2025年5月25日日曜日

「弁護者キリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2025年5月25日)(白)

使徒言行録16章9―15節(新 245)

ヨハネの黙示録21章10、22―22章5節(新478)

ヨハネによる福音書 14章23―29節(新197)


 現在、日本で人格形成の教育問題は、とても難しい時代に突入したと思います。もちろん日本だけの問題ではありませんが、特に日本社会においては生きるということは、自分の為とか、親の為、金の為、世の為、人の為ということでしか語られず、神の為、キリストの為に生きる、と言うと、何かカルトのように思われてしまいます。しかし、神に愛されている私たちは、コリント信徒への手紙10章にあるように、「私の人生は神の栄光を表すためにある」と堂々と言えるよう、そのような時が早くこないものかと思うのです。


 本日の福音書は最後の晩餐の食事の席上でイエス様が語られた長い長いお言葉の一部です。ここでは弟子たちが聖霊なる神について何もわかっていなかった時に、イエス様自らが聖霊について説明しておられるのです。


 この食事はもともと過越の祭りの食事で、種を入れないパンと小羊のローストを苦菜と一緒に食べます。弟子達はおいしいおいしいと食べたはずです。そんな雰囲気の中、イエス様は「私は去っていくが、また戻ってくる」と言われます。


 イエス様は、ご自分が十字架に掛かって死に、再び会うことはできないと思ったとしても「あなた方を孤児にはしない」とおっしゃいます。そして、さらには「あなたたちに弁護者を送る」と言われます。この「弁護者」とは「後見人」という意味もあり「助け主」とも取れる言葉です。


 ご自分が全ての役目を終えて天に帰られたあと、そのような存在を送ってくださる、だからあなたたちはひとりぼっちにはならない、と約束してくださるのです。本日はこの約束について見て参りましょう。


 イエス様はこれまで、貧しき者や、弱きもの、見捨てられた者に寄り添い、奇跡を行い、命を与える様々なことをされてきました。そしてそれが神様の御心なのだと言うこともきちんとお話しされてきました。


 イエス様はご自分が本当に力を奮ったなら、世界に良い影響を与えられることは当然お分かりでした。しかし世の中の人々は、カリスマ性のある人を尊敬しますが、その力を利用しようとする人も出てきます。イエス様はご自分が有名になるにつれてそれを利用しようとする人々が出てくるのをわかっておられましたから、その前に、語るべきことを全て語り、十字架にかかり、神様の究極の愛を伝えられました。それこそがイエス様が地上に来られた目的だったからです。


 昔から創業者がキリスト教信仰に基づく高い理想と共に始めた教育事業や社会福祉事業は数多くあります。しかし創業者の理念がどれほど熱い信仰によるものでも、それを何代にもわたって維持することは現実的にはできません。


 誠実に社会のニードを満たそうとすればするだけ、人手不足や資金不足に陥り、「キリストの心を持って働こう」とは言えても、競争社会の中で日曜礼拝すらままならないことも多くなります。


 個人で信仰を保って生き、同僚に良い影響を与える人もいますが、本気で苦しんでいる人に寄り添おうとすると、「なぜ、そんな無駄なことをするのか」「それは自分達の仕事だろうか?」「そこまでやるなんてあなたは馬鹿なのか?」などと否定されることもしばしばです。


 結局のところ、キリスト者というのは、信仰に基づいて善意で必死に働きながらも、ずる賢い人々に良いように利用され、気がつけば梯子を外されるという嫌がらせを何度となく受けてきた、そんな経験を持つ人々でもあるのです。


 キリスト者が今の時代において貧乏くじを引きやすい集団であることを理解しないまま、キリスト教への漠然とした憧れだけで信仰に入ってしまうと、自分に不利益なことが起こったり、頑張ってやってきたことを評価されなかったりすると、一気にやる気をなくして教会から離れてしまうこともあるのです。


 イエス様はそう言ったことが起こりうることを全てご存知です。だからこそ「みなしご、つまり孤独にしない」とまで言われるのです。信仰者が孤独に追い込まれることがあると知っておられるからなのです。しかし私たちの孤独は、神から役割を与えられ、神様の思いをこの世で実現しようとする時必ず経験する者です。だからこそ、働き人を決して軽んじることなく「弁護者を送る」、「後見人を送る」そして「助け主」を送る、と約束してくださるのです。


