2022年6月28日火曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝

ガラテヤの信徒への手紙イザヤ書5章18〜25節
ルカによる福音書9章51〜62節
説教「イエスを道標として」中島康文牧師

この日曜日はルーテル市川教会の中島康文牧師をお招きして
お話をしていただきました
少し編集してYOUTUBEにUPいたしました
飯田ルーテルで検索してご覧ください

6月25日、天竜峡の「龍峡亭」で
教会員10名ほどが集まって教会修養会を行いました
天竜川を見下ろす眺めの良い部屋で
中島牧師にも同席していただき
教会の建築について話し合いの時を持ちました

2022年6月19日日曜日

汚れた霊から救われて(日曜日のお話の要約)

三聖霊降臨後第2主日礼拝(緑)(2022年6月19日)
イザヤ書65章1節(1167) ルカによる福音書8章26-39節(119)


 本日読みました福音書には、悪霊に取りつかれた男が登場します。この出来事はマルコ福音書5章とマタイ福音書8章にも記されている有名な箇所です。


 ガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地方は、ユダヤ人かにとって異国の宗教がはびこるいかがわしい場所でした。案の定イエス様一行が湖からゲラサに上陸した途端、悪霊に取りつかれている男が走り寄って来ます。素っ裸で全身傷だらけで泥に塗れ、おそらく髪も髭も伸び放題の、見るからに凶暴な男が突然やって来たのですから、弟子たちは内心震え上がったに違いありません。

 その男は町の人々が何度鎖で縛っても足枷を嵌めても、男はこれを引きちぎってしまい、昼も夜も墓場で叫んだり、石で自分を打ち叩いたり、暴れる彼をどうにかできる人は誰もいませんでした。


 しかし、イエス様はその男の中に巣食っている汚れた霊に向かって「そこから出て行くように」と命じられたのです。それは「神の子」として権威あるお言葉でした。悪霊は戦うことなしに、あっさりと降参してしまいます。

 次に、イエス様は悪霊の名を尋ねます。すると悪霊は素直に「レギオン」と答えます。悪霊にとって自分の名前や正体を名乗るということは、完全にイエスに降参し、支配されたことを表しています。「レギオン」というのは、元々ローマの軍団を表す言葉で、おおよそ5,000人ほどで構成されていました。つまり5000もの悪霊が一人の男に取り憑いていたのです。イエス様はこの男性を哀れに思われ膨大な数の悪霊から一刻も早く解放してやりたいと思われたに違いありません。


 悪霊達が、この男から追い出されるなら、せめてそこにいる豚の群れに乗り移らせてくれ、と願うとイエス様はお許しになりました。すると悪霊に取り憑かれた2,000頭ほどの豚の群れは正気を失い一斉に崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々と溺れ死んだのです。

 豚を飼っていた人々は多大な損害を受けて気の毒だとか、死んでしまった豚が可哀想とか思われる方もいらっしゃるでしょう。ただユダヤ人にとっては豚は不浄の生き物で、決して食べないので養豚などはしません。この記録は元々マルコ福音書に記されたていたものですが、著者であるマルコは純粋なユダヤ教育を受けた人物ですから、豚を飼って生活している人々への強い偏見があったのでしょう。


 この記事が書かれた頃は、ユダヤはローマの属国であり、多くのローマ兵が駐屯しており、ローマ人の為に食べさせるために、ユダヤ人以外の人々が中心となって、ゲラサ地方で豚の養豚事業が営まれていたと考えられます。心置きなく豚肉が食べられるこの場所はローマ人相手の飲食店や盛り場ができていたのかもしれません。豚を食べるローマ人への軽蔑が、こういった表現を生んだとも思われます。2000年前のユダヤはそういう文化を持つ国だったと考えていただければ良いかと思います。


 さて、このお話は、男がたくさんの悪霊から解放されてめでたしめでたし、では終わりませんでした。目の前で2000頭もの豚が一気に溺れ死ぬのを見た人々は町や村に逃げ戻り、その話を聞いた人々が確認にやってきます。そしてあの男性が服を着て正気になって座っているのを見るのです。

 湖に浮かぶおびただしい豚の死骸と、それと引き換えにまともになった男。あまりの衝撃に、悪霊つきの男がまともになったことへの感謝など、頭に浮かびもしなかったのです。これ以上イエス様一行がここにいたら何が起こるかわからない。そう思った町の人々は「ここから出ていってくれ」と言い始めます。


