2018年10月20日土曜日

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第10章1節~16節)


20181014日、聖霊降臨後第21主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第218-24節、ヘブライ人への手紙第25-9節、マルコによる福音書第101-16節、讃美唱128(詩編第1281-8節)

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第101節~16節)

 今日もまた、聖霊降臨後第21主日の聖書個所として、旧約聖書は創世記第2章から、使徒書はヘブライ人への手紙の第2章から、さらには、讃美唱として詩編第128編があたえられ、今日の福音マルコによる福音書第101節から16節までにふさわしい聖書個所がそれぞれ選ばれています。
 創世記の個所では、人がひとりでいるのはよくないと主なる神は言われて、最後に人のあばら骨を取って、ふさわしい助け手として女をお造りになられたとの記事が与えられていますし、ヘブライ人への手紙の個所では、今でも、主イエスにすべてのものが従っているのを、われわれはまだ見ていないが、その主は、私たちの罪のために死なれ、その死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠」を授けられたのを見ていますと記されており、主イエスが、これから、エルサレムに向かっての受難への旅の途上での、今日のマルコ福音書での主の教えであることを改めて指し示しています。
 讃美唱の詩編第128編も、私たちの礼拝では、朗読はまだなされていませんけれども、主を畏れる人の幸いを語り、その人の家庭は、家の奥に伴侶、妻が母親として、ぶどうの木のように食卓につき、子どもたちがその周りをオリーブの若木のように取り囲んでいる姿のように幸せと祝福に満ちていると歌っていて、今日の主イエスの教えに従うときの幸いにふさわしい詩編が与えられていると思います。
 
 さて、今日の福音は、前段は、結婚と離婚の問題が、テーマとなっていますが、それに続けて、子どもを祝福するというエピソードをめぐってであり、次週の福音は、これに続く財産と富に関わる問題がテーマとなっていて、主イエスは、これらの日常的な問題に対して、主イエスに従う弟子たちが、そして、同じ主の弟子である私たちが、これらの生きていくうえで、関りを持たざるを得ない出来事にどのように対処すべきかを、一つ一つ、主イエスが身をもって教えてくださったみ言葉が、このマルコによる福音書第10章に記されているのであります。その福音の中身について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、主イエスは、ユダヤの地域へと、そして、ヨルダン川の向こう岸へとやって来られます。これは、不思議な言い方であります。エルサレムのありますユダヤへとやって来られ、そしてまた、ヨルダン川の向こう岸であったペレヤという地域へと逆戻りしているようにも取れるのであります。ガリラヤから、南下してエルサレムに向かう途上で、再び、ヘロデ・アンチパスの領土でもあったペレヤへと舞い戻ることもあったのでしょうか。仮にそうだとすると、ヘロデ・アンチパスの敵意の中で、洗礼者ヨハネが、ヘロデヤとの結婚を非難して首をはねられた出来事を思い起こさせられます。そのような場所で、離婚をめぐる問答がなされたということかもしれません。

 主イエスは、そのような中で、いつものように、集まって来た群衆に向かって教えておられたのであります。マルコ福音書によれば、主はもはや、病人を癒すことはなさらず、弟子たちに教えること、群衆にも教えることのみに専念されておられました。そこに、ファリサイ派どもがやって来て質問するのであります。「離縁すること、離婚することは、律法に適っているでしょうか」と。本文には、律法という言葉はないのですが、彼らは、主イエスを罠にかけるために、この質問をしたのであります。離縁することは律法に適っていないと言えば、洗礼者ヨハネと同じ運命に立たされることにもなりかねないでしょう。律法に適っていると答えれば、離婚を大目に見て、姦淫の罪をも容易に赦してしまうことになり、これも窮地に立たされることになるでしょう。ファリサイ派どもは、すでに早い時期から、ヘロデ党と結託して、主イエスの命をねらっていたのであります。

 これに対して主は、モーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆に質問を返されるのであります。彼らは、彼は、離縁状を書いて、夫が妻を出て行かせることを許しましたと答えるのであります。これは、申命記第241節以下に記されているのであります。夫が妻に恥ずべきことがあるのを見出したなら、離縁状を書いて、妻に渡し、家を出させる。出させた以上は、別の男と再婚して後に、もとの夫の下に戻ることはできないなどと書かれているのであります。

