2025年11月16日日曜日

「かみさまの ゆめ」(日曜日のお話)

こども祝福式礼拝(2025年11月16日)(赤)

ルカによる福音書 18章15-17節(新144)

説教「かみさまの ゆめ」         


 「かみさまのゆめ」という絵本があります。「デズモンド・ツツ」という人がお話を書いて、ウエインさんという人が絵を描きました。ツツツさんは1984年にノーベル平和賞というすごい賞を受賞した人です。中が見たい?ごめんね、ちょっと待ってくださいね。


 みんなはノーベル平和賞って知ってますか?一年に一回、世界の平和のために一生懸命働いた人やグループだけがもらえる、ご褒美です。毎年12月10日に授賞式があります。世界中の専門家が真剣に話し合って、誰にあげるのがよいか決めるのです。「この人がノーベル平和賞をもらうのは当たり前だ」と認められた人だけがもらうことができます。


 昨年は日本の被団協というグループが受賞しました。本当の名前はちょっと長くて「日本原水爆被害者団体協議会」と言います。核兵器という恐ろしい兵器が地球から無くなるよう、何十年も頑張ってきたのです。この人たちは、ちょうどルーテルキッズバンドの皆さんぐらいの時、長崎や広島に住んでいて原子爆弾を落とされました。家族や友だちが死んだり家が吹き飛ばされたり、ひどい火傷をしたりしました。すごく辛い目にあったけれど、何とか生きて大人になることができました。


 この人たちは「爆弾を落とした人に復讐してやる」とは全然思いませんでした。核爆弾でひどい目に遭うのは自分達で最後にしたいと決めたのです。核爆弾を落とせばどれだけたくさんの人がひどいことになるか、世界中の人たちに話して回りました。お話を聞いたたくさんの人が驚き、感動し、核兵器は良くないと考える人がどんどん増えました。その活動が立派だと認められてノーベル平和賞をもらったのです。


 では、この絵本を作ったツツさんはどんな活動をしたと思いますか?ツツさんは南アフリカという国に生まれました。その頃の南アフリカでは、黒人がひどい差別を受けていて、白人ばかりが威張っていました。黒人は仕事を見つけるのも大変、勉強するのも大変でした。病気になってもお医者さんがちゃんと診てくれないので、死んでしまう人もいました。ツツさんの家は貧乏でしたが、彼はものすごく頑張って、まず学校の先生になり、それからキリスト教の先生になりました。そして南アフリカで黒人が差別されるのをやめさせるために戦いました。


 戦いと言っても暴力は使いません。白人を酷い目に合わせよう、とは思いません。殴られたら殴り返すのではないのです。ツツさんはいっぱい勉強して、たくさんの人の前で「同じ国民なのに黒人が差別されるのはおかしい」とお話ししたのです。いじめられることもありましたが、やがてツツさんやその仲間の働きで、南アフリカは大きく変わり、黒人を差別する決まりは無くなりました。これはすごいぞ、ということでノーベル平和賞をもらったのです。


 その後、ツツさんは子どもたちにも「差別はやめて仲良くしよう」とお話ししたくてこの絵本を作ったそうです。


 ノーベル平和賞は他にどんな人がいるかな、皆さんが知っていそうな人は、そうですね、マザー・テレサとかマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとかシュバイツァー博士とか。知っている人はいるかな?


 この人たちは、例えば「俺のいうことを聞いて喧嘩をやめろ」と脅かしたり、「お金をあげるから、とりあえず仲良くしようよ」なんて変な誘い方をしたりはしません。「世界が平和になるためには今のままではいけない」と信じて、自分が正しいと思うことをたくさんの人に知ってもらえるように勉強し、行動し、コツコツ努力をして頑張ったのです。


 さて、ここでとても大事な質問です。「正しいこと」って何だと思いますか?実は「正しいこと」というのは時代や国、人によってすごく変わります。みんなは「人を殺すのはいけない」と知っていますね。でも戦争の時には敵をたくさん殺した人が偉い、と褒められます。


 それから、お金を盗むのはいけないと知っていますね。でもお金があれば何でもできると信じている人は、お金持ちになるためにずるいことをしても平気です。「騙される方が悪い」と言ったりします。


