2019年6月15日土曜日

12日は「花の日訪問」でした

ちょっと遅くなりましたが
12日の「花の日訪問」の報告です

こども園の行事として
園児達と一緒に高齢者施設へ行ってお花と歌のプレゼントをしました
ご一緒にカエルの歌の輪唱をするはずが、なぜか大合唱になりました
それはそれで素晴らしい

「花の日」はアメリカのプロテスタント教会で始まった行事で
6月第2日曜日に、子どもたちが教会に花を持ち寄って礼拝し
病人などを慰問します
今回は園の行事なので、平日に行いました

私も子どもからお花をもらえましたよ






2019年6月9日日曜日

全ての人に聖霊を(日曜礼拝のお話・抜粋)

聖霊降臨祭・聖餐式(赤) (2019年6月9日)
創世記11:1-9 使徒言行録 2:1-12 ヨハネ16:4b-11

 今日は聖霊降臨祭、ペンテコステと呼ばれる日です。
 「聖霊降臨祭」と言いますのは、本日読んでいただいた使徒言行録にあるように、イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神が地上の弟子達の元に降臨することによって、現在のキリスト教会が始まりましたので、このように呼ばれています。
 それまで「キリスト教」という呼び方はなく、ユダヤ教の一つのグループにすぎませんでした。しかしこの日を境にユダヤ社会からキリスト教が飛び出して、世界各国に広がっていくのです。「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」というのは有名な聖書の箇所で、キリスト教の、世界への広がりを象徴している御言葉でもあります。

 50日前、私たちはイエス様が復活されてめでたしめでたし、とゆで卵をもらったり、美味しいものを食べたりしてお祝いをしましたが、実はイースター以降の礼拝では、弟子たちがなかなかイエス様の復活を受け入れられず、お化けだ亡霊だ幽霊だと大騒ぎしたお話を何度かいたしました。
 それでもイエス様が根気強く彼らに寄り添い、ご自分が蘇られたことを証明し、その意味を語ってくださったので、彼らはようやく元気を取り戻します。そして、自分たちにはなすべき使命があるのだと考え始めることができたのでした。

 しかしイエス様は蘇られてから40日目に、天に帰って行かれたのです。弟子達が見守る中、天に上げられ、「聖霊なる神があなた方のところに来られるとあなた方は力を受ける」との約束を残して、見えなくなってしまわれたのです。なんと、弟子たちは再びイエス様と離れ離れになってしまったわけです。では、彼らは聖霊降臨祭までのこの10日間、どうやって過ごしていたのでしょうか。唯一分かるのは、その間ずっと「祈っていた」ということです。
 使徒言行録の1章12節からの記録によれば、イエス様が天に帰られてからのこの10日の間に、ペトロをはじめとする11人の弟子たちと女性の弟子達、そしてイエス様の母マリアや、イエス様の兄弟達も集まって、心を合わせて熱心に祈っていた、と記録されています。その数は120人にもなった、と書かれています。

 客観的に考えてみますと、ペトロ達とイエス様の母マリア達が一つとなって祈っていたことに、少し不自然さを感じます。と言いますのは、イエス様が十字架に掛かった時、男性の弟子たちはヨハネを除いてみんな逃げてしまったのです。母マリアが息子を失った悲しみの中にいた時、寄り添ってくれたのは数人の女性の弟子たちとヨハネだけでした。
 「蘇ったのだから、あのことは水に流しましょう」というほど人の心は単純ではないはずです。ペトロ達の心にマリアに対する負い目はなかったのでしょうか。また、母マリアの中に、十字架のイエス様を見捨てて逃げたペトロ達への恨みは無かったのでしょうか。
 ただ、聖書はそこにはあまり深くは触れず、彼らがわだかまりを超えて、一つとなって、共に祈り合っていたことだけを記すのです。
 イエス様は、十字架の上で憎しみや恨みではなく、赦しを祈られました。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」
 イエスを信じる人々はこの祈りを自分の祈りとして心に刻みました。そしてこの祈りに倣うことで、負の感情に取り込まれないで互いに受け入れあい、一つとなることを学んでいきました。その結果が本日の、人々の祈りの姿なのです。この心のあるところに聖霊は降ってくださり、キリストの教会が始まったのです。

