2018年12月7日金曜日

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第6章24節~34節)


     2018121(土)母家族葬葬儀告別式説教 於:ルーテル松山教会

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第624節~34節)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

母が一番、心から敬服した主イエスのみ言葉は、「明日のことを思い煩うな」でありました。私が、高校一年か、二年頃のことではなかったかと思います。当時、宇和島の書店に、講談社から、「亀井勝一郎全集」というのが出ており、どういう経過であったか、その第7巻に、親鸞聖人の伝記のようなもの等東洋の知恵の部分と、それに加えて、西洋の知恵の中に、耶蘇の言葉として、「明日のことを思い煩うな」というみ言葉があって、まだ洗礼を受けていない母親と私とが、このみ言葉に初めて触れたのであります。

 このみ言葉のある個所について、今日は皆さまとご一緒に考えてみたいと思います。それは、先ほどお読みしましたマタイによる福音書第624節から34節であります。

 まず、人は、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を余計に愛し、他方を、当然より少なく愛するということになり、一方に愛着し、他方をより軽視することになるからだというのです。私たちが、尊敬する先輩の先生を自分の先生として二人を敬う場合でも、どちらかを重んじ、それに対して、もう一人の先生はより少なく愛することになりがちであります。

 そして、主イエスは、人は、神と富、お金、財産、マモンと言いますが、それに兼ね仕えることはできないと言われるのであります。

 そして、それ故に、あなた方に言っておくと、この部分の説教を続けて言われるのであります。それゆえ、あなた方は、何を食べ、何を飲もうかと思い悩むな、命は食物に勝り、体は着る物にまさると言われます。

 そして、空の鳥を見よ、彼らは、蒔かず、刈り入れもせず、倉に集めることもしない、しかし、天の父は、それでも彼らを養っておられるというのであります。そして、あなた方は、鳥よりもはるかに価値のある者ではないかと言われます。

 そして又、これを語られたガリラヤ湖の近くで、美しい自然を見ながら語られたことでしょう、あなた方は、野の花を観察しなさい、彼らは、働きもせず、紡ぎもしないが、育ってゆく。あのソロモンの栄華と言われるソロモン王を取り上げて、そのすべての栄光におけるソロモン王も、これらの花一つほどにも着飾ってはいなかったと言うのであります。
 ソロモンは、ダビデ王の子で、ちょうどお主イエスの生まれるよりも1000年ほど前の、イスラエルの歴史では、この二人の王の時代のみ栄えた時代であったのであります。
 その花、野の百合というのは、アネモネの花などを指すのであります。荒れ野の岩陰の間からも、うっすらとピンクや紫の、日本でいえば、レンゲ草のような野の花であります。
  そして、あなた方は何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思い煩ってはならないと繰り返されるのであります。

 亀井勝一郎氏は、耶蘇について、どうしてあのような繊細な心の持ち主が生まれたのだろうかと賛嘆していますが、山上の説教の一部である今日のペリコペー、小聖書のみ言葉はそれでありましょう。

 さらに、主イエスは言われます。今日生えていて、明日は炉の中へ投げ入れられる野の草をもそのように育てておられるあなた方の天の父は、それにも増して、あなた方に良くしてくれないことがあろうか、信仰の薄い者たちよ、と語りかけられる。これは、弟子たちに向けて、信仰のほとんどないあなたたちよと申されるのであります。空の鳥を養い、野の花、野の草を見事に飾られる、あなた方の天の父は、あなた方をもっとよく良いものでよそおわれるに違いないではないかと弟子たちに諭されるのであります。

 私たちを、自分の像に似せて造られた神は、その他の全被造物よりも、もっとよくしてくださらないことがあろうかと言われます。
そして、あなた方は、まず、神の国と神の義とを追い求めよ、そうすれば、あなた方の必要なものは、すべて添えて与えられると約束しておられます。

 何を食べ、何を飲み、何を着ようかと異邦人たちは追い求めているが、それらが人間には必要であることは、あなた方の天の父は、すべてご存じであると
言われます。

 そして、最後に、あなた方は、それゆえ、明日へと思い煩うな、かの明日は、明日自らが思い煩うであろう、十分なのは、その日毎の悪、災いで十分であると言われるのです。昔の訳では、一日の労苦は、一日にて足れりとありました。

母親は、思い煩いがちでありましたけれど、「明日のことを思い煩うな」という主イエスのみ言葉を忘れずに歩んだ、それからの一生ではなかったかと思います。自分が思い煩う者であることを、よく知っていたと思います。人は皆草のようで、今日のみ言葉にありますように、今日は生えていても、明日は炉の中へ投ぜられるはかない存在であります。

 しかし、主が語ったみ言葉は確かであります。明日のことについて、                     思い煩い続けるのではなく、あなた方の天の父のご配慮、摂理を信じて、すべての思い煩いを主イエスに、そして、天の父にゆだねて、新しく生きることができるのであります。

