をバカにした人々を見返してやるという憎しみや怒りの感情が膨れ上がり、それが彼を情けや容赦のない腕利きの徴税人に押し上げたのではなかったでしょうか。
当時イエス様の祖国イスラエルはローマという強大な国に軍事力で押さえつけられ、政治にも宗教にも口を出されていました。それらのことは、もともとプライドの高いユダヤ人にとっては耐え難かったのです。彼らは旧約聖書の「救い主がやってくる」という約束を信じていましたから、今こそ救い主に登場してもらって、自由な国を取り戻したいと願っていたことでしょう。
ザアカイも、ローマの手先になることで金持ちになったとはいえ、救い主を待ち望む心は持っていました。イエス様とは噂通り救い主なのだろうか、そうなら是非一目見てみたいものだ。しかし、群衆はザアカイがなんとかイエス様を見ようとしているのに気付くと、意地悪な心を起こし、遮ったのです。
ザアカイはその小さな体を背一杯伸ばしてもイエス様を見ることができません。それでも諦めきれずにイチジク桑の木に登ります。周りの人々から嘲笑われても構わないと思ったのでしょう。ザアカイ自身がどれほど自覚していたかはわかりませんが、単なる好奇心を超える情熱を持ってイエス様をみたいと思っていることを、イエス様は知っておられたのです。
ザアカイがイエス様を救い主として探し求めたように、イエス様もザアカイを捜しておられたのです。だからこそ、イエス様はご自分からザアカイと声をかけられたのです。
人々に囲まれたイエス様が、たまたまふと上を見上げたらザアカイがいた、ということではないのです。イエス様はザアカイがそこにいることを前もってご存知で、彼の心のうちまで見抜き、お会いになることを楽しみにしておられたのです。だからこそ躊躇なく「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。
そしてザアカイもまた、ためらうことなく急いで木から降り、イエス様を迎えたのです。なんと美しい光景でしょう。
しかし、聖書には、「これを見た人たちは皆つぶやいた」と記されています。この「つぶやく」とは、「聞こえよがしに「不平をいった」とか「文句をたれた」という意味です。「厳しい批判」、と言った怒りの言葉も含まれる言葉です。
気高き救い主が、町一番の嫌われ者に声をお掛けになった時、その場にいた人々は「素晴らしい」とか「さすがイエス様だ」とは思わず、不平不満をつぶやいたのです。もし私たちも、自分の大嫌いな人がイエス様から親しくされるのを見たなら、思わず嫉妬や不平不満の声が口をついて出るかも知れません。
私たちは心の何処かで、イエス様に救われるのはこの世でそれなりに良い人、というイメージを持っているかも知れません。悪人が回心したというのは、どこか遠い出来事としてなら感動できるかもしれませんが、自分に嫌がらせをしてくるような相手がイエス様に愛されて幸せになるなんて簡単には納得がいかないでしょう。そんな奴がイエス様に導かれたところで、再び悪の道に入るのがオチだ、と鼻で笑うかもしれません。
しかし、イエス様は、本当にザアカイを変えてしまわれました。ザアカイはイエス様から愛されると知ったことで、喜びが心に満ち溢れました。
そして、ここが大切なところですが、その喜びを表現するために、ザアカイは自分の拠り所であったはずのお金を手放す決心をするのです。もう余分なお金はいらない、お金持ちでなくていい。それはイエス様に命じられてイヤイヤそうしたのではなく、心からの感謝の思いを込めてそう宣言したのです。
ザアカイは、迷子になった一匹の羊のように、また失われた銀貨のように、そしていなくなった息子のように、捜し出され、あるべき場所に戻ることの出来た人なのです。
イエス様は、ご自分がこの世に来られた目的は「失われたものを尋ね出して救うためである」と言われました。私たちもまた、この教会を通して神を知り、救い主イエス様を知り、イエス様に見出されてイエス様を信じ、その生涯を歩んでいます。そして今日も、そのイエス様の愛の御元で憩いの時を過ごしている。それが御心にかなうことなのです。
礼拝後、車に乗り合わせて教会墓地へ向かい 墓前礼拝を行いました 今年2月に神様の御元に召された 鈴木姉の納骨式も行われました |
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