2020年2月17日月曜日

「腹を立てるな」という教え(日曜のお話の要約)

顕現第6主日礼拝(2020年2月16日)
申命記30:15-20    Ⅰ コリント3:1-9 マタイによる福音書5:21-26

 自分で自分の信仰的限界を決めてしまいがちな方の決まり文句に「こんな私でもイエス様は愛してくださる」という言葉があります。もちろんこれは真理ではありますが、一つ間違えれば信仰の乱用となります。出来ない自分に開き直ることで、自分で自分のクリスチャンとしての成長を止めてしまうのです。
 イエス様は私たちが何者であっても受け入れてくださいますし、どれだけ失敗を重ねても変わらず愛してくださいます。しかしキリスト者として成長する努力をやめてしまいなさい、とは仰らないのです。私たちは生涯、イエス様の教えに従って、人として相当にハードルの高い教えに向かって、挑戦を続けなければならない存在なのです。

 その難しさの極みが、本日の「腹を立てるな」という教えかもしれません。「そんなの無理」と初めから決めてかからず、これを私たちにお教えになったイエス様のお気持ちを考えながら、聖書に聞いてまいりましょう。

 本日読みました箇所の「腹を立てる」という言葉を新約聖書のギリシャ語で見てみますと、「満ちたれる」という言葉が出てきます。
 「満ちたれる」。具体的に考えてみると、教会の仲間に対して、満ちたれることを望むことです。満ち足りた集まりになるのは良いことかもしれませんが、そのために、誰かに向かって「ねえ、もっとできないの」と言い始め、「なんで、できないの」とイライラする状態に変わってしまう。これがすでに腹を立てている、という状態だと言うのです。

 人の欠けたところ、足りないところを指摘して改善してあげたいと思う時、実は自分が満ち足りたい、つまり満足したいために指摘して、それが達成できないのでさらにイライラすることが多いのです。子育て中の親御さんなどによく言われることですが、この構図は教会の中でもぴったり当てはまります。
 もちろんこれは何でもかんでも好き勝手にやらせて注意もせず、放置しておけばいい、という意味ではありません。互いに過ちを犯したら適切にブレーキをかけ合う工夫は必要なのです。ここが難しいところです。

 イエス様の言われるのは、自分の理想を押し付けたり、自分の考えが最高で相手の意見は愚かだと決めつけて、勝手にイライラすることを改めないなら、あなたのクリスチャンとしての成長はありません、ということなのです。

 そもそも「ばか」とか「愚か者」と言われて嬉しい人などこの世にはいません。だからこそ「ばか」と言うものは「最高法院」に引き渡され、「愚か者」と言うものは、火の地獄に投げ込まれるといわれるのです。
 現代の私たちは小さい頃から道徳教育を受け、「お友達にバカと言ってはいけませんよ」などと教わります。欠点を補い合うことや、知的に障害がある方達の人権を保障しなければならないことも知っています。それでも知っているだけで、なかなか身につかないものです。
 ましてやイエス様が活動しておられた時代は今から2000年前の古代社会です。身分の高い人が自分の使用人や奴隷に対して、気分次第で「ばか」とか「愚か者」と怒鳴るのはごく当たり前のことだったでしょうし、仕事場で先輩が後輩に偉そうに振る舞うのも普通の事だったでしょう。
 身体障害者は神様に呪われた存在として偏見の目に晒されましたし、知的障害を持った人々を面と向かって侮蔑の言葉で呼ぶなど、普通のことだったはずです。
 こんな状態の社会だったからこそ、イエス様はご自分の弟子たちに、どんな人にも人として守られるべき尊厳があることを厳しい言葉で一から教える必要があったのです。

 イエス様は、神様の喜ばれる教会というものは、社会的立場や生育歴、受けてきた教育のレベル、個人的な頭の良し悪し、障害と呼ばれるもののあるなし、そう言った要素の一つ一つが異なる人々が集まって形成していくものであり、互いの違いを受け入れ合うことで、より豊かになっていくとご存知だったからです。