 そのためには、この私どもを今も変わらず、とこしえに守り導いておられる神に全身全霊で仕え、弟子として忠実に従ってゆく。ひとりの唯一の主につき従い、身をゆだねてゆく道を歩まなければなりません。
  神の国と神の義とをまず第一に求めてゆく。それは、私たちの自分の力によるのではなく、賜物として与えられているみ国を、ただただその恵みを受けてゆくことが必要であります。

 母は、晩年は認知症なども進み、思い通りにはならない自己と戦ったと思います。夜、お盆などで帰省しましたとき、夜目覚めて、「キリスト様、お釈迦様、ソクラテスさま」などと独り言のように言い、また、自分の子供や                                                                                孫たちの名を忘れまいと、一人一人名前を言って呟いていたりしました。

 また、デイ・サービスにも、週に三回、四回と熱心に通い、妹たちや兄にも応援されて、無精気味なところがあったのに、喜んで人々のところに足を向け、デイ・サービスのビハーラさんのところでは、五木弘の歌を好んで歌ったりしていた様子でした。私が牧師となったのを心から喜んで、元気なときにも、私の説教テープを喜んで聴いてくれた母でした。「明日のことを思い煩うな」、この主イエスの言葉を、私も忘れないで歩む者とされたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

2018年11月26日月曜日

説教「昼、太陽はあなたを撃つことがなく・・・」(詩編121編1~8節)


20181123日、甲信地区一日神学校閉会礼拝・説教

20181123日、甲信地区一日神学校閉会礼拝・説教


説教「昼、太陽はあなたを撃つことがなく・・・」(詩編12118節)

 この記事がどういう状況で書かれたのかは定かではありません。だれが、だれに対して、歌っているのか。エルサレムに巡礼に出る若者が、見送る人たち、たとえば、父親に向かって言っているのか、あるいは神殿のようなところで、祭司と、巡礼に来た平信徒の会衆とで歌っているものなのか、よく分かりません。
 たとえば、送り出す父親と若者とが交わした言葉なのか、詩人一人が自分の心の中で独白している歌なのか、いろいろと解釈されているところであります。
 けれども、この歌が、イスラエルを守る方、私たちが出て行くにも、入って来るにも、見守り、目覚めていて見張られ、気を付けてくれる主なる神の守りを確信し、今から、とこしえまで、わたしたちの全生涯の危機を共にいて、乗り越えさせてくださる神を告白していることは確かであります。
 
「私は目を見上げて山々を見る」と始まります。それは、どこの山々でしょうか。シオンの山々に住まう主なる神とも言えます。それとも、危険の待ち受ける山々のことだったのでしょうか。詩人は、「私の助けは、主から来る」と断言します。そして、そこから、あなたは、常にまどろむことなく、眠ることもなく見張り、私どもを気遣い、共に同行してくれる神への信頼、約束の言葉が続きます。

 主なる神とあなたとの間が繰り返されます。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜も月があなたを撃つこともない。天地の造り主なる神が、まどろむことなく、あなたが、その足がよろめくこともないようにされるから、というのです。
 太陽も月も動かされている、創造されて、今も守っておられるのは、主だからです。そして、このお方は、当時の中東やエジプトの神々のように、疲れたり、地上の人間どもの喧騒から離れて、眠ったりする必要はないお方です。

 そして、終わりに言います。この見守る方は、あなたが出て行くのも、入って来るのも見守られ、毎日の私どもの居住する中においても、見張られている方であり、私どもの今から、とこしえまで永遠に、同じ旅路を共に歩んでくださる方であります。

 そして、私どもを、あらゆる災い、悪から遠ざけて下さる方、私たちの魂、喉の渇き、体も心も、私たち自身や願いをも見守ってくださる方であります。

 私どもは、今日、命の看取りや介護の問題を、日本に生きるキリスト者として、共々に学び、考える機会を与えられましたが、自分にも必ず来る、そして、私どもの親しい人たちにも必ず来る終わりの時を思い、覚えながら、しかし、死の陰を渡っていくときにも、主が導いてくださることを信じ、また、私どもが歩むとき、私どもの右手に、翼の陰を広げて、共に担い、助けてくださる神を、そして、主イエス・キリストをあおぎ見ながら、残された生涯の旅路を雄々しく歩んでいきたい。

 主があなたを祝福し、あなたを守られます。
 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安をたまわります。

  父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
 

 この記事がどういう状況で書かれたのかは定かではありません。だれが、だれに対して、歌っているのか。エルサレムに巡礼に出る若者が、見送る人たち、たとえば、父親に向かって言っているのか、あるいは神殿のようなところで、祭司と、巡礼に来た平信徒の会衆とで歌っているものなのか、よく分かりません。
 たとえば、送り出す父親と若者とが交わした言葉なのか、詩人一人が自分の心の中で独白している歌なのか、いろいろと解釈されているところであります。
 けれども、この歌が、イスラエルを守る方、私たちが出て行くにも、入って来るにも、見守り、目覚めていて見張られ、気を付けてくれる主なる神の守りを確信し、今から、とこしえまで、わたしたちの全生涯の危機を共にいて、乗り越えさせてくださる神を告白していることは確かであります。
 
