2020年10月27日火曜日

信仰の賜物(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第21主日礼拝(2020年10月25日)
レビ記19:18  Ⅰテサロニケ2:7-8 マタイ福音書22:41-46


 本日の福音書では、ファリサイ派の人々がイエス様を試そうとして問答を仕掛けてきます。彼らに対してイエス様は「あなた達はメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」と、逆に彼らに問いかけました。ファリサイ人達は「ダビデの子です」と答えました。


 旧約聖書には、いつかイスラエルの大英雄・ダビデ王の血を引くものの中からイスラエルを救いに導く救い主(メシア)が登場する、その人はダビデゆかりの街ベツレヘムで生まれるとはっきり書かれていました。

 このダビデ王とはイエス様の誕生したよりも1000年も昔に活躍したイスラエル2代目の王様です。神様は初代の王サウルの娘婿で国民の人気も高かったダビデを次の王様に指名しておられましが、サウルは権力の座にしがみつこうとするあまり、ダビデを亡き者にしようとします。

 しかしダビデは、サウル王に危害を加えることは信仰に反すると堅く信じ、逃げて逃げて逃げまくります。やがてサウルが異民族との戦いに敗れてなくなるとようやく王座に就いて、国を繁栄に導くのです。失敗もありましたが、ダビデ王といえば神に愛された素晴らしい王様で、ダビデ王の時代とはイスラエルの輝かしい時代の代名詞でした。

 イエス様の地上での父であるヨセフはダビデの血筋でした。クリスマスシーズンの礼拝で読まれるルカ福音書にはこう書かれています。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。ヨセフは平民で大工をしていたけれど、遠い先祖は王族で、ベツレヘムに住んでいたのです。

 もちろんイエス様は聖霊によって乙女マリアの胎に宿られた神様の御子ですから、ヨセフと血縁関係はありません。ただ、民衆が信じる救い主「ダビデの子」「ベツレヘム生まれ」という要素は満たしておられました。


 説明が複雑ですが、イエス様がファリサイ派の人々に「メシアは誰の子か」と問いかけ、彼らが自信を持って「ダビデの子です」と答えたのにはこのような経緯があったのです。

 そんな彼らの答えに対して、イエス様は再び問いかけます。「聖書によれば救い主はダビデより立場が上だと書かれているのに、救い主がダビデの子だというのはどういうわけか」。ファリサイ人達は聖書に詳しいだけに、かえって誰も言い返すことができなかったのです。

 イエス様は、確かに形の上ではダビデの子孫としてベツレヘムに生を受けられます。しかし、それが大事なことではない、と言われます。

 ダビデはどれほど英雄であっても一人の人間に過ぎず、彼の作り上げた王国は4代目で分裂し、崩れていきました。大英雄であろうとも、人間の力だけで未来永劫繁栄の続く国を作り上げることはできないのです。

 イエス様は、この問答を通して、ダビデの子孫が人間を救い解放する救い主(メシア)となるのではない、と言われます。イエス様は人々を納得させるためにも、わざわざ人となられ、ダビデの子としてベツレヘムで生まれてくださったのであり、むしろ神が人となることに重要な意味があると言われたのです。

 残念ながら私たちは、イエス様の教えをファリサイ人達は理解しなかったこと、民衆に裏切られ十字架の上で血を流されることを知っています。何一つ罪を犯したことのない神が人間になり、人間の犯した全ての罪を引き受けるために十字架にかかられたことを見つめる時、私たちは本当のメシア、本当の救い主とは誰なのかを知ることになるのです。


 さて、本日は宗教改革を記念しての礼拝です。ルーテル(ルター)の生まれた500年前、キリスト教はヨーロッパ諸国で絶対的な力を持っていました。宗教指導者達は特権階級として君臨し、聖書を読むことができるのも彼らだけ、一般民衆は聖書や信仰についてあれこれ考えず、教会に言われたことだけ素直に守っていれば良い、という状態でした。

 そんなヨーロッパをたびたびペストが襲い、貴族社会とそれに繋がる教会は財政難に陥ります。そこで手軽にお金を集める方法として、免罪符が考え出されます。教会は「免罪符を買いなさい、そうすれば徳を積むことになる」と人々を煽りました。免罪符は飛ぶように売れましたが、それに疑問符を投げかけたのが、ルターだったのです。