 ここで騒ぎを起こすのは本意ではなかったイエス様と弟子たちは、再び船に乗り込み、そこから去ろうとしました。すると、悪霊に悩まされていた男は「イエス様についていきたい」と申し出ました。

 彼は、悪霊の仕業とはいえ、恐れられ、疎まれる存在でした。正気に戻り自由を与えられたとしても、決して昔のような関係は取り戻せない。彼はそう思っていたのです。それならば、何もかも捨てて、自分を癒してくださったイエス様とともに旅に出たい。彼がそう願っても不思議ありませんでした。


 しかし、イエス様は彼にただ、「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と諭されたのです。彼にとってその場に残り、家族にイエス様を証することは、ある意味、旅から旅への生活を続けるよりも厳しいものでした。しかしイエス様はあえて彼にそれを望まれたのです。彼にしかできない宣教の方法があることをご存知だったのです。

 彼はイエス様が言われるままにそこから立ち去りましたが、イエス様が自分に命じられたことを忠実に行いました。イエス様が自分にしてくださった奇跡の業を、身内から始めてその地方の人々に言い広め、皆驚きながら耳を傾けました。その中にはイエス様への信仰に目覚めた人もきっといたことでしょう。


 イエス様の救いの出来事は、知識ではなく、体験であり、イエス様に従うものは、この体験を語ることにより、より多くの人々が神様の救いに入れられていくのです。神様のみざわととの愛を、今まで神様の救いなど聞いたことがない、信じたことがない、そんな多くの人に届けるために、彼は豊かに用いられたのです。

 イエス様は今も私たちに同じように言われます。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」


 私たちのこの地での役目は、私は救われた感謝を忘れず、まず自分のそばにいる人々に証しながら歩むことです。その心を忘れず、主イエスの救いと導きに預かり、この場所に主の宮を建てあげて参りましょう。





伊那市高遠町の「しんわの丘ローズガーデン」に行ってみました

「山の斜面に約10,446㎡の敷地を持ち、約270種、

 3,000本余りの色とりどりのバラを見ることができます」とのこと

伊那市全体で「バラと音楽とアルプスの恵み」というテーマで

イベントをやっているそうです

この日、あちこち回る時間はありませんでしたが

遠くに中央アルプスの見えるこのバラ園だけで

季節の恵みを十分堪能することができました





2022年6月14日火曜日

ただ信仰に歩む(日曜日のお話の要約)

三位一体(聖霊降臨後第1主日)礼拝(白)(2022年6月12日)

ローマの信徒への手紙5章1-5節 ヨハネ福音書16章12-15節


 ヨハネ福音書はもともと哲学的で難解な表現がたくさんありますが、本日読みました箇所にはイエス様自ら「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」とおっしゃいます。


 師匠であるイエス様から、「今、あなたがたには理解できない」という言葉を投げかけられて、自分はひとかどのものだと思い込んでいた弟子たちは複雑な心境になったでしょう。しかしイエス様はすぐに正解を知りたがるくせに、知ったら知ったで忘れてしまう、そんな人間の性質を見越した上で、「正解を人から教えてもらうことばかり考えないように」とおっしゃっているようです。

 この出来事は最後の晩餐の席上でのことです。イエス様がエルサレムに着いたとき、人々は大いに盛り上がり、イスラエルの王様になってもらいたいと望み、ホサナの歓声で迎えました。弟子達はすぐそこに迫っている危機には気づかず、誇らしげに行進しました。


 イスラエルは今までローマ帝国の属国として押さえつけられていたけれど、イエス様ならこの国を解放してくださるだろう。その時には、イエス様の弟子達である自分達は、イエス様の側近として国の財政や軍事を預かり、近隣諸国から脅かされないように国を守っていこう。弟子たちはそんな強い思いを持っていました。 

 しかしイエス様はその夜のうちにエルサレムの最高指導者達の指示によって捕らえられ、激しく鞭打たれた末に十字架にかけられたのです。

 イエス様を陥れた国のトップ達、祭司やファリサイ人は、イエス様が民衆にあまりに強い影響を与えるので、それがローマへのクーデターにつながり、ひいては自分たちの立場だけでなく国そのものが危うくなることへの恐れを感じていました。

