2022年4月25日月曜日

イエス様とトマス(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2021年4月24日)
使徒言行録 5章27-32節 ヨハネによる福音書20章19-31節

 タイトルにありますように、本日は12弟子の一人、トマスが重要な人物として登場します。「疑り深いトマス」と言われる有名な人物です。


 イエス様が復活した日の夕方、弟子たちは、前の晩と同じように隠れ家に鍵をかけて閉じこもっていましたが、トマスはその時そこにおらず、ユダはすでに自殺しいましたから、10人の弟子だけがそこにいました。

 彼らはイエス様を陥れた権力者たちに見つかることを何より恐れていました。イエス様の弟子である自分たちも同じように逮捕され、死刑になるかもしれない、と考え、怯えていたのです。


 弟子たちが恐れていた権力者とは、当時の宗教のリーダーたちで、神殿の祭司を務めるサドカイ派と、律法を重んじるファリサイ派の人々です。この二つの派は聖書理解の違いから仲たがいすることも多かったのですが、イエス様が自分たちの共通の邪魔者であるという考えで一致していました。ですから協力しあって、彼らにとって邪魔者であるイエス様を十字架にかけたのです。


 イエス様の弟子たちは、サドカイ派やファリサイ派の教えよりも、イエス様が説かれる正しさや思いやりに溢れた御言葉、神を信じ抜く力、奇跡の偉大さに強く惹かれ、弟子になれたことを喜んでいました。イエス様こそ神に遣わされて人々を救いに導いてくださる方だと信じていたのです。


 その方が、ユダヤ世界の宗教のリーダーと自負する人々に断罪され、惨めな罪人として殺されたのです。弟子たちは、イエス様が神様に守られないのなら、他に神様に守られる人などいない、と思ったでしょう。悲惨な形でイエス様を失った弟子たちは、これからどうやって生きて行ったら良いのか分からず、すっかり途方に暮れていたのです


 ところが、十字架から三日目、隠れ家に潜んでいた弟子たちのところに唐突にイエス様が戻ってこられたのです。恐れに取り憑かれすっかり勇気を失っていた彼らの真ん中に、いきなりイエス様ご自身が立たれました。そして「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。


 10人の弟子たちは半信半疑ながら、イエス様が予告されていた「三日目に復活する」というお言葉を受け入れ始めていました。イエス様が去っていかれた後、隠れ家に戻ってきたトマスは、他の弟子たちがすっかり変わっていることに気がつきました。つい数時間前まで同じように絶望し悲観し、恐怖の中にいた仲間が、新しい光を見出し始めているのを知って強い孤独を感じます。


 イエス様が亡くなったことさえ、未だ受け入れ難いのに、その方が復活したなんて、そんな都合の良い話はありえない。激しく感情を揺さぶられたトマスは、ついには「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と強い口調で言い放ったのです。それは、「私は復活なんか信じない」と断言したのと同じでした。

 トマスがこのように言ったものですから、彼は後々まで「疑り深いトマス」と言われるようになりました。


 しかし、他の弟子たちもイエス様とお会いするまで誰一人イエス様の復活を信じようとはしなかったのですから、弟子たちは全て同じ疑いの心を持っていたのです。トマスだけが特別疑り深い、という訳ではないのです。


 イエス様が再び弟子たちのところに現れたのは前回から8日も過ぎていました。この8日間、トマスと他の弟子たちの間には、気まずい空気が流れていたことでしょう。ところがイエス様は、そんなことは関係ないと言わんばかりに、前回と同じく鍵のかかった部屋の真ん中に立たれました。そして同じように「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。


 それから、トマスが8日前に言った言葉をすぐそばで聞いておられたかのように、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われたのです。そして続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とおっしゃいました。

 トマスがこの後、実際に傷口を触ったかどうかはわかりません。しかしあれほど「信じない」と言ったにも関わらず、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したのです。


 イエス様は信仰を告白したトマスに向かって「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とおっしゃいました。ただ、これはトマスを含め、イエス様に対する信仰がぐらつきやすい私たち全てに向かって語られた言葉なのです。


