2020年12月1日火曜日

キリストの言葉(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝(2020年11月29日)
イザヤ書64章3-4節 第一コリント1章8-9節 マルコ13章24-31節


 いつの時代も子どもたちは正義のヒーローが大好きです。先日、園庭で正義のヒーロー同士が戦っていました。「私は仮面ライダー何々だ、お前は誰だ」「私も仮面ライダー何々だ」と同じ名前を名乗り、決闘の真似ごとが始まります。
 子どもが他愛ないヒーローごっこをやっている間は良いのですが、年齢が上がるにつれてスポーツの世界などでヒーローを目指しても挫折を味わうことになります。ヒーロー願望は屈折してしまい、他者に対して優越感を持ちたいという思いだけが残り、身近にいる自分より弱そうな人間を引き立て役に利用したりいじめたり、という行動につながり、「弱きを助けて悪を挫く」ヒーローとはかけ離れてしまいます。人の正義というのは状況によって簡単に変化してしまうのです。
 さて、イエス様がお生まれになったのはおおよそ2000年前です。祖国であるイスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、属国として支配を受け、重い税金を課せられていましたいました。
 ユダヤ人の社会はユダヤ教の神殿を中心として宗教と政治を宗教国家でした。神殿で神様に仕える祭司と、神様の掟として与えられた律法を守り教えるファリサイ派が2大勢力でした。彼らはローマ帝国と渡り合って、自国の民を守る立場でしたが、長いものに巻かれるかのようにローマに妥協しました。その姿を見て、ユダヤの民は失望することも多かったのです。
 そこで、民衆の中からもう2つの流れが出てきます。一つは権力にと結びついた宗教観を嫌って街を捨てて荒野に赴き、ひたすら神の言葉に従おうとする信仰者の群れ。
そしてもう一つは自由な国の再建を求めて戦おう、という「熱心党」と呼ばれる人の集団でした。彼らは非常に熱狂的で、ユダヤが独立した国家となるためなら手段を選ばず、自分の命を懸ける人々の集まりでした。イエス様の時代、ユダヤの人々の心はバラバラだったのです。
そんな混沌の中、次のように説く人物が現れました。「貧しかろうが豊かだろうが、神はみんなを救います。ローマ人だろうが、ファリサイ派だろうが、関係なく受け入れ、愛しなさい。神が平等にみんなを愛するように、みんなも神様を愛しなさい。そうすればやがて神の国に入れる。最後の審判のときに救われる」これは、世界史の教科書に載っている、博愛主義とも言われるイエス・キリストの言葉の要約です。
 言葉だけなら、そんなことはただの理想だ、と思うでしょう。しかし、その日の生活にも困っているユダヤの民衆や、神の言葉に飢えている人々、暴力的な熱心党の人々までもがイエス様のもとに群がりました。それほどまでにイエス様の言葉には説得力が備わっていたのです。
このイエス様の働きは、ユダヤ社会のユダヤ社会の上層部の人々、祭司やファリサイ他人たちにとって都合の良いものではありません。社会の秩序が乱れると思った彼らは、当時ローマから派遣されていたローマ総督ピラトにイエス様を反逆者として訴えました。こうして裁判の結果、イエスは十字架にかけられ処刑されました。しかし、その後イエス様は復活します。イエス様が天に変えられた後は、弟子たちがその教えを広め始めます。
 イエスから直接教えを受けたペトロたち、そして少し後には、もともとはファリサイ派でイエスの教えを迫害する側に立っていたパウロといった「使徒」と呼ばれる人たちが大きな働きをしていくのです。彼らの伝道の結果、地中海沿岸の様々な街に教会が生まれ、そこで洗礼を受けた信徒たちを教え導くために指導者たちはたくさんの手紙を書きました。「何々人への手紙」というのがそれに当たります。
 そして、やがてイエス様と実際に行動を共にした弟子たちがイエス様の伝記でもある「福音書」を書き起こしました。手紙も福音書も始めのうちはかなりの種類があったようですが、後の時代に、読み継ぐにふさわしいものが選別され『新約聖書』が生まれたのです。
 こうして「キリスト教」はみ言葉によって整えられていくのですが、その過程でユダヤ人たちは国内に住むキリスト教徒を迫害しました。そこでユダヤ人キリスト教徒はユダヤの地を離れ、各地に散らばることになります。
 そのような折、西暦70年、ローマとユダヤの国の間に戦争が起こります。神殿は焼かれ、多くのユダヤ人たちは籠城した挙句に自ら命をたちました。しかしキリスト教徒たちはそれ以前にユダヤの国から逃げ出していたので、生き残ります。
 最後まで残ったユダヤ人は戦いに負けてローマ人の奴隷になるくらいなら死を選ぶことを誇りと考えました。しかし、イエス様とその教えを信じた人達は厳しい戦が起こって神殿が壊されても剣を取ることはありませんでした。互いに愛せ、というイエス・キリストの言葉に踏みとどまり、その教えを広めていくことにその生涯をかけたのです。彼らが命を落とすのは、教えを捨てろと迫られた時だけでした。これが初期のキリスト教徒たちがイエス様から教わった正義だったのです。
 誰にでも自分の信じる正義というものがあるでしょう。しかしそれが本当に正しいのかどうかは神様だけがご存知です。
 人間の考える正義は時代や立場によって翻弄されてしまいます。だからこそ私達は、自分の心の中でキリストの御言葉に養われる正義の心が健全に育っていくことを望んでまいりましょう。


