2018年7月14日土曜日

最近読んだ本からー「真実な交わり            ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー」


最近読んだ本からー「真実な交わり
           ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー
発行所 キリスト教図書出版社
編 者 田村光三・武井陽一
20091210日 発行
        定価:2500円(+税)
 伊藤邦幸先生の父は、無教会派の伝道者である。この本の後ろに出ている「伊藤邦幸略年譜」を見ると、彼は1931(昭和6)年6月28日のお生まれで、天に召されたのは、2003(平成5)年88日であって、621カ月の生涯であったことが分かる。恐縮ではあるが、私の母が今年の10月で米寿を迎えようとしているので、調べると伊藤先生よりも1歳年長ということになる。この激動の時代を駆け抜けた一人の優れたキリスト者として、この本を通して、私たちは主イエスに従い、主を仰ぎ見て、神の栄光と貧しい人々、今なお苦しんでいる低開発国の人々に仕えた、主イエスの弟子の記録を知ることができる。彼は、とにかく、勉強熱心である。ひたむきであり、理科系も、文科系もこなせた人である。そのような先生にも、大きな罪の出来事があったという。それを、先生は、生涯忘れず、この本のタイトルにあるように「真実な交わり」を求め続けたのである。この本では、伊藤先生が若い人たちに読んでほしい本、百冊とか、読書の仕方などまでが、詳細にそのリストアップされたものの一覧表まで挙げられている。たとえば、1961年選の「岩波文庫 100冊の本」などは、とても良いなどと、指摘しておられ、表になっていて、そこには今でも十分に読むべきであろう古今東西の名著が並び、彼の視野の広さが想像できる。先生は、長い勉学の後に、やがて医師となる聡美夫人と、国際結婚し、ネパールのオカルドゥンガ診療所において、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣医師として、貧しい人たちに、10年以上も仕えることになる。日本に戻っている時には、「山猿庵」とか「風声寮」といった青年たちとの読書会や共同生活を共にして、後輩たちを育てて行ったのである。6人の子どもにも恵まれ、彼らにとっては父母ともっと甘えたい時期でもあったであろうが、伊藤夫妻は、土日も自宅を開放して、たとえばヒルティの「眠られぬ夜のために」を原著で読み進めたり、大学で御自分の提出した「漱石の『心』にあらわれた罪の意識について」等々を学び合ったりしていったのである。聡美夫人は、オカルドゥンガに戻るため富士山頂付近で訓練の登山中、遭難滑落死する。伊藤邦幸先生も62歳の若さで、米国で脳幹梗塞を起こし、翌年日本の地で召されたのである。

2018年7月13日金曜日

「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)


201878日、聖霊降臨後第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第38-15節、コリントの信徒への手紙二第511-15節、マルコによる福音書第320-30節、讃美唱130/2(詩編第1306-8

説教「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)

 私どもの礼拝では、教会暦に従って、主の日ごとに読まれる聖書の個所が決まっています。三年サイクルで、A年、B年、C年と、三年たてばまた、同じ個所を、それぞれ旧約聖書、使徒書、そして共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが順番に読まれ、復活後などにはヨハネ福音書も入れられ、特別な主の日にはそれに応じた個所が定められているのであります。
 
このような伝統的は主の日の礼拝説教の守り方には、一長一短があると思いますが、それぞれの主の日に、教会暦に従ってふさわしい聖書のみ言葉が、旧約、新約から与えられ、現在は、私どもの教会では讃美唱、詩編からの朗読はなされていませんが、参照個所として、私どもの週報には載せているのであります。私は、これは、本当に恵まれた、私どもの教会の習慣ではないかと、しばしば思います。そして、式文が与えられ、その日の礼拝のみ言葉にふさわしいにふさわしい主日の祈りが用意されています。この枠に従いながら、しかも、自由自在な祈りや、それらのみ言葉にあった讃美歌が、通常は四つ、聖餐礼拝の場合には五つも讃美歌がうたわれるのは、何と幸いなことであろうかと思います。