「私は目を見上げて山々を見る」と始まります。それは、どこの山々でしょうか。シオンの山々に住まう主なる神とも言えます。それとも、危険の待ち受ける山々のことだったのでしょうか。詩人は、「私の助けは、主から来る」と断言します。そして、そこから、あなたは、常にまどろむことなく、眠ることもなく見張り、私どもを気遣い、共に同行してくれる神への信頼、約束の言葉が続きます。

 主なる神とあなたとの間が繰り返されます。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜も月があなたを撃つこともない。天地の造り主なる神が、まどろむことなく、あなたが、その足がよろめくこともないようにされるから、というのです。
 太陽も月も動かされている、創造されて、今も守っておられるのは、主だからです。そして、このお方は、当時の中東やエジプトの神々のように、疲れたり、地上の人間どもの喧騒から離れて、眠ったりする必要はないお方です。

 そして、終わりに言います。この見守る方は、あなたが出て行くのも、入って来るのも見守られ、毎日の私どもの居住する中においても、見張られている方であり、私どもの今から、とこしえまで永遠に、同じ旅路を共に歩んでくださる方であります。

 そして、私どもを、あらゆる災い、悪から遠ざけて下さる方、私たちの魂、喉の渇き、体も心も、私たち自身や願いをも見守ってくださる方であります。

 私どもは、今日、命の看取りや介護の問題を、日本に生きるキリスト者として、共々に学び、考える機会を与えられましたが、自分にも必ず来る、そして、私どもの親しい人たちにも必ず来る終わりの時を思い、覚えながら、しかし、死の陰を渡っていくときにも、主が導いてくださることを信じ、また、私どもが歩むとき、私どもの右手に、翼の陰を広げて、共に担い、助けてくださる神を、そして、主イエス・キリストをあおぎ見ながら、残された生涯の旅路を雄々しく歩んでいきたい。

 主があなたを祝福し、あなたを守られます。
 主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
 主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安をたまわります。

  父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
 

2018年11月16日金曜日

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第12章28節~34節)


20181111日、聖霊降臨後第25主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第61-9節、ヘブライ人への手紙第724-28節、マルコによる福音書第1228-34節、讃美唱119/9(詩編第11973-80節)

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第1228節~34節)

