2020年2月17日月曜日

「腹を立てるな」という教え(日曜のお話の要約)

顕現第6主日礼拝(2020年2月16日)
申命記30:15-20    Ⅰ コリント3:1-9 マタイによる福音書5:21-26

 自分で自分の信仰的限界を決めてしまいがちな方の決まり文句に「こんな私でもイエス様は愛してくださる」という言葉があります。もちろんこれは真理ではありますが、一つ間違えれば信仰の乱用となります。出来ない自分に開き直ることで、自分で自分のクリスチャンとしての成長を止めてしまうのです。
 イエス様は私たちが何者であっても受け入れてくださいますし、どれだけ失敗を重ねても変わらず愛してくださいます。しかしキリスト者として成長する努力をやめてしまいなさい、とは仰らないのです。私たちは生涯、イエス様の教えに従って、人として相当にハードルの高い教えに向かって、挑戦を続けなければならない存在なのです。

 その難しさの極みが、本日の「腹を立てるな」という教えかもしれません。「そんなの無理」と初めから決めてかからず、これを私たちにお教えになったイエス様のお気持ちを考えながら、聖書に聞いてまいりましょう。

 本日読みました箇所の「腹を立てる」という言葉を新約聖書のギリシャ語で見てみますと、「満ちたれる」という言葉が出てきます。
 「満ちたれる」。具体的に考えてみると、教会の仲間に対して、満ちたれることを望むことです。満ち足りた集まりになるのは良いことかもしれませんが、そのために、誰かに向かって「ねえ、もっとできないの」と言い始め、「なんで、できないの」とイライラする状態に変わってしまう。これがすでに腹を立てている、という状態だと言うのです。

 人の欠けたところ、足りないところを指摘して改善してあげたいと思う時、実は自分が満ち足りたい、つまり満足したいために指摘して、それが達成できないのでさらにイライラすることが多いのです。子育て中の親御さんなどによく言われることですが、この構図は教会の中でもぴったり当てはまります。
 もちろんこれは何でもかんでも好き勝手にやらせて注意もせず、放置しておけばいい、という意味ではありません。互いに過ちを犯したら適切にブレーキをかけ合う工夫は必要なのです。ここが難しいところです。

 イエス様の言われるのは、自分の理想を押し付けたり、自分の考えが最高で相手の意見は愚かだと決めつけて、勝手にイライラすることを改めないなら、あなたのクリスチャンとしての成長はありません、ということなのです。

 そもそも「ばか」とか「愚か者」と言われて嬉しい人などこの世にはいません。だからこそ「ばか」と言うものは「最高法院」に引き渡され、「愚か者」と言うものは、火の地獄に投げ込まれるといわれるのです。
 現代の私たちは小さい頃から道徳教育を受け、「お友達にバカと言ってはいけませんよ」などと教わります。欠点を補い合うことや、知的に障害がある方達の人権を保障しなければならないことも知っています。それでも知っているだけで、なかなか身につかないものです。
 ましてやイエス様が活動しておられた時代は今から2000年前の古代社会です。身分の高い人が自分の使用人や奴隷に対して、気分次第で「ばか」とか「愚か者」と怒鳴るのはごく当たり前のことだったでしょうし、仕事場で先輩が後輩に偉そうに振る舞うのも普通の事だったでしょう。
 身体障害者は神様に呪われた存在として偏見の目に晒されましたし、知的障害を持った人々を面と向かって侮蔑の言葉で呼ぶなど、普通のことだったはずです。
 こんな状態の社会だったからこそ、イエス様はご自分の弟子たちに、どんな人にも人として守られるべき尊厳があることを厳しい言葉で一から教える必要があったのです。

 イエス様は、神様の喜ばれる教会というものは、社会的立場や生育歴、受けてきた教育のレベル、個人的な頭の良し悪し、障害と呼ばれるもののあるなし、そう言った要素の一つ一つが異なる人々が集まって形成していくものであり、互いの違いを受け入れ合うことで、より豊かになっていくとご存知だったからです。

 本日の第二の日課、第一コリントの中には、「硬い食物」という言葉が出てきました。困難な教えに挑戦していくことが「硬い食物」を咀嚼(そしゃく)することなのです。自分にとってできそうもない教えだからと無視し続けるなら、いつまでもお乳を飲み、離乳食を食べている赤ちゃんのようなクリスチャン、ということになります。
 
