2019年3月11日月曜日

説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20章1~18節)


説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20118節)

 今年もイースターを共々に祝えますことを心から感謝しています。主ご復活の喜びを、ヨハネ福音書第20章1節から18節までを通して、しばらくご一緒に味わってみたいと思います。
 マグダラのマリアは、七つの悪霊を主イエスによって追い払っていただいた女性で、主イエスの一行に従って、エルサレムにやって来た女弟子たちのうちの一人でした。ヨハネ福音書によれば、彼女は週の初めの日、すなわち、安息日の終わった一日目のまだ暗いうちにやって来て、主イエスの納められていた墓の石が取りのけてあるのを目にします。そして、シモン・ペトロともう一人の主が愛された弟子のもとに走って行って告げます。だれかが、主イエスを運び去りましたと。
 ペトロともう一人の弟子は墓へと出かけ、走りますが、主の愛された弟子の方が速く走り、先に着きます。彼は墓を覗き込みますが、中には入りません。続いて着いたペトロは中に入り、主イエスの着せられていた亜麻布と、それとは別のところにたたまずに置いてある顔覆いを目にします。そして、続いて中に入った別の弟子は、見て、信じたとありますが、彼らは、主が復活することになっているという聖書をまだ知らなかったからであると記されています。弟子たちは空の墓にぶつかり、更に、復活の主が彼らに何度も顕現することを通して、初めて主の復活を信じるに至るのであります。
 さて、その後、マリアは墓に戻って、主イエスのことを思って泣いていました。墓とは、地上の生の一切が無に帰するところであり、しかも主イエスの体まで奪われ、虚脱感に包まれていたからであります。そして、彼女が不意に墓を覗き込むと、二人の天使が、主イエスの遺体が置かれてあった頭の部分と足の部分に座っているのが見えます。天使の二人は、なぜ泣いているのかと尋ねると、マリアは、人々が彼を運び出しました、彼らがどこに置いたのか私には分かりませんと答えます。そして振り向くと、主イエスが立っておられるのが目にとまりますが、彼女は主とは分かりません。主は、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのかと聞きますが、彼女は園丁だと思って、もしあなたが運び去ったのであれば言ってください、私が引き取りますと言います。
 主はその時、「マリア」と呼びかけるのです。そして、マリアは「ラボニ」(先生)と言葉を返します。亀井勝一郎氏は、故人の声を思い出す者こそ、故人を最も愛した人であると書いていますが、マリアは、復活の主から名前を呼ばれて初めて、主イエスであることを知るのです。マリアは、主イエスに触れようとすると、主は私に触れないように、私はまだ父のもとに昇ってはいないのだからと言われます。そして、私の兄弟たちのところに行って言いなさい。「私は私の父、そしてあなた方の父、私の神、そしてあなた方の神のもとに昇る」と。福音書記者ヨハネにとって、主イエスが十字架に上げられ、苦しみを受け、また、天に上げられることは、栄光なのであります。上から来た者以外に、上に上げられる者はいないのであり、その方以外に、私どもを天に上げることのできる者はいないのであります。
ある介護施設で暮らしている、既に90歳を超える高齢の姉妹は、自分が教会につながり、洗礼を受け、不思議な救いの道に与ったことを感慨深げに話され、別れ際に、「復活があるということを納得させられなければ、人々を主キリストにつなぐことは不可能です。その肝心なところを、先生、ぜひとも人々にお伝えください」と遺言のように語ってくださいました。主イエスから、じかに語りかけられたマリアは、もはや以前のマリアではありませんでした。復活の主との新しい関係が始まり、マリアは教会で最初のキリストの伝道者へと変えられたのであります。そして、マリアからその知らせを聞いた弟子たちもまた、この後幾度も復活の主にまみえることを通して、復活の命、永遠の命を証しする者とされていくのであります。アーメン。

2019年3月6日水曜日

説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20章1~18節)


説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20118節)