 聖霊降臨後第25主日を迎えました。来週の主の日には、乳幼児・児童祝福
式という特別な礼拝をし、122日からは、教会暦での新しい年、アドベン ト、すなわち、待降節が始まります。
 昨年のアドベント以来、主たる福音書としては、マルコによる福音書と共に歩んできた礼拝も、今日を含めても、あと3回しかないところまで、私どもは歩んできました。そして、12月からは、三年サイクルの教会暦のC年として、ルカによる福音書を、主たる福音書として歩む一年が待っています。
 この大詰めのところで、今日与えられています福音書は、マルコによる福音書第1228節から34節までであります。この短い聖書、ペリコペーと言いますが、この個所を中心として、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の福音書の個所の設定では、主イエスは既に、エルサレムに入城しており、エルサレムでの宗教的指導者たち、宗教的敵対者たちとの論争の中に入れられているものであります。
 主イエスも皇帝に税を納めるべきか、そして、今日のすぐ前の個所は、サドカイ派との復活はあるのかないのかの論争、そして、今日の出来事の後には、主御自身が出された質問で、主イエスはダビデの子なのかどうかという議論だ出て来るのであります。
 さて、今日の始めの文章は、ある一人の律法学者が近寄ってきて、主イエスと彼ら、すなわち、サドカイ派どもが議論し合っているのを聞き、主が見事に、文字通りの意味に訳すと、美しく、答えられたのを見て、主イエスに質問したというふうに、始まっています。
 「どのようなものが、すべてのうちで一番の命令でしょうか」と。掟、戒めとも訳されていますけれども、それは、その当時、600以上もあったという律法の掟のうち、どれが第一の命令なのかというもっともな問いかけなのであります。
 何を最たる命令として守っていけばいいのか、この律法学者は、真面目な者として、通常他の個所では、主イエスを試みる者、敵対するグループとして出て来るのですが、ここでは、主イエスが見事にお答えになっているのに感心して、平伏して近づいて来て、教えを乞うているのであります。
 主は、彼に対してこう答えられます。「第一の戒めはこうである。聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は、一なる主である。」そして、文字通りに訳してみますとこうなります。「あなたは、あなたの心の全体から、あなたの生命の全体から、あなたの理解力あるいは理性の全体から、そして、あなたの力の全体から、あなたの主なる神を愛さねばならない。」
 ところが、主イエスは、さらに続けて言われるのであります。「第二は、これである。『あなたは、自分の隣人を自分自身のように、あるいは、自分自身として愛さねばならない、愛するであろう』」と。そして、「これらよりももっと大きな命令は、他にはない」と。
 これらは、今日、第一の朗読で読まれた申命記第64節~5節とレビ記第1918節の言葉から来ているのであります。
 そして、それに対して、この律法学者は言います。もとの文に従って、文字通りに訳しますと、「先生、あなたは見事に、真実に向かって言われました。彼は一である、彼のほかにはない。そして、『あなたは、心の全体から、賢さ、すなわち知性の全体から、そして、力の全体から、彼を愛すること、そして、隣人を自分自身として愛することは、すべての焼き尽くす献げものどもや、その他のいけにえどもよりもはるかに勝っています」と。
 ここで、この律法学者は、主イエスの答えに対してほぼ全面的に賛意を表わしています。
「あなたは、美しく、真実に向かって、言われました。彼は一であり、彼のほかにはいない、うんぬん」と。
 彼は、当時の犠牲制度のすべてを批判しているわけではありませんが、主イエスの言われた二つの命令が、すべての他の命令をはるかにしのいでいる、中核であると、主イエスのお答えにほとんど全面的に、賛成しているのであります。
 そして、主は、彼が賢く、思慮深く答えたのに対して、「あなたは、神の国から遠くない」とこの人を、主イエスがまもなくおつきになる十字架で示される神の愛へと招いておられるのであります。
 「聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は一つである、彼のほかには主はいない。」そして、その神を、私どもの心の全体で、精神・命の全体で、理解力の全体で、力の全体で愛することと、私どもの隣人を、むしろ自分自身として愛することとが、神の命令の第一であり、第二の命令であります。
 神がまず、私たちを愛してくださった。そこから、私どもも自分の隣人を、自分自身のように、むしろ自分として愛することが、出て来るのであります。
 自分を心から愛することは、なかなかできないものであります。しかしながら、そのような私どものありのままの姿を、神は愛して下さっている。
 これに賛意を表した律法学者に、「あなたは、神の国から遠くない」と言われる。
 このあと、まもなく、十字架について死なれる主イエスが、御自分の死と現在のお言葉において、「神の国の入り口にあなたは既に立っている」と招かれるのであります。
 そして、私どもも、いや、私どもは彼以上に、神の国に近くあるのであります。この二つの戒めを通して、神を愛し、人を愛する生きかたへとすべての人は、神の国へと、又平和へと平安へと、遠くにいる人も、近くにいる人も、主イエスの流される血によって招かれているのであります。
 この律法学者が、今一歩なのは、今日のこの二つの命令に従って、悔い改めて、応答していく、従って生きていくことができていないことであります。
 彼は律法学者であり、彼らにとっての聖書、すなわち、旧約聖書について隈なく学び、心得ていたことでありましょう。
 彼らは、厳格な律法の命令を遵守しようと命がけでありました。しかし、主イエスの、それについてのお答えに、この律法学者は感心し、主イエスの言われていることが正しいと直感的に理解したのであります。
 しかし、当時の大多数のエルサレムの宗教的指導者たちは、主イエスを、律法を破る者として裁き、このあと、十字架につけるのであります。
 聖書は、このあと、この律法学者が悔い改めて、主イエスを信じる者となったのかどうか、先に、永遠の命を求めてやってきて、主イエスに質問した金持ちの議員についての物語と同様、何も記していません。
 それは、この物語を聞く私どもが、悔い改め、主イエスを信じて、神の国に入るように、自分の目で命の道を見出し、主イエスに従って歩むように、熟考して決断することを促しているのではないでしょうか。
 ところで、旧約聖書と新約聖書とは、違った教えなのでしょうか。旧約聖書の神は裁く神で、新約聖書の神は、愛の神なのでしょうか。
 律法学者たちが考えていた神と、主イエスが説いた神とは違った別の神なのでしょうか。確かに、当時の律法学者たちは、律法の無数に広がった命令を一つ一つ守らなければ、救われないとして、それを破るように思われた主イエスを裁き、十字架につけるに至ったのでしょう。
 しかし、主イエスの説いた神の国へと入るためには、すべての人が悔い改め、幼子のようにならなければ入ることはできないのであります。
 自分を低くして、子どものように、贈り物として、神の国を受け取る者に変えられなければ、決してそこに入ることはできないのであります。そこが、当時のエルサレムの宗教的指導者たち、サドカイ派も、ヘロデ派も、祭司長たちも、律法学者たちも、分からなかったのであります。そして、彼らが厳格に守っていた律法を打ち破る者として、主イエスを弾劾し、十字架の死を、一致して決議し、ポンティオ・ピラトの下で死刑に処したのであります。
 しかし、主イエスは、もちろん、旧約聖書、すなわち彼らにとっての聖書に反するお方としてお出でになられたわけではありません。かえって、それを成就するお方としておいでになられたのであります。
 今日の第一朗読で読まれました申命記第61節から、9節にありますように、イスラエルの者たちは、出エジプトを通して、十戒が与えられ、聞け、シェマー、イスラエルよ、私たちの主なる神は唯一の主であると、神は言われ、、自分たちの与えられている賜物のすべてを尽くして、この神を愛することを、子孫代々忘れまいとしました。そして、十戒も出エジプトの途上のシナイ山でモーセを通して、与えられました。
 さらに、レビ記題1918節にあるように、「あなたは、隣人を自分自身のように愛しなさい、私は主である」との神よりの命令を受けたのであります。
 そして、十戒の命令は、ルターの大教理問答書にありますように、最初の3つの命令は、神と人との関係を命じたものであり、残りの7つは、人と人との関係を命じたものであります。
 この十戒を要約したものが、今日の主イエスの言われた第一の掟と第二の掟であります。ルターの大教理問答書、そして、小教理問答書は、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼と聖晩餐の二つの聖礼典という構成になっています。
 最初に、今日の主イエスのお言葉に関わります十戒が来るのであります。そして、ルターは、十戒が守れるならば、後は何もいらないのだが、私たちは誰もそれが神の命じられる通りには、守ることができない。それで、自分に絶望して、主イエスへの信仰にやって来ざるを得ない。それが、使徒信条であり、それは、第一条が創造について、第二条が罪の赦しについて、第三条がきよめについてであると言っています。そして次に、救われた私どもは、しかし、生涯、義人にして同時に罪人でありますからそれが十分に果たされるように、地上にあってどのように祈ればよいのかが、主の祈りによって示されます。
 そして、その救いにあずかる目に見える恵みの手段として、聖礼典すなわち、洗礼と聖晩餐すなわち聖餐のふたつが与えられているわけであります。
 今日登場してきた主イエスを心から支持した、熱心な一人の律法学者は、この後どうなったか分かりませんが、この物語を通して、私たちが、これを見て、悔い改め、神と人とを心から愛し、主に従い、隣人に仕えてゆく歩みへの反面教師として、悔い改めへと今一歩を踏み出してゆくように、主イエスの招きに応答してゆくようにと私どもに教えているのであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年11月14日水曜日