 教会において、思いもかけない人々と出会い、以前の自分では考えられなかった価値観に目覚めていくことがあります。そこにキリスト者としての醍醐味があります。いたずらに腹を立て、相手を拒絶することは、それら全てを台無しにします。感情に振り回されて必要以上に怒ることは人生の時間の浪費に他なりません。イエス様はあなたや私が憎しみや怒りに捉われて、一生をイライラと過ごすことを望まれるわけがないのです。
 
 そして最後に一つだけ。人生の中で、不条理なことが起こった時、私たちは神様その方に腹をたてることもあります。神様が私を愛しておられるのなら、なんでこうなるのかと怒りをぶつけたくなるかもしれません。しかし苦難の中にあっても、本当にとことん自分は神様に愛されている、そう思い出すなら、人は苦しみの中にも喜びを見つけることができます。そのように作られているのです。
 怒りがどうしても抑えられず、心の整理がつかないときには、直接神様に申し上げましょう。決して綺麗な言葉でなくて良いのです。それが祈りになります。神様は必ず耳を傾けてくださいます。
 この世の人々からは呑気な楽観主義者と馬鹿にされても、この生き方を選びとっていきましょう。


教会の隣の空き地に小さなオレンジ色の花が咲いています
「冬知らず(カレンデュラ)」というそうです
妙に暖かくて調子の狂う冬でも
元気に咲いています

2020年2月10日月曜日

地の塩、世の光(日曜日のお話の要約)

顕現第5主日礼拝(2020年2月9日)
イザヤ58:1-9a    Ⅰコリント 2:1-12 マタイ福音書 5:13-20

 塩というのは、大昔から人間いとって欠かせないものでした。
 日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代の終わりから弥生時代にかけて、つまり紀元前400年ごろのようです。
 兵隊のことを英語では、ソルジャーといいますが、元は給料を塩で貰っていたということから。また給料をもらって働く人のことをサラリーといいますが、これもラテン語で、「塩」という意味です。古代から、働いた報酬として「塩」が与えられました。料理だけでなく、防腐剤や、消毒剤となる貴重なものであることがわかっていたからです。

 つまりは、塩というのは、私たちのすぐ身近にあり、日常生活のあらゆる面で決して欠かすことができない、そのような存在なのです。
 
 本日の福音書でも、塩というのはそのような存在としてイエス様の例えに登場します。「地の塩」というのは、もちろん地面に落っこちた塩という意味ではなく、この世の中の人々と共に存在していて、たとえ少数派であっても、その社会が腐らないように、批判する精神を持っている人のことを指しているのです。

 批判的精神というと、あまり良い印象がないかも知れません。人が一生懸命やっていることを、なんだかんだと言ってくる口やかましい人間。そんなイメージが浮かぶからです。あの人の一言で何もかも台無し、ということもあるでしょう。
 しかし、そのような皮肉屋と、イエス様のいう地の塩、つまり批判精神をもっている人とは根本的に違うところがあります。皮肉屋は少なからず「人を凹まして喜ぶ」ところがあります。どうだ俺の意見は正しいだろう、と言いっぱなしで踏ん反り返るのです。
 しかし正しい批判精神をもっている人は違います。自分の批判的な一言で人が凹むのを苦しみをもって見守ります。踏ん反り返るのではなく、たとえ嫌われても、正しい方向は何なのか共に考え、痛みを共有しようとします。そこに「愛」があるのです。

 キリスト者は何のためにこの地上に存在し、誰と共に生きていくよう命じられたのかということを改めて思い出さなければなりません。弱いものと生きていく、小さきものと生きていくということが、神様から求められていることなのです。
 
 私たちがなぜこの教会に集められ、日曜ごとに共に祈りの時を持つのかと問われるならば、小さな集まりの中でボスザルのように権力を持つためではありませんし、単に自分に優しくしてくれる人に依存じたり甘えたりするだけの場所でもありません。
 何よりも、神様が出合わせ、結びつけてくださった集まりの中で、神様の望みと導きに従って、日々誰かに寄り添い、また寄り添われながら、互いが互いにとって欠くことのできない塩となって歩んで行くことなのです。
 
