2019年2月4日月曜日

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)


2019127日、顕現節第4主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第19-12節、コリントの信徒への手紙一第1212-26節、ルカによる福音書第51-11節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)

今日は、この後、飯田教会総会を控えています。この総会の主の日に、まことにふさわしく、シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブ、ヨハネが、主イエスによって、弟子として召し出された記事が与えられましたことは、偶然とは思えないのであります。神さまの不思議な導きがあって、この記事に遭遇しているように思うのです。 さて、この記事は、どういう場面かと言いますと、ナザレでの説教もあり、主イエスがカファルナウムに落ち着いて、シモンのしゅうとめの熱を癒したり、ガリラヤやユダヤ近域の町々村々を行き巡って、主は神の国を宣べ伝えておりました。そして、再び、ゲネサレト湖のほとりにおられたときに起こったことには、群衆が、神の言葉を聞こうと、主イエスのもとに押し迫っていたのであります。主イエスは、海に沿って2そうの小舟を見出し、その一つは、シモンの持ち舟であったのですが、それに乗せてくれるように、そして、少し岸辺から漕ぐように、頼んだのであります。彼らは漁を終えて、網を洗っていたところでした。そして、主イエスは、その小舟に座って、岸辺の群衆に向かって語られた。そのあと、シモンに向かって、深みに漕ぎ出して、網をたれ、漁をするように勧めたのですが、シモンは、先生、私たちは夜通し、漁をしたが一匹もとれませんでした。しかし、お言葉ですからやってみましょうと応えて、その通りにしたのです。すると、どうでしょう、その網にはあまりにも多くの上がかかり、破れそうになります。それで、もう1隻の仲間に合図して助けてくれるようにしますと、2そうの舟は魚で一杯になり、沈みそうになります。シモン・ペトロは、このとき、「私は罪深い人間です、私から離れてください、主よ」と主の足もとにひれ伏します。漁の魚のあまりの多さに、怖れが彼を、また、仲間たちを取り囲んでいたとあります。主イエスは、恐れることはない、あなたは、今から後、人間どもをすなどる、すなわち、生け捕りにするものとなろうと約束なさったのであります。彼らは、舟を陸に上げた後、すべてのものを後に残して、主イエスに従ったのであります。シモンは、完璧な人物ではありませんでした。弱さをも兼ね控えている漁師でありましたが、主イエスによってこの時から、人々を、神の国へと、また福音へと招きだし、釣りだす漁師へと変えられたのであります。そして、私どもも、賜物、また各持ち場こそ違え、人々を教会に招く漁師とされていることを覚えたいものです。2019年度の総会に当たって、それに思いを致し伝道を支え合いつつ。

2019年1月29日火曜日

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)


2019127日、顕現節第4主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第19-12節、コリントの信徒への手紙一第1212-26節、ルカによる福音書第51-11節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「支え合おう、伝道の旅路を」(ルカ福音書第5章1節~11節)