 彼らは国を守るためと言いながら、体制の邪魔になる人物を陥れて殺したり、神様の教えを悪用して弱者を切り捨てたり、掟や教えをやたら難しくして庶民をコントロールしようとしたり、権力を傘にきてやりたい放題を行った様子は福音書にも記されています。


 もちろん、彼らの行動やそれを許しておく国の有様は神様の思いからかけ離れており、もちろんイエス様の思いとも離れていたのです。イエス様はご自分の話を聞く人々に、あるときは遠回しに例えを使って、あるときはストレートに、神様のお考えを話して聞かせ、正しい道を歩むように教えられました。それを聞いた人々は深く心動かされることもありましたが、理解できず思考停止に陥ることもしばしばありました。


 弟子たちにしてみれば、わかるわからないを超えて、ただ信じていくという道を選ぶことは、かなりの勇気がいることでした。しかし、彼らは頑張ったのです。おそらくイエス様が逮捕されるギリギリまで、イエス様を信じ抜こうと頑張ったのです。それでもやはり人の思いには限界があります。どれほどイエス様を愛し、信仰的に生きようと思っても、自分の努力だけではどうにもならないことを、弟子たちは十字架を前にして、嫌と言うほど思い知ったのでした。


 根性や信念だけではどうにもならない。では何が必要なのか、何があれば可能なのか、そう考えた時、イエス様が十字架にかかる前の夜に、すでに答えを与えてくださっていたことに彼らはようやく気づくのです。本日の聖書箇所「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」つまり、イエス様は、ご自分が天に帰られた後、聖霊なる神が来られるから、あなたたちは私が教たことがわかってくる、と予告されていたのです。


 そしてペンテコステの日、待ちに待った聖霊なる神が降臨され、弟子たちはイエス様から深く愛されていることを再び知ることになります。ただ、使徒言行録を読めばわかりますが、弟子たちは一足飛びに立派な信仰者に育ったわけではありませんでした。仲間同士意見の違いもありましたし、失敗も繰り返しましたが、少しずつ少しずつ成長して、地中海沿岸に仲間の信仰者を増やしていきます。そうして、やがていくつもの教会が誕生したのです。

 その聖霊なる神は、ここで礼拝に預かる私たち1人1人のところにも来られ、今この瞬間も、イエス様のお言葉や聖書のみ言葉を理解できるよう、力を与え、神様の愛を注いでくださっているのです。

 

 世界は今、新型コロナウィルスや戦争という大きな問題を抱えています。北朝鮮はミサイルを盛んに撃ってきますし、先進国であるアメリカからは銃の乱射事件のニュースが頻繁に届きます。日本でもコロナによる生活苦や少子高齢化の問題は非常に深刻です。生きていても良いことはないとばかり引きこもったり、自らの命を絶つ人も大勢います。

 私たちも、もし信仰を持っていなかったなら、生きる意味を失ってしまうかもしれません。しかし私たちは主イエスを信じるものとして、イエス様自ら選んでくださった存在です。世の不条理さえ、祈りに変えつつ、聖霊の導きによって歩む力が神様から与えられているのです。

 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生みます。そしてその希望は私たちを欺くことはありません。何事にも失敗を恐れず、一人で失望しないで、ともに祈り合いながら進んで参りましょう。聖霊の導きによって歩む私たちには神様の愛がいついかなる時にも注がれているのです。 


6月4日の土曜学校はプラ板工作でした
11名の小学生が参加
時間ギリギリまで熱心に制作しました
出来上がった作品をストラップやブローチに仕立てて
大喜びです

まだまだ作り足りない様子だったので
12日の日曜学校は特別に聖歌隊練習をお休みし
7名のこども聖歌隊員と一緒に
プラ板工作を楽しみました


6月4日 土曜学校にて


6月12日 日曜学校にて

2022年6月5日日曜日

キリスト教会の誕生日(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨礼拝(2022年6月5日)
使徒言行録2章1~4節 ヨハネによる福音書14章15~18節 

 みなさん、おはようございます。今日は聖霊降臨礼拝、イースターから数えて50日目に行う大切なお祭りです。


 イエス様は十字架にかかる前、困った人や仲間外れにされている人を助け、神様が守ってくださるとお話されました。そして普通の仕事をしていたおじさんたちを集めて、お手伝いをしてもらいました。そのおじさんたちは弟子と呼ばれました。


