2024年3月31日日曜日

「両手いっぱいの愛」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(2024年3月31日)(白)

ヨハネによる福音書20章11-16節


 イースターおめでとうございます。

 今日はキッズバンドに「両手いっぱいの愛」を賛美していただきました。小さいお友達もお母さんも一緒に歌ってくれてありがとうございます。この歌は日曜学校で「こども聖歌隊」を結成した頃から、歌うメンバーが入れ替わってもここで歌い続けてきました。


 「両手いっぱいの愛」はよく手話をつけて歌います。イエス様、僕のこと、私のことをどれくらい愛してますか?と、「これくらい?」「これくらい」と手を広げながら訪ねます。二番もこれを繰り返します。


 三番になると今度はイエス様が静かに両手を広げて「あなたのことをこれくらい愛しているよ」と教えてくれます。それはもう、目一杯両手を広げてくださいます。ところがイエス様がいっぱいに広げた両手は十字架の横の棒に釘を打たれてしまいます。それでもイエス様はおっしゃいます「あなたのために死んでも構わない、それくらいあなたのことが大好きだよ」両手いっぱいの愛とは、イエス様のものすごく大きな愛のことを歌っているのです。


 さて、イエス様は何にも悪いことをしていないのに、他の悪者と一緒に十字架にかかって死んで、お墓に入れられました。イエス様は前から「私は神様のお力で蘇る」つまり、生き返るよ、と言っていたのですが、誰もそれを信じませんでした。


 今日聖書に出てきた女の人は、イエス様が死んでしまったのが悲しくてお墓にやってきました。イエス様のお国のお墓は日本のと違っていて、亡くなった人を布でぐるぐる巻きにして、洞穴に入れます。その時良い匂いのする油を死んだ人の体に塗るのですが、イエス様は「こいつは悪者だ」と言われて死刑になったので、乱暴に布で巻いただけで洞窟に放り込まれていないか、女の人はとても心配になったのです。


 ここで皆さんに質問です。この女の人の名前は、なんでしょう。最初のところに書いてありますね、「マリア」さんと言います。でも、この人はみんながよく知っている、イエス様のお母さんのマリアさんとは別の人です。「マリア」という名前はとても人気があったので、同じ名前の人がたくさんいたのです。


 ではこのマリアは何者でしょう?ヒントは今度は聖書の一番最後のところに書いてあります。この人はイエス様のことを「先生」と呼んでいます。つまりイエス様を先生として、いろいろ教えてもらった、イエス様の生徒さんだったのです。イエス様にはたくさんの生徒がいて、みんなイエス様から神様のお話を聞くのが大好きでした。

 ところが、イエス様が、たとえば「世界中のどんな宝をもらうより、神様に愛されていることの方が素晴らしいんですよ。だからよくお祈りをして、神様ともっと仲良くなりましょう」と教えてくださっても、ほとんどの人が「いいお話だったね」と喜ぶだけで、「私には無理だな」と思って、すぐに忘れてしまいます。


 でも生徒の中には、一生懸命イエス様の言うことを聞いてイエス様のそばで頑張る人たちがいました。その人たちのことを聖書では「弟子」と呼んでいます。弟子の人たちは「この世の中のどんな宝より神様の愛の方が素晴らしい」とイエス様がおっしゃれば、素直に信じます。そして「私は神様に愛されているんだ」と嬉しくなって、もっともっと神様のことを勉強します。そしてやがて他の人にイエス様のお言葉を正しく伝えられる人に成長するのです。


 さてさて、話をもとに戻しましょう。ここに出てくるマリアはイエス様の熱心な生徒、つまり弟子でした。イエス様と会う前はあまり良くない仕事でお金儲けをしていたという噂がありましたが、イエス様の弟子になってからは、イエス様や他の弟子たちのお世話係になりました。すっかり貧乏になりましたが、マリアはとても幸せでした。


 それなのにイエス様が死んでしまって、マリアはものすごく悲しくなりました。せめていい匂いの油を塗ってあげようと思ってお墓に来たのに、イエス様のお体がそこになくて、もう本当にどうしていいかわからなくて、心の中が真っ暗になって、一人ぼっちで泣き始めました。