今日は、この後、飯田教会総会を控えています。この総会の主の日に、まことにふさわしく、シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブ、ヨハネが、主イエスによって、弟子として召し出された記事が与えられましたことは、偶然とは思えないのであります。神さまの不思議な導きがあって、この記事に遭遇しているように思うのです。 さて、この記事は、どういう場面かと言いますと、ナザレでの説教もあり、主イエスがカファルナウムに落ち着いて、シモンのしゅうとめの熱を癒したり、ガリラヤやユダヤ近域の町々村々を行き巡って、主は神の国を宣べ伝えておりました。そして、再び、ゲネサレト湖のほとりにおられたときに起こったことには、群衆が、神の言葉を聞こうと、主イエスのもとに押し迫っていたのであります。主イエスは、海に沿って2そうの小舟を見出し、その一つは、シモンの持ち舟であったのですが、それに乗せてくれるように、そして、少し岸辺から漕ぐように、頼んだのであります。彼らは漁を終えて、網を洗っていたところでした。そして、主イエスは、その小舟に座って、岸辺の群衆に向かって語られた。そのあと、シモンに向かって、深みに漕ぎ出して、網をたれ、漁をするように勧めたのですが、シモンは、先生、私たちは夜通し、漁をしたが一匹もとれませんでした。しかし、お言葉ですからやってみましょうと応えて、その通りにしたのです。すると、どうでしょう、その網にはあまりにも多くの上がかかり、破れそうになります。それで、もう1隻の仲間に合図して助けてくれるようにしますと、2そうの舟は魚で一杯になり、沈みそうになります。シモン・ペトロは、このとき、「私は罪深い人間です、私から離れてください、主よ」と主の足もとにひれ伏します。漁の魚のあまりの多さに、怖れが彼を、また、仲間たちを取り囲んでいたとあります。主イエスは、恐れることはない、あなたは、今から後、人間どもをすなどる、すなわち、生け捕りにするものとなろうと約束なさったのであります。彼らは、舟を陸に上げた後、すべてのものを後に残して、主イエスに従ったのであります。シモンは、完璧な人物ではありませんでした。弱さをも兼ね控えている漁師でありましたが、主イエスによってこの時から、人々を、神の国へと、また福音へと招きだし、釣りだす漁師へと変えられたのであります。そして、私どもも、賜物、また各持ち場こそ違え、人々を教会に招く漁師とされていることを覚えたいものです。2019年度の総会に当たって、それに思いを致し伝道を支え合いつつ。

2019年1月22日火曜日

説教骨子「今日そのみ言葉は実現した」(ルカ福音書第4章16節-32節)


2019120日、顕現節第3主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第14-8節、コリントの信徒への手紙一第121-11節、ルカによる福音書第416-32節、讃美唱119/2(詩編第1199-16節)

2019120日、顕現節第3主日礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第14-8節、コリントの信徒への手紙一第121-11節、ルカによる福音書第416-32節、讃美唱119/2(詩編第1199-16節)


説教骨子「今日そのみ言葉は実現した」(ルカ福音書第4章16-32節)

顕現節第3主日となり、先週までの白から緑に、教会暦で用いる色も変わりました。緑の時期に、私どもは、主イエスの語られたみ言葉となされたみ業を順次聞いていきます。今日の個所は今年になって初めての緑の季節に、主イエスが、育ったナザレで、ヨルダン川で洗礼を受け、続いて、荒れ野で霊によって40日間の試みを受け、故郷ナザレの会堂における、公生涯に入って初めての説教が記されています。一年の始めのこの時期に、主イエスが礼拝において語られた説教をご一緒に学んでスタートを切れますことはまことに幸いであります。いつものように主は、安息日に会堂に入って来られ、係りの者からイザヤ書の巻物を受け取られ、開いて、第61章の1節、2節の個所を見出されます。「主の霊が私に向かってある、主がわたしに油を注がれたからである。貧しい者に福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、盲人たちには視力の回復を、踏みにじられている者たちを自由にして送り出すために、主がわたしを遣わされたからである。そして、主のご好意の年を告げるためである。」主イエスは、朗読を終えると係りの者にその巻物を巻いて返し、お座りになります。会堂にいるすべての者の目が彼を凝視していたとあります。すると、主は、「この聖書のみ言葉は、今日、あなた方の耳において満たされた」と言われて、説教を始めたとあります。そして、すべての者は、彼に好意的に証言し、主イエスの口から出る恵みの言葉に驚いていたとあります。しかし、「これは、ヨセフの息子ではないか」と語っていたと続いています。郷里の人々は、主イエスの出自、人間的な側面に思いを寄せて、賛嘆から訝しむことへと移るに至るのであります。主イエスは、それを見て、お答えになられ、「あなた方は、『医者よ、自分自身を癒せ』ということわざを引いて、あなた方は、カファルナウムで私がしたことと聞いていることどもを、ここ故郷でもしてくれと言うだろう。しかし、まことに言っておくが、預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ。エリヤは、干ばつが3年6カ月続いたときに、イスラエルのやもめの下にではなく、サレプタのやもめのところにだけ遣わされ、エリシャは、シリア人ナアマンの重い皮膚病を癒したのみであったと告げます。彼らは、心を開き主なる神に対して従順であったからであります。ナザレの人々はこれを聞いて、イエスを殺そうとさえします。だが私たちは、毎週、この日の主イエスが説かれた、あなたたちの罪は赦されているとの礼拝につながり続けたいものです。