 ルターの説くキリスト教はシンプルでした。聖書には、イエス・キリストご自身が私たちの道となり、天国へといざなってくださると約束されている、と説いたのです。この世界を創った神様がどれほど人間を愛し、その働きに期待しておられるかを、聖書を通して説き明かしていきました。市井で歌われる流行歌を利用して賛美歌を作り、文字の読めない人々にも教えを広めたのは有名な話です。

 こうしてルター達の働きによって改革された教会では、金持ちになる方法や、病気が治る奇跡とか、そう言ったことにはほとんど触れません。ただ、この地上に生きている私たちが、どうしたら互いに平和に暮らしていけるかを共に探っていこう、と語りかけるのです。


 宗教改革を覚えるこの日、マルチン・ルターが取り戻し与えてくれたイエス・キリストを正しく信仰する心を持って歩んでまいりましょう。




今日は個人的な用事を済ませるついでに
草間彌生氏の展示で有名な
松本市美術館まで足を伸ばしました


「みんなのミュシャ」展を見るためです
夫婦でゆっくり美術館は久しぶりです



写真撮影OKの場所で
ちょっと遊んでみました



それにしても大迫力です、草間彌生!
何枚でも撮ってしまいます
《幻の華》2002年の作品だそうです






2020年10月21日水曜日

神のものは神に(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第20主日礼拝(2020年10月18日)

イザヤ書45:5-7 Ⅰテサロニケ1:1-10 マタイ福音書22:15-22


 本日の福音書では、ファリサイ派とヘロデ派人々が慇懃無礼な態度で、「イエス様あなたは神の道を教えておられます」と語りかけます。


 ファリサイ人たちは、旧約聖書の昔から律法を守って来た、国粋主義者と言って良い人々です。しかし、いつの間にか教えを自分たちに都合よく解釈し、特権階級の上にあぐらをかいて生きていました。

 一方、ヘロデ派という人々は、ローマの後ろ盾を得ながらヘロデ王がユダヤで政治を続けることを望む、よく言えば国際派の政治色の強い人々の集まりでした。

 伝統を重んじるファリサイ派と、ローマに迎合して平和を保とうとするヘロデ派の人々の仲は良くありません。しかし彼らにとって当面の共通の敵はイエス様でした。彼らはこの日手を組んでイエス様の失脚を謀ったのです。

 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」これはもちろん言葉の罠です。イエス様が「納めなさい」と言えば、ヘロデ派は「イエス様は皇帝が怖いんだ」と嘲笑い、ファリサイ派は「ローマに税金を納めるのが正しいとは民族の裏切り者め」と攻撃するでしょう。周囲の群衆もローマの高い税金に苦しめられていましたから、イエス様が「納めなさい」と言われたら、失望するでしょう。

 もしイエス様が「納める必要はない」と答えたなら、ヘロデ派は「ローマ皇帝に逆らう反逆者め」と攻撃し、ファリサイ派は「イエス大先生は税金納めなくても良いとおっしゃったぜ」と嘲笑うでしょう。

 この問いかけは「納めなさい」と答えても「納める必要はない」と答えてもダメなのです。しかし、イエス様はすべてお見通しでした。


 イエス様は彼らに「税金に収めるお金を見せなさい」とおっしゃいました。挑発者たちは言われるままにデナリオン銀貨をイエス様に見せます。それにはローマ皇帝の肖像画が刻まれていました。実はユダヤの様なローマの属国は独自で銀貨を作ることが許されず、ローマ皇帝の肖像入りのローマ銀貨を使うしかありませんでした。

 しかしユダヤ教では神様の像を作ったり絵に描いたりすることを禁じていおり、ここから派生して、一般的な肖像画も描かれなかったようです。そんな彼らですから皇帝のコインは嫌で仕方なかったでしょうが、使うしかありませんでした。

 さて、イエス様の問いかけの真意を見抜けないファリサイ人たちは、イエス様が「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられると、あっさりと「皇帝のものです」と答えます。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に返しなさい」とおっしゃったのです。


 わかりやすく説明するならば、ユダヤ人は、ローマ貨幣を使用し、ローマ帝国から社会的恩恵を受けているのだから、納税という形で返すのは、当然であるとされたのです。しかし、もちろんそれだけではありません。イエス様は続けて「神のものは神に返しなさい」と言われたのです。

 当時、エルサレム神殿に献金をする際、神殿サイドから「肖像画の刻まれている異民族の通貨は神様が喜ばないから、特別な両替商で献金用のコインに交換しなさい」と指示されました。神殿御用達の両替商は手数料を取って儲け、利益の一部を祭司達に納めていました。

