ヨハネによる福音書第2章13節-22節、2016年10月30日(日)、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下第22章8節-20節、ガラテヤの信徒への手紙第5章1節-6節、讃美唱46(詩編第46編1節-12節)
ヨハネによる福音書第2章13節~22節
ユダヤ人の過越際が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか]と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
説教「神の宮を主にささげよう」(ヨハネ2:13-22)
今日は、宗教改革を記念する主の日の礼拝であります。来年2017年10月31日で宗教改革500年祭となります。ご承知の通り、1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会の一修道僧であったマルティン・ルターが、当時の贖宥券、いわゆる免罪符に反対して95か条の提題を、ヴィッテンベルクの城教会に貼り付けたことに端を発して、宗教改革が期せずして、ヨーロッパに広がっていったのであります。
その95か条に書かれていた一つのことは、キリスト者の全生涯は、悔い改めの毎日の連続であるということであります。すなわち、私どもは、行いにより、功績を積むことによって、神の前に義とされることはなく、ただ恵みによってのみ、義とされるというのであります。
今日の福音、ヨハネ福音書第2章13節から22節が、この日に与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみましょう。
それは、過越祭が近づいている頃のことでありました。そのとき、主イエスは、エルサレムへと上っていかれます。いわゆる神殿から商人を追い払うという出来事が起こったのであります。他の福音書記者たちとは違って、ヨハネ福音書記者は、このことが公生涯の始めに起こったとしています。この出来事によって、新しい救いの時代が来たと、記者ヨハネは言いたかったのであります。
他の記者たちは記していない、縄で、主イエスは鞭を作られて、神殿の境内から売られていた犠牲の羊や牛を追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩を売っている者たちに、そのようなものを、ここから運び出せ、私の父の家を、商売の家にしてはならないと現実行動に出られたのであります。
なぜ、主は、その最初の舞台と言ってもいい、このときに、そのようなとっぴとも思われる行動に出られたのでしょうか。
宗教改革500年祭を、世界の教会が、今祝おうと準備しています。宗教改革といいますけれども、実は、それは当時の社会の改革でもありました。
当時はびこっていた迷信を打破し、不条理な高利貸しを禁じ、貧しい人たちの共同基金を設けたり、学校制度を創ったりしていったのです。
今日の福音の記事における主イエスのなさったみ業、語られた数少ないみ言葉も、神の御心が、当時の神殿礼拝の中で改められていったことを示しているのではないでしょうか。
弟子たちは、主イエスのふるまいを見ながら、「あなたへの熱心が、私を食い尽くすだろう」との詩編の言葉を思い出したとあります。しかし、その主がなさったことの意味は、実際には、主イエスの十字架の死と復活の後に、聖霊が降って初めて、初めてその真意が弟子たちには分かったのではないか。
この主のふるまいに対しては、ユダヤ人たちは、それなら、しるしを見せていただきたいと言いました。主は、この神殿を壊してみよ、私は三日でそれを立て直してみせると答えられました。
記者ヨハネは、それは、御自分の体のことだったのであると記しています。この神殿とは、ナオスという言葉で、聖所、神のいますところという意味の字が使ってあります。主イエスご自身が、家造りらには捨てられたが、隅の親石となってくださるのであります。
主イエスが神の小羊として、ただ一回のいけにえとして、やがて十字架の上でささげられるのであります。
そして、エルサレムの神殿ではなく、主イエスにおいて、真実と霊とにおいて礼拝がされるようになることを、今日の記事は示しています。今や神の宮として、教会が、主にささげられる、新たしい救いの時代に、このときから入ったのであります。
そして、主イエスが、神殿から、商人を追い出し、すべてを聖別されたように、私どもも、礼拝・信仰生活のみならず、日常生活も、職場も、家庭も、社会に向かっても、神の御心に適ったようにふるまうべきことが、求められているのであります。キリスト者の全生涯が悔い改めであると、マルティン・ルターが宣言したことの意味は、そのようなものであります。そして、今日の主イエスのふるまいと、み言葉は、そのような恵みと、そして、裁きの両面に私どもを導くものであります。来年、改革500年を迎える、神の宮である教会を、主にささげる喜びを、この日共に祝いたいと思います。
アーメン。
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