 弟子たちはイエス様が大好きで、イエス様がお話ししてくださることを一生懸命聞きました。けれど一番大切なこと、イエス様が何度も何度も「三日目に復活する」と言われた言葉を信じることができませんでした。イエス様のように立派で優しくて奇跡を行えるすごい方は王様になるべきで、十字架にかかるなんてあり得ないと思っていたのです。


 ですからイエス様が本当に逮捕された時、イエス様の仲間だとバレれば自分も殺されるかもしれない、と死ぬほど恐ろしくなって逃げ出したのです。しかしイエス様は、人間は死にたくないと思ったら大切な人を裏切って逃げ出すこともある、と分かっておられました。また、それでいて、そんなふうに誰かを裏切ってしまうと、後になって寂しくて悲しくて、自分は卑怯者だと考えて、死にたくなるくらい後悔するものだと言うことも知っておられたのです。


 ですから、明日はいよいよ十字架にかかるという夜、イエス様はまだピンときていない弟子達に一つの約束をなさいました。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言うお言葉です。

 「みなしご」と言う言葉は今は孤児と言い換えられますが、「みなしご」自体は放送禁止用語ではないそうです。今の日本には孤児を助ける仕組みがありますが、2000年前のイエス様の時代は、幼いうちに両親が死んでしまうと、子どもだけでは生きていけませんでした。

 イエス様はご自分が十字架にかかったら、弟子達はまるでみなしごのように心細くなると知っておられました。それで「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言われたのです。私はあなたを見捨てない、と言う意味だったのです。


 そして十字架から三日たち、イエス様は約束どおり弟子たちのところに帰ってこられましたが、弟子達は、イエス様を見捨てたことを咎められると思っていました。しかしイエス様は咎めるどころか「私があなたたちを選んだんだから自信を持ちなさい。もう一度信仰を強くして困った人たちを助け、私の教えを宣べ伝えなさい」と言われたのです。弟子たちは深く悔い改め、イエス様のお話を聞きました。


 ところが復活から40日が過ぎると、イエス様は「世界中の人に神様のお話をしなさい。私は世界が終わるまでいつもあなたたちといっしょだよ」と言い残して天に帰られます。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。」と言われたのに、どうしてなのでしょうか。弟子たちはまた、心細くなりました。


 しかしその時、イエス様は「あなたがたのところに戻って来る。」とも言われました。弟子たちはそのお言葉を信じて、イエス様を信じる大勢の人々と共に集まって、熱心に神様にお祈りを始めました。お互い励まし合って毎日毎日お祈りをし始めて10日目のことです。つまりイースターから50日目に特別なことが起きたのです。


 聖書には「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と書かれています。炎のような舌が一人一人の頭の上に止まった次の瞬間、彼らは天に帰ってしまったはずのイエス様が、すぐそばにいてくださることがハッキリとわかったのです。


 「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。」と言うお言葉は本当になりました。炎のように現れたのは「聖霊」と呼ばれる神様だったのです。この神様はイエス様を信じる人たちの心の中に入ってくださいました。そのおかげで、イエス様がそばにいて守ってくださることがわかるようになり、イエス様を信じる人たちの信じる心や勇気を何倍、何百倍にもしてくださったのです。


 それから弟子たちは「世界中の人に神様のお話をしなさい。」というイエス様のご命令を守って、どんな人にもどんな時でも神様のお話を宣べ伝えました。迫害されてピンチに陥り、もうこれで最期という時ですら、イエス様がそばにいて、天の御国に連れて行ってくださることを堅く信じました。

 こうして弟子たちがイエス様の教えをどんどん広めたので、イエス様の教えは広がっていきました。そして祈ったりイエス様のお話を聞いたりするために自由に集まるところを作り、そこに「教会」と名前をつけました。ですから、「聖霊降臨の日」は「教会の生まれた日」「教会の誕生日」なのです。


 イースターから数えて50日。聖霊なる神様が降ってきてくださったことを記念してする「聖霊降臨礼拝」は、別名ペンテコステともいいます。ペンテコステというのは「50番目の日」という意味です。


 イエス様の教えはたくさんの教会を生み出し、やがて海を超えて世界中に広まり、やがて日本にも届きました。私たちのルーテル飯田教会も120年前にそうしてできた教会の一つです。イエス様がご自分を信じる人を、決して一人ぼっちの寂しい「みなしご」にはしない、と言われたことを、どうぞ覚えておいてください。




