2018年8月13日月曜日

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第6章6節後段~13節)


2018812日、聖霊降臨後第12主日礼拝(―典礼色―緑―)、アモス書第7章10-15節、エフェソの信徒への手紙第13-14節、マルコによる福音書第66節b-13節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第66節後段~13節)

 主イエスは、出身地のナザレでは宣教は進まず、ナザレの人々の不信仰に、驚き怪しむと告げられている。主は、それで挫けたりなさらず、周囲の村々へと教えながら、巡り歩いておられたと、続きます。
 そして、12人を二人ずつ組みにして、彼らを彼ら自身にとっては初めての宣教旅行へと遣わされます。そして、彼らに汚れた霊どもへの権能をお与えになっておられたとあります。ご自分の持っておられる同じ権能を、弟子たちにも授ける。しかし、彼らにとってどんなにか不安な旅立ちであったことでしょうか。しかし、さらに主イエスは、彼らがパンも袋も帯の中に小銭すらも持参することをお許しにならず、下着も2枚着ることは認めず、ただサンダルを履き、1本の杖のみをお認めになるだけであります。
 この1本の杖とは何でありましょうか。それは、主イエスへの信仰を表わし、主イエスの受難の時の十字架を暗示するものとも言えるでありましょう。私たちが主イエスを宣べ伝えるのには、自分たちの業績や才能や力を誇っていては、それはできないことなのであります。
 主はさらに、このように指示なさいます。ある家にあなた方が入ったら、そこを出る時まで、そこにとどまり続けるように、そして、もしも、ある場所があなた方を歓迎せず、あなた方に聞こうとしない場合には、その場所を出るに際して、あなた方の足の裏の土や埃を彼らへの証しとして払い落としなさいと。
 弟子たちのそのふるまいを見て、あるいは、自分たちの非を気づかされ、なされた主イエスの宣教へと悔い改めるかもしれないからであります。
 そして、12人は宣教しており、病人たちには油を塗っており、そして、彼らを癒していたと記されているのであります。これは、彼ら12人だけの宣教の姿ではありません。私たちもまた、主イエスからこの同じ任務を与えられているのです。
 そして、今日の12人と同じような宣教を託されているのであり、私たちが語る言葉、生活の仕方が問われているのであります。私たちの小さな家庭での営み、職場での働き方、地域社会でのふるまい、11つを通して、主イエスの弟子にふさわしいものであるかどうか、その真価が問われているのであります。この夏、このお盆を迎える中で、私たちが主イエスの弟子として歩んでいくことを、今も主イエスが共にいて下さり、しっかり歩むようにと。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2018年8月10日金曜日

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)


201885日、平和の主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、ミカ書第41-5節、エフェソの信徒への手紙第213-18節、ヨハネによる福音書第159-12節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)

 毎年、日本福音ルーテル教会、JELCでは、8月の第1の主の日を、平和の主日として、平和について、また2度と起こしてはならない戦争について、思いを凝らし、平和への決意を新たにする日として守ることになっています。
 
今年もミカ書第4章1節から5節の、今日与えられています第1の日課、ペリコペー、小さな聖書の文章を中心として、聖書のみ言葉から聞いていきたいと思います。

 さて、今日の記事は、その前後の記事からは、大きく隔たりのある内容となっています。さらに、この旧約聖書の中では最も有名なものの一つ「彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって刃をあげず、人々はもはや戦うことを習わない」というみ言葉は、今日の讃美唱でもあるイザヤ書第2章2節から5節にも、ほとんど同じ言葉で記されており、どちらが古いのか、どちらがオリジナルなのかも、議論されてきました。

 イザヤ書よりもミカ書の方がより詳しく、イザヤ書がより古く、ミカ書はそれを、それをオリジナルとして、より後代になって、より深く展開したものとも考えられますが、むしろ、その2つの聖書は、そのもとになっている伝承をそれぞれの記者が用いて、今の形に編集されたものと考えられています。

 さて、ミカ書では、第3章までとは、打って違った内容が第4章1節から5節には記されています。そしてこれは、今では、モレシェトの人預言者ミカの語った預言ではないと考えられます。第3章9節から12節では、エルサレムの神殿が破壊される前のミカ本人の預言の言葉となっています。

 ミカが活躍したのは、紀元前701年のころのアッシリアがイスラエルに侵攻してくる前のことであります。そこでは、エルサレムの指導者たちの不正が糾弾されています。聞け、エルサレムの不正を働く指導者たちよ、とミカは彼らに対して不正から、悔い改めるように断罪するのであります。祭司は聖書からは離れて偽りを教え、政治家はわいろを受け取って、不正を働き、預言者たちまでも、金をとって偽りの預言をする。そして、彼らは、我々には主なる神がついているから、安心である。敵は攻めてこないと、主を頼りにしながら預言しているというのであります。