―最近読んだ本からー「聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」


―最近読んだ本からー聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」
         発行所 教文館
著者 加藤常昭、井ノ川勝、平野克己、朝岡勝、森島豊
編者 平野克己
発行 2018730日 
        (定価):3000+税)
 かつて、私事ながら、岳父西恵三は、毎週の説教を立派にやりこなすことは、至難の業であると、私に語ったことがある。その西の父は、北陸で日本基督教団の牧師であったが、説教が下手なので、中途で、学校の教師になったと、いつであったか、軽妙な語り方で話してくれたことがある。
 さて、加藤常昭先生は、類まれな才能に恵まれ、ひとえに牧師の道を歩まれた方であり、現在89歳で、今なお、後進の特に説教の改善、進化のために説教塾の主宰をなさりながら、ご活躍の先生であり、その著書や訳書は甚だしく多い。ちなみに、私の母は現在、88歳の米寿をこの秋に迎え、今は介護型の老人ホームに移っているが、加藤先生とほぼ同時代を生きてきたことになる。今はベッドの上で認知症になっていて、食事を除いてほとんど動けなくなっているが、この夏にほそぼそと会話して、口をついて出て来ることは、太平洋戦争で米軍の空襲で恐ろしかった体験であった。加藤先生もそのような厳しい戦中・戦後を歩まれた点は共通している。この本はそのような先生のキリスト教との出会い、そして真摯に牧師としての道を歩まれた軌跡を、後進の牧師たちが「聞き書き」し、対話した内容となっている。
 幼いときから、日曜学校、教会学校に通い、また、良き説教者たちと出会って、説教を中心に、いつしか牧師を目指され、当時はまだほとんどなかったと言ってもいい時代に説教学を日本に打ち立てて行かれたのである。私が改めて感心させられるのは、福音書のすべてについて、先生は説教集を刊行されていることである。もちろん、他の部分でもたくさんの説教集を出されているが、福音書の全体を説教集として出されている例は、日本ではほかには存在しないのではないか。
 さて、「聞き書き」して出されたこの本は、加藤先生を知るうえで、貴重な資料となるであろう。先生の息遣いや、人柄がにじみでているし、先生の伝道の生涯の中で、どんな恵みの多い出会いがあったか、それが先生の説教を生み出し、そのほかの著述や先生の神学を形作っていったかを知ることが出来よう。
 説教塾での先生の指導は、厳しいものである。うちのめされそうになった体験をした牧師たちも多いのではないか。しかし、先生の願いは少しでも牧師たちの説教が改善できることであり、日本の伝道が少しでも進展することなのだ。