 本日の第二の日課、第一コリントの中には、「硬い食物」という言葉が出てきました。困難な教えに挑戦していくことが「硬い食物」を咀嚼(そしゃく)することなのです。自分にとってできそうもない教えだからと無視し続けるなら、いつまでもお乳を飲み、離乳食を食べている赤ちゃんのようなクリスチャン、ということになります。
 
 教会において、思いもかけない人々と出会い、以前の自分では考えられなかった価値観に目覚めていくことがあります。そこにキリスト者としての醍醐味があります。いたずらに腹を立て、相手を拒絶することは、それら全てを台無しにします。感情に振り回されて必要以上に怒ることは人生の時間の浪費に他なりません。イエス様はあなたや私が憎しみや怒りに捉われて、一生をイライラと過ごすことを望まれるわけがないのです。
 
 そして最後に一つだけ。人生の中で、不条理なことが起こった時、私たちは神様その方に腹をたてることもあります。神様が私を愛しておられるのなら、なんでこうなるのかと怒りをぶつけたくなるかもしれません。しかし苦難の中にあっても、本当にとことん自分は神様に愛されている、そう思い出すなら、人は苦しみの中にも喜びを見つけることができます。そのように作られているのです。
 怒りがどうしても抑えられず、心の整理がつかないときには、直接神様に申し上げましょう。決して綺麗な言葉でなくて良いのです。それが祈りになります。神様は必ず耳を傾けてくださいます。
 この世の人々からは呑気な楽観主義者と馬鹿にされても、この生き方を選びとっていきましょう。


教会の隣の空き地に小さなオレンジ色の花が咲いています
「冬知らず(カレンデュラ)」というそうです
妙に暖かくて調子の狂う冬でも
元気に咲いています

2020年2月10日月曜日

地の塩、世の光(日曜日のお話の要約)

顕現第5主日礼拝(2020年2月9日)
イザヤ58:1-9a    Ⅰコリント 2:1-12 マタイ福音書 5:13-20

 塩というのは、大昔から人間いとって欠かせないものでした。
 日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代の終わりから弥生時代にかけて、つまり紀元前400年ごろのようです。
 兵隊のことを英語では、ソルジャーといいますが、元は給料を塩で貰っていたということから。また給料をもらって働く人のことをサラリーといいますが、これもラテン語で、「塩」という意味です。古代から、働いた報酬として「塩」が与えられました。料理だけでなく、防腐剤や、消毒剤となる貴重なものであることがわかっていたからです。

 つまりは、塩というのは、私たちのすぐ身近にあり、日常生活のあらゆる面で決して欠かすことができない、そのような存在なのです。
 
 本日の福音書でも、塩というのはそのような存在としてイエス様の例えに登場します。「地の塩」というのは、もちろん地面に落っこちた塩という意味ではなく、この世の中の人々と共に存在していて、たとえ少数派であっても、その社会が腐らないように、批判する精神を持っている人のことを指しているのです。

 批判的精神というと、あまり良い印象がないかも知れません。人が一生懸命やっていることを、なんだかんだと言ってくる口やかましい人間。そんなイメージが浮かぶからです。あの人の一言で何もかも台無し、ということもあるでしょう。
 しかし、そのような皮肉屋と、イエス様のいう地の塩、つまり批判精神をもっている人とは根本的に違うところがあります。皮肉屋は少なからず「人を凹まして喜ぶ」ところがあります。どうだ俺の意見は正しいだろう、と言いっぱなしで踏ん反り返るのです。
 しかし正しい批判精神をもっている人は違います。自分の批判的な一言で人が凹むのを苦しみをもって見守ります。踏ん反り返るのではなく、たとえ嫌われても、正しい方向は何なのか共に考え、痛みを共有しようとします。そこに「愛」があるのです。