 この助け主はイエス様を信じる人々が信仰や希望、理想や愛を手放さないよう、いつも見守ってくださいます。そして仮に失敗して挫折を味わっても、天の御国に召された時には、神様の御前に共に立って「この者は私の言葉に従おうと必死でやったのです」と弁護してくださるのです。私たちはそのような心強い味方をすでに得ているのです。


 私が飯田に着任した時、聖壇左の物置の奥にギリシャ語で「カリス」と記されたステンドグラスを見つけました。カリスという言葉には恩恵や恵み、聖餐式の杯という意味がありますが、確か食卓という意味もあったかも、と呟きますと、誰かが「もう飯田教会には台所が無くなったのですよ」と言われました。


 飯田教会は幼稚園が生き残るために大きな犠牲を払い、食卓を囲んでの食事や、ゆっくり聖書を味わい学ぶ静寂の空間が失われてしまったのだと直感しました。けれども今、幼稚園は大きく盛り返そうとしていますし、私たちも今一度信仰者として自由に用いることのできる礼拝堂を取り戻すことができました。


 私たちはこれからも幼稚園と共に歩んで参ります。ほぼ未信者の先生ばかりの中、幼稚園がこの世の社会事業に引っ張られ、形だけのキリスト教主義に陥らないよう守っていかなければなりません。幼稚園が信仰的な業が展開できるように、私たちの群れは愛餐と信仰の分かち合いを大切にし、落ち着いて、迎え入れて、喜びの日々を送れますように、新たな歩みを始めてまいりましょう。


礼拝堂の内装の工事が終わり、行政の検査に合格すれば、5月30日には引き渡しになります。順調にいけば6月1日の礼拝は改修工事の終わった礼拝堂に戻って礼拝ができます。

集会室リリーで礼拝を始めてからちょうど1年です。

資材の値上がりの影響を受け、予算不足で変更になったところもいくつもありましたが、足りないところを数えるのではなく、神様から与えられた場所として、これからも大切に用いて参りましょう。


新しくできた教会専用の玄関です
三角屋根の下にルターの紋章の
看板を取り付けるはずでしたが
予算不足で今はつけられません
じっくりやりたいと思います


ルターの紋章とはこんな感じ
寄贈されたステンドグラスを
どこにつけようかと迷ったのですが
既存の建物に穴を開けるわけにいかず
新設の壁に嵌め込みました
変則的ですが、光が透けて綺麗です
今は壁紙が貼られてもっと綺麗に見えるはず

2025年5月18日日曜日

「新しい掟」(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2025年5月18日)(白)

使徒言行録11章1―18節(新 234)

ヨハネの黙示録21章1―6b節(新477)

ヨハネによる福音書 13章31―35節(新195)


 最近のことですが、キリスト教を母体として生まれた経営学や世界社会学や地域社会学が今人気で、ミッションスクール系の大学に行ってキリスト教的な経営観を学ぶ若者もいるそうです。


 キリスト教経営学で学べることは大きく分けて3つ、一つは信頼性の向上です。キリスト教では唯一の神様だけを信じているので、倫理観が高い、その為に、従業員からも顧客からも信頼が高く安定するので経営が安定するのです。


 二つ目は持続可能な社会の実現です。命は限りあるものではなく、永遠だと神様から教えられますから、目先の利益にとらわれず、もっと広い視野で、長い目で社会貢献、環境保護などに取り組むのです。


 三つ目は、グローバルな視野を持っていること。新約聖書の中で、弟子たちが異なる文化背景を持つ人々とのコミュニケーションをしながら宣教を行った姿勢に学ぶことがビジネスの成功につながると言われているのです。こういった傾向について、皆さんはどうお感じになるでしょうか?