牧師館の物干し台で今年もネリネが咲きました
花びらがキラキラして美しく
「ダイヤモンドリリー」の別名も頷けます
もう15年以上のお付き合い
晩秋になると思い出したように咲いてくれる
ヒガンバナ科の球根植物です


礼拝堂でもクリスマスツリーがキラキラ
電飾は付けていませんが
小さなベルが光を反射して
輝いています



2020年11月24日火曜日

永遠のキリスト(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後最終主日礼拝(2020年11月22日)
エゼキエル書34章11節 エフェソの信徒への手紙1章23節
マタイによる福音書 25章31節―46節

 今日のお話に入る前に、少しキリスト教の「基本のキ」あたりをおさらいしておきましょう。イエス様は十字架の上で息を引き取られた後、墓に葬られましたが、三日目に蘇り、再び弟子たちにこの世の生き方を教え導かれました。しかしその日数は短く、40日であったと使徒言行録に記されています。40日の後「再び戻ってくる」と約束されて、御使とともに天の国に帰って行かれたのです。その時、再び地上に戻ってこられるのがいつになるのか、誰にも具体的には知らされませんでした。

 ただ、イエス様はいつの日か戻ってこられて、ご自身を信じて生き、死んでいったた者たちを天の国に迎えてくださる。そしてその時、憎しみや戦いの絶えないこの世は終わりを迎える。その出来事を「再び臨む」と書いて再臨と呼びます。その約束を堅く信じた歴代のキリスト教徒たちは、イエス様の再臨の時まで、信仰のともしびを消さないように、次の世代へ次の世代へと伝道し続けたのです。


 では、本日の聖書箇所に入りますが、最初の部分で、再臨されたイエス様が人々を右と左により分ける様子が描かれています。あらかじめお話ししておくと、ひとたびイエス様を信じて洗礼を受けた者は決して神様から見放されることはありません。洗礼を受けると言うことは、イエス様がその人を愛し、招かれた証しだからです。洗礼を受けた後、その人がちゃんとしたクリスチャンとして生きられなかったからといって、「永遠の罰を受ける」などと言うことはないのです。


 父なる神様は、人間がもともと弱いと言うことを知り抜いておられます。なんといっても、イエス様を遣わしてくださったのは弱い私たちを支えるためでした。つまり、神様はそれほどまでに私たちの弱さに理解があり、放っておけない、救いの手を差し伸べなければ、と思ってくださる方であることを忘れてはなりません。

 この「救い」と言う言葉ですが、今更かもしれませんが「キリスト」と言う言葉は日本語では「救い主」と言う意味です。「イエス」が名前で「キリスト」が苗字、ではありません。

 ヘブライ語では「メシア」と言われるこの言葉は、本来は「油注がれた者」という意味です。イエス様のお国、イスラエルでは誰かを王様や何かの代表者に任命する時、香りのよい油を注ぎ「メシア」と呼びました。

 聖書に描かれたユダヤ民族の歴史の中では、様々なピンチの時が描かれています。よその国で奴隷になったり、度重なる戦争によって国ごと消えそうになったり。しかしどのような時も、神様に導かれ、ピンチを脱出してきました。