さて、聖霊降臨後第7主日に与えられているみ言葉も、それぞれにふさわしい聖書の個所が与えられています。旧約聖書創世記からは、人類の堕罪の個所が読まれました。食べてはならないと、主なる神によって命じられていた木の実を、蛇、サタンにそそのかされて食べてしまいます。すると、目が開けて、自分たちが裸であることを知らされ、神を恐れて、イチジクの葉で身を覆い、その木陰にアダムとエバは身をひそめます。夕暮れ時、歩き回られてきた神は、あなた方はどこにいるのかと尋ねると、彼らは、自分たちは裸なので、あなたを恐れて隠れていましたというと、神は、だれが、あなた方に食べてはならないといった木の実を食べさせたのかと聞くと、アダムは、あなたが与えてくださった女が食べるように、与えてくれたのですと言います。すると、エバは、蛇が食べるように、教えたのですという。主なる神は、そのとき蛇に向かって言います。

お前は、こののち、這いつくばって、塵を食べながら生きる、もっとも呪われた生き物となる。しかし、いつの日か女の末がおこされ、お前の頭をくだき、お前は、その者のかかとを砕くであろうと約束なさるのであります。それは、キリスト、イエスが、この蛇、サタンを滅ぼすとの約束であります。そして、その主イエスが、サタンを滅ぼすとの約束が、今日の福音のみ言葉によって実現しているともいうことができるでありましょう。

また、第二の朗読の第二コリントのパウロの言葉も、第二朗読は通読方式で読まれてはいますが、不思議にも、パウロはここで、自分が正気でないとすれば、神の為であり、正気であるとすれば、あなた方のためであると、言っており、今朝の福音において、主イエスが気が変になっていると身内の者に案じられ、主を捕まえに出て来るという記事と符合するとも思われる内容が与えられています。また、讃美唱の詩篇第130編のみ言葉も、私は夜警が朝を待つにも勝って、あなたを待ち焦がれているという、救いを希求する詩人の思いが伝わって来る個所が選ばれているのであります。

さて、今朝の福音は、マルコ福音書第3章20節から30節が与えられています。この個所は、35節まで続けて読むべきかもしれません。いわゆるサンドイッチ方式ともいわれるマルコの好む書き方で、記されていて、主イエスの身内が心配して、主イエスを捕えに出て来るエピソードが、20節から21節と、31節から35節にわたって記されており、その間に、ベルゼブル論争と言われている出来事が挟まれているのでありますが、それをあえて、私どものペリコペー、聖書個所は30節までとしているのであります。今日の福音から、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。

原文では、「彼は、家へとやって来られる」と今日の福音の個所は始まっています。それを、新共同訳聖書では、「イエスが家に帰られると」と訳しています。それは、恐らく、ペトロとアンデレの家、主が癒されたペトロの姑も世話をしてくれる、主の伝道の拠点となった家でありましょう。くつろぎの場である主イエスにとってもある意味で真の家庭といってもいいその家にお戻りになる、そこで今日の出来事は起こったと考えてもいいのであります。

そこに、大勢の人が集まってきて、彼らはパンを食べる暇もないほどであったとあります。マルコは、そこで、主が悪霊を追い払い、あるいは、口をきけなくする霊を追い出していたなどとは記していません。ただ、そこに身内の者たちが、彼が気が変になっているとのうわさを聞いて、彼を捕まえるために出て来たと記します。気が変になるとは、エクスタシーの語源の言葉で、自分の外に出るという意味であります。身内の者たちにとって、主イエスの在りようは、自分たちの外になってしまった。そういう思いで、捕えに来たとまで、マルコは大胆に書き記しているのであります。

さらに、この家には、エルサレムから降って来た律法学者たちが混じりこんでいて、主イエスを、ベルゼベルに取りつかれていて、悪霊の長によって悪霊を追い出していると言っていたと記すのであります。それに対して語ったのが今日の主イエスのみ言葉であり、マルコはそれを、譬えにおいて、こう語ったと記します。

国は内部で分裂していては立ち行かない。家も内輪もめしていては立ち行かない。サタンも、サタンに対して立ち向かって、別れていては立ち行かず、滅びてしまうと。そして、御自分を、強い者の家を略奪するもっと強い略奪者に例えられるのです。その場合には、その家の強い者、サタンを縛ってから、その家の家財道具を奪い取る者だと。それは、器や財産に限らず、サタンに支配されている家の者たちを主イエスが奪い返すということでありましょう。

そして、更に、主は言われます。すべてのことは赦されている、人の子らが犯すどんな罪とがも、神を中傷する冒涜の言葉も。しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠にその罪とがの責めを負うと。そして、最後に、なぜなら、彼らは、彼が汚れた霊にとりつかれていると言っていたからであると、マルコは記しています。