 今年もイースターを共々に祝えますことを心から感謝しています。主ご復活の喜びを、ヨハネ福音書第20章1節から18節までを通して、しばらくご一緒に味わってみたいと思います。
 マグダラのマリアは、七つの悪霊を主イエスによって追い払っていただいた女性で、主イエスの一行に従って、エルサレムにやって来た女弟子たちのうちの一人でした。ヨハネ福音書によれば、彼女は週の初めの日、すなわち、安息日の終わった一日目のまだ暗いうちにやって来て、主イエスの納められていた墓の石が取りのけてあるのを目にします。そして、シモン・ペトロともう一人の主が愛された弟子のもとに走って行って告げます。だれかが、主イエスを運び去りましたと。
 ペトロともう一人の弟子は墓へと出かけ、走りますが、主の愛された弟子の方が速く走り、先に着きます。彼は墓を覗き込みますが、中には入りません。続いて着いたペトロは中に入り、主イエスの着せられていた亜麻布と、それとは別のところにたたまずに置いてある顔覆いを目にします。そして、続いて中に入った別の弟子は、見て、信じたとありますが、彼らは、主が復活することになっているという聖書をまだ知らなかったからであると記されています。弟子たちは空の墓にぶつかり、更に、復活の主が彼らに何度も顕現することを通して、初めて主の復活を信じるに至るのであります。
 さて、その後、マリアは墓に戻って、主イエスのことを思って泣いていました。墓とは、地上の生の一切が無に帰するところであり、しかも主イエスの体まで奪われ、虚脱感に包まれていたからであります。そして、彼女が不意に墓を覗き込むと、二人の天使が、主イエスの遺体が置かれてあった頭の部分と足の部分に座っているのが見えます。天使の二人は、なぜ泣いているのかと尋ねると、マリアは、人々が彼を運び出しました、彼らがどこに置いたのか私には分かりませんと答えます。そして振り向くと、主イエスが立っておられるのが目にとまりますが、彼女は主とは分かりません。主は、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのかと聞きますが、彼女は園丁だと思って、もしあなたが運び去ったのであれば言ってください、私が引き取りますと言います。
 主はその時、「マリア」と呼びかけるのです。そして、マリアは「ラボニ」(先生)と言葉を返します。亀井勝一郎氏は、故人の声を思い出す者こそ、故人を最も愛した人であると書いていますが、マリアは、復活の主から名前を呼ばれて初めて、主イエスであることを知るのです。マリアは、主イエスに触れようとすると、主は私に触れないように、私はまだ父のもとに昇ってはいないのだからと言われます。そして、私の兄弟たちのところに行って言いなさい。「私は私の父、そしてあなた方の父、私の神、そしてあなた方の神のもとに昇る」と。福音書記者ヨハネにとって、主イエスが十字架に上げられ、苦しみを受け、また、天に上げられることは、栄光なのであります。上から来た者以外に、上に上げられる者はいないのであり、その方以外に、私どもを天に上げることのできる者はいないのであります。
ある介護施設で暮らしている、既に90歳を超える高齢の姉妹は、自分が教会につながり、洗礼を受け、不思議な救いの道に与ったことを感慨深げに話され、別れ際に、「復活があるということを納得させられなければ、人々を主キリストにつなぐことは不可能です。その肝心なところを、先生、ぜひとも人々にお伝えください」と遺言のように語ってくださいました。主イエスから、じかに語りかけられたマリアは、もはや以前のマリアではありませんでした。復活の主との新しい関係が始まり、マリアは教会で最初のキリストの伝道者へと変えられたのであります。そして、マリアからその知らせを聞いた弟子たちもまた、この後幾度も復活の主にまみえることを通して、復活の命、永遠の命を証しする者とされていくのであります。アーメン。

2019年2月28日木曜日

説教「心から信じるとおりに」(ルカ福音書第7章1節~10節)


