2021年11月29日月曜日

この闇の世界に(日曜日のお話の要約)

待降節第1主日礼拝(2021年11月28日)

エレミヤ書33章14-16節 ルカによる福音書21章25-36節


 中世と呼ばれる時代、ヨーロッパ諸国はたびたびペストに襲われました。この病によってヨーロッパの人口は30%以上減少したそうです。悲惨な出来事ですが、これによって社会は大きく発展したと言われています。

 その時代は、書物は人の

手によって書き写さなければならなかったのですが、グーテンベルクが印刷機を開発したことによって、聖書をはじめとして様々な書物が印刷でき、たくさんの人が読めるようになりました。教会でも、人々はペストを恐れて集まれない分、文書や図版で学んで行ったのです。この出来事はルターたちの宗教改革運動を大きく後押ししました。

 当時の庶民は教会に行くことが絶対でありながら、聖書を読むことは許されず、教会の言う事を盲目的に信じさせられていました。当時の聖書はラテン語で書かれていましたから庶民が読むことは不可能だったのです。しかし宗教改革によって聖書は母国語に翻訳されるようになり、印刷機の発明によって比較的安価で出回るようになります。

 これをきっかけに個人個人が聖書を読み、信仰を養う時代が訪れたのです。これによって知識や情報が一部の貴族や金持ちに独占される状況は終わり、ヨーロッパは近代化していったのです。

 結果として、この時代のペストによるクリスチャン人口の減少は、悲惨ではあったが、悪いことばかりではなかった、神様の御計画がちゃんとそこにあった、と解釈されています。もしかしたら神様は、教会が大事なことを忘れた時に、私たちが聖書からきちんと学び直すために、あえて救いの手を差し伸べず、厳しい出来事に向き合うように導かれるのかもしれません。


 さて、本日読みましたルカ福音書の記述の一段落前には「エルサレムの滅亡を予告する」と小見出しが付けられており、イエス様が弟子達に向かって、「ユダヤの人々にとって非常に悪い出来事が起こる」と予告される出来事が記されています。

 イエス様は「エルサレムが軍隊で囲まれたなら、なんとかしてエルサレムから逃げなさい。この都は異邦人に踏み荒らされるからだ」と言われます。「まもなくここに神の怒りがくだり、ローマの軍隊がやってくる。妊娠中の女性や赤ん坊を連れている女性は逃げ遅れる」そんな衝撃的なことをイエス様はおっしゃったのです。

 この話を聞いた弟子達は、自分たちは神様に守られた素晴らしい都に住んでいると思い込んでいました。神殿がある限りエルサレムは決して滅びないと思っていたのに、イエス様からこんなふうに言われたら、混乱してしまうのは当然でしょう。

 しかしイエス様は続けて、「もはやこれまで、と思うようなピンチに襲われても、身を起こして頭をあげなさい」と言われました。あなた達が自由になるのは大きなピンチの後だ、と教えられるのです。

 西暦70年、イスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、多くの人々が命を失い、神殿は焼け落ちます。まさにイエス様が言われた通りになりました。多くの戦争の場合と同じように「身重の女と乳飲児を持つ女」は逃げ遅れ、命を落としたでしょう。イエス様のおっしゃった通りになったのです。

 イエス様はそのような悲惨な時がまもなく訪れることをご存知でした。その上で「絶望するな」と言われるのです。それは無責任な神頼みでもなければ気休めでもなく、神様ご自身が「神を信じなさい」と言われるのです。たとえ地上の命が不幸なことで終わったとしても、神を信じるものには神の国で生きる命が与えられている、と言われるのです。神の国は、イエス様の御言葉を信じるものには常に開かれていることを約束するから希望を持ち続けなさい、と言われるのです。

 どのような人生であれ、「あなたが大切だ、あなたを神の国に招きたい」そう語りかける神様の御言葉を心に刻み、感謝を忘れない生活をするためにも、しっかりと聖書を読み、御言葉の語られる説教を聞く必要があります。クリスチャンの生活というものは、傍目には日曜日の午前中を拘束される不自由な生活に見えるかもしれません。しかし御言葉、説教を聞くことで、私たちの弱い心はこの世の雑音を振り払い、神様からの恵の御言葉を聞き取る力を養い続けることができるのです。