 涙でいっぱいで何も見えなくなったので、天使が話しかけても、蘇ったイエス様が話しかけても、誰から声をかけられたのか全然わかりませんでした。イエス様から「マリア」と名前を読んでもらって、ようやくそこにいるのがイエス様だと気がついたのです。


 マリアはすごいと思います。普通は死んだと思った人が急に後ろに現れたら、「幽霊だ!」と驚いて怖がるものです。でもマリアは、イエス様が「私は三日目に蘇る」と言ったことを思い出して、すぐに信じたのです。そしてとっても嬉しくなって「先生!」と叫んで思わず抱きつこうとしました。


 イエス様はちょっと焦ったかもしれませんね。そこでストップストップ、といった感じで、「私に縋り付くのはやめなさい」とマリアを止めます。そして「他の仲間のところに行って、私が蘇ったことと、もうすぐ神様のいる天国に帰ることになっている、と知らせなさい」と言います。マリアは素直に頷いて、大急ぎで他の弟子たちのところに飛んでいったのでした。


 マリアの心は喜びでいっぱいでした。さっきまで「イエス様は私を一人ぼっちにして死んでしまった」と悲しかったのです。でも蘇ったイエス様に会えた時、そしてその両手に釘の跡を見た時、「あなたのことをこれくらい愛しているよ」といっぱいに広げられた両手を見た気がしたのです。


 マリアはイエス様に抱きつくことはしなかったけれど、イエス様が、そして神様がいつまでも自分のそばにいて、見守ってくださることがわかったのです。マリアは繰り返し繰り返し「ありがとうイエス様」と心の中で思っていたことでしょう。


 みなさんがこれから「両手いっぱいの愛」を歌うとき、イースターのこんな物語を思い出してください。そして「あなたのために死んでも構わない、それくらいあなたのことが大好きだよ」とおっしゃったイエス様のことをいつまでも忘れないでくださいね。


イエス様のご復活おめでとうございます!

皆様の教会はどのように過ごされたでしょうか

飯田教会は今日も音楽で盛り上がりました

前奏後奏と特別賛美はリーベクワイヤのみなさんの

ハンドベル演奏で彩られました

特別賛美その2(?)はルーテルキッズバンド

「両手いっぱいの愛」と「十字架わが力」を

元気に歌ってくれました




礼拝には今日が一歳のお誕生日のAちゃんから
おんとし95歳の牧師夫人のお母さんまで
年度最終日だったせいか
少ない出席人数ではありましたが
みんなで楽しく過ごすことができました


今まで気づかなかったのですが
礼拝堂正面の壁に窓枠の影が写っていました
十字架がもう一つあるような
不思議な光景でした



2024年3月28日木曜日

「わが救い主の十字架」(日曜日のお話の要約)

主の受難礼拝(2024年3月24日)(紫)

イザヤ 50章4-9a節(1145) 

フィリピの信徒への手紙 2章5-11節(363)

マルコによる福音書 15章21-39節(95)


 本日の礼拝は、「わが主、イエス・キリストの受難」を覚えての礼拝です。「キリスト」という名称は「油注がれた者」という意味のある、誇り高き名称、「称号」です。イスラエルにおいては、古くは王様のことを指し、この世を救う救済者という意味でも使われます。言うなれば、血統や先祖に寄らず、その時代が創りだしたヒーローのことを、救済者と呼びました。その救済者の徴として、その人物のこうべに油が注がれる儀式があったことが起源となっています。


 例えばサムエル記上16章にはダビデ王が油注がれて将来王様となることが約束されるシーンがあります。このように旧約聖書には油を注がれて「救い主」と認められた人物が何人か登場します。しかし新約聖書の時代になり、神様はイエス様こそ「唯一のキリスト」として私たちのもとに遣わしてくださいました。私たちはその「イエス・キリスト」を信じる者の集まりなのです。


 ところで、キリスト教会というと、一般的には宗教施設の名称に使われますし、一般の人たちからは「信者じゃないと入れなところなんでしょう?」と尋ねられたりもします。しかしこれはもちろん間違いです。「教会」はもともとはギリシャ語で「エクレシア」と呼ばれていました。これは「集められた者」という意味です。すなわち、神様が集めて下さった人々が集まっているのが教会で、洗礼を受けている、受けていないは二の次なのです。