2019224日、顕現節第8主日礼拝(―典礼色―緑―)、列王記上第841-43節、ガラテヤの信徒への手紙第11-10節、ルカによる福音書第71-10節、讃美唱117(詩編第1171-2節)

説教「心から信じるとおりに」(ルカ福音書第71節~10節)

 主イエスは、平地の説教において、民衆の耳へとすべてのそれらの言葉を満たした後、本拠地であったカファルナウムの町へお入りになりました。そして、このカファルナウムに、一人の百人隊長がいて、その奴隷である信頼していた部下が重い病気であり、死にかかっていました。
 この百人隊長は、主イエスのことを聞き、ユダヤ人の長老たちを、主イエスのところへ死者たちとして送りました。
 そして、長老たちは言うのです。「あの方は、あなたがその部下を救ってあげる価値があります。なぜなら、彼は、私たち国民を愛しており、私たちのために会堂を建ててくれたからです」と。
 それで、主イエスは、彼らと共に彼の家に向かって進んで行きます。ところが、彼らが彼の家に既に近づいたとき、百人隊長は、今度は、友達たちを使いに出して言うのです。「主よ、煩わされないでください。私は、あなたを私の家の屋根の下にやって来られるのには、値打ちがない者です。だから、私自身が会いに行くのもふさわしくないと考えたのです。
 ただお言葉を言ってください、そして、私の僕は癒されよ。なぜならば、わたしも権威の下に配列されている者ですが、私の部下のある者に、向こうに行けと言えば、彼は行きます。別の者に、こちらへ来いと言えば、彼は来ます。
 また、私の部下に、これをしなさいと言えば、彼はそうするのです」と。
 百人隊長は、ヘロデ・アンティパスの下で、百人の兵隊を与えられていて、警備をしたり、関税を守ったりする仕事を与えられていました。
 兵士たちは、百人隊長の命令に従わないと、命の危険にもさらされます。ですから、兵士たちは、百人隊長の命令にしっかりと従わねばなりませんでした。この百人隊長は、ユダら人たちからも尊敬され、主イエスによって、その重病の死にかかっている、価高い部下、しもべを救ってもらうのに価すると、主イ
エスに助けを懇願したのです。
 けれども、その百人隊長は、異邦人であって、心の低い、慎ましい人でした。自分は、異邦人でもあり、神を畏れる者ですが、主イエスよ、あなたに、私の家の屋根の下に来ていただく値打ちはない者です。ただお言葉を言ってください。そして、私の僕は癒されよと、友達を遣わして、伝えたのです。
 主イエスは、この言葉を聞いたとき、驚き、感心して言われます。
 「言っておくが、イスラエルの中でも、このような信仰は、私は見たことがない」と。
 主イエスは、そのお言葉によって、その通りにすることができると、この百人隊長は信じたのです。そのような信仰は、神さまが、この百人隊長に働いた結果、生まれたものです。私たち、日本人も、韓国の人も、主イエスの生まれたイスラエルから見れば、今日の百人隊長と同じ異邦人、外国人でありました。
 しかし、神さまが与えられる信仰によって、私たちも、イスラエルの国の人たち、主イエスの国の人と同じように、神の救いに与ることができます。
 どこの国の人でも、主イエスさまから、あなたの信仰は見上げたものだとほめていただくことができます。
 人から見れば、今日の百人隊長は、ユダヤの人々を愛し、その会堂、シナゴーグまで建ててくれた、主イエスに助けてもらうに値する人でした。しかし、この百人隊長は、私の家の屋根の下に入ってもらうには、私は価しない者です。あなたのところへ自分から出かけてお願いするのも、ふさわしくないと思ったと、友達に伝えさせています。
 このような信仰を、神さまが、この百人隊長に与えてくれました。私たちが主イエスを信じることは、神さまからのプレゼントであります。主イエスはこの人の慎ましく、控えめな信仰をほめられます。神さまがこの百人隊長の信仰を与えてくださったのです。
 私たちも、主イエスを救い主と信じていますが、そこではもはや、古い人も新しい人も、男も女もありません。
 百人隊長と、主イエスとは、結局、実際に顔と顔とで出会って話すことはありませんでした。百人隊長が送った、ユダヤ人の長老たちや、二度目に送った友達たちが戻ってみると、その危篤だった僕は、既に元気になっていたのでした。
 今日の百人隊長の物語は、私たちにも与えられている神さまからの贈り物です。
 こうして、世界中の人々に、神さまは、主イエスによってほめられる信仰を与えてくださいます。私の家の屋根の下に、主イエスよ、私はあなたをお迎えできるような値打ちのある者ではありませんと、私どもも、お友だちを通して伝えるような信仰を求め祈りたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2019年2月21日木曜日

