2022年3月27日日曜日

「放蕩息子」のたとえ(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(紫)(2022年3月27日)
詩編32編10-11節 ルカによる福音書15章11b-32節 

 本日はイエス様の語られた「放蕩息子」のたとえについてともに聞いて参りましょう。このお話には兄と弟、金持ちの父親が登場します。父親は二人の息子を同じように愛し、可愛がっていました。

 兄息子はコツコツ真面目に働くタイプでしたが弟の方はあまり真面目とはいえませんでした。ですから兄弟仲は良いとはいえず、弟はなんとか兄を見返してやりたいと思っていたでしょう。こ弟はついに父親に向かって「私がいただくことになっている財産の分け前をください」と言い放ちます。当時の常識で考えれば、生きている間に息子に財産を与えるなどということはあり得ない出来事だったにもかかわらず、土地や家畜を二人の息子に分け与えます。

 しかし弟息子はそれら全部を数日で金に換え、家を離れ、遠い国に旅立ってしまいました。おせっかいな家族、不本意な労働、堅苦しい宗教儀式。彼はそれらから自由になれたことを本気で喜び、放蕩を開始します。その金払いの良さに、何人か友人もできたかもしれません。しかしそれは短い間に過ぎませんでした。

 手持ちの金がなくなると、彼の周りから人々は去っていきました。手に職もなくコネもない彼は、やっとのことで人の情けにすがって豚飼いの仕事にありつきます。そこは豚の餌に手をつけたくなるほど飢えに苦しむ場所でした。
 ここまできてようやく彼は、自分が神の民、聖書の民であることを自覚するのです。生きていくためとはいえ、ユダヤでは汚れているとされる豚の仕事を続けていくことは耐え難いことでした。

 彼が幼い頃から親しんできた聖書には、神の民がエジプトから約束の地へと旅立った時、その40年間の旅路の間、60万人を超える人々が食事を与えられたことが記されていました。
 ここで野垂れ死ぬのは嫌だ。そう思った時、父の家には、神様の恵みと感謝する日々が当たり前にあったことを思い出したのです。「息子として扱われなくて構わない、とにかく父の家に帰ろう」そう決心するのです。そして皆様もご存知のように、慈愛に満ちた父親は弟息子が生きて戻ってきたことを心から喜び、再び息子として迎え入れたのでした。

 この放蕩息子のたとえ読み返してみますと、弟息子はギリギリのところでよく決断して帰ってきたものだと思います。しかしよくよく考えてみますと、このたとえ話の話し手はイエス様です。この物語は単に親子の情愛を描いたものではないことにもう一度注目したいと思います。

 当時イスラエルには、神様の掟から離れた人々を罪人と呼び、犯罪人同様に差別しました。徴税人や売春婦や、重い病気にかかった人々や障害を負った人々も神に見放された人間として差別の対象となりました。ファリサイ派の人たちや、律法学者たちは、先祖に与えられた律法を拡大解釈して、こうした人々は神様の憐れみを受けるどころか様に近寄ることも許されていないと信じ、一般民衆にもそのように教えていました。ですからイエス様の寛大な態度が我慢ならなかたのです。

 しかし、イエス様はむしろ捨てられたとされる人々に積極的に近寄り、迎えに行かれる方でした。時には、ユダヤの律法の届かない異教の地にまでおもむき、手を差し伸べられました。イエス様は、神様とは罪人のレッテルを貼られた人々が自分から戻ってくるのを待つ方ではなく、罪人の元まで行き、探し、見出し、連れ戻す方であるとお教えになりました。そしてそれはまたご自身の姿であると暗示しておられました。
 イエス様は、社会から爪弾きになっている人々に向かって、あなたは決して神様に見放されていない、神様はあなたを愛しておられる、と伝えるために、3年半にわたって民衆に語りかけられたのです。そして、自ら罪人同様に見せしめの十字架にかかって命を捨てられました。その上で、神様の愛によって蘇るという、凄まじいまでの荒技を私たちに示してくださったのです。

 繰り返しになりますが、神様は天国で罪人が悔い改めるのを冷静にただじっと見下ろしている方ではなく、愛を証しするためなら一人子を十字架にかけ、心が張り裂けるほどの痛みを耐え忍ばれながら、私たちに手を差し伸べられる方なのです。