 つまり祭司達は神殿に仕える人々でありながら、献金の一部を自分たちの懐に入れていたのです。これは周知の事実で、ユダヤ社会全体が「神のものを神に返していない」いませんでした。しかし多くの人々がそれを見て見ぬ振りをしていたのです。

 イエス様に議論を挑んだ人々は、先に、イエス様に問われるままに「この銀貨は皇帝のものです」などと答えてしまっていますから、今さら「皇帝のものってなんですか?神のものってなんですか?」などという幼稚な問いかけはできません。また、宗教の中心である神殿ですら「神のものを神に返していない」ことも知っています。ですからそれ以上議論を続けられなくなってしまったのです。

  

 この議論は「さすがイエス様」というだけでなく、大切なメッセージが含まれています。それは「私たち人間は神のものである」という事です。

 ファリサイ派もヘロデ派も、心の中では今の社会が正常であるとは思っていなかったことでしょう。しかしローマの支配下にあって、自分の社会的地位を守る事で必死だったでしょうし、危うい均衡を保ちつつその状態を維持していくことも社会の上層部にいる彼らの大切な仕事でした。ただ、そこにある矛盾を、イエス様から強く指摘されたのです。

 この世では何をするにしても先立つものが気になるところですが、「神の国と、神の義を求めるところに、全ては与えられる」と信じることが、私たちクリスチャンが、経済活動最優先の社会の中で生かされている意味でもあるのです。


 「神のものは神に返す。」素直な心を持って神様を第一に愛してまいりましょう。




先日教会員の持ち山に
キノコ狩りに連れて行ってもらいました

探せば松茸も採れる山だそうですが
この日は見つけられませんでした
キノコのことは全く分からず
「え!?これ食べられるの?」の連続です


持って帰っておっかなびっくり
吸い物にしたり
フライパンで焼き付けたり
無事美味しく食べ終わりました
それにしても山国の方はすごい!
と心から思います

2020年10月13日火曜日

信仰を着る(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第19主日礼拝(2020年10月11日)
イザヤ書25:6-8 フィリピ4:8-9 マタイ福音書22:1-14


 本日、イエス様は「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」と話し始められます。

 イエス様は「王様が人々を呼ぶ」「招く」という言葉を何度も使っておられます。これは「大声で呼ぶ」という意味だそうで、神様が大きな声で婚礼に、つまり「神の国」に来るよう呼びかけてくださっているのです。


 当時ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。かろうじて自治や信仰の自由は認められていましたが、政治と宗教のリーダーたちはローマの顔色を伺うばかりで、そこに暮らしている全ての人の神様に対する信仰が危機にさらされていたのです。

 そんな時、洗礼者ヨハネが現れ、民衆に大声で悔い改めを呼びかけ、神様に信頼して生きよう、と導きました。民衆はヨハネの教えに惹かれて集まりましたが、彼の存在を邪魔だと思う権力者に殺されてしまいます。

 民衆は導き手を失ってしまったかに見えましたが、そこに現れたのがイエス様でした。再び素晴らしいリーダーを得たことで、一部の人々はイエス様の存在に熱狂します。

 しかし日に日に高まる人気に、政治や宗教を司る祭司やファリサイ人達はイラつき始めます。彼らは自分たちの立場を守るためにイエス様の教えをまともに聞こうとしませんでした。祭司やファリサイ人達は旧約聖書を通して神様が救い主を遣わしてくださる事を知っていました。しかし彼らはそれを知っていたにも関わらず、イエス様という王子、つまり救い主が到来した時、反発し、信じようとせず、敬おうとしなかったのです。


 このお話の中で、王様はあらかじめ客に招待の日時を知らせています。しかし当日になると招かれた人々は勝手に畑や商売に出かけ、ある者は、せっかく遣わされた王様からの使者を殺してしまうのです。これは旧約聖書を通してイエス様の訪れを知っていたのに拒否した事を表しています。

 イエス様は「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った」と語ります。実はこれはイスラエルの歴史に本当に起こったことでした。西暦70年、ユダヤの国はローマとの戦いに敗れ、滅亡するのです。イエス様はもちろんそのことを知っておられました。