 洗礼というのは、「私は神に清めていただかなければ、欲深く、邪心に溢れた存在だ」ということを認め、清めて頂くことが大切だという教えを信じた方が受けるものであり、洗礼を受けないと教会に入れないとか、洗礼を受ければ突然救いが分かるとか信仰が急成長する、というものではありません。


 ただ、重要なのは神様が私をここに呼んでくださり、他の人々と共に集めてくださったという感謝の思いです。その結果として洗礼を受けるならば、その謙虚さが、教会にはいつも充満しているわけで、この思いが社会に浸透していけば、きっと社会はよくなると信じて、教会は運営され続けました。


 しかし教会が社会に影響を与えるようになると、それを利用しようとする権力者も集まってきます。歴史の中で教会と権力が結びついて大きな過ちを犯したこともありました。2000年前、イエス様の弟子たちによって教会が形になり始めた頃に記されている使徒行伝やパウロの記した手紙には、すでにその兆候が記されていて、こちらを信じる、いやあちらを信じる、とイエス様そっちのけで派閥争いをしていた様子がわかります。


 現代においても、キリスト教を国の宗教の中心においている大国どうしが戦争を起こすことも私たちは目撃します。キリスト者と名乗っていても、謙虚さを忘れ、悔い改めを忘れ、キリストの名を利用することしか考えない人々に成り下がっているのです。


 本日読みました福音書には「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて」と書かれています。これは「今、兵士たちによってイエス様は十字架につけられる」と訳すのが正確なのだそうです。教会では、会堂の正面に十字架を掲げていますが、これは単なる飾りではありません。「今、まさにイエスが十字架につけられる」ということをしっかりイメージするために、ここにあるのです。


 イエス様が十字架につけられたとき、イエス様が極悪人で、社会のゴミのような存在であれば、この死刑は喜ばれ、歓迎されたことでしょう。しかし民衆の多くはそうでないことを知っていましたし、全員とは言いませんが、イエス様によって救われた人々もそこにいたのです。また、そもそも死刑判決を下したローマ総督のピラトはイエス様に死刑に値する罪がないことも知っていました。


 しかし十字架につけろ、というヒステリックな声がその場を支配していて、彼らを身動きできなくしてしまったのです。そして、それこそがそれが神様のご計画だったのです。


 イエス様ご自身も何度も何度もご自分が十字架にかけられることを予告し、その上で蘇ると宣言されてきました。「蘇る」前には絶望的なほどの苦しみが待っているけれど、ご自分は神様のお力によって必ず勝利する、そしてあなたにも同じことが起こる、そう伝え続けられたのです。これがイエス様が私たちにお伝えになった大切なメッセージであり、イエス様が身をもって教えられたことなのです。


 私たち一人ひとりの身に起こるあらゆる不条理も神様のご計画だと信じられるのは、先頭に立ってお手本となってくださったイエス様がおられるからであり、だからこそ私たちはイエス様を私たちは救い主とするのです。


 私たちはキリスト者として、誰にも理解されず、追い詰められた状況に生きることもあります。しかし、苦しみの中でイエス・キリストが体験されたのと同じように神様のご計画を見出し、十字架の意味を再認識することができるなら、世界は違った景色に見えるでしょうし、新たな歩みがそこから始まるのです。


 ここまで生き方を極めれば、どんな生き方になろうとも生きていくことはできます。どんなに小さな信仰でも、最後はイエス様が贖ってくださる、救ってくださることを知っている限り、動じることはないのです。それが自分の生き方であり、神様に与えられた生き方だと信じることができるのです。


 わが救い主イエス・キリストの十字架は、今、私のためにある、と信じられる時、救いがあることを見出すことができるのです。

2024年3月18日月曜日

「一粒の麦」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2024年3月17日)(紫)

エレミヤ 31章31-34節(1237) ヘブライ人への手紙 5章5-10節(406)

ヨハネによる福音書 12章20-33節(192)