 他にも「俺が世界で一番正しいんだ、偉いんだ、俺に反対する人は馬鹿だ」と威張っている人もいます。昔の話ではありません。今もそんな人がたくさんいます。この人たちは自分が間違ったことをしているとは思ってなくて、「自分は正しいことをしている」と思っています。そんな人たちが増えると、世の中がどんどん滅茶苦茶になって平和な世界ではなくなります。


 いつ爆弾が落ちて死んでしまうかわからない。ご飯がものすごく高くなって買えなくて、いつもお腹ぺこぺこ。病気になってもお医者さんに見てもらえない。そんな世界になったら嫌でしょう?だから私たちは、「本当の正しさ」ってどんなことか知って、それを目標に、ちょっとずつでも頑張ることが大切なのです。平和な世界になるためには、子どもの時から「本当の正しさ」を知ることはとても大切です。


 「こうすれば正しく生きられます」と書いてある本は世界中にいっぱいあります。でもどれが一番いいのかなあって悩まなくて大丈夫です。「正しいこと」を教えてくれるすごい本は、みんなに一番近いところにあります。それがルーテル幼稚園でも、ルーテル教会でも大切にしている「聖書」なのです。聖書はとっても昔に書かれましたが、今でも世界で一番読まれている本だと言われています。


 聖書には、この世界をお作りになった神様と、その一人子イエス様のことが書かれています。神様もイエス様も私たちのことが大好きだから幸せに暮らして欲しいのです。そしてどうすれば世界は平和になるか、イエス様はお手本をみせてくださいました。イエス様を信じて真似して、神様にお祈りすれば力がもらえることも、聖書に書いてあります。


 神様もイエス様も、いっしょに頑張ってくれる人をいつでも探しています。だから先生たちも神様の仲間になってくれる人をいつでも探していて、おとなの人にも子どもたちにも神様のことをお話ししています。


 イエス様はこんなふうに言っています。人間は誰も完璧ではなくて、間違えるし、失敗もするけれど、それでもいいんだよ。みんなが仲良くできるようちょっとずつでも頑張る人は、私の友達、いつも一緒にいるからね。イエス様はそう約束してくださいました。


 そうそう、皆さんはクリスマスがイエス様のお生まれをお祝いする日だと知っていますね。イエス様が馬小屋でマリヤさんから生まれたことをお祝いする日です。え?忘れてた?じゃあ今日しっかり覚えて忘れないでくださいね。


 教会では、今年は11月30日からアドベントと言ってクリスマスの準備が始まります。毎年のこども祝福式礼拝は、このちょっとだけ前にあるのです。こども祝福式はイエス様から「愛と平和があなたにありますように、あなたが元気で過ごせますように」と祝福してもらう日です。その時、ああ、もうすぐイエス様のお祝いのクリスマスが来るんだなあ、と思い出してもらえると、イエス様もとても嬉しいはずです。


 最後に、こうして絵本を持っているだけだとつまらないので、この絵本の中で、先生が好きだなあと思うところを読んでお話を終わりにしたいと思います。


かみさまのゆめ

かみさまの ゆめは みんなが たがいに てをつなぎ

いっしょに あそび えがおで いることなんだよ

でもね、かみさまは むりに みんなを ともだちに させたり

なかよく させようとは なさらないんだ

かみさまの こどもだけど ときに おこったり

きずつけあったり してしまうことが あるでしょう

そのときは かなしくなったり ひとりぼっちに なったような

きもちに なるものだね

ときどき ないたりするけど そんなときは 

かみさまも いっしょに ないているんだ 

でも ごめんなさいをしたり ゆるしてあげたり するときは

じぶんたちの なみだだけじゃなくなくて

かみさまの なみだを ぬぐうことにも なるんだよ

わたしたち ひとりひとりの なかには 

かみさまの こころの かけらが あるんだよ

そして みんなが たがいを たいせつに しあうとき

かみさまの こころの かけらは 

あつまって ひとつのものに なるんだ


毎年こども祝福式に来てくれたお友達に
カードとささややかプレゼントを
差し上げています

2025年11月11日火曜日

「土曜学校」と「こども祝福式礼拝」どうぞお越しください

今年は暦の関係で「土曜学校」と「こども祝福式礼拝」を
土曜日曜と連続して開催いたします
どうぞお越しください



2025年11月9日日曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝(2025年11月9日)(緑)