 そして、第3章の12節では、こう預言しています。エルサレムの山は廃墟と化し、シオンの丘は畑へと耕され、ところどころに木々の生い茂る荒れ野のようになると。そこには、神の家、神の神殿という表現はなく、敵国によって無残にも潰された、神不在の場所となると預言されているのであります。

 そして、今日のテキストに続く第4章の6節から8節までを読んでいきますと、そこには、私、すなわち、主なる神が、足のなえた者をアッシリアののちのバビロンによって、捕囚として、その地へ追いやったと記されています。そして、迷った羊の民、私が追いやった落ちぶれた民を、今度はその私が羊飼いとして、この地、エルサレム、シオンの丘へと連れ戻し、かつてあった、娘エルサレムの王権が、羊の塔を見張る塔、娘シオンの砦へと戻って来ると、バビロン捕囚から、その民を、私が王となって連れ戻すという、主なる神の約束が記されているのであります。

 そのようなイスラエルの歴史のただ中に、今日のテキストは入れられているのであります。その中身について、しばらく細かく内容をたどってみたいと思います。

 まず、このペリコペー、すなわち、小さな聖書の個所は、このように始まっています。「そして、終わりの日々に、主の山は、堅く据えられ、まわりの峰々よりも高くそびえるようになる。」この終わりの日々とは、この地球の終わりの時という意味ではなく、神が決定的にこの地上の歴史に介入なさるとき、カイロスの時のことであります。それは、主イエスがお出でになられたとき時かもしれません。
 しかし、ここに記されているような世界平和は、それから2000年もたった現在でも実現してはいません。それはいつ来るのでしょうか。それが完成される日とはいつ来るのでしょうか。

 さて、そのとき、多くの国民がやって来て、こう言うというのであります。我々は、シオンの家の山へと、ヤコブの神の家の丘へと上ろう、主なる神が我々を教える、我々はその神の道、旅路から学ぼう。なぜなら、律法、主の教えはエルサレムから、主の言葉は、シオンから出るからであると。

 そして、多くの国の民が、喜びながらこの丘へと流れ来たる。そして、この神は、多くの民の間を裁き、遠くの強大な国々までも調停するのであります。そして、人々は剣を打ち変えて鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦闘することを学ばないという、今では国連本部に掲げられている聖句が続くのであります。鋤を打ち直して剣とし、鎌を打ち直して槍の先とするという、古代の旧約聖書にある表現と逆のことが起こるというのであります。

 そして、ミカ書はここで、人々は、自分のぶどうの木、イチジクの下に座って、自分の農作地を見つめながら満足する、しかもそれを脅かすなにものもないと言います。そして、なぜなら、万軍の主の口がこれを告げたから、約束したからだというのであります。人間の歴史に神が介入し、こうなると約束して下さらない限り、永久平和と軍備の撤廃は不可能であることを覚えます。万軍の主とは、戦いの神という意味ではなく、むしろ全能の主という意味であります。私たちの礼拝の終わりの祝福で、私がよく用います「全能の神の祝福が、あなた方と共にあるように」という時の「全能の神」という意味なのであります。

 さて、今日のテキストは最後の1節、すなわち、第4章の5節で、すべての国民は、彼のその神の名において歩む。にもかかわらず、我々は、我々の主の名において、今から永遠に歩むのであると、むしろ我々の神に向かって今後の誓いの言葉をのべて終わるのであります。

 この預言の言葉が記されてから二千数百年が経ちました。現状は、この言葉を書き記しました預言者の預言した通り、世界中の人々は、それぞれ自分の信じる宗教を信じ、あるいは、無宗教の生き方を取る者も以前にもまして増える傾向にあります。この預言の後、キリストがお生まれになり、新約聖書が書き残されましたが、この預言を書いた同じユダヤ教のユダヤ人たちは、キリストをメシアとは受け入れていないのです。仏教を信じる人たちは、我々が救いを得るのは、まことの仏教しかありえないと堅く信じておられる方々も少なくありません。そのように世界の宗教は、今なお、自分たちの信仰が、唯一無比と信じて、それぞれ歩んでいます。

 しかし、この預言の言葉を書き記した預言者は、自分たちは、アッシリアに攻められ、バビロンによって、滅ぼされた憂き目の中で、それを起こしたのは、自分たちの民の罪の故に、神がなさったのであり、また、そこから連れ戻し、エルサレムに王となって連れ戻して下さる神、その主の名によって、我々はここからいつまでも歩み続けるのだと決心しているのであります。