顕現節第3主日となり、先週までの白から緑に、教会暦で用いる色も変わりました。緑の時期に、私どもは、主イエスの語られたみ言葉となされたみ業を順次聞いていきます。今日の個所は今年になって初めての緑の季節に、主イエスが、育ったナザレで、ヨルダン川で洗礼を受け、続いて、荒れ野で霊によって40日間の試みを受け、故郷ナザレの会堂における、公生涯に入って初めての説教が記されています。一年の始めのこの時期に、主イエスが礼拝において語られた説教をご一緒に学んでスタートを切れますことはまことに幸いであります。いつものように主は、安息日に会堂に入って来られ、係りの者からイザヤ書の巻物を受け取られ、開いて、第61章の1節、2節の個所を見出されます。「主の霊が私に向かってある、主がわたしに油を注がれたからである。貧しい者に福音を宣べ伝え、囚人たちに解放を告げ、盲人たちには視力の回復を、踏みにじられている者たちを自由にして送り出すために、主がわたしを遣わされたからである。そして、主のご好意の年を告げるためである。」主イエスは、朗読を終えると係りの者にその巻物を巻いて返し、お座りになります。会堂にいるすべての者の目が彼を凝視していたとあります。すると、主は、「この聖書のみ言葉は、今日、あなた方の耳において満たされた」と言われて、説教を始めたとあります。そして、すべての者は、彼に好意的に証言し、主イエスの口から出る恵みの言葉に驚いていたとあります。しかし、「これは、ヨセフの息子ではないか」と語っていたと続いています。郷里の人々は、主イエスの出自、人間的な側面に思いを寄せて、賛嘆から訝しむことへと移るに至るのであります。主イエスは、それを見て、お答えになられ、「あなた方は、『医者よ、自分自身を癒せ』ということわざを引いて、あなた方は、カファルナウムで私がしたことと聞いていることどもを、ここ故郷でもしてくれと言うだろう。しかし、まことに言っておくが、預言者は自分の故郷では受け入れられないものだ。エリヤは、干ばつが3年6カ月続いたときに、イスラエルのやもめの下にではなく、サレプタのやもめのところにだけ遣わされ、エリシャは、シリア人ナアマンの重い皮膚病を癒したのみであったと告げます。彼らは、心を開き主なる神に対して従順であったからであります。ナザレの人々はこれを聞いて、イエスを殺そうとさえします。だが私たちは、毎週、この日の主イエスが説かれた、あなたたちの罪は赦されているとの礼拝につながり続けたいものです。

2019年1月14日月曜日

説教骨子「ヨハネの洗礼から始まった出来事」(ルカ福音書第3章15節-22節)




2019113日、主の洗礼日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第421-7節、使徒言行録第1034-38節、ルカによる福音書第315-22節、讃美唱29(詩編第291-10節)

説教骨子「ヨハネの洗礼から始まった出来事」(ルカ福音書第3章15-22節)

