2021年2月22日月曜日

荒野の誘惑(日曜日のお話の要約)

 四旬節第1主日礼拝(2021年2月21日)
創世記9章8-11節 Ⅰペトロ3章18節  マルコ福音書1章9-15節


世界の始まりの時、神様はご自身の似姿として人間をお作りになりましたが、最初の人間アダムとエバは、神様とのたった一つの約束を破り、神様の国を追放されてしまいました。そしてアダムとエバの間に生まれた長男カインは嫉妬が原因で自分の弟アベルを殴り殺すという大きな罪を犯してしまうのです。

 神様から離れた人間は、欲望や感情のままに相手の命を奪うような存在になってしまいましたが、神様は人間を完全に見放すことはおできになりません。数世代に一人でも、神様を信じる信仰深い人間が誕生することを喜び、その子孫が絶えないように守ってくださったのです。例えば先ほど読んでいただいた創世記「ノアの箱船」のノアなどはその典型的な存在です。

 人間がどれほど罪深い世界を作り上げようとも、神は人を滅ぼすようなことはなさらず、それどころか時が満ちれば、救い主を遣わして、神様と人間との間に生まれた断絶を解消してくださるという約束をしてくださいました。その約束は、旧約聖書にはっきりと記されたのです。


 時は流れ、イエス様の時代、ユダヤの人々は旧約聖書を通して救い主がいつか到来することを信じていました。当時のユダヤはローマの支配のもとで表面的には平和でも、社会は混乱していました。ローマの権力を利用してのし上がるもの、革命を起こそうとして命を落とすもの、絶望しているもの、様々な人々がいたのです。

 そのような中、イエス様は民衆の前に姿を現されました。神様と人間との間にできた深い溝を埋めることを使命とされ、宣教の生活をスタートするため、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。

 しかし人間の社会はあまりにも罪にまみれていました。神の御霊は、まるでこれからイエス様の受ける試練を暗示するかのように、あるいはウォーミングアップをするかのように、人っ子一人いない荒野にイエス様を導いたのです。


 「荒野の誘惑」の記述はマタイ福音書とルカ福音書に詳しく書かれています。しかしマルコ福音書は、この誘惑物語を極端に短く記しています。「サタンから誘惑を受けられた」と記した後、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と書いてあるだけです。

 マルコが強調したかったことは、試練の内容ではなく、サタンの誘い掛けや嫌がらせはこれからもありとあらゆる形で続くし、イエス様はその度に苦しまれるけれど、神様への信頼は決して失われず、神様からの守りも、決してイエス様から離れない、ということなのです。


 さて、私たちは、イエス様を神様、救い主として信じています。実際に荒野に導かれることはなくても、現実の世界を生き抜くことは、まるで荒野を歩むようだと感じることはないでしょうか。その場所で、何があってもイエス様を信じる力は揺るがないと断言できるでしょうか。

 「大丈夫、私はイエス様から離れない」そんな風に断言できるのは、意気揚々と信仰の世界に足を踏み入れた、洗礼直後の若者だけでしょう。信仰生活を続ければ続けるほど、誰もが自分の弱さや罪深さを突きつけられますし、誰もが自分の中に潜んでいる不信仰に苦しむのです。

しかし、信仰生活を長く続けるということは、自分の弱さに開き直ったり、自分が成長しない言い訳を覚えることではありません。長く信仰を続けられるということは、イエス様が私たちの弱さを理解してくださった上で、ご自分の思いを託し、この場所を、神様の思いの溢れる場所としなさいと命じておられるのです。ここに集う者には誰でも神様の平安が与えられ、安心の元に過ごすことができる、そんな場所を作るように、と私たちに使命を与えておられるのです。


 最後になりましたが、本日の聖書に出て来る「誘惑」という言葉には、良いイメージがないと思います。しかし福音書で使われている「誘惑」という言葉は、元々のギリシア語では「テストする」という意味があります。

 テストされるのは嬉しいことではありませんが、キチンとしたやり方でキチンとした相手が行うなら、テストを受ける側の訓練となり、自分の長所と短所を知り、成長に結びつくものです。

 私たちの人生は「どうやったらイエス様を信じぬくことができるか」というテストを常に受けているようなものです。このテストは信仰の成長段階に応じて次々と与えられます。どのように厳しいテストで、どれほどひどい成績であっても、神様は決してお見捨てにならず、成長を望んでおられることに変わりはないのです。