 さて、では、今日ここに示されましたような世界平和、軍備撤廃の幻は、幻でしかないのでありましょうか。世の終わりまで、地球最後の日まで、この念願はついには実現できなかった夢として終わるのでしょうか。そして、それならば、私たちは何もしないで、現状のままで手をこまねいているしかないのでしょうか。

そういうことには断じてならないのであります。今日のテキストのすぐ前には、エルサレムの指導者たちが、不正をして神を恐れないでいる目に余る現実をあばくミカの糾弾の預言があり、その結果、荒れ果てた丘となっているエルサレム、シオンの姿が預言されていました。
 それは、私たちの現在の生き方に対しても、警鐘を鳴らし続けているのであります。私たちが罪を悔い改め、そののち、キリストのご到来を通して、悔い改めを迫る福音のみ言葉を通して、私たちは、新しい生き方を示されています。
 家庭の中で、また、職場の中で、地域で生きるその生活の中で、新しい生き方をするようにと問われています。主イエスは、山上の説教の中で、祝福されているよ、平和を作り出す者たちは、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうと語りかけられました。私たちが、身近なところで、互いに愛し合い、憎しみのある所に愛を、平和をもたらす。そのような積み重ねが、やがては世界平和に、そして「諸国民が一つの心になる日」へと向かうことになるのであります。

 さらには、私どもは、世界の指導者たちのためにも執り成しの祈りを続ける必要があります。そして、二度と世界大戦になるような轍を踏んではなりません。米ソの冷戦のさなかに起こったキューバ危機の後に、ケネディ大統領は1962年部分的核実験停止条約の調印にこぎつけました。そのような一歩一歩の世界平和の前進のために、私たちが身近なところでも何ができるかを問い続けねばなりません。それは、ある人にとっては平和運動のための署名であったり、集会や行進への参加の形をとることであったり、平和憲法の学習会に参加することであったり、新聞を隈なく読んで意識を高めることであったりしましょう。毎年持たれる平和の主日の礼拝を通して、私どもに何ができるのか、何をしていけばよいのかを、み言葉に聞きながら、模索していきたいものだと思います。・・・人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2018年7月14日土曜日

最近読んだ本からー「真実な交わり            ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー」


最近読んだ本からー「真実な交わり
           ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー
発行所 キリスト教図書出版社
編 者 田村光三・武井陽一
20091210日 発行
        定価:2500円(+税)
 伊藤邦幸先生の父は、無教会派の伝道者である。この本の後ろに出ている「伊藤邦幸略年譜」を見ると、彼は1931(昭和6)年6月28日のお生まれで、天に召されたのは、2003(平成5)年88日であって、621カ月の生涯であったことが分かる。恐縮ではあるが、私の母が今年の10月で米寿を迎えようとしているので、調べると伊藤先生よりも1歳年長ということになる。この激動の時代を駆け抜けた一人の優れたキリスト者として、この本を通して、私たちは主イエスに従い、主を仰ぎ見て、神の栄光と貧しい人々、今なお苦しんでいる低開発国の人々に仕えた、主イエスの弟子の記録を知ることができる。彼は、とにかく、勉強熱心である。ひたむきであり、理科系も、文科系もこなせた人である。そのような先生にも、大きな罪の出来事があったという。それを、先生は、生涯忘れず、この本のタイトルにあるように「真実な交わり」を求め続けたのである。この本では、伊藤先生が若い人たちに読んでほしい本、百冊とか、読書の仕方などまでが、詳細にそのリストアップされたものの一覧表まで挙げられている。たとえば、1961年選の「岩波文庫 100冊の本」などは、とても良いなどと、指摘しておられ、表になっていて、そこには今でも十分に読むべきであろう古今東西の名著が並び、彼の視野の広さが想像できる。先生は、長い勉学の後に、やがて医師となる聡美夫人と、国際結婚し、ネパールのオカルドゥンガ診療所において、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣医師として、貧しい人たちに、10年以上も仕えることになる。日本に戻っている時には、「山猿庵」とか「風声寮」といった青年たちとの読書会や共同生活を共にして、後輩たちを育てて行ったのである。6人の子どもにも恵まれ、彼らにとっては父母ともっと甘えたい時期でもあったであろうが、伊藤夫妻は、土日も自宅を開放して、たとえばヒルティの「眠られぬ夜のために」を原著で読み進めたり、大学で御自分の提出した「漱石の『心』にあらわれた罪の意識について」等々を学び合ったりしていったのである。聡美夫人は、オカルドゥンガに戻るため富士山頂付近で訓練の登山中、遭難滑落死する。伊藤邦幸先生も62歳の若さで、米国で脳幹梗塞を起こし、翌年日本の地で召されたのである。