 2020年から起こった新型コロナ感染症の流行は、多くの教会に強いダメージを与えました。このような中で、私たちの教会は地方の小さな街にあることが利点となり、大規模な感染の波から守られ、連続して礼拝を閉じることもありませんでした。

 その一方でパソコン通信やデジタル機器の活用方法を探ってスカイプやZOOM配信を行い、そのレベルをあげ、遠方に住む方や都合で自宅に留まる教会員も礼拝に参加することができました。ZOOM会議の水準を上げることもできました。

 私たちは地方の小さな群れですが、感染症が世界を襲うこの禍いの時を通して愛を受け、些細に見えたことの一つ一つに神様の守りがあることを再認識することができたのです。

 もちろん、これからも注意を怠らず感染対策をしていかなくてはなりませんが、怯えてばかりもいられません。私たちには「あなたが大切だ、あなたを神の国に招きたい」と語りかける神様のみ言葉を、次の世代に伝えていく役割が与えられているからです。今後、感染症がもう一度広がっていこうとも、あらゆる知恵を絞ってキリストを信じる人、信じたいと思う人が、神様と出会える場所を作り上げて参りましょう。


 間もなく夜の時間、闇の時間が一番長い冬至がやってきます。神様は夜の長いこの時期が光あふれるようクリスマスの恵みをくださいました。クリスマスの本当の意味を知らない人、キリストがどなたであるかを知らない人にも、できるだけ分かりやすく伝えて参りましょう。


昨日から待降節(アドベント)に入りました

大掃除をしたりツリーを出したり

クランツを飾ったり

なかなか大忙しです


11月とは思えないような寒さに戸惑いながら

クリスマスまでの準備を進めて行きます




飯田教会には小さな馬小屋セットがあります
羊飼いも動物も東方の博士もいません
それどころかヨセフさんが持っているはずの杖もなく
天使の姿さえありません
長い年月の間に紛失してしまったのでしょう

特に高級品というわけでもないのですが
味わいが好きで
初めのクリスマスの夜はこんな風だったんだろうな
と想像を掻き立てられながら
この3年、聖卓に飾っています


ツリーもクランツも準備完了!
次は私たちの心も大掃除して主をお迎えする準備しなくては!

 

2021年11月25日木曜日

12月4日の土曜学校のお知らせ

12月も通常通り土曜学校ができそうな気配です
12月4日午前9時30分から行います

このままコロナ感染が抑えられることを祈ります

12月は今年もクリスマスらしいクラフトをご用意しました
土曜保育のお友達も一緒に工作をしましょう
園児用と小学生用の2種類を用意してお待ちしています

園のお友達は真ん中にLEDライトを置いたプレート
小学生のお友達はカッティングボードを利用したリースです


2021年11月22日月曜日

しゅイエスとともに(日曜日のお話の要約)

こども祝福礼拝(2021年11月21日)
マルコによる福音書10章14節

 突然ですが、皆さんは王様の出てくるお話や歌を知っていますか?「南の島の大王はその名も偉大なハメハメハ」とか、知っていますね。歌の中ではハメハメハ大王は美味しいものを食べたり歌を歌ってのんびり暮らしているようですが、王様というのは本当は大変な仕事です。

 自分の国に悪い人たちが攻めて来たら戦わければなりません。国の中で悪いことをする人には厳しくしなければなりません。その逆に、貧乏な人や困っている人、悲しんでいる人がいたら一生懸命助けます。国民がいつも元気で明るく過ごせるようにすることが王様の大事な仕事なのです。ですから王様というのはどんな時も正しく、強く、優しくなければなりません。これはなかなか難しいことです。


 実は、私たちがいつもお祈りしている神様は、天の国の王様です。完璧な正しさと強さと優しさを持っておられます。ですから天の国はいつも平和で美しいところです。天使達が翼を広げて楽しく歌っています。神様が太陽のようにその国を照らしているので、夜も綺麗な光に包まれていて、少しも暗くありません。泣いている人がいたら、神様がその目の涙を拭いてくれるので、みんな笑顔です。

