2020年8月10日月曜日

キリストに助けを求めて(日曜のお話の要約)

 聖霊降臨後第10主日礼拝(2020年8月9日)
列王記上19:11-12  ローマ10:9-11 マタイ福音書14:22-33

 本日の「イエス様が湖の上を歩く箇所」は、先週の五千人の給食の続きです。食事の後、イエス様は民衆を解散させ、弟子たちには舟で向こう岸に行くよう強くお命じになります。その後でお一人で祈るために山に登られるのです。
 同じ出来事を記録しているマルコ福音書によれば、実は弟子たちは五千人の給食の前、かなり厳しい伝道の働きを終えたところでした。イエス様も弟子たちを休ませてあげるつもりが、思いがけなく五千人が押し寄せてきた、という流れになっています。それならば弟子たちはこの時かなり疲れていたことでしょう。本当は休みたいと思いながら無理をして嫌々やっているので、案の定トラブルが発生するのです。
 漕ぎ出した舟は強い風によって湖の真ん中に吹き寄せられました。この湖は諏訪湖の約4倍くらいの大きさで、山に囲まれているので、四方から風が吹き下ろします。舟は木の葉のようにくるくる回ります。漁師出身の弟子たちはこれが非常にまずい状況であることはすぐにわかりました。
 「イエス様が舟に乗りなさいと言われ、その通りにしたのに、なぜこんなことになったのか」と、弟子たちはパニックになります。こんな時は誰でも最悪のことを想像するものです。例えば、五千人の給食の時、自分達は、人々を帰しましょうと言ってしまった、それでイエス様に愛想をつかされてしまったのではないだろうか。神の子に見捨てられた自分たちはここで死んでしまうのかもしれない。そんな思いが頭の中に渦巻きます。
 福音書を書いたマタイも12弟子の一人ですから、もちろんこの時舟の上で怯えていた一人でした。その記憶を元にかなり興味深い表現をしています。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」
 弟子たちは湖の上の人影を見ました。水の上を歩いてやって来るとしたらこの世の者ではありません。イエス様に見放された自分たちを、亡霊がとり殺しに来たのだ、彼らは恐怖の叫び声をあげたのでしょう。
 そんな弟子たちに人影は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言葉をかけられます。聞き覚えのある声です。それでも弟子たちは水の上に立っている人影がイエス様ご本人であるという確信はまだ持てないでいました。
 しかしペトロは弟子を代表するかのように、口を開きます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」これは「あんたが亡霊でなく本当にイエス様なら、俺に水の上を歩かせてみろ」という、試すようなニュアンスではありません。むしろ「イエス様、あなたでしたか」という安堵の思いが込めれています。
 ペトロはこの人影がイエス様だと信じ、自分も水の上を歩いてイエス様のお側に行きたい、という単純な望みを抱いたのです。招かれて、思い切って舟から降りてイエスの方へ進んだのです。信仰が恐れに勝利し、不要な恐怖を頭の中から追い出したのです。
 ただ残念ながらこの勝利は長くは続きませんでした。ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたのです。イエス様以外のことに気を取られた時、恐怖が再び彼を捉えてしまったのです。しかし今度はすぐそばにイエス様がおられました。ペトロは躊躇なく「主よ、助けてください」と叫び、救われたのでした。
 イエス様は、一度信仰を持ったものに対して、その信仰が薄かろうが弱かろうが、助け導く方なのです。自分の力でなんとかしようとして失敗し、ピンチに陥り、イエス様の声が聞こえなくなってしまった時も、イエス様から「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけてくださり「なぜ疑ったのか」と叱ってくださる、そして改めて共に歩んでくださるのです。

 湖の出来事からおおよそ1年、弟子たちは今度こそイエス様と離れ離れになります。イエス様が十字架にかかられた後、天に帰って行かれたからです。しかし彼らは「イエス様はもう側にいない」と悲嘆にくれ何もで出来なくなった、という訳ではありません。聖霊なる神として、目には見えなくとも常に共にいてくださるイエス様を感じつつ、躓いては立ち上がることを繰り返しながら宣教していったのです。
 私たちは、自分の信仰の弱さを知りつつ、主よ助けてくださいという祈りの声をあげながら、助けられる喜びと感謝を持って生きていく者となりたいのです。日々の歩みの中で、「主よ助けてください」の声を聞いてくださるイエス・キリストが共におられると信じて、先行きの分からない今の時代を乗り切って参りましょう。