 私たちの人生はなかなか自分の計画通りに進みません。同じように信仰生活をしているはずなのに、他の人ばかりが祝福されて、自分は取り残されているように感じる時もあります。イエス様を神様と信じて洗礼を受けたけれど、神など本当にいるのだろうか、私を導いてくれるはずの神はどこにいるのだろう、と悩み苦しむこともあるでしょう。そんな時、トマスが経験した出来事は私たちの力になるはずです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


 私たちはそもそも、この目でイエス様を見たことはないのです。聖霊なる神の導きによって教会に導かれたり、聖書に惹かれたり、さまざまな道を通って、ついにはイエス様のことを「わたしの主、わたしの神」と信じ、洗礼を受けるに至るのです。私たちは「見ないのに信じる人」の集まりです。だからこそ、目に見えない未来に向かって、イエス様と共に歩む力を与えられているのです。




先週の金曜日

少し遠出する用事があり

帰りに飯田市の隣の阿智村に寄りました

ここは花桃が有名で、ちょうど見頃だという

ニュースを見たからです


もう夕暮れが近かったのですが

あたり一面に咲き誇る花桃はそれは見事で

桃源郷という言葉がぴったりでした

日が落ちるまで散策し

満たされた思いで教会に戻りました






2022年4月21日木曜日

主はよみがえられた(日曜日のお話の要約)

復活祭(白)(2022年4月17日)
使徒10章34-43節(233) ルカ福音書 24章1-12節(159)

 今日のお話のタイトルは「主はよみがえられた」です。これはイエス様のお墓に行った女性の弟子たちが、そこで天使から聞いた言葉です。


 彼女たちはイエス様が十字架の上で死なれた時、なすすべもありませんでした。イエス様が亡くなられた後、アリマタヤのヨセフが自分の墓に埋葬するよう手筈を整えてくれたので、その後をこっそりついて行って墓の位置を確認しました。


 彼女たちはせめてユダヤの国の習慣通り、イエス様のご遺体に良い匂いのする油を塗って差し上げようと、三日目の早朝、墓地に出かけます。ただ問題は、そこには兵隊がいるだろう、ということでした。イエス様を死刑にするよう命令した祭司たちに雇われ、番をしていたのです。彼女たちは兵隊に見つかったらどうしよう、墓を塞いだ巨大な石をどうやってどかしたら良いだろう、などと思い悩みながら、とにかく墓へやって来たのですが、そこには兵隊ではなく天使がいたのでした。


 天使は「主はよみがえられた」という喜ばしい言葉を告げましたが、彼女たちは咄嗟に信じられませんでした。けれどもイエス様は以前から「十字架にかかって死んだ後、3日目に蘇る」と弟子たちに約束された言葉を思い出し、彼女たちは恐れつつも他の弟子たちに告げるために墓から走り去ったのです。


 それにしても神様は、なぜこんなことをなさったのでしょうか。


ご自分の大切な一人子であるイエス様を傷つけ、苦しめ、命まで奪われるに任せ、その上で三日目に蘇らせる。このことにどういう意味が込められていたのでしょうか。

 神様は遠い遠い昔、人間を作られエデンの園に住まわせ幸せになるよう導かれました。しかし、人間は神様の言葉を信頼せず、勝手に墓穴を掘ってしまって、天国のように素晴らしいエデンの園から出て行かざるを得なくなりました。


 その時から人間は、どんなに優しく良い人も100パーセント完璧ではなくなり、どんな人でも心の中に憎しみや嫉妬と言ったどす黒い思いを抱くようになってしまいました。

 旧約聖書には人間がエデンの園から出てからの長い歴史が記されています。神様を信じる立派なリーダーは何度か登場しましたが、その人々も決して完璧ではなく、愚かな失敗をして家庭不和に陥ったり、果ては自分勝手な王様になって戦争が起き、たくさんの人が死んだり、不幸になったりしたことが記されています。