 これは先生が勝手に作ったおはなしではありません。聖書の「ヨハネの黙示録」の最後の方にちゃんと書いてあります。ちょっと難しいけれど、いつか読んでみてくださいね。

 天の国の王様である神様は、いつでも人間の国の私たちのことを見ておられました。不思議な力で私たちの様子が全部わかるのです。私たちが悲しくて泣いたり、誰かと喧嘩して怒ったりしていると、とても心配してくださいます。みんなを神様の国に呼んで幸せに暮らしてもらいたいのですが、神様が呼びかけても、人間にはなかなか聞こえません。神様のお声は心の綺麗な人にしかわからなかいからです。

 人間が幸せに暮らす方法を教えたいと思った神様は、ご自分の一人息子、つまり王子様を人間のところへ送ることにしました。ピカピカ光っているご自分が行くと人間が怖がるといけないと思ったからです。でも王子様もやっぱり神様ですから、優しい光で光っています。そのまま人間の国へ行ったらすぐ神様だとわかって怖がられてしまうでしょう。

 そこで、神様は人間の女の人を一人選んで、王子様のお母さんになってもらうことにしました。お腹の中に入って赤ちゃんからやり直すのです。人間の女の人から生まれればピカピカ光っていないので、人間の仲間として普通に暮らすことができるでしょう。そうすれば王子様は人間のすぐそばにいて、悲しい人を慰め、病気の人を治し、お腹が空いている人食べ物を与え、みんな仲良く暮らせるように、お話しすることができます。


 神様は王子様のお母さんになってくれる人を探し、ぴったりの人を見つけました。その人はナザレの村に住んでいるマリアという人でした。そうです、もうわかったと思います。神の国の王子様の名前はイエス。主イエス様なのです。

 みんなが知っているように、クリスマス夜、イエス様はマリアさんの子どもとして人間の世界に生まれ、すくすく大きくなりました。そして大人になると、神様の国のことをみんなにお話しし始めました。イエス様は、正しく優しく生きていれば神様に会えるよ、必ず神様の国に行けるよ、とお話ししてくださったのです。


 でも残念なことに、大人はそのお話の半分くらいしか信じませんでした。イエス様が生まれた国は良い王様がいなかったので、戦争ばかりしていて貧乏でした。ですから、大人の人たちは、いつ行けるかわからない神様の国のお話を聞くよりも、イエス様の奇跡の力でパッと幸せにしてほしいと願いました。その大人の人たちは、イエス様が神様の国から来た王子様だとは本当は信じていなかったのです。

 ところが、子どもたちは違いました。大抵の子どもというのは鋭いところがあるので、イエス様が神様の国から来た方だとちゃんとわかりました。それでイエス様にこう聞きました。「私たちは正しく優しく生きたいけれどまだ小さいので力がありません、どうしたらいいですか?」

 イエス様は子どもたちにおっしゃいました。「辛いことや悲しいことがあっても、神様にお祈りすれば力をもらえるよ、神様はいつもあなたたちを見守っているよ。」子どもたちはそのお言葉を信じて神様にお祈りを始めたのです。

 イエス様は子どもたちがご自分の言葉を素直に信じてくれたことがとても嬉しくなりました。子どもたちを一人一人抱っこして、頭に手を置いて、「あなたは神様に守られています」と言ってくださったのです。


 これは大体2000年くらい前に本当にあったお話です。

 なんだ、ずいぶん昔の話だなあ、と思うでしょう。でもイエス様は神様の子どもですから、今も変わらずちゃんと生きていて、2000年前と同じように子どもたちを見守っています。これは本当のお話なのです。

 ただ、2000年の間に、一つだけすごく変わったことがあります。それは長い長い間に、イエス様を神様の子どもだと信じる大人もいっぱい増えたということです。大人の人たちは聖書という本にイエス様のお言葉を書き、どんな国の人でもイエス様のお話が読めるようにしました。そしていつでもお祈りできるように教会という場所を作りました。それから、小さな子どもたちもイエス様のお話が聞けるよう幼稚園を作りました。私たちの教会と幼稚園は、100年ぐらい前に、そうやってできたのです。


 さて、今日は「こども祝福式」なので、来てくれたお友達にはプレゼントがあります。ただ、イエス様を信じて集まってくれた人は、幼稚園の子も小学生も、お父さんもお母さんも、幼稚園の先生も、おじいさんもおばあさんも、みんな全員イエス様の大切なこどもなのです。大人だから抱っこしたり頭なでなでしたりはしないけど、神様からの祝福はここにいるみんなにあります。神様はみんなを守っていてくださいます。