 少し話の先を急ぎ過ぎましたが、イエス様の例え話はユダヤの国が滅亡することだけを表したのではなく、ちゃんと続きがあります。

 予定していた人々が婚礼に来なかったので、家来たちは王様に命じられるままに「町の大通りに出て」貧しい人々を集めます。家来たちは自分ではふるい分けをせず、そこにいた全ての人に、王のもとにゆき、イエス様の祝いの席に着くように促します。

 これは、神様がどんな人でもイエス様を信じるならば、ご自分の元に招こうと決められた事を表しています。異邦人と呼ばれる人々に救いの恵みが告げ広められることをイエス様は宣言なさったのです。


 さて、招かれた人々には素晴らしいご馳走が用意され、その場所は喜びに満ち溢れました。自分など招かれるはずがないと思っていた人々の喜びは大きかったでことでしょう。

 大宴会では、主人が招待した人たちに礼服を用意する風習もあったようです。招かれた人が貧しくて、服を持っていないかもしれないのは承知の上で招いたのですから、王様の側で礼服を用意していたと思われます。誰であれ、素直に主人が用意してくれた礼服を着用するなら、その場にふさわしい者となれました。ところがそこに、婚礼の礼服を拒み、自分の服を着たままの人がいたのです。

 神様である主人が、キリストが来られたことを共に祝うのにふさわしい服をその人のために用意したのに着なかったのです。この人はふさわしいものになるのを頭から拒み、自分のやり方を通そうとしたのです。


 例え話の中で、神様はその人に「友よ」と呼びかけられました。悔い改めのチャンスだったのかもしれません。しかし、この人は黙ったままで、神様の思いをはねつけました。神様がこの地にイエス様を遣わしてくださったことなど無意味だと言っているのと同じでした。それは神様にとって何よりも悲しいことだったのです。


 「キリストを着る」とは、イエス様がこの世でなさったことをお手本として生きていく、ということです。神様が用意してくださった服は、私たち一人ひとりにぴったりに作られた「信仰という名の服」なのです。これを一度身にまとうなら、神様がどれほど私の為に配慮し、考えてくださっているのか分かるはずです。

 私たちは神様に招かれた者達です。私たちが何者であるか承知の上で、神様は「キリストを纏うように」と用意してくださいました。困難なことがあっても、キリストを着て、信仰を着て、自分の生き方をイエス様に導かれるままに変えていこうとする気持ちがあれば良いのです。私達一人一人は神様から大きな声で招かれた、大切な存在なのですから。





牧師館への頂き物2種( ^ω^ )ご紹介
毎年ブドウの産地・勝沼の友人からいただく秋の実り
彼はブドウ農家なので、まさに産直です
素晴らしい甘みです


教会員がお庭でとれた栗をくださったので
栗ご飯にしてみました
ホクホクで美味しいです

2020年10月9日金曜日

土曜学校中止のお知らせ

10月10日に予定しておりました土曜学校は

台風14号の接近が予想されるため

残念ながら中止といたします

次回は11月7日に開催いたします

どうぞご予定ください


教会では11月15日(日)の礼拝で歌っていただく

こども聖歌隊を募集しております

参加ご希望のお子様は

プレゼント用のフェイスシールドを

まとめて購入させていただきますので

10月15日までに下記のメールアドレスか

お電話でお申し込みください


11月7日の土曜学校に参加し、

練習できるお子様に限らせていただきます


メールアドレス:h-asahina@jelc.or.jp

牧師携帯:090 1243 7727





牛乳パックを使ったお家の形の貯金箱は
11月の土曜学校で制作しましょう
クリスマス風の飾りも用意しておきます
基本の形にプラスして作るときっとかわいいですよ




聖歌隊に参加してくれるお友達に
プレゼントするフェイスシールドは
このタイプを予定しています
枚数が決まり次第注文しますので
締切日をお忘れなく!

2020年10月5日月曜日

奉仕の精神(日曜のお話の要約)

 聖霊降臨後第18主日礼拝(2020年10月4日)

イザヤ書5:1 フィリピ3:13-14 マタイによる福音書21:33-46


 旧約聖書を読みますと、ユダヤ民族のリーダーや王様達が間違いを犯すたび、神様が預言者と呼ばれる人々を遣わし、正しい道に導こうとされる様子が読み取れます。しかし権力の座にある者達はいつの時代も預言者の言葉に耳を貸さず、自分のやり方を押し通そうとし、預言者たちを邪魔者として迫害し続けました。その結果、彼らは大変な目にあい、気には滅びる寸前まで行きます。しかし神様の助けと導きにより、イエス様の時代まで、かろうじて国としての体裁を保ち続けることができていました。