説教「師のように整えられるなら」(ルカ福音書6:37-49)


2019217日、顕現節第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第71-7節、コリントの信徒への手紙第1512-20節、ルカによる福音書第637-49節、讃美
62/1(詩編621-8

説教「師のように整えられるなら」(ルカ福音書637-49

 「平地の説教」と呼ばれる部分の最終回を、顕現節第7主日の今日、迎えています。ルカ福音書第6章37節から49節を、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

まず、主イエスは「裁くな、そうして、あなた方が裁かれないためである」。「罪に定めるな、そうして、あなた方が罪に定められないためである」と言われ、続いて、肯定的に、「赦免してやりなさい、そうすれば、あなた方も赦免される。」「与えよ、そうすれば、あなた方も与えられる。人々は、押し下げられている、揺すぶられている、溢れさせられている量りに対して、量りで、あなた方の懐へと与えてくれるであろう。あなた方の量る量りで量り返されるからである」と言っておられます。人々が、私どもの量る量りで、もっと豊かに量り返してくれるというのですが、これらのことは、いずれも、神が十分に報いてくださると、主イエスは約束してくださっているのであります。

 そして、そこから、新しい段落へ、新しく展開されるテーマへと移り、主イエスは、以下のような譬えを言われるのであります。
 
盲人、目の不自由な人が、目の不自由な人を案内することができようか、二人とも穴に落ちてしまうのではないかと。そして、弟子は、その師以上の者ではない。で、十分に訓練されれば、すべての者は、師のようになるであろうと。
 これは、主イエス御自身と、その弟子たちのことを言っているのであります。主イエス以外を師として持つことは、両方とも穴に陥ることになるが、主イエスに従っていくとき、間違いはありません。
 
そして、私どもは、修行を十分に積めば、だれもが師のようになるであろうと訳されていますが、これは、十分に整えられ、備えられ、あるいは、漁師たちが網の手入れをするように、繕われ、補われれば、という意味であります。
 主御自身が、あなた方が従ってきて、整えられるなら、私のようになるだろうという驚くべき言葉であります。
 
もちろん、僕は、主人にまさるものではなく、主人に似た者になれば、十分としなければなりません。そして、この言葉は、ペトロや12使徒に対してだけ、言われているのではなく、この言葉を聞いている私ども、弟子のすべてに言われているのであります。
 
それから、次の言葉に移ります。あなたは、自分の兄弟の眼における小さなおが屑を見て、なぜ自分の眼にある丸太、あるいは梁を認めないのかと言われるのであります。幼少の頃、近くの山の生えている樫の木などの葉っぱを取って来て、その小さな葉の付け根の枝の木片を、自分の眼の上下に、曲げて付けて、仲間同士で互いに顔を見合わせて面白がった経験を思い出します。
 
相手の付けている小さなその木片はおかしくて吹き出すのですが、自分の姿には気が付きません。主イエスは、あなたの眼には、丸太があるのに、なぜあなたが、そのことを考えないのかと言われます。そして、偽善者よ、自分の眼の中にある丸太は見ないでおいて、どうして兄弟よ、あなたの眼の中にあるおが屑、あるいは塵を取り除かせてくれと言えるのか。
 