 キリスト者は何のためにこの地上に存在し、誰と共に生きていくよう命じられたのかということを改めて思い出さなければなりません。弱いものと生きていく、小さきものと生きていくということが、神様から求められていることなのです。
 
 私たちがなぜこの教会に集められ、日曜ごとに共に祈りの時を持つのかと問われるならば、小さな集まりの中でボスザルのように権力を持つためではありませんし、単に自分に優しくしてくれる人に依存じたり甘えたりするだけの場所でもありません。
 何よりも、神様が出合わせ、結びつけてくださった集まりの中で、神様の望みと導きに従って、日々誰かに寄り添い、また寄り添われながら、互いが互いにとって欠くことのできない塩となって歩んで行くことなのです。
 
 また、イエス様は、「あなたがたは世の光です」とおしゃってくださいました。もちろんイエス様ご自身は真実の光であり、又、神ご自身も光です。その御方があなたがたも同じく「光」だと言ってくださるのです。あなたがイエス様の招きに応じた時から、あなた自身がどう思おうとも、すでに神の栄光の光に包まれているのです。

 自分が地の塩であり、世の光であることに自信を失う時、聖書と祈りに立ち返りましょう。聖書に記された歴史から、詩編に記された言葉から、多くのことが学べます。預言者の言葉も、そして、新約聖書に移った、イエス様の言葉も、弟子たちの言葉もパウロの言葉、ヨハネ黙示録からも、私たちが何かを学び取るために、私たちに読める言葉として神様が与えてくださいました。信仰を増し加えるために、聖書を素直に学ぶだけなのです。素直に学ぶことで、神様の言葉が蓄えとなり、どんな世の中にあっても生きていくことができるのです。
 泣きたいことを祈りにし、かなしみを讃美の歌に変えていきます。世の中から変人だと言われても構わないのです。それが私の生きる道であり、神様が備えて下さった生涯なのです。

 たとえ、半べそをかきながらでも、主イエスと共に、寄り添うわれながら生きることを喜びとし、周りの人々に誤解されても、やり通すという立派な行いを決して曲げず、いつの日か、この教会に関わる人、この園に関わる人が天の父、神様をあがめるようになることを祈り続けましょう。
 この私たちが、この教会ができることを正しく批判的な言葉と眼差しを持って判断し、次の世代につなげるために、塩のように光のように仕えていきましょう。


先週の土曜日、幼稚園の年長児の降誕劇が「役がわり」で行われました
なぜこの時期に?とお思いでしょう
役を取り替えて遊んでいるうちに、たくさんの人に見ていただける
レベルになったため、急遽礼拝堂での公演の運びと相成ったのです
お家の方もたくさん来てくださり、楽しいひと時となりました




2020年2月6日木曜日

2月の土曜学校を行いました

2月1日(土) 9:30〜11:30
土曜学校(土曜日に行う教会学校)10回目です

日頃お話や歌を担当する優子が風邪の後遺症で声が出にくく
工作指導に専念することにして
お話は牧師が担当
小さな指人形の犬と紙芝居の「コロちゃんのお家」を組み合わせて
ゆっくりでも心を込めてやることを神様が見守ってくださっているというお話でした

工作はアルミの空き缶に目打ちで穴を開け
ロウソクを入れてランタンにするというもの
幼稚園の先生方にアルミ缶を持ってきていただき(晩酌済み😅)
口の部分を切り取ってゴールドのスプレーを吹く、とここまでが
前もっての作業
当日はウエスをギュッギュッと詰めて
目打ちで穴を開けても缶が凹まないようにして
前もって準備した下絵をマスキングテープで止めます


怪我しないように注意しながら
下絵に沿ってコツコツと穴を開けていきます



さて、作品は…




下絵を自由に書いて作ってくれました
十字架のランタンが出来上がりました


恒例の「全員並んで記念写真」を撮りそびれてしまいましたが
みんな誇らしげに作品と一緒に写ってくれました
オマケに渡した小さなキャンドルを入れて
お家で灯してくれたかな