主イエスは、私どもが犯すどんな罪も、神を冒涜する言葉も赦されていると言われます。私たちの罪のために殺されることになる主イエスが、その十字架の死とご復活において、私どもの犯すいかなる罪も、神への冒涜の言葉すらも赦されるとまで、おっしゃられます。しかし、聖霊を冒涜する罪だけは、その者だけは、決して赦されず、その罪の責めを永遠に負うとまで断言される。

聖霊を冒涜する罪とは一体どんな事でしょうか。かつて、神学校の最終学年でのインターンの時に、その担当牧師から、説教に手間取り、その準備不十分なことが続く私に向かって、その先生は「あなたは聖霊を冒涜しているのではないか」と厳しい言葉をかけられたことがあります。神のみ言葉を説くという神聖な務めに対して、それをないがしろにしているのではないかと戒められたのであります。そのことも、確かに、神の御用をないがしろにしてしまう、聖霊の働きを信じて、み言葉の説き明かしに励んでいないという意味では、聖霊を汚す罪となり得ましょう。今の私にとっても、それは一つの大きな戦いであります。

さて、今日、登場しています、エルサレムから降って来たと言われる律法学者たちは、旧約聖書の専門家でありました。しかし、彼らは、主イエスのように、悪霊を追い払うことはできず、そのなさっていた御業に対して、それは、ベルゼブルがとりついていて、悪霊どもの頭として悪霊どもを追い払っているのにすぎない。そう言って、あるいは口のきけない者をしゃべれるようにしたり、目の見えない者が見えるようにしているのを見て、主を嘲ったのであります。そして、既に、彼らの心には、主イエスを殺そうとする決意をもって、この家にまで、群衆に交じって、彼らは入り込んでいたのであります。

しかし、主イエスは、そのことも十分にご存じで、「家の主人」とも言われる「ベルゼブル」、異国の神の名であったとも考えられる、それの仕業だとする彼らに対して、それではサタンの仲間割れになるから、それはありえないと言われて、御自分は、そのサタンを私どもの家の主人であるところから追い払い、サタンに苦しめられていた家の者たちを、み国へと取り返すために来ているのだと反論なさっているのであります。

旧約聖書に通じていたはずの彼らが、サタンを追い出す主イエスがお出でになられ、悪霊払いをなさっているときに、むしろその悪霊の側についてしまうのであります。このようにかたくなに、主イエスが、私どもの家の主人となることを認めず、反対する。そのように、聖霊の働きを頑なに拒む者の罪だけは赦されることはないと、主イエスは、罪の赦しに対するただ一つの例外を挙げておられるのであります。

それは、ただ律法学者たちにだけ、向けられている非難ではありません。私どもの家を、主イエスが、サタンに代わって治めてくださるように、そのために私どもは、一人一人がこの後の第331節以下のみ言葉にありますように、主イエスの周りに座って、神のみ心に従う、主イエスの家の家族とされてゆかねばならないのであります。

そして、私どもも、それぞれの家庭にありながら、主イエスをこそ、私どもの家の主人として迎えつつ、罪赦された義人として、まことのくつろぎを与えられた家庭を築けるように、主イエスを日々、仰ぎ望んで行きたいのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2018年7月4日水曜日

