2024年3月28日木曜日

「わが救い主の十字架」(日曜日のお話の要約)

主の受難礼拝(2024年3月24日)(紫)

イザヤ 50章4-9a節(1145) 

フィリピの信徒への手紙 2章5-11節(363)

マルコによる福音書 15章21-39節(95)


 本日の礼拝は、「わが主、イエス・キリストの受難」を覚えての礼拝です。「キリスト」という名称は「油注がれた者」という意味のある、誇り高き名称、「称号」です。イスラエルにおいては、古くは王様のことを指し、この世を救う救済者という意味でも使われます。言うなれば、血統や先祖に寄らず、その時代が創りだしたヒーローのことを、救済者と呼びました。その救済者の徴として、その人物のこうべに油が注がれる儀式があったことが起源となっています。


 例えばサムエル記上16章にはダビデ王が油注がれて将来王様となることが約束されるシーンがあります。このように旧約聖書には油を注がれて「救い主」と認められた人物が何人か登場します。しかし新約聖書の時代になり、神様はイエス様こそ「唯一のキリスト」として私たちのもとに遣わしてくださいました。私たちはその「イエス・キリスト」を信じる者の集まりなのです。


 ところで、キリスト教会というと、一般的には宗教施設の名称に使われますし、一般の人たちからは「信者じゃないと入れなところなんでしょう?」と尋ねられたりもします。しかしこれはもちろん間違いです。「教会」はもともとはギリシャ語で「エクレシア」と呼ばれていました。これは「集められた者」という意味です。すなわち、神様が集めて下さった人々が集まっているのが教会で、洗礼を受けている、受けていないは二の次なのです。


 洗礼というのは、「私は神に清めていただかなければ、欲深く、邪心に溢れた存在だ」ということを認め、清めて頂くことが大切だという教えを信じた方が受けるものであり、洗礼を受けないと教会に入れないとか、洗礼を受ければ突然救いが分かるとか信仰が急成長する、というものではありません。


 ただ、重要なのは神様が私をここに呼んでくださり、他の人々と共に集めてくださったという感謝の思いです。その結果として洗礼を受けるならば、その謙虚さが、教会にはいつも充満しているわけで、この思いが社会に浸透していけば、きっと社会はよくなると信じて、教会は運営され続けました。


 しかし教会が社会に影響を与えるようになると、それを利用しようとする権力者も集まってきます。歴史の中で教会と権力が結びついて大きな過ちを犯したこともありました。2000年前、イエス様の弟子たちによって教会が形になり始めた頃に記されている使徒行伝やパウロの記した手紙には、すでにその兆候が記されていて、こちらを信じる、いやあちらを信じる、とイエス様そっちのけで派閥争いをしていた様子がわかります。


 現代においても、キリスト教を国の宗教の中心においている大国どうしが戦争を起こすことも私たちは目撃します。キリスト者と名乗っていても、謙虚さを忘れ、悔い改めを忘れ、キリストの名を利用することしか考えない人々に成り下がっているのです。


 本日読みました福音書には「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて」と書かれています。これは「今、兵士たちによってイエス様は十字架につけられる」と訳すのが正確なのだそうです。教会では、会堂の正面に十字架を掲げていますが、これは単なる飾りではありません。「今、まさにイエスが十字架につけられる」ということをしっかりイメージするために、ここにあるのです。


 イエス様が十字架につけられたとき、イエス様が極悪人で、社会のゴミのような存在であれば、この死刑は喜ばれ、歓迎されたことでしょう。しかし民衆の多くはそうでないことを知っていましたし、全員とは言いませんが、イエス様によって救われた人々もそこにいたのです。また、そもそも死刑判決を下したローマ総督のピラトはイエス様に死刑に値する罪がないことも知っていました。


 しかし十字架につけろ、というヒステリックな声がその場を支配していて、彼らを身動きできなくしてしまったのです。そして、それこそがそれが神様のご計画だったのです。


 イエス様ご自身も何度も何度もご自分が十字架にかけられることを予告し、その上で蘇ると宣言されてきました。「蘇る」前には絶望的なほどの苦しみが待っているけれど、ご自分は神様のお力によって必ず勝利する、そしてあなたにも同じことが起こる、そう伝え続けられたのです。これがイエス様が私たちにお伝えになった大切なメッセージであり、イエス様が身をもって教えられたことなのです。


 私たち一人ひとりの身に起こるあらゆる不条理も神様のご計画だと信じられるのは、先頭に立ってお手本となってくださったイエス様がおられるからであり、だからこそ私たちはイエス様を私たちは救い主とするのです。


 私たちはキリスト者として、誰にも理解されず、追い詰められた状況に生きることもあります。しかし、苦しみの中でイエス・キリストが体験されたのと同じように神様のご計画を見出し、十字架の意味を再認識することができるなら、世界は違った景色に見えるでしょうし、新たな歩みがそこから始まるのです。


 ここまで生き方を極めれば、どんな生き方になろうとも生きていくことはできます。どんなに小さな信仰でも、最後はイエス様が贖ってくださる、救ってくださることを知っている限り、動じることはないのです。それが自分の生き方であり、神様に与えられた生き方だと信じることができるのです。


 わが救い主イエス・キリストの十字架は、今、私のためにある、と信じられる時、救いがあることを見出すことができるのです。

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