 私たちが努力し続けるとき、イエス様はその思いを喜ばれ、祝福してくださいます。たとえ、この先、思いも寄らぬアクシデントが起きて、挫けそうになるかも知れません。そのような時こそ、イエス様ご自身でさえ荒野でテストを受けられた出来事を心によみがえらせ、歩み続けていこうではありませんか。


「荒野」にはイエス様がおられて、私たちを見捨てず、導いてくださると信じ続けること、信じる努力をするなら、必ず道は与えられ、導いてくださいます。今までがそうであったように、これからもそれは変わりません。

私たちにこのキリストの教会を託された神の思いを胸に刻みつつ、日々努力を怠らず、信仰に歩んで参りましょう。





受難節に入ったばかりで
イースター工作の写真もアレなのですが
飯田市のコロナ警戒レベルが1に引き下げられたので
3月13日は久しぶりに土曜学校が
開けそうです
(3月第1週は幼稚園の大掃除なので第2週に変更)
手足が動くペープサートや
紐を引っ張るとジャンプポーズをとる
ハンベルマン など
年齢に合わせて作って
楽しくイースター準備を進める予定です

またまた準備が大変ですが
土曜保育の
年長クラスのお友達とは最後の工作
小学生になっても土曜学校に
来てくれることを祈っています





教会のフェンス沿いの狭いスペースに
植えつけたクリスマスローズ
ようやく花が開きました
狭い場所なので
這いつくばって撮ってみましたが
なかなかうまくいきません


2021年2月15日月曜日

ONE TEAM そのこころ(日曜日のお話の要約) 

主の変容礼拝(2021年2月14日)
列王下2章1-12節 Ⅱコリント4章3-6節 マルコ福音書9章2-9節


 本日の福音書は「変貌山」と呼ばれている箇所です。イエス様はこの日、弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られましたた。この3人は、イエス様が奇跡を行われる時や誰かしら目撃証言が必要だと思われる時、必ず伴われる3人でした。


 この高い山がどこかについては、異なる説があります。ガリラヤ湖の北側の2,814mのヘルモン山か、南西側の標高575mのタボル山です。

 聖書の地をめぐる旅行では3000メートル近いヘルモン山の方を「変貌の山」として紹介することが多いようです。

 日本をはじめとして、世界各地には山岳信仰というものがあります。山の雄大さや厳しい自然環境に圧倒され、恐れ敬う感情が湧き上がるのでしょう。偶像崇拝をしないユダヤ教にとっても、高い山の上は特別な世界で、そこで神様にお会いできる、という考え方がありました。例えば出エジプト記の中で、モーセが神様から十戒を記した石版を頂いたのも2000mを超えるシナイ山の上での出来事です。

 本日登場する3人の弟子たちも、このモーセの出来事は子どもの頃から繰り返し聞かされて育ったでしょう。ですから、目の前でイエスの姿が変わり、真っ白に輝く様子を目撃したとき、彼らはまさしく神がそこにおられると受け止めたのです。その上、ユダヤ教徒なら知らぬ者はないモーセとエリヤがそこに現れ、白く輝くイエス様と語り合い始めたのです。

 ペトロは我を忘れ、イエス様を中心にして仮小屋を三つ立てようと提案します。神々しさに理性が吹っ飛び、何をどう言えば分からなかったのでしょう。


 さて、話は少し遡りますが、この変貌山の出来事の少し前、イエス様はご自分の受難を予告されていました。8章31節です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活することになっている。」この時、イエス様は十字架にかけられるけれど「復活する」、とはっきり宣言されたにも関わらず、弟子たちのほうは「イエス様が死んでしまう」と捉えました。

 このころの弟子たちは、イエス様こそ祖国からローマを追い出し、国としての独立を取り戻してくれる英雄だと信じるようになっていきました。旧約聖書に記されているモーセやエリヤやダビデ王のように、誰にも負けない救い主だと思い始めていたのです。

 しかしイエス様の宣言された「十字架」という言葉は、「負け」を表す言葉であり、「神に呪われたもの」という意味さえ感じさせました。誰よりもイエス様を尊敬していると自負していた一番弟子のペトロは「そんなこと言わないでください」とイエス様をいさめようとし、逆に叱られてしまったのです。