 それに対して、主イエスは、それは、あなた方の心のかたくなさ、頑固さ、冷酷さに向かって、それに対抗して、モーセはまさにその命令を書いたのだとお答えになります。あなた方男の身勝手さに反対して、そう書き、命じたに過ぎないので、離婚することが、律法に適っていることではないのだと、主イエスはおっしゃられるのであります。実際、離縁状を持たせて、家から出させるのは、妻が離婚されたことを証明するためであり、再婚することができる身であることを証明するためであって、女性を守るために、モーセはいやいや認めたに過ぎないと言われるのであります。そして、主は、結婚がどういうものであるのかを、創世記の第2章から説かれるのであります。「創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それゆえ、人は父母を後にし、妻と一体となる。それゆえ、彼らは二人ではなく一つの肉である。」従って神が合わされたものを、人は離してはならないと。結婚は、人の身勝手さによって、縁を断ち切ることはできない神の創造なさった秩序であると言われるのであります。

さて、弟子たちは、家に再び入った後、主にこの問題をさらに立ち入って質問すると、主は、結婚している夫が妻を離縁し、別の女と再婚したならば、夫は離縁した最初の妻に対して姦淫を犯すことになる。妻が夫を離縁し、再婚するならば、妻は姦淫の罪を犯すことになると言われました。これは、当時では、夫が、別の女と姦通した場合は、その女の夫に対して姦淫の責めを負うと考えられていたのに対して、主は、自分の妻に対して姦淫の罪を犯したのだとされ、夫と妻は一体であることを徹底して捉えた結婚観であると言えましょう。

私どもは、このような結婚生活を送ることが、果たして可能なのでしょうか。現実の結婚生活とは、その長い間には、何度も危機が訪れるものではないでしょうか。その中で、悔い改めと神を見上げ、共に欠けたところを補い合って、それぞれの賜物を認め合いながら、支え合っていくときに、主のみ教えは、祝福への招きとして、大きな力を与えてくれるものとなるでしょう。
さて、後段のエピソードと主の教えに移りましょう。エルサレムへの旅の途上で、主イエスの下に、前段と同じように人々が集まり、主が教えておられたときのことでしょうか、人々が、子どもたちを、主イエスの下に触れてもらおうと連れてきます。ところが、弟子たちは、彼らを叱ってやめさせようとするのであります。

弟子たちは、エルサレムへの旅の途上で、何となく緊迫感にとらわれ、主イエスの教えておられるのを妨害するもののように感じて、親たちを叱ったのでしょう。ところが、逆に主イエスはそれを見て憤られ、叱りつけられたのであります。「子どもたちが来るのをそのままにしなさい、邪魔してはならない、神の国は、このような者たちのものである」と。弟子たちは、自分たちこそ、主イエスに最も近い者であり、子どもたちや、彼らを連れて来た親たちは、周辺の者であり、このようなときに主イエスにふさわしい者ではないと思って、この挙に及んだに違いありません。ところが、彼らの思いに反して、主イエスは、弟子たちに憤慨なさったのであります。それどころか、神の国、神の支配とは、このような者たちのものであると宣言なさるのであります。
この子どもたちとは、どのような存在でありましょうか。子どもたちは、自分の力だけではとても生きていけない、助けを必要とする者であり、そして、自分に与えられるものを、贈り物として喜んで受ける存在であります。

それに対して、大人は、自分の功績を誇り、自分こそは抜け駆けの競争をしてでも、偉い存在になりたいと心の底では追及してやまないところがあるのではないでしょうか。弟子たちは、主イエスの招きに応じて、すべてを捨てて、主に従った者たちでありました。しかし、主イエスに自分たちこそ最も近い存在であると自負し、あるいはお互いに、自分こそ主の一番近くにはべりたいとの欲求は捨てきれてはいませんでした。それに対して、主イエスは、ここでも、近づくエルサレムでの死を前にして、弟子たちを真の弟子にするために自分の存在をかけて、教え続けられるのであります。

そして、よく言っておくが、子どものように、神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはないと言われました。新しく生まれ変わる、水と霊とによって、上から生まれ変わらなければ、神の支配に与ることはできないと言われるのであります。今日の出来事の後にも、弟子たちは相変わらず、栄光のときの、主の座の左右を争い、主の教えを理解することに遅い者たちであります。そしてそれは、そのまま、今の私たちの現実でもあります。12弟子たちは、主によって教えられ続け、主のご受難と復活の後に、逃げまどった挙句、再び集められ、この日の主の言葉の真意をようやく理解してゆくのであります。

主は、そのように弟子たちに語られた後、子どもたちを抱きしめながら、彼らに向かって両手を置いて祝福なさると、最後に記されています。親たちは、自分の子供を触れてもらいたくて、有名な、霊的な力もあるとのうわさのもとで主イエスのそばに連れて来たのですが、主はその願いをはるかに超えて、自分から子どもたちを抱きしめて、恐らく一人一人順番に、頭に手を置き、祝福までしてくださったのであります。主イエスの祝福の下に子どもたちだけではなく、弟子たち一人一人も招いておられるのであります。そして、私たちもまた、その祝福に招かれている。今日の詩編第128編の主を畏れる人の家庭が祝福されているように、私たちの結婚も家庭も、主イエスの祝福のもとに。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。

