2023年9月24日日曜日

「ぶどう園の労働者」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2023年9月24日)

ヨナ書 3章10-4章11節(1448) 

フィリピの信徒への手紙 1章21-30節(362)

マタイによる福音書 20章1-16節(38)


 このたとえ話はストーリーは単純ですが、何を言おうとしているのか全然わからない、と呟く方はたくさんおられます。確かにこの世の基準で考えれば、とんでもなく不公平で、あり得ないお話です。


 しかしお話の初めにイエス様ご自身が言っておられるように、これは「天国とはこのような場所ですよ」という例え話なのです。私たちがこの世の経済的な常識を当てはめて理解しようとするのは無理があります。でも、だからこそ「わからない」「難しい」といった否定的な言葉を連発しないで、心を神様に委ねて、神様が私たちに何を伝えようとしておられるのか、共に聞いてまいりましょう。


 イエス様がこのお話を語られたのは季節としては3月ごろ、イエス様はすでに十字架にかかるためにエルサレムに向かって旅を始めていました。残された時間が少ないイエス様は、弟子たちに「天国とはこのような場所だよ」と伝えたくてしょうがなかったことでしょう。


 そんな時、金持ちの青年がイエス様に近寄って来て「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをしたらよいのでしょうか」と問いかけます。彼は律法を忠実に守ってきたことをアピールし、まだ何か欠けていますか?と質問したのです。


 するとイエス様は「もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施して、天に富を積みなさい」とお答えになります。それを聞いた青年は財産を手放すことができず、悲しみながら立ち去ってしまいました。


 イエス様が、この青年の姿を通して弟子たちに教えられたことは一つだけです。天国に入ることを目的に律法を熱心に守り、善い行いや正しい行いをしても、それは関係ないことで、ただ神様の憐みによって与えられるのだ、ということです。


 天国に招かれるということは、良いことをした報酬として与えられるのではなく、他人から見れば何もやっていない、あるいは全くふさわしくないように見えても、神様の恵みと憐みによって入ることが許されるのだ、と伝えられたのです。

 そしてその出来事をもう少し詳しく説明するために「ぶどう園の労働者」の例え話をされたのでした。


 ここには「ある家の主人」つまり「ぶどう園の主人」が登場します。イエス様の譬え話のルールで行けば、この主人とは神様のことを指しています。神様は夜明に労働者を雇い入れるために自ら広場に出向きます。そして9時、12時、午後3時、そしてなんと日没近くの5時になっても、なお人びとを雇い入れています。これは、なんとかみんな生かしてやりたいという、神様の愛の表れなのです。


 本日読みました旧約聖書のヨナ書4章、ラストの部分には「右も左もわきまえない人間であっても、その人々を惜しまないではいられない」とう神様の言葉が出て参ります。これが神様のお心なのです。


 イエス様はいつも「神様こそがわたしたちの父です」と語っておられます。そのことを考えるなら、この行動は不思議でもなんでもありません。父親である神様は、路頭に迷っている子どもたちをなんとか生かしてやりたいのです。どこにも雇ってもらえなくて惨めな姿をしている我が子を見て、放っては置けないのです。放蕩息子の例えに登場する父親と同じです。ボロボロになった我が子を抱きしめ、迎え入れてやりたいのです。


 だからこそこの主人、つまり神様は何度も何度も町の広場に行って、人々に呼びかけるのです。「あなたたちも私のぶどう園に行きなさい、そこに必ずあなたの居場所がある。」このようにして遅い時間に雇い入れられた人々は、ただただ主人に対する感謝しかなかったでしょう。


 けれども世の中には「自分は早朝からずっと汗水垂らして働いていた」と、後から来た人々を軽蔑する人物が必ずいます。「後から来てちょっとしか働かない連中と自分を一緒に扱うのは許せない」そんなふうに主人に対しても徒党を組んで不満を口にするのです。


 ここで、イエス様の例え話を何度も聞いてきた弟子たちは、なんとなくピンときたことでしょう。「なるほど『後から来たやつと一緒にするな』と怒るのは、きっと地位の高い人たち、祭司たちや律法学者たちのことだろう。彼らはいつも平民を見下しているからな」「じゃあ、神様に愛されて後から招かれた人々というのは、まさに俺たちのことか!」そのような心の動きがあったのではないでしょうか。