今朝は、主の洗礼日の礼拝で、先週の顕現日礼拝に続いて、教会で用いられます聖壇の色は白であり、これは神の栄光を示す色であります。2019年の年の始めに、主の洗礼の記事が必ず読まれ、今年は、3年サイクルの聖書日課のC年であり、ルカ福音書の個所第3章15節から22節が与えられています。
先週は一年の初めての主日の礼拝が、顕現日と重なり、マタイ福音書第2章1節から12節が読まれました。一年の始めに、私どもは、今年も導いてくれるベツレヘムの星について思いをひそめ、今日はまた、主イエスが、私どものために受けてくださった洗礼の記事を読んで、私どもが受けている洗礼、聖霊と火における洗礼について、思いをひそめたいのであります。
今日の記事は、洗礼者ヨハネの語った言葉と、ヨハネの出来事、そして、主イエスの受けた洗礼のときの出来事が記されています。ヨハネから洗礼を受けていた人々、待ち望んでいた人々は、もしかしたら、この人こそメシアではないかとあれこれ考えていたのですが、これをヨハネは、自分はメシアではないと断言し、自分より後に来る方は、自分よりも力ある方で、自分はその人の靴の紐を解くにも値しないと言い、自分は水で洗礼を授けているが、その方は聖なる霊と火においてあなた方に洗礼を授けると答えます。そしてその方は、手に箕を持って、風にあおらせて脱穀したからは吹き飛ばし、麦は倉に納め、脱穀場を清めると預言しました。ところが、このヨハネを、ヘロデ・アンティパスは、ヘロデアのことで糾弾したので、獄に入れて悪事を更に加えたとあります。それに続けて、ルカは、主の洗礼の記事を書いているのであります。まず、先駆者ヨハネが登場し、その後に、主イエスの宣教が始まることを、ルカは強調しているのです。そして、起こったことには、民が皆洗礼を受けていたとき、主イエスも洗礼を受け、祈っておられたのであり、それに続けて、天が開け、聖霊が、鳩の肉体の形で、彼に向かって下り、そして、天から声が成るのであります。「あなたは私の子、愛する者、私はあなたを喜んでいる」と。主イエスの祈りにおいて、私どももまたその聖霊を受ける洗礼に与った、あるいは、与ろうとしている一人一人であります。私どもも、主イエスの祈られる中を、この一年、祈りつつ、私どもの受けた洗礼と共に歩めるのです。アーメン。

2019年1月10日木曜日

説教「主の星に導かれて」(マタイ福音書第2章1節~12節)



201916日、顕現日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第601-6節、エフェソの信徒への手紙第31-12節、マタイによる福音書第21-12節、讃美唱72(詩編第721-15節)

説教「主の星に導かれて」(マタイ福音書第2章1節~12節)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 今日は、今年に入って、最初の主の日であります。そして、今日はたまたま、1月6日でありまして、顕現日であります。1月の第1日曜日でもあって、このあと、聖餐式もひかえています。そして、毎年、この日には、先ほど一緒に読みましたマタイによる福音書第2章1節から12節までが読まれます。顕現日は、ローマ・カトリック教会など西方教会では、クリスマスが1224日ないし25日に祝われるようになるよりもずっと前から、大事な祝祭日として盛大に祝われるようになっていたといいます。
 
それは、なぜなのでしょうか。それは、自分たち異邦人が、ベツレヘムに生まれた救い主み子主イエスのもとまで、今日の主の星に導かれて、たどり着き、最初の礼拝がささげられたことを、西方教会の人たちが、感謝をもって受け止め、この記事を毎年毎年、この一年の始めに記念することがふさわしいと、考えたからでありましょう。
 
その伝統に従って、私たちルーテル教会では、1月6日を顕現日として定め、あるいは6日以後の最寄りの主の日を、顕現主日として守り、毎年毎年、この個所を、繰り返し繰り返し開いて、説教を聞くのであります。そして、私たちは、この一年、どのような旅路を歩むのだろうか、また、歩むべきなのかを共に考えるのであります。この個所から、しばらく、ご一緒に、今日の福音を中心として、ご一緒に考えてみたいと思います。 
 
さて、今日のみ言葉は、「で、そのイエスがお生まれになったのは、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムにおいてであった」ともとの文では始まります。あえて「そのイエスが」というのは、第1章で、ヨセフが夢で天使が現れ、この子をイエスと名付けなさいとお告げがあり、それは、この民を罪から救い出すからであると言われた「そのイエスが」ということであります。
 