詩編17編1―9節(旧)

Ⅱテサロニケの信徒への手紙2章1―5節、13―17節(新381)

ルカによる福音書 20章27―38節(新150)

説教「神の愛と赦しの中」         朝比奈晴朗


 本日福音書にはサドカイ派という人々が登場し、イエス様に論争を挑みます。イエス様とやりあうといえばファリサイ派が思い浮かびますが、サドカイ派はファリサイ派とは立場も考え方も違います。


 ファリサイ派は律法を守って生きることを何より大切にし、それが神様に喜ばれることであると信じ、一般民衆にもそれを求めました。律法の教師として、また政治家として、社会に強い影響を与えていました。いわば歩くルールブックのような人々です。


 一方ここに登場するサドカイ派というのは、貴族階級で先祖代々神殿に仕える人々でした。大祭司はこのサドカイ派から選ばれました。


 ファリサイ派とサドカイ派の大きな違いは、ファリサイ派は天国や復活を信じていましたが、サドカイ派は死者の復活や死後の世界は信じなかった、ということです。


 復活についての考え方は、聖書学者たちの長年の研究のうちに「神様の御心」として理解され、定着したものでした。しかしサドカイ派は「神殿があればそれで良い」と考え、「モーセ五書」と言われる旧約聖書の冒頭にある5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを信じ、聖書全体を掘り下げて学ぶことをせず、単純に「モーセ五書に書かれていない」という理由で復活を否定したのです。


 しかしイエス様は多くの人々に神様や天国の話をされ、人々の心を捉えていました。その中には神殿にろくに献金できない貧しい人々や罪人と呼ばれる人々も含まれていました。裕福ななサドカイ派の人々にとって貧乏人は目障りな存在でしたから、イエス様の動きそのものが目障りだったのでしょう。


 そこでユダヤ民族が大切にしてきた律法の中からレビラト婚という掟を持ち出し、論争を挑んだのです。この掟は、子どもがいないまま夫が死亡した場合、その妻が死んだ夫の兄弟と結婚し、血を絶やさないようにする、という決まりです。しかし彼らがたとえとして出したのは、7人兄弟全ての妻となるというような非現実的なケースです。死者が本当に復活したら困ったことになるだろう?というような、極端な例を出したのです。


 復活も天国も信じず、貧しい人々を顧みることもなく、神様の思いそっちのけで神殿でただ誇らしげに振る舞い、かと言って清廉潔白ではなく保身のためならローマとも手を組む。そんな彼らに悔い改めを求めるために、イエス様はこの滑稽な問答にあえて付き合ってくださったのでしょう。


 イエス様は、サドカイ派がモーセ五書しか信じないことを知っておられました。とはいえ深く研究しているわけでもないと知っておられました。ですから、ズバリ「死者が復活することはモーセ五書の中にも書かれている」と指摘することで無益な論争を終わらせたのです。


 この復活についての問答は、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカに福音書にも記されています。ただその結末の言葉がそれぞれ違っていて、マルコは「あなたたちは大変な思い違いをしている」、マタイは「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」そしてルカは「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」とあります。


 これはそれぞれの福音書が書かれた時代を反映していると言われています。福音書は一斉に書かれたわけではなく、イエス様が天に帰られた後、おおよそ100年間にわたって別々に書き記されたとの研究があります。この100年の間に、イスラエルも、その首都エルサレムも大きく変化していきます。


 簡単に申しますと、イエス様の活躍した時代から30年ほどたちますとローマ帝国との戦いが起こり、エルサレム神殿は陥落、ユダヤの民は国を追われてしまいます。そして、神殿の消滅と共にサドカイ派が滅びてしまったのです。


 神殿もなくし、復活信仰もない彼らは、自分達の存在意味を失ったのでしょう。一方律法の学びと教えを中心としていたファリサイ派は苦難の中を生き延び、ユダヤ教の正統派として現在も存在しています。