まず、あなたの眼の中の丸太を取り除け。そうすれば、よく見えるようになって、兄弟の眼からも、塵を取り除けようと言われます。
 私どもは、自分の短所、欠点あるいは落ち度は認めようとしないで、厚かましくも、相手の落ち度、足りないところを改善してあげようと言う。それは、神の考えられる思いとは反しており、私たちの本来あるべき姿にも反している偽善者であると、主イエスは鋭く指摘なさるのであります。
 
そして、訳されてはいませんが、もとの文では、「なぜならば」と続きます。良い木が悪い実、品質の悪い実をつけることはなく、悪い木が見事な実をつけることもないと言われます。
 
そして、茨から、人々はいちじくを、また、ばらの中からぶどうを収穫するだろうか。そのもたらす実から、その人が善い人かどうかはわかるのであり、まずは、良い木になること、信仰を与えられねばならず、そこから、否が応でも、良い行為が出て来るのであるというのです。
 
私たちが師である主イエスに従って、まず悔い改め、主イエスのように整えられねば、兄弟の眼にあるおが屑を考え、自分の眼にある丸太を見ないという生き方を変えることはできないと、主は言われるのであります。
 そして、さらに、善い人は、心の良い倉から、良いものを取り出し、悪い人は、心の悪いところから悪いものを取り出す。そして、なぜなら、心の溢れるところから、彼の口はしゃべるからであると言われます。
 
私どもの言葉は、心の中で思っていることをついて出てくるものであります。良い言葉を吐き、悪い言葉が口から出ないようになるためには、心の良い倉を持たなければなりません。
 
そして、良い行いと良い言葉が、自然に伴ってくるためには、まず、自分の眼の中にある丸太に気づくことがまずなければならず、それを、主イエスが自らの十字架の丸太によって取り除いてくださったことを、私どもは知らなければならないのではないでしょうか。
 
そして、いよいよ、最後の譬えの段落へと進みます。
 
あなた方は、私を主よ、主よと呼びながら、どうして私が語る言葉を行わないのかと、主は、私ども聞いているすべての者に問いかけられます。
 
ペトロは、大量の魚の捕獲があった主からの召命の時に、「主よ、私から離れてください、私は罪深い者ですから」と告白し、また、ルカによる福音書においては、その直後に、重い皮膚病の人も、「主よ、み心ならば、私を清くすることがおできになります」と訴えました。

しかし、私どもは、主イエスを「主よ、主よ」と呼ぶのみならず、主のみ言葉を行う者とならなければなりません。
 
そして、主は、主のみ言葉を聞き、それらを行う者と、聞くのみで行わない者とを、次の譬えで教えてくださいました。

前者は、地面を掘り、さらに深く進んで行って岩の上に基礎を置いて家を建てた人に似ている。洪水が起こり、その家に突然川が現れたが、それを揺るがすことはできなかった、見事にそれは建ててあったからだと。
 
私どもの人生には悩みの洪水が襲いかかります。しかし、そのような信仰の上に堅く建てられた家は、動揺することがありません。思わぬ時に、困難や悩みの嵐が吹きつけることは避けられませんが、イエス・キリストという土台の上に建てられ、主のみ言葉を行う人は、心配するには及ばないと主は家われるのです。
 
それと反対に、私の言葉を聞くだけで、それらを行わない人は、地面の上に、基礎もなく家を建てた人に似ていると、主は言われます。突然川が現れると、その家はバラバラになって倒れた。そしてその崩れ方は大きく起こった。それは、骨の継ぎ目がはずれて、体が立ち行かなくなったという意味の言葉が使われています。この家を建てる人の譬えで、平地の説教は終わっているのであります。
 
私どもは、人を裁かず、そしてまた、自分の眼にある丸太を、主イエスによって取り除かれ、主のお言葉を一つ一つ聞き、それらを生活の中で実践していくときに、主によって、備えられ、補われ、整えられて、死である主イエスのように、すべての弟子が成長できるのであります。
 