 麦の粒は穀物であると同時に種でもあります。穀物としての粒のままであればずっと一粒のままです。地に落ちて死ななければ、というのは穀物としての役割を捨て、「種」になりきって土に埋もれるならば、状況は変わる、ということです。


 種の殻は弾けて新しい芽が出、成長すると麦の穂ができ、ざっと15から25の粒がつき、穀物として利用することができます。このように元々の役割に固執せず、新たな命に生まれ変わることを「地に落ちて死んで新たに実を結ぶ」と理解することができます。


 イエス様は麦の一粒が種となり、死んで復活する時、豊かな姿で蘇ることに喩えて、ご自身が一度死んで葬られることによって、世界中の多くの人々が、永遠の生命という豊かな実りを受けるようになる、とお教えになったのです。


 ここに登場するギリシャ人たちは、どうやらイスラエルの人たちと同じユダヤ教に改宗した人々で、ユダヤの祭りに合わせて巡礼に来ていたと思われます。エルサレム神殿は、他宗教からユダヤ教に改宗した外国人のために礼拝場所を開放しており、そこは異邦人の庭と呼ばれていました。当時のギリシャ人は哲学的にものを考えるのが得意な民族でしたから、「命とは何か」「真理とは何か」と日頃から考え、その結果として旧約聖書の神に辿り着いたのでしょう。


 神殿で礼拝していた彼らは、イエス様と共にいた弟子のフィリポの顔を覚えていたとみえ、彼にイエス様を紹介してもらえないかと頼み込みます。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」という言葉は真剣そのものです。ちなみにこの「お目にかかりたい」という言葉は、「信じたい」という言葉にも翻訳できます。


 しかしユダヤ人の風習では、外国人とむやみに接点は持ちません。フィリポもまた、ギリシャ人をイエス様に紹介するかどうか自分だけで判断できないと考え、ペトロの弟アンデレに相談します。二人で考えた結果、話を握りつぶすのは良くない、ギリシャ人がイエス様に会いたがっていることはきちんと伝えて、判断はイエス様にお任せしよう、ということになったようです。


 「一粒の麦」という御言葉は、フィリポたちに取り次いでもらったギリシャ人に向けられたのか、弟子だけたちに語られたのかはっきりしません。ただ、この御言葉はのちにキリスト教が広まっていくにつれてさまざまな民族が耳にし、受け入れられていきますから、結果的にギリシア人を含めた多くの異邦人に語られていくことになります。


 くどいようですが、今が受難節であることを踏まえて、もう一度、聖書からしっかり一粒の麦の言葉を見ておきましょう。「はっきり言っておく」というイエス様のお言葉は原文では「アーメン、アーメン」となります。イエス様はこの御言葉を人々に伝え、覚えておいてほしいメッセージとしてお伝えになったのです。


 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとするものは、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もそこにいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」


 一粒の麦は、間も無く十字架の死を迎えるイエス様の遺言も取れます。しかし、それだけでなく、イエス様の弟子達に向けて、殻を破って生まれ変われ、というメッセージも込めておられるのです。


 フィリポやアンデレは、以前であれば異邦人をイエス様に引き合わせるようなことはしなかったでしょう。しかしこの時彼らは迷った、すなわち、イエス様とギリシャ人を引き合わせることが自分達の役目であり、もしかしたらイエス様も喜んでくださるかもしれない、と迷いながらも考えたのです。


 弟子たちは、普通のユダヤ人が外国人とは交流したがらない、という殻を自分から破り、一歩踏み出して伝道しようとした、その姿に、イエス様は一粒の麦のような姿をご覧になったのです。


 もちろん、ギリシャ人たちがどうにかしてイエス様に直接教えを請いたくて、弟子達が異邦人と接触を嫌うことを知った上で、必死で頼み込んだ姿の中にも、一粒の麦を感じさせるものがあります。


 つまりは、イエス様は弟子たちの変化と異邦人たちの変化を目の当たりにされ、数日後には十字架にかかるというこの時に、イスラエルの国でキリスト教が世界宗教になろうとしている予兆をご覧になったのです。


 これは2000年前の出来事なのです。ここに教会の原型があり、そして未来がしっかりと記されているからこそ、私たちも同じように、色々な人に伝道していくことが使命ととして受け止めるのです。