 イエス様はその教えを、改めてわかるようにご自分の弟子達に伝えてくださいました。そしてさらにそれを引き継ぐものが、今日において全てのキリスト教会に集う者なのです。私たちは聖霊をこの場所で感じ、そして、この世を生きて参ります。教会を通して全ての人に聖霊が注がれることを祈りつつ、喜びと感謝に満たされてまいりましょう。



雨の合間に、玄関脇の色づき始めたアジサイの間から
カエルの歌が聞こえてきます


2019年6月3日月曜日

とりなしの祈り(日曜礼拝のお話・抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年6月2日)
使徒言行録16:6-15 黙示録 22:7-13 ヨハネ17:20-26


 本日読みました福音書は「イエス様のとりなしの祈り」と言われているところです。

 私たちは日頃、自分自身の願いを叶えていただくために祈ります。また、自分に与えられた喜びや感謝を祈りとして口にします。それに対して、「とりなしの祈り」とは他者のことを神様に祈り求める祈りです。
 幼稚園でも、幼くて神様にどのように祈るべきかわからない子どもに代わって、あるいは、神様とまだ上手に関わりを持てない職員に代わって、そう言った人々と神様の間に入って、祈りを仲介するのが「とりなしの祈り」なのです。

 十字架にかかる前の夜、イエス様はまだ信仰の未熟な弟子たちに代わって、神様に祈りを捧げてくださいました。イエス様が十字架にかかるなど、想像もしていない弟子達と神様の間に入って「とりなし」の祈りを捧げてくださったのです。それが記録されているのが、本日の聖書箇所です。
 イエス様は、ご自分が天にお帰りになった後、弟子達がやがて御言葉に従って心を一つにし、豊かな教会を立て上げる日が来ることを喜びをもって神様に感謝し、しかもそれに伴うあらゆる苦労までもを見通して、弟子達に代わって祈ってくださったのでした。
 本当に、この時の弟子たちには全く見えていなかったものを、迫ってくる十字架の死を前にしながら、イエス様は神様に願い求めておられたのです。
 
 本日読んでいただいた使徒言行録には非常に活動的な伝道者・パウロが登場します。彼もまた、イエス様に招かれた弟子の一人であり、苦労を重ねながらも次々と教会を立て上げていきます。ところがパウロ達がある地方に行った時、聖霊によって伝道にストップがかかります。御言葉を語ることを聖霊から禁じられ、行こうとする道をイエス様の霊が塞いでしまうのです。
 ここには、「み言葉を語ることを聖霊から禁じられた(16章6節)」という表現と「イエスの霊がそれを許さなかった(同7節)」という独特の言い回しが出てきます。
 具体的には何があったのか、聖書には記録されていません。しかし情熱を持って宣教活動をしてきたパウロにとって、何らかのアクシデントによって先に進めないことは非常に苦しく、悩みを伴うものだったはずです。彼らは新しい導きに従って予定を大幅に変更し、行く予定のなかった土地へと足を踏み入れます。
 その土地とはマケドニア、今のギリシアに当たります。ギリシアといえば、今日もギリシャ正教が盛んな土地です。挫折したかに見えた宣教旅行が、大きな広がりを見せた最初の瞬間でした。パウロはここにきて、宣教の計画というものが自分の意思ではなく、一見挫折に見える中に、大きな神様の導きがあることを改めて知るのです。

 辛いとき、寂しいとき、計画が挫折したとき、世間に理解してもらえないとき。人生にたくさんある苦悩の時、何も知らない他人から「そら見たことか」と嘲笑われ、それでも自分が生きているのは意味がある、自分には神様らの使命があるのだ、と信じ抜くのは難しいものです。
 イエス様の導きが具体的な指示書のような形で届けば「ほら、私はこれに従って歩んでいるんだから余計なお節介はやめて放っておいてくれ」と言えるかもしれません。が、そのような形で神様のご計画が示されることは決してありません。
 パウロ達ユダヤ人にとって、ユダヤ教の枠を飛び出して異なる文化背景を持つ人々を群れに加えまとめ上げていくと言うのは、自分に染み付いたあらゆる常識を捨てることを意味していました。それは非常に困難な道と思われましたが、イエス様のとりなしの祈りによって彼らはそれをやり遂げていきます。

