2018年11月8日木曜日

―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」        


―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」
         発行所 日本キリスト教団出版局
著者 K・バルト、E・トゥルナイゼン
訳者 加藤常昭
発行 2006210日 
        (定価):(オンデマンド版)(3100+税)
 前半は、カール・バルトの説教論、それを補うように後半は、エドアルト・トゥルンアイゼンの説教論となっている。二人は、「神の言葉の神学」といわれる立場の同志であり、改革派ではあるが、宗教改革の神学に立つということができよう。
 説教とは何なのか、説教はいかにあるべきか、そして、実際にどのように説教すべきかが示されている。加藤常昭先生の訳であり、加藤先生の訳者あとがきから読むのが分かりやすいのではないか。私は、そのあとトゥルナイゼンの「説教の始め方、進め方、終わり方について」という終わり近い所から読み進めたが、偶然にもそれで分かりやすく読めたのではないかと思う。
 そこでは、奇をてらった技巧を弄するのではなく、淡々と聖書講解に徹して説いてゆくのがよいとあり、なるほどと頷かされたものである。派手な説教をする必要はないのである。十分に調べた釈義に基づいて、黙想から得られたみ言葉の精髄を語って言えばよいのである。
 それから、最初のページに戻って、バルトの説教論を読み進めた。バルトは、説教はやはり、明確な文章にして臨むべきだと、終わりの方で解いている。
 メモによって、原稿は見ないで説教するということが、一般によく聞く説教の方法であるが、バルトは、きちんと原稿を書いて、説教壇に立つことを勧めている。
 説教とは何なのか、どういう風に、歴史的に考えられてきたのか。神の言葉の神学からは、「神の言葉の説教」が「神の言葉である」と言えよう。神の言葉を、説教者は語るのである。それは、不可能に近いことであるが、それを、説教者は、黙想と釈義などによりながら、週ごとにそのわざに仕えるのである。
 トォルナイゼンは、カトリックの神学と宗教改革の神学との違いを、後半の終わり近くの「説教の課題 Ⅱ」で強調している。神の形(イマゴ デイ)は、カトリック神学では、完全には失われていないと考えるのに対して、宗教改革者たちは完全に失われていると見ている。それは、カトリックとプロテスタントとの対話が進んできた現在はどうなのであろうか。信仰義認に関する共同宣言は既になされているが、微妙な違いがなお残っているということなのか。いずれにしろ、神が人間のする説教をご自分の言葉として用いて下さるのである。











 


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