2019年1月14日月曜日

説教骨子「ヨハネの洗礼から始まった出来事」(ルカ福音書第3章15節-22節)




2019113日、主の洗礼日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第421-7節、使徒言行録第1034-38節、ルカによる福音書第315-22節、讃美唱29(詩編第291-10節)

説教骨子「ヨハネの洗礼から始まった出来事」(ルカ福音書第3章15-22節)

今朝は、主の洗礼日の礼拝で、先週の顕現日礼拝に続いて、教会で用いられます聖壇の色は白であり、これは神の栄光を示す色であります。2019年の年の始めに、主の洗礼の記事が必ず読まれ、今年は、3年サイクルの聖書日課のC年であり、ルカ福音書の個所第3章15節から22節が与えられています。
先週は一年の初めての主日の礼拝が、顕現日と重なり、マタイ福音書第2章1節から12節が読まれました。一年の始めに、私どもは、今年も導いてくれるベツレヘムの星について思いをひそめ、今日はまた、主イエスが、私どものために受けてくださった洗礼の記事を読んで、私どもが受けている洗礼、聖霊と火における洗礼について、思いをひそめたいのであります。
今日の記事は、洗礼者ヨハネの語った言葉と、ヨハネの出来事、そして、主イエスの受けた洗礼のときの出来事が記されています。ヨハネから洗礼を受けていた人々、待ち望んでいた人々は、もしかしたら、この人こそメシアではないかとあれこれ考えていたのですが、これをヨハネは、自分はメシアではないと断言し、自分より後に来る方は、自分よりも力ある方で、自分はその人の靴の紐を解くにも値しないと言い、自分は水で洗礼を授けているが、その方は聖なる霊と火においてあなた方に洗礼を授けると答えます。そしてその方は、手に箕を持って、風にあおらせて脱穀したからは吹き飛ばし、麦は倉に納め、脱穀場を清めると預言しました。ところが、このヨハネを、ヘロデ・アンティパスは、ヘロデアのことで糾弾したので、獄に入れて悪事を更に加えたとあります。それに続けて、ルカは、主の洗礼の記事を書いているのであります。まず、先駆者ヨハネが登場し、その後に、主イエスの宣教が始まることを、ルカは強調しているのです。そして、起こったことには、民が皆洗礼を受けていたとき、主イエスも洗礼を受け、祈っておられたのであり、それに続けて、天が開け、聖霊が、鳩の肉体の形で、彼に向かって下り、そして、天から声が成るのであります。「あなたは私の子、愛する者、私はあなたを喜んでいる」と。主イエスの祈りにおいて、私どももまたその聖霊を受ける洗礼に与った、あるいは、与ろうとしている一人一人であります。私どもも、主イエスの祈られる中を、この一年、祈りつつ、私どもの受けた洗礼と共に歩めるのです。アーメン。

2019年1月10日木曜日

説教「主の星に導かれて」(マタイ福音書第2章1節~12節)



201916日、顕現日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第601-6節、エフェソの信徒への手紙第31-12節、マタイによる福音書第21-12節、讃美唱72(詩編第721-15節)

説教「主の星に導かれて」(マタイ福音書第2章1節~12節)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 今日は、今年に入って、最初の主の日であります。そして、今日はたまたま、1月6日でありまして、顕現日であります。1月の第1日曜日でもあって、このあと、聖餐式もひかえています。そして、毎年、この日には、先ほど一緒に読みましたマタイによる福音書第2章1節から12節までが読まれます。顕現日は、ローマ・カトリック教会など西方教会では、クリスマスが1224日ないし25日に祝われるようになるよりもずっと前から、大事な祝祭日として盛大に祝われるようになっていたといいます。
 
それは、なぜなのでしょうか。それは、自分たち異邦人が、ベツレヘムに生まれた救い主み子主イエスのもとまで、今日の主の星に導かれて、たどり着き、最初の礼拝がささげられたことを、西方教会の人たちが、感謝をもって受け止め、この記事を毎年毎年、この一年の始めに記念することがふさわしいと、考えたからでありましょう。
 
その伝統に従って、私たちルーテル教会では、1月6日を顕現日として定め、あるいは6日以後の最寄りの主の日を、顕現主日として守り、毎年毎年、この個所を、繰り返し繰り返し開いて、説教を聞くのであります。そして、私たちは、この一年、どのような旅路を歩むのだろうか、また、歩むべきなのかを共に考えるのであります。この個所から、しばらく、ご一緒に、今日の福音を中心として、ご一緒に考えてみたいと思います。 
 
さて、今日のみ言葉は、「で、そのイエスがお生まれになったのは、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムにおいてであった」ともとの文では始まります。あえて「そのイエスが」というのは、第1章で、ヨセフが夢で天使が現れ、この子をイエスと名付けなさいとお告げがあり、それは、この民を罪から救い出すからであると言われた「そのイエスが」ということであります。
 
そして、その時、東方から占星術の学者たちが、エルサレムに到来してこう告げるのであります。直訳しますと「お生まれになったユダヤ人たちの王はどこにいますか。私どもは、その方の星が昇るのを見たので拝むために来たのです」と。
 東方からというのも、どこなのか断定はできません。ユダヤ人たちが離散する民として定住するようになっていた今のイラク当たりのバビロンであったのか、ペルシャか、それともアラビア当たりだったのか、それともエジプトからであったのか。

そして、占星術の学者たちと、新共同訳聖書では訳されていますが、それは、マゴスという言葉で、複数形はマゴイであります。以前は博士たち、賢人たち、学者たちとも訳されてきましたが、一方では、魔術師、星占いとも訳される言葉であります。
 