2018年11月8日木曜日

―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」        


―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」
         発行所 日本キリスト教団出版局
著者 K・バルト、E・トゥルナイゼン
訳者 加藤常昭
発行 2006210日 
        (定価):(オンデマンド版)(3100+税)
 前半は、カール・バルトの説教論、それを補うように後半は、エドアルト・トゥルンアイゼンの説教論となっている。二人は、「神の言葉の神学」といわれる立場の同志であり、改革派ではあるが、宗教改革の神学に立つということができよう。
 説教とは何なのか、説教はいかにあるべきか、そして、実際にどのように説教すべきかが示されている。加藤常昭先生の訳であり、加藤先生の訳者あとがきから読むのが分かりやすいのではないか。私は、そのあとトゥルナイゼンの「説教の始め方、進め方、終わり方について」という終わり近い所から読み進めたが、偶然にもそれで分かりやすく読めたのではないかと思う。
 そこでは、奇をてらった技巧を弄するのではなく、淡々と聖書講解に徹して説いてゆくのがよいとあり、なるほどと頷かされたものである。派手な説教をする必要はないのである。十分に調べた釈義に基づいて、黙想から得られたみ言葉の精髄を語って言えばよいのである。
 それから、最初のページに戻って、バルトの説教論を読み進めた。バルトは、説教はやはり、明確な文章にして臨むべきだと、終わりの方で解いている。
 メモによって、原稿は見ないで説教するということが、一般によく聞く説教の方法であるが、バルトは、きちんと原稿を書いて、説教壇に立つことを勧めている。
 説教とは何なのか、どういう風に、歴史的に考えられてきたのか。神の言葉の神学からは、「神の言葉の説教」が「神の言葉である」と言えよう。神の言葉を、説教者は語るのである。それは、不可能に近いことであるが、それを、説教者は、黙想と釈義などによりながら、週ごとにそのわざに仕えるのである。
 トォルナイゼンは、カトリックの神学と宗教改革の神学との違いを、後半の終わり近くの「説教の課題 Ⅱ」で強調している。神の形(イマゴ デイ)は、カトリック神学では、完全には失われていないと考えるのに対して、宗教改革者たちは完全に失われていると見ている。それは、カトリックとプロテスタントとの対話が進んできた現在はどうなのであろうか。信仰義認に関する共同宣言は既になされているが、微妙な違いがなお残っているということなのか。いずれにしろ、神が人間のする説教をご自分の言葉として用いて下さるのである。











 


2018年10月25日木曜日

―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」


―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」
         発行所 グロリヤ出版
著者 マルティン・ルター
訳者 岸千年
発行 19821130日 
        (定価):古本でお求めください(2000円程度)
 ヨナ書は、第2章が、宗教改革記念日の聖書日課としてあげられている。そして、マルティン・ルターが、このヨナ書講解を、著したのは1525年であり、1526年に、ラテン語とドイツ語で出版されている。
 1525年といえば、ドイツでは農民戦争のたけなわの時期に当たる。ルターがその苦悩の中で、書いた力作と言えよう。この邦訳の訳者は岸千年先生であり、その歯切れのよい訳で、ルターの息遣いが伝わって来る。ルターの時代には、現代のような正確な聖書釈義は、なかったと推測されるが、その環境の中で、大胆で洞察に富んだヨナ書の講解となっているのではないかと想像される。
 ルターは、ヨナ書の主人公、アミタイの子ヨナを、当時の名だたる預言者のひとりとして、旧約聖書の中に出て来る、現実に存在した人物として位置付けている。そして、宗教改革の時代に生きたルターは、この書をも信仰義認の立場に立って、当時のローマ教会を批判したり、農民戦争の熱狂主義に対する戦いのなかで、預言者ヨナの物語を、その時代の枠組みの中でとらえようとしている。ルターの時代の聖書解釈の手法であった比喩的解釈で、そこに出て来る大魚(クジラ)や、アッシリヤの神の都ニネベや、ルターの時代には分からなかった「とうごまの木」等々を最終章第4章の講解の終わりの部分で、展開している。
 ルターの大胆な聖書解釈が、このヨナ書講解では、一段と鮮明になっている。聖書を、そのテキストの本質に向かって、徹底的に分析して、旧約聖書、新約聖書の神髄に迫って解釈していくのである。この書の邦訳は、1982年に出されているが、その「まえがき」で、岸先生は、われわれは、ともすれば、四百年を空白にしてルターの時代を、そのまま、重ね合わせて、教会の問題を考えがちであるが、それは正当ではないと言い、この四世紀の間でも、神のことばは、生きて働き続けていたことを記憶すべきであると指摘している。 ルターのこの書を、現代の先の見えない複雑な世界で、私たちの置かれている現実の中で、そこに光を見出す道しるべとして、読み直し、捉え直すことが求められていると言えよう。本書は、わずか155ページほどの短い講解ではあるが、そして、興味深いヨナ物語の講解で、初心者向きの書物であるように思いがちであるが、何度も読み直すに値する聖書全巻の神髄に迫る名著ということができよう。