 私たちもまた、弟子達の伝道によって産み落とされたキリスト者達であり、イエス様のとりなしの祈りのうちにある者達です。
 一人では力の弱い者であることを知りつつ、イエス様の召し出しによって共に集っています。どうしていいか分からないこと、苦しみを背負ったときでも、イエス様が私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっているのです。
 イエス様は私たちにこの教会を託してくださいました。日本の99%の人々からキリスト者は愚かな人種だと揶揄されたとしても、私たちはイエス様のとりなしの祈りに守られています。一日1日を、互いに支え合い、祈りあって、共に歩んで参りましょう。



5月30日は園児とサツマイモの苗の植え付けに行きました
秋には美味しいお芋ができますように

2019年6月1日土曜日

6月の土曜学校を行いました

土曜学校、第2回めです

今日も、土曜日に登園するお友達と
卒園して小学生に通うお友達
一緒に礼拝をしました

梅雨にちなんで「ノアの箱舟」のお話しでした



礼拝の後はお誕生会
お誕生月のお友達にガラポンを回してもらい
ハンカチかティッシュが当たるゲームをしてみました
楽しく参加してくれたので
7月も継続しようと思います

クラフトは前回に引き続き
石膏を型に流して作る「アロマストーン」
石膏が固まるまでの間
園庭に出ました
なぜか砂場で穴掘りが始まります
何かすごいものが出てこないかと
みんなでせっせと掘りました

次回の土曜学校は7月13日です
朝9時30分から11時30分まで
7月もみんなで楽しく過ごしましょう
教会で待っています

2019年5月29日水曜日

看板が新しくなりました



100年を超える歴史を、教会と幼稚園はともに手を携えて歩んできました。
これからも主に導かれつつ、小さな働きを誠実に積み重ねていけますように。

毎週木曜日の「やさしい聖書入門」は幼稚園の保護者の方向けプログラムです。妻も時折一女性の立場からお話しさせていただきます。

月一回の土曜学校は新しい試みです。
園のスケジュールに合わせて、月によって第一になったり第二になったりしますので、教会掲示板やこの場を借りておしらせします。
子どもたちの楽しい集いの場となりますように。
6月は1日に実施します。


2019年5月26日日曜日

生ける神に立ち帰る(お話の抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年5月26日)
使徒言行録14:8-18 黙示録 21:22-27 ヨハネ14:23-29

 本日はヨハネによる福音書14章23節から始まります。14章自体の書き出しは「心を騒がせるな」。そして本日、共に読みました27節にも「心を騒がせるな」とあります。「心を騒がせるな」という言葉は「動揺するな」と訳すことができます。イエス様はこれから起こることで弟子たちが心を騒がせることをご存知で、あえて繰り返し言われたように思われます。
 イエス様の弟子たちは、3年半に渡ってイエス様と苦楽を共にしてきました。だからこそイエス様を失った時、大切な人を失った苦しみに耐えきれず、未来への一切の希望を失いました。いい年をした大人の集団でありながら、まるで突然親を失った子どものように、心細さに嘆き悲しんだのです。
 イエス様は彼らがそうなることがわかっておられました。だからこそ十字架にかかられる前の夜、ヨハネ福音書の14章18節において、弟子たちに向かって「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない」と語られたのです。この時、弟子たちはこの御言葉の意味するところを悟ることはできませんでした。イエス様が十字架にかかって死なれるなどと思ってもいなかったからです。しかしそんな彼らも、のちにその意味を知っていくわけです。

 私たちが苦難の時にしばしば見せるやせ我慢や開き直り、つまり『私の悩みや苦難は、よそ様に比べたらちっぽけなもので、イエス様にすがるなんておこがましい』という態度は、イエス様の対してよそよそしい距離をとるようなものです。
 そうではなく、こんなにちっぽけで失敗ばかりの私でさえ、神は顧みてくださり、励ますために共にいてくださっているのだ、と信じられれば、苦難の中にもイエス様の言葉が響いてきて、慰めの言葉になるのです。そのために、心のうちに豊かにみ言葉を蓄え、主がともにいてくださるという信仰をこそ神様に祈り求めていきたいのです。