 私たちの一生においても、予想していなかった災難や不幸に見舞われ、用意した手立てが全く役に立たないとわかった時、人は絶望し、この世には神も仏もないのか、と嘆き悲しみます。しかし、人間に本当の救い主が必要なのはまさにその時なのです。

 とはいえ、その救い主は、何かのヒーロー物語のように、スーパーマンが颯爽と登場して、助けてくれる、と言うのとは違います。私たちが「こうなれば良いのに」と思っている方向ではなく、全く違う、新しい道に導いてくださることがしばしばあるのです。救い主は「あなたにとって一番良い道がそこに用意されている」と語りかけるのです。


 クリスチャンというのは、救い主キリストなしでは生きることのできない人のことを指します。自分がどれほど無力であるかを知り、救い主に頼るしかないと、生き方を変えた人です。

 以前の私たちは、自分の弱さを認めたくなくて虚勢を張り、痛いところをついてくる人を突き放し、喧嘩しながら生きてきたかもしれません。しかしそのようなことをしても、弱さは決してなくなりません。私たちは、弱さを受け入れ、弱さを知りつつ、歩むしかないのです。イエス様は私たちに「強くなれ」とはお教えになりません。「自分の弱さを認め、私に頼りなさい」と言われるのです。

 一人一人が決して強くないからこそ、同じ弱さを持った者と共に、憐れむ者として生きる必要があります。イエス様に促されるなら、誰かが飢えているときに食べさせ、喉が渇いているときに飲ませ、旅をしている者に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねる、と言う生き方を選びとれるはずです。

 これは決して崇高でヒューマニスティックな理想を目指すのではなく、身近なところ、小さなところから始めたので良いのです。イエス様に日々従う生き方を心がけるならば、あなたが行動を起こすタイミングが来た時ピンとくるはずです。その時は迷わず行動できる勇気を願い求めれば良いのです。そうやって私たちはキリストの群れを形づくっていきましょう。頼るべき人には頼り、支える人は支え、嬉しいことも悲しいことも分かち合っていきましょう。


園庭の銀杏です
とても美しいのですが
落ち葉の後片付けが大変です😅


11月19日は銀杏の落ち葉舞い散る園庭で
焼き芋パーティが行われました



まずワイルドにコンクリブロックと
トタン板を組み合わせ
不要になった木製品や乾かしておいた枯れ枝を
燃やします

銀杏の葉が燃やせれば良いのですが
水分が多くて焼き芋には
不向きなようです

火が落ち着いてきたところで
濡れた新聞紙とアルミホイルで巻いた
お芋を投げ入れていきます

焼き上がりはこんな感じ


園児が食べやすいように
細切れにして

いただきます!

2020年11月16日月曜日

タラントの話(日曜日のお話の要約)

 2020年感謝礼拝
(聖霊降臨後第24主日礼拝(2020年11月15日))
マタイによる福音書 25:14-30

 皆さん、おはようございます。いつもの年なら今日は児童祝福感謝礼拝で、たくさんの子ども達が教会に来る日です。この幼稚園に通っている子ども達、卒園したお兄さんやお姉さんが保護者の皆さんや幼稚園の先生方と一緒に神様を礼拝し、祝福を受け、感謝の時を過ごすはずでした。

 ところが、今年の2月頃から目には見えない小さな新型コロナウィルスが世界中に広まってしまったのです。飯田では今までは、わずかの人しか、かかっていませんが、教会の「感謝礼拝」は毎年とても密になります。コロナを防ぐ一番簡単な方法は、全部やめてしまうことです。でも、やめるのは嫌だ、大人も子どももいっしょに神様に感謝する礼拝をどうしてもしたい、そう思って、何か良い方法はないか話し合いました。

 そこで考えたのは「どんな人でも来てください」というのはやめて、一緒にお祝いしてくれそうな人に呼びかける、という方法でした。聖書には、イエス様がお弟子さんを集められたとき、ご自分から一人一人に呼びかけられた、と書いてあるので、それをお手本にしたのです。


 さて、さっき読んでもらった聖書にタラントンというお金の数え方が出て来ます。日本のお金にすると、1タラントンは、4000万円から6000万円だろう、と言われています。

 タラントンという言葉は、実はみんなの知っている言葉で「タレント」言う言葉と同じです。テレビに出ている人のことをタレントさんと言ったりしますが、もともとは才能や能力を意味する言葉です。