 みんなで力を合わせてここを正しく優しく、そして元気いっぱいの神様の国みたいにしていきましょう。これからも一緒に「主イエスとともに」「嬉しいときも悲しい時も」励まし合いながらどこまでも歩いていきましょう。



こども祝福礼拝の賛美の様子を写真でご紹介します

順不同になってしましました、すみません

リーベクワイヤの皆さんのハンドベルも

とても素敵でした


こども聖歌隊with先生バンドの賛美した曲は

「あの空はどうして青い」「主イエスとともに」の2曲です

手話を交えながら楽しく賛美してくれました


祝福式には二十人以上のお友達が来てくれました

牧師から聖句カード入りのお菓子のプレゼントをもらい

みんなニコニコ顔で帰って行きました


最年少のソウタくんはまだ年中さんですが
お姉さんたちと一緒にしっかり歌ってくれます
手話も上手です

「この空はどうして青い」のキーボードは
お子さんを二人聖歌隊に送ってくださっているゆりこさん
ことみ先生はギターデビュー
パーカッションはりか先生

ベースはなみえ先生
ドラムスははるか先生

メンバー最年長のゆうひさんに
メンバーと向き合ってもらい
手話で指揮をお願いしました


会衆の皆さんに「主イエスとともに」の手話を
覚えていただき、一緒に賛美しました
牧師夫人、真剣に指導中






だって「こども祝福式」だもの!
前奏と後奏はなずなさん、みすずさんの仲良し姉妹が
ドラムスやキーボードなどを駆使して
演奏してくれました
牧師先生は賛助出演


2021年11月16日火曜日

次の日曜日は「こども祝福礼拝」です
昨年まで、飯田教会では「児童祝福式」と呼んでいました
「みんな神様の子ども」という意味を込めて
名前を変えさせていただきました
こども聖歌隊with先生バンドも練習を重ねました
リーベクワイヤの素敵なハンドベルの響きも聴けます
礼拝終了後には全員参加のジャンケンゲームで
素敵なプレゼントが当たります
マスク着用の上、どなたでもぞお越しください!

次の日曜日は「こども祝福礼拝」です
こども聖歌隊も練習を頑張っています
どうぞお越しください

 

2021年11月15日月曜日

永遠に続くもの(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第25主日礼拝(2021年11月14日)
ダニエル書12章1-3節 マルコによる福音書13章1-8節

 本日の新約聖書の箇所には、神殿の崩壊と終末の徴が記されています。

 イエス様と弟子たちは壮麗なエルサレム神殿にやってきます。弟子の一人が「何と素晴らしい建物でしょう」と、まるでこの神殿が永遠に続く神の国であるかのように感嘆の声をあげます。ところがイエス様は「この神殿はやがて完全に崩壊する、と予告されたのでした。


 長い歴史を持つイスラエル王国ですが、かつて神殿は一度戦争で消失しています。弟子達が見ていたのはのちに建て替えられた神殿です。神殿とはいえ敵国の手で焼かれることがあることは弟子達も知っているのに、素晴らしい建物を前にして、そんなことは忘れてしまっていたのかもしれません。


 ユダヤ民族の歴史はおよそ4000年前に、族長であるアブラハム、その子イサク、孫のヤコブから始まったとされています。途中はちょっと省略しますが、日本でようやく弥生時代が始まった紀元前10世紀、イスラエルはすでにダビデ王の統治のもとで高い文明を誇っていました。

 ダビデ王は祭司を国のトップに据え、神様を中心とした宗教国家を作ります。その息子ソロモン王は驚くばかりの豪華な神殿を建設しました。しかし国の繁栄は100年とは続かず南北に分裂、当時の大国であったアッシリヤやバビロンに征服され、素晴らしかった神殿は見る影もなく焼け落ちます。それが紀元前586年と記録されています。


 神殿とともに一旦滅びたように見えたイスラエルの民でしたが、囚われ連れて行かれた外国で再び厚い信仰を取り戻します。やがて神様の奇跡的な導きにより祖国へ帰還した人々は、自分たちの生活を傍に置いて、真っ先に神殿を建て直したのです。その神殿は第2神殿と呼ばれ、紀元前521年に完成しています。