 放蕩息子のたとえは、どれほどイエス様が私たちを愛してくださっているかを示すお話です。この放蕩息子が私であるなら、この嫉妬深い兄、つまり罪人の自覚がなく、父の愛に気づかず、自分は真面目な善人だと信じ込んでいる兄も、私のもう一つの姿なのかも知れません。

 それでも神様は聖書のみ言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。目の前に絶望と自己嫌悪しかない時も、自分を見放さないで愛し、導いてくださる方の存在があることを思い出して欲しいのです。そうすれば私たちは変わることができます。自分を見放さないで愛し導いてくださる方の存在に気付くことができるなら、私たちは変わることができます。この世の不平等ばかりに目が行くのでなく、自分に与えられている賜物に感謝できるようになります。なぜ今まで気づかなかったのかと感謝の想いが溢れてくるのです。

 もちろん人間一人一人には能力の差はあります。そこにばかり目を止めて、私はあの人より能力が低いから愛されていないと思うなら、神様を悲しませることになります。自分の足りなさを見つめるのではなく、自分を必要としてくださる神様を見上げるならば、遠くまで自分探しをしに行かなくとも、自分の生き方が見つかるはずです。それは私たちが病気になっても、障害を負っても、歳をとって体が自由に動かなくなっても同じです。私たちを必要とされる、神様の愛は変わらないのです。迷うことなくイエス様に仕える者として歩んで参りましょう。

牧師館のベランダ
冬の間、縮こまっていたビオラも
花数が増え始めました

2022年3月20日日曜日

「悔い改め」について(日曜日のお話の要約)

四旬節第3主日礼拝(紫)(2022年3月20日)
イザヤ書55章6-9節(1152) ルカによる福音書13章1-9節(134)

 本日登場するピラトはイエス様を十字架に掛けるよう最終的に決定した人物ポンテオ・ピラトとして使徒信条に名前を刻まれている人物です。

 ピラトの逸話は多数あります。初めてエルサレムへ入った時、ローマの兵隊は皇帝の肖像をつけた旗を掲げて行進し、街の広場などに肖像を掲げ、その前を通るものは旗に描かれたローマ皇帝の肖像を拝むよう命令しました。これはローマが支配する国では当たり前のことでしたが、ユダヤの民衆は十戒に記された「神様以外は拝まない」と言う信仰が身についており、皇帝を拝むよう強制されたことに強い反発を覚え、従おうとはしませんでした。
 そこでピラトはエルサレム神殿を地理的に見下ろす壁に皇帝の肖像を描いた旗を取り付けます。もしユダヤ人たちがこの旗を降ろそうと攻撃すれば、反乱罪で罰することができると考えたのです。

 この時の大祭司カイアファは、一計を案じます。7000人以上のユダヤの民がピラトのいる官邸に趣き、ピラトの魂が救われるよう祈ったのです。1週間これを続けられてすっかり参ったピラトは話し合いに応じると偽って民衆を兵で囲み、虐殺しようと計画します。ところがユダヤの民は、神様を侮辱するような総督に従うなら死んだほうがましと、全員が祈りを始めたそうです。
 ピラトの兵は祈る姿には手出しをすることができませんでした。ピラトは結局総督として面目をつぶされ、一時は総督の地位も怪しくなったようです。

 こうしてピラトは祈る民、聖書の民を治める難しさを嫌というほど思い知ったはずでした。ところが福音書には、ガリラヤからエルサレムに巡礼に来た人々が神殿内でピラトの兵隊たちに殺され、巡礼者たちが捧げようとしていた動物の血に彼らの血が混ぜられた、と書かれています。ピラトは全く懲りていなかったのです。

 そもそもイスラエル人々がピラトと対立したのは、先祖からの習慣の通り神殿に巡礼したり捧げ物をしたり、今まで通り律法に沿った行動をしたことが原因でした。それらの行為がローマ皇帝に対する叛逆だと言われ、弾圧され、命を奪われるのです。彼らにとって全く不条理なことでした。

 ただ、ユダヤ人にとって、同じようなことをしても、禍いを免れる人と免れない人がいるのが不思議でした。信仰が足りなかった人は神様の罰として殺されたのだろうか。いくら考えても正しい答えが出るはずはありません。この日、イエス様にピラトのことを報告した人々は、まさにそのような堂々巡りに陥っていたのです。