次回は牛乳パックで器を作って
造花でフラワーアレンジっぽいことを楽しみます
ちょっと早いけど「イースターのお祝い」がテーマです

2020年2月4日火曜日

山上の垂訓(日曜のお話の要約)

顕現第4主日礼拝・聖餐式 (2020年2月2日)
ミカ6:1-8    Ⅰコリント 1:18-31 マタイによる福音書 5:1-12

 本日の福音書は、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも記されている、イエス様の説教集と言われている箇所です。
 ここでイエス様は有名な祝福の言葉を語ります。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」
 「心が貧しい」というのは、よく「謙遜」な状態と誤解されますが、そうではありません。「謙遜にしていたら神様がご褒美に天国に入れてくれる、という教えではないのです。
 「心が貧しい」とは褒め言葉ではありません。自分の心の中に、褒められるべきものが全く全然ない。そんな人々のことです。そういう人々は、この世では嫌われ者で、ピンチに一行ったとき助けてくれる人はいません。苦しいとき、困ったとき、神様の救いに寄り頼むしかなく、最後の望みとして天の国を求めるしか救いがない。そういう意味です。
 「心が貧しい」という状態、今の自分がそうである。そう気づいた人が自分に絶望して、イエス様にすがる時、イエス様は決してお見捨てにならないから、幸いだ、というのです。

 聖書の教えは、その教えに愚直に従えば従うほどに、信じる人々に喜びや繁栄をもたらす仕組みになっています。自分の欲望を優先させず、神様の御心に従って、愛と平和を目標し、それぞれに謙虚になって分け隔てなく生きていこうとすれば、自ずと祝福された社会が形成され、恵みが集まります。
 しかし、ヨーロッパやアメリカでクリスチャン人口が多いにも関わらず、キリスト教が誕生して2000年経っても、今だに恵に満ち溢れた社会にはなっていません。教えの内容がどれほど素晴らしくとも、権力者が教えを軽んじて自分を律することをせず、思うままに政治を行おうとすれば、あっという間に宗教はただの飾りになってしまいます。

 旧約聖書の列王記には、ユダヤ人の信仰の象徴である神殿が建設される様子と、その後の堕落の様子が記録されています。
 イスラエルは3代目の王であるソロモンによって神殿が建設され、栄華を極めましたしかしソロモン王は国を安定させるために政略結婚を繰り返し、異国から嫁いできた妻たちがそれぞれの国の宗教を持ち込み、異国の神を祀る神殿があちらこちらに建てられたそうで、肝心のイスラエルの神への信仰がないがしろになっていきます。
 結果としてソロモン王の次の代でイスラエルは南北に分裂し、後々まで大変な苦しみを背負うことになってしまうのです。

 また、キリスト教の歴史においては、ヨーロッパ社会で権力を一手に握っていたカトリック教会が、方向性を間違えて堕落します。500年前の宗教改革は、それをを見かねて始まったことでした。

 一方、私たちの住む日本は、1549年のキリスト教伝来以来、繰り返し迫害が起きました。江戸時代にはほとんど絶えてしまって、わずかな人々が隠れて生き残っただけでした。キリスト教の教えを信じ、素直に信仰を全うすようとすれば、命を失うしかなかったのです。
 今は信教の自由が認められていても、仏教や神道以外の人々が生きにくい社会の仕組みが出来上がっているので、キリスト教人口はなかなか増えていきません。

 私たちにも身に覚えがあると思いますが、少ない人々が一生懸命維持しようと努力した場合、努力が空回りして仲違いに発展することも多くあります。何しろクリスチャン人口が少ないので、一旦関係が悪くなれば紛らわす方法がありません。そこで、教会に行くことも、礼拝に出ることもやめ、自分勝手な信仰スタイルを作り上げてしまう人も多いのです。

 クリスチャンは、その人口が多い国々では権力と結びついて堕落し、少なくても仲間同士で意見が合わずに崩壊する。
 人間の罪はどれほど深いのだろうと、考え込んでしまいます。