 それから400年後、イスラエルは今度はローマの支配下へと移ります。ローマは属国とした国々の土着の信仰には寛容だったため、ローマから自治を任されたヘロデ王は、ユダヤの民を喜ばせるために神殿を増改築します。外観も内装も豪華絢爛な神殿に仕上がっていたことでしょう。


 イエス様と弟子達が見ていたのは、この、ヘロデが手を加えた神殿だったのです。その素晴らしさは「永遠」に存在するに違いないと思わせるだけの美しさや神々しさ、迫ってくる迫力のようなものがあったのでしょう。


 当時のイスラエルは、ローマの属国とはいえ、道は石畳の道で舗装され、上下水道も整ったハイレベルな都市だったようです。その道を通って国外からも立派な神殿に参拝客が訪れました。法律も、治安を守るための訓練された機動部隊も配置されていました。ローマからイエスラエル人に課される税金は高くなる一方でしたが、表面上は平和であり、このまま安泰の世の中が続くかと思えたほどでした。


 その一方で、誇り高い民族であるイスラエル人たちは、しょっちゅう反乱を起こしては鎮圧され、処刑される、という状況を繰り返していました。実際には一触即発の状態が続いていました。ですから、民衆はイエス様の行われる素晴らしい奇跡を目の当たりにして、「この方こそ神様がイスラエルに遣わしてくださったまことの王様」と信じ、ローマと戦って追い出してくださるに違い無いと思い込んで大いに期待し、担ぎ上げようとしたのです。


 しかしイエス様の御計画は人々の想いを遥かに超えた壮大なものでした。イスラエルという国を再建するのではなく、人々を神の国に導くという使命を持っておられたイエス様は、目の前のことしか見えない人々によって勝手に持ち上げられ、勝手に失望され、政治家をも敵に回し、十字架の上で一度命を落とされたのです。


 三日目に蘇ったイエス様は、弟子たちにご自分の使命を引き継ぐようお命じになって天に帰っていかれます。その後は聖霊なる神が天から降り、弟子たちを支え導きますが、その道は苦難の連続でした。イエス様は、全ての国の人々に神様の教えを伝え、信じる者になるように宣べ伝えることを託されました。しかしそれは当時のユダヤ教の考え方と真っ向から対立するものでした。


 クリスチャンと呼ばれるようになったイエス様の弟子たちは、ユダヤ教徒から厳しい迫害を受けて命を脅かされ、祖国を追われます。地中海沿岸の街々に住むようになった弟子たちは、苦労を重ねながらそれぞれの土地で福音を伝え、信徒を増やし、教会をたてあげていきました。


 一方、従来のユダヤ教に留まった人々は西暦66年ごろからローマ帝国を相手に戦いを始めます。「神様は我々を守ってくださる、我々には神殿がある」と信じて戦いますが、ついには敗れ、神殿は西暦70年に火をかけられ、完全に破壊されたのでした。もしイエス様が「迫害は起こるが神様はあなたたちを見捨てない」と語ってくださらなかったら、弟子たちはとっくに絶望していたことでしょう。


 イエス様は、どれほどの試練が襲っても、神の国は変わらずに存在しており、イエス様を信じるものを迎え入れてくださるとおっしゃいました。地上のものがどれほど儚くても、永遠の存在は確かに天にあるのだと弟子たちは信じました。ですからどれほど周囲から迫害されても、どれほど無理解に苦しめられても、前を向き続けたのです。


 やがて神様に見出された者、イエス様に見出された者は、世界中全ての民族の中に広がっていきました。この日本に住む私たちも、永遠にかわらない神の国に招かれる存在として、イエス様を信じ、一人の素朴な弟子として、希望を持って礼拝してまいりましょう。今この時、限りある命を生きつつ、次の世代へとバトンを渡すことに集中して参りましょう。私たちはこの世の役目を終えて天国に召された時、永遠に生きるとは、どういうことかをはっきりと知ることができるのです。



先週の土曜日は恒例の土曜学校の日でした

キラキラドーム(スノードーム)を作りました

楽しいひと時ですが

まだまだコロナに気をつけながらの活動です

「気が緩んだ時が危ない」を合言葉に

活動しています



写真を撮る時だけマスクを外しています








今回は洗濯糊5:精製水5の割合で作りました
園芸用のボールが上手く浮かびました
ふわふわ動いて楽しい感じです

2021年11月12日金曜日

ラザロの復活(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒の日礼拝(2021年11月7日)
ヨハネの黙示録 21章1-4節 ヨハネによる福音書11章38-44節