そして、その時、東方から占星術の学者たちが、エルサレムに到来してこう告げるのであります。直訳しますと「お生まれになったユダヤ人たちの王はどこにいますか。私どもは、その方の星が昇るのを見たので拝むために来たのです」と。
 東方からというのも、どこなのか断定はできません。ユダヤ人たちが離散する民として定住するようになっていた今のイラク当たりのバビロンであったのか、ペルシャか、それともアラビア当たりだったのか、それともエジプトからであったのか。

そして、占星術の学者たちと、新共同訳聖書では訳されていますが、それは、マゴスという言葉で、複数形はマゴイであります。以前は博士たち、賢人たち、学者たちとも訳されてきましたが、一方では、魔術師、星占いとも訳される言葉であります。
 
しかし、はっきり言うことができるのは、彼らは、東方で、御子救い主、主イエスの星が昇るのを見て、その方を拝するために、危険も顧みず、はるばると旅をしてやって来た者たちであるということです。彼らは、主の星に導かれて、ユダヤ人の王として生まれた方を、自分たちの救い主として、見届けるためにやって来た者たちであったということであります。
 
星のことを考えると、私たちはどこから来て、どこへ行くのかということを考えさせられます。私たちは、何ゆえに生まれて、また、死んだらどこへ行くのだろうと広大な宇宙と星を仰ぎ見ながら考えさせられます。

 このマゴスたちは、東方で、この方の星の昇るのを見て、それに導かれて、言わば人生のなぞを解きに来た、本当に人間の生きる意味を知ろうとし、救い主に出会い、ひれ伏すために、ユダヤ人たちの聖都エルサレムにやって来たのであります。
 
ところが、これを耳にしたヘロデ王は、原文から言いますと、「うろたえた」という強い言葉で記されています。しかも、全エルサレムもそうであったというのであります。自分こそがユダヤ人たちの王ではないのか。お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか、と告げているのを見出したヘロデ王は、平穏なままに聞き過ごすことはできなかったのであります。

 彼は、紀元前4年になくなっていますが、南のイドマヤ人との混血の生まれで、政治家としては、エルサレム神殿の修復・拡張を始め、長きにわたって辣腕をふるった権力者でありました。自分の地位を危うくする、別の王、救い主メシアの誕生はそのままにしておくわけにはゆかなかったのであります。

 では、なぜ、全エルサレムもそうであったとマタイは記しているのでありましょうか。もちろん、エルサレムには、み子の降誕を待ち望み、みどりご主イエスを祝福したシメオンや女預言者アンナのような人々もいたのであります。

 しかし、この都エルサレムの群衆は、やがて、主イエスが成長して、人々の前に現れ、公生涯を終えようとするとき、主イエスを十字架につけよ、と叫び、迫害する側につくのであります。救い主、主イエスの誕生の出来事は、それによって、立ち上がらされる者たちと、倒れる者たちとに二分されるのであります。
それは、二千年前のこのときも、二千年後の現在でも同じであります。
 
さて、ヘロデは、このとき、民の祭司長たちや律法学者たちを皆呼び寄せて、メシアは、どこに生まれることになっているのかを問いただします。
 彼らは言います。それは、ユダのベツレヘムです、預言者を通してこう書かれています。
「ユダのベツレヘムよ、お前はユダの君たちの中で決して最小の者ではない。なぜなら、お前の中から、イスラエルの民を牧する指導者が出て来るから」と。
ベツレヘムの生まれで、羊飼いであったダビデ王の子孫からメシア、救い主が現れると当時の人々は堅く信じていました。ですから、学者たち、あるいは祭司長たちはすぐに聖書を引用して答えることができました。しかし、彼らはそれを知っていても、自分たちがベツレヘムに生まれている御子に会いに行こうとはしません。彼らは現状維持の方がいいのであります。博士たちのように出ては行かないのであります。
 