2018年10月5日金曜日

―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語                どのように書かれ、読まれてきたか


―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語
               どのように書かれ、読まれてきたか
発行所 教文館
著者 ブルース・ゴードン 訳者 出村 彰
2017830日 初版発行
        定価:3200円(+税)
『キリスト教綱要』は言うまでもなく、宗教改革者ジャン・カルヴァンの代表的著作である。私共は、ルター派であり、昨年宗教改革500年を祝ったが、ルターと共に、宗教改革者としての彼の名は忘れられてはならない。私は、水俣教会に4年間牧師として在任したが、そこで出会ったチッソの研究所長さんの奥様は、日本基督教団の熱心な信徒であられた。ご主人は、ルーテル教会に深く傾倒されていたが、奥様は、教会を完成したのは、カルヴァンだと言われていたのを思い出す。
 今、私も「キリスト教綱要」を少しずつ読んでいるが、膨大な書物であり、その内容・骨格をつかむのは至難の業だと思う。ルターは、組織神学は打ち建てなかったと言われる。聖書を緻密に体系的にとらえたのは、カルヴァンなのであろう。ルターは、聖書講解でも、自分の気に入ったところを集中的に説いているのに対し、カルヴァンはほとんど聖書全体の講解を几帳面に残しているようである。
 さて、本書は、2017830日に、邦訳が初版発行されている。「キリスト教綱領」がどのように書かれ、読まれてきたかを、当初から現代世界に至るまで、広範な資料に基づいて、考察している。「キリスト教綱要」ほど、色々な評価がなされ、また世界に影響力を及ぼした書物は稀であることを、各時代の神学思想や歴史と突き合わせて、紹介している。宗教改革から500年の歩みの中で、この書がどのように読まれ、あるいは誤解され、多様に影響を与えて来たかを説いている。そして、それは、カルヴァン本人の信仰、神学、生活、行動力がいかに理解され、あるいは誤解され、今日に至っているかを物語っているのである。カルヴァンの神学について、私はあまり知らない。二重予定説や聖餐についての象徴説、また異端のセルベトをジュネーブ市参事会が火刑に処したことにカルヴァンが加担した出来事など、背景を知らずに聞かされて、その実体を知らずにいることも少なくない。特にルターとの対比において、カルヴァンを学ぶことも必要なのではないか。現在、アジアやアフリカでのキリスト
教の成長は著しいと言われ、そこでのカルヴァンの影響力は見過ごしにすることはできないと指摘されている。ルターの、どちらかといえば保守的な神学に対して、カルヴァンから学ぶべきところも大きいのではないか。一読に値する。

2018年9月9日日曜日

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ6:10-20)  


201892日、聖霊降臨後第15主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第41-8節、エフェソの信徒への手紙第610-20節、マルコによる福音書第71-15節、讃美唱15(詩編第15編:1-5節)

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ610-20
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方と共にあるように。 

今日は、第2朗読のエフェソ610-20のみ言葉から、ご一緒に聞いていきたいと思います。先週も言いましたように、エフェソの信徒への手紙は、今では、どうも使徒パウロが書いた手紙ではないと考えられています。
 
しかし、たとえ、パウロ本人が、直接、この手紙を書いたのではないとしても、それでこの手紙の価値が下がってしまうということにはならないと思います。

使徒パウロの名に託して、パウロの精神に立って、この手紙を、今のような形で残してくれたのは、それだけの重要性があったためだとも、考えることができるのでありまして、パウロが生きていたら、書き残してくれたであろう、大事なみ言葉を、パウロの流れを汲む者が、聖書として、私どもに書き記さざるを得なかったとも言えるのであります。
 
先週も言いましたように、本書の内容は、コロサイ書とよく似ています。コロサイ書を神学的により深め、より突っ込んで書かれていると言われます。
 
皆さまにも、今日お帰りになって、コロサイ書とエフェソ書とを、読み比べるようにして、じっくりと両方を読み返し味わっていただければと思います。
 
さて、今日のみ言葉は、まず、終わりに言うが、あなたがたは主において、彼の力の働きにおいて強められなさいと始まっています。私どもの信仰生活は、誘惑や悪魔・悪霊の力によって、絶えず揺さぶられるという霊的な戦いの中に置かれています。
 
それを、どのように克服し、打ち克っていくことができるのか、どのように武装し、防御し、あるいは反撃していけばよいのかが、ここに明瞭に記されているのであります。それは、私どもに自然に与えられている美徳や人間的な力ではとうてい克服することはできないのです。