教会の節目節目の礼拝はハンドベルチーム・リーベクワイヤが演奏して下さいましたが、今回は事情で参加していただくことができませんでした。

こども聖歌隊もコロナの予防のため歌の練習ができないので、トーンチャイムに挑戦しました。

いつもはリーベクワイヤで華麗なハンドベル演奏を聴かせてくださっているこども聖歌隊の保護者の皆様が、ベルをトーンチャイムに持ち替えて協力してくださいました。本当にありがとうございます。

次の機会こそみんなで楽しく歌って演奏できるよう祈りを重ねて参りましょう。



朝比奈牧師着任以来、コロナ禍もあって
なかなか集合写真が撮れませんでしたが
今日はこども聖歌隊やそのお母様たちも一緒に記念写真です


2022年6月1日水曜日

神の愛に生きる 主の弟子達(日曜日のお話の要約)

復活節第7主日礼拝(2022年5月29日)
詩編97編10-12節 ヨハネによる福音書17章20-26節


 本日のヨハネ福音書17章は、イエス様が十字架にかかる前の夜、最後の晩餐を終えてゲツセマネの園に赴く直前のイエス様の祈りのお言葉です。


 ゲツセマネに行けばユダに率いられた兵士や祭司長、ファリサイ派の人々などがご自分を逮捕するために来る。そしてその先に待っているのは不当な裁判や鞭打ち、ついには十字架にかけられて命を落とすのです。しかしイエス様は全てをご存知の上で受け入れられました。


 このような状況においても、イエス様は父なる神様に向かって何度も何度も「愛」というお言葉を用いて弟子達のために祈られます。読み飛ばしてしまいそうになりますが、20節に「彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします」というイエス様のお言葉があります。「弟子たちの言葉によって主イエスを信じた人々」とは、全ての信仰者のことであり、ここにいる私たち全員のことです。信仰者である私たちが一つとなってご自分の元にいられるよう、主イエスは父なる神に本当に熱心に祈られたのです。


 イエス様はさらには、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われています。父なる神と独り子主イエスとは、お互いがお互いの内にいると言えるほどに一つの存在です。それと同じように、主イエスを信じる信仰者たち、つまり私たちも、切り離すことのできない強い絆でイエス様と父なる神様とに結ばれるようになるように、と主イエスは祈り願われたのです。 


 なぜそれほどまでに熱心に祈られたのかといえば、むしろ人間というものが、神様を信じていると言いながら、些細なことで歪みあったりバラバラになったりする性質を持っていることをイエス様は知っておられたからです。

 神様は地上に最初の人間アダムをお作りになった時から、人間が一人では生きていけない弱いものであることを知っておられました。そのためパートナーであるエバをお与えになったのですが、二人は知恵の実を巡ってあっという間に夫婦喧嘩を始めてしまいます。聖書は創世記の初めから「人とはこう言うもの」と教えているようです。

 良きにつけつけ悪しきにつけ、私たちには意見の違いというものがあります。小さい事なら誰かが我慢すれば済むかもしれませんが、大きい出来事に立ち向かっていくときには、そうはいきません。神様の力をいただいて、心を一つにする努力を積み重ねていかなければならないのです。そしてイエス様と神様が一つであるようにイエス様ご自身と私たちが一つでいられるように、という強い願いがそこに込められているのです。


 二人いれば必ず意見の相違が生まれ、意地を張り合ってなかなか折り合うことができない。神様は私たちのそんな弱さを知っておられたからこそ、イエス様を地上に遣わされて私たちを集め、私たちに教会というものをお与えになりました。

 「教会」と訳されている言葉は、元々のギリシャ語では「エクレシア」と言います。これは本来「国のために召集された集会」いう意味でしたが、キリスト者の集まりが「神様の呼びかけで人が集まる」という意味に用いるようになりました。教会というのは、神様によって集められたものが、恵みだけでなく、悲しみも喜びも、知恵も知識も力も財産も、全てを分け合う場所である、ということなのです。人々がそう意識し合うことが神様にとって喜びなのです。


 私たちが目指す世界は、イエス様の祈りにあるように、神様の国がここに実現することです。イエス様が私たちに求めておられる世界は、どんな人間もお互いに尊重しながら共に生きる世界です。社会全体、国全体、世界全体に、キリストの教えによって光を輝かせ、間違った生き方をしている人に悔い改めの思いを与え、新しく生き直せる、そんな世界です。