 しかし、だからこそ私たちが信仰に生きるために、日々聖書を学ぶのです。そこには信仰の危機がどうして起こるのかをはっきり記されているからです。それを自分のこと、自分達のこととして、一人一人が読み続けていく必要があります。

 私たちは、イエス・キリストが十字架の死を味わってまでも救いへと招いてくださった一人一人だということを忘れてはなりません。イエス・キリストの教えに「一足飛び」はありません。どれほど時間がかかるように思えても、「うさぎとかめ」の亀のように、一つ一つの出来事に感謝しつつ、信仰を積み重ねながら前へ前へと進んでいく必要があります。
 私たちがなすべきは「うさぎ」と競うことではありません。自分に与えられた時間と業を用いて、イエス様が待っておられるゴールに向かって、ひたすら誠実に歩んで行くことだけなのです。
「もしもしかめよ、ここにいるキリスト者よ」
 神様からの愛の言葉をゆっくり聞こうではありませんか。


 聖書を通して語られる神の言葉を大切にしながら、日々の歩みを、キリストに捧げながら、キリスト者として歩んで参りましょう。



先日の土曜学校の作品です
アルミ缶に穴を開け、ランタンにしました
Nちゃんに「自由にデザインしていいよ」と言いましたら
十字架のランタンを作ってくれました
彼女の心にイエス様の明かりが灯りますように


2020年1月28日火曜日

ONE TEAM(日曜のお話の要約)

総会聖餐礼拝(顕現3) (2020年1月26日)
イザヤ8:23-9:3 Ⅰコリント 12:27-31 マタイ福音書4:12-23

 昨年は、ラクビーのワールドカップが日本で開催され、日本チームは大方の予想を裏切る素晴らしい活躍でした。その日本チームが掲げたスローガンが「ワンチーム」です。私たちの教会は今年はこの言葉の元に活動してまいります。

 ラグビーには「ワンチーム」という言葉の他に、「ワンフォーオール、オールフォーワン」という考え方があり、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために。」と訳されています。ラグビーですから、ここでいう目的とはトライです。一つの目的、つまりゴールのために全員が役割をしっかり果たすのが重要だ、ということなのです。
 イエス様も神様の命を受けて、宣教活動という目的のため、弟子を集め、ご自身のチームを作られました。
 今日の聖書箇所で、イエス様の先触れとしてヨルダン川で人々に悔い改めを促したヨハネが「捕らえられた」と書かれています。彼はヘロデ王を批判したかどで牢に入れられたのです。
 この知らせを聞いたイエス様は、ご自身がお育ちになったガリラヤ地方に戻られます。参考までに、ヨハネが洗礼活動をしていたと言われるのは、死海のすぐ上のベタニア周辺であったようです。(ベタニアは地図には二つあって、マルタとマリアの住んでいた村ではない方です)
 ここから地図のずっと上の方にヨルダン川をたどっていくとガリラヤ湖があります。
 ガリラヤ湖の西側にあるティべリアスはローマ人の保養地もあるような大きな街でしたが、ガリラヤは全体的には田舎です。ヨハネ逮捕で状況が悪くなったと見たイエス様が宣教を中止して一回田舎に撤退した、と取られかねません。しかしイエス様がエルサレム周辺に留まるのではなく、ガリラヤに戻られたことは、本日のイザヤ書にもあるように、神様のお約束だったのです。
 イエス様は暗闇に住む民の心に大いなる光を差し込ませるため、ガリラヤに戻られたのです。

 弟子集めを開始されたイエス様がペトロとアンデレをご覧になった時、彼らは湖に網を投げているところで、イエス様など見てはいませんでした。この時二人は素の自分達を晒していたわけです。
 兄弟ですから、かしこまった会話などしません。幾分荒っぽく、傷つけ合う言葉も交わしていたでしょう。自己中心の屁理屈や、自分こそ正しくお前は間違っている、そんな傲慢な物言いもあったに違いありません。
 そういう様子も、イエス様は見ておられたのです。彼らの罪だらけの日常の一場面をイエス様は見守っておられたことでしょう。