 それから数日というもの、イエス様の受難予告は弟子たちの頭から離れませんでした。もしイエス様が死んでしまったらイスラエルの改革運動は頓挫してしまうではないか。イエス様は彼らの迷いを見越しておられたのでしょう。弟子の代表として3人を山に連れ行かれたのでしょう。

 数日の間悩みの中にあった弟子たちにとって、山の上でイエス様が光り輝くお姿で英雄たちと対等に話しておられるお姿を目撃したことは、理性が吹っ飛ぶほどの驚きと喜びだったのです。やっぱりイエス様はメシアだ、死んだりするはずがない。ペトロは改めて確信したことでしょう。

 そのような興奮の中でペトロ達が聞いたのが、「これはわたしの愛する子、これに聞け」という神様の御声でした。神様は「イエス様こそわたしの愛する子」なのだから、あなたがたは何をおいてもイエスの言う言葉に従いなさい、と語られたのです。イエス様が語ることばをよく聞き、理解し、素直に受け取り従いなさい、と言われたのです。 


 しかし彼らは山を下りる時になっても、イエス様が語られた復活の意味をきちんと捉えることはできていませんでした。ただ、イエス様が受難があるとおっしゃるなら、そうなのだ、そう受け止めなければならない、自分たちはそういう立場なのだ、と知ったのです。

 彼らはイエス様が王様となって、自分たちはその家臣にとして、このイスラエルを立て直すのを手伝うのだと思って張り切っていました。ところが今、少しずつ、そうではないということに気づき始めました。

 まだよく理解はできないけれど、本物のメシアというものは、自分たちが思い描いていたヒーローとは少し違うのかもしれない。思いもよらぬほどの反対を受けたり、迫害されたりするものなのかもしれない、それでも信じるところを曲げず、信じる方を疑わず、神様の業に励むことが自分たちに与えられた使命なのかもしれない。彼らはそんなふうに思い始めていたかもしれません。

 高い山の上でイエス様の真実のお姿を見ることを許された弟子たちは、信仰者として新たな歩みを始めたのでしょう。


 今、私たちの与えられている使命は、まさに白い山の頂上に登ることです。イエス様の御心に従ってこの場所に神の国を創っていくことは、心弾む出来事ですが、自分達の思い通りになるわけではありません。それでもイエス様の弟子として、助け合い、一つのチームとなって、輝く頂を目指してまいりましょう。あらゆる苦難の中でも、共に神様の栄光を見出すものとなるように、心を一つにして歩んで参りましょう。



友人からタネをいただいた「ピンクタンポポ」
昨年秋にいくつかポットに蒔いて
屋外と室内で別々に育てていました
先日から室内組の花穂がひょっと伸びて
ペットポトルのキャップくらいの
可愛らしい花を咲かせてくれました
一足先に春の風情です

2021年2月9日火曜日

シモンのしゅうとめ(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2021年2月7日)

イザヤ書40:29-31 Ⅰコリント9:19-23 マルコ1:29-31


 本日の聖書箇所はシモンのしゅうとめが熱を出した、というお話です。シモンというのはイエス様の一番弟子、ペトロの本名です。シモンはのちにイエス様から名前をいただいてペトロと呼ばれるようになりますが、ここではまだ本名の「シモン」です。ちょっとややこしいので、今日は馴染みのある「ペトロ」という名前で呼ぶことにしましょう。


 ペトロは腕の立つ漁師で、イエス様のお弟子さんになる前にすでに結婚をしていました。子どもがいたかどうかは分かりませんが、彼が漁師の仕事をやめ、イエス様のフルタイムのお弟子さんになってしまったことは、周りの人々にとって驚きであり、心配の種だったに違いありません。

 その日は安息日だったので、ペトロ達なりたてほやほやの4人の弟子は、イエス様に従ってユダヤ教の教えを伝える会堂に行きました。律法学者と呼ばれる人々が聖書について「教え」を説いていたか、その準備をしていたはずですが、イエス様は、そこに入って教え始められたのです。

 「律法学者のようにではなく権威あるものとしてお教えになった」と書かれているのは、知識をかさにきた上から目線、と言いうのではなく、聖書知識の豊かな人も、それほどない人も、耳を傾けずにはいられない、そして、ああ神様の教えとはこういうものなのか、と心奪われてしまう、そんな力強いお話だったのだろうと思われます。