最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ            世俗化時代の人間との対話」


―最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ
           世俗化時代の人間との対話」
E・トゥルナイゼン 著     
加 藤 常 昭   訳
発行所  日本基督教団出版局
19701130日 初版発行
        定価:1700円(古本屋、アマゾンなどでお求めください)
 トゥルナイゼンの加藤先生訳「牧会学Ⅰ」が世に出たのは1961年であった。そして、本箸の訳本が出たのは197011月30日とあるから、ほぼ10年近くたっていることになる。そして、この本には副題として「世俗化時代の人間との対話」と記されている。「牧会学Ⅰ」は総論とすると、この書は、各論と言えるだろうか。
 加藤先生から、トゥルナイゼンの牧会学、原文は「魂の配慮の教科書」とも訳せる題であるが、この本との出会いが、当時、牧師となって間もないころ、迷っていた先生を立ち直らせ、再び確信をもって、牧会、伝道に邁進することができるようになったとお聞きしたことがある。
 「牧会学Ⅱ」はすばらしい翻訳で、紹介されており、10年近くたった加藤先生の研鑚ぶりが躍如としている。加藤先生は、現在は、説教塾の主宰をなさっておられるが、御自分の紹介を一言「神学者」として表明されている。東京神学大学で「説教学」を長らく教えておられたが、鎌倉雪ノ下教会でながらく牧会され、教会の牧師として、引退なさるまでを過ごされた先生である。説教をどのようにして豊かなものにするかを説教塾で、今も熱心に指導されている。 さて、「牧会学Ⅱ」は、説教は、牧会の中で生まれてくるものであり、説教者は、教会員との深いかかわりあいの中で、初めて主の日の礼拝説教も、力を持つものとなるとトゥルナイゼンは、この書を書き出す。そして、現代の世俗化時代の人間との対話と副題にあるように、牧会者がぶつかるこの世での困難な問題、結婚問題や病者やさらには死を迎えようとしている者や悲しんでいる者への慰めの牧会について、聖書の説く慰めがどのようなものであるか、医師と牧師との連携などを神学的に解明していくのである。この翻訳が出てからも、50年近くなるが、今の時代の私たちにも、尚大きな光を与えてくれる重要な本に違いない。トゥルナイゼンは、この書にも出て来る、説教学者ボーレンと共にカール・バルトの「神の言葉の神学」に立つ神学者である。














2018年6月20日水曜日

―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」 白井 幸子 著


―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」
白井 幸子 著
発行者  長谷川素美
発行所  株式会社メディカ出版
2017105日発行 第1版第1

 白井幸子先生の新しい著書が出版された。思えば、今か25年ほど前に、ルーテル神学校での臨床牧会の訓練で、最終学年の秋9月頃より、東村山にある全生園に通ったときに、その終了に際して、牧師になる私どもへのお祝いの記念として贈っていただいたのが、先生の著書「看護に生かす交流分析」(医学書院)であった。
 それには、岡安大仁先生(日本大学医学部教授、ルーテル東京池袋教会員)の推薦の言葉が、最初に記されていた。自分の住んでいるすぐ近くに、このような優れた、勇敢なカウンセラーがいるとは、知らなかった。この本は、現在の時点では、最も優れたカウンセリング、交流分析の入門書であろうといった趣旨の文章が記憶に強く残っている。あれから、もう随分になる。そして、今回の本となって贈られてきた。白井先生の今に至る長い研究と臨床の経験とが、この本に凝縮していると思わされた。
 先生から聞いたお話では、最近は、さし絵や分かりやすい図などを用いて読みやすくしないと、本も売れにくいとのことであったが、そのような図解や写真も、理解の助けとなり、興味を深めるものとなっている。本の表紙には「対人関係が楽になる!『ナースの感情整理術』交流分析で納得、今日からできるコミュニケ―ションのコツ」とあり、自分のタイプが分かるエゴグラムシート
つきとあり、これでコミュニケーションはバッチリと、にこやかな看護師ふ たりの絵があり、OKのうちわをかざして、下にはひつじ2匹が伏しており、「わたしもあなたもOK牧場」案内板が書かれている。このような読みやすい本が出たのを感謝している。この書を毎日の日課として一日の始めに20分は読みたいと、改めて計画している。
 交流分析(トランスアクショナル・アナリシス)は、特に生まれてから、幼児期に至る母親や父親との関わり方など、生まれてから今までの成育歴を重視するカウンセリングの一つの大きな流れであろう。そして、「自由な子供」、「順応の子ども」「成人」「批判的親」「保護的親」という自我状態を、エゴグラム・シートを使って調べ、状況に応じてどの自我状態も自由に使えるべく挑戦してみたいと切に願っている。それにより自分も人もより良く理解できるであろう。

2018年6月9日土曜日

「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)


2018527日、三位一体主日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第6章1節-8節、ローマの信徒への手紙第814-17節、ヨハネによる福音書第31-12節、讃美唱19(詩編第192-15節)

説教「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)