 2000年近く前、最初のクリスチャンたちは、神様の示しに従って自分を縛り付けていた古い常識、古い約束から自由になり、イエス様に導かれながら民族を超えて伝道していきました。しかし今、キリスト者である私たちはそう言った自由さから、かけ離れたところにいるような気がしてなりません。本日のヨハネ福音書の聖書箇所には「新しい掟」という小見出しがつけられています。この掟にわたしたちを自由にするヒントがあると信じて、本日も共に聖書に聞いてまいりましょう。


 ヨハネ福音書は4つの福音書の中で最後に書かれたもので、少なくとも西暦60年より後、イエス様が天に帰られてから30年以上は経過していたと言われます。その頃はイエス様から直接教えを受けた弟子達が地中海沿岸の諸地域へ宣教を開始しており、キリスト教がユダヤ人以外の人々へと広まり定着しつつあった時代です。


 やがて、12弟子以外にも、イエス様の教えを直接受けたことがなく、それどころか、かつてはキリスト教の迫害者であったパウロのような人物が回心して使徒となり、強力に宣教を推し進めていきました。


 しかし、やがて迫害が起こります。人生の成功とは権力や経済力を得ることだ、と考える人々にとって、キリストの教えはやっかいです。努力や苦労を重ね、豊かになり、権力を持てるようになっても、キリスト者は「あなただけの力ではない」と言うのです。「神様に感謝を」と説教し、それを無視すると「なんと傲慢な」と冷ややかな目で見るのです。機嫌を損ねた支配者や権力者はキリスト者への迫害を始めます。そうした歴史がローマ時代の歴史にはっきりと残っています。


 ところで、キリスト教はこういった外部からの迫害とは別に、常に内部分裂の危険性を持っていて、信徒の数が増えていかない現実がありました。


 異邦人社会にキリスト教が広まると、当時のギリシャ哲学の影響を強く受けるようになります。ヨハネ福音書の冒頭には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と書かれていますが、これは実はギリシャ文化や哲学の影響を受けている人にイエス様のことをわかってもらおうと考えた末の文章です。


 様々な文化背景を持つ人々に教えるために、キリスト教教理や、キリスト者ならこういう生き方、暮らしをするという考え方をきちんと整理したのです。神様とは「父、御子、御霊の三位一体の神である」という教えもこの段階で示されていたと言われています。


 きちんと学び、共通の理解を深めるのは正しいことですが、ついていけない人も現れてくるものです。能力の差で上下関係が生まれたり、主張が強く、無益な議論を延々として相手を凹ますような人々が「頭が良い」と評価されました。困ったことに、こういった人々は「自分は神の御心を行なっているのだ」と信じ込んでいて、傷ついた人々が群れを離れても「あの人は信仰が弱いから」と決めつけます。


 イエス様の教えが好きだから教会には来るけれど、言い争いは嫌だから、とサッときてサッと帰ってしまう。自分の居場所だけを求めるような人々も生まれてきて、教会はどんどん弱くなってしまうのです。


 一般的に、人間の群れというのは、どれほど小さくとも上下関係ができてしまうもので、誰がリーダーになるかで繁栄もすれば衰退もします。キリストの群れも、こうなってしまったらこの世の集団と少しも変わらりません。しかし、私たちの教会はこの世の仕組みとは違います。それは私たちのリーダーは神の一人子イエス様だけなのだ、と言う信仰です。


 神の子イエス・キリストは、ご自分が十字架にかかることで、栄光がこの世に与えられることを教えられました。イエス様の無惨な死は人々に衝撃を与えます。激しい後悔の思いと共に、一緒にいられる時間をもっと大切にすればよかった、もっと学べばよかった、そして何よりもっと愛すれば良かった、という感情が沸き上がります。人間には愛する心がいつも大切で、イエス様は十字架で亡くなることで「今、共にいる時に愛し合うこと」の大切さを思い起こさせてくれるのです。


 イエス様はご自分を信じるすべての人に、民族、時空を超えて、老若男女すべての人に、「互いに愛し合いなさい」「友という感情を抱きなさい」と、それを新しい掟として与えてくださったのです。


 「互いに愛し合いなさい」も「友であれ」も、互いに性格や賜物の違いを理解した上で尊重し合い、誰か一人に重荷を負わせないためにどうするか考え続け、かつ実行し、互いが居心地良くなるように配慮し合うことで実現します。


 それがキリストの群れの証であり「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様がおっしゃったことの意図です。そしてそれこそが、教会の群れに求められる掟であり、基本なのです。




教会のリノベーション終了と引き渡しの日が決まりました

予定が一ヶ月以上伸びて5月30日です

教会専用の玄関も形になってきました

内装も順調に進んでいるようです

6月1日の礼拝から使えそうです

本当に待ち遠しい!