遅くなりましたが、8月1日の土曜学校の様子です


あらかじめ金色のスプレーで
着色しておいたアルミ缶に
千枚通しで穴を開け
ランタンを作ります



1個目はこちらで用意した図案を使って
2個目からはオリジナルにチャレンジです


とにかく抜群の集中力!
年長クラスのMちゃん


女子率高い中で
男子だって頑張ってます


万が一のことを考えて
保険に入っておきましたが
怪我もなく
無事に終えることができました



最年少のSくん(年少クラス)
K先生に手伝ってもらいながら2個完成
ご満悦です

ちなみに最年長は小学4年生
みんなのレベルにあった工作を考えるのは
なかなか骨が折れますが
完成した時の笑顔を見ると、いつの間にか
「さて次は何を作ろうか」と
考えています(工作指導:朝比奈優子)



からし種は畑の中に(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2020年7月26日)
列王記上3:10-15 ローマ8:28-30 マタイによる福音書13:31-33

 日本のクリスチャン人口が1パーセントからなかなか増えない、というお話は皆さんも耳にしたことがあると思います。少ないがゆえに不便や苦労の多い私たちですが、イスラエルにおいてイエス様が教え始めたその最初は、キリスト教徒は一人もいませんでした。当たり前ですね。イエス様の周りは皆ユダヤ教徒だったのです。
 そんなイエス様の一番弟子となったのはガリラヤの漁師ペトロでした。ルカ福音書によれば、ペトロが夜通し漁をしていても一匹もとれず、落胆をしているところにイエス様が現れ、群衆に話を聞かせたいからと、お願いされ、しかたなく船を出します。お話が終わって船に岸に戻そうとしたら今度は「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われるのです。
 ペトロが渋々「お言葉ですから」と言う通りにしたところ、たくさんの魚が捕れました。あまりのことに恐怖すら感じたペトロは、思わず「わたしから離れてください」と言ってひれ伏すのです。
 一番弟子のペトロでさえ、初めの内はまるでイエス様に対する信仰がなかったのです。ペトロだけでなく、人間の心にはイエス様を信じ受け入れる下地が全くないのです。ただイエス様がお招きになったことで変化するのです。このような過程を経て、イエス様の弟子集団は形成されていきました。
 その業は初めのうち、どこに繋がっていくのかわからないような孤独な働きでした。しかし、イエス様と弟子たちは、誤解や恐れしかない人々の間でも宣教を続けます。
 やがて3年が過ぎる頃には、イスラエルの中でもイエス様を支持する人々が増えていきました。すると今度はイエス様が望まない間違った期待をする人も増えていきます。王様となってローマと戦い、イスラエルの自治を取り戻してくれるのはこの方だ、という期待をかけられるようになったのです。それは一般民衆だけでなく、最初から付き従ってきた弟子たちでさえ、そのように思うようになていました。
 こうなると、権力を持った人々からは当然敵視されるようになり、最後には国家の反逆者として十字架にかかられたのです。イエス様という方は、どこまで行っても、誰からも正しく理解されることのない、孤独な歩みを続けられたようにも思えます。
 ですが、イエス様は、こうした神の業をからしだね に例えられました。その種は、地面に落ちた時、土に紛れて見えなくなります。虚しく死んだように思えるもしれません。しかしイエス様は「成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」と言われました。それは後になって弟子たちにも理解できるようになったのです。

 十字架で命を落としたイエス様が復活された時、弟子たちは初めて出会った時のように、「わたしは罪深いものです。わたしから離れてください」と言ったことでしょう。なんと言っても彼らは十字架に架けられたイエス様を見捨て、命惜しさに逃げ出したのですから。
 しかしイエス様は初めから彼らに怒りなど覚えておられませんでした。ご自分が彼らの弱さを含めて丸ごと受け入れていることを改めてお示しになり、新たな宣教へと押し出されたのです。これが、弟子たちの心に落ちた小さなからし種が芽吹いた瞬間でした。