 イエス様の例え話の中で、ご主人様から5タラントン預かった人は、それを使って商売をして、もう5タラントンをもうけたと書いてあります。2タラントン預かった人は、もう2タラントンもうけたと書かれています。

 ところが1タラントの人は、ご主人様が厳しい方だと思い込んで、もし自分がこのお金を使って商売をして失敗して全部お金を無くしたら、厳しく叱られる、だから使わないで隠しておこうと思ったのです。

 これは例え話なので、イエス様はここに出てくるお金を何かに例えています。わかるでしょうか。先生はこのタラントンは「神様からいただいた御言葉」だと思っています。

 みんなも幼稚園や土曜学校で聖書の言葉を覚えますね。たくさん覚えられる人もいれば、ちょっとしか覚えられない人もいます。でも、大切なのは、その御言葉をどう使うかです。自分がピンチになったり嫌な気持ちになったりしたとき、御言葉を思い出せるかどうかです。

 例えば、今年の幼稚園の一年間の御言葉は「喜びと平和とであなたがたを満たす。ローマの信徒への手紙15章13節」です。悲しいことがあったり、誰かとケンカしてイライラしたりするときも、神様はあなたに喜びと平和をあげよう、と言ってくださっているので、「神様、喜びと平和をください」とお祈りするだけでいいのです。神様はみんなを導いてくださいます。

 教会や幼稚園で教えてもらった御言葉や賛美歌を、忘れてしまったらもったいないのです。たくさん覚えて、ピンチの時に思い出してお祈りするなら、どんなに困ったときも悲しいときも、神様の助けがもらえて、みんなは強くなれるのです。

 みんなは今日、「フットプリンツ」という曲を歌い演奏し、辛い時もイエス様がいっしょに歩いてくださることを覚えました。「さあ、賛美しよう」を歌って、賛美するのは楽しいとわかりました。うまく出来た人も「もっと練習すればよかった」と思った人もいたでしょう。でも確かなのは、今回チャレンジし、歌の歌詞の中に込められた御言葉を覚えたということです。そしてそれを神様が喜んでおられるということです。

 みんなは今日、タラントを上手に使うコツの最初の一歩を神様から頂いたのです。いただいたタラントをもっと増やしていくか、もうやめた、と言って、穴を掘って埋めてしまうかは、自分次第なのです。


 ルーテル飯田教会、ルーテル飯田幼稚園がこの地に誕生して、110年以上の歴史があります。長い長い間に、戦争や大火事や、大変なことがいくつもありました。そして今はコロナ禍と言われる厳しい状況の中にあります。それでも、今日集まってくださった皆さんと共に神様に感謝を覚える時ができたのは、奇跡だと思っています。

 この先、コロナに影響された私たちの社会がどうなるか、誰にも分かりませんが、神様はどんなときも私たちにタラントを与え続けてくださいます。それを無駄にしないで、自分の希望にし、そして誰かの希望になるように、いっしょに増やしていく努力をしていきたいと思います。

 この教会と幼稚園は、みんなが、神様と共に歩むことを喜びとし、一人一人に与えられたタレントを十分に生かして毎日が過ごせるように、共に考え、お祈りしています。今日、こうして集ったお一人お一人に、豊かな祝福がありますように。





礼拝の中で、長年飯田教会を拠点に活動しておられるハンドベルチーム「リーベクワイヤ」と、今回新設された「こども聖歌隊」の特別賛美が行われました


まず子どもたちの写真をみてください!

慣れないフェイスシールドを付けながら頑張りました。

都合で、生き生きした表情をお見せできないのが残念です。


こども聖歌隊デビュー賛美
元気にフィニッシュ!
次回は保護者の方から許可を得て
表情もお伝えできたらと思います

こちらは「リーベクワイヤ」の皆さん
今回「こども聖歌隊」と母娘共演を
果たした方もおられました




私の人生で一番辛い時
砂の上に残されていた一人分の足跡は
私を背負って歩いてくださった
主のものだった
有名な「フットプリンツ」を
手話付きで賛美している様子です


2曲目は「さあ賛美しよう」
ノリノリ(死語?)( ^ω^ )
キーボードははるか先生
ドラムスはゆうこ先生

ベースはなみえ先生
一緒に歌ってくれているのはくにえ先生
ギターは牧師の朝比奈先生です




最後は飯田教会婦人会から
また歌ってね、の感謝の思いを込めて
子どもたちにプレゼント

保護者の熊谷様
写真提供、本当にありがとうございます

2020年11月10日火曜日

「十人のおとめ」のたとえ(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第23主日礼拝(2020年11月8日)
アモス5:20  テサロニケⅠ 4:13-14  マタイ25:1-13