2018年7月13日金曜日

「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)


201878日、聖霊降臨後第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第38-15節、コリントの信徒への手紙二第511-15節、マルコによる福音書第320-30節、讃美唱130/2(詩編第1306-8

説教「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)

 私どもの礼拝では、教会暦に従って、主の日ごとに読まれる聖書の個所が決まっています。三年サイクルで、A年、B年、C年と、三年たてばまた、同じ個所を、それぞれ旧約聖書、使徒書、そして共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが順番に読まれ、復活後などにはヨハネ福音書も入れられ、特別な主の日にはそれに応じた個所が定められているのであります。
 
このような伝統的は主の日の礼拝説教の守り方には、一長一短があると思いますが、それぞれの主の日に、教会暦に従ってふさわしい聖書のみ言葉が、旧約、新約から与えられ、現在は、私どもの教会では讃美唱、詩編からの朗読はなされていませんが、参照個所として、私どもの週報には載せているのであります。私は、これは、本当に恵まれた、私どもの教会の習慣ではないかと、しばしば思います。そして、式文が与えられ、その日の礼拝のみ言葉にふさわしいにふさわしい主日の祈りが用意されています。この枠に従いながら、しかも、自由自在な祈りや、それらのみ言葉にあった讃美歌が、通常は四つ、聖餐礼拝の場合には五つも讃美歌がうたわれるのは、何と幸いなことであろうかと思います。

さて、聖霊降臨後第7主日に与えられているみ言葉も、それぞれにふさわしい聖書の個所が与えられています。旧約聖書創世記からは、人類の堕罪の個所が読まれました。食べてはならないと、主なる神によって命じられていた木の実を、蛇、サタンにそそのかされて食べてしまいます。すると、目が開けて、自分たちが裸であることを知らされ、神を恐れて、イチジクの葉で身を覆い、その木陰にアダムとエバは身をひそめます。夕暮れ時、歩き回られてきた神は、あなた方はどこにいるのかと尋ねると、彼らは、自分たちは裸なので、あなたを恐れて隠れていましたというと、神は、だれが、あなた方に食べてはならないといった木の実を食べさせたのかと聞くと、アダムは、あなたが与えてくださった女が食べるように、与えてくれたのですと言います。すると、エバは、蛇が食べるように、教えたのですという。主なる神は、そのとき蛇に向かって言います。

お前は、こののち、這いつくばって、塵を食べながら生きる、もっとも呪われた生き物となる。しかし、いつの日か女の末がおこされ、お前の頭をくだき、お前は、その者のかかとを砕くであろうと約束なさるのであります。それは、キリスト、イエスが、この蛇、サタンを滅ぼすとの約束であります。そして、その主イエスが、サタンを滅ぼすとの約束が、今日の福音のみ言葉によって実現しているともいうことができるでありましょう。

また、第二の朗読の第二コリントのパウロの言葉も、第二朗読は通読方式で読まれてはいますが、不思議にも、パウロはここで、自分が正気でないとすれば、神の為であり、正気であるとすれば、あなた方のためであると、言っており、今朝の福音において、主イエスが気が変になっていると身内の者に案じられ、主を捕まえに出て来るという記事と符合するとも思われる内容が与えられています。また、讃美唱の詩篇第130編のみ言葉も、私は夜警が朝を待つにも勝って、あなたを待ち焦がれているという、救いを希求する詩人の思いが伝わって来る個所が選ばれているのであります。

さて、今朝の福音は、マルコ福音書第3章20節から30節が与えられています。この個所は、35節まで続けて読むべきかもしれません。いわゆるサンドイッチ方式ともいわれるマルコの好む書き方で、記されていて、主イエスの身内が心配して、主イエスを捕えに出て来るエピソードが、20節から21節と、31節から35節にわたって記されており、その間に、ベルゼブル論争と言われている出来事が挟まれているのでありますが、それをあえて、私どものペリコペー、聖書個所は30節までとしているのであります。今日の福音から、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。

原文では、「彼は、家へとやって来られる」と今日の福音の個所は始まっています。それを、新共同訳聖書では、「イエスが家に帰られると」と訳しています。それは、恐らく、ペトロとアンデレの家、主が癒されたペトロの姑も世話をしてくれる、主の伝道の拠点となった家でありましょう。くつろぎの場である主イエスにとってもある意味で真の家庭といってもいいその家にお戻りになる、そこで今日の出来事は起こったと考えてもいいのであります。