 この「からしだね」はどの植物を指しているのか、諸説あるのですが、今回は「ガリラヤ湖周辺で普通に見られるアブラナ科の草」という説をとって週報の表紙に載せました。特に黒ガラシと呼ばれる種類は3000年ほど前からタネを香辛料として利用するために地中海沿岸で栽培されていたようですが、植物としての見た目は雑草のような素朴さです。
 私たちが、この植物の種を手のひらに乗せていても、発芽などしません。それはどうしても畑の中に埋められなければならないのです。からし種は、畑の中に入って根を出し芽を出し、殻を破ってどんどん形を変えていきます。素朴な雑草のような植物であっても、神の御心に叶ったとき、樹木のように大きく成長するのです。
 ただ、ここで勘違いしてはならないのは「からしだね が大きく成長するように、あなた方も偉大な伝道者になるよう努力しなさい」ということではありません。もちろん神の言葉を語り伝える過程で、あなた自身も忍耐強くなり、柔和な人となることでしょう。しかしそこが目的ではないのです。大きく成長するのはあなたではなく神の言葉です。あなたという人を介して、神の言葉が大きく広がっていくことをこそ、神様は望んでおられるのです。

 神様が望んでおられるのは、神の言葉を宣べ伝えることの大切さを信じて、素朴にコツコツと努力を重ねる人々なのです。 
 私たちの集うこの小さな教会も、私たちを介して続けられる小さな働きが神の国への一歩であることを信じるならば、その道は、神の国へと通じていくのです。この場所が神の言葉によって成長していくために必要なのは立派な経営者でも、言葉巧みな指導者でもありません。ただひたすらに神の国が実現することを望む、小さな志があれば良いのです。

2020年8月3日月曜日

五千の罪人の給食(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2020年8月2日)
イザヤ書55:3-4 ローマ9:3-5 マタイによる福音書14:13-21

 本日読みました福音書の箇所は「五千人の給食」と呼ばれ、4つの福音書全てに記されている有名な出来事です。この話には前段階があります。マタイによる福音書は、五千人の給食の始まりを、こう記しています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」

 「これを聞くと」とは何かと1パージ遡ると、「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王一族の不道徳を非難して捕らえられていました。その彼がついに処刑されたというのです。
 イエス様は、ヨハネの弟子たちからこの出来事を聞いて、人里離れた場所へと向かおうとなさいましたが、イエス様のこの時の行動について、後世の学者たちは様々な解釈を試みました。イエス様は権力を恐れて逃げた、という解釈もあります。しかしイエス様はそもそもご自分が十字架によって死ぬことをご存知な方ですから、死を恐れて逃げた、とは考えにくいのです。見方を変えれば、イエス様は何があろうと、今この時点で死ぬわけには行かないのです。そこで一時的に身を隠そうと退かれたのでしょう。

 ですが、群衆はイエス様を必死になって追います。民衆はヨハネの死を知り、不安と怒りの中、新しい導き手を求めました。彼らがイエス様を追ったのはそのような状況の中だったのです。
 21節には女と子どもを別にして男が五千人ほど、と書かれていますので、イエス様を見つけ、追いかけたのは、男性五千人に加えて女性と子供、合わせて2万人ほどいたのではないか、と言われています。あえて女性と子どもを別に数えているのは、血気盛んな男性が五千人いた、という意味でしょう。不道徳な権力者を倒すためなら兵士になろう、と思う男たちが五千人いたと考えられます。

 しかし、イエス様ご自身が争いを望んでおられないのは、福音書記者であるマタイはよく知っていました。イスラエルの人々が、血を流しても革命を起こしたいと求める声とイエス様の思いとが食い違っていることをマタイは知っていたのです。
 彼らは勇敢に戦うものこそ神様に愛される資格があると思い込んでいて、情けない弱虫が無条件に愛されているなどとは思いもしません。こそれはイエス様の思いと正反対なのです。
 しかしイエス様は、この群衆を深く憐み、その中にいた弱り果てた病人をいやされます。そして人々に向かって、神の平和が来ることや、神の愛が注がれている事を繰り返し繰り返し、お話しされました。先ほどまで、一人静かに神様と語らい、祈りの時間を持とうとされていたのに、いざこうした人々を目の当たりにすると、放っておくことはお出来にならなかたのです。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させ、各自で村へ食べ物を買いに行かせるのが良いだろう、とイエス様に提案します。
 ところがイエス様は、弟子たちがこの2万人の群衆の食事の面倒を見るように、と言われるのです。弟子たちは、自分達には、パン5つと二匹の魚しかない、無理だ、と答えます。もちろんこれは常識的な答えです。しかし、彼らはこれがイエス様のご命令なのだ、と気づくべきでした。