 イエス様が一粒の麦であったように、イエス様の弟子一人一人も、一粒の麦、そして、イエス様を求めたギリシャ人も一粒の麦です。そして、この教えを受け継ぐ私たちもイエス様を信じた一粒の麦です。


 弟子達のように、自分が殻の中にいるという葛藤をうち破って、神の国の為に、未来の為に、人々の救いの為に、神様に示された誰かと受け入れあい、教え合うこと、それが神様の喜ばれる世界なのです。


 「殻を打ち破れ」と命じられる神様は、いつも私たちと共にいてくださいます。私たちは安心して一粒の麦としての生涯を歩んで参りましょう。


 

「御子を賜る神の愛」(日曜日のお話の要約)

四旬節第四主日礼拝(2024年3月10日)(紫)

民数記21章4-9節 エフェソの信徒への手紙2章1-10節

ヨハネによる福音書3章14-21節


 信仰の世界に入る時、真面目に続けるならば成熟した人間になれると思う人も多いかもしれません。欲に縛られず、健康的で、公平な心を持ち、あくせくしない。必要なものはしっかり管理し、無駄遣いしない。ものごとに集中し、楽しむ時は楽しむ。時を管理し、勉強する時は勉強し、思い煩いがない。そのような心を持てば、この世の一生はどんな人でも幸せに過ごすことができるでしょう。


 ところが大抵の人は何年経ってもそんなふうにはなれません。相変わらず、すぐに思い煩いの虜になり、「神様に委ねましょう」と口では言いながらなかなか心配事を手放すことができないのです。自分の信仰のあり方がなってないせいなのかなあ、と、かえって悩みが増し加わってしまいます。


 そんな私たちに聖書は「神は、その独り子をお与えになった」という御言葉を与えてくれます。短い言葉ですが、私たちの価値観をガラリと変えてしまうくらい大きな言葉です。福音書を記したヨハネは、人間の弱さを知り尽くした上で、このイエス様の言葉を、賢い人にも、そうでない人にも伝えたのです。


 とはいえ、このみ言葉は賢い人の方が理解しにくかったようで、その典型的な存在が、本日登場するニコデモでしょう。ニコデモはファリサイ派の教師でしたから聖書の御言葉に精通しており、聖書に記されている掟も歴史も人々に教えてきました。その上彼は政治家の一人、議員でもありましたから、当時のイスラエルが置かれている厳しい社会情勢についてもよく知っていました。


 一般庶民はローマ帝国の支配のもとで一杯一杯の生活を強いられていましたが、議員である彼は衣食住で困ることはありませんでしたし、常に多くの人々から尊敬されていました。ですからニコデモは、神様を信じているという自負はあっても、神様に頼るとか、守られているという感覚は薄れていたといえるでしょう。


 彼は礼儀正しく思いやりのある人物でしたが、その優しさは社会からドロップアウトした人に向けられることはありませんでした。彼らは神様から見捨てられた存在だから関わらないようにと教え、自分も関わることはありませんでした。それは指導者である立場の人間として、秩序を守るために当然のことだと思い込んでいたのです。


 今までニコデモは誰かが不幸な出来事に遭遇した時、その人自身が悪い、その人の信仰が足りず神様に罪を犯したせいでそうなったのだ、罪から清められない限り不幸は続く、と教えました。不幸な目に遭うだけでも辛いのに、悪感を煽るというのは、傷口に塩を塗り込むような言葉だったことでしょう。


 しかしイエス様はそのようにはお教えになりませんでした。神様はあなたに愛をもって接している、あなたが辛い目にあったとしても、それはあなたが神様の存在にもう一度気づくためであり、あなたと神様を再び結びつけることになる、とはっきりと教えられたのです。


 ニコデモは、いわゆる「もうお迎えが近い」という年齢になって、イエス様を知り、そこで大きな迷いが生じたのです。ニコデモは、神様を知っていますし、信仰に生きてきたと自負してきました。それでも時折、自分は死んだ後本当に神の国に行いけるだろうか、という不安がよぎることはありました。本当に自分のやり方でよかったのか、という迷いが日に日に強くなっていきます。イエス様に直接お会いして話をしてみる以外、自分の迷いを振り払う方法はない、そう思ったニコデモは夜の闇に紛れてこっそりイエス様を訪ねる決心をしたのでした。