 主において、主の強力な力において、強められ、そこから来る強く雄々しくなる生活となるのでなければ、とうてい太刀打ちできるものではないのです。

 エフェソ書の記者は、当時のローマ軍の兵士の装備と共に、特に旧約聖書に出て来る表現を十分に生かして、私どもがいかにサタンに対して、装備をすればよいのかを語っていきます。十分な神の武具によって強められるようにと奨めています。
 
さて、本文の内容について、もう少し深めて考えてみたいと思います。
 まず、この手紙の記者は、悪魔の策略に対して、神の武具を着るようにと奨めています。これは、見事な神の武具を、身に装うようにということです。神の十分な武具によらねば、とても悪魔の策略には立ち打ちできないからです。
 
そして、その武具として、6つのものを挙げています。腰の帯紐、胸当て、軍靴、盾、かぶと、そして剣であります。
 
剣以外は、主として防御に用いられる武具であります。そして、著者は、象徴的に、あるいは、隠喩的に、何が本当に強力な敵からの攻撃に耐えうるか、あるいは、反撃の力となるのかを示していくのであります。
 
なぜなら、私どもの闘い、―これはレスリングという意味の言葉ですがー、それは霊肉、すなわち、はかなく脆い人間を相手にするものではなく、支配と権威、この闇の世界の支配者たち、高い所における悪の霊の諸力と対するすさまじい
闘いであるからだというのです。
 
そこで、まず、真理を腰の帯とし、さらに義の胸当てを、あなた方は着なさいと言います。
 
胸当ては、武具として以外にも、アロンの祭服、祭司の裁きの胸当てを付けることがありました。
 
次には、平和の福音をもたらす準備を、履物として身に帯なさいという。平和を告げる者の足は、なんと美しいことかとイザヤは預言していますが、このメッセージこそ勝利のための武具であると、この記者は言うのです。
 
私どもの闘いは、人間同士の間、ユダヤ人と異邦人の間にある垣根を取り除く、キリストによる平和を告げることによって、勝利する闘いであります。
 
次には、信仰を盾として、受け取りなさいとあります。盾は、あらゆる火矢を消すことのできる、大きな盾であり、当時のローマ軍の兵士たちが用いたものであります。
 
また、旧約聖書では、神こそが私の盾という表現がよく出て来ます。私どもの力によるのではなく、私どもの罪を、その十字架の死と復活によって取り除かれたキリストへの信仰のみによって、サタンのたくらみに打ち克つのです。
 
さらには、救いの手段として、かぶとをかぶりなさい、また、霊の剣である神の言葉を受け取りなさいとあります。

荒れ野で、主イエスがサタンと闘ったとき、その都度、神の言葉によって勝利したことを、私たちは思い起こすべきであります。
 
さらに、記者は続けます。あなた方は、あらゆる時に、霊において、すべての祈りと嘆願において祈りなさい。そして目覚めていて、祈りと忍耐において、すべての聖徒たちのために、執り成しの祈りをしなさい。

そして、私のためにも祈ってほしいと、祈りの必要性について説くのです。私が口を開くときに、福音の神秘をはっきりと知らせることができるように、そのため、私に言葉が与えられるように祈ってほしいと。

 そして最後に、この記者は、そのために、私は、鎖における大使とされているのであり、それゆえに、私がしゃべらなければならない通りに、はっきりと語れるように祈ってほしいと執り成しの祈りを、私どもに求めているのであります。

 私どもは一人で闘っているのではありません。神の見事な武具を着せられ、キリストを着せられ、キリストを頭とする教会の体の一員として、すべての聖徒たちのために執り成しの祈りをささげる。

そうしながら、既にキリストの十字架上での死とご復活によって、勝利を与えられている。その悪霊との霊的な闘いを、闘っているのです。

それは既に勝利が約束されている闘いでありますが、私どもが一致団結して支え合い、共に目を覚まして祈り続ける闘いの中で初めて得られる勝利なのであります。なぜなら、その勝利の日の前に、主の日の前に、邪悪な日の闘いが待っているからであります。私どもは、その約束されている勝利の日まで、共に執り成しの祈りを続けながら、主のみ業に励んでいきましょう。