 イエス様はかつて悪魔から「石をパンに変えたらどうか」と誘惑され、拒まれました。ご自分のためには、奇跡の力をお持ちいにならなかったイエス様が、ここで食べ物を増やす奇跡をなさったのです。
 ここには、神様に愛されている私たちがまごころをもって捧げるなら、小さな業や捧げも出会っても神様は喜んで豊かに豊かに用いて下さることが示されています。イエス様の人々を思う愛はこれほどまでに深かったのです。
 ただ、この五千人の人々も弟子たちも、イエス様が十字架にかかるその道で、イエス様を裏切り、見捨て逃げてしまうのです。イエス様はそれを見通しておられたはずです。ここにイエス様ご自身の深い孤独がありました。イエス様は注いでも注いでも穴の空いたバケツのように底から抜けてしまうような思いをなさったたことでしょう。
 それでも、罪人を救うという神様の目的が実現するために、ご自分の目の前の人々が決して優等生になり得ないとわかっていても、空腹のまま去らせることができないほどに、慈しまれたのです。

 たとえ今、彼らが罪人であったとしても、また、ただ目先の飢えを満たすことや病の癒しを望むだけであったとしても、そういった人々と関わり続けることにイエス様の目的があったのです。罪人を救う、どんな罪人をも救うという大きな目的を持っておられたからです。
 人の目にどれほど徒労に映ることであっても、五千人の罪人たちは、イエス様にとってかけがえのない愛の対象だったのです。

 五千人の給食は五千の罪人の給食でもあります。ここにいる私たちも、ありとあらゆる罪を犯しつつ、人生を歩むものです。それでも私たちはイエス様の愛に触れて、満たされた愛の中に生きることができます。私たちはイエス様の示される道を共に歩き、この場に人々を招き続けて参りましょう。


道沿いの掲示板の中に
新しいレゴ作品を入れました
前回の続編
「飛んでったバナナ」
船長さんがバナナの島に
上陸しようとしているようです

2020年7月22日水曜日

8月の土曜学校のお知らせ

8月1日(土)
午前9時から11時30分まで
土曜学校を行います
テーマは「ノアの箱舟」
保護者の方も参加大歓迎です!
コロナ禍にありますが
今の所飯田は落ち着いていて
6月の再開以来
連続して実施できていることに
感謝です


工作は、昨年好評だった
「あきかんランタン」をリピ(^^)
出来上がったら
夏の夜、お庭に飾ってみてください

2020年7月20日月曜日

御霊(みたま)に生きる(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2020年7月19日)
イザヤ44:8  ローマ8:12-15 マタイ福音書13:24-30

 本日のたとえに登場する人々が育てているのは麦です。生きるために最も大切な作物です。それなのに、自分達が眠っている、ほんのちょっとの隙に、畑の真ん中に毒麦の種を蒔かれてしまったのです。しかし主人は僕たち責めることなく、収穫する時まで待てと命じます。良い麦と毒麦を一緒に実らせておき、最終的に選別するから大丈夫だ、というのです。
 調べてみますと、イネ科の中にドクムギ属と呼ばれる分類がちゃんと存在していて、アルカロイドという毒を含んでいるそうです。ドクムギは成長しきらないうちは小麦とよく似ていて、根も小麦と入り組んでいるため、無理に引き抜くと良い麦を間違って抜くことになりかねないそうです。そこで主人はあえて収穫の時を待ち、はっきりと二種類の麦の穂が判別できるようになったら、毒麦の穂を先に借り集めて焼いてから安落ち着いて小麦を刈り取ることにしたのです。

 しかし、興味深いことに、どうやら、この僕たちが刈り取る作業をするのではないようなのです。30節を見ますと「刈り取る者」というのは他にいるようです。
 この例えで押さえておくべきは、僕たちの役割は、主人が種を蒔いた畑を見守り、管理し、小麦も毒麦も共に育てていくことなのです。