 イエス様は彼らの疑問を敏感に感じ取りつつも、その疑問には直接お答えにならず、「あなた方も悔い改めなければ同じように滅びる」とおっしゃいました。それを聞いた人々は、非常に驚きます。悔い改めるのはピラトであって、なぜ被害者の自分達が悔い改めなければならないのか、と思ったのです。

 そこでイエス様は「実のならないいちじくの木」の例えをお話になりました。イスラエルでは、ぶどう園にいちじくの木を植えるのは普通のことした。しかし植え付けて3年もたてば実るはずのいちじくが全く実らないのです。そこで土地の主は、このいちじくに見切りをつけ、すぐにでも切り倒そうと考えました。
 その時、管理を任されていた園丁は、このいちじくの世話をもう一年させて欲しいと申し出るのです。園丁は3年間、いちじくを慈しみ、世話をしてきたました。もう一年延長したところで結果は変わらないかもしれないけれど、待って欲しいと願うのです。

 ここに記されているのは、不信仰な者への父なる神様の厳しい裁きと、そこから人間を庇おうとするイエス様のお姿です。
 ユダヤの人々は確かにローマに虐げられて不幸でしたが、そもそもこうなった原因について正しく悔い改めようとはしていませんでした。洗礼者ヨハネがヨルダン川で叫び声を上げ、神様の裁きの日までに心を整えよ悔い改めよと教えた時、心を震わせて信仰を取り戻した人々も確かにいました。しかし多くの人々は結局は自分を被害者だと思い込み、儀式や律法を守ることが信仰生活だと思い込み、本質的な神様への信頼や愛を失っていることに気づかなかったのです。表面的な信仰、すっかり弱りきって、何者も生み出さない信仰、この信仰の有様をイエス様は「実らないいちじく」とおっしゃったのです。

 しかしイエス様はよき園丁でした。3年かけても実らない時には、ご自分の命をいちじくに与える決心をしておられたのです。イエス様は3年半をかけて人々に神様の愛を説き、信仰を取り戻すように導かれました。しかしイエス様の一番そばにいた弟子たちでさえ、イエス様の言われる神様の愛と永遠の命について理解することはできませんでした。いちじくが実らないまま3年が過ぎた時、いちじくの代わりにご自分が切り倒されることを選ばれ、その命を持って最高の信仰と最高の愛を示してくださったのです。

 ピラトはユダヤ総督を10年務めた後失脚し、イタリアから追放されます。そして今のフランスにあたるガリア地方で自殺した、と言われています。しかし興味深いことに、同じキリスト教でも、エジプトのコプト教会やエチオピアのアビシニア教会では、なぜかピラトは聖人として扱われています。もしかしたらパウロのように悔い改め、北アフリカに渡り、人知れず宣教に励んだのかもしれません。それは謎に包まれたままです。

 イエス様はどんな時も「私が守り、世話をしよう」と語りかけてくださいます。このイエス様の存在に気づくことが悔い改めの大事な一歩なのです。イエス様が共にいてくださる、そう気づくことが何より大切なのです。苦しみの中で自己憐憫に陥らないで、苦しい時こそイエス様の眼差しを信じて歩んで参りましょう。

春らしい日差しの
暖かい日が増えてきました
牧師間の室内で冬越ししていた多肉植物も
最近は昼間だけ外に出し、日光浴させています

2022年3月14日月曜日

み翼のかげに(日曜日のお話の要約)

 四旬節第2主日礼拝(紫)(2022年3月13日)
フィリピ3章17-20節(365) ルカ福音13章31-35節(136)

 今、テレビではロシアの砲撃で破壊されたウクライナの町々と傷ついた人々が次々と映し出されます。ウクライナのキリスト教会も攻撃で破壊されたと聞きました。ウクライナのキリスト教はロシアと同じ東方教会に分類されますが、2017年にウクライナ正教会となりました。キリストの教えは一つでも、教派が別れてしまったため、大変な時に二国間の橋渡しをすることができないでいるようです。
 しかしイエス様は、地上の人々が怒りを抱えて生きることを喜ばれる方ではありません。どれほどの憎しみがあっても、希望と愛と信仰を持って、和解の道を歩んでほしいと願って、父なる神様はイエス様を地上にお送りになったのです。

 世界全体がおかしくなってしまいそうな危機を目の前にして、自分は神様に愛されているのだ、と信じ続けることは大変難しいかもしれません。それでもイエス様は「あなたはみ翼のかげに囲われている」と教えられるのです。