そして、あらゆる人生の洪水、嵐を乗り越えて歩んでいくことができるのであります。
 
祈りましょう。

 天の父なる神さま。私どもは、人を裁きやすく、また、おのれの眼にある丸太には気が付きにくいものであります。主は、しかし、そのような私どものために、私どもの眼にある丸太に代わって、十字架の丸太に架かってくださいました。また、主は、私どもが、悩みや苦しみの洪水に出会っても、揺るがぬ岩の上に建てられた家となって下さいました。
 そして、良き行いがもたらされるためには、良い信仰がまず与えられなければならないことを教えてくださいました。そして、そのうえで、主イエスのお言葉に聞くのみならず、そのお言葉を行うように命じておられます。そして、主は、十分に私どもが整えられるなら、師である主イエスのようになれると、絶望せず、み言葉に聞き続け、礼拝につながり続けるように教えておられます。
  主イエスのもとに、とどまり続けるように、どうぞ、弱い私どもの一人一人を憐れんでください。主の御名によって祈ります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2019年2月4日月曜日

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)


2019127日、顕現節第4主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第19-12節、コリントの信徒への手紙一第1212-26節、ルカによる福音書第51-11節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)

今日は、この後、飯田教会総会を控えています。この総会の主の日に、まことにふさわしく、シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブ、ヨハネが、主イエスによって、弟子として召し出された記事が与えられましたことは、偶然とは思えないのであります。神さまの不思議な導きがあって、この記事に遭遇しているように思うのです。 さて、この記事は、どういう場面かと言いますと、ナザレでの説教もあり、主イエスがカファルナウムに落ち着いて、シモンのしゅうとめの熱を癒したり、ガリラヤやユダヤ近域の町々村々を行き巡って、主は神の国を宣べ伝えておりました。そして、再び、ゲネサレト湖のほとりにおられたときに起こったことには、群衆が、神の言葉を聞こうと、主イエスのもとに押し迫っていたのであります。主イエスは、海に沿って2そうの小舟を見出し、その一つは、シモンの持ち舟であったのですが、それに乗せてくれるように、そして、少し岸辺から漕ぐように、頼んだのであります。彼らは漁を終えて、網を洗っていたところでした。そして、主イエスは、その小舟に座って、岸辺の群衆に向かって語られた。そのあと、シモンに向かって、深みに漕ぎ出して、網をたれ、漁をするように勧めたのですが、シモンは、先生、私たちは夜通し、漁をしたが一匹もとれませんでした。しかし、お言葉ですからやってみましょうと応えて、その通りにしたのです。すると、どうでしょう、その網にはあまりにも多くの上がかかり、破れそうになります。それで、もう1隻の仲間に合図して助けてくれるようにしますと、2そうの舟は魚で一杯になり、沈みそうになります。シモン・ペトロは、このとき、「私は罪深い人間です、私から離れてください、主よ」と主の足もとにひれ伏します。漁の魚のあまりの多さに、怖れが彼を、また、仲間たちを取り囲んでいたとあります。主イエスは、恐れることはない、あなたは、今から後、人間どもをすなどる、すなわち、生け捕りにするものとなろうと約束なさったのであります。彼らは、舟を陸に上げた後、すべてのものを後に残して、主イエスに従ったのであります。シモンは、完璧な人物ではありませんでした。弱さをも兼ね控えている漁師でありましたが、主イエスによってこの時から、人々を、神の国へと、また福音へと招きだし、釣りだす漁師へと変えられたのであります。そして、私どもも、賜物、また各持ち場こそ違え、人々を教会に招く漁師とされていることを覚えたいものです。2019年度の総会に当たって、それに思いを致し伝道を支え合いつつ。

2019年1月29日火曜日

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)


2019127日、顕現節第4主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第19-12節、コリントの信徒への手紙一第1212-26節、ルカによる福音書第51-11節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)