そこに、大勢の人が集まってきて、彼らはパンを食べる暇もないほどであったとあります。マルコは、そこで、主が悪霊を追い払い、あるいは、口をきけなくする霊を追い出していたなどとは記していません。ただ、そこに身内の者たちが、彼が気が変になっているとのうわさを聞いて、彼を捕まえるために出て来たと記します。気が変になるとは、エクスタシーの語源の言葉で、自分の外に出るという意味であります。身内の者たちにとって、主イエスの在りようは、自分たちの外になってしまった。そういう思いで、捕えに来たとまで、マルコは大胆に書き記しているのであります。

さらに、この家には、エルサレムから降って来た律法学者たちが混じりこんでいて、主イエスを、ベルゼベルに取りつかれていて、悪霊の長によって悪霊を追い出していると言っていたと記すのであります。それに対して語ったのが今日の主イエスのみ言葉であり、マルコはそれを、譬えにおいて、こう語ったと記します。

国は内部で分裂していては立ち行かない。家も内輪もめしていては立ち行かない。サタンも、サタンに対して立ち向かって、別れていては立ち行かず、滅びてしまうと。そして、御自分を、強い者の家を略奪するもっと強い略奪者に例えられるのです。その場合には、その家の強い者、サタンを縛ってから、その家の家財道具を奪い取る者だと。それは、器や財産に限らず、サタンに支配されている家の者たちを主イエスが奪い返すということでありましょう。

そして、更に、主は言われます。すべてのことは赦されている、人の子らが犯すどんな罪とがも、神を中傷する冒涜の言葉も。しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠にその罪とがの責めを負うと。そして、最後に、なぜなら、彼らは、彼が汚れた霊にとりつかれていると言っていたからであると、マルコは記しています。

主イエスは、私どもが犯すどんな罪も、神を冒涜する言葉も赦されていると言われます。私たちの罪のために殺されることになる主イエスが、その十字架の死とご復活において、私どもの犯すいかなる罪も、神への冒涜の言葉すらも赦されるとまで、おっしゃられます。しかし、聖霊を冒涜する罪だけは、その者だけは、決して赦されず、その罪の責めを永遠に負うとまで断言される。

聖霊を冒涜する罪とは一体どんな事でしょうか。かつて、神学校の最終学年でのインターンの時に、その担当牧師から、説教に手間取り、その準備不十分なことが続く私に向かって、その先生は「あなたは聖霊を冒涜しているのではないか」と厳しい言葉をかけられたことがあります。神のみ言葉を説くという神聖な務めに対して、それをないがしろにしているのではないかと戒められたのであります。そのことも、確かに、神の御用をないがしろにしてしまう、聖霊の働きを信じて、み言葉の説き明かしに励んでいないという意味では、聖霊を汚す罪となり得ましょう。今の私にとっても、それは一つの大きな戦いであります。

さて、今日、登場しています、エルサレムから降って来たと言われる律法学者たちは、旧約聖書の専門家でありました。しかし、彼らは、主イエスのように、悪霊を追い払うことはできず、そのなさっていた御業に対して、それは、ベルゼブルがとりついていて、悪霊どもの頭として悪霊どもを追い払っているのにすぎない。そう言って、あるいは口のきけない者をしゃべれるようにしたり、目の見えない者が見えるようにしているのを見て、主を嘲ったのであります。そして、既に、彼らの心には、主イエスを殺そうとする決意をもって、この家にまで、群衆に交じって、彼らは入り込んでいたのであります。

しかし、主イエスは、そのことも十分にご存じで、「家の主人」とも言われる「ベルゼブル」、異国の神の名であったとも考えられる、それの仕業だとする彼らに対して、それではサタンの仲間割れになるから、それはありえないと言われて、御自分は、そのサタンを私どもの家の主人であるところから追い払い、サタンに苦しめられていた家の者たちを、み国へと取り返すために来ているのだと反論なさっているのであります。

旧約聖書に通じていたはずの彼らが、サタンを追い出す主イエスがお出でになられ、悪霊払いをなさっているときに、むしろその悪霊の側についてしまうのであります。このようにかたくなに、主イエスが、私どもの家の主人となることを認めず、反対する。そのように、聖霊の働きを頑なに拒む者の罪だけは赦されることはないと、主イエスは、罪の赦しに対するただ一つの例外を挙げておられるのであります。