 この出来事の後、イエス様と4人の弟子達はペトロの家に行きます。ユダヤ教の風習では、礼拝のある日には料理をしません。その前日にお重のようなものに料理を詰めておき、それぞれに取り分けながら寝っ転がって食べるのです。

 ペトロ自身は、イエス様の素晴らしさに誇りを抱き、「どんなもんだい、俺の先生はすごいだろう」という感じでイエス様をお招きしたのでしょう。

 けれども、周りの人々にとってイエス様はまだまだ見知らぬ他人でした。シモンの姑というのは、ペトロの奥さんのお母さんなのですから、すっぱりと漁師をやめてしまったペトロを見て、いくらイエス様が素晴らしい先生だとしても、娘の将来を案じて不安に思っていたに違いありません。

 そのイエス様と娘婿が、礼拝が終わってから、家にやってくるのです。ペトロは前もって自分の妻や姑にイエス様をお連れするから、と話しておいたことでしょう。ペトロの顔を建てるためにも、もてなさずに入られません。成人男性5人に十分な量を用意するかはなかなか大変ですが、その上、大先生がやってくるとなると非常に神経を使ったはずです。料理を作った後、疲れ果てたとしても不思議ありません。


 ペトロは自分の姑が働き者だということを以前から良く知っていたはずです。姑のことだから、イエス様に気を使って、ぶっ倒れるぐらいもてなしに精を出してくれるだろう、とも思っていたかもしれません。しかし本当に熱を出して寝込んでいるとは想像していなかったことでしょう。

 会堂で大評判になったイエス様を、誇らしげに妻の実家に連れていくと、そのお母さんが熱を出していると聞きます。しかしこの時、ペトロは黙っているんですね。「ヨメの母が熱を出して寝込んでしまいまして」などと言えば、この食事会はすぐにでも中止になるかもしれません。それは嫌だ、俺は何としてもイエス様をもてなしたい、そう思ったペトロは体調を崩した姑のことを隠そうとすら思ったかのでしょう。

 しかし周りの人々はペトロの気も知らずに、熱を出し臥せっている姑のことを口々にイエス様に話したのです。するとイエス様は、慌てるペトロを尻目に、姑のそばに行き、手を取って起こされたのです。そしてあっという間に熱はさり、彼女はたちまちのうちに元気を取り戻しました。そして彼女が一番先にしたのは一同をもてなすことだったのです。


 イエス様は、人間が病気の原因をあれこれ詮索したり、隠そうとしたり、自分に信仰がなかったから病にかかったとか嘆いたりしている間に、やさしく手を取ってくださり、起こされる方です。姑が元気になり、もてなしが始まった、イエス様はそれだけで十分だとお考えになる方なのです。


 イエス様は癒しの奇跡を行われた後、まるで何事も無かったように、それが当たり前であるかのように、自然にふるまわれました。人間が苦しみの中にあることを見過ごしにはなさらない。それをごく自然に手を差し伸べてくださる方、それがイエス様なのです。

 私たちにとって、今は苦境の時です。新型コロナに振り回される日常も、この会堂の立て直しも、心配に心配を重ね、念には念をと考えます。また、教会の将来に想いを馳せながら、共に信仰に生きてくれる仲間がどうしたら増えるだろうかと不安になることもあります。

 けれども、私たち一人一人はすでに自分の為すべきことを与えられています。たとえ熱を出して倒れ伏すことがあっても、主が起こしてくださるという平安はいつもあるのです。どれほど心配の種があったとしても、私たちは神様の配慮の中にあり、神様のご用のために用いられていくのです。


教会の片隅に植えておいたスノードロップ
この数日暖かかったので
花が開き始めました
まだまだ寒い日が続きますが
確実に春は近づいていますね

2021年2月4日木曜日

土曜学校 お家で作品1 いのうえ ゆきさん

1月から飯田市においてコロナ感染が急拡大
感染予防のため
月一回の土曜学校は今お休みしていますが
おうちで作った作品を募集しています
テーマは「カエルちゃん」

投稿第一号はいのうえ ゆきさんです
とっても楽しい作品ですね
色もきれい!
弟のそうたくんも作ってくれたけど
飛ばなかったんですって(><)
そうたくん、もう一度がんばってみてね

他のお友達もどうぞ作品を送ってください

カエルさんがジャンプしますよ!