 本日の「10人のおとめのたとえ話」は、結婚式になぞらえて、イエス様がご自分の弟子達にお話をなさっています。当時のユダヤの結婚式は、私たちとはまるで違う方法で行われました。ある資料によると、まず式の当日、花嫁は嫁入り道具や付き添いを伴って華やかな行列で花むこの家に向かいそちらで髪型を整えました。

 ところが、花嫁が花婿の家で身支度している時、花婿は留守です。彼は親類の家に長々と留まって、そこで夕食まで食べるのです。花婿が花嫁が待っている自分の家に向かって出発するのは、通常午後11時過ぎでした。

 輝くトーチが花婿の行列を照らし、花嫁の付き添い人が花婿を待ち受けている家に向かって、ゆっくりと進んでいくのです。それは一大イベントで、町の人々は大興奮でそれを見守ったそうです。

 花婿が家に近づくと周囲の人々は「花婿が来ます、花婿が来ます」と大声で知らせます。そこで花嫁の付添人「待ち受ける乙女たち」と呼ばれる女性たちは花むこの一行が入口に入りやすいよう、そこを明るくランプとろうそくで照らします。こうして花嫁と花婿が晴れて彼の家に揃うと、新婚夫婦は素晴らしく飾られた天蓋の下に一緒に座るのです。


 主イエスは、花婿の一行を待ち受けて入口を照らす役の乙女たちの話をされたのです。乙女たち10人の内、5人は愚かで、5人は賢かったと言われました。賢い娘たちは自分の灯の他に、花婿が予想より遅くなることも考えて予備の油を用意しました。しかし愚かな娘たちは予備の油を用意しませんでした。

 ユダヤの風習に則って考えるなら、花婿の到着が遅れるのは珍しいことではありません。この夜も花婿が来るのが遅れたので、10人の娘たちはうとうと眠り始めました。夜中になり「花婿が来ます、花婿が来ます」という大声で10人の乙女たちが目を覚ました時、愚かな娘たちは、自分の灯が油不足で消えそうになっているのに気づきます。そこで、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください。」と頼みました。しかし賢い娘たちは「分けてあげるには到底足りません。お店に行き、自分の分を買うように。」と勧めたのです。

 花婿が到着した時、5人の賢い娘たちは灯火を明るく掲げて入り口を照らして一行を迎え入れます。5人の乙女たちは花婿と共に披露宴会場に迎え入れられました。しかし愚かな娘たちが戻ってきた時、その家の戸は閉じられ、彼女たちはもう2度と入ることができなかったのです。

 この話を聞いて「賢いといっても意地の悪い乙女達だなあ、少しくらい油を分けてやれば良いのに」と考えてしまうと、このお話の本質を見失います。イエス様が「意地悪の勧め」をなさるはずはないのですから、こちらも素直になってこの例えの意味を受け止めましょう。

 ご自分がいずれ十字架にかかり、そののち天に戻られることを知っておられたイエス様は、弟子たちがどれほどの苦難の中で伝道していかなければならないかを知っておられました。

 いつ天の国から戻ってこられるかわからないイエス様を待ち続けることは大変です。厳しい迫害の中、時には信仰が弱まったり、油断して誘惑を受けたり、伝道しの目的を見失いそうになったりするでしょう。だからこそイエス様は、結婚式の行列をご自身の再臨の時になぞらえ、遅れて到着する花婿にご自分を例えられたのです。

 ご自分が再び地上に戻ってこられる再臨の時まで待つための備えは、他人にしてもらうのではない、一人一人が聖霊の力をいただきながら、自分の信仰の灯火が消えないように守っていかなければならない、と教えられるのです。一人一人が主イエスの再臨に備え、どれほど長く待たされようとも、いつか神の御前に立つために賢く備えをしなければならない、と教えられたのです。

 愚かな乙女については「こうなってはいけない」という架空の人たちと捉えたら良いでしょう。あなたたちはこうなってはならない、いや、私が招いた愛するあなたたちなら、こうはならないはずだ、とイエス様は言われるのです。


