2018年11月16日金曜日

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第12章28節~34節)


20181111日、聖霊降臨後第25主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第61-9節、ヘブライ人への手紙第724-28節、マルコによる福音書第1228-34節、讃美唱119/9(詩編第11973-80節)

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第1228節~34節)

 聖霊降臨後第25主日を迎えました。来週の主の日には、乳幼児・児童祝福
式という特別な礼拝をし、122日からは、教会暦での新しい年、アドベン ト、すなわち、待降節が始まります。
 昨年のアドベント以来、主たる福音書としては、マルコによる福音書と共に歩んできた礼拝も、今日を含めても、あと3回しかないところまで、私どもは歩んできました。そして、12月からは、三年サイクルの教会暦のC年として、ルカによる福音書を、主たる福音書として歩む一年が待っています。
 この大詰めのところで、今日与えられています福音書は、マルコによる福音書第1228節から34節までであります。この短い聖書、ペリコペーと言いますが、この個所を中心として、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の福音書の個所の設定では、主イエスは既に、エルサレムに入城しており、エルサレムでの宗教的指導者たち、宗教的敵対者たちとの論争の中に入れられているものであります。
 主イエスも皇帝に税を納めるべきか、そして、今日のすぐ前の個所は、サドカイ派との復活はあるのかないのかの論争、そして、今日の出来事の後には、主御自身が出された質問で、主イエスはダビデの子なのかどうかという議論だ出て来るのであります。
 さて、今日の始めの文章は、ある一人の律法学者が近寄ってきて、主イエスと彼ら、すなわち、サドカイ派どもが議論し合っているのを聞き、主が見事に、文字通りの意味に訳すと、美しく、答えられたのを見て、主イエスに質問したというふうに、始まっています。
 「どのようなものが、すべてのうちで一番の命令でしょうか」と。掟、戒めとも訳されていますけれども、それは、その当時、600以上もあったという律法の掟のうち、どれが第一の命令なのかというもっともな問いかけなのであります。
 何を最たる命令として守っていけばいいのか、この律法学者は、真面目な者として、通常他の個所では、主イエスを試みる者、敵対するグループとして出て来るのですが、ここでは、主イエスが見事にお答えになっているのに感心して、平伏して近づいて来て、教えを乞うているのであります。
 主は、彼に対してこう答えられます。「第一の戒めはこうである。聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は、一なる主である。」そして、文字通りに訳してみますとこうなります。「あなたは、あなたの心の全体から、あなたの生命の全体から、あなたの理解力あるいは理性の全体から、そして、あなたの力の全体から、あなたの主なる神を愛さねばならない。」
 ところが、主イエスは、さらに続けて言われるのであります。「第二は、これである。『あなたは、自分の隣人を自分自身のように、あるいは、自分自身として愛さねばならない、愛するであろう』」と。そして、「これらよりももっと大きな命令は、他にはない」と。
 これらは、今日、第一の朗読で読まれた申命記第64節~5節とレビ記第1918節の言葉から来ているのであります。
 そして、それに対して、この律法学者は言います。もとの文に従って、文字通りに訳しますと、「先生、あなたは見事に、真実に向かって言われました。彼は一である、彼のほかにはない。そして、『あなたは、心の全体から、賢さ、すなわち知性の全体から、そして、力の全体から、彼を愛すること、そして、隣人を自分自身として愛することは、すべての焼き尽くす献げものどもや、その他のいけにえどもよりもはるかに勝っています」と。
 ここで、この律法学者は、主イエスの答えに対してほぼ全面的に賛意を表わしています。
「あなたは、美しく、真実に向かって、言われました。彼は一であり、彼のほかにはいない、うんぬん」と。
 彼は、当時の犠牲制度のすべてを批判しているわけではありませんが、主イエスの言われた二つの命令が、すべての他の命令をはるかにしのいでいる、中核であると、主イエスのお答えにほとんど全面的に、賛成しているのであります。
 そして、主は、彼が賢く、思慮深く答えたのに対して、「あなたは、神の国から遠くない」とこの人を、主イエスがまもなくおつきになる十字架で示される神の愛へと招いておられるのであります。
 「聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は一つである、彼のほかには主はいない。」そして、その神を、私どもの心の全体で、精神・命の全体で、理解力の全体で、力の全体で愛することと、私どもの隣人を、むしろ自分自身として愛することとが、神の命令の第一であり、第二の命令であります。
 神がまず、私たちを愛してくださった。そこから、私どもも自分の隣人を、自分自身のように、むしろ自分として愛することが、出て来るのであります。
 自分を心から愛することは、なかなかできないものであります。しかしながら、そのような私どものありのままの姿を、神は愛して下さっている。