2021年2月2日火曜日

ONE TEAM(日曜日のお話の要約)

日本福音ルーテル飯田教会総会礼拝(2021年1月31日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節


 2020年から2021年にかけて、世界がこんなにも大き変わってしまうとは、誰も想像していませんでした。昨年の今ごろ、横浜港に停泊した豪華客船ダイアモンドプリンセス号の乗員、乗客が新型コロナウィルスに感染し、大ニュースになりましたが、その時は間も無く収束するだろうくらいにしか思っていませんでした。。
 その後、春になって飯田市でも感染者が出ました。一旦は数人で留まりましたが、それ以降はみなさんの協力の元、マスク着用、換気、手洗い消毒を行い、この1年は途切れることなく礼拝を行い、聖餐式にも預かることができました。その間にスカイプを使ってリモート礼拝の準備も進めることができました。
 長野県内では、松本よりも北側の町々で感染者が多く出ましたが、飯田はずっと穏やかでしたので、なんとなく楽観していた矢先、正月が過ぎてあれよあれよという間に陽性者が急増し、火曜日には100人を超えました。そのため、ついに1月17日と24日はリモートのみの礼拝となりました。

 新型コロナウィルスへの恐れと緊張状態の中で、自律神経のバランスが乱れたとか、職を失って深刻な状態になっている方のニュースもひっきりなしに聞こえてきます。ついには自宅療養中に自ら命を絶つ人まで現れました。
 ワクチンと特効薬が行き渡るまで、日常生活も教会生活も感染防止策が最優先されることになります。当面の間は、大人数で集まることは避けなければならないでしょうし、生活のすべての面で不自由を味わうでしょうし、経済が回復するにも時間がかかるでしょう。

 ニュースでも再三言われていますが、私たちの毎日はまさに危機的状況にあります。しかしこのような状況だからこそ、2021年度も「ワンチーム」として、共に歩むことを目標とし、総会資料の表紙にも昨年同様「ワンチーム」の文字を入れました。
 ワンチームという言葉が、私たちの心に深く刻まれたのは、2019年に日本で行われたラグビーのワールドカップの折です。日本のチームが優勝候補の国を破り、ベストエイトまで登りつめたのです。
 ラグビーでは「国の代表チームでプレーする資格」の条件の一つに、どこの国の出身であろうとも、その国に「36ヵ月間」継続して居住していれば構わないそうです。それが良いか悪いかは別として当時の日本代表チームは選手の育った国もバラバラ、経験も戦術や身体能力もバラバラでした。
 しかしやがて選手達の中から「一体感のあるチームを目指そう」という思いが湧き上がって来て、当時のヘッドコーチが「ワンチーム」をスローガンとして発表しました。そんな彼らの戦いの様子は、日本だけでなく世界に感動を与えました。
 その後、長野県を襲った水害をはじめとし、各地でのボランティア活動でも「ワンチーム」という言葉が、苦難に立ち向かう合言葉として使われるようになりました。

 飯田教会、飯田ルーテル幼稚園で、この言葉を使うようになったのは昨年からです。私が2019年の4月に牧師兼チャプレンとして赴任した時は、かなりの困難を覚えながらの出発でしたが、1年が経過した昨年の総会時には、様々なことが良い方向に進み始める兆しがあり、明るい気持ちで終えることができました。
 ところが今年度になって、幼稚園を学法化する計画は、当初考えていた羽村ルーテル幼稚園の仲間に加わるということが難しくなり、白紙になりました。逆風が吹いたなあ、という思いもありましたが、単独で学法化する筋道も備えられ、準備も進み始めました。困難はありますが、目指すべきところはちゃんとあるのです。

 私たちの教会は長年、ルーテル幼稚園を通して伝道を行って来ました。教会員の多くは、卒園生の保護者としてここに集い、洗礼を受けました。しかし、この数年で「幼稚園」は「こども園」に変わり、システムも雰囲気も大きく変化しました。アレルギーのお子さんの食事に対応するために教会員が給食室に立ち入りできなくなったり、園児そのものとの関わりが薄くなったりと、様々な違いが生じました。それでも共にやっていこうという姿勢を打ち出し続けて来ました。