 新約聖書に納められている数々の書簡を読むとき、手紙の書き手であるパウロやペトロやヨハネが、しばしば厳しい言葉で教会員を諫めていることに気がつくと思います。

 どうして仲良くできないのか、どうしてもっとキリストの教えを学んで実践しようとしないのか、どうして他の教えに心惹かれて教会の中に混乱を持ち込むのか。言葉こそ違いますが何度も何度もそんな叱責が出てきます。これは教会が誕生した直後から、クリスチャンたちが同じような問題で悩んできたことを表しています。


 しかしいくら愚かな間違いが繰り返されても、神様の言葉の前に素直に悔い改めるなら、もう一度やり直し、一つとなることがことができるのが神の民なのです。なぜなら私たちが聖書に生かされ悔い改めつつ前進するキリスト者になるために、イエス様ご自身が祈ってくださったからです。


 飯田教会はこれから会堂を新しく建築するという試練に向かって参ります。イエス様に祈られ、導き出された私たちは、心を一つにして神に従うことのできる者達なのです。共に喜び祝える時を待ち望みながら、与えられた試練に取り組んでまいりましょう。



写真中央の薄茶色の塊はモリアオガエルの卵塊です
飯田教会から4キロほどの野底山森林公園で
モリアオガエルが産卵すると聞いていましたが
今年、ようやく見に行くことができました
時期が来るとオタマジャクシが
下の池に
ポトンポトンと落ちるそうです
本当に不思議な生態です

モリアオガエルのモーリーくんが
この場所のゆるキャラ(?)です

2022年5月23日月曜日

人生を変えた御言葉(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2022年5月22日)
詩編67章2-4節 ヨハネによる福音書5章1-9節

 お話の舞台となったのは「羊の門」の傍の「ベトサダの池」で、エルサレムの街の東北の端にありました。「ベトサダの池」は人工的に作られた池で、長さが50メートルほどあったようです。

 この池は元々雨水を貯めるために作られたものでしたが、以前の聖書の訳には「主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても癒された」という注釈がついていました。深刻な病に苦しむ人は、水が動くのを天使のわざと信じてひたすら待ち、一番最初に体を浸そうとしたのでしょう。


 この場所に大勢の病人が集うようになって歳月が流れるうちに、癒されて去っていく者がいる反面、いつまで経っても癒しを得られない人々もいました。本日登場する病人は38年もの間、病に苦しみながらその場に横たわっていたのです。

 彼はここで過ごす時間が長くなるにつれ、水に入れない病人たちが空しく待ち続けた挙句死んでゆき、その遺体が抜け殻のように雑な扱いでここから運び出される様子を何度も何度も目撃することになります。やがて彼は、次第に回復する希望を失い、自分もこのままここで朽ちていくに違いない、という絶望的な思いで毎日を過ごしていたと思われます。


 そんな時、彼は「良くなりたいのか」と呼びかける声を聞きます。思わず目を挙げると、彼よりずっと若い、30歳を越えたばかりの人物に見えました。しかしその人は威厳に満ちた穏やかな声で語りかけたのです。その質問は38年間も患っている人間に向かってするには非常識で冷たいように感じます。しかし「良くなりたいのか」と聞かれて即座に「はい、良くなりたいです!」と答えるのは希望を捨てていない人だけです。この病人はあまりにも長い間、期待しては裏切られることを繰り返してきたために、心の中には絶望しかありませんでした。そして自分が良くなれないのは自分勝手な人々のせいだ、という恨みでいっぱいだったのです。


 ですからイエス様に尋ねられ、何か答えなければと思った時、咄嗟に出たのが「誰も私を水の中に入れてくれない」という38年分の恨みのこもった言葉だったのです。「良くなりたいから、どうか私を水の中に入れてください」と頼むことすらできないほどに心が闇に囚われていたのでしょう。


 イエス様はこの病人の心のうちまでご覧になりました。あえて「良くなりたいのか」と問いかけられたのは、彼の心に今一度回復への希望を灯を灯し、神様に対する信頼や信仰を掻き立てるためでした。彼がとっくに放棄していた「神にすがる」という信仰を取り戻してもらうために、あえてこの言葉を語りかけられたのです。

 長い年月、誰も自分を見ようとしなかったのに、この方は真っ直ぐに自分に愛のこもった眼差しをむけ、力強い言葉で「治りたいのだろう」と促してくださる。このお方は一体誰なのだろう。病人の心が大きく動いたことを知ったイエス様が次に言われたのは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」でした。この言葉は、彼の人生を変える言葉となりました。