 イエス様が地上に来られたのは、この世を救いに導くためが第一の目的ですが、もう一つ、旧約時代の預言者のように、神様の言葉を預かり、王様にも民衆にも、身分の高い低いを問わず世界の全ての人々にみ言葉を伝える伝道者を育てることでした。
 そのためにイエス様が見つけ、最初に白羽の矢をたてたのが、ペトロとアンデレだったのです。漁師の兄弟の中に、イエス様は何をご覧になって弟子に招かれたのか、私たちにはわかりません。しかし使徒言行録などを通して、彼らが伝道者として命をかけていく記録を見れば、イエス様のお見立てに間違いはなかった、と思わざるを得ません。

 先週お話ししたヨハネ福音書では、弟のアンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネに示されてイエス様の弟子となって、その後で兄であるペトロを紹介した、となっています。
 それに対して、マタイ福音書とマルコ福音書は、声をかけられた時、ペトロもアンデレも、そしてヤコブとヨハネも、すぐに従ったと記しています。それも網を捨てて従った、自分の仕事を投げ捨てて従った、と記している。まさにこの時を待っていた、このタイミングを待っていたという感じすらします。
 どちらがより事実に近いのか、わかりません。しかし大切なのは、彼らはイエス様にお声をかけていただいた時、そのタイミングを逃さなかった、ということです。心の闇にイエス様の光が差し込んだ時、彼らは躊躇せず立ち上がりました。今の自分が弟子にふさわしいかどうかと悩んだり、こいつと一緒なら嫌だとか、そういうことは一切彼らの中になく、招いてくださったイエス様を信じ、宣教するチームの中に飛び込み、役割を果たしながら成長していったのでしょう。

 本日は教会総会です。総会というのは、昨年1年の歩みを報告を通して振り返りつつ、今年度の歩みを確かなものとするための、重要な会議です。聖書を通して与えらえている神の言葉に耳を傾けながら謙虚に行わなければなりません。
 いつも順風満帆というわけではなく、むしろ逆風に悩まされるのが教会なのかもしれません。けれども、イエス様は私たち一人一人が心に闇を抱えていることをご存知の上で、そこに光を差し込ませてくださいました。そしてここにいる一人一人を引き合わせて、この社会の中で、救いの業を行っていくワンチームとなっていけ、と命じてくださるのです。

 神様から与えられたこの場所で、乳幼児から高齢者まで、備えられた関わりを大切にしながら、まずは信仰を持つもの同士がワンチームとなりましょう。この1年も、み国の前進の為にタッグを組んで参りましょう。



HPに掲載する教会外観写真を新しくしようと
正門前に行ってみました
いざ写真を撮ろうとすると、幼稚園の洗濯物が翻っています
これがこの教会のありのままの姿なのです


園庭で遊ぶ子どもたちはこちらを目ざとく見つけ
「いい写真を撮ってね」と激励してくれました😊

2020年1月20日月曜日

神の小羊(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝 (2020年1月19日)
イザヤ49:1-7    Ⅰコリント1:1-9 ヨハネ福音書 1:29-42

 マタイ福音書では、いきなり現れたイエス様に洗礼者ヨハネが戸惑う様子が記録されていましたが、本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを、新しい時代の幕開けと捉え、神様がいよいよ人間と新しい関係を築こうとしてくださることが描かれています。
 そのキーワードがイエス様の代名詞でもある「神の小羊」です。
イスラエルの羊料理の中でも小羊というのは、柔らかくて美味とされ、かなりの御馳走になります。そこから「特別なもの」「尊いもの」を指す言葉として使われるようになりました。