 本日の福音書では、ファリサイ派の人々がイエス様に「ヘロデがあなたを殺そうとしています」と告げます。このヘロデとはイエス様が赤ちゃんだった時に暗殺計画を立てたヘロデ大王ではなく、その息子ヘロデ・アンティパスです。彼は元々の妻と離婚して、兄の妻だったヘロディアと結婚したのですが、これはユダヤの律法に触れる出来事だったようで、それを洗礼者ヨハネに糾弾され、結局ヨハネを処刑したことで有名です。ヘロデ・アンティパスは王様ではなく、ガリラヤとヨルダン川をはさんだ斜め向かい側のペレアに領地を持っていました。イエス様が宣教の拠点としておられたガリラヤの領主だったのです。

 このとき、イエス様はヘロデの治めるガリラヤを後にして、エルサレムへ向かって進んでおられました。これを知ったファリサイ派の人々は「ヨハネを殺したあのヘロデ・アンティパスがイエス様までも暗殺する計画があります、逃げてください」と伝えます。しかし本音は「命が惜しかったらとっとと立ち去れ、2度と戻ってくるな」というところでしょう。イエス様と対立していたファリサイ人たちはイエス様がヘロデを恐れて逃げたという噂を広めようと考えたのかもしれません。

 しかしイエス様はヘロデのことを「キツネ」と呼び、ファリサイ派の人々の言葉をまともには取り合いませんでした。イエス様はご自分のことよりも、イスラエルが迎える事になる悲劇的な出来事に心を痛めておられたのです。
 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあったため、自由な政治はできませんでしたが、それにしても堕落しすぎていました。神殿を中心とした宗教国家でありながら、指導者たちは神様の御心を第一にするよりも、ローマとの力バランスを第一とし、自己保身や自分の利益のためならば自国民を虐げるのも仕方がない。そのような考え方に流されていたのです。

 イエス様の時代から1000年近く前、神様は英雄ダビデを通してイスラエル民族をまとめ、イスラエル王国を形作られました。本日のお話のタイトル「み翼」という言葉は、詩編に繰り返し登場し、「ピンチの時にも守られる」というイメージを伝えた言葉ですが、中でも61編はダビデ王がクーデターにあい、命を狙われた時に歌われたものであろうと言われています。
 ダビデ王は立派な王でしたが、多くの妻と王子を持ったことが発端となって家庭を治めきれず、実の息子アブサロムに一度は王座を追わます。しかし神はダビデを救い、アブサロム子は自滅しました。この出来事はダビデに激しい痛みと悲しみを与えましたが、ダビデは次の王座を息子ソロモンに譲り渡すまで、神様から与えられた使命を全うしました。

 このソロモン王が初めてエルサレムに神殿を建てたのです。以来この場所は神様がイスラエル民族を守ってくださることの象徴となりました。ところがその後、人々は同族同士で争い、国は南北に分かれます。北も南も、神様から遣わされた預言者たちの警告を聞かず、石で撃ち殺し、破滅の道を突き進んでいくような出来事を繰り返し、やがて北側の国は戦争に敗れて消滅しました。
 それでも神様はエルサレムを決して見捨てず、幾たびも幾たびも預言者を遣わし軌道修正なさいました。めんどりが翼の下にひなを集めるように無償の愛で守ろうとなさったのです。人々はどん底まで落ちてようやく神様の愛に気づき、深い悔い改めを持って神様に立ち帰り、自分は「み翼のかげに」守られているのだと感謝しつつ建国の理想を取り戻してきたのです。

 しかしイエス様の時代、彼らは再び過ちを犯しました。それによってエルサレムは破滅を迎えようとしていました。イエス様の時代から数十年後の西暦70年、イスラエルはローマ帝国との戦争に敗れ、エルサレム神殿は完全に破壊されます。イエス様は全てをご存知の上で、今一度人々に手を差し伸べ、み翼の陰に招き入れようとされたのです。そのためにはイエス様がエルサレムで十字架につき、神様の不滅の愛を伝えることがどうしても必要でした。イエス様は神の御心が表されることを信じ、弟子達を従えて歩み続けられたのです。
 十字架とは、神様の驚くべき愛の最高の形であると同時に、人間の罪深さの最悪の形でもあります。神の愛と己の罪深さを目の前に突きつけられ、それを受け入れ、背負って歩いていくのが私たちキリスト者なのです。