さて、それを知らされたヘロデ王は、今度は、マゴスたちを密かに呼び寄せ、主の星が輝く出でた時を正確に知ろうとしていました。そして、彼らをベツレヘムへと送り出しながら、命じるのです。その子のことを詳しく調べて、見つかったらすぐに、報告してくれ。そうすれば、私もその子を拝みに行くから」と。
 
マゴスたち、博士たちは、その言葉を聞き流しながら、出発します。すると、彼らが、その昇るのを見た星、主の星が彼らを先導していき、その子のいる家の真上で止まります。彼らはそれを見て、甚だ大きな喜びを喜んだと、原文には表現されています。それは、真珠の商人が見事な真珠を見つけて大喜びで、他のものを全部売り払って買い求めたと主イエスが譬えられたような、何にも替えがたい喜びを、すなわち、救い主、幼子イエスの下にまでたどり着いた喜びを表現しています。
 
そして、彼らは家に入ると、その子と彼の母マリアを見出し、跪いてひれ伏すのです。そして、彼らの宝の箱から贈り物を取り出し、ささげます。それは、黄金、乳香、没薬でありました。それは、ユダヤの国では取れない高価な贈り物でありました。そして、夢の中で、ヘロデのもとへと帰るなと警告を受けたので、彼らは別の道を通って、彼らの国へと立ち去ったというのであります。
 
マゴスたち、彼らは、どのような素性のものであったのかは断定はできません。魔術師のようなものであった者たちが、救い主に出会って、それまでの生き方を悔い改め、商売道具であったものを、引き換えにささげて、新しい生き方をするようになって帰って行ったのか。あるいは、後の伝説のように、彼らは王であったのか。異邦人の王たちが、イスラエルのまことの王、主イエスに帰依することになったものか、事情ははっきりと証明することはできません。
 
ただ確かに言えることは、神の民として選ばれているイスラエルの民が気づくよりも先に、救いからは遠いとされていた異邦人たちが、はるばる東の国から、主の星を見出して、ベツレヘムへと導かれ、幼子主イエスにまみえて、ユダヤ人たちよりも先に、み前にひれ伏し、尊い献げものをして、それまでとは違う別の道を通って歩む者とされて帰っていったということであります。

私どもも、この一年の始めに、今日の主日の祈りにもあったように、み子がベツレヘムでお生まれになったように、私どもの心の中にも生まれるようにと願うものであります。そして、主の星が私たちの新たな一年をも導いてくれることを、私どもは知っています。この一年が皆さん、お一人お一人にとって祝福された歩みとなりますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2018年12月29日土曜日