 そんなリーダーなら神様がバチを当てて辞めさせ、新しい人をリーダーにすれば良いと思うのですが、100パーセント正しい人間はいないので、やり直しても結局同じことになるのです。


 そこで神様は、人間にバチを当てるのではなく、自分の悪いところを直して正しく生きたいと願う人には、正しく生き直す力を与えよう、とお考えになりました。ところが、悪いことをした人ほど神様のことを怖がり、神様に近づこうとしません。「自分は死んだらどうせ地獄に行く」と考えているので、開き直ってさらに悪いことをするのです。

 しかし神様はそういう人をかわいそうに思い、救いたいと願われました。「死んだら地獄行き」ではなく、神様に救って貰えば天国に行けると気づいてもらうために、どうすれば良いか。


 そこで神様は人間がとても思い付かない、凄まじい決心をなさったのです。


 まず、独り子であるイエス様を地上にお送りになりました。クリスマスの夜、マリアとヨセフ夫婦の元にお生まれになったイエス様は、成長されるとユダヤの人々に神様の愛を伝える旅に出ました。

 イエス様はご自分で選んだ弟子たちと共に「神様はみんなを愛しておられる」とお話しされ、多くの人が信じ、神様の愛に立ち返りましたが、国のリーダーたち、祭司やファリサイ人と言った人々は自分たちと考え方が違うイエス様が邪魔になり、論争を挑んではやり込められ、ついにイエス様を十字架にかけて殺してしまおうと考えました。


 さらにひどいことに、イエス様の弟子の中からも裏切り者が現れ、人気のない場所の暗闇の中でもイエス様を間違いなく逮捕できるよう、手引きをしたのです。

 こうしてイエス様が捉えられると、イエス様のお話を聞いて感動したはずの人々までもが「イエスを死刑にしろ、十字架につけろ」と叫びました。イエス様は何一つ罪を犯していないのに、この世の一番の最悪の形で十字架に掛かり、死なれたのです。


 ところが、これら全ては神様のご計画でした。イエス様は、最悪に不幸で、どうしようもなく悲しくて、完全に神様に見放されたように見えました。しかしどんな時も神様はちゃんと見てくださっているし愛してくださっている。最後には救ってくださる。それを人々に伝えるために、厳しい神様のご計画を耐えられたのです。

 ここまで壮絶な試練に最後まで耐えられたのは、ただ、神様とイエス様が私たちを愛しておられたからなのです。


 天使がお墓で言った「主はよみがえられた」という言葉は、今風に言い直すならば「イエス様は、死んだら終わりじゃないことをみんなに教えるために蘇ったのだ、イエス様は死に打ち勝ったのだ」という意味と捉えれば良いかと思います。

 キリスト教会は、天使の言った「主は私たちのために蘇ってくださった、あなたも蘇ったものの一人なんだ」というメッセージを伝える役目があります。どんな人にも注がれている神様の愛に気づいてほしいと心から願っているのです。

 私たちは、復活して今も生きて働いてくださるイエス様を信じ続けましょう。世界がどれほど殺伐としたものとなっても、イエス様の愛を、信仰の灯として輝かし続けましょう。




17日はイースターでしたが

飯田市での新型コロナ陽性者の数が減らず

幼稚園の先生方はzoom参加

教会員もできるだけzoomで

こども聖歌隊の賛美も中止

礼拝後の全員参加のたまご探しも中止


それだけではあんまりなので

今回練習に参加してくれたこども聖歌隊の5人には

いつもの9時30分に来てもらい

親子、きょうだいのチームに分かれて

順番にたまご探しを行いました


たまごもゆで卵ではなく

プラスチックの卵型カプセルに

キャンディを入れて使用しました

(本来ならプラスチックは使いたくないのですが)


S家母娘チーム

なかよしM姉妹チーム

こちらもなかよしK姉妹チーム


感謝なことに、こんな変則的な礼拝でも
洗礼式がありました
新しく教会の家族に加えられたS.Mさん
これからの信仰の歩みに
神様の祝福が豊かにありますように!


