2016年9月29日木曜日

「度が過ぎないほうがよい」(コヘレト7:15-29)  

コヘレトの言葉第715節~29節、20160929、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第715-29

 この空しい人生の日々に
 わたしはすべてを見極めた。
 善人がその善のゆえに滅びることもあり
 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
 善人すぎるな、賢すぎるな
 どうして滅びてよかろう。
 悪事をすごすな、愚かすぎるな
 どうして時も来ないのに死んでよかろう。
 一つのことをつかむのはよいが
 ほかのことからも手を放してはいけない。
 神を畏れ敬えば
 どちらをも成し遂げることができる。
 知恵は賢者を力づけて
 町にいる十人の権力者よりも強くする。
 善のみ行って罪を犯さないような人間は
  この地上にはいない。
 人の言うことをいちいち気にするな。
 そうすれば、僕があなたを呪っても
  聞き流していられる。
 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを
  あなたの心はよく知っているはずだ。

 わたしはこういうことをすべて
  知恵を尽くして試してみた。
 賢者でありたいと思ったが
 それはわたしから遠いことであった。
 存在したことは、はるかに遠く
 その深い深いところを誰が見いだせようか。
 わたしは熱心に知識を求め
  知恵と結論を追求し
 悪は愚行、愚行は狂気であることを
  悟ろうとした。
 わたしの見いだしたところでは
 死よりも、罠よりも、苦い女がある。
 その心は網、その手は枷。
 神に善人と認められた人は彼女を免れるが
 一歩誤れば、そのとりこになる。
 見よ、これがわたしの見いだしたところ
  ―コヘレトの言葉―
 ひとつひとつ調べて見いだした結論。
 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。
 千人に一人という男はいたが
 千人に一人として、良い女は見いださなかった。
 ただし見よ、見いだしたことがある。
 神は人間をまっすぐに造られたが
 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。


メッセージ「度が過ぎないほうがよい」(コヘレト715-29
 
コヘレトは、あまり正しすぎるなと言い、また、あまりに愚かになるなと言う。いわゆる律法主義になるのを戒め、あるいは、道徳からも離れてどこまでも堕落するのを戒めてもいるようである。
すべての人生は空しいと、私どもの人生を覚めた目で見ながらも、複雑な私どもの生活を、とことん見つめたあげく、何が正義であり、邪悪であるかはそう容易に断定できないことを、彼は、真理を捜し求めた末に見出しているのである。
完全にその人が正しいとは言えないし、あるいは他の人が完全に間違っているということもないのである。
そして、彼は、一つの例として、男と女のことを挙げている。1000人の男のうちには、至上の者が一人は見出せたという。しかし、1000人の女のうちには、それはいなかったという。男を迷わすような女がいて、その心は網であり、その手は足枷であって、神を喜ばせつつある男は別として、すべての者がその罠に陥るという。危険な男女間の関係を、コヘレトは見ているが、それは、人間は、すべてのことは知恵や物事の理由付けによっては、断定できない、複雑なものであることを、彼は、男女間においても見出しているのである。一方では、人は家において、労働の成果を妻や子と楽しみ、飲み食いして、満足するのが一番であると別の個所では断定しているのであるが。
今日の部分では、あまりにも正しくあることに度が過ぎることもなく、また、愚かさに度が過ぎることもなく、その両方を手放すことなく、神を畏れて歩むようにと、このすべては空しい人生、すなわち、瞬時の人生を精一杯に生きることを、コヘレト、「語る者」は奨めているように思われる。
そして、最後に、こう要約している。神は、人を真っ直ぐな者としてお造りになった。しかし、人は複雑な考え方を好み、終わりなき企みを繰り返すと。
 私どもの毎日の生活の実相を、コヘレトは追及し、人間とは簡単に割り切れない不確定なものであることを見出し、しかし、それゆえに、かえって造り主である神への畏れによって、善にも悪にも度が過ぎることなく、それぞれが慎重に分に応じて賢く判断し、生きていくしかないと訴えているのではなかろうか。確かに、私どもの現実の毎日は多くの悩みと労苦と迷いの連続である。コヘレトは、かかる現実の中で、より確かな歩みをするようにと今も戸惑いの中にいる私どもを招いてくれているのである。

             アーメン。

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