 イエス様の言葉に抗えないものを感じた病人は、立ち上がれると信じ、言われるままに今まで使っていた寝床、おそらく粗末な布のようなものでしょうが、それをたたんで歩きだしました。水に入ることなく、彼は癒やされたのです。

 イエス様は今までなさった奇跡の中で、病気を治された後、しばしば「家に帰りなさい」とおっしゃいました。しかしここでは「歩きなさい」と言われます。これには特別な意味があるようです。38年は長い時間です。家に帰っても、かつて自分を愛してくれた家族や友人はすでに存在していないかも知れません。まるで浦島太郎のように、さらに深い絶望を味わうかも知れません。いまさら元気になって何になるのかとまで思うかも知れません。


 それでもイエス様はこの人に「歩きなさい」と言われますした。あなたは神様の憐れみを知り、私という救い主を知った。あなたの苦しみを取り去り、暗闇から救い出してくださる神の存在と愛を、同じように苦しむ人々に伝えなさい。あなたが経験した苦しみは、救いを求める人に神の愛を伝える力と変わる。そのように、彼に生きていく意味をお与えになったのです。

 彼は癒やされた直後、ユダヤの人々から声をかけられます。それは「よかったね」という喜びの声ではありませんでした。癒やされたのが、イスラエルでは本来何の業もしてはならない安息日だったため、床を担いだことを厳しく問い詰められたのです。


 すると彼は「私を癒してくださった方が担げと言ったから担いだのだ」と、あやふやな言い訳のような言葉を述べます。癒していただいておきながら、責任はイエス様にある、と言わんばかりです。何だか危なっかしいなあ、と思う方も多いでしょう。

 この人がこの後、イエス様を信じて人生を変えていただいた喜びと感謝を持って歩んだのか、ユダヤ人たちの言いなりになってイエス様を批判する方に回り、再び神様の愛から離れてしまったのか、聖書からは知ることができません。


 しかしイエス様の真っ直ぐで慈愛に満ちた眼差しを受けた彼は、時々弱気になることがあったとしても、その都度自分に向けられた眼差しを思い返し、その後の人生もイエス様に忠実に歩んだことを願いますし、そうであろうと思います。

 私たちもまた、神の言葉を聞き、人生を変えられたものたちの集まりです。時々は弱気になったり、信仰があやふやになったりすることもあるかもしれません。しかしイエス様の眼差しを受け、人生の新しい目標を与えていただいた喜びを知るものとして、主に命じられるままに歩んで参りましょう。



来月の土曜学校の工作
10年ぶりくらいにプラバンクラフトをすることに決めて
材料を引っ張り出しました
ただSDGs的にどうなんでしょう
プラごみを増やさないように、と教えつつ
一方でプラスチック工作をすることに矛盾がありますが(^^;)
終わったら切れ端までていねいに集めて
教師たちで再利用しようと考えています

2022年5月16日月曜日

愛の主体になる(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(白)(2022年5月15日)短縮
ヨハネ黙示録21章3-5節(477)ヨハネ福音書13章31-35節(195)


 新約聖書を記したギリシャ語は「愛」について、4つの単語を使い分けています。ところが日本語にはそれらに対応する単語がないので、初めの頃は全部まとめて御大切(ごたいせつ)という言葉を使っており、しばらくたって「愛」と訳したようです。

 ギリシャ語で「愛」を表す4つの単語とは、エロース、フィリア、ストルゲー、アガペーで、それぞれ男女の間の愛、友情、家族愛、そして無償の愛、と書き分けて用いられています。聖書では、絶対にぐらつかない、状況がどうであれ失われることのない愛のことを「アガペー」という言葉で表しています。この愛について教えてくれるのが、本日読みました福音書の箇所です。十字架を前にして、イエス様は弟子たちに対し、無条件で他人を愛することの大切さを教えておられるのです。

 本日のお話はイエス様が十字架にかかる前、12弟子の一人、イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、不当な逮捕に協力するため、最後の晩餐の席から出て行った直後の出来事です。
 「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたは探すであろう」と謎めいた言葉をお話になり、さらに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とイエス様はおっしゃいます。
 弟子達は、この言葉に激しく動揺します。彼らは、少し前からユダヤの一部の人々がイエス様の命を狙っていることに気づいていましたが、イエス様が死ぬなら、私も死のう、と言葉に出していました。