 このたとえ話を記したマタイは元々徴税人でしたから、祭司たちや律法学者たちの基準からすれば、夕方の5時になろうが夜中になろうが、決してぶどう園に招かれる人間ではなかったのです。しかし神様はイエス様を通してマタイを招いてくださいました。だからこそマタイは、福音書を記し、後の時代の人々に向かって「絶望したり自暴自棄になったりしないで、神様の招きに感謝し、共に主の業に励もう」というメッセージを伝えたのです。


 こう考える時、私たち一人ひとりは、かつては行き場所も働き場も見出せず、世の中に振り回されて、ちっぽけな価値観の中で生きている人間だったかもしれません。しかし今はもう、イエス様に招かれて共にぶどう園で働く仲間となりました。

 私たちの中に、自分は朝早くから来たものだという思いがあっても、何を置いても、ここに招かれたことに感謝し、不平を言わぬものになりましょう。共に働く人を与えてくださることを祈り、感謝し、ここに神の国が作られることにのみ、喜びを覚えてまいりましょう。私たちは神の為に生き、その命を捧げ、やがて神の国に招かれていきます。この心、信仰には空しいことは、何一つないのです。


次の土曜学校は10月7日
そろそろ告知ポスターを作ります。
9月下旬から10月半ばまでは運動会シーズン。
土曜学校に来ているおともだちは
いくつもの小学校に分かれているので
スケジュールを合わせることもできず
昨年はなんと参加者3人でした。

参加人数が少なくても
実施することは、こちらとしては構わないのですが
いつものように15〜20人くらいで
ワイワイやるつもりで来たおともだちにとっては
かなりショックでしょう。
昨年来た3人のうち一人は、これを境に
土曜学校に姿を見せなくなりました。

たまたまかもしれませんが、なんだか心が痛みます。
今年はあらかじめレギュラー参加者の保護者宛に
「運動会の関係で人数は少ないと思われます」と
お便りを出しておきました(^^;)
さてどうなるでしょう???

多くても少なくても準備することはあまり変わりません。
宗教改革にちなんで「ルター」の紙芝居を準備。
工作は「りんごの木」です。


紙巻きのワイヤーで骨組みを作り
アレルギー対応のためお米粘土で飾ります

見本はあくまで見本
鳥や動物をくっつけたり
りんごを色とりどりにしたり
いや、りんごに見えなくても構いません
自由度の高い作品ができることを楽しみにしています

紙巻きワイヤーの骨組みはこんな感じ

2023年9月19日火曜日

甲信地区ネット礼拝を行いました

この日曜日は甲信地区ネット礼拝を行いました。
甲府、諏訪、松本、長尾、飯田の5教会をzoomで繋ぎ、諏訪教会から浅野牧師の「赦されているのなら」という説教を各教会や自宅から聞きました。

第二次世界大戦の折、ナチスからユダヤ人を庇ったことで強制収容所に入れられたオランダ人、コーリー・テン・ブームの著作を引用され「本当に赦すとはどういうことか」と解き明かされました。飯田教会には彼女の本を読んだ方も何人かおられたらしく、頷きながら聞いている姿が印象的でした。

今後再び感染症の流行で集会の制限が起きても、スマホやタブレットに慣れておけば、群れとして集まれない寂しさもやわらぐかもしれません。入院生活をしたり、高齢になって教会に行けなくなっても、こういった機能を上手に用いることができればつながり続けることもできます。


牧師も数が少なくなる一方で、細やかな牧会が困難になりつつありますが、悩んでいるだけでなく、今できることを共に考え、祈ってまいりましょう。


写真は集会室に設置したモニターです。
写っているのは諏訪教会の礼拝堂です。


2023年9月11日月曜日

「主イエスの掟」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(2023年9月10日)
詩編 119編33-40節(960) 
ローマの信徒への手紙 13章8-14節(293)
マタイによる福音書 18章15-20節(35)