それは、ただ律法学者たちにだけ、向けられている非難ではありません。私どもの家を、主イエスが、サタンに代わって治めてくださるように、そのために私どもは、一人一人がこの後の第331節以下のみ言葉にありますように、主イエスの周りに座って、神のみ心に従う、主イエスの家の家族とされてゆかねばならないのであります。

そして、私どもも、それぞれの家庭にありながら、主イエスをこそ、私どもの家の主人として迎えつつ、罪赦された義人として、まことのくつろぎを与えられた家庭を築けるように、主イエスを日々、仰ぎ望んで行きたいのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2018年7月4日水曜日

最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ            世俗化時代の人間との対話」


―最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ
           世俗化時代の人間との対話」
E・トゥルナイゼン 著     
加 藤 常 昭   訳
発行所  日本基督教団出版局
19701130日 初版発行
        定価:1700円(古本屋、アマゾンなどでお求めください)
 トゥルナイゼンの加藤先生訳「牧会学Ⅰ」が世に出たのは1961年であった。そして、本箸の訳本が出たのは197011月30日とあるから、ほぼ10年近くたっていることになる。そして、この本には副題として「世俗化時代の人間との対話」と記されている。「牧会学Ⅰ」は総論とすると、この書は、各論と言えるだろうか。
 加藤先生から、トゥルナイゼンの牧会学、原文は「魂の配慮の教科書」とも訳せる題であるが、この本との出会いが、当時、牧師となって間もないころ、迷っていた先生を立ち直らせ、再び確信をもって、牧会、伝道に邁進することができるようになったとお聞きしたことがある。
 「牧会学Ⅱ」はすばらしい翻訳で、紹介されており、10年近くたった加藤先生の研鑚ぶりが躍如としている。加藤先生は、現在は、説教塾の主宰をなさっておられるが、御自分の紹介を一言「神学者」として表明されている。東京神学大学で「説教学」を長らく教えておられたが、鎌倉雪ノ下教会でながらく牧会され、教会の牧師として、引退なさるまでを過ごされた先生である。説教をどのようにして豊かなものにするかを説教塾で、今も熱心に指導されている。 さて、「牧会学Ⅱ」は、説教は、牧会の中で生まれてくるものであり、説教者は、教会員との深いかかわりあいの中で、初めて主の日の礼拝説教も、力を持つものとなるとトゥルナイゼンは、この書を書き出す。そして、現代の世俗化時代の人間との対話と副題にあるように、牧会者がぶつかるこの世での困難な問題、結婚問題や病者やさらには死を迎えようとしている者や悲しんでいる者への慰めの牧会について、聖書の説く慰めがどのようなものであるか、医師と牧師との連携などを神学的に解明していくのである。この翻訳が出てからも、50年近くなるが、今の時代の私たちにも、尚大きな光を与えてくれる重要な本に違いない。トゥルナイゼンは、この書にも出て来る、説教学者ボーレンと共にカール・バルトの「神の言葉の神学」に立つ神学者である。














2018年6月20日水曜日

―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」 白井 幸子 著


―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」
白井 幸子 著
発行者  長谷川素美
発行所  株式会社メディカ出版
2017105日発行 第1版第1

 白井幸子先生の新しい著書が出版された。思えば、今か25年ほど前に、ルーテル神学校での臨床牧会の訓練で、最終学年の秋9月頃より、東村山にある全生園に通ったときに、その終了に際して、牧師になる私どもへのお祝いの記念として贈っていただいたのが、先生の著書「看護に生かす交流分析」(医学書院)であった。
 それには、岡安大仁先生(日本大学医学部教授、ルーテル東京池袋教会員)の推薦の言葉が、最初に記されていた。自分の住んでいるすぐ近くに、このような優れた、勇敢なカウンセラーがいるとは、知らなかった。この本は、現在の時点では、最も優れたカウンセリング、交流分析の入門書であろうといった趣旨の文章が記憶に強く残っている。あれから、もう随分になる。そして、今回の本となって贈られてきた。白井先生の今に至る長い研究と臨床の経験とが、この本に凝縮していると思わされた。
 先生から聞いたお話では、最近は、さし絵や分かりやすい図などを用いて読みやすくしないと、本も売れにくいとのことであったが、そのような図解や写真も、理解の助けとなり、興味を深めるものとなっている。本の表紙には「対人関係が楽になる!『ナースの感情整理術』交流分析で納得、今日からできるコミュニケ―ションのコツ」とあり、自分のタイプが分かるエゴグラムシート
つきとあり、これでコミュニケーションはバッチリと、にこやかな看護師ふ たりの絵があり、OKのうちわをかざして、下にはひつじ2匹が伏しており、「わたしもあなたもOK牧場」案内板が書かれている。このような読みやすい本が出たのを感謝している。この書を毎日の日課として一日の始めに20分は読みたいと、改めて計画している。
 交流分析(トランスアクショナル・アナリシス)は、特に生まれてから、幼児期に至る母親や父親との関わり方など、生まれてから今までの成育歴を重視するカウンセリングの一つの大きな流れであろう。そして、「自由な子供」、「順応の子ども」「成人」「批判的親」「保護的親」という自我状態を、エゴグラム・シートを使って調べ、状況に応じてどの自我状態も自由に使えるべく挑戦してみたいと切に願っている。それにより自分も人もより良く理解できるであろう。