 これに賛意を表した律法学者に、「あなたは、神の国から遠くない」と言われる。
 このあと、まもなく、十字架について死なれる主イエスが、御自分の死と現在のお言葉において、「神の国の入り口にあなたは既に立っている」と招かれるのであります。
 そして、私どもも、いや、私どもは彼以上に、神の国に近くあるのであります。この二つの戒めを通して、神を愛し、人を愛する生きかたへとすべての人は、神の国へと、又平和へと平安へと、遠くにいる人も、近くにいる人も、主イエスの流される血によって招かれているのであります。
 この律法学者が、今一歩なのは、今日のこの二つの命令に従って、悔い改めて、応答していく、従って生きていくことができていないことであります。
 彼は律法学者であり、彼らにとっての聖書、すなわち、旧約聖書について隈なく学び、心得ていたことでありましょう。
 彼らは、厳格な律法の命令を遵守しようと命がけでありました。しかし、主イエスの、それについてのお答えに、この律法学者は感心し、主イエスの言われていることが正しいと直感的に理解したのであります。
 しかし、当時の大多数のエルサレムの宗教的指導者たちは、主イエスを、律法を破る者として裁き、このあと、十字架につけるのであります。
 聖書は、このあと、この律法学者が悔い改めて、主イエスを信じる者となったのかどうか、先に、永遠の命を求めてやってきて、主イエスに質問した金持ちの議員についての物語と同様、何も記していません。
 それは、この物語を聞く私どもが、悔い改め、主イエスを信じて、神の国に入るように、自分の目で命の道を見出し、主イエスに従って歩むように、熟考して決断することを促しているのではないでしょうか。
 ところで、旧約聖書と新約聖書とは、違った教えなのでしょうか。旧約聖書の神は裁く神で、新約聖書の神は、愛の神なのでしょうか。
 律法学者たちが考えていた神と、主イエスが説いた神とは違った別の神なのでしょうか。確かに、当時の律法学者たちは、律法の無数に広がった命令を一つ一つ守らなければ、救われないとして、それを破るように思われた主イエスを裁き、十字架につけるに至ったのでしょう。
 しかし、主イエスの説いた神の国へと入るためには、すべての人が悔い改め、幼子のようにならなければ入ることはできないのであります。
 自分を低くして、子どものように、贈り物として、神の国を受け取る者に変えられなければ、決してそこに入ることはできないのであります。そこが、当時のエルサレムの宗教的指導者たち、サドカイ派も、ヘロデ派も、祭司長たちも、律法学者たちも、分からなかったのであります。そして、彼らが厳格に守っていた律法を打ち破る者として、主イエスを弾劾し、十字架の死を、一致して決議し、ポンティオ・ピラトの下で死刑に処したのであります。
 しかし、主イエスは、もちろん、旧約聖書、すなわち彼らにとっての聖書に反するお方としてお出でになられたわけではありません。かえって、それを成就するお方としておいでになられたのであります。
 今日の第一朗読で読まれました申命記第61節から、9節にありますように、イスラエルの者たちは、出エジプトを通して、十戒が与えられ、聞け、シェマー、イスラエルよ、私たちの主なる神は唯一の主であると、神は言われ、、自分たちの与えられている賜物のすべてを尽くして、この神を愛することを、子孫代々忘れまいとしました。そして、十戒も出エジプトの途上のシナイ山でモーセを通して、与えられました。
 さらに、レビ記題1918節にあるように、「あなたは、隣人を自分自身のように愛しなさい、私は主である」との神よりの命令を受けたのであります。
 そして、十戒の命令は、ルターの大教理問答書にありますように、最初の3つの命令は、神と人との関係を命じたものであり、残りの7つは、人と人との関係を命じたものであります。
 この十戒を要約したものが、今日の主イエスの言われた第一の掟と第二の掟であります。ルターの大教理問答書、そして、小教理問答書は、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼と聖晩餐の二つの聖礼典という構成になっています。
 最初に、今日の主イエスのお言葉に関わります十戒が来るのであります。そして、ルターは、十戒が守れるならば、後は何もいらないのだが、私たちは誰もそれが神の命じられる通りには、守ることができない。それで、自分に絶望して、主イエスへの信仰にやって来ざるを得ない。それが、使徒信条であり、それは、第一条が創造について、第二条が罪の赦しについて、第三条がきよめについてであると言っています。そして次に、救われた私どもは、しかし、生涯、義人にして同時に罪人でありますからそれが十分に果たされるように、地上にあってどのように祈ればよいのかが、主の祈りによって示されます。
 そして、その救いにあずかる目に見える恵みの手段として、聖礼典すなわち、洗礼と聖晩餐すなわち聖餐のふたつが与えられているわけであります。
 今日登場してきた主イエスを心から支持した、熱心な一人の律法学者は、この後どうなったか分かりませんが、この物語を通して、私たちが、これを見て、悔い改め、神と人とを心から愛し、主に従い、隣人に仕えてゆく歩みへの反面教師として、悔い改めへと今一歩を踏み出してゆくように、主イエスの招きに応答してゆくようにと私どもに教えているのであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年11月14日水曜日