 今、子ども園はその責務を果たすため、障害を持っているお子さんをさらに積極的に受け入れています。保護者ですら自分の子どもとどう接すれば良いのか戸惑っている場合もあります。また、複雑な家庭事情を持つ園児も増えています。そのようなお子さんと過ごすために、先生方は学校で専門知識を身につけて現場で働きますが、教師の側が心に傷を負うこともあると聞いています。
 このコロナ禍にあって、私たち教会員はかつてのような関わり方はできなくとも、ここに集う人々の苦境を理解し、自分に何ができるか考え、直接には手を差し伸べられなくても、さらに祈りを熱くする必要があります。子どもたちや保護者の方と接する最前線に立つ先生方の多くはクリスチャンではありませんが、同じ場に集うチームです。

 先ほど朗読しましたコリントの信徒へ手紙の中で、「あなたがたは一つの体」と記されているのは、イエス様をかしらとする、キリストの体のことです。その体は、この世を癒すためにあり、また良き働きをするためであり、悲しみや苦しみにある人を慰め、励まし、活かすために存在するのです。み言葉に促されて一人一人が主イエス・キリストの体であることを覚えるなら、誰が偉いとか、誰が劣っているとかもありません。
 飯田教会と飯田ルーテル幼稚園は、園児も保護者も先生も教会員も、ワンチームであると深く覚えるとき、私たちは聖霊なる神の働きを感じつつ前進することがができるのです。

 総会を控えたこの一週間、どんな形で開催するべきか判断に苦しみました。結果として窓を開け放ち席の間隔をあけ、賛美は心の中で、という形で礼拝を守り、会合を行おうとしています。困難な時こそ、私たちが一つとなって祈り、なすべきことに思いを馳せましょう。そして、立場を超えて主イエスの体として一致していきましょう。
 繰り返しになりますが、私たちはワンチームです。神様のご用を果たすために、この一年はあります。神様の守りと導きがあることを信じて、やがてこの状態から自由になった時、神様の御業を共に賛美することを思い描き、真摯に互いの言葉を受け止めながら、私たちのかしらは主イエスであり、この方を中心にして共にあゆんでいることを確認して、一歩一歩進んで参りましょう。


可能な限り長椅子の間隔を広げ
窓を開け放ちました
暖かい日でよかったです

新しいサーモメーターを購入しました
カエルキャラ大好きの牧師夫人のチョイスです

礼拝に訪れ、検温される方が
少しでも笑顔になりますように

2021年1月25日月曜日

ガリラヤ伝道(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2021年1月24日)
詩編62編6-7節 Ⅰコリント7章29-31節 マルコ1章14-15節

 聖書の世界は古く、歴史好きの方でも簡単には理解し難いものがあります。旧約聖書の一番古い記述は今から4000年も前の出来事で、イエス様がお生まれになった時代ですら2000年前です。衣食住も、気候風土も、全て違います。
 そして最も理解しにくいのが宗教観です。古代イスラエルは国民一人一人が神の民であり、一人一人が神に守られ従いながら生きる、という強い信仰を持っていました。リーダーが信仰から離れて堕落し国が衰退し、民衆が嘆きの中にあるとき、必ず新しいリーダーが神様によって起こされ、「真の救い主、メシアを待つ信仰を捨てずに生きて行こう」と呼びかけるのです。そうして国は持ち直し人々の信仰も蘇る、そんな出来事が旧約聖書には繰り返し繰り返し記録されています。

 イエス様がベツレヘムの町に誕生された頃のイスラエルは、広大な領地を持つローマ帝国の直轄地でした。ローマは支配国に対して比較的寛容で、自治も宗教の自由もある程度与えていましたが、独立心が強く、他国の神々を認めないイスラエルの中からは、異国の文化にかぶれることを嫌って革命を起こそうとする人物が度々現れ、処刑されました。
 ローマを本気で敵に回せばおおごとです。ですからイスラエルの政治家たちは聖書の教えを都合よく解釈して民衆を抑える方法を取ろうとしました。しかし、この政治家たちというのが神殿の祭司、ファリサイ人、聖書の教師であったため、宗教は腐敗していきます。真摯に信仰を貫こうとする者にとっては耐え難いごまかしであり、何とも言えない堕落した感じと抑圧感が社会を覆っていたことでしょう。イエス様より先に活動を開始していた洗礼者ヨハネは、正しく信仰に生きることを説いたため、ヘロデ王に捕らえられ、処刑されてしまうのです。
 そんな中、30歳になったイエス様は新しいイスラエル、新しい神の国を作るために動き出されます。しかし洗礼者ヨハネが処刑された直後、中心都市エルサレム近くで活動を行うのは、無謀な行動とも言えました。そこでイエス様は首都から遠く離れたガリラヤ地方を拠点として宣教を開始されました。