 神様は紀元前1000年以上昔のモーセの時代、ご自分の民に十の掟、「十戒」を与えられました。神を敬って生活の中心とし、父母を大切にし、殺さず、姦淫せず、盗まず、嘘をつかず、欲望のままに貪ってはいけない。今の感覚で言えば、当たり前のルールですが、欲しいものは奪い取り邪魔者は殺すことが珍しくなかった時代、非常に高い倫理観です。


 イエス様の時代には、十戒をベースに生み出された律法は専門家たちによってんざりするほど細かくされていましたが、イエス様は「全ての掟は『神を敬い』『隣人を愛する』という二つに要約することができる」と言われました。


 先ほど読んでいただいたローマの信徒への手紙13章でも隣人愛について触れ、「そのほかにどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と教えています。


 しかし、「隣人を自分のように愛する」ということは本当に難しいのです。良かれと思ってしたことでかえって相手を傷つけてしまうことは珍しくありません。傷付けた側の立場が上であったりすると、それ以上面倒な関係になることを恐れて、黙り込んでしまう人もいます。でもそれは本心ではありませんから、だんだん礼拝に来る気力も、奉仕をする気力も湧いて来なくなります。そして教会に来る人はどんどん減って、あとは消えるだけ、という状態になってしまいます。


 人に影響を与える立場にある者ほど慎重に発言し、行動しなければならないのですが、この心構えがまた難しいのです。そのため、イエス様は「小さき者」「小さき者たち」を軽んじてはいけないと教えられました。


 イエス様が「小さき者たち」と呼ぶのは、社会的に「無価値な者」や「経済的にどん底のものたち」を意味します。「障害を持っていて社会から爪弾きにされている人々」も、成長途中で上手に物事の判断のできない子どもや若者、その逆に高齢となって以前のように動けなくなった人々も含まれるでしょう。


 世の中は、社会に有用なものを重んじ、お荷物となるものを切り捨てます。そんな風潮に染まって、「小さき者たち」の言葉を軽んじたり見下したりするのではなく、真摯に耳を傾け、その想いに共感し、常に新しい視点を持って生きていくことが神様の望まれる「隣人を自分のように愛する」ということなのです。


 ただ、この生き方は世の中に逆らうことになりますから、理解を得るのは難しいですし、現にイエス様の時代もそうで「小さき者たち」は常に見捨てられ続けました。しかし、イエス様はあえて難しい生き方に挑戦され、私たちにも「行ってそのようにしなさい」と言われるのです。


 しかしキリスト教会といえども、価値観の違いから教会内部でも愚かな間違いはたくさんあり、それをのちの時代に伝えています。一つ例を挙げますと、フィリピの信徒への手紙4章2節には、こんな記述があります。「エボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。これは当時のフィリピの教会で、指導する立場にあった二人の女性が権力闘争のようなものを起こし、そのせいで教会内が混乱してしまったことを表しているのです。


 なぜ二人の関係がこじれたのかはわかりませんが、この争いを治めるために、パウロは手紙の中にあえて彼女たちの名前をさらし、さらにはフィリピ教会の別の指導者に2人の間を取り持って助けてあげるように、と願ったのです。


 エボディアとシンティケの二人が真実にキリストに繋がっていたなら、お互いの好き嫌いは脇に置いて、もう一度一致して宣教に当たったことでしょう。もしそうでなかったなら、どちらかは怒りと共に立ち去り、神様の教えからも離れていったかもしれません。


 こんな時、私たちは一人ももれずに教会に留まることを願いますが、神様のご計画の中には、そうならないこともあるようです。と言いますのは、本日の福音書でイエス様は弟子たちに向けて非常に厳しいことをおっしゃっているからです。


 「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる」という御言葉です。簡単に言いますと、揉め事を起こしたとき、弟子たちの指導を受け入れようとしないなら、教会から除名しなさい、という厳しい教えなのです。