 このたとえについて、37節以降でイエス様が改めて解説しておられます。これを私たちの身近なところに当てはめてみましょう。 
 「イエス様がこの世に来られて、弟子たちを集め、育てておられます。そこは豊かな畑のようです。今の教会をイメージして見てください。
 しかし教会に集うようになった人の中には、教会を混乱させる者も出てきます。伝道がうまくいかなくなる様子は、まるで悪魔に妨害されているようです。しかしそういった人々を裁いて教会から追い出してはいけない。成長の過程で「悪い」と判断して、抜いて捨ててしまうのは同じ教会の中にいる人々の役割ではない。この世界が終わる時、天使、つまり神様から任命された御使がその役割を果たすことになっている。あなた方はとにかく忍耐し続けるように、そうイエス様がいっておられる」
 
 イエス様は、私たちが憎しみや怒り、自分独自の正義感に振り回されやすいことをご存知です。また、せっかちですぐに白か黒かと決着をつけなければ気が済まないところがあるのも知っておられます。だからこそ、カッと頭に血が上ったり、結論を急いでイライラしたりするときこそ、主の言葉をわが身に当てはめて聞いて行く必要があります。世の中一般の「こうしたほうがいい」という無責任なアドバイスや価値観に振り回されないように注意しなければなりません。

 「御霊(みたま)に生きる」とは、何か根拠のない、見えないものにすがるのではありません。私たちを導く「御霊」、「聖霊なる神」は、聖書のみ言葉を通してどんな時も語りかけてくださいます。自分の心に毒麦のように生えてくる怒りや憎しみを正当化しながら生きるのではなく、また、無理やり抑え込んでストレスを溜めるのでもなく、毒麦かもしれない存在と共に生きることの中にも恵みや楽しみを見出しながら、必ず訪れる収穫の時を待ち望みながら生きる。み言葉に導かれるなら、こんな私たちでも必ずそうなれる事を、主は教えてくださるのです。

 この毒麦のたとえを記したマタイは徴税人でした。社会の嫌われ者、と軽蔑の目で見られたマタイは、イエス様に招かれて弟子となり、やがて伝道者となります。かつてのマタイは、他の人から見れば抜かれて当然の毒麦のような存在でした。しかしマタイは自分をそのように扱った人々に、イエス様の愛を伝える立場となったのです。
 伝道活動していく中でマタイは、ユダヤ教とキリスト教のぶつかり合いを体験します。ある場所ではユダヤ教徒がキリスト教徒を迫害し、別の場所ではその反対のことが起こります。どちらも自分たちこそ神様の教えに忠実だ、と張り合い、憎しみあい、結局御心から離れてしまう様を何度も見たことでしょう。だからこそマタイはすべてのキリスト者が、収穫の喜びを待つ間に起こる憎しみや怒りの感情で暴走するのではなく、主の手に委ねながら生きていくことを教えたのです。

 大人も子どもも、主に招かれてここに集う私たちは何度でも何度でも、み言葉に耳を傾け、やり直していく必要があります。わたしたちも、今も、これから先も御霊に生きるものです。憎しみや怒りに生きる以外にキリストの愛に生きていくという道が与えられているのです。





先週の金・土は
年長クラスの「一泊お泊り保育でした
あいにくの雨でしたが
先生方の周到な準備によって
無事に楽しく終えられ、感謝です
写真は1日目3時過ぎに行われた
「お買い物」の様子
あらかじめ10円玉を10枚渡された子ども達が
セットしてあるおやつを買いにきます
さっと決める子
迷いに迷う子
様々で見ていて興味深いです

2020年7月13日月曜日

種蒔く人(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(2020年7月12日)
イザヤ55:10-13   ローマ8:9―11 マタイ福音書13:18-23

 聖句を丸暗記する習慣は、大切なことだと私は思っています。聖書のみ言葉は神様からのメッセージの完全な現れとして、私たちに与えられ、時に誘惑から救いだし、時に弱った信仰を強くする、励ましと愛と力にに満ちた言葉だからです。
 覚えるよう促された時は、その行為にどんな意味があるのか、わからないかもしれません。しかし身に危険が迫った時、突如としてその言葉が蘇ってくる。そして神様が私に「どうせよ」とおっしゃってるのかわかる。それこそが神様が共にいてくださる証拠であり、それを感じられることが、聖句を覚えることの大切な意味なのです。
 イエス様は、聖書の言葉を、そして、イエス様の言葉ご自身を、そして、その後に続く弟子たちの言葉全てを、聖霊の言葉と示されました。そして後の時代にそれらを聖書としてまとめるよう信徒たちを導かれ、神ご自身の言葉となさって、長く後世に伝えられるようにされたのです。