2018年10月20日土曜日

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第10章1節~16節)


20181014日、聖霊降臨後第21主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第218-24節、ヘブライ人への手紙第25-9節、マルコによる福音書第101-16節、讃美唱128(詩編第1281-8節)

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第101節~16節)

 今日もまた、聖霊降臨後第21主日の聖書個所として、旧約聖書は創世記第2章から、使徒書はヘブライ人への手紙の第2章から、さらには、讃美唱として詩編第128編があたえられ、今日の福音マルコによる福音書第101節から16節までにふさわしい聖書個所がそれぞれ選ばれています。
 創世記の個所では、人がひとりでいるのはよくないと主なる神は言われて、最後に人のあばら骨を取って、ふさわしい助け手として女をお造りになられたとの記事が与えられていますし、ヘブライ人への手紙の個所では、今でも、主イエスにすべてのものが従っているのを、われわれはまだ見ていないが、その主は、私たちの罪のために死なれ、その死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠」を授けられたのを見ていますと記されており、主イエスが、これから、エルサレムに向かっての受難への旅の途上での、今日のマルコ福音書での主の教えであることを改めて指し示しています。
 讃美唱の詩編第128編も、私たちの礼拝では、朗読はまだなされていませんけれども、主を畏れる人の幸いを語り、その人の家庭は、家の奥に伴侶、妻が母親として、ぶどうの木のように食卓につき、子どもたちがその周りをオリーブの若木のように取り囲んでいる姿のように幸せと祝福に満ちていると歌っていて、今日の主イエスの教えに従うときの幸いにふさわしい詩編が与えられていると思います。
 
 さて、今日の福音は、前段は、結婚と離婚の問題が、テーマとなっていますが、それに続けて、子どもを祝福するというエピソードをめぐってであり、次週の福音は、これに続く財産と富に関わる問題がテーマとなっていて、主イエスは、これらの日常的な問題に対して、主イエスに従う弟子たちが、そして、同じ主の弟子である私たちが、これらの生きていくうえで、関りを持たざるを得ない出来事にどのように対処すべきかを、一つ一つ、主イエスが身をもって教えてくださったみ言葉が、このマルコによる福音書第10章に記されているのであります。その福音の中身について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、主イエスは、ユダヤの地域へと、そして、ヨルダン川の向こう岸へとやって来られます。これは、不思議な言い方であります。エルサレムのありますユダヤへとやって来られ、そしてまた、ヨルダン川の向こう岸であったペレヤという地域へと逆戻りしているようにも取れるのであります。ガリラヤから、南下してエルサレムに向かう途上で、再び、ヘロデ・アンチパスの領土でもあったペレヤへと舞い戻ることもあったのでしょうか。仮にそうだとすると、ヘロデ・アンチパスの敵意の中で、洗礼者ヨハネが、ヘロデヤとの結婚を非難して首をはねられた出来事を思い起こさせられます。そのような場所で、離婚をめぐる問答がなされたということかもしれません。

 主イエスは、そのような中で、いつものように、集まって来た群衆に向かって教えておられたのであります。マルコ福音書によれば、主はもはや、病人を癒すことはなさらず、弟子たちに教えること、群衆にも教えることのみに専念されておられました。そこに、ファリサイ派どもがやって来て質問するのであります。「離縁すること、離婚することは、律法に適っているでしょうか」と。本文には、律法という言葉はないのですが、彼らは、主イエスを罠にかけるために、この質問をしたのであります。離縁することは律法に適っていないと言えば、洗礼者ヨハネと同じ運命に立たされることにもなりかねないでしょう。律法に適っていると答えれば、離婚を大目に見て、姦淫の罪をも容易に赦してしまうことになり、これも窮地に立たされることになるでしょう。ファリサイ派どもは、すでに早い時期から、ヘロデ党と結託して、主イエスの命をねらっていたのであります。

 これに対して主は、モーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆に質問を返されるのであります。彼らは、彼は、離縁状を書いて、夫が妻を出て行かせることを許しましたと答えるのであります。これは、申命記第241節以下に記されているのであります。夫が妻に恥ずべきことがあるのを見出したなら、離縁状を書いて、妻に渡し、家を出させる。出させた以上は、別の男と再婚して後に、もとの夫の下に戻ることはできないなどと書かれているのであります。