 ガリラヤ地方はイスラエルの北部、ガリラヤ湖を中心とする地方で、首都エルサレムから110キロ程離れており、大人が急いで歩いても2日~3日かかる距離にありました。ガリラヤ湖は漁獲量が多く、北と南を繋なぐ交通路として古くから栄えていたため、旧約聖書にも登場し、その形から楽器の琵琶を意味する「キネテレ湖」と呼ばれていました。
 しかしイエス様の当時のガリラヤは異文化が入り込んで久しく、そこに住むユダヤ人は子どもの頃から聖書を学んでいるとは言え、約束のメシアを信じて耐え忍んで待つよりも、自分たちが武力によってローマを追い出したい、と考える人も多い、血の気の多い場所でした。
 そのような土地を、イエス様は宣教の業の拠点としてを選ばれました。本日読みましたマルコ福音書14節では「ガリラヤに行き」と記されています。マタイ福音書では「ガリラヤに退かれた」と記されていますが、これは、マルコとマタイの考え方の違いです。マタイはガリラヤで宣教を始めることを「一時的な退却」と捉え、マルコは「神の御意志に従って自らの意思で行かれた」と捉えるのです。

 4人の漁師をするにしても、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネにあっさりと「私について来なさい」呼びかけ、彼らが素直に、すぐに従っている姿を描いています。ルカ福音書に描かれているように「魚が獲れすぎて怖れ、イエス様を崇める」というシーンは記録されていません。マルコはそういったエピソードは自分の記録には不要だと考えたのでしょう。
 ドラマ的には物足りないかもしれませんが、そこにこそ、マルコの伝えたい「イエス様像」があるように思えます。ガリラヤのような、やりにくそうな場所からあえて宣教活動を開始するというのは、ただ、神ご自身が、その圧倒的な力によって、宣教の業を始められたことを示すためだったのではないでしょうか。
 今の日本には宣教のやりにくそうな場所の方が多数存在します。古い因習に縛られている、頑固、その日その日の生活に精一杯、お金こそ全てだと思っている、神も仏も祟られない程度にちょいちょいと拝む、そのような場所です。神様の目からご覧になれば日本全体がガリラヤのように見えるかもしれません。
 しかしそんなガリラヤにイエス様は赴かれ、宣教を開始されるとすぐに主力となる弟子を見極められて召し、集められたのです。これが、神の約束、神の業、神の力なのです。

 その同じ神の働きが、私たちの集うこの飯田の町にも、飯田教会にも、幼稚園にも、そして私たち一人一人の上にも働いているのです。
 今、私たちの世界は新型コロナという病に踏みにじられ、礼拝さえ自由に行えません。神様への信仰を失い教会離れを起こす人々が、これから増えていくかもしれません。そのような時代に、私たちはイエス様の召し出しに応えて、信じるものとされたのです。
 今私たちの魂は厳しい状態に置かれ、異邦人のガリラヤに住んでいるようなものです。しかしどんな場所、どのような人にも、神は近づいてくださいます。今おかれている状況も、神様が与えて下さった道として、決してくじけず、体は別々のところで礼拝しても、心は一つにして歩んで参りましょう。



この日曜もスカイプのみのリモート礼拝でした
7人の方が参加してくださり
礼拝後は短い時間、オンラインで
おしゃべりすることもできました
これはこれで新鮮でした
もちろん直接会えるに越したことはないのですが
今はこれで頑張りましょう

まだまだ使いこなせる方は少ないので
皆さんに説教要約と週報をお送りしました
体は離れていても心は繋がっていたいですね


クリスマスに飾るために幼稚園が購入したシクラメン
クリスマス行事が一段落したところで
一鉢安く譲っていただきました
今日の飯田は晴れてとても暖か
窓辺でまだまだ綺麗に咲き誇っています



2021年1月24日日曜日


残念ながら今日もリモートのみの礼拝です
音は悪いけれどヒムプレイヤーで
賛美歌を流しますので
お家で思いっきり歌ってください