―最近読んだ本からー「聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」


―最近読んだ本からー聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」
         発行所 教文館
著者 加藤常昭、井ノ川勝、平野克己、朝岡勝、森島豊
編者 平野克己
発行 2018730日 
        (定価):3000+税)
 かつて、私事ながら、岳父西恵三は、毎週の説教を立派にやりこなすことは、至難の業であると、私に語ったことがある。その西の父は、北陸で日本基督教団の牧師であったが、説教が下手なので、中途で、学校の教師になったと、いつであったか、軽妙な語り方で話してくれたことがある。
 さて、加藤常昭先生は、類まれな才能に恵まれ、ひとえに牧師の道を歩まれた方であり、現在89歳で、今なお、後進の特に説教の改善、進化のために説教塾の主宰をなさりながら、ご活躍の先生であり、その著書や訳書は甚だしく多い。ちなみに、私の母は現在、88歳の米寿をこの秋に迎え、今は介護型の老人ホームに移っているが、加藤先生とほぼ同時代を生きてきたことになる。今はベッドの上で認知症になっていて、食事を除いてほとんど動けなくなっているが、この夏にほそぼそと会話して、口をついて出て来ることは、太平洋戦争で米軍の空襲で恐ろしかった体験であった。加藤先生もそのような厳しい戦中・戦後を歩まれた点は共通している。この本はそのような先生のキリスト教との出会い、そして真摯に牧師としての道を歩まれた軌跡を、後進の牧師たちが「聞き書き」し、対話した内容となっている。
 幼いときから、日曜学校、教会学校に通い、また、良き説教者たちと出会って、説教を中心に、いつしか牧師を目指され、当時はまだほとんどなかったと言ってもいい時代に説教学を日本に打ち立てて行かれたのである。私が改めて感心させられるのは、福音書のすべてについて、先生は説教集を刊行されていることである。もちろん、他の部分でもたくさんの説教集を出されているが、福音書の全体を説教集として出されている例は、日本ではほかには存在しないのではないか。
 さて、「聞き書き」して出されたこの本は、加藤先生を知るうえで、貴重な資料となるであろう。先生の息遣いや、人柄がにじみでているし、先生の伝道の生涯の中で、どんな恵みの多い出会いがあったか、それが先生の説教を生み出し、そのほかの著述や先生の神学を形作っていったかを知ることが出来よう。
 説教塾での先生の指導は、厳しいものである。うちのめされそうになった体験をした牧師たちも多いのではないか。しかし、先生の願いは少しでも牧師たちの説教が改善できることであり、日本の伝道が少しでも進展することなのだ。

2018年11月8日木曜日

―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」        


―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」
         発行所 日本キリスト教団出版局
著者 K・バルト、E・トゥルナイゼン
訳者 加藤常昭
発行 2006210日 
        (定価):(オンデマンド版)(3100+税)
 前半は、カール・バルトの説教論、それを補うように後半は、エドアルト・トゥルンアイゼンの説教論となっている。二人は、「神の言葉の神学」といわれる立場の同志であり、改革派ではあるが、宗教改革の神学に立つということができよう。
 説教とは何なのか、説教はいかにあるべきか、そして、実際にどのように説教すべきかが示されている。加藤常昭先生の訳であり、加藤先生の訳者あとがきから読むのが分かりやすいのではないか。私は、そのあとトゥルナイゼンの「説教の始め方、進め方、終わり方について」という終わり近い所から読み進めたが、偶然にもそれで分かりやすく読めたのではないかと思う。
 そこでは、奇をてらった技巧を弄するのではなく、淡々と聖書講解に徹して説いてゆくのがよいとあり、なるほどと頷かされたものである。派手な説教をする必要はないのである。十分に調べた釈義に基づいて、黙想から得られたみ言葉の精髄を語って言えばよいのである。
 それから、最初のページに戻って、バルトの説教論を読み進めた。バルトは、説教はやはり、明確な文章にして臨むべきだと、終わりの方で解いている。
 メモによって、原稿は見ないで説教するということが、一般によく聞く説教の方法であるが、バルトは、きちんと原稿を書いて、説教壇に立つことを勧めている。
 説教とは何なのか、どういう風に、歴史的に考えられてきたのか。神の言葉の神学からは、「神の言葉の説教」が「神の言葉である」と言えよう。神の言葉を、説教者は語るのである。それは、不可能に近いことであるが、それを、説教者は、黙想と釈義などによりながら、週ごとにそのわざに仕えるのである。
 トォルナイゼンは、カトリックの神学と宗教改革の神学との違いを、後半の終わり近くの「説教の課題 Ⅱ」で強調している。神の形(イマゴ デイ)は、カトリック神学では、完全には失われていないと考えるのに対して、宗教改革者たちは完全に失われていると見ている。それは、カトリックとプロテスタントとの対話が進んできた現在はどうなのであろうか。信仰義認に関する共同宣言は既になされているが、微妙な違いがなお残っているということなのか。いずれにしろ、神が人間のする説教をご自分の言葉として用いて下さるのである。