 本日イエス様は、この歴史的事実を踏まえて「ぶどう園と農夫の例え」をお話になりました。


 今回のお話では、神様はイスラエルという国をぶどう園にたとえます。農夫たちとは神様によって選ばれたリーダーであり、神様は彼らに「農園」、すなわちこの国を託したことが描かれています。

 神様が貸し与えてくださった農園は設備が整っており、神様の御心に従って素直に働くなら素晴らしい収穫の得られる所でした。農夫たちは確かによく働いたようで、ぶどうはちゃんと実りました。ところが収穫目前となった時、貸し与えてくれた神様への恩よりも目の前の豊かさに目がくらみ、この土地を自分のものにして、収穫を独り占めしたい、という浅ましい心を起こしたのです。

 そんな場所に僕(預言者)が遣わされますが、農夫たち(ユダヤの権力者)は、主人(神様)から遣わされた彼らを袋叩きにしたり石で打ち殺したりと滅茶苦茶な事をします。ところが主人(神様)は僕(預言者)が何度ひどい目にあわされても、農夫たち(ユダヤの権力者)が悔い改めるのを期待なさいました。最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と送り出したのです。しかしその息子は殺されてまったのです。

 神様から遣わされた「息子」というのは、言うまでも無くイエス様のことです。イエス様はご自分が十字架に架けられることをご承知の上で、このようなお話をされたのです。


 イエス様は、祭司長やファリサイ人達(ユダヤの権力者)に「ぶどう園の主人はこの農夫たちをどうするだろうか」と問いかけます。

 すると彼らは「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すだろう」と答えます。彼らは「農夫たち」が自分であることに、全く気づいていないのです。

 イエス様はこの答えをお聞きになって、彼らの鈍さにため息をつかれたかもしれません。そこで続けて「隅の親石」の話を始めます。これは日本人にはピンと来ないかもしれませんが、ユダヤ人にとって慣れ親しんだ詩篇からの引用なので、祭司長やファリサイ人たちもイエス様のお話が自分たちへの強烈な批判であることを理解します。

 彼らはすぐさまイエス様を捕らえたかったことでしょう。しかし、その場にいた他の群衆はイエス様のことを預言者だと信じて尊敬していました。もし自分たちがイエス様に危害を加えたら、先ほどの「預言者を迫害する」お話を裏付けることになってしまう、そう気づいたファリサイ人たちは、この時は踏みとどまったのでした。

 

 このお話が祭司長やファリサイ人たちへの皮肉で終わっているだけならば、私たちがこのお話を深く読み込む必要はないかもしれません。しかし、聖書の御言葉は常に私たちにも向けられていることを知っておかなければならないのです。

 この「ぶどう園」を「教会」に当てはめてみましょう。教会は神様から貸し与えられた素晴らしい収穫の場です。私たちは豊かな実りを得るために、神様によってこの場に集められました。イエス様のみことばを信じ、神の国を告げ広めるために共に働く人々を増やしていくことが豊かな実りに例えられるでしょう。

 私たちが方向性を誤った時も、一人一人に与えられた聖書を牧師の手ほどきを受けつつ、謙虚に正しく読み、共に心を一つにして祈るなら、預言者の登場を待つまでもなく、神様の御心は伝わってきます。

 私たちが、ここで、神の国を実現していく時、神様など知らない、分からない、深く知らなくてもいいという人も時にはやってきます。ぶどう園に来ると働かされるから嫌だ、と言う人もいるでしょう。

 そういった人々を神様の愛の中に捉えていくには、先に働く私達が正しくみ言葉に仕えてゆくことが何よりも大切です。形だけ礼拝を守るのではなく、私たちの言葉や行いの中に、イエス様との繋がりが見えていなくてはなりません。

 一人一人が努力した結果はすべて神に委ねてまいりましょう。自分はキリストにあって、ぶどう園で働ける労働者の一人であることを謙虚に受け止め、神様を、そしてイエス様を信じる人々が一人でも多く誕生することに、無常の喜びを覚えながら、御心、御ことばを聞いてから、仕える喜び、奉仕の精神を持って、共に歩んで参りましょう。





日に日に秋が深まっていきます
近所の公園では金木犀が花盛り
教会にもその香りが届きます
町中に良い香りが漂っています



…ということで10月の掲示板の中の
レゴ作品は「秋の遠足」
紅葉した山で子供達が遊んでいる様子
のつもりなのですが
ちょっと分かりにくかったかな?