 また、イエス様は、「あなたがたは世の光です」とおしゃってくださいました。もちろんイエス様ご自身は真実の光であり、又、神ご自身も光です。その御方があなたがたも同じく「光」だと言ってくださるのです。あなたがイエス様の招きに応じた時から、あなた自身がどう思おうとも、すでに神の栄光の光に包まれているのです。

 自分が地の塩であり、世の光であることに自信を失う時、聖書と祈りに立ち返りましょう。聖書に記された歴史から、詩編に記された言葉から、多くのことが学べます。預言者の言葉も、そして、新約聖書に移った、イエス様の言葉も、弟子たちの言葉もパウロの言葉、ヨハネ黙示録からも、私たちが何かを学び取るために、私たちに読める言葉として神様が与えてくださいました。信仰を増し加えるために、聖書を素直に学ぶだけなのです。素直に学ぶことで、神様の言葉が蓄えとなり、どんな世の中にあっても生きていくことができるのです。
 泣きたいことを祈りにし、かなしみを讃美の歌に変えていきます。世の中から変人だと言われても構わないのです。それが私の生きる道であり、神様が備えて下さった生涯なのです。

 たとえ、半べそをかきながらでも、主イエスと共に、寄り添うわれながら生きることを喜びとし、周りの人々に誤解されても、やり通すという立派な行いを決して曲げず、いつの日か、この教会に関わる人、この園に関わる人が天の父、神様をあがめるようになることを祈り続けましょう。
 この私たちが、この教会ができることを正しく批判的な言葉と眼差しを持って判断し、次の世代につなげるために、塩のように光のように仕えていきましょう。


先週の土曜日、幼稚園の年長児の降誕劇が「役がわり」で行われました
なぜこの時期に?とお思いでしょう
役を取り替えて遊んでいるうちに、たくさんの人に見ていただける
レベルになったため、急遽礼拝堂での公演の運びと相成ったのです
お家の方もたくさん来てくださり、楽しいひと時となりました




2020年2月6日木曜日

2月の土曜学校を行いました

2月1日(土) 9:30〜11:30
土曜学校(土曜日に行う教会学校)10回目です

日頃お話や歌を担当する優子が風邪の後遺症で声が出にくく
工作指導に専念することにして
お話は牧師が担当
小さな指人形の犬と紙芝居の「コロちゃんのお家」を組み合わせて
ゆっくりでも心を込めてやることを神様が見守ってくださっているというお話でした

工作はアルミの空き缶に目打ちで穴を開け
ロウソクを入れてランタンにするというもの
幼稚園の先生方にアルミ缶を持ってきていただき(晩酌済み😅)
口の部分を切り取ってゴールドのスプレーを吹く、とここまでが
前もっての作業
当日はウエスをギュッギュッと詰めて
目打ちで穴を開けても缶が凹まないようにして
前もって準備した下絵をマスキングテープで止めます


怪我しないように注意しながら
下絵に沿ってコツコツと穴を開けていきます



さて、作品は…




下絵を自由に書いて作ってくれました
十字架のランタンが出来上がりました


恒例の「全員並んで記念写真」を撮りそびれてしまいましたが
みんな誇らしげに作品と一緒に写ってくれました
オマケに渡した小さなキャンドルを入れて
お家で灯してくれたかな



次回は牛乳パックで器を作って
造花でフラワーアレンジっぽいことを楽しみます
ちょっと早いけど「イースターのお祝い」がテーマです

2020年2月4日火曜日

山上の垂訓(日曜のお話の要約)

顕現第4主日礼拝・聖餐式 (2020年2月2日)
ミカ6:1-8    Ⅰコリント 1:18-31 マタイによる福音書 5:1-12

 本日の福音書は、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも記されている、イエス様の説教集と言われている箇所です。
 ここでイエス様は有名な祝福の言葉を語ります。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」
 「心が貧しい」というのは、よく「謙遜」な状態と誤解されますが、そうではありません。「謙遜にしていたら神様がご褒美に天国に入れてくれる、という教えではないのです。
 「心が貧しい」とは褒め言葉ではありません。自分の心の中に、褒められるべきものが全く全然ない。そんな人々のことです。そういう人々は、この世では嫌われ者で、ピンチに一行ったとき助けてくれる人はいません。苦しいとき、困ったとき、神様の救いに寄り頼むしかなく、最後の望みとして天の国を求めるしか救いがない。そういう意味です。
 「心が貧しい」という状態、今の自分がそうである。そう気づいた人が自分に絶望して、イエス様にすがる時、イエス様は決してお見捨てにならないから、幸いだ、というのです。