 聖書の中から小羊という言葉の出てくる箇所を3箇所あげてみたいと思います。
 まず第一は、有名な「苦難の僕」とも言われる、旧約聖書の預言の書、イザヤ書53章の言葉です。ここには、イエス様が私達の罪を背負うため、私がかかるべき十字架にイエス様は身代わりになってかかってくださったことが書かれています。その昔、神様に自分の罪を赦していただくために生贄として毎年小羊を捧げていました。しかしイエス様が犠牲の子羊になってくださったので、私は赦され、生きている、という内容です。

 二つ目は、過ぎ越しの小羊としてのイエス様のことです。出エジプト記において、小羊の血を鴨居に塗っておけば、その家族で一番最初に生まれた子どもの命を奪わないという約束がありました。その出来事を忘れないために、小羊の血に意味を持たせました。

 三つ目が、世の中の終わりに現れて、世の悪を裁く「終末的な小羊」です。ヨハネの黙示録では、暴力的な国が世界を支配し、小さな国が脅かされる時、小羊があらわれ、新しい世界を用意してくださる。そのように記されています。

 洗礼者ヨハネはイエス様の中にこういった「子羊」のイメージを全て見たのでしょう。神様の救いの計画がいよいよ始まっていくのだと感じ取り、イエス様のことを「神の小羊」と指し示したのです。
 神様のご計画は、洗礼者ヨハネの想像をはるかに超えるものでしたが、イエス様に神の霊が降るのを見て、イエス様が何者であるかをはっきりと知ります。ヨハネは、イエス様は「神の小羊、神の子」であると信仰告白するのです。

 そこで洗礼者ヨハネは自分の弟子をイエス様に託そうとします。そのうちの一人がペトロの弟でのちの12弟子の一人のアンデレであった、と記されています。
 ヨハネ福音書によれば、ペトロもイエス様と会う以前に洗礼者ヨハネから洗礼を受けています。洗礼者ヨハネは、自分の弟子だったアンデレを通して、ペトロをイエス様に引き合わせるのです。あなたたちが、これから従っていくのは、私ではなく、このイエス様だと、語っているのです。こうして洗礼者ヨハネは、その中心的な働きを終えていきます。

 これから間も無く、洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられ、死刑になります。ヘロデの義理の娘が踊りを踊り、その褒美にヨハネに首を所望する、というものです。このな
ヨハネの最期はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されており、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」として演じられていますので、ご存知の方も多いかもしれません。

 ヨハネ福音書には「サロメ」的な記述はありませんが、本格的に活動を始めたイエス様を見たヨハネの弟子たちが「みんなあの人の元に行ってしまう」と焦ったように報告しています。それに対してヨハネは「あの人はメシアなのだからそれが当然で、自分はあの方の先ぶれとして登場したに過ぎない」と答えます。「あの方が栄え、私は衰えるが、喜びに満たされている」とも語るのです。

 洗礼者ヨハネは神の国が近づくと宣言し、民衆の心を神様に向けさせ、準備を行いました。そしてイエス様と出会って自分の引き際を悟ると、自分の弟子をイエス様に結びつけ、役割を終えます。その引き際は見事としか言いようがありません。
 ヨハネとイエス様はまさに一つのチームとなって、人々を、そして我々を神様のもとに導いてくださったのです。



牧師館の物干し台からは毎日表情を変える山々が望めます
赤石山脈だとも言われましたが
実は私は地理がまだよくわかっていません(^^;)

2020年1月14日火曜日

主の洗礼 (日曜日のお話の要約)

主の洗礼日礼拝 (2020年1月12日)
イザヤ42:1-9  使徒言行録10:34-43 マタイ福音書3:13-17

 本日の福音書は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。イエス様が洗礼を受けられたことは4つの福音書の全てに記録されていますが、このマタイ福音書には、洗礼を望むイエス様に対し「ヨハネはそれを思いとどまらせようとして」という言葉が出てきます。