 ここに登場する乙女たちは、神様から大切なお役目を与えられた私たちそのものです。イエス様が再び戻ってこられる再臨の時まで、信仰の灯火を消すことなく、神様と人々との出会いの場である教会に立ち、集い続けるよう召されているのです

 自分は愚かな乙女の方に入るかもしれない、などと考えるのはよくありません。過去はどうあれ、今の自分はちゃんと聖霊から信仰の油を継ぎ足していただき、灯火が消えないよう用意している、イエス様に愛される賢いおとめであるという自覚こそが、私たちの信仰生活の継続のために、大切な事のです。

 教会は2000年の間、再臨の時を、イエス様が再び地上に来られる時を待ち望んでいます。私たち一人一人がこの世を去るのが早いのか再臨が早いのか、誰にもわかりません。それでも、だからこそ、信仰の灯火は次の世代へと引き継いでいかなくてはなりません。

 日々、一人一人が自分の信仰の灯火を整えながら、共に神様に与えらた道を歩んで参りましょう。




この白い動物、羊ではありません
アルビノの狸のりゅうくんです
教会から幼児でも歩いて行ける距離に
市立飯田動物園があります
なんと入場料タダ
今日は園児の付き添いで
牧師夫妻も動物園に行ってきました

動物園といえばフラミンゴ?😁

…ですが、本日のみんなのお目当ては
なんとゴキブリ!
マダガスカルオオゴキブリが
新しく
動物園の仲間に加わったので
見に行ったのです
この昆虫、日本の動物園では結構人気者とか

興味津々の子ども達に
飼育員さん大サービス
「誰か手に乗せて欲しい人!」
ちょっと引いてしまう子ども達を尻目に
手を挙げたのは優子先生
彼女の手のひらに乗ったゴキブリを触って
つうるつる、デコボコと
興味津々の子ども達

虫の苦手な方は
この次の写真は見ないでくださいね( ^ω^ )

これがマダガスカルオオゴキブリだ!

2020年11月7日土曜日

11月7日の土曜学校の報告

10月は台風接近のため土曜学校は中止
今日は二ヶ月ぶりに集まっての礼拝と製作でした

主題聖句
:その子をイエスと名付けなさい。 
 (ルカによる福音書31節)
賛美
:フットプリンツ
 さあ 賛美しよう
礼拝出席
 :子ども 土曜保育7名
      教会学校名 
  おとな 7名

製作は「牛乳パックを使った貯金箱」











モールのクリスマスリースと
松ぼっくりのツリーを添えて
クリスマス風にアレンジしてみました

2020年11月3日火曜日

ソーシャルディスタンス焼肉と1日神学校

 本日11月3日文化の日
午後1時30分からzoomを使って
三鷹のルーテル神学校から
「1日神学校」の映像が配信されました

でもその前に
幼稚園の先生たちと
園庭で焼肉親睦会!
少し風がありましたが
暖かくて焼肉日和

飯田は焼肉の町として有名で
自宅焼肉はごく普通のことだそうです
ビールケースをテーブルに
庭先で焼肉、は当たり前だとか

みなさん慣れたもので
それぞれにコンロを用意して
あらかじめ起こしてもらっていた
炭を分け合ってセルフ焼肉開始です

本来なら同じ鉄板を囲みたいところだけれど
ここはソーシャルディスタンス






写真に撮ると
なんだかガランとした感じですが
楽しく盛り上がりました( ^ω^ )



真ん中にある焦げたパンのようなものは
ホイルに包んで炭に埋めておいた玉ねぎ
甘く柔らかく仕上がりました


片付けもそこそこに
園舎の一室で
1日神学校受信開始
こちらでもソーシャルディスタンス
慌ただしくも充実した1日となりました

2020年11月2日月曜日

先人達の信心(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・全聖徒の日の礼拝(2020年11月1日)
ヨハネ黙示録 7:16-17 ヨハネの手紙Ⅰ 3:2 マタイ福音書23:1-12

 人は生まれて出生届を出すと戸籍ができます。教会にも教籍簿という書類があり、洗礼を受ける教籍簿に名前が掲載されます。引越しや結婚その他の事情で他の教会に移ると「転籍」と記載されます。この世を去って天に召されると、その日が召天日として記されます。教籍簿は教会の戸籍なのです。