 本日は全生徒の日礼拝です。既にこの世を去り、天国の住人となった皆様の写真を飾り、天においても地においても共に神様を讃えよう、という礼拝です。
 本日、ラザロのお話に入る前に、イエス様が死者を生き返らせた記録が他に2つあることを見ておきましょう。

 まずひとつ目は、ルカ福音書7章、ひとり息子に際立たれたやもめの出来事です。イエス様はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくてもよい」と言われました。「憐れに思い」という言葉は「はら」、「おなか」を意味します。上から目線ではなく、心の底から、腹の底から絞り出されるような深い同情です。それほどに共感しながら、イエス様は一人息子の遺体の棺に手をかけて葬列をお止めになり、蘇りの奇跡を行われたのです。

 もう一つはヤイロの娘の奇跡で、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書にそれぞれ記されています。ヤイロはユダヤ教の世界でそれなりに地位のある人物でしたが、自分の娘の病気を治して欲しいとイエス様の元へ来て平伏します。イエス様は弟子たちを連れてヤイロの家を目指すのですが、途中、別の病気に苦しむ女性と出会い、彼女を癒したりしているうちに「娘は死んだ」という知らせが入ります。絶望するヤイロに向かってイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。ヤイロの家に到着されると娘の手を取って起こします。

 これらの蘇りの奇跡で共通するのは、身内を失った人々にイエス様が寄せられた並々ならぬ同情と力強い励ましの言葉です。これは本日読みましたラザロの復活にも共通している出来事なのです。

 今日のお話の舞台となっているのはエルサレムにほど近いのベタニアという村です。ラザロの死の知らせを受けたイエス様は、直接ラザロの家には行かず、村の入り口に留まります。そして迎えに出たラザロの姉のマルタに励ましの言葉を語ります。これは有名な聖句で、25節に記されています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

 イエス様は悲嘆にくれるマルタに向かって「泣くな。 ただ私を信じなさい」と言われたのです。しかし、こう言われたマルタの心のうちはどうだったでしょうか。イエス様は一体何を信じろと言っておられるのでしょうか。マルタは「イエス様がメシアだと信じています」と口にするだけで精一杯だったことでしょう。その後、マルタの姉妹のマリアもイエス様のもとにやってきます。しかしマリアは気丈に振る舞っていたマルタとは異なり、イエス様の足元に泣き崩れます。それを見た村人たちも同情して涙を流し始めた時、イエス様もまた涙を流されたのです。

 ラザロの墓の前に立ったイエス様は人々に命じて墓を塞いでいた石を取り除けさせます。そして父なる神に祈られた後、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人「死んでしまった者」が、葬られた時と同じ姿で、まるでミイラ男のように体を布で包まれた状態で出てきたのです。
 こうしてイエス様の奇跡によって蘇ったラザロは、家族や村人に喜んで迎えられます。かなり後のことですが、ラザロはイエス様を信じるものとして伝道者となり、キプロス島に赴きます。キリスト教を広めたそうです。やがてこの島で亡くなったラザロを記念して「聖ラザロ教会」というギリシア聖教の教会があります。

 当たり前の話ですが、一旦生き返ったラザロは、やがて再び死を迎え、この世と別れを告げたのです。イエス様に蘇らせていただいたからといって、地上でいつまでも生きられるわけではありません。同じように、イエス様の奇跡で生き返ったナインのやもめの息子も、ヤイロの娘も、やがて死を迎えたのです。

 こうお話しすると、疑問を持つ方もおられるでしょう。イエス様がマルタに仰った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というのはどういうことなのかと。「イエス様を信じる者は、死んでも生きる」と言っても、いずれは死ぬのなら、一時的に生き返っても、大して意味は無いじゃないか、と思われるかもしれません。しかしイエス様の言われる「死んでも生きる」というお言葉は、私たちの命に関する常識を覆してしまう力強いお言葉なのです。