 私どもは、今日、再び、教会暦の典礼色としては、白を用いて、三位一体主日という特別に大事な礼拝を迎えています。私どもは、何気なく、式文を用いて、毎週の礼拝を守っていますが、礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって」始め、終わりの部は、「父と子と聖霊のみ名によって」牧師の派遣の祝福をもって、新たな1週間の生活へと遣わされていくものであります。
 今日は、特に、ヨハネ福音書第3章1節から12節までの、ニコデモとの主イエスの対話を思いめぐらしながら、いつも耳にしています、私どもの神、三位一体の神について、それも、三つにして一つなる神である、聖霊について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、今日の読まれました福音では、ある夜のこと、エルサレムの都におられました主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきます。人の目をはばかって、ということもあるでしょう。彼は、ファリサイ派の門とであり、イスラエルの教師、さらには、議員でもあったとあります。エルサレムのサンヘドリン、70人議会の一員でもあり、人々からも尊敬されていた名門であったと考えてもいいでしょう。ですから、昼間に来るわけにはいかなかった。ヨハネ福音書は、主イエスをメシアと証言する者は、会堂追放されるという、信者にとっては信仰を捨てるのも、致し方がない、背景のもとに、紀元後90年あるいはそれ以後のころに、迫害の激しい中で書かれた福音書だと言われています。

 そのような背景において、この物語は、記されています。今日の福音書のすぐ前には、エルサレムでなさった主イエスのしるしを見て、信じる者も多かったとあります(ヨハネ福音書第2章23節)。ニコデモも、そのような、主イエスを半分信じようとしている者として、ここに訪ねて来たのであります。

 彼は、主イエスに、「ラビ、あなたがなさっているようなしるしは、神が共におられるのでなければできないことです」と語りかけます。それに対して、主は、いきなり、あなたによくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、と突き返すように語り        かけられるのであります。

 ニコデモは、老人でもあったのでしょう、「人は年を取って、再び、母親の胎内に入り、生まれ直すことができましょうか」と率直に疑問を、主に投げ返します。主が言われた「新たに」という言葉は、さらには「上から」の意味もあり、神の国を経験するには、幼子のようになって、それを受け入れることなくしては、それを味わうことは、私どもには不可能なのであります。しかし、そのことは、ニコデモには分かりません。

主は繰り返して、ニコデモに言われます。「よくよくあなたに言っておくが、人は水と霊によって、生まれさせられなければ、神の国に入ることはできない」と。だれでも、もう一度、誕生しないことには、人間の努力や生まれもって、特別に恵まれて与えられた、どんな賜物を持ち合わせた人も、だれひとり、罪から自由になり、喜びのうちに生き得るようにはなれないというのであります。

そして、肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれた者は霊であると、主は言われます。ニコデモは、もう一度母の胎に入って生まれさせられるということはできないと主に問うのですが、肉からもう一度生まれてもそれは、肉のままであり、人間の罪とがや、欠陥は同じままでしょう。

肉とは、自然のままの全体としての人間の本性を指しています。霊とは、神から生まれるものであり、あるいは神そのものをここでは言っています。神の霊によって、人間は新しい存在へと生まれさせられ、もうけられねば、神の国、天の国に入ることはできないと、主はここでニコデモに呼びかけておられるのです。肉のままでは、人はやがて、死によって滅びる空虚なものにすぎません。

 そして、主はこのように譬えて、言われます。風は思いのままに吹く、そしてその音を、あなたは聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのか知らないと。この風という言葉は、霊とも息とも訳せる言葉であります。従って、霊はその欲するところに吹いてゆく、それがどこから来てどこへ行くのかはあなたにはわからないとも訳せるのです。そして、それを一遍に訳することはできないのであります。聖霊も風も、その好むままに、自由に吹くのであります。人間の力でそれを動かすことはできない。そして、共に人間には欠かすことのできない存在なのであります。

 風が吹かなければ、作物も、自然も守られないでしょう。そして人間の生活は成り立たないでしょう。しかし、それが、どこで起こり、どこで消えるのか、我々には見えないし、理解することもできないのであります。ただその音を聞くことができる。そしてそのざわめきを、木を見、まわりを見て感じ取ることができるだけであります。聖霊の風もまた同様に、私どもは、み言葉を通して、そのざわめきを知ることができるのみであります。そして、聖霊を支配することは、人間にはできませんが、それを受けて、新しく変えられることはできるのであります。