しかし、はっきり言うことができるのは、彼らは、東方で、御子救い主、主イエスの星が昇るのを見て、その方を拝するために、危険も顧みず、はるばると旅をしてやって来た者たちであるということです。彼らは、主の星に導かれて、ユダヤ人の王として生まれた方を、自分たちの救い主として、見届けるためにやって来た者たちであったということであります。
 
星のことを考えると、私たちはどこから来て、どこへ行くのかということを考えさせられます。私たちは、何ゆえに生まれて、また、死んだらどこへ行くのだろうと広大な宇宙と星を仰ぎ見ながら考えさせられます。

 このマゴスたちは、東方で、この方の星の昇るのを見て、それに導かれて、言わば人生のなぞを解きに来た、本当に人間の生きる意味を知ろうとし、救い主に出会い、ひれ伏すために、ユダヤ人たちの聖都エルサレムにやって来たのであります。
 
ところが、これを耳にしたヘロデ王は、原文から言いますと、「うろたえた」という強い言葉で記されています。しかも、全エルサレムもそうであったというのであります。自分こそがユダヤ人たちの王ではないのか。お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか、と告げているのを見出したヘロデ王は、平穏なままに聞き過ごすことはできなかったのであります。

 彼は、紀元前4年になくなっていますが、南のイドマヤ人との混血の生まれで、政治家としては、エルサレム神殿の修復・拡張を始め、長きにわたって辣腕をふるった権力者でありました。自分の地位を危うくする、別の王、救い主メシアの誕生はそのままにしておくわけにはゆかなかったのであります。

 では、なぜ、全エルサレムもそうであったとマタイは記しているのでありましょうか。もちろん、エルサレムには、み子の降誕を待ち望み、みどりご主イエスを祝福したシメオンや女預言者アンナのような人々もいたのであります。

 しかし、この都エルサレムの群衆は、やがて、主イエスが成長して、人々の前に現れ、公生涯を終えようとするとき、主イエスを十字架につけよ、と叫び、迫害する側につくのであります。救い主、主イエスの誕生の出来事は、それによって、立ち上がらされる者たちと、倒れる者たちとに二分されるのであります。
それは、二千年前のこのときも、二千年後の現在でも同じであります。
 
さて、ヘロデは、このとき、民の祭司長たちや律法学者たちを皆呼び寄せて、メシアは、どこに生まれることになっているのかを問いただします。
 彼らは言います。それは、ユダのベツレヘムです、預言者を通してこう書かれています。
「ユダのベツレヘムよ、お前はユダの君たちの中で決して最小の者ではない。なぜなら、お前の中から、イスラエルの民を牧する指導者が出て来るから」と。
ベツレヘムの生まれで、羊飼いであったダビデ王の子孫からメシア、救い主が現れると当時の人々は堅く信じていました。ですから、学者たち、あるいは祭司長たちはすぐに聖書を引用して答えることができました。しかし、彼らはそれを知っていても、自分たちがベツレヘムに生まれている御子に会いに行こうとはしません。彼らは現状維持の方がいいのであります。博士たちのように出ては行かないのであります。
 
さて、それを知らされたヘロデ王は、今度は、マゴスたちを密かに呼び寄せ、主の星が輝く出でた時を正確に知ろうとしていました。そして、彼らをベツレヘムへと送り出しながら、命じるのです。その子のことを詳しく調べて、見つかったらすぐに、報告してくれ。そうすれば、私もその子を拝みに行くから」と。
 
マゴスたち、博士たちは、その言葉を聞き流しながら、出発します。すると、彼らが、その昇るのを見た星、主の星が彼らを先導していき、その子のいる家の真上で止まります。彼らはそれを見て、甚だ大きな喜びを喜んだと、原文には表現されています。それは、真珠の商人が見事な真珠を見つけて大喜びで、他のものを全部売り払って買い求めたと主イエスが譬えられたような、何にも替えがたい喜びを、すなわち、救い主、幼子イエスの下にまでたどり着いた喜びを表現しています。
 
そして、彼らは家に入ると、その子と彼の母マリアを見出し、跪いてひれ伏すのです。そして、彼らの宝の箱から贈り物を取り出し、ささげます。それは、黄金、乳香、没薬でありました。それは、ユダヤの国では取れない高価な贈り物でありました。そして、夢の中で、ヘロデのもとへと帰るなと警告を受けたので、彼らは別の道を通って、彼らの国へと立ち去ったというのであります。
 
マゴスたち、彼らは、どのような素性のものであったのかは断定はできません。魔術師のようなものであった者たちが、救い主に出会って、それまでの生き方を悔い改め、商売道具であったものを、引き換えにささげて、新しい生き方をするようになって帰って行ったのか。あるいは、後の伝説のように、彼らは王であったのか。異邦人の王たちが、イスラエルのまことの王、主イエスに帰依することになったものか、事情ははっきりと証明することはできません。
 
ただ確かに言えることは、神の民として選ばれているイスラエルの民が気づくよりも先に、救いからは遠いとされていた異邦人たちが、はるばる東の国から、主の星を見出して、ベツレヘムへと導かれ、幼子主イエスにまみえて、ユダヤ人たちよりも先に、み前にひれ伏し、尊い献げものをして、それまでとは違う別の道を通って歩む者とされて帰っていったということであります。

私どもも、この一年の始めに、今日の主日の祈りにもあったように、み子がベツレヘムでお生まれになったように、私どもの心の中にも生まれるようにと願うものであります。そして、主の星が私たちの新たな一年をも導いてくれることを、私どもは知っています。この一年が皆さん、お一人お一人にとって祝福された歩みとなりますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。