人知ではとうてい測りすることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。         

2018年9月6日木曜日

「全信徒祭司性」(p68~85)2018年9月7日 「『キリスト者の自由』を読む」


「全信徒祭司性」(p6885201897
「『キリスト者の自由』を読む」

キリスト者は、すべてのものの上に王であって、なにものにも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、すべての者に従属する。この一見矛盾するかのように思われるルターの『キリスト者の自由』の二つの命題であるが、今回のテーマは、「全信徒祭司性」である。キリスト者は王であると共に、祭司でもあるという。祭司とは、神の前に取り次ぐ者であり、王である以上に、すぐれた者であるといえよう。
 キリストは王であり、かつ祭司である。私どもも、主イエス・キリストと共に、すべてのキリスト者が、祭司とされているのである。祭司は神と人とを取り次ぐのであるから、人の上の王である以上に、ひいでた存在である。
 主イエスは地上に、神の独り後であられたにもかかわらず、低きしもべの形を取られ、お出でになられ、終わりの時まで、しかも十字架の死に至るまで、み旨に従われたのである(フィリピ26-11)。しかも、主イエスは罪を犯したことのないお方であったのに、神は、この罪なきお方を十字架につけ、罪ある我々のために身代わりとされたのである。それゆえ、私どもは、このお方への信仰のみによって、義とされ、無罪とされる。そしてこの信仰によって、主イ、エスの義を私どもは与えられ、私どものすべての罪や負い目は、主イエスが負うてくださるのである(属性の交換、神性と人性の交換、喜ばしき交換?)。
 さて、今回の「全信徒祭司性」であるが、それはしばしば「万人祭司性」とも言われてきた。しかし、これは、主イエス・キリストを信じるキリスト者が祭司性を持つとの主張だから、「全信徒祭司性」と言うのがより正確と言えよう。今回の石居基夫先生のこのテーマをめぐっての解説(p6885)においては、キリスト者が祭司であるっことを、より神学的にとらえようとするところに強調点を置いている。
 ルターは、神のみ言葉のみが、その信仰を私たちに与えるというのです。・・神の語りかけ、神のみことばを受け取ることは、それによって、自分の「魂」がどのような現実の中にあっても、その存在をはっきりとさせられ、確かな救いを受け取ることになると言えるでしょう(p7273)と。
 ルターは、「キリストが私に対してなってくださったように、私もまた、私の隣人に対して一人のキリスト(者)になりたい」と言っている。人に仕え、とりなし、生かすようにキリストの愛を生きる者とされる。これがすべての信仰者における祭司としてのキリストのつとめなので、「全信徒祭司性」という言い方がなされる(p78末~p791ℓ)。
 それは、教職と信徒との区別をまったくなくするということではない。すべての人がベルーフ(それぞれの職業や、あるいは家庭内における主婦の役割など)に召命を受けているとルターは考える。私どもが現在の教会の中で、また、社会や世界の中でどのような働きに召されているのかを『キリスト者の自由』を時々読み返してみることで、つかんでいきたい。
 ある出会った、年老いた信徒は、先日93歳位で召されたのだが、毎年、年の始めには、ルターの『キリスト者の自由』(岩波文庫にて50ページほどのもの、石原謙訳)とアウグスチヌスの『告解』(世界の名著、中央公論社、山田晶訳)を読むと語られていたことを懐かしく思い起こす。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2018年8月21日火曜日

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ6:30-44)


2018819日、聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第231-6節、エフェソの信徒への手紙第211-22節、マルコによる福音書第630-44節、讃美唱23(詩編第23編:1-6節)(松山教会での礼拝説教)