2018年6月9日土曜日

「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)


2018527日、三位一体主日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第6章1節-8節、ローマの信徒への手紙第814-17節、ヨハネによる福音書第31-12節、讃美唱19(詩編第192-15節)

説教「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)

 私どもは、今日、再び、教会暦の典礼色としては、白を用いて、三位一体主日という特別に大事な礼拝を迎えています。私どもは、何気なく、式文を用いて、毎週の礼拝を守っていますが、礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって」始め、終わりの部は、「父と子と聖霊のみ名によって」牧師の派遣の祝福をもって、新たな1週間の生活へと遣わされていくものであります。
 今日は、特に、ヨハネ福音書第3章1節から12節までの、ニコデモとの主イエスの対話を思いめぐらしながら、いつも耳にしています、私どもの神、三位一体の神について、それも、三つにして一つなる神である、聖霊について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、今日の読まれました福音では、ある夜のこと、エルサレムの都におられました主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきます。人の目をはばかって、ということもあるでしょう。彼は、ファリサイ派の門とであり、イスラエルの教師、さらには、議員でもあったとあります。エルサレムのサンヘドリン、70人議会の一員でもあり、人々からも尊敬されていた名門であったと考えてもいいでしょう。ですから、昼間に来るわけにはいかなかった。ヨハネ福音書は、主イエスをメシアと証言する者は、会堂追放されるという、信者にとっては信仰を捨てるのも、致し方がない、背景のもとに、紀元後90年あるいはそれ以後のころに、迫害の激しい中で書かれた福音書だと言われています。

 そのような背景において、この物語は、記されています。今日の福音書のすぐ前には、エルサレムでなさった主イエスのしるしを見て、信じる者も多かったとあります(ヨハネ福音書第2章23節)。ニコデモも、そのような、主イエスを半分信じようとしている者として、ここに訪ねて来たのであります。

 彼は、主イエスに、「ラビ、あなたがなさっているようなしるしは、神が共におられるのでなければできないことです」と語りかけます。それに対して、主は、いきなり、あなたによくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、と突き返すように語り        かけられるのであります。

 ニコデモは、老人でもあったのでしょう、「人は年を取って、再び、母親の胎内に入り、生まれ直すことができましょうか」と率直に疑問を、主に投げ返します。主が言われた「新たに」という言葉は、さらには「上から」の意味もあり、神の国を経験するには、幼子のようになって、それを受け入れることなくしては、それを味わうことは、私どもには不可能なのであります。しかし、そのことは、ニコデモには分かりません。

主は繰り返して、ニコデモに言われます。「よくよくあなたに言っておくが、人は水と霊によって、生まれさせられなければ、神の国に入ることはできない」と。だれでも、もう一度、誕生しないことには、人間の努力や生まれもって、特別に恵まれて与えられた、どんな賜物を持ち合わせた人も、だれひとり、罪から自由になり、喜びのうちに生き得るようにはなれないというのであります。

そして、肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれた者は霊であると、主は言われます。ニコデモは、もう一度母の胎に入って生まれさせられるということはできないと主に問うのですが、肉からもう一度生まれてもそれは、肉のままであり、人間の罪とがや、欠陥は同じままでしょう。

肉とは、自然のままの全体としての人間の本性を指しています。霊とは、神から生まれるものであり、あるいは神そのものをここでは言っています。神の霊によって、人間は新しい存在へと生まれさせられ、もうけられねば、神の国、天の国に入ることはできないと、主はここでニコデモに呼びかけておられるのです。肉のままでは、人はやがて、死によって滅びる空虚なものにすぎません。

 そして、主はこのように譬えて、言われます。風は思いのままに吹く、そしてその音を、あなたは聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのか知らないと。この風という言葉は、霊とも息とも訳せる言葉であります。従って、霊はその欲するところに吹いてゆく、それがどこから来てどこへ行くのかはあなたにはわからないとも訳せるのです。そして、それを一遍に訳することはできないのであります。聖霊も風も、その好むままに、自由に吹くのであります。人間の力でそれを動かすことはできない。そして、共に人間には欠かすことのできない存在なのであります。