 これは非常に重い責任を伴う役割でした。最初に教会を作った弟子たちは、職権濫用などしないよう互いに祈り、また、除名されるものが出ないことを願ったでしょう。しかし間違った教えを教会に持ち込んで混乱させたり、絶え間ない争いに人々を巻き込むものがいた場合は、痛みを覚えながら「教会から除名する」という教えも実行していったのです。彼らの苦しみもまた、聖書の中に記されています。


 こんなふうにお話しすると、最初の頃の教会というのは清廉潔白な人たちばかりの、厳しい場所のように思えますが、そんなことはなく、彼らも私たちと同じように泣いたり笑ったりもがいたりしながら、教会生活を送った人々であったのです。


 私たちの中心にはイエス様がおられ、生き方もイエス様が示してくださいます。一人一人はイエス様に集められたものであることを信じながら、詩篇119篇にあるように「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください」と心から祈ることができるのです。


今年度の「こども祝福式」は11月19日(日)に決まりました。
飯田市では伊那谷文化芸術祭という催しが
なんと11月の各日曜日に開かれます
「ルーテルキッズバンド」の中心メンバーが
いずれかの日曜日に
小学校の音楽活動としてそちらに参加する予定がありまして
その子がどちらにも参加できるよう、調整に手間取ってしまいました
やっと決まったと思ったら
もう一つ小学校の音楽の催しがあるそうで
そちらに参加するメンバーもいるとの連絡!
保護者の方もまだ日程がわからず
全員揃って賛美して欲しいのに!と祈りつつも…涙
教会学校のライバルは小学校行事?
ふとそんなことを思ってしまう
日程調整担当者なのでした(^^;)


昨年までは「こども聖歌隊」の名称でした
コロナの影響で子どもたちは
なかなか大きい声を出して歌うことができず
飯田教会女性会の協力を得て頑張りました


今年は「ルーテルキッズバンド」として出演します
ドラムス、ベース、ボンゴは子どもメンバーが担当します
ボーカルにも頼もしいメンバーが増えました
元気な歌声と演奏は
「こども祝福式」に来てくれる他のお友達にも
喜んでもらえるはず!
日曜学校のメンバーと、協力してくださる保護者の方

増えることを祈っています!

2023年9月4日月曜日

「共に苦しむキリスト」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(2023年9月3日)
エレミヤ書 15章15-21節(1206) 
ローマの信徒への手紙 12章9-12節(292)
マタイによる福音書 16章21-28節(32)


 本日、読みましたマタイによる福音書の16章はイエス様の一番弟子であるペトロの成長に関わる、ドラマチックな記述です。ペトロは、ローマ皇帝を神として崇める町フィリポ・カイザリアで、イエス様に向かって「あなたはメシア、生けるキリスト」です。と告白しました。ペトロは「あなたは私にとって救い主キリストです」と信仰告白をしたのです。

 このやりとりの説明に入る前に、ちょっとお話ししておきますと、ペトロの元々の名前は「シモン・バルヨナ」つまり「ヨナの息子シモン」と言いました。しかしこの時を境にイエス様は彼を「ペトロ」と名づけ、のちの時代の人々もそう呼ぶようになったのです。

 「ペトロ」とは「岩」を意味します。イエス様は揺らぐことのない堅固な岩、その上に教会を建てると言われたのです。ここだけを読むならば、ペトロの信仰はもはや完璧、立派に完成した、と勘違いしそうです。しかし、そうではなかったことがそのすぐ後でわかります。

 イエス様はご自身が「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」とおっしゃいました。つまり宗教的と政治の権力を握る人々から殺される、と弟子達に伝えたのです。するとペトロはすぐにそのお言葉を遮って「そんなこと言うもんじゃない」と諌め始めます。

 この当時、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネが、不道徳なことで知られるヘロデ王に殺されたニュースは、弟子たちに強いショックを与えました。ですから、イエス様も王様に睨まれる可能性がありました。
 
 しかしイエス様はご自分を殺すのはヘロデ王ではなくユダヤ教のトップたちである、と言い切られたのです。弟子たちはその人々とイエス様がたびたび議論をして負け、悔しそうに帰って行ったのを見てきました。しかしそれが嵩じて殺されるなどとは信じられませんでした。