2022年4月10日日曜日

「子ロバのうた」 (日曜日のお話の要約)

受難主日(主のエルサレム入城)短縮版(2022年4月10日)

詩編118編19-21節(958) ルカ福音書19章28-36節(147)


 本日の福音書は、イエス様が預言書のみ言葉通り「ロバの子に乗って」行進されたことが記されています。これは、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に記されており、イエス様がエルサレムに入城される際にはよく読まれます。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」


 大の大人が小さなろばに乗る姿は、何か滑稽に感じられますが、イエス様は子ろばに乗ることで、どうしてもお伝えになりたいメッセージがあったのです。


 イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属国でした。ローマによる支配はイエス様が生まれる60年ほど前、紀元前63年から始まりました。広大な領地を持つローマ帝国は、安定した支配を行うため各地の国の文化や宗教には比較的寛容でした。イスラエルにおいても首都エルサレムの神殿やそこで働く祭司たちの生活は保証され、神殿の神を讃えるお祭りなども盛大に行うことが許されていました。

 政治家も兼ねている祭司たちは、ローマに適当に尻尾を振って見せることで国や自分自身の安全を確保しようとしました。やがて宗教のトップたちは、心から神様に使えるというより、政治的な駆け引きを重んじるようになっていきます。そうした打算的な姿勢はユダヤの民にも良い影響は与えませんでした。


 救い主イエス様がが、なぜそんな時代に誕生されたのか、私たちにはわかりません。神様が救い主を私たちの世界に、人間に与えて下さるという約束の時が来た、とわかるだけです。

 成人されたイエス様はユダヤのあちらこちらを旅して神様の愛を説き、奇跡を行われました。イエス様の奇跡の力を目の当たりにして、素直に感動して神様への信仰に立ち返った人々もいましたが、イエス様を王様として担いで、ローマを追い出すクーデターを起こそうと考える人々も多くいました。人々の様々な思惑が混じり合う中で、イエス様は十字架にかかることを目的としてエルサレムへ行かれます。そして、ゼカリヤの通り子ろばに乗って行進されたのです。イエス様はろばに乗るお姿を弟子たちにお見せになり、これこそが平和の王の姿であると理解してほしいと願っておられました。


 イエス様は、今歓声をあげている人々が一週間後にご自分を裏切り「十字架につけろ」と叫ぶことをわかっておられました。その上で、戦闘能力はおろか、歩くのもやっとというろばに乗り、丸腰で進まれ「神に信頼する心が必ず平和を作り出す」とお伝えになったのです。

 しかし、弟子たちはイエス様を讃える声に有頂天になるばかりで、イエス様の願いを知ろうとしませんでした。それどころか何かあった時のためにと剣を隠し持っていたのです。まことの平和の主イエス様に従っていくという信仰がありながら、もしも誰かに攻撃されれば自分の身を守るのは自分の力だと武器を用意し、自分の力で自分を守ろうとしていたのです。


 イエス様のエルサレム入城の出来事は、現在の世界情勢と重なります。私たちは、ニュースを通して世界中の戦争や紛争を見ます。小さな国が大きな国に踏み躙られている姿もあれば、やっと平和を獲得した国が、再びクーデターによってボロボロになる様もあります。また国民の生活を顧みず兵器を作って実験を繰り返す国も見ます。私たちはそんな国々に囲まれて毎日を過ごしているのです。


 しかし力によって世界を支配しようとすればいずれ世界の破滅につながります。いつ殴られるかわからないから、こっちも殴る準備をしておこうと、相手に勝つことばかり考えていると、文明が発達すればするほど残忍な兵器を作り出してしまいます。今、世界で戦争や紛争を引き起こしている人々の心の奥にあるのは、「誰かに殴られるかもしれない恐怖」ではないかと私は思うのです。


 国が暴力で蹂躙され、次から次へとミサイルが飛んでくる事態に陥ってから「暴力反対、戦争反対」と叫んでも、もう手遅れです。そうならないために、私たちは常日頃から平和について学び、粗野な考え方や方法論が世界を支配しないように、日本を含め、腹に一物ある様々な国の政治家たちと渡り合えるように学び、国際的な仕組みを築き上げる必要があるのです。