 弟子達は、イエス様が素晴らく完成された世界を作ってくださると信じ、その世界が実現することを強く望んでいました。そのためには激しい戦いもあるかもしれないが、ひるんでなるものか、とも思っていたでしょう。万が一の時には自分がイエス様を守って戦おう、そんな決心をし、武器を準備していた者もおりました。
 自分たちがこれほどの覚悟をしているというのにのに、イエス様ともあろう方が今になってそんな弱気なことをおっしゃるのはなぜだろう。弟子たちはそう思い、お言葉の意味を理解することができませんでした。イエス様のたびたびの受難予告を聞いて、疑問を通り越して腹立たしい思いさえしたかもしれません。

 しかし「イエス様こそイスラエルを支配する方だ」と目をキラキラさせて見つめる弟子たちの姿は、イエス様の目から見れば、初めの頃とかなり変わってしまっていました。弟子たちは初めの頃こそイエス様をお手本として、弱い人や世間から見放されている人を分け隔てせず、無償の愛を注ぐような人になりたい、と願っていました。それが、自分たちも奇跡も行うことができるようになると、イエス様についていけば高い地位や名誉を手に入れられると思い始め、仲間同士で言い争いさえするようになったのです。そんな彼らをご覧になって、イエス様はご自分の思いと弟子の思いに隔たりが生まれていることを寂しく感じておられました。
 弟子の方は、イエス様のためなら命も惜しくないほどの強い愛でイエス様を愛していると信じていたのです。しかしそれは単にイエス様にその身を捧げよう、という自分の愛に酔っていただけだったのかもしれません。
 一説によれば、イスカリオテのユダがイエス様を裏切って出ていったのは、イエス様が何度も「十字架にかかる」と宣言されるのを聞いて失望したからだとか、本当に十字架にかかるわけがない、とイエス様を試す心だったとか言われています。いずれにしても、神様がイエス様にお与えになった試練の数々の中には「手塩に欠けた弟子に裏切られる」という残酷な要素も含まれていたのでしょう。
 イエス様はユダも含めて全ての人の罪を背負い、全ての人に起こりうる不幸や裏切りを体験され、それを背負い、十字架にかけられ命を失ってもなお全てを受け入れ、全てを赦されました。残酷で惨めな死に様を選ばれた上で、人は裏切っても神は裏切らない、神は見守り、愛してくださる。それを証明するために復活をなさったのです。
 ただ、この段階では、イエス様の思いは全くといって良いほど弟子達に通じませんでした。イエス様が十字架にかかったとき、ほとんどの弟子たちはその場から逃げ去って隠れ家に潜みました。イエス様と同じように殺されるのではないかと怯え、復活したイエス様がここられても、幽霊ではないかと疑いました。そんな彼らにとっては、以前イエス様の前で「あなたのために死にます」と言い放った勇ましい言葉も、ただ自己嫌悪を引き起こすばかりです。自分たちは取り返しのつかない罪を犯してしまった。彼らは心の暗闇に捉えられ、死んだも同然だったのです。

 そんな彼らを再び光の元に連れ出し、生き返らせたのも、イエス様でした。弟子たちを愛で覆い、彼らが犯した罪を丸ごと受け入れてくださったのです。弟子たちはこのとき、本当に赦すとはどういうことなのか、愛を持って生きるとはどういうことなのか、理屈ではなく、体験を通して知ったのでした。
 イエス様は、人間が完璧な愛の心を持ち続けることの難しさを十分分かっておられます。それでも、その愛が難しいからと放棄するのではなく、その難しさを忘れないようにしながら、「互いに愛し合う」ことを行動に移し、取り組んでいきなさい、私は喜んで力を与えよう、と言ってくださるのです。

 キリストの愛を覚えながら、キリストに生きていくことが私たちには許されています。困難があるとき、そこにはより大きな愛が注がれていることを忘れないでいましょう。そのために、最も偉大なる愛を私たちが主体となって、この場所で示して参りましょう。

教会&幼稚園の敷地や
牧師夫人が雑草抜きなどをしている
隣の空き地には
たくさんのオダマキが咲いています
白っぽいオダマキはちょっと珍しいのではないでしょうか
背景に写っている虹の模様は幼稚園の園バスです
牧師は朝の登園時にバスの添乗奉仕をしています