 人間は、いつか必ずやってくる死というものに、心のどこかで怯えながら生きる存在です。大切な存在が死にそうな時にはオロオロしますし、幸せな時を過ごせば過ごすだけ、いずれ死によって全てが失われるのか、と悲しくなる。どうせ何もかも失うのなら、とやけになって、人を巻き添えにして死のうとする人さえいます。
 これはまさに「死のとりこになっている」状態なのです。キリストがナインのやもめに深く同情し、ヤイロに「ただ信じなさい」と言われ、マルタに「わたしは復活であり、命である」とおっしゃったのは、「大切な人を死ぬことで失うのは自分が死ぬより辛い」と、死におびえて苦しむ人々の心を解放するためだったのです。

 人間は死ぬことによってこの世を離れるけれど、決してそれでは終わらない。天の国で永遠の命が待っている。イエス様は口先だけでなく、このことを理解して欲しくて、深い同情と熱い涙によって、力強く「信じなさい」と語ったのです。そしてイエス様の思いを受け止めた人たちは、2度とこの世の死を恐れることなく永遠の命の待つ天の国へと旅立っていったのです。

 私たちの人生も、いつどうなるかわからないという不安はつきものです。誰が先に死ぬのかは分からないのです。ただその死において、イエス様は近づいてくださり、寄り添ってくださる。聖書に記されたこの出来事から私たちが分かることは、よみがえりであり、命であるイエス・キリストが私たちの側に歩み寄ってくださる。そしてその場所が死の床だろうか、災いの場所だろうか、墓の中だろうが、力強く呼びかけてくださるのです。「わたしは復活であり、命である。」このみ言葉を心に刻み、大切な人々とやがて天国、神の国で会える時までイエス様を信じて歩んで参りましょう。


先週土曜日は11月の土曜学校でした
礼拝ではクリスマスに備えてヨセフさんのお話を聞きました
クラフトはキラキラドーム(スノードーム)
園芸用の淡い色のボールを入れると
瓶の中でふわふわ動いて素敵な仕上がりになりました






2021年11月1日月曜日

宗教改革(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第22主日礼拝(2021年10月31日)
詩編46編1-4節、11-12節 マタイによる福音書11章16-19節

 本日10月31日は宗教改革の発端となった日です。マルチン・ルターが500年前、時の教会への疑問質問を95箇条にまとめ上げ、ヴィッテンベルク城の扉に張り出した日なのです。

 中世において教会のトップに立つローマ教皇は絶大な権力を持っていたました。しかし、ペストの大流行や十字軍の失敗により、教会は金銭的にも窮地に立たされます。そこで教会はて建物修復などの費用の不足を補うために為に「免罪符」つまり「贖宥状」を売り出します。元々は十字軍の戦いに参加した兵士たちが、戦争とで人を殺した罪や仲間を見捨てた罪を神様に赦してもらいたいと教会に助けを求めたところがスタートであった、とも言われています。


 しかしやがて「贖宥状」は「罪の赦しはお金で買える」という感覚を生み出します。教会の側でも、資金集めのためにどんどん宣伝がエスカレートし「どんな罪を犯しても贖宥状を買えば罪を赦されて天国に行ける」と言い始めます。そしてついには「既に地獄に行ってしまった人の魂も、贖宥状を買えば地獄から飛び出して天国に行ける」とデタラメを言い始め、良心的なキリスト者の不信や反発を招き、宗教改革を後押しする形となったのです。


 ルターは教会の権力を守ろうとする人々に命を狙われますが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世がルターに守られ、改革を推し進めます。フリードリヒ3世はローマ教皇も圧力をかけられないほどの大貴族だったため、ルターは落ち着いて新約聖書をドイツ語に翻訳することができました。聖書はそれまでラテン語で記され、特別な人しか読むことができませんでしたが、それを機会にそれぞれの国の言葉に翻訳されました。折もおり、印刷機が開発され、聖書は飛躍的に人々の間に広がっていきました。


 一方、それまでの教会は依然として強い影響力を持っていましたが、ルターの宗教改革を機に、内部改革が進めら、世界宣教を開始します。日本にもフランシスコ・ザビエルによって1549年にキリスト教が伝えられ、織田信長の庇護を受けて勢力を伸ばし、全人口の2%から5%がクリスチャンだったと言われます。しかしやがてキリスト教は禁教となり、明治になるまで長く厳しい迫害の時代となります。