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ630-44

今日の福音書の出来事は、使徒たちが初めての宣教旅行から戻って来て、主イエスに、彼らが行ったことをみな報告したという記事から始まっています。この使徒たちというのは、特別な12使徒という職務の人たちを指しているのではなく、主から遣わされた者たちという意味であります。
主から遣わされて、主と同じわざをし、悪霊を追い出し、病人たちに油を塗り、彼らを癒すみわざをなして、戻って来たのであります。
そして、その間に、マルコは、洗礼者ヨハネが、首をはねられるというエピソードを入れているのであります。
それは、主イエスが、その後どのような道を辿らねばならないのか、その道が神によって定められていることを、暗示しているかのようであります。
さて、主イエスは、弟子たちに、しばらく休みを取るように、寂しい場所へ、人気のない場所へと、自分たちだけで出て行くようにとお命じになります。
もちろん、御自身も一緒に出て行くわけですが、それは、やって来た莉出て行ったりする群衆が多くて、彼らは食事を取るひまもなかったからであります。
弟子たちは、初めての宣教旅行から戻って来て、非常に疲れており、肉体を休める必要があり、主イエスはそのことを十分に察知しておられ、御自分もそうであったように、人気のない所へ行って体を休め、あるいは、父なる神と向かい合って祈る時を必要としていたのであります。
ところが、マルコは一番最初に書かれた福音書の著者らしく、他の福音書には記されていない事情を、生き生きと書き残してくれています。主イエスとって来て、主イエスの一行の行き先に、徒歩で、先に一緒になって駆け付けたというのであります。
それがどこであったかは定めることはできませんが、彼らがひそかに祈る場所を人々は察知していて、舟よりも先に、その地に着くことができたのであります。
そして、主イエスは、出て来られると、彼らが羊飼いのいない羊たちのようであるのをご覧になって、腸が痛むような思いとなられます。これは、神にのみ使われる言葉で、主は人々の有様をご覧になって「憐れまれた」と訳されていますが、ただ同情するというのではなく、共に苦しまれるという意味の言葉が使われているのであります。
そして、主は、多くのことどもを教え始められたと記されているのであります。
そして、時がだいぶたって、弟子たちが、イエスの下にやって来て言うのであります。「時は既に遅くなりました。人々を、あなたが解散して下さって、近くの村落や村里に行かせてください。そうすれば、彼らはそこで食料を手に入れることが出来ましょう」と。
ところが、主は言われます。「あなた方が、彼らに食べることを得させなさい」と。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買ってきて彼らに食べさせよと言われるのですか」と不平を表します。
主イエスは、「どれだけ彼らはパンを持っているのか、あなた方は行きなさい、見て来なさい」と言われます。弟子たちは、行って、それを確認してきて「5つです。それに2匹の魚を」と答えます。それは、13人分の食料に過ぎません。
すると主は、それを取り、天を仰いで、賛美の祈りをしと訳してありますが、これは元の文では「ほめたたえる」あるいは「祝福する」という意味の言葉でありますが、そのようにして祈られた後、それを裂き、弟子たちに与え続けておられたのであります。
そして、弟子たちはそれを彼らに分配し、魚をも同じように彼らに分け与えられるのであります。
以上のような所作を取られる前に、主は人々を組にならせ、あるいはグループごとに、50人、100人ずつ縦の列にして、食べるために、青草の上に、あるいは黄緑の草の上に横になるように弟子たちにそうさせるように命じておかれました。
そして、5つのパンと2匹の魚をそのようにして、与え続けておられたというのであります。そして、人々は、それによってすべての人が食べて、しかも、満腹したというのであります。そして、
残ったパン屑や魚の残りを集めると12籠に一杯になったというのであります。これは、12弟子を暗示し、イスラエルの12部族を暗示し、ここから新しい神の民、教会が生まれることを暗示しているのであります。
さて、今日のこの奇跡は一体どういうことであったのでしょうか。それは、聖餐における主イエスの言葉と所作に近接しています。そこにいた、羊飼いのいない羊どもの魂の飢えを、また、心の満たされない渇きを、主イエスは弟子たちと共に満たすことができたということであります。
確かに、今の世界でも、多くの人々が飢えて、十分な食卓につけずに亡くなっております。しかし、今日の讃美唱、詩編23編が語るように、「主は、私の羊飼い、青草の茂る憩いのみぎわに伴いたもう。」その言葉が、今日の主イエスの5千人への供食を通して実現しているのであります。
私どもも、この渇きと飢えを満たす主のみ業に参加し、関わることができる。5千人の飢えを、主イエスの命令通りに行うことを通して、私たちもまた彼らに食べさせることができるのであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。


2018年8月13日月曜日

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第6章6節後段~13節)


2018812日、聖霊降臨後第12主日礼拝(―典礼色―緑―)、アモス書第7章10-15節、エフェソの信徒への手紙第13-14節、マルコによる福音書第66節b-13節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第66節後段~13節)

 主イエスは、出身地のナザレでは宣教は進まず、ナザレの人々の不信仰に、驚き怪しむと告げられている。主は、それで挫けたりなさらず、周囲の村々へと教えながら、巡り歩いておられたと、続きます。
 そして、12人を二人ずつ組みにして、彼らを彼ら自身にとっては初めての宣教旅行へと遣わされます。そして、彼らに汚れた霊どもへの権能をお与えになっておられたとあります。ご自分の持っておられる同じ権能を、弟子たちにも授ける。しかし、彼らにとってどんなにか不安な旅立ちであったことでしょうか。しかし、さらに主イエスは、彼らがパンも袋も帯の中に小銭すらも持参することをお許しにならず、下着も2枚着ることは認めず、ただサンダルを履き、1本の杖のみをお認めになるだけであります。
 この1本の杖とは何でありましょうか。それは、主イエスへの信仰を表わし、主イエスの受難の時の十字架を暗示するものとも言えるでありましょう。私たちが主イエスを宣べ伝えるのには、自分たちの業績や才能や力を誇っていては、それはできないことなのであります。
 主はさらに、このように指示なさいます。ある家にあなた方が入ったら、そこを出る時まで、そこにとどまり続けるように、そして、もしも、ある場所があなた方を歓迎せず、あなた方に聞こうとしない場合には、その場所を出るに際して、あなた方の足の裏の土や埃を彼らへの証しとして払い落としなさいと。
 弟子たちのそのふるまいを見て、あるいは、自分たちの非を気づかされ、なされた主イエスの宣教へと悔い改めるかもしれないからであります。
 そして、12人は宣教しており、病人たちには油を塗っており、そして、彼らを癒していたと記されているのであります。これは、彼ら12人だけの宣教の姿ではありません。私たちもまた、主イエスからこの同じ任務を与えられているのです。
 そして、今日の12人と同じような宣教を託されているのであり、私たちが語る言葉、生活の仕方が問われているのであります。私たちの小さな家庭での営み、職場での働き方、地域社会でのふるまい、11つを通して、主イエスの弟子にふさわしいものであるかどうか、その真価が問われているのであります。この夏、このお盆を迎える中で、私たちが主イエスの弟子として歩んでいくことを、今も主イエスが共にいて下さり、しっかり歩むようにと。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2018年8月10日金曜日