―最近読んだ本からー「若い詩人の肖像」          著者   伊藤整


―最近読んだ本からー「若い詩人の肖像」
         著者   伊藤整
発行者 佐藤亮一
発行所 新潮社
発行  昭和331220
        (新潮文庫 88F)
  高校生の頃であったか、大学生の頃であったか、伊藤整のこの本を手にしたことがあるように定かではないが、淡い記憶がある。大正末年から昭和初期の文学史上も、激しい変遷の時代に「若い詩人」としての評価を受けるまでの葛藤と青春の闘いを克明に記した自伝的小説である。
 まだ、著者が20代の若い時代の記録であり、彼は、叙情的詩人として、認められるまでの内面的苦悩や性の葛藤、恋愛の記憶も赤裸々に描写している。
 詩人とは、言葉に生きる芸術家なのであろう。詩人として出発してゆく彼は、その心理的描写力、あるいは街の描写や付き合ってゆく人たちの写実的描写は、正確であり、急所をつかんだ、そつのない文体で記されている。時代と制度は今と違っていてよく分からないが、彼は地元の小樽市で英語の教師をしながら、時を待ち、備える。そして、東京に、今の一橋大学であろうか、詩人として出発するために、入学して、20代の苦学へと歩みだすところで、この小説は終わっている。出会っていく文学界の人々も同時代の20代、30代の若い青年たちが中心である。小林多喜二も同郷であり、今でいう高校生の頃から知り合っている。ある意味で、大正末年、昭和初期の時代が、彼らを生み出し、伊藤整をも育てたということが出来よう。
 詩人、小説家という存在は、多くのすぐれた書物を読みながら、自分の独自の文章表現や写実力を身に着けてゆくことがわかる。そして、伊藤整の場合、生まれ持った繊細さで、自他の心理の微妙な動きを把握し、それを表現していったことが窺える。
 伊藤整の文章は、一見真似することもできるのではないかと思わせる、虚飾の少ない写実的な描写なのだが、そこまで簡潔に、むだなく、過不足なく表現するというのは、やはり一朝一夕でできるものではない。それは、長い蓄積と練磨・考察があってはじめて可能となる、描写、表現なのである。
 そして、伊藤整は、偽善や虚飾を嫌い、自分の中にある嫌らしさも正直に見据えて、忌憚なく吐露してゆく。それは、教会でなされる説教にも生かせる、学ぶべき生き方ではないか。説教者は、多くの文学者たちの宝庫からも、福音の真理を説くうえで、学ぶべきものを多く持っているのではないか。そして、そのためには、伊藤整がしているように不断に学び続ける実践しかあるまい。

2018年12月19日水曜日

―最近読んだ本からー「子どものための説教入門(信徒のための神学講座)」          著者   加藤常昭


―最近読んだ本からー「子どものための説教入門(信徒のための神学講座)
         著者   加藤常昭
発行者 日本キリスト改革派教会
    西部中会教育委員会
発売元 聖恵授産所出版部
発行  2001417
印刷  聖恵授産所 
        (定価):1,500円)
 「子どものための説教入門」、日本の説教学の第一人者である加藤常昭先生が、日本キリスト改革派の教会学校のための講習会で語られた講演や、質疑応答などで、教会学校における子どもへの説教はいかにあるべきかを、長い牧会経験や、東京神学大学で20年にもわたって説教学を教えて来られた体験をもとに、神学的にも実践的にも、丁寧に追求された入門書であるが、むしろ、説教をする者にとっての必読の書とも言えるのではないか。
 子どもは、まだ幼いので、罪とか、十字架とか復活について語るのは適当ではないのではないかとの考え方に対して、先生は、明確に否と答えておられる。
 子どもも、死を恐れるし、罪は分かるし、大人たちと同じように、罪責や、恥ずかしさなども感じているのであり、ただ、年齢に応じて理解できるような説教あるいは、その語り口が求められねばならないと言われる。確かに幼子たちにも、福音は分かりやすく説けば、彼らは理解できるのであると、私も感じている。加藤先生は、子供たちの年齢に応じて、それにふさわしい説教準備があるのであり、第1黙想から、第2黙想へと、なるべく早めの準備に取り掛か、り、一人一人の子どもたちのために祈りながら説教を準備する必要を強調されている。そして、そもそも「教会学校」という呼び方は、いかにも学校教育を思させ、適当ではなく、むしろ「子どもの礼拝」と言うべきではないかと提唱されている。現在の日本の教会学校の不振に対して、根本的な策を取ることが急務ではないかと警鐘を鳴らしておられる。役員会、教会が一体となって教会学校教師たちとの協働に知恵を絞ることを提案されている。 子どもへの説教のポイントとして、黙想と適度な注解書などを通して、集中的に、福音を説き明かすことが大事だと言われる。そして、祈りをするなら祈りも含めて、説教の原稿を書いてみる。それによって、子供に伝わる明瞭な福音を、本番では原稿はなるべく見ないで、子どもたちを見つめながら伝えるように集中するようにと奨めておられる。この書は教会学校の教師たちの研修会での講演や質問などを通して成ったものであるが、むしろ、牧師たちにも、通用する説教で求められていることを、噛んで含めるようにして説かれた「説教論」と言えよう。