2020年9月29日火曜日

考え直す勇気(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第17主日礼拝(2020年9月27日

エゼキエル書18:26-28 フィリピ2:1-2 マタイ福音書21:28-32


 本日の福音書は、イエス様のたとえ話にもよく登場する「ぶどう園」が舞台です。この物語は、イエス様をおとしめようとする祭司長と民の長老たちに向けて語られています。ということは、イエス様はこのお話に厳しいメッセージを込めようとしておられことが予想できます。

 お話の中の「ある人」とはもちろん神様のことです。神様が直接、ご自分の息子たち、すなわち人間たちに「ぶどう園で働きなさい」と声をかけておられます。これに対する人間の反応は2種類です。「嫌だ」と言いつつ、考え直してちゃんと働いた人と、「やります」と言っておいて何もしなかった人に分かれたのです。


 実は本日の旧約聖書のエゼキエル書にもふた通りの人物が出てきます。一人目は「正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬ」パターンです。この人は「自分が行った不正のゆえに死ぬ」と神様に宣言されています。

 二人目は「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」パターンです。神様は、悔い改めて背きから離れた人は、救われて生きる、と言われます。

 エゼキエル書はイエス様の時代から500年以上前に書かれた預言書です。神様はイエス様を地上にお遣わしになる数百年も前から、預言者を通して「悔い改めて背きから立ち直れ」と呼びかけておられたのです。そして今日読んでいただいたところの少し先ですが、神様は「従わないなら滅ぼす」とはおっしゃっていません。「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と言われるのです。

 神様が私たち人間に悔い改めることを望まれる理由はただ一つ、私たちに生きて欲しいからだ、と預言者エゼキエルの口を通して語りかけてくださるのです。

  

 本日の福音書を書いたマタイは、子どもの頃から宗教教育を受けてきましたが、一旦はそれを捨てました。ユダヤ人でありながらローマの手先、徴税人となり、同じユダヤ人からから罪人とされました。しかし欲するものを得ても満たされないことに気づいた時には、もう引き返せないところまで来ていたのです。自分の人生を諦めていた時に、神の国に来いと呼びかけてくださったのがイエス様だったのです。このお話に2度出てくる「考え直して」という言葉は、そんなマタイの心情を反映しているのでしょう。

 マタイは、イエス様の導きによって悔い改め、つまり「考え直す」力を与えられ、神様のために働く道を選んだのです。エゼキエル書の言葉で言うなら「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」、まさにそのような人生に足を踏み入れたのです。

 一方、このお話を聞いていたのは、先ほど言いましたように祭司長と民の長老たちです。彼らはその時代のエリートたちで、神様のお言いつけにしたがって生きてきたと自負していました。しかし彼らはイエス様を神様とは認めず、その教えを受け入れようともしませんでした。

 彼らは自分たちのしていることが神様のお働きを妨害していることになっているとは思わなかったかもしれません。それでもイエス様を迫害することは神様の愛を拒否することと同じでした。

 では、この人たちはエゼキエル書にあったように、「自分が行った不正のゆえに死ぬ」という運命なのでしょうか。


 注意していただきたいのは、この時イエス様が「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入る」と言われたことです。これは徴税人や娼婦たちだけが救われる、という意味ではなく、この人たちが率先して導くという意味なのです。

 イエス様に示され、祭司長や民の長老たちもまた、自分が傲慢で間違っていたと気づいたなら、そこから考え直して神様の深い愛との結びつきを取り戻せるはずなのです。神様は「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と呼びかけられる方だからです。


 イエス様に導かれるなら、誰もが赦された者へと変わり、喜びをもって、神様の御心を行える者へと変えられていくのです。その過程は凸凹と曲がりくねっていて、舗装された一本道のを歩くようなわけにはいかないかもしれませんが、確実に神のぶどう園へと、天国へとつながっている道なのです。



近くの「りんご並木」と呼ばれる植え込みの
りんごも色づいてきました


散歩コースにある公園の噴水も
爽やかに秋を演出しています


隣の空き地では「ガウラ」が花盛りです



西日本で生まれ育つと

りんごが木になっているのはとても珍しい光景に見えて

なんどもシャッターを切ってしまいます

2020年9月22日火曜日

神様の思いは(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第16主日礼拝(2020年9月20日)

ヨナ書3:1-5 フィリピ1:21-24 マタイによる福音書20:1-16