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)


201885日、平和の主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、ミカ書第41-5節、エフェソの信徒への手紙第213-18節、ヨハネによる福音書第159-12節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)

 毎年、日本福音ルーテル教会、JELCでは、8月の第1の主の日を、平和の主日として、平和について、また2度と起こしてはならない戦争について、思いを凝らし、平和への決意を新たにする日として守ることになっています。
 
今年もミカ書第4章1節から5節の、今日与えられています第1の日課、ペリコペー、小さな聖書の文章を中心として、聖書のみ言葉から聞いていきたいと思います。

 さて、今日の記事は、その前後の記事からは、大きく隔たりのある内容となっています。さらに、この旧約聖書の中では最も有名なものの一つ「彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって刃をあげず、人々はもはや戦うことを習わない」というみ言葉は、今日の讃美唱でもあるイザヤ書第2章2節から5節にも、ほとんど同じ言葉で記されており、どちらが古いのか、どちらがオリジナルなのかも、議論されてきました。

 イザヤ書よりもミカ書の方がより詳しく、イザヤ書がより古く、ミカ書はそれを、それをオリジナルとして、より後代になって、より深く展開したものとも考えられますが、むしろ、その2つの聖書は、そのもとになっている伝承をそれぞれの記者が用いて、今の形に編集されたものと考えられています。

 さて、ミカ書では、第3章までとは、打って違った内容が第4章1節から5節には記されています。そしてこれは、今では、モレシェトの人預言者ミカの語った預言ではないと考えられます。第3章9節から12節では、エルサレムの神殿が破壊される前のミカ本人の預言の言葉となっています。

 ミカが活躍したのは、紀元前701年のころのアッシリアがイスラエルに侵攻してくる前のことであります。そこでは、エルサレムの指導者たちの不正が糾弾されています。聞け、エルサレムの不正を働く指導者たちよ、とミカは彼らに対して不正から、悔い改めるように断罪するのであります。祭司は聖書からは離れて偽りを教え、政治家はわいろを受け取って、不正を働き、預言者たちまでも、金をとって偽りの預言をする。そして、彼らは、我々には主なる神がついているから、安心である。敵は攻めてこないと、主を頼りにしながら預言しているというのであります。

 そして、第3章の12節では、こう預言しています。エルサレムの山は廃墟と化し、シオンの丘は畑へと耕され、ところどころに木々の生い茂る荒れ野のようになると。そこには、神の家、神の神殿という表現はなく、敵国によって無残にも潰された、神不在の場所となると預言されているのであります。

 そして、今日のテキストに続く第4章の6節から8節までを読んでいきますと、そこには、私、すなわち、主なる神が、足のなえた者をアッシリアののちのバビロンによって、捕囚として、その地へ追いやったと記されています。そして、迷った羊の民、私が追いやった落ちぶれた民を、今度はその私が羊飼いとして、この地、エルサレム、シオンの丘へと連れ戻し、かつてあった、娘エルサレムの王権が、羊の塔を見張る塔、娘シオンの砦へと戻って来ると、バビロン捕囚から、その民を、私が王となって連れ戻すという、主なる神の約束が記されているのであります。

 そのようなイスラエルの歴史のただ中に、今日のテキストは入れられているのであります。その中身について、しばらく細かく内容をたどってみたいと思います。

 まず、このペリコペー、すなわち、小さな聖書の個所は、このように始まっています。「そして、終わりの日々に、主の山は、堅く据えられ、まわりの峰々よりも高くそびえるようになる。」この終わりの日々とは、この地球の終わりの時という意味ではなく、神が決定的にこの地上の歴史に介入なさるとき、カイロスの時のことであります。それは、主イエスがお出でになられたとき時かもしれません。
 しかし、ここに記されているような世界平和は、それから2000年もたった現在でも実現してはいません。それはいつ来るのでしょうか。それが完成される日とはいつ来るのでしょうか。

 さて、そのとき、多くの国民がやって来て、こう言うというのであります。我々は、シオンの家の山へと、ヤコブの神の家の丘へと上ろう、主なる神が我々を教える、我々はその神の道、旅路から学ぼう。なぜなら、律法、主の教えはエルサレムから、主の言葉は、シオンから出るからであると。