 ところで、復活祭の後、礼拝では第一の日課として使徒言行録を読み進めています。使徒言行録は、イエス様の弟子たちが、神の言葉を携えて、異邦人のいる町へも、ユダヤ人のいる町へも、導かれるままに宣教に出かける姿を記録しています。
 しかし、宣教を進めていけばいくほどに、民衆の間で意見の食い違いが起き、分裂が生じて行きます。彼らがいく先々で、イエス様の言葉を信じる人と信じない人に分かれてしまうのです。
 本日読んでいただいたところは、リストラという町での出来事です。パウロとその一行は、生まれつき足の不自由な男性と出会います。この人が熱心にパウロの話を聞くのを見て、癒されるのにふさわしい信仰があると認め、奇跡の業を行うのです。それを見ていた人々から、その地方で信仰されている別の神々が起こした奇跡だと勘違いされ、大騒ぎになってしまいます。なんとかその場を収めることができたものの、パウロたちの宣教を快く思わないユダヤ人達が何も知らないその町の群衆を抱き込み、ひどい迫害を行なったのです。
 使徒言行録によれば、このような迫害はどこへ行っても起きたようです。喜んで御言葉を受け止め、キリスト教に改宗する人々がいるかと思えば、使徒達を口汚く罵り、石を投げ、命を奪おうとします。
 このような体験をしても、キリスト者たちは宣教することを決してやめませんでした。彼らは迫害されることすら喜んだのです。それは苦しみの中にあって、生きたイエス様の言葉が彼らを支えたからです。

 今の日本は目に見える迫害はほとんど無いようにも見えます。しかし、み言葉を守って日曜に礼拝を守ろうとする人々にとっては、優しい社会ではありません。何かと言うと日曜日に行事が入るのが日本社会だからです。自分たちがそういう社会に生きていることを肝に命じていないと、いつの間にかイエス様を知らない人々の方に引きずられていき、証しできなくなり、宣教も伝道も絵に描いた餅になってしまうのです。
 教会学校やこども園を通して、子ども達とだんだん親しくなってくると、彼らは無邪気に「先生はなぜ毎週の日曜日に礼拝するの?」と尋ねてきます。私はその時に、「先生、忘れるねん。神様が、イエス様がお前は大事な存在だよと言われても。阿保だから肝心な時に信じられなくなる」と。
 「阿保」は余計かも知れませんが、せっかく今の時代にキリスト者として召されたのです。世間から多少変人扱いされても、嫌われ者になっても、ただ、いい人ねで終わる人生よりも、生きた神を証するために、キリストに従って歩むほうが永遠の幸せだと「阿保」と言われるほどに信じているのです。
 この教会は日本のプロテスタント教会の中でも長い歴史を持っている方ですが、その中でも、キリストにある情熱が喜ばれたり、その情熱がもとで対立があった歴史を持っています。それもまた生きた証なのです。
 どれほど心が騒ぐときも、生ける神・イエス・キリストに立ち帰り、従って参りましょう。


所用で駒ヶ根に行って来ました。美しい風景が広がっていました。

2019年5月19日日曜日

キリストの新しい愛の掟(お話の抜粋)

復活後第四主日礼拝(白) (2019年5月19日)
使徒言行録13:44-52 黙示録 21:1-5 ヨハネ13:31-35

 本日は、最後の晩餐と呼ばれる食事会の席上でイエス様が語られた御言葉から学びます。ここには「新しい掟」と小見出しがつけられています。
 この「新しい掟」とはイエス様が弟子たちに与えられた「互いに愛し合いなさい」というルールを意味しています。古い掟とは、旧約聖書に記された十戒をはじめとする律法を、とにかく守る、という信仰上の約束を指し、律法を守っていれば神様との正しい関係が保たれる、という考え方です。しかしイエス様は、大切なものが欠けたままで律法を守っても神様は決してお喜びにはらない、と人々に教えられます。
 この日イエス様は、人々の信仰に欠けている大切なものとは「愛である」と弟子たちに教えられたのです。この「愛」という言葉には「アガペー」というギリシヤ語が使われています。日本語では「無償の愛」とも訳され、「見返りを求めないで、何度裏切られてもひたすら与える愛」と理解されています。