 飯田教会の100年を超える歴史の中で受洗したのは776名。そのうち、教籍簿に召天日がきちんと記されているのは、110人でした。多くの方が転籍届けもないところを見ると、人生の途中で教会から離れていったようです。家族の中でたった一人のクリスチャンで、身内の方が届けを出せなかった可能性もありますが、クリスチャンとして生涯を全うすることがいかに難しいかわかるような気がします。


 さて、福音書に登場する律法学者やファリサイ人たちは、イエス様とことごとく敵対する、頭の固い人々のように描かれています。しかし彼らは、もともとは神様のからの教えを人々に説いて聞かせ、民族を導く役割を与えられていました。

 イスラエル民族は、神様から愛され守られてきました。それは彼らが他の民族に比べて特別に優秀だったとか、特別に信心深かったとかいう訳ではなく、神様の側に100パーセント理由がありました。神様ご自身が、小さな群れを選び、導びき、教養を与え、民族として成長させたのです。旧約聖書にはその過程がしっかりと記録されています。

 律法学者やファリサイ派の人々は豊かな聖書知識を持ち、その内容を国民に教えるエリート集団でした。ですからイエス様は群衆と弟子たちに「律法学者やファリサイ派の人々の言うことは、すべて行い、守りなさい」と言われました。しかし続けて言われたのは「彼らの行いは見倣ってはならない」という厳しいお言葉でした。これは律法学者やファリサイ派の人々は言っていることとやっていることが違っている、という意味に理解できます。

 イエス様は、彼らの信仰的な態度は人に見せるためのパフォーマンスに過ぎない、と見抜いておられました。例えば「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」という表記があります。ユダヤの民は、聖書の教えの書かれた紙を箱にいれ、腕に巻く習慣があったようです。それを人に見せようとしてだんだんだんだん大きしていったのです。

 もう一つ、衣服の房というものがあります。ユダヤではこの房には、「主のいましめを思い起こす」という意味が込められており、イエス様もご自分の衣服に房をつけられました。福音書には長い間病に苦しんでいた女性が、イエス様の服の房に触れて癒される、という描写があります。

 しかしその房を、人に見せるためにより大きく、より長くしたのがファリサイ人達だったのです。つまり「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」というのは、見せかけの信仰に陥っている人々を表す言葉だったのです。

 イエス様は続けて、「先生と呼ばれることを好むな」と言われます。先生と呼ばれることに慣れてしまうと、自分をひとかどのものと勘違いして偉そうに振る舞うようようになるから、先生と呼ばれることに酔ってはいけない、と言われたのです。

 社会的に「偉い人」「先生」と呼ばれる人ほど、自分を戒め、謙虚になる必要がある、とイエス様は教えられました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」とおっしゃったのです。

 イエス様は十字架に掛かる前の日、最後の晩餐が始まる前に弟子の足を洗われました。足を洗うと言う仕事は本来なら使用人がする者でした。それを神の御子がなさったのです。イエス様は、ファリサイ人や律法学者のように「言うこととやってることが違う」方ではありませんでした。仕える者、僕になることを厭わなかったのです。

 その究極のお姿が、十字架の上で命を落とされることでした。人間は自分一人の力では決して純粋な「仕える者」にはなれない、だからこそ、私に倣いなさい、共にいて教え導き、力を与えてあげるから、とおっしゃるのです。


 この教会が誕生した120年前、ここに集まった先人達は、病める人や虐げられた人を救い、町の雰囲気を変えるまでの信仰があったことが記録されています。ここに神学校を創るほどの勢いもありました。

 しかし、その後は、時代の変化の中で、多くのものを失いました。残された数々の写真を見ていると、こんな良い時代もあったのだな、と思われるかもしれません。長くこの教会におられる方は、伸び悩んでしまった原因など思い当たるかもしれず、気持ちが沈むかもしれません。しかし私たちが素直な心で祈りを重ね、イエス様の導きに従うならば、今一度一人一人に与えられている役割が見えてくるはずです。

 本日はここに遺影が飾られた人々だけでなく、かつて洗礼を受け天に召された数多くの人々と礼拝を共にしています。今は地上と天の国に分かれていますが、いつの日か神の国、天国で再会するでしょう。その時まで、一人一人が神に愛された者としての歩みを積み重ねてまいりましょう。



11月の掲示板内のレゴは
恐竜の化石(骨格標本?)
園児たちが博物館に見学に来た
という設定です

「先生すごい!」とお褒めの言葉を
いただきましたが
実はキットですから、根気さえあれば
誰でも作れますよ、念の為( ^ω^ )