 そして、多くの国の民が、喜びながらこの丘へと流れ来たる。そして、この神は、多くの民の間を裁き、遠くの強大な国々までも調停するのであります。そして、人々は剣を打ち変えて鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦闘することを学ばないという、今では国連本部に掲げられている聖句が続くのであります。鋤を打ち直して剣とし、鎌を打ち直して槍の先とするという、古代の旧約聖書にある表現と逆のことが起こるというのであります。

 そして、ミカ書はここで、人々は、自分のぶどうの木、イチジクの下に座って、自分の農作地を見つめながら満足する、しかもそれを脅かすなにものもないと言います。そして、なぜなら、万軍の主の口がこれを告げたから、約束したからだというのであります。人間の歴史に神が介入し、こうなると約束して下さらない限り、永久平和と軍備の撤廃は不可能であることを覚えます。万軍の主とは、戦いの神という意味ではなく、むしろ全能の主という意味であります。私たちの礼拝の終わりの祝福で、私がよく用います「全能の神の祝福が、あなた方と共にあるように」という時の「全能の神」という意味なのであります。

 さて、今日のテキストは最後の1節、すなわち、第4章の5節で、すべての国民は、彼のその神の名において歩む。にもかかわらず、我々は、我々の主の名において、今から永遠に歩むのであると、むしろ我々の神に向かって今後の誓いの言葉をのべて終わるのであります。

 この預言の言葉が記されてから二千数百年が経ちました。現状は、この言葉を書き記しました預言者の預言した通り、世界中の人々は、それぞれ自分の信じる宗教を信じ、あるいは、無宗教の生き方を取る者も以前にもまして増える傾向にあります。この預言の後、キリストがお生まれになり、新約聖書が書き残されましたが、この預言を書いた同じユダヤ教のユダヤ人たちは、キリストをメシアとは受け入れていないのです。仏教を信じる人たちは、我々が救いを得るのは、まことの仏教しかありえないと堅く信じておられる方々も少なくありません。そのように世界の宗教は、今なお、自分たちの信仰が、唯一無比と信じて、それぞれ歩んでいます。

 しかし、この預言の言葉を書き記した預言者は、自分たちは、アッシリアに攻められ、バビロンによって、滅ぼされた憂き目の中で、それを起こしたのは、自分たちの民の罪の故に、神がなさったのであり、また、そこから連れ戻し、エルサレムに王となって連れ戻して下さる神、その主の名によって、我々はここからいつまでも歩み続けるのだと決心しているのであります。

 さて、では、今日ここに示されましたような世界平和、軍備撤廃の幻は、幻でしかないのでありましょうか。世の終わりまで、地球最後の日まで、この念願はついには実現できなかった夢として終わるのでしょうか。そして、それならば、私たちは何もしないで、現状のままで手をこまねいているしかないのでしょうか。

そういうことには断じてならないのであります。今日のテキストのすぐ前には、エルサレムの指導者たちが、不正をして神を恐れないでいる目に余る現実をあばくミカの糾弾の預言があり、その結果、荒れ果てた丘となっているエルサレム、シオンの姿が預言されていました。
 それは、私たちの現在の生き方に対しても、警鐘を鳴らし続けているのであります。私たちが罪を悔い改め、そののち、キリストのご到来を通して、悔い改めを迫る福音のみ言葉を通して、私たちは、新しい生き方を示されています。
 家庭の中で、また、職場の中で、地域で生きるその生活の中で、新しい生き方をするようにと問われています。主イエスは、山上の説教の中で、祝福されているよ、平和を作り出す者たちは、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうと語りかけられました。私たちが、身近なところで、互いに愛し合い、憎しみのある所に愛を、平和をもたらす。そのような積み重ねが、やがては世界平和に、そして「諸国民が一つの心になる日」へと向かうことになるのであります。

 さらには、私どもは、世界の指導者たちのためにも執り成しの祈りを続ける必要があります。そして、二度と世界大戦になるような轍を踏んではなりません。米ソの冷戦のさなかに起こったキューバ危機の後に、ケネディ大統領は1962年部分的核実験停止条約の調印にこぎつけました。そのような一歩一歩の世界平和の前進のために、私たちが身近なところでも何ができるかを問い続けねばなりません。それは、ある人にとっては平和運動のための署名であったり、集会や行進への参加の形をとることであったり、平和憲法の学習会に参加することであったり、新聞を隈なく読んで意識を高めることであったりしましょう。毎年持たれる平和の主日の礼拝を通して、私どもに何ができるのか、何をしていけばよいのかを、み言葉に聞きながら、模索していきたいものだと思います。・・・人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。