 この教会と幼稚園に集う幼い子どもたちが心から戦争を嫌い、誰かに手を差し伸べ、平和を維持させるために「知恵」と「力」を用いることこそ最高の生き方だと学びながら成長し、未来を作っていく。ただの理想論かもしれません。しかし、イエス様は世界がそうなることを望まれ、子ロバに乗ってエルサレム入城をなさったのです。本当に、世界の人々を救うために、神様が一人一人の人間を愛し、平和を実現するために、ロバに乗られるのです。


 この日、イエス様をお乗せした子ロバはイエス様が何者かも知りませんし、何をなさろうとしておられるのかもわかりませんでした。何も知らなくても、イエス様に実直でありたいと思い、懸命に力を振り絞って行進したのです。

 大人になると、世の中の色々な声や言葉に振り回されて、ただイエス様のおやくにたちたい、という動機だけでは素直に動けなくなります。けれども幼いうちから、イエス様を愛することが平和につながるのだと朧げにでも理解している子どもたちに未来を託し、祈り続けたいと思うのです。


 私たちは幼いロバがイエス様をお乗せして歩むように、平和の声をこの場所に響かせるために、歩みは鈍くても、前を向いて一歩一歩あゆんで参りましょう。



こども聖歌隊メンバーのMAIさんの作品
シンプルに塗り分けて涼しげです

MIYUさんの作品
元気一杯の「鮮やかなビタミンカラー


同じような教材でも
子どもたちそれに好みの色があって
全く違った印象になるのが興味深いですね

2022年4月9日土曜日

今日の土曜学校はお休みです

飯田市でコロナ陽性者の数が減らないので
今日の土曜学校は
残念ながらお休みです

たまご形のぬりえが届いたおおともだちは
今年のイースター4月17日に向けて
色をつけて飾ってください
イエス様のよみがえりをお祝いする日です

今日はさっそくぬりえをして写真を送ってくれた
Yちゃん、Sちゃんの作品を紹介します
みんなも送ってね

むらさきやブラックがカッコいい!
みどりのあざやかないろがひきたつね







2022年4月3日日曜日

「ナルドの香油」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(紫)(2022年4月3日)

詩編126編5-6節(971) ヨハネによる福音書12章1-8節(191)


 今日のお話は「ナルドの香油」と呼ばれているエピソードです。一人の女性がイエス様に貴重な香油を注ぐ印象的なお話です。これは4つの福音書全てに出てきますが、書き方や時期が少しずつ異なるので、この女性が誰だったのかはっきりしません。本日のヨハネ福音書では、イエス様が十字架に掛かる1週間前に、ベタニア村に住むマリアという女性が行ったと記されています。


 この日、イエス様と弟子たちは首都エルサレム近くにあるマリア一家の家に泊まり、食事をしていました。その時、マリアが自分の香油を持ってきて、イエス様の足に塗ってしまったのです。この香油は一般の人の給料の1年分に当たるほど高価なもので、イスラエルの女性達は嫁入り道具として大切に持っていた品でした。

 それを一気にイエス様の足に注いでしまったので、周りの人々は呆気に取られ、怒り出す者までいました。しかしイエス様はマリアを庇い、「私の葬りの日のためにしてくれたのだ」と言われます。


 イエス様の言われた「私の葬りの日」とはイエス様が十字架にかかり、苦痛のうちに死なれる日のことを意味していました。イエス様はこれまでに何度も「私は殺されるが三日目に蘇る」と予告してこられたのですが、親しい弟子たちでさえ、真面目に受け止めようとはしませんでした。ですからイエス様は非常に孤独なお気持ちを抱えておられたことでしょう。そんな時、マリアが自分の香油を全てイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でイエス様の足を拭ったのです。イスラエルの女性は長い髪を被り物で覆う習慣があり、人前で髪の毛をあらわにするのは、はしたないことでした。