 今、私たちは困難な時代に生きています。それでも、十字架で忍耐されたイエス様を再び悲しませることなく、「主よ過ちを悔い改めます、お助け下さい」という信頼の言葉を持って神の前に立ちましょう。み翼をのべて私たちを覆い、平和と愛と信仰を与えてくださる神を信じて、この危機の時も共に祈って歩んで参りましょう。



先週土曜日、12日は今年になって初めて
土曜学校を開くことができました
まん延防止等特別措置は解除されましたが
県独自の警戒レベルはまだ高いままなので
幼稚園としては大勢の小学生が
園の敷地に入ることはちょっと厳しく
今回は在園児が土曜学校に参加しないという方針で
なんとか実施することができました

小学生のきょうだいと参加している在園児
どうしようか、ということになり
残念ながら「きょうだい丸ごと」不参加をお願いすることに
なってしまいました
こんな制限が早くなくなり
参加したいと思ってくれる子どもたちは皆んな
受け入れられる日が1日も早くきますように



小学生と教会スタッフのみ
ソーシャルディスタンスを守っての礼拝です
讃美歌も手話で「りょうていっぱいの愛」を表現しました

お待ちかねの工作
和紙の折り紙を使ってチューリップのブーケ制作

予想よりも手こずりましたが
皆んな一輪ずつ可愛いチューリップを作りました


おなじみ工作名人M姉妹
色違いの可愛いチューリップができました

2022年3月11日金曜日

明日は土曜学校を行います

小学生のみなさん
あしたはひさしぶりの どよう学校です
でも、いいだ市のコロナの人は
ゼロにならないので
ねつのある人、かぜっぽい人は
ようちえんの門から入れてあげられません
ごめんなさい
げんきな人は いっしょに
れいはいと こうさくをしましょう!

それと、ようちえんのきそくで
「3がつは えんじは さんかしないでください」
と、きまりました
どようほいくの えんじのみんな
おにいさん、おねえさんとくるつもりだった
えんじのみんな
ほんとうにごめんなさい

みんなそろって
どよう学校ができるひが
せんせいも まちどおしいです






2022年3月7日月曜日

「荒野の誘惑」日曜日のお話の要約

四旬節第1主日礼拝(紫)(2022年3月6日)

詩編91編11-16節(930) ルカによる福音書4章1-13節(107)


 本日から四旬節を迎えました。これからイースターに向けて心を整えて参ります。自分の心と向き合い、悔い改めの時を過ごすのですが、今私たちの前にはロシアがウクライナに侵攻し、一つ間違えば世界がとんでもない状況に晒されると言う現実が突きつけられて、心がざわつきます。

 さらに、どうにも終息の目途のたたない「新型コロナウィルス」との対峙の仕方も考えなければなりません。そして私たちにとって最大の問題は地震にも強い会堂、園舎、牧師館の建て替えです。

 国際問題から目の前の問題まで、どれをとってもこれだ、と言う解決策はありません。それでも私たちは問題の大小に関わらず、どんな時も強く祈り、御言葉を深く学び、イエス様を主として信頼し続ける必要があります。


 本日は「荒れ野の誘惑」から聞いてまいります。イエス様の生涯を知るのに欠かせない記述ですが、イエス様と悪魔が対決するという描写は現代人にとって受け入れにくく、「悪魔なんて架空の存在だから、何かの例えに違いない」と合理的に考えようとします。しかし、「悪魔なんて架空の存在だ」と否定する前に、謙虚に本日の御言葉を聞く必要があります。

 イエス様は30歳の時ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、それを境に、神の御子としての使命を果たすため公の場に姿を表されました。このことを「公生涯の始まり」と呼びます。イエス様を地上によこされた父なる神様としても、一人子の宣教開始は待ちに待った瞬間だったはずです。ところが、そんなイエス様に待ったをかけたのが、神様ご自身だったというのが、この「荒野の誘惑」の味噌的な話です。


 クリスチャンの多くは洗礼を受けた時、社会のため、教会のため何かできることがあるはずだ、と理想を抱きます。しかし時に、そこに落とし穴があります。夢は膨らんでも自分にまだまだ実力はなく、どうしたら良いかと考えているうちに、周りにいる教会の人々はそれほど高い志を持っていないように思えてくる。先輩クリスチャンはみんな立派な人だと思っていたのに、そうでもない。がっかりした。