 聖書の教えは、その教えに愚直に従えば従うほどに、信じる人々に喜びや繁栄をもたらす仕組みになっています。自分の欲望を優先させず、神様の御心に従って、愛と平和を目標し、それぞれに謙虚になって分け隔てなく生きていこうとすれば、自ずと祝福された社会が形成され、恵みが集まります。
 しかし、ヨーロッパやアメリカでクリスチャン人口が多いにも関わらず、キリスト教が誕生して2000年経っても、今だに恵に満ち溢れた社会にはなっていません。教えの内容がどれほど素晴らしくとも、権力者が教えを軽んじて自分を律することをせず、思うままに政治を行おうとすれば、あっという間に宗教はただの飾りになってしまいます。

 旧約聖書の列王記には、ユダヤ人の信仰の象徴である神殿が建設される様子と、その後の堕落の様子が記録されています。
 イスラエルは3代目の王であるソロモンによって神殿が建設され、栄華を極めましたしかしソロモン王は国を安定させるために政略結婚を繰り返し、異国から嫁いできた妻たちがそれぞれの国の宗教を持ち込み、異国の神を祀る神殿があちらこちらに建てられたそうで、肝心のイスラエルの神への信仰がないがしろになっていきます。
 結果としてソロモン王の次の代でイスラエルは南北に分裂し、後々まで大変な苦しみを背負うことになってしまうのです。

 また、キリスト教の歴史においては、ヨーロッパ社会で権力を一手に握っていたカトリック教会が、方向性を間違えて堕落します。500年前の宗教改革は、それをを見かねて始まったことでした。

 一方、私たちの住む日本は、1549年のキリスト教伝来以来、繰り返し迫害が起きました。江戸時代にはほとんど絶えてしまって、わずかな人々が隠れて生き残っただけでした。キリスト教の教えを信じ、素直に信仰を全うすようとすれば、命を失うしかなかったのです。
 今は信教の自由が認められていても、仏教や神道以外の人々が生きにくい社会の仕組みが出来上がっているので、キリスト教人口はなかなか増えていきません。

 私たちにも身に覚えがあると思いますが、少ない人々が一生懸命維持しようと努力した場合、努力が空回りして仲違いに発展することも多くあります。何しろクリスチャン人口が少ないので、一旦関係が悪くなれば紛らわす方法がありません。そこで、教会に行くことも、礼拝に出ることもやめ、自分勝手な信仰スタイルを作り上げてしまう人も多いのです。

 クリスチャンは、その人口が多い国々では権力と結びついて堕落し、少なくても仲間同士で意見が合わずに崩壊する。
 人間の罪はどれほど深いのだろうと、考え込んでしまいます。

 しかし、だからこそ私たちが信仰に生きるために、日々聖書を学ぶのです。そこには信仰の危機がどうして起こるのかをはっきり記されているからです。それを自分のこと、自分達のこととして、一人一人が読み続けていく必要があります。

 私たちは、イエス・キリストが十字架の死を味わってまでも救いへと招いてくださった一人一人だということを忘れてはなりません。イエス・キリストの教えに「一足飛び」はありません。どれほど時間がかかるように思えても、「うさぎとかめ」の亀のように、一つ一つの出来事に感謝しつつ、信仰を積み重ねながら前へ前へと進んでいく必要があります。
 私たちがなすべきは「うさぎ」と競うことではありません。自分に与えられた時間と業を用いて、イエス様が待っておられるゴールに向かって、ひたすら誠実に歩んで行くことだけなのです。
「もしもしかめよ、ここにいるキリスト者よ」
 神様からの愛の言葉をゆっくり聞こうではありませんか。


 聖書を通して語られる神の言葉を大切にしながら、日々の歩みを、キリストに捧げながら、キリスト者として歩んで参りましょう。



先日の土曜学校の作品です
アルミ缶に穴を開け、ランタンにしました
Nちゃんに「自由にデザインしていいよ」と言いましたら
十字架のランタンを作ってくれました
彼女の心にイエス様の明かりが灯りますように