 それに対して、主イエスは、それは、あなた方の心のかたくなさ、頑固さ、冷酷さに向かって、それに対抗して、モーセはまさにその命令を書いたのだとお答えになります。あなた方男の身勝手さに反対して、そう書き、命じたに過ぎないので、離婚することが、律法に適っていることではないのだと、主イエスはおっしゃられるのであります。実際、離縁状を持たせて、家から出させるのは、妻が離婚されたことを証明するためであり、再婚することができる身であることを証明するためであって、女性を守るために、モーセはいやいや認めたに過ぎないと言われるのであります。そして、主は、結婚がどういうものであるのかを、創世記の第2章から説かれるのであります。「創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それゆえ、人は父母を後にし、妻と一体となる。それゆえ、彼らは二人ではなく一つの肉である。」従って神が合わされたものを、人は離してはならないと。結婚は、人の身勝手さによって、縁を断ち切ることはできない神の創造なさった秩序であると言われるのであります。

さて、弟子たちは、家に再び入った後、主にこの問題をさらに立ち入って質問すると、主は、結婚している夫が妻を離縁し、別の女と再婚したならば、夫は離縁した最初の妻に対して姦淫を犯すことになる。妻が夫を離縁し、再婚するならば、妻は姦淫の罪を犯すことになると言われました。これは、当時では、夫が、別の女と姦通した場合は、その女の夫に対して姦淫の責めを負うと考えられていたのに対して、主は、自分の妻に対して姦淫の罪を犯したのだとされ、夫と妻は一体であることを徹底して捉えた結婚観であると言えましょう。

私どもは、このような結婚生活を送ることが、果たして可能なのでしょうか。現実の結婚生活とは、その長い間には、何度も危機が訪れるものではないでしょうか。その中で、悔い改めと神を見上げ、共に欠けたところを補い合って、それぞれの賜物を認め合いながら、支え合っていくときに、主のみ教えは、祝福への招きとして、大きな力を与えてくれるものとなるでしょう。
さて、後段のエピソードと主の教えに移りましょう。エルサレムへの旅の途上で、主イエスの下に、前段と同じように人々が集まり、主が教えておられたときのことでしょうか、人々が、子どもたちを、主イエスの下に触れてもらおうと連れてきます。ところが、弟子たちは、彼らを叱ってやめさせようとするのであります。

弟子たちは、エルサレムへの旅の途上で、何となく緊迫感にとらわれ、主イエスの教えておられるのを妨害するもののように感じて、親たちを叱ったのでしょう。ところが、逆に主イエスはそれを見て憤られ、叱りつけられたのであります。「子どもたちが来るのをそのままにしなさい、邪魔してはならない、神の国は、このような者たちのものである」と。弟子たちは、自分たちこそ、主イエスに最も近い者であり、子どもたちや、彼らを連れて来た親たちは、周辺の者であり、このようなときに主イエスにふさわしい者ではないと思って、この挙に及んだに違いありません。ところが、彼らの思いに反して、主イエスは、弟子たちに憤慨なさったのであります。それどころか、神の国、神の支配とは、このような者たちのものであると宣言なさるのであります。
この子どもたちとは、どのような存在でありましょうか。子どもたちは、自分の力だけではとても生きていけない、助けを必要とする者であり、そして、自分に与えられるものを、贈り物として喜んで受ける存在であります。

それに対して、大人は、自分の功績を誇り、自分こそは抜け駆けの競争をしてでも、偉い存在になりたいと心の底では追及してやまないところがあるのではないでしょうか。弟子たちは、主イエスの招きに応じて、すべてを捨てて、主に従った者たちでありました。しかし、主イエスに自分たちこそ最も近い存在であると自負し、あるいはお互いに、自分こそ主の一番近くにはべりたいとの欲求は捨てきれてはいませんでした。それに対して、主イエスは、ここでも、近づくエルサレムでの死を前にして、弟子たちを真の弟子にするために自分の存在をかけて、教え続けられるのであります。

そして、よく言っておくが、子どものように、神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはないと言われました。新しく生まれ変わる、水と霊とによって、上から生まれ変わらなければ、神の支配に与ることはできないと言われるのであります。今日の出来事の後にも、弟子たちは相変わらず、栄光のときの、主の座の左右を争い、主の教えを理解することに遅い者たちであります。そしてそれは、そのまま、今の私たちの現実でもあります。12弟子たちは、主によって教えられ続け、主のご受難と復活の後に、逃げまどった挙句、再び集められ、この日の主の言葉の真意をようやく理解してゆくのであります。

主は、そのように弟子たちに語られた後、子どもたちを抱きしめながら、彼らに向かって両手を置いて祝福なさると、最後に記されています。親たちは、自分の子供を触れてもらいたくて、有名な、霊的な力もあるとのうわさのもとで主イエスのそばに連れて来たのですが、主はその願いをはるかに超えて、自分から子どもたちを抱きしめて、恐らく一人一人順番に、頭に手を置き、祝福までしてくださったのであります。主イエスの祝福の下に子どもたちだけではなく、弟子たち一人一人も招いておられるのであります。そして、私たちもまた、その祝福に招かれている。今日の詩編第128編の主を畏れる人の家庭が祝福されているように、私たちの結婚も家庭も、主イエスの祝福のもとに。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。