今日は、この後、飯田教会総会を控えています。この総会の主の日に、まことにふさわしく、シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブ、ヨハネが、主イエスによって、弟子として召し出された記事が与えられましたことは、偶然とは思えないのであります。神さまの不思議な導きがあって、この記事に遭遇しているように思うのです。 さて、この記事は、どういう場面かと言いますと、ナザレでの説教もあり、主イエスがカファルナウムに落ち着いて、シモンのしゅうとめの熱を癒したり、ガリラヤやユダヤ近域の町々村々を行き巡って、主は神の国を宣べ伝えておりました。そして、再び、ゲネサレト湖のほとりにおられたときに起こったことには、群衆が、神の言葉を聞こうと、主イエスのもとに押し迫っていたのであります。主イエスは、海に沿って2そうの小舟を見出し、その一つは、シモンの持ち舟であったのですが、それに乗せてくれるように、そして、少し岸辺から漕ぐように、頼んだのであります。彼らは漁を終えて、網を洗っていたところでした。そして、主イエスは、その小舟に座って、岸辺の群衆に向かって語られた。そのあと、シモンに向かって、深みに漕ぎ出して、網をたれ、漁をするように勧めたのですが、シモンは、先生、私たちは夜通し、漁をしたが一匹もとれませんでした。しかし、お言葉ですからやってみましょうと応えて、その通りにしたのです。すると、どうでしょう、その網にはあまりにも多くの上がかかり、破れそうになります。それで、もう1隻の仲間に合図して助けてくれるようにしますと、2そうの舟は魚で一杯になり、沈みそうになります。シモン・ペトロは、このとき、「私は罪深い人間です、私から離れてください、主よ」と主の足もとにひれ伏します。漁の魚のあまりの多さに、怖れが彼を、また、仲間たちを取り囲んでいたとあります。主イエスは、恐れることはない、あなたは、今から後、人間どもをすなどる、すなわち、生け捕りにするものとなろうと約束なさったのであります。彼らは、舟を陸に上げた後、すべてのものを後に残して、主イエスに従ったのであります。シモンは、完璧な人物ではありませんでした。弱さをも兼ね控えている漁師でありましたが、主イエスによってこの時から、人々を、神の国へと、また福音へと招きだし、釣りだす漁師へと変えられたのであります。そして、私どもも、賜物、また各持ち場こそ違え、人々を教会に招く漁師とされていることを覚えたいものです。2019年度の総会に当たって、それに思いを致し伝道を支え合いつつ。

2019年1月22日火曜日

説教骨子「今日そのみ言葉は実現した」(ルカ福音書第4章16節-32節)


2019120日、顕現節第3主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第14-8節、コリントの信徒への手紙一第121-11節、ルカによる福音書第416-32節、讃美唱119/2(詩編第1199-16節)

2019120日、顕現節第3主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第14-8節、コリントの信徒への手紙一第121-11節、ルカによる福音書第416-32節、讃美唱119/2(詩編第1199-16節)


説教骨子「今日そのみ言葉は実現した」(ルカ福音書第4章16-32節)