 主は、先に、繰り返すように、人はだれでも、水と霊とによって生まれさせられねば、神の国に入ることはできないと言われました。「水と霊」とは何を言っておられるのでしょうか。洗礼者ヨハネは、水による洗礼を人々に施して、自分は、メシアの来られる前に、その備えとして、水で悔い改めの洗礼を施していると宣言していました。そして、自分の後に来られるそのお方は、聖霊で洗礼をお授けになると預言していました。ずっと後になっても、使徒言行録を見ますと、洗礼者ヨハネの弟子たちの群れが出て来ますが、彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けただけで、聖霊なる者の存在する知らないというので、主イエスの名によって洗礼を授けると、聖霊がくだってその12人ほどの者たちは預言し始めたと記されています。私どもは、水と霊によって新しく創造されなければならない者であり、そのために「洗礼」という恵みの手段が与えられていると、この不思議な主イエスのみ言葉を素直に受け取ることが、私たちには許されているのではないでしょうか。

 さて、主は、ニコデモに、私があなたに、あなた方は新たに生まれさせられねばならないと言ったからといって驚かないようにといって風の譬え、霊の比喩を語られたのですが、ニコデモはやはり、どうしてそんなことが起こり得ましょうかと納得できません。

 主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、そんなことも分からないのかと言われて、語り続けられます。私たちは、私たちが知っていることをしゃべり、見たことを証している。それなのに、あなたがたは、受け入れないと。そして、私が、地上の事柄どもをあなた方に言っても、信じないなら、天上の事柄どもを、あなた方に、私が言ったとしても、あなた方は、信じゆだねることはないだろうとの、主の言葉で今日のみ言葉は終わっています。

 ニコデモとの11で始まっていた主イエスとの対話が、いつしか、ニコデモの属するユダヤ教の会堂の人たちと、キリスト教の弟子たちとの論争になっているのであります。

 主は、どうしても理解できないというニコデモに、あなたは神の民イスラエルの教師ではないかというふうに、権威ある聖書の専門家であるファリサイ派のリーダーに、訴えるように教えているのであります。旧約聖書には、十分調べるならば、この霊による人間の新たな誕生について書いてあるではないかと主は諭されるのでありますが、少なくとも、今日の対話においては、潜在的には、主イエスを信じようとする、半分はクリスチャンの可能性を持ってはいるものの、両者は食い違ったままの状態なのであります。

 主イエスのなさっておられるしるしを見て、主イエスをもっと知りたい、信じたいと思ってニコデモは夜やって来ましたが、ここでは結局そのまま、いつしか、ニコデモは舞台から消えてゆくのであります。

 主イエスが、ニコデモたちに神の国の説教を語られたときにも、そのしるしを見て、信じたものは多かったと記されていますが、それを告白することをしなかった、神よりも人の誉れを大事にしたからであると記されています。

そして、そのことを、イザヤは、彼らは聞くには聞くが悟らず、見るには見るが、見えないようにするために、主は譬えで語られ、主なる神が、彼らの心を頑なにされたと預言しています。

主イエスの後の弟子たち、教会の信徒たちは、この福音書が書かれた時代にも、自分たちは知っていることをしゃべり、見たことを証しているのに、あなた方、会堂で礼拝を守る、ユダヤ教の者たちは、私どもを迫害し、受け入れないと論争を続けていたのであります。

ニコデモとの対話の時にも、主イエスが言われる、霊によって、新しく生まれさせられねばならないとのみ教えを、当時の大勢のユダヤ人たちは、ニコデモと同じように、この方において、神の国が来ていることを信じゆだねることができませんでした。「言は肉となって、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ福音書第1章12節)のであります。

今の私たちはどうでしょうか。理性によっては、霊の働きを知ることはできません。人は「水と霊とによって」生まれさせられねば神の国に入ることはできないとの主のお約束に信頼し、祝福された第2の人生を歩ませて頂きましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2018年6月4日月曜日

「信仰から来る行い」(マルコ福音書第2章1節~12節)


201863日、聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、ミカ書第714-20節、コリントの信徒への手紙一第924-27節、マルコによる福音書第21-12節、讃美唱32、(詩編第321-11節)

説教「信仰から来る行い」(マルコ福音書第2章1節~12節)
 