 この時、弟子たちはイエス様が間も無く十字架にかかるなどとは誰も思ってもいません。ですからイエス様が『私が行く所にあなた方は来ることができない』と語られても、それが何を意味しているのかわからず、「互いに愛し合いなさい」という大切なメッセージより、イエス様がどこに行くのかと、そちらに気を取られてしまったのです。
 実際ペトロは「主よ、なぜついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と納得がいかない、と言わんばかりの発言をしています。しかし逮捕されたイエス様の様子を伺おうとして大祭司の屋敷に入ったペトロは、すっかり形勢が不利になっていることを知ります。心に怯えが生まれ始めた時、人々に見咎められた彼は「イエスなんか知らない」と3度も否定してしまうのです。
 「鶏が鳴くまでに3度私を知らないと言うだろう」というイエス様の予告が現実になった時、ペトロは自分がイエス様に対して行った裏切りに気づき、号泣したのでしょう。「イエス様のためなら死ねる」つまり「自分くらいイエス様を愛している人間はいない」という自信は、単なる思い上がりに過ぎなかったと気付かされたのです。
 一方、イエス様はペトロがそうなることをご存知で、全て受け入れておられました。ペトロ自身はそれほどの愛で愛されていることに、気づいていません。
 こうした出来事の後、ヨハネ福音書21章の、復活されたイエス様がガリラヤ湖のほとりでペトロに向かって、自分を愛するのか、と尋ねられる場面はこの福音書のクライマックスとも言えます。
 ペトロはイエス様の問いかけに対して、「主よ、あなたはご存知です」と答えます。以前の彼なら「はい、もちろんです」と元気よく答えたでしょう。しかし今のペトロは違います。ペトロは、自分の裏切り行為を恥じていたからです。イエス様を否定し、挙句の果てには呪いの言葉さえも言ってしまった自分は、アガペーの愛どころか、愛の心などひとかけらもないことを思い知らされたからです。

 イエス様は3回のうち初めの2回、「あなたはアガペーの愛で私を愛するか」「自己犠牲の愛」「無償の愛」でご自分を愛するか、と聞いておられるのです。しかしそれに対してペトロが使っている「愛」という言葉は、フィリア、友として愛するという言葉でした。美しい言葉ですが、自分を犠牲にする、というニュアンスは「アガペー」より薄まっているかもしれません。イエス様を裏切った自覚のあるペトロにとって、どうしても「アガペー」という言葉は使えなかったのでしょう。
 しかしイエス様はそれはレベルの低い愛だ、ダメだ、とはおっしゃいません。むしろ3度目の問いかけではペトロの使った、「フィリア」という言葉を用いておられます。言うなれば3度目の問いかけは「あなたは私を大切な友人だと思っていますか」と訳せるでしょう。
 そしてペトロが戸惑いながら「あなたは何もかもご存知です」と答えると、イエス様は「あなたが今抱いているその友愛の心を持って、私の羊を飼いなさい」、すなわち「教会に集まる人々を兄弟姉妹を思うような愛を持って世話をしなさい」と言われたのです。

 さて、思い出していただきたいのですが、十字架にかかる前、イエス様が弟子たちに与えた新しい掟は「互いに愛し合いなさい」でした。この時イエス様は「無償の愛」「アガペーの愛」で互いに愛し合いなさい、と言われたのです。しかしよみがえられた後は、ペトロに対して「兄弟姉妹」を思いやる愛で互いに愛し合いなさい、と言われているわけです。ちょっと「愛」のランクを落としたのでしょうか。つまり、イエス様は気が変わられたのでしょうか。
 素直に考えれば、イエス様がペトロのために「愛」の欄鵜を落としてくださったと受け止めることも可能でしょう。ただ、ある学者によれば、この2種類の単語は、ニュアンスは違うけれど、同じように高いレベルの愛を示しているそうです。
 神様が人間に与えて下さる愛と、人間が人間を愛する愛。それは異なって当然かもしれません。しかし、何れにしても、自分の出来うる限りの愛を持って、打算を排除して、互いに愛し合いなさい、イエス様はそう私たちに求めておられるのでしょう。

 同じ教会に集っているとはいえ、辿ってきた人生や、価値観、生育歴はそれぞれ異なります。互いに愛しなさいと言われ、これが新しい掟ですよと与えられたとしても、最初の内は話も噛み合わないかもしれません。しかし、この違いは、あえてイエス様がそうなさったのだと受け止めていただきたいと思います。気の合う仲間だけで楽しく過ごす、ただそれだけを求めておられるのではなく、異なる相手を受け入れ合うことで、一人一人の心を大きく広げ、信仰が育っていくことを、イエス様は求めておられるのです。
 新しい掟の中で、不完全であっても互いに愛し合うことはご命令なのだと信じて従ううならば、私たちの教会は完成されていくのです。いつの時もイエス様に愛されていることを忘れず、イエス・キリストに愛される兄弟姉妹として共に歩んで参りましょう。


教会の隣の空き地に、可愛らしい季節の花が咲いています