 神殿とサドカイ派が滅びたことは当時のユダヤ人たちに強いメッセージとして響いたことでしょう。どれほど立派な神殿があっても神様の愛や赦しは伝わらないのだ、では私たちは何を重んじるべきか、と考えた結果、福音書には著者それぞれの書き方で記されたと考えられます。


 さて、イエス様の時代から2000年が過ぎ、その間にキリスト教の礼拝もさまざまに変化していきました。神様の愛や招き、赦しをより多くの人々に伝えようとして、儀式やしきたりを重んじ過ぎた時もありましたし、学問偏重主義に走ったこともありました。今も何が正解かわからないままに様々な形のキリスト教の礼拝の形が存在しています。


 私たちルーテル教会も典礼主義という側面を持っています。「歌う教会」と言われたこともあり、先々週の宗教改革記念礼拝では、中島先生が考案した式文を用いて礼拝に預かりました。


 しかし高齢化に伴い、連続して歌うことに困難を覚える教会もあり、同じルーテル教会でもほとんど式文は使わない教会もあります。ルーテル以外では、牧師が聖書の解釈に心血を注ぎ、信徒に分け与えることを重んじる教会もあります。


 おそらくどの形も絶対ではなく、集まる人によって変化することは、神様の愛と赦しの中で認められています。私たちはまず第一に福音をどう伝えていくのか考え続けましょう。もし赦された心と愛の心があるなら、必ずこの場所が、神様の存在を感じられる場所として、多くの人が集って来るのを、私たちは見ることになるでしょう。



昨日8日(土)は幼稚園と教会のために

チャリティコンサートが行われました

歌ってくださったのはタテタカコさん

地元飯田出身のミュージシャンです

ルーテル飯田幼稚園の卒園ということで

名古屋のキリスト教者会館の方に繋いでいただき

この度実現しました

諸般の事情でライブ中の写真は掲載できないのが残念です(><)


せめて牧師がレゴブロックでPRのために作った

ライブのイメージ作品と、当日のポスターをご覧ください




タテさんのオフィシャルFBには礼拝堂で歌ってらっしゃる

写真が1枚掲載されていますので

よければご覧ください(教会のFBにもシェアさせていただきました)



さて、次週11月15日(土)は土曜学校です

お近くの皆さま、どうぞお越しください


2025年11月2日日曜日

「恵みの相続」(日曜日のお話の要約)

全聖徒主日・聖餐礼拝(2025年11月2日)(緑)

詩編149編1―9節(旧989)

エフェソの信徒への手紙1章11―23節(新352)

ルカによる福音書 19章1―10節(新146)


 本日の福音書は「ザアカイ」さんのお話です。聖書絵本や紙芝居として小さな子供にも親しまれているエピソードです。ザアカイという名前は「清い人」とか「正しい人」という意味です。体が小さい彼は、からかわれたりいじめられたりすることもあったでしょう。周りを見返すには金持ちになることだ、と考え、イスラエルを支配しているローマ帝国の手先になることを選びました。ローマが発展していくための税金をイスラエルの同胞から徴収する仕事についたのです。


 彼がもしローマの目を誤魔化して同胞から安く徴収する裁量を持ち合わせていれば、仲間は彼を慕ったでしょう。しかしそれがバレて仕舞えば仕事をはく奪され、酷い目に遭わされます。ですからそうならないようにローマに媚び、ローマの後ろ盾があるのを良いことに、同胞から不当に高く取り立て金儲けをしたのです。そして当然ながら同胞から嫌われていきました。


 それはザアカイだけではなく徴税人は大抵そんなふうでしたから、当時は「徴税人」といえば神様に嫌われた罪人、死んだら地獄に落ちるしかない大悪党、と言われるようになります。それでも周囲から嫌われようが、地獄行きだと罵られようが、徴税人になろうとするユダヤ人が後をたたなかったのは、ただ真面目に働いても貧困からは抜け出せないほどに社会全体が貧しかったからです。