  今日は、聖霊降臨後第2主日となりました。そして、今日から再び、教会の聖壇の布などで用いる色は緑となります。この緑は、ノアの洪水のとき、箱舟から送りだした鳩が持ち帰ったオリーブの葉を表し、神にある希望を示す色であります。
 そして、この主の日に与えられた福音は、マルコ福音書第21節から12節の中風であった人が、主イエスによって癒され、寝かされてきた寝床を担ぎ上げて、皆の見ている前を自分の家へと歩いて出て行くという奇跡の物語であります。私は説教題を「信仰から来る行い」と付けておきましたが、今日の第1朗読を見ても、また、讃美唱の詩篇の個所を読みましても、いづれも憐れみ深く、私どもの罪を赦して下さる、またとなき私どもの神というテーマであります。そして、福音書もまた、私どもの罪の赦しを告げられる主イエスのみ言葉であります。はたして、私どもの罪はことごとく赦されるのでありましょうか。旧約聖書は、救い主がいつの日か現れることを預言していましたが、そのお方、主イエスがお出でになられたとき、はたしてそれと人々は気づいたでしょうか。あるいは、このお方がただ一人のメシアであり、他の救いはあり得ないのでしょうか。今私たちがこの日の主イエスをお目にかかったら、この方こそこの世に来られた唯一の神と信じ、受け入れることができたでしょうか。このお方以外に人間に救いは天下広しといえどもない、断言できるでしょうか。
 
この日主は再び、カファルナウムに戻って来られ、家におられましたが、すぐに知れ渡ってしまいます。そして、人々が押し寄せ、戸口も人だかりで中に入れそうもありません。主は、み言葉、福音を語っておられました。そこに4人に運ばれて、中風の人が寝床に寝かされたまま、連れて来られます。4人は、中に入れず、屋根に上がって屋根をはがして穴を掘り、この人を寝床のまま、つりおろします。主は彼らの信仰を見て、この人に「あなたの罪は赦されている」と断言なさるのです。そのときの喜び、驚きはいかばかりだったでしょう。これを座って、考えあぐねている律法学者たちがいました。それを霊で見抜いた主は、「あなたの罪は赦された」というのと「あなたは起き上がって床を担ぎ歩きなさい」とうのとどちらが容易かと訊ね、しかし「人の子がこの地上で罪を赦す権威を持っていること知るように」と言われ、その通りになるのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

2018年6月2日土曜日

最近読んだ本からー「詩集 雪明りの路」 伊藤 整 著


―最近読んだ本からー「詩集 雪明りの路」
伊藤 整 著
特選 名著復刻版全集  近代文学館
昭和4715日 印刷
昭和47110日 発行(第3刷)
椎の木社版

伊藤整と言えば、「チャタレー夫人の恋人」の翻訳をめぐって、表現の自由が争われた裁判を思い起こす。私の高校時代のころに、授業で「若き詩人の肖像」を文学史の中で習った記憶があるが、今回は、その詩集「雪明りの路」をある方から、貸していただいて、先に一読することができた。
伊藤整は、北海道の小樽市の出身であり、この詩集も、この故郷での懐かしい思い出を、詩作としてまとめたものである。詩人であり、小説家である著者の純粋で、赤裸々な思いが、優れた表現力で、記されている。大正158月23日に、「緑深い故郷の村で」序文を書いている。
文学者の細やかな自然の観察力や人間世界の描写には改めて驚かされる。伊藤整の場合、私は、読んでいて聖書の雅歌を思い起こさせられた。恋人との淡い恋愛感情などが、短い詩の中に、見事に切ない思いとなって表現されている。伊藤整の背景については、ほとんど何も知らないのだが、期せずして「雅歌」のような男女関係のあこがれのようなものを通して、神の人間に対する愛のようなものまで、彼は知らずして感じ取っていたのではないだろうか。
北海道には、私はまだ残念ながら行ったことがない。雪国のことを知っている人が、この詩集を始めて十分に理解してくれるだろうと、彼は序文に書いている。確かに、小樽の独特な自然や町の風情が細やかに描かれている。大正末期の時代の、今とは異なる独自の日本の歴史も感じ取られる。
しかし、この詩集は、今の日本人にも、場所と時を超えて、理解できるし、共鳴できる日本人の詩篇ということができよう。大きな字で、1ページくらいまでの詩が100篇くらいにまとめられていて、すこぶる読みやすい本となっている。それにしても、文学者の表現力、日本語の美しさには驚嘆させられる。そのような表現力、観察眼、感性といったものは、説教をする牧師にとっても、学ばねばならないものだと思わされる。そして、このような繊細な感性を持った詩人が、北海道の小樽市という、北国の自然と人々の中から生まれたことは、偶然ではあるまい。このような作品を古き良き時代の日本の産んだ名著とするだけではなく、今の私どもを振り返る生きた教科書とも見るべきであろう。