 それを見てズケズケと文句を言ったのがイスカリオテのユダです。ユダは12弟子の一人でしたが、後にイエス様を殺害しようと企んだ政治家たちを手引きした人物です。ユダは「こんなことに使うくらいなら、売って貧しい人々に施すべきだった」と批判しました。いかにも正当な言葉のように思えますが、福音記者ヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身を誤魔化していたからである。」と書き添えています。簡単にいうと、ユダは泥棒で偽善者なので、ベタニアのマリアの行動を批判する資格など全くない、というニュアンスです。


 イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていて、民衆は何かと不自由な生活を送っていました。祖国を解放してくれる救い主を、多くの人が待ち望んでいたのです。ユダはイエス様こそ先祖から伝えられてきた救い主で、奇跡の力で理想の国を建国してくださるだろうと信じていました。しかし、弟子になって3年の月日が流れても、イエス様は一向に革命を起こす気配はありませんでした。


 イエス様の奇跡の力はいつも社会から爪弾きにされている人々のために使われました。社会からはみ出した者、神様のバチが当たったとレッテルを貼られた障害者や病人。イエス様はそうした人々に手を差し伸べられるばかりで、ユダが求めているドラマチックなことは何も起こらなかったのです。ユダは失望し、次第に信仰心を失い、神様と仲間のために用いるはずのお金に手を出してしまったのでしょう。


 ただ、ユダも長い間弟子の中にいましたから、「貧しい人々に手を差し伸べるべき」というスローガンのようなものは身に付いていました。ですから「なんともったいないことを!」と言った後で、「貧しい人に施せば良いものを」と、とってつけたように語ったのです。

 しかしユダの「なんともったいないことをしたのだ」という言葉は、裏を返せば「イエス様に高価なものを献げるのはもったいない」という意味にもなります。もしもユダが、イエス様が人々の罪の身代わりとなって十字架にかかる決心をされていることに気付いていたならそんな言葉は出てこなかったでしょう

 マリアの行為を否定したユダは、イエス様のなさろうとしていることも否定したのです。ユダはそのことに気づかないままイエス様を裏切り、最後には首を括って死んだのです。


 一方、ベタニアのマリアはこの日のイエス様は何かが違うと直感的に気づいていました。マリアは今までもイエス様と弟子たちが自分の家に宿泊されるたび、食い入るようにイエス様のお話を聞いてきました。そんなマリアだったからこそ、その夜のイエス様のお話から、ただならぬ覚悟を感じ取ったのでしょう。

 はっきりとはわからなくとも、今、この時、自分のもつ最高のものをイエス様に献げたい、という強い想いからでた行動をイエス様はしっかりと受け止めてくださいました。イスラエルでは遺体を葬るとき、体に香油を注ぎ清める風習がありました。マリアがどこまで分かってイエス様の足に香油を注いだかは不明ですが、イエス様は「葬りの準備」と理解されました。イエス様は部屋中に漂う香油の香りを嗅ぎながら、一人十字架に向かわねばならない孤独を和らげられたのでしょう。


 ですから同じことを記録したマタイ福音書とマルコ福音書では「世界中どこでも、福音が述べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」という御言葉が記録されています。

 これはもちろん、マリアが非常に高価な献げものをしたから素晴らしい、という意味ではありません。マリアはどうにかしてイエス様に感謝を表したいという信仰と愛があった、そしてその気持ちを表すために、自分の持っている最高のものを差し出した。そのことを、イエス様は感じ取られてとても喜ばれ、彼女に深く深く感謝された出来事として記録されているのです。

 ちなみに「ナルドの香油」は、今も販売されていて、少しかび臭いけれどいい香りだそうです。私たちのイエス様の働き人としての行いは泥臭いところもあるかもしれません。それでも、イエス様に献げれば心から喜んでくださいます。変わらない救いの香りがする、そのような場所を共に作り上げてまいりましょう。 


教会のすぐ近くに
日本画家菱田春草誕生の地にちなんだ公園があります
飯田には古い蔵が多くて
公園のお隣にもあります
桜と風情あるツーショット