今まで冷房設備のなかった礼拝堂に
エアコンがつきました
真夏の礼拝も熱中症の心配は無くなります
室外機は屋根の上
今は見た目に違和感があるけれど
そのうち慣れるでしょう

昨日は5月の土曜学校でした

4月の土曜学校はイースターの前日

ここでイースターのお祝いをするのはちょっとなあ、と言うことで

一ヶ月伸ばしまして

昨日たまご探しゲームを行いました


諸般の事情で掲載できる写真がないため

読み聞かせに使った絵本の表紙など(^^;)


教科書にも採用されたらしいので

ご存知の方もおられることでしょう


「先生はこの絵本を読んだ時

どことなくイエス様の生涯に似ているなあと思ったんだよ」

とお話ししてから読みました


自分の命を投げ打ってサバンナの動物の子どもたちを救い

一本の木になったエルフ

みんな最後までしっかり聞いてくれました

心に残ってくれると嬉しいです




2025年5月11日日曜日

「神様に養われる」(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2025年5月11日)(白)

使徒言行録9章36―43節(新 231)

ヨハネの黙示録7章9―17節(新460)

ヨハネによる福音書 10章22―30節(新187)


 本日の福音書の箇所は、「イエスは良い羊飼い」というメッセージですが、「99匹の羊を残して、1匹の羊を探し出す」というものとは少し違います。私の名前を呼んで連れ戻してくださるイエス様のお言葉に耳を傾ける私たちはただ甘やかされ、守られるだけの羊であってはならないことが示されています。


 この出来事は冬の時期、神殿奉献記念祭の頃と記されています。これはイスラエルの民にとって大切な祭りで、そもそもの由来は、イエス様が誕生する600年も前に遡ります。紀元前600年ごろ、ユダヤの国はバビロニア帝国との戦争に負け、多くの国民がバビロニアに連れていかれます。これを「バビロン捕囚」といい世界史の教科書にも載っています。捕囚は奴隷とは異なり、有能なものは政府高官として取り立てられましたし、教育や宗教、生活の自由もありました。けれど多くの人々は祖国に帰ることを願い積極的にはバビロニアに溶け込もうとはしませんでした。


 捕囚生活が始まって60年ほど経った頃、バビロニア帝国は新たに台頭してきたペルシャ王国に倒されます。その時ペルシャの王キュロスは、ユダヤの民が祖国に帰ることや、神殿の再建を許可します。しかし神殿を建て直したのも束の間で、やがてギリシャがこの地域を支配するようになり、そこから先はさまざまな権力争いが勃発します。イスラエルは再び戦争に巻き込まれ、せっかく建て直した神殿にはギリシャ神話のゼウス像や異教の祭壇が築かれてしまったのです。


 そのような状況からユダヤ人を救ったのがマカバイオスという人物です。彼はエルサレムを奪還すると、神殿の汚れを清めて主なる神に改めて献げ直しました。それが紀元前164年12月のことで、ユダヤ人たちは、このことを記念して神殿奉献記念祭を行うようになったのです。


 神殿奉献記念祭はこう言った経緯から、非常に政治色の強いもので、人々の心の中に「イスラエルを自由にしてくれるマカバイオスのようなヒーロー、つまりメシアはいつ現れるのか」という思いが最も強くなる時期でもあったのです。


 この時、イエス様は神殿の境内のソロモンの回廊というところを歩いておられました。ユダヤの人々は整えられた神殿で、奉献祭を行っています。しかし、神殿の司祭たちの心の中は神様への信仰よりも、どうやってローマとうまく折り合いをつけるかと言うことばかりでした。イエス様にとって、神殿はもはや空っぽな場所に思われたのでしょう。


 ヨハネはこの時を冬であったと強調します。ユダヤの人々なら神殿奉献記念祭といえばしつこく書かなくとも冬であることを知っています。ここにヨハネのメッセージが込められています。


 イエス様は、神の国の実現の為に、メッセージを送り、私に従いなさいと声をかけてくださり、私達の罪の犠牲になろうとしておられます。その先には天国が備えられているのに、人々はそのお言葉を聞こうとせず、イエス様の命をかけた思いは誰にも届かないのです。まさに季節もイエス様を取り巻く状況も冬のように不毛だったと告げているのです。


 そこへ現れたのはエリートのユダヤ人たちです。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と命令口調です。「イスラエルを自由にしてくれるマカバイオスのようなメシアはいつ現れるのか」と言う必死の思いがそう言わせたのでしょうが、無礼であることに変わりはありません。彼らからは、イエス様を利用して庶民を扇動し、独立運動を展開しようとする思いが透けて見えます。彼らは神の子であるイエス様の本当の想いや導きを聞こうともせず、自分達の欲望や計画にイエス様を従わせようとする思いでいっぱいなのです。


 しかしイエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とはっきりと示されました。これは単に「無策であれ」とは言っておられません。長いものに巻かれろとも違うのです。ピンチになった時、牙も爪もない羊の戦い方は羊飼いの声に従うというこの一点に尽きると言われているのです。


 イスラエルの山々には、狼の皮というのがあちこちにあるそうです。自分達を襲って来る狼を見つけたら、羊飼いは羊たちを導いて山の頂上に登って陣をとるのです。そして、狼を下に見て、狼の動きが止まったら、狼に向かって一気に山を駆け降りるのです。すると狼たちは羊に蹴られ、踏まれ、ぺっちゃんこになると言うのです。


 それが作戦であり、身を守る術です。逃げるのでもなく、犬死でもなく、知恵や知識を用いて危機から脱出するのです。イエス様に従うものはそれができる、とイエス様はおっしゃっています。


 すなわち、この私達もイエス様の声に従っている限り、知恵を駆使した戦い方で勝利を得ることができるのです。「わたしたちは他の誰でもない、神様に養われていることを忘れない」ことが大切なのです。聖書の学びの中で、単純に優しいだけでいいとか、自分にとって都合の良いことをしてくれるのが愛の証だと思い込んだりせずに、イエス様から神の声を聞き、「我に学べ」というイエス様の教えから導きと養いと守りを覚えましょう。共に神の国に生き、神の声を聞いて訪れる人々を招きいれる者として、共に生かされてまいりましょう。



17日は土曜学校です
リノベーションの終わった礼拝堂で実施することは
かないませんでしたが
幼稚園の遊戯室と園庭を使用して
楽しいひとときを過ごしたいと思います
5月中には引っ越し可能!
待ち遠しいです


たいていの子どもは「宝探し」が好きです
イースターが「たまご探しの行事」になってしまうのは
微妙な気もしますが
きちんとイエス様の十字架のお話も
聞いてくれるので
よしとしましょう(^^;)

2025年5月4日日曜日

「新しい出発」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・復活節第3主日礼拝(2025年5月4日)(白)

使徒言行録9章1―6節(新 229)

ヨハネの黙示録5章11―14節(新458)

ヨハネによる福音書 21章1―19節(新211)


 本日はヨハネ福音書の最後の部分を読んでいくわけですが、少し不思議な印象を受けるのではないでしょうか。20章で完結し、「本書の目的」と小見出しの付けられた後書きのような文章も添えてあるのに、21章は「その後」という書き出しで始まって、印象的な物語が記されています。


 私たちは漠然と、イエス様が復活されて天に帰られた後、ペンテコステで聖霊なる神が降って来られるまでの期間、すんなりと時が流れ、弟子たちは迷うことなく世界宣教に立ち向かっていった、と考えがちです。しかし本日の福音書にはイエス様が復活された後、弟子たちが迷ったり苦しんだりした様子が描かれています。


 この時、ペトロたちはイエス様の宣教活動をどう受け継いでいくか色々考えたあげく、地元に戻って多少なりとも面識のある人々に伝え始めたのかもしれません。地元ですから、ある程度の人には集まってもらえたことでしょう。


 しかし人々は民族宗教のユダヤ教があるのに、イエス様の教えを改めて信じることにどれほどの意味があるのか理解できません。イエス様がローマの支配下の元に十字架にかかって死に、復活したことを素直に信じる人はそれほど多くなかったようですし、民衆が何より望んでいた、ローマを追い払ってイスラエルの独立を勝ち取る、ということを成し遂げたわけでもありません。


 実際、自分達がガリラヤ湖と呼んでいるこの湖も、ローマ皇帝の名前にちなんでティベリウス湖と呼ぶように強制されており、今の時点では世の中は何一つ変わっていないのです。


 ペトロは情熱だけは持ち合わせているのですが、イエス様のように豊かな言葉を駆使して証したり、人々に伝えていくだけの強いカリスマ性を持ち合わせてはおらず、もちろん奇跡も起こせません。そんなペトロがリーダーを務めるこの弟子集団が行う伝道活動は、うまくいきそうもありませんでした。