 先ほど読みました福音書は「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と始まります。直訳すると、「あなたがたは、そのような関りで、この種を蒔く人の譬えを、過去も現在も未来も聞け」という意味の言葉となります。
 イエス様は、一度覚えたつもりで忘れてしまっても、何度でも耳を傾け直し、新しい発見をすることを願っておられるのです。もしあなたが自分の信仰生活になんの実りも感じられないとしたら、本気でみ言葉を聞いていないからです。イエス様に言わせると、心にみ言葉の種を撒かれていながら、それを育てようという気がないから、ということにもなります。

 本日のたとえ話で、イエス様はみ言葉をタネにたとえ、御国の言葉をいつまでも聞いて悟らなければ、道端に落ちたタネ同然にを悪い者がやってきて奪いとるとおっしゃいます。み言葉の学びが続かない人の心を、石ころだらけの土地や茨だらけのやぶにたとえたりなさいます。
 この話を聞いていた主だった弟子たちはガリラヤ湖の漁師出身で、農夫ではありませんでしたが、イエス様の導きに従って自分自身が成長していくにはどのような心構えが必要なのか、また、伝道して新しい仲間を増やしていくときには何が大切なのか、タネのたとえ話とその解釈を通して、次第次第に理解できるようになっていったのです。
 ここで注意しておかなければならないのは、イエス様は一足飛びに高い収穫量を目指せとはおっしゃっていません。イエス様のみ言葉に促され、信徒として成長しようと努力し、伝道の苦労を重ねても、一気にたくさんの結果を得られるわけではないことをイエス様はご存知だったからです。
 あなたがクリスチャンとして伝道に携わっていこうと決心し、苦しみがあっても、収穫が上がらなくても、止めることなく続けられているということは、あなたの心はすでにイエス様によって耕された良い土地だということなのです。そこを疑う必要はありません。
 しかし、あなたがより多くの収穫を得ていくには、より多くの失敗を経ていかなければならないであろうことをイエス様は誰よりも知っておられました。ただ、「私を受け入れたあなたの心は良い土地なのだ、それを忘れないように」と語りかけ続けてくださるのです。

 収穫の上がらない働きを続けながらも、神様の言葉を伝えていきたい、神様からの救いの言葉をより多くの人々に伝えたい、神様はあなたのこともちゃんと愛している存在であることを気づかせてあげたい、といった思いが途切れないなら、それが神様が蒔いて下さった種が育った結果であり、イエス様の思いなのです。
 
 私たちは、与えられたこの場所を、神様の喜ばれる豊かな場所にしていく必要があります。聖書の言葉、イエス様の言葉、信仰の言葉を大事にしながら、私たちは地上の命が終わる時まで育ち続ける存在であり、み言葉に繰り返し繰り返し聞き、新たに悟り、発見していくことができるのだ、と心に刻んで参りましょう。
 どのような時代が来ても、また、どんなに環境が変わろうとも、人が生きている限り、命がある限り救いは必要です。私たちも種蒔く人となり、成長し、又、誰かの成長を促す者となるために、日々み言葉を心に抱いて、それに基づく歩みを一歩一歩進めながら、豊かな収穫の時が来ることを信じて参りましょう。


幼稚園では今「ミックスジュース」や
「飛んでったバナナ」などが
うたわれています
こんなお天気なので
せめて掲示板の中だけは明るく、と
「飛んでったバナナ」をイメージした
レゴ作品を入れました


ミックスジュースといえば
朝比奈牧師の出身地
大阪が本場(?)でしょう
コロナの影響でなかなか大阪に
帰省できないので
先日、お取り寄せをしてしまいました

2020年7月6日月曜日

共に重荷を担う方(日曜のお話の要約)