 もしそんなふうに思い始めたらとても危険です。人をさばいたり見下したりをし続けていると、その人の信仰は弱くなってしまうのです。そんなふうに失望して教会を去っていった人を私は何人も知っています。

 せっかくイエス様を信じたのに、教会に失望してイエス様ご自身からも離れていく。これは心のうちに悪魔の誘惑が忍び寄っていることに気づかず、すっかり悪魔の手の内に落ちてしまったことになるのです。洗礼を受けてすぐに、このような罠が待ち受けている。神様はそのことをイエス様を通して示されたのです。


 三つの誘惑を順番に見てみますと、悪魔はまず空腹のイエス様に向かって石をパンに変えるようそそのかします。しかしイエス様はそれには応じませんでした。できなかったのではありません。聖書にはイエス様が5つのパンと2匹の魚だけを用いて5000人の人々を養ったことが記されています。

 イエス様のお話を聞こうとして集まった人が空腹になったのをかわいそうに思われて、奇跡を行なわれたのです。ご自信が空腹の時はなさらなかった奇跡を、ご自身を信じるもの、従うものにはしてくださったのです。


 二つ目の誘惑は「悪魔を拝むなら、世界の国々を従わせる権力を与える」と言うものでした。もちろんイエス様はこれを退けました。権力を持つのがいけないと言うことではありません。のちのクリスチャンの中には、政治底手腕を発揮して国を統治する人物も現れましたし、経済的にトップに上り詰めるものもいました。イエス様は豊かになることを否定したわけではなく、神様を裏切り、悪魔を拝んでまで権力を手に入れることを否定されたのです。


 3つ目は「神の子ならどんな危険からも守られるはずだから試してみろ」と言うものでした。イエス様は「神様を試してはならない」と言って拒否されました。

 ルカによる福音書は「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と書きます。そしてその悪魔が、ルカによる福音書の22章3節でもう一度登場し、イスカリオテのユダに入ったと記しています。

 悪魔は一旦離れたように見えて、イエス様を陥れる機会を狙っていました。そしてイスカリオテのユダの心につけいる隙があることを知ります。ある解釈には、ユダはイエス様が本当に「救い主」であるか試そうとしてこんなことをしたのではないか、と書かれていました。まさにユダは「神を試そうとした」のかもしれません。しかし結果としてイエス様を十字架に押しやったユダは、マタイ福音書ではその事実に耐えられず、自ら首を吊って命を断ちます。悲惨な末路でした。

 

 私たちの人生は思いがけないことの連続です。神様はあなたを愛し、守られるその事実は変わらないのですが、時には思い通りにことが運ばず、大いに失望することもあります。そんな時、神様への信頼を捨て、信仰を失うならば悪魔に唆されていることになります。私たちは人生の困難の中で神様に忠実に生き、その愛に自分を委ねていくことで平安でいられるコツのようなものを獲得していくのです。

 人類は神様の名を使って大いなる間違いを犯します。けれども、神様が喜ばれるのは、人々の悔いる心であり、和解を求める祈りであり、敵を赦すという大胆な生き方なのです。この教えの中に生き、霊に導かれて、苦難も試練も主の恵みとして受け止め、荒野の誘惑の中にあっても、平安を得て過ごして参りましょう。 


教会から徒歩10分ほどの場所に
飯田市立動物園があります
入場料はタダです
小さな動物園で、特別珍しい動物はいませんが
白いタヌキがいます
(緑でも赤でもありません)
タヌキも白いとなかなか凛々しいものです

こちらのタヌキは普通の本土タヌキですが
なかなか可愛らしい女の子です



白いタヌキ男子のリュウです
狸寝入り中です


2022年3月2日水曜日

3月12日は土曜教会学校の日

3月6日でひとまず
長野県のまん延防止等重点措置が解除になるようです
前々からの予定通り
3月12日9時30分から
土曜教会学校を開くつもりです
今日、お知らせ葉書の発送も済ませました

みんなで歌うといった
賛美の時間は削らざるを得ませんが
イースターを前に、イエス様のお話を
聞いてもらいたいですし
子どもたちが楽しみにしているクラフトもしたい
どうか無事に開けますように