 この日ペトロは「わたしは漁に行く」と仲間に告げ、本当に湖に漁に出かけます。かつてイエス様に「人間をとる漁師になれ」と言われたことなど忘れてしまったかのように、以前の仕事に戻ってしまったかのようでした。


 他の弟子たちも「私たちも一緒に行こう」と出かけます。力無い足取りで湖に向かう彼らにとって、イエス様が教えられた様々なことは、ただの理想論に見えてきたのかもしれません。腹が減ればもともと漁師なのですから、魚を獲って食べることはできます。しかし神様の思いや神の国の実現の為に、自分には何ができるのか。もはや何もできないのではないか。自分たちは無力だ。彼らはこの世の現実に縛られてイエス様の教えそのものも見失おうとしていました。これは悪魔に縛られているのと同じでした。


 彼らは舟に乗り込み漁を始めましたが、その夜は何もとれず、夜が明けてしまいました。こうなってはもう作業をしても無駄でした。伝道どころか魚一匹獲れない自分たちに嫌気がさした時、そんな自分に声をかけ、弟子にしてくださったイエス様との思い出が頭をよぎったかもしれません。


 まさにその時、誰かが岸辺から「子たちよ、何か食べる物があるか」と声をかけたのです。弟子たちは一同そろって「ありません」と答えるのです。本当に何も獲れなかったからです。漁師でありながら、お腹をすかしている人にそう答えるしかない。それも彼らの絶望を深くしていました。


 するとその人ははっきりと言いました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」


 弟子達は、この人が誰とも分からぬままに素直に従います。その素直な気持ちはイエス様に伝わりました。そしてあの時と同じように、網を引き上げることすらできないほどの魚が網にかかります。この出来事にペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人が何も思い出さないはずはありません。ヨハネはペトロに「主だ」と囁きます。ペトロははイエス様だと確信すると、なんとわざわざ上着をまとって湖に飛び込み、イエス様の元に帰ろうとします。服を着たのは、神様に対して失礼のないようにという「敬服」の思いだったのです。


 船の場所から岸までは200ぺキス、つまり100メートルほどで、わざわざ泳ぎにくい格好で泳ぐより、舟を漕いだ方が早かったかもしれません。それでもペトロはそうしないではいられなかったのです。


 この後、イエス様がペトロに「私を愛しているか」と問いかける有名な場面が記されていますが、今日は詳しくは触れません。ただ、ペトロの行動そのものがイエス様を愛していることを物語っています。


 やがてペンテコステの時が来て、聖霊なる神の力を得たペトロは豊かに語る賜物を獲得していきます。そして教会の土台として、天国への扉を開く鍵として、何よりイエス様のご生涯の生き証人の一人として、宣教の最前線へと飛び出します。ペトロは神様の栄光のために導かれるままに証をし、伝説では逆さ十字架に磔となって殉教したと言われています。


 私たちは、今、日本という国の中で何ができるでしょうか。調和こそ何より大切で、自分の主張を通すことは和を乱すわがまま、とまで言われるような国民性の中で、疎んじられても後に引かず宣教に生き、教会を整えていくことは、とても難しいことです。


 しかし信仰に生き、イエス様に従うことは、人と違う道に導かれることでもあります。世の中の意見では無駄と切り捨てられ、力のなさに落ち込むこともあります。それでも私達はイエス様の教えに、敬い従いながら、この地で宣教していくのです。それは2000年前に生きたペトロも私たちもなんら変わることはないのです。私たちは機会をとらえて怯まずイエス様の教えを伝え、神様の思いにしたがって歩む宣教の業をなすために、謙虚な気持ちで従ってまいりましょう。




今の牧師館として借りている家は

かつてお茶やお花を教える先生が住んでおらた古民家です

和の庭なので華やかな花はありませんが

新緑が美しく

ここ一週間はドウダンツツジが可愛らしい花を

枝いっぱいに咲かせ続けています





礼拝堂の改修はようやく目処がたち

5月中には引っ越しできそうです

仮の礼拝堂にはいつの間にか荷物がぎっしり

作業はかなり大変ですが

楽しみながら頑張ります


以前は幼稚園と共通の出入り口でしたが
感染症や不審者への対策などを考えて
教会専用の玄関を作りました
幼稚園は園児の安全を優先し
教会は開かれた場所として
それぞれの役割を果たしていければと思っています