 しかし、人間関係も信仰もそっちのけで経済的に豊かになることだけを求める生き方では、人は決して満たされず、幸せになれないことを神様はご存知でした。そんな人々に救いをもたらすため、イエス様を送られたのです。


 イエス様は誠実にその役目を果たされ、社会からはみ出した人々にも愛を注がれました。エリコの町の徴税人であるザアカイも、そうやってイエス様に見出された一人だったのです。


 ザアカイは人付き合いをせず、他人に心を閉ざしていましたが、この日に限ってはどうしてもイエス様に会いたくなり、周りから奇異な目で見られることも構わず、いちじく桑の木に登ります。日頃は決してそんなことをしない彼が突拍子もない行動に出た、そこに、すでに神様の招きがあったのです。


 イエス様はザアカイが木の上からご自分を見ることをあらかじめご存知でした。そしてザアカイがご自分の頼みを決して断らないことを見抜いておられたように「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。


 ザアカイの家には、イエス様一行が入れるスペースが十分あり、客をもてなす設備も備えられていました。ここにザアカイの矛盾した心が見えます。客人を招き入れる広いスペースをわざわざ作っておきながら、それまで決して人々を招こうとはしなかったのです。


 町の人々は、もちろん一度もザアカイの家にはいったことはありません。イエス様一行が招かれていく姿を見て何を感じたでしょうか。彼らは呆気に取られつつも、自分がザアカイにした仕打ちを思ったでしょう。ザアカイがイエス様を見ることができないように、わざと遮った自分達の心の狭さに気付いたでしょうか。ほんの少しでも「ザアカイに悪いことしたなあ」と思ったならば、その心をイエス様はお喜びになり、彼らとザアカイとの関係も変わったかもしれません。


 もちろん、ザアカイ自身も悔い改める必要がありました。しかし、彼はすでにイエス様との出会いによって、その切っ掛けを手に入れていました。イエス様の前に悔い改め「今まで騙し取ったものを四倍にして返し、築き上げた財産の半分を貧しい人に施します」と宣言します。彼はその名前の通り、「正しい人」として新しい人生を踏み出したのです。


 興味深いことに、ザアカイは「徴税人をやめる」とは言いませんでした。イスラエルがローマに支配されている以上、ザアカイが徴税人を辞めても次の徴税人がやってきて、好き勝手に税を取り立てることでしょう。それではだめだ、とザアカイは思ったのかもしれません。彼は徴税人としてローマからの信頼を得ていました。ですから、あえて徴税人を続け、正しい税金だけを取り立てることでこの町を不正から守ろうとしたのです。


 訪れる客もいない豪華な客間で一人ぼっちで富に囲まれ、町の人々から嫌われていたザアカイはもういません。イエス様がザアカイの心に働きかけてくださったので、彼の持つ富は困窮している多くの人に分かち与えられました。そしてザアカイの孤独も癒やされたのです。


 さて、ザアカイがイエス様に会いたいという衝動を抑えきれずに木登りをしたように、私たちの人生の中にも「これはイエス様の招きではないだろうか」と強い思いを抱くことがあるはずです。そのチャンスを逃さないでイエス様に出会うことを願う時こそ、私たちが変わる瞬間かもしれません。イエス様の声に素直に従う人は、人生をもう一度やり直して、恵み豊かな神の国を作り上げることが出来るのです。イエス様がこの世においてなさりたいと思っておられたことを引き継ぐとき、ザアカイのように「恵みの相続人」となることができるのです。


 もちろん、神様の思いを相続することは簡単ではなく、周りの無理解に苦しむことがありますし、大変な困難が生じることもあります。それでも、人生のどこかのタイミングでイエス様と出会い、この社会、この地域、この場所を、より良い場所にしたい、というイエス様の願いを引き継ぐことは私たちの人生を輝かせてくれるのです。


報告が前後しましたが、10月25日は土曜学校でした

珍しく少ない人数での実施となりましたが

充実した時間を過ごすことができました

完成した作品を掲げての誇らしげな笑顔を

ご覧ください



↑これは見本作品です
小さいお友達でも完成できるよう
ある程度パーツを準備しておくので
ほぼ同じ作品が出来上がるのですが
よく見ればそれぞれに個性があって
興味深いです