 しかしイエス様のお答えは謎めいており、彼はすっかり戸惑ってしまいました。するとイエス様は「あなたはイスラエルの教師なのにこんなことがわからないのか」と厳しいお言葉をかけます。これはニコデモに神様の愛を気づかせようとなさったからです。言葉だけでは伝わりきれない神様の愛を、ご自分が十字架にかかって晒し者になることで伝えよう、という決心を既になさっていたのです。


 イエス様の評判は日増しに高まっていましたが、それは一部の人々に過ぎず、ユダヤ教の掟に縛られている人々にとって、イエス様の言動は神を冒涜するものと感じられました。当時の権力者たちもまた、自分の保身のためにイエス様を危険人物として捉え、死刑にしようと計画していました。そしてイエス様はそこからあえて逃げようとはなさいませんでした。とうとう十字架に掛かるまでに、ユダヤの掟のみならず、ローマの法においても、人々に見捨てられた者として十字架に掛かったのです。


 これこそが、イエス様が生涯をかけて全ての人に神様の愛が注がれていることを示すための出来事でした。この時人々はイエス様が神様から完全に見捨てられたと考えたでしょう。イエス様を尊敬し、慕っていればいただけ、あれほど神様に忠実な方はおられなかったのに、と神様への不信感が頭をよぎったかも知れません。


 イエス様ご自身も肉体を持っておられたからおそ「我が神我が神、われを見捨てたもうたか」と苦痛の叫び声を上げられました。しかし叫びながらも、イエス様は神様が、復活する命をお与えになることを少しも疑われなかったのです。


 イエス様を信じる信仰が与えられた者は、どんな不条理な生涯を終えたとしても天国で復活し、命を与えられることは約束されています。しかし問題なのは、この出来事を頭では理解し、知識もあるにもかかわらず、自分の功績や、自分の努力によって、天国に行けるものだという考えから離れられない第2第3のニコデモとも言うべき人々が、いつの時代にもいるということです。


 それはイエス様の存在やなさったことを受け入れないということです。ニコデモ自身は神様への信仰を取り戻す事ができましたが、日本のクリスチャンは努力や功績を重視し、真面目な人が多い分、理解が難しいようです。大切なのは、このように信仰を持って集まる一人一人は、神様の愛の対象の中にあり、はっきりと神様の愛を理解するために集められていることなのです。

 共にイエス様を主と仰ぐことで、仮に絶望の中にあっても、希望をもって愛を持って生きることができる。これこそがイエス様の愛を通して神様から与えられたプレゼントなのです。 

「神の御心 主の十字架」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・四旬節第三主日礼拝(2024年3月3日)(紫)

創世記 17章1-7節(21) 

ローマの信徒への手紙 4章13-25節(278)

マルコによる福音書 8章31-38節(77)


 本日の福音書でイエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言っておられます。だからこそキリスト者であれば、アクセサリーとは言え、十字架を身につけるのに覚悟がいることもわかってきます。薄っぺらな思いではなく、覚悟を決めてキリスト者であることを表明するために感謝を込めて十字架を身につける時、イエス様の生涯も、イエス様の十字架も、イエス様の復活も全て私の為であったとしみじみわかってくるのです。


 改めて福音書を見ますと、イエス様は何度もご自分の死と復活について弟子たちにお話ししておられます。本日の箇所もその一つです。しかし何度それを聞かされても、弟子たちはお話の意味を理解せず、一番弟子のペトロなどは「ご自分が殺されるなんて言ってはいけません」とイエス様を諌め、逆に叱られています。


 しかしイエス様は弟子たちが初めのうち非常に鈍感で、イエス様の真意を汲み取る力がなく、イエス様を悲しませることが多かったにもかかわらず、彼らを決して見放すことはありませんでした。イエス様は、そして神様は、彼らが信仰に生き、この世の苦しみから解放される為に、ありったけの愛を注いでくださいました。