 この箇所全体をもう少し詳しく見てみますと、ヨハネはイエス様以外の人にも、洗礼を拒もうとした様子が描かれています。

 7節ではファリサイ派やサドカイ派の人々を強い口調で否定しています。
 サドカイ派というのは、神殿で神に仕える祭司や上流階級の人々で、政治家でもありました。彼らはローマと政治的な駆け引きも行わなければならなかったので、腹黒さも持ち合わせており、信仰的な想いだけで神に仕える人々ではなくなっていました。
 もう一方のファリサイ人は律法を民に教える専門家で、宗教儀式や決まり事を守ることこそ神様に喜ばれると信じており、律法を守れない人々を見下し、交流することを拒みました。思い上がったその心や態度は、神様から遠く離れていたと言えます。

 ヨハネは、こうした人々には悔い改めが無く天の国に入る資格はない、と宣言しました。ただし、その一方で、ルカ福音書においては、たとえ忌み嫌われる徴税人であっても悔い改めた人には洗礼を施したようです。ヨハネは神の代理人として、人々の心のうちを見抜いたのでしょう。

 さて、ではイエス様がヨハネの元に洗礼を受けに来たとき、なぜヨハネは授けるのを拒んだのでしょうか。
 イエス様がヨハネの元に来る少し前、ヨハネはこのように言っています。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」
 当時の社会で靴をがせるというのは奴隷の仕事でしたが、後から来られる方はあまりにも尊いお方なので、自分はその履物に触れる資格すらない。救い主に対する徹底したヨハネの謙遜が現れています。
 そしてまた、続けて言います「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」人々の中にある罪の部分を清め、悪しきところを焼き払ってくださる、容赦なく、強い救い主のイメージがあります。

 イエス様が突然ヨハネの前に現れたとき、ヨハネはこの方が何者であるのかを一瞬にして見抜来ます。とはいえ、ヨハネのイメージしていた救い主とはかなり違っていたようです。
 イエス様はこの時、世間ではまだ何者でもなく、洗い清めるべき一点の罪もない、という以外には、どこにでもいるような平凡なイスラエル人に見えました。しかしイエス様が洗礼を受ける必要などないことは明らかなのです。それなのに、悩める多くの罪人に混じってヨハネからの洗礼を希望しているのです。
 力強く世の悪を裁きを行う方のはずなのに、これは一体どういうことなのか、ヨハネはこのギャップを受け入れることができず、「イエス様、謙遜にもほどがあります」と叫びたかったことでしょう。

 そのようなヨハネに、イエス様は静かな口調で語りかけます。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは我々にふさわしいことです」

 イエス様は、ヨハネの前で罪に苦しむ無数の人々が列を作るのをご覧になりました。そして彼らと共に歩むことを望まれたのです。なんとか新しく生きなおそうともがいている彼らの姿を、高みから見物なさるのではなく、ご自分も「罪人のひとりと数えられ」、一人一人の真実の友となるために、彼らと同じ洗礼を受けることを望まれ、そこから働きを始めることこそ、神様のご計画にふさわしい正しい、と決心してくださったのです。

 ここに集まる私達の多くは、神に招かれて洗礼を受けました。しかしその後の生活はどうでしょうか。このままではいけない、という思いは心の奥にありながらも、「こんな私でも神様は愛してくださるのだから」と開き直ったり、他の言い訳を用意して神様に従わない逃げ道を作ってしまうものです。しかし、洗礼を受けた事実は、永遠に変わらない事実なのです。それがたとえ何十年前の体験であっても、洗礼とはイエス様が私と共に歩んでくださる証です。
 何一つ罪のないイエス様が私の生涯の友となってくださった事実を示しているのです。このイエス様の元に立ち返りながら私たちは信仰生活の歩みを進めてまいりましょう。


13日(月)甲信地区の牧師家庭の集まりがあり
諏訪湖に行ってきました
さぞ寒かろうとかなり厚着をしていったのですが
「これでいいのか?」と思うくらい暖かでした


諏訪湖から遠くの山々を臨む