2025年2月2日日曜日

「キリストを見る心」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・顕現後第4主日礼拝(2025年2月2日)(緑)

エレミヤ書1章4~10節(旧 1172) 

Ⅰコリント 13章1-13節(新 317)

ルカによる福音書 4章21-30節(新 108)


 本日の福音書は、先週の総会礼拝で取り上げたお話の続きです。舞台となったナザレの町は、イエス様が子ども時代から慣れ親しんだ場所でした。宣教活動の合間に戻ってこられたようです。そして安息日には、ごく自然に、ユダヤ教の教育と礼拝のための施設、シナゴークに行かれました。今日ご一緒に読みますのは、その時引き起こされた悲劇的なエピソードなのです。


 イエス様がそこに集まる故郷の人々に向かって、信仰の徳を高める為にお話をなさった時、人々は確かにその恵み深い言葉に感動しました。けれども、途中でなぜか妙な屁理屈をこねだして、イエス様の育ての父であるヨセフのことまで引き合いに出し、見下すようなことを言い始め、イエス様を町から追い出そうとし、ついにはイエス様を崖から突き落とそうとした、とまで書かれています。


 それでもイエス様は彼らの心をいつかは取り戻すことを望まれます。その一つが、「医者よ、自分自身を治せ」という御言葉です例えば、お医者さんから生活習慣病を防ぐために、少しは痩せるようにとか、運動をするように、と指導されることがあります。そのお医者さんがいかにも健康そうな人なら説得力がありますが、もし太り過ぎに見えたり、不健康な顔色をしている人だったりすると、そのアドバイスは素直に聞けないものです。せっかく正しい知識があるにもかかわらず、その知識を正しく理解し、謙虚に実行しようとはせず、自分が優位に立つ事だけに用いようとするのはいかがな者でしょう。


 聖書の正しい解き明かしについても、自分の方が知識があると思い込み、厳しい指摘をされると自分を否定されていると感じ、反発する。イエス様がここで仰る「医者よ、自分自身を治せ」というお言葉は、そのようなイメージなのでしょう。


 ここに登場する人々は恵みを感じた次の瞬間、激しい怒りで攻撃的になります。そんなことがあるだろうか、と思われるかもしれませんが、聖書は良いお話ばかりではなく、人の身勝手さや罪深さ、心の闇について詳しく書かれている書物でもあります。


 イエス様がここで引用されている預言者エリヤとエリシャの物語は、ユダヤ人にとっては非常に馴染みのあるもので旧約聖書の列王記上にかなりのページを割いて記録されていています。


 この日シナゴーグに集まった人々も、子どもの頃から知っている話でした。よくわかっているつもりだったのに、思いもかけない切り口でお話を聞かされ、自分達が都合よく聞き流していた部分を、この部分こそ本質なのだ、と言われ、非常にプライドが傷ついたと考えられます。


 イエス様のお話への理解を深めるために、イエス様が引用されたエリヤとエリシャについて、少し見ておきたいと思います。まず、イエス様がエリヤについて言及されたのは列王記・上17章の出来事です。イスラエルの多くの人が飢餓で苦しんでいる時、預言者エリヤは神様から、ユダヤ人ではない貧しい未亡人とその息子のもとに行くよう示されます。そこでエリヤはシドン地方のサレプタに住むその未亡人のところに居候しながら神様のお力で彼女たちの生活を支え、ついにはその親子に信仰の心を起こさせました。


 もう一人のエリシャはエリヤの弟子で、この出来事は列王記・下の5章に書かれています。ここでもユダヤ人以外の人物人が登場します。ナアマンというシリア人の身分の高い軍人が重い皮膚病にかかり、噂で聞いたエリシャの元にやってきます。いっそ騙されたつもりになってエリシャの治療法に従ったところ、すっかり癒やされ、彼もまた信仰心を抱くようになったエピソードです。


 サレプタの未亡人とナアマン将軍のお話しを通してイエス様が強調されたのは、神様の救いの御業はユダヤ人だけの限定的な業でなく、神様の一方的な恵みであり、神の業と言葉を感謝して信じ、素直に受ける信仰があれば、異邦人にも与えられる、ということでした。


 神様との繋がりは、神様の前で謙虚になることによって得られるものであり、自分は何々だからということからも解放されて、神様の救いの業の中に私も含まれている、その感謝を思ってそこに留まるようにイエス様はお教えになったのです。


 ここに登場するユダヤの人々は非常に差別的で、異邦人が神様に救われたのは、神様がお力を示すための気まぐれに過ぎず、エリヤの話もエリシャの話も、本筋から外れた蛇足的なエピソードだと思っていたのでしょう。


 ところがそれを、イエス様が「ユダヤ人に足りない非常に大事なことを異邦人が持っていた」とお語りになったのです。それで人々は憤慨し、総立ちになって、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。

 ちなみにこの崖は「突き落としの崖」といった物騒な名前で呼ばれ、ナザレに観光に行くとガイドさんが案内してくれるそうです。


 それはともかく、ナザレの人々は自分達は神様に救われて当然、という傲慢さに陥っていたため、神様の聖なる言葉を受け入れられない状態だったのです。彼らの態度を見てイエス様は「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と嘆きの言葉を残されました。


 それでもイエス様は、それから後も、神様が導かれる限り、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、救いの業を行われました。


 私たちは、自分自身のことを平凡な存在と思っているかもしれません。しかしユダヤから遠く離れた日本の地で、イエス様を信じたということは、神様の奇跡がなければ起こりえないことなのです。私たち一人一人は神様の奇跡によって存在している。そのような思いでキリストを見る心をいつも大切にしてまいりましょう。



建物の正門横にある教会と幼稚園の共通の掲示板に

毎月頭に牧師が組み立てたレゴの作品を入れています

園児には割とウケが良く

楽しみにしてくださっている保護者も

おられますが

今は工事中で正門からは出入りできないので

掲示板の前を通る人も少なく

熱量がちょっと下がっています


この作品は明日掲示板に入れる予定で組み立てましたが

レゴではなく、(おそらく)韓国で作られたパズルです


「イエス様とマリアさん」

…に、見えますでしょうか?