 風が吹かなければ、作物も、自然も守られないでしょう。そして人間の生活は成り立たないでしょう。しかし、それが、どこで起こり、どこで消えるのか、我々には見えないし、理解することもできないのであります。ただその音を聞くことができる。そしてそのざわめきを、木を見、まわりを見て感じ取ることができるだけであります。聖霊の風もまた同様に、私どもは、み言葉を通して、そのざわめきを知ることができるのみであります。そして、聖霊を支配することは、人間にはできませんが、それを受けて、新しく変えられることはできるのであります。

 主は、先に、繰り返すように、人はだれでも、水と霊とによって生まれさせられねば、神の国に入ることはできないと言われました。「水と霊」とは何を言っておられるのでしょうか。洗礼者ヨハネは、水による洗礼を人々に施して、自分は、メシアの来られる前に、その備えとして、水で悔い改めの洗礼を施していると宣言していました。そして、自分の後に来られるそのお方は、聖霊で洗礼をお授けになると預言していました。ずっと後になっても、使徒言行録を見ますと、洗礼者ヨハネの弟子たちの群れが出て来ますが、彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けただけで、聖霊なる者の存在する知らないというので、主イエスの名によって洗礼を授けると、聖霊がくだってその12人ほどの者たちは預言し始めたと記されています。私どもは、水と霊によって新しく創造されなければならない者であり、そのために「洗礼」という恵みの手段が与えられていると、この不思議な主イエスのみ言葉を素直に受け取ることが、私たちには許されているのではないでしょうか。

 さて、主は、ニコデモに、私があなたに、あなた方は新たに生まれさせられねばならないと言ったからといって驚かないようにといって風の譬え、霊の比喩を語られたのですが、ニコデモはやはり、どうしてそんなことが起こり得ましょうかと納得できません。

 主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、そんなことも分からないのかと言われて、語り続けられます。私たちは、私たちが知っていることをしゃべり、見たことを証している。それなのに、あなたがたは、受け入れないと。そして、私が、地上の事柄どもをあなた方に言っても、信じないなら、天上の事柄どもを、あなた方に、私が言ったとしても、あなた方は、信じゆだねることはないだろうとの、主の言葉で今日のみ言葉は終わっています。

 ニコデモとの11で始まっていた主イエスとの対話が、いつしか、ニコデモの属するユダヤ教の会堂の人たちと、キリスト教の弟子たちとの論争になっているのであります。

 主は、どうしても理解できないというニコデモに、あなたは神の民イスラエルの教師ではないかというふうに、権威ある聖書の専門家であるファリサイ派のリーダーに、訴えるように教えているのであります。旧約聖書には、十分調べるならば、この霊による人間の新たな誕生について書いてあるではないかと主は諭されるのでありますが、少なくとも、今日の対話においては、潜在的には、主イエスを信じようとする、半分はクリスチャンの可能性を持ってはいるものの、両者は食い違ったままの状態なのであります。

 主イエスのなさっておられるしるしを見て、主イエスをもっと知りたい、信じたいと思ってニコデモは夜やって来ましたが、ここでは結局そのまま、いつしか、ニコデモは舞台から消えてゆくのであります。

 主イエスが、ニコデモたちに神の国の説教を語られたときにも、そのしるしを見て、信じたものは多かったと記されていますが、それを告白することをしなかった、神よりも人の誉れを大事にしたからであると記されています。

そして、そのことを、イザヤは、彼らは聞くには聞くが悟らず、見るには見るが、見えないようにするために、主は譬えで語られ、主なる神が、彼らの心を頑なにされたと預言しています。

主イエスの後の弟子たち、教会の信徒たちは、この福音書が書かれた時代にも、自分たちは知っていることをしゃべり、見たことを証しているのに、あなた方、会堂で礼拝を守る、ユダヤ教の者たちは、私どもを迫害し、受け入れないと論争を続けていたのであります。

ニコデモとの対話の時にも、主イエスが言われる、霊によって、新しく生まれさせられねばならないとのみ教えを、当時の大勢のユダヤ人たちは、ニコデモと同じように、この方において、神の国が来ていることを信じゆだねることができませんでした。「言は肉となって、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ福音書第1章12節)のであります。

今の私たちはどうでしょうか。理性によっては、霊の働きを知ることはできません。人は「水と霊とによって」生まれさせられねば神の国に入ることはできないとの主のお約束に信頼し、祝福された第2の人生を歩ませて頂きましょう。