 さて、本日ご一緒に読みましたマタイ福音書は「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」と書かれています。これは当時の子どもたちの遊び歌で、片方が「結婚式ごっこをして楽しく歌いましょう、と呼びかけているのに、あんたたちは応じてくれない」と言うと、もう片方が「葬式ごっこをしているのに、あんたたちは泣いてくれない」と文句を言う。お互いにこうやって遊びたいと誘い合っているのに、相手がそれに乗ってくれないと文句を言っている、そういう歌なのです。


 あくまで子どもの遊び歌ですが、イエス様の目には、その時代の人々全体がそんなふうに見えたのでしょう。お互いの想いが通じ合わず、欲求不満を募らせ、対立が深まり、一つになれない。それが今の時代の姿だとおっしゃるのです。ではイエス様にとって一体何がそこまですれ違っていたのでしょう。


 民衆はイエス様に、奇跡の力を用いてローマ帝国を追い出し、イスラエルに自由を与えてくれる新しい王様でした。しかしその1週間後には落胆し、自分たちの求めるリーダーはイエスではない、十字架につけろと叫んだのです。

 そこには、神様のみ言葉に信頼するものや、神様からの祝福を得ようとする人々はいませんでした。イエス様がいくら神様の御言葉を語ろうと、誰もそれを受け入れない。自分たちの思いを押し付けようとするばかり。このどうしようもないすれ違いは、まるで子どもたちの歌う、「笛吹けど踊らず」の歌そのものとして、イエス様の目に映ったのでした。


 しかしイエス様はご自分にかけられた間違った期待に失望して終わる方ではなかったのです。十字架の上で一度命を捨て、三日後に蘇るという、人間が誰一人考え付かなかった凄まじい方法によって、神様は確かに私たちのそばにいて下さることを証明されたのでした。私たちが信じている神はこういうお方なのです。


 日本の宣教の歴史は1549年の伝来以来、「以後四苦八苦」です。江戸時代においても、第二次世界大戦下においても、強い迫害があったことは日本の歴史の資料にはっきりと記されています。かつて迫害があったこと、そしてそれが確かに終わったことは歴史に刻まれているのです。それはたとえ苦難の時代があっても、神様は守ってくださるという証なのです。


日本では、今、表立ったキリスト教迫害はありませんが、ルーテル教会に限らず、キリスト教会そのものが伸び悩み、難しい局面に立たされています。現在、日本のクリスチャン人口は、全人口の1%以下です。

 もちろんクリスチャンは少ないより多い方が良いのですが、キリスト教というものはイエス様が宣教を開始した時点から、大ブームになるよう宣伝することはしませんでした。イエス様の弟子たちは、神様から示された人たちに誠実に接し、不都合な点があれば小さな改革をコツコツと積み重ね、丁寧に丁寧に前進してきました。歴代のキリスト者たちは、誠実に歩み、気持ちのすれ違いを嘆くのではなく、イエス様をお手本として、常に解決の道が示されることを信じて歩んきたのです。それがプロテスタント教会のあるべき姿です。


ルーテル教会はマルチン・ルーテルすなわちマルチン・ルターの名前を継ぐものとして、聖書を土台として立ち、神に導かれた信仰が保てるよう、ただ主イエス・キリストにより頼みましょう。ルターの残した「信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ」という言葉を改めて心に刻みましょう。この教会に、この園に集まる人々と共に平和に過ごすため、聖書から与えられる知恵を大切にしつつ、これからの歴史を共に紡いで参りましょう。



宗教改革記念日の昨日、飯田教会の礼拝堂に

美しいハンドベルの音色が響きました

飯田ルーテル幼稚園卒園児の保護者によって結成された

リーベクワイヤの特別賛美です


飯田教会の礼拝堂は古く痛みも激しく

建て直しを目前としています

教会員は減少し、高齢化しており

多額の借金をしなければならない現実を前に

尻込みする者がいないと言えば嘘になります


100年を超える飯田教会の歴史の中で

「もはやこれまでか」と思えるような出来事も

何度もあったと聞きます

しかし神様はこの小さな教会を

お見捨てにはなりませんでした


ですから私たちは信仰と希望を持って

大きなプロジェクトに挑みます

ここが愛に満ちた空間として

再出発することを

神様は望んでおられると確信しています