 イエス様は弟子たちに予告された通り、十字架にかかり、復活されます。そのことを知った時、弟子たちはようやくイエス様のお言葉を理解し、心から神様を信じるものとして、キリスト者としての信仰のスタートラインに立ったのです。


 弟子たちはそれからもいつも完璧というわけではなく、何度も信仰から脱落しそうになりました。それでもイエス様を信じるものとして、歩み続け、その時に感じる苦しみも恥ずかしさも全て神様の導きだと信じて歩んでいきました。そのような姿を聖書から伝えられているからこそ、わたしたちもまた、完璧でない自分を受け入れられますし、心には平安があるのです。


 とはいえ、キリスト教の信仰理解は、難しいものです。「信じた者が幸せになるのですか?」と言う質問に対して、聖書ははっきりとは答えていません。「イエス様を信じるものは救われる」は確かな真実ですが、この世で報われるかどうかは別の次元です。ただ、この世で辛い終わり方をしたとしても、変わらず天国に招かれていることを信じられることが恵みなのです。


 日本において、キリスト教は迫害の歴史を繰り返してきましたが、今もまた、とても生きにくい時代と言えるでしょう。24時間、薄っぺらで表面的な幸せがテレビコマーシャルやインターネットで垂れ流され、お金がなければ生きていけないと思い込まされている世界です。人生の勝ち組にならなければ、世の中で成功しなければ、生きている意味がない、そんな暗示にかかってしまいそうです。成功や健康で長生きするための情報が溢れ、いつも何か追い立てられるような気がします。


 私たちは、本来、この世界をイエス様の望まれる神の国に近づけていくという大きな使命があるのに、この世の価値観に時間を吸い取られ、志を奪われ、神の御心を聞いていく聖書の学びや祈りの時間が後回しにされ、あっという間に一日が過ぎてしまいます。そして、そんな毎日に悲しみさえ覚えなくなっていくのです。


 だからこそイエス様のご受難を覚えるこの季節に、もう一度立ち止まって思いを新たにするよう、読むべき聖書箇所が備えられています。繰り返しになりますが、私たちは、イエス様の十字架を深く理解しましょう。


 私たちがキリスト者として誠実に歩もうとする時、社会の無理解に晒されます。誤解されたり、身勝手な、いちゃもんつけられたり、嘲笑されたり、宗教に振り回されて大丈夫なの?」と変な心配をされたり、ああやりにくいなあ、生きにくいなあ、と思うことは山ほどあります。


 しかし、そこにも神様のご計画があります。イエス様があの日、あの時、あの場所で、十字架に掛かられたのは、一見、掟や社会制度が社会が整ったユダヤの社会にあって、その支配者自らが自分勝手にその掟を歪め、なし崩しにしてしまう傾向にあったのです。


 それは非常に醜い社会でしたが、神様の目からご覧になれば、非常に哀れな社会でした。そこに住む人々に神ご自身が憐れみをかけられ、悔い改める機会を与えられたのです。


 だからと言って、そのようなずるい人達を見本とはせずに、イエス様に従い、自分の十字架を背負いなさいというイエス様の招きを受け入れることが一人一人の救いに繋がり、さらにはあなたと関わる社会さえも具体的に救っていく働きへと変化していくのです。その有様を見ていくことのできる人は、神の道を知るものであり、永遠の命を知るものであり、幸せなものなのです。


 人間は、その一生の終わりが見えた時、自分の人生とは一体何だったろうかと思うこともある生き物です。たいしたことも成し遂げたわけでもなく、沢山の友人、知人に愛され、慕われたところで、何年か経てば忘れられていきます。

 信仰のつながりのある教会の中でさえ、どれほど奉仕しようと、どれほど献金しようと、次第に忘れられていくものです。けれども、人は忘れても神様はお忘れになりません。生きても死んでも、神様と繋がり続け神様が実現したい神の国を私が担っていることが、私たちの本当の喜びなのです。

 この社会が知らなくても、神様はご存じであること。主イエスを信じていこうと洗礼の時、心に誓ったあの日のこと。その幸いに生きるために、私の十字架があるように、主イエスの十字架があるのです。