 彼らの読む聖書、つまり今の旧約聖書には、神様を愛することの大切さと並んで、同じ神の民と呼ばれるユダヤの人々同士助け合うことの大切さが記されていました。しかしやがて教えは次々と細分化され、イエス様の時代には日常の些細なことまで律法学者が睨みを効かせるようになっていました。

 そんな彼らは、神の子であるイエス様に律法の根底に神様の愛があることを改めて知らされたのです。それをきっかけに、悔い改めに導かれた人もいたでしょうが、逆にプライドを傷つけられて「イエスなど消えてしまえば良いのに」と思うようになっていった人々もいたのです。

 しかし弟子たちは、先祖代々ユダヤ教徒として育っていますから、宗教指導者がそんな悪い心を抱くなどと思いもしませんでした。そこで、一番弟子のペトロは「自分が代表してちゃんと言わなければ」という思いでいっぱいになって、たまらずイエス様をわきにお連れし、諌めたのです。

 イエス様から認められたばかりのペトロは、どこか傲慢になっていたのかもしれません。ペトロの言う「主よ、とんでもないことです」という言葉は、直訳すると「主よ、あなたにあわれみがあるように」となります。弟子であるペトロが師匠であるイエス様に「神様の憐れみがあるように」と言うことの方が「あってはならない」おかしなことでした。

 そのペトロをイエス様は非常に強い言葉でお叱りになります。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」まるでペトロがサタンそのものになってしまったかようです。

 ただ、これはペトロをサタンと呼んだというより、お前のすぐそばにサタンがいる。その誘惑に飲み込まれるな、という意味であり、結論から言えば、ペトロが後々教会の土台となるために必要なお叱りだったのです。ペトロが信仰的に成長するためには、何が神様の導きで、何が悪魔の誘惑なのか、その感覚を研ぎ澄ますことが必要だったのです。

 例えば、地位のある人たちの発言を「あの人たちは間違わないから」と鵜呑みにするでもなく、「先祖の教えだから」と何でも有難がるのでもなく、しっかりとイエス様のお言葉を聞いてその真意を受け止め、神様に従っていく人になることがペトロに求められていることでした。

 イエス様はそれができる信仰者を群れの中心に据え、次の世代のクリスチャンが育つ教会を作ることを考えておられました、その土台となってもらうために、ペトロをお招きになりました。ですから、まずペトロを育てること。それこそがこの時のイエス様の目的だったのです。

 叱られたペトロは一旦はひどく落ち込んだことでしょう。しかし次の17章を見ますと、特別な弟子の一人に選ばれてイエス様のお供をしています。このことからも、イエス様がペトロの発言に痛みを覚えつつも決して見放さず、大切に育てようとしたことや、ペトロがその思いに応えようとしたことがわかるのです。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている。」このイエス様のお言葉は、私たちにも常に突きつけられています。わたしたちがクリスチャンとして何かを判断するとき、決して忘れてはならないなのです。この御言葉によって自分の思いや行動を吟味し、仮に厳しい道であってもそちらを選び取ることができるなら、わたしたちの信仰は必ず成長することができるのです。


3日(土曜日)は土曜学校でした
在園児を含めて17名が猛暑をものともせず
集まってくれました
集中してコースターを仕上げ、みんな満足そうでした
(今回は目地材は使わず石粉粘土で隙間を埋めました)

レギュラー組のお姉さんたちが来ないなあと思ったら
学校関連のクッキング教室に
参加したのだとか(お菓子だったようです)

我が飯田教会にもお菓子の名手がいるのですが
現在は残念ながら自由に使える台所がなく
お菓子教室はできない状態です

以前は幼稚園の給食室と共同で台所を使っていたのですが
今はそういったことは許されなくなりました(><)
今計画中の新会堂が完成すれば
自分達のキッチンで心置きなくお菓子教室ができます!
その日が待ち遠しいです


在園児仲良し二人組
素晴らしい集中力でした



作業の間「恋バナ」に夢中だったお姉さんたち
聞くまいと思うのですが、ついつい耳に入ってしまいます(笑)


レギュラーのDちゃん
今回も自由な発想で作り上げてくれました