まず初めにこの度の豪雨と
球磨川の反乱で被害を受けられた皆様に
神様の慰めと救いの御手がありますよう
お祈りいたします

聖霊降臨後第5主日礼拝(2020年7月5日)
ゼカリヤ9:12   ローマ7:23-25a マタイ福音書11:25-30

 私たちは一人一人何らかの重荷を負って生きています。特定の宗教を持たない人でも、時には神社仏閣にいって手を合わせ、重荷を取り除いて欲しいと祈ることもあるでしょう。
 本日の福音書の箇所には「重荷を負う者」という言葉が登場します。「重荷を負う」という言葉は「上に置く」という意味があります。
 私たちは父なる神様を信じていますので、神様がわたしたち一人一人に荷物を与えてくださったのだと理解していますが、時にあまりの重さに潰れそうになり、信仰そのものが揺らいでしまうことも少なくありません。

 この「重荷を負う」をもとの言葉にあたってみますと、その重さというのが、船に乗り込ませる荷物の量、つまりは私たちが、長い旅行をする時のような大荷物を背負わされているというイメージです。そもそも私たちは一人で運べないほどの荷物を負わされていることになります。これでは到底ひとりでは生きていけないので、周りの人と助けたり助けられたりしながら生きていく存在なのです。
 
 私たちが住むこの世界は、神様がお創りになった時、はなはだ良いものでした。そして私たちの命、一つ一つが重要で尊いものだったのです。しかし人間は神様との約束を破ることによって、その良きものを台無しにしてしまいました。
 私たちはその良き世界に戻るために、それぞれが悔い改めて神を神として崇め、平和で、調和の取れた、神様が与えてくださったルールを守れるよう学び、実践していかなければなりません。そのような世界を、クリスチャンである私たちは、神様の子どもとして守り、管理していく役割が与えられているのです。
 多くの人がその役割を放棄したり、気づいても気づかないふりをし続けてきました。その結果、私達の住む世界は楽園とは程遠い状態になっています。物の溢れた時代、科学万能を信じる人々が圧倒的に多い時代に、神様のみこころにしたがって物事を見極め、行動しています、と説明しても理解してくれる人は少ないでしょう。
 なぜなら神様の導きは、ルールブックやマニュアル書のような具体性はないからです。赤いボタンを押したら、次は青いレバーを引っ張りなさい、みたいに書いてあればわかりやすいのですが、そういうわけにはいかないのです。
 マニュアルに慣れた現代の私たちにとって、神様の御心は凄く抽象的に思えます。しかし私たちは、イエス様から「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」という招きの言葉を受け取りました。イエス様は、「あなた一人でやるんじゃない、私が一緒にやるから」と聖書を通して約束してくださっているのです。
 突っ走りやすい性格の人も、おっかなびっくりでなかなか進まない人も、み言葉に学んでいくうちに知らず知らずのうちにイエス様の配慮のもとで自分に適したペースを学んでいきます。決して私たちがダメだから、と見捨てることがないのです。
 私たちが単独で神の思いに応えていくことは不可能でも、イエス様に見いだされた一人一人だからこそ、弱い力ながらも用いられ「わたしの軛を、わたしと共に担いなさい」とおしゃってくださるのです。

 軛とは、本日の週報の表紙の写真にありますように、牛や馬などの大型の動物に農機具や車を引かせる時につける頑丈な木製の器具です。動物が一頭の時もありますが、その重さによって、二頭、三頭と動物を増やすこともあります。
 軛に繋がれてしまうと逃げ出すこともできず、ヘトヘトになっても労働させられるとうイメージがあります。ここから転じて、一般的な言葉では「自由を束縛するもの」という意味があります。
 確かに、がっちりと首を抑えられて、後ろから鞭で追い立てられながら進んでいかなければならないとしたら、想像しただけでうんざりします。
 しかしそんな軛をイエス様ご自身が私の横に来て、喜んで並んで繋がってくださるというのです。自分の力だけでは前進することができなくても、イエス様が横にいて、励ましながら前進してくださるのです。そのお姿は信仰で感じ取れるだけで、目で見ることはできません。しかしそれは私たちのこの地上での人生が終わるまで、変わらない、と約束してくださるのです。


牧師館から車で15分ほどの山沿い
飯田インター近くに
ポツンとブルーベリーとりんごの
観光農園があります


先日の梅雨の晴れ間
車のメンテナンスのついでに
立ち寄ってみました


これから色づく実もたくさん
どの木が甘いかと探しているうちに
エデンの園にいるような気分に
なりました



お土産に持って帰ったブルーベリーは
ナッツと一緒にヨーグルトに乗せて
飯田産の蜂蜜で少し甘みをつけました
これはうまい!