顕現節第3主日となり、先週までの白から緑に、教会暦で用いる色も変わりました。緑の時期に、私どもは、主イエスの語られたみ言葉となされたみ業を順次聞いていきます。今日の個所は今年になって初めての緑の季節に、主イエスが、育ったナザレで、ヨルダン川で洗礼を受け、続いて、荒れ野で霊によって40日間の試みを受け、故郷ナザレの会堂における、公生涯に入って初めての説教が記されています。一年の始めのこの時期に、主イエスが礼拝において語られた説教をご一緒に学んでスタートを切れますことはまことに幸いであります。いつものように主は、安息日に会堂に入って来られ、係りの者からイザヤ書の巻物を受け取られ、開いて、第61章の1節、2節の個所を見出されます。「主の霊が私に向かってある、主がわたしに油を注がれたからである。貧しい者に福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、盲人たちには視力の回復を、踏みにじられている者たちを自由にして送り出すために、主がわたしを遣わされたからである。そして、主のご好意の年を告げるためである。」主イエスは、朗読を終えると係りの者にその巻物を巻いて返し、お座りになります。会堂にいるすべての者の目が彼を凝視していたとあります。すると、主は、「この聖書のみ言葉は、今日、あなた方の耳において満たされた」と言われて、説教を始めたとあります。そして、すべての者は、彼に好意的に証言し、主イエスの口から出る恵みの言葉に驚いていたとあります。しかし、「これは、ヨセフの息子ではないか」と語っていたと続いています。郷里の人々は、主イエスの出自、人間的な側面に思いを寄せて、賛嘆から訝しむことへと移るに至るのであります。主イエスは、それを見て、お答えになられ、「あなた方は、『医者よ、自分自身を癒せ』ということわざを引いて、あなた方は、カファルナウムで私がしたことと聞いていることどもを、ここ故郷でもしてくれと言うだろう。しかし、まことに言っておくが、預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ。エリヤは、干ばつが3年6カ月続いたときに、イスラエルのやもめの下にではなく、サレプタのやもめのところにだけ遣わされ、エリシャは、シリア人ナアマンの重い皮膚病を癒したのみであったと告げます。彼らは、心を開き主なる神に対して従順であったからであります。ナザレの人々はこれを聞いて、イエスを殺そうとさえします。だが私たちは、毎週、この日の主イエスが説かれた、あなたたちの罪は赦されているとの礼拝につながり続けたいものです。

顕現節第3主日となり、先週までの白から緑に、教会暦で用いる色も変わりました。緑の時期に、私どもは、主イエスの語られたみ言葉となされたみ業を順次聞いていきます。今日の個所は今年になって初めての緑の季節に、主イエスが、育ったナザレで、ヨルダン川で洗礼を受け、続いて、荒れ野で霊によって40日間の試みを受け、故郷ナザレの会堂における、公生涯に入って初めての説教が記されています。一年の始めのこの時期に、主イエスが礼拝において語られた説教をご一緒に学んでスタートを切れますことはまことに幸いであります。いつものように主は、安息日に会堂に入って来られ、係りの者からイザヤ書の巻物を受け取られ、開いて、第61章の1節、2節の個所を見出されます。「主の霊が私に向かってある、主がわたしに油を注がれたからである。貧しい者に福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、盲人たちには視力の回復を、踏みにじられている者たちを自由にして送り出すために、主がわたしを遣わされたからである。そして、主のご好意の年を告げるためである。」主イエスは、朗読を終えると係りの者にその巻物を巻いて返し、お座りになります。会堂にいるすべての者の目が彼を凝視していたとあります。すると、主は、「この聖書のみ言葉は、今日、あなた方の耳において満たされた」と言われて、説教を始めたとあります。そして、すべての者は、彼に好意的に証言し、主イエスの口から出る恵みの言葉に驚いていたとあります。しかし、「これは、ヨセフの息子ではないか」と語っていたと続いています。郷里の人々は、主イエスの出自、人間的な側面に思いを寄せて、賛嘆から訝しむことへと移るに至るのであります。主イエスは、それを見て、お答えになられ、「あなた方は、『医者よ、自分自身を癒せ』ということわざを引いて、あなた方は、カファルナウムで私がしたことと聞いていることどもを、ここ故郷でもしてくれと言うだろう。しかし、まことに言っておくが、預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ。エリヤは、干ばつが3年6カ月続いたときに、イスラエルのやもめの下にではなく、サレプタのやもめのところにだけ遣わされ、エリシャは、シリア人ナアマンの重い皮膚病を癒したのみであったと告げます。彼らは、心を開き主なる神に対して従順であったからであります。ナザレの人々はこれを聞いて、イエスを殺そうとさえします。だが私たちは、毎週、この日の主イエスが説かれた、あなたたちの罪は赦されているとの礼拝につながり続けたいものです。