2024年4月29日月曜日

「イエス様はまことのぶどうの木」(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2024年4月28日)(白)

使徒言行録8章26~40節(228) 

ヨハネの手紙Ⅰ4章7~21節(445)

ヨハネによる福音書15章1~8節(198)


 イエス様のお話には、二つのものを対比させる例えがよく出てきます。麦と毒麦のたとえとか、放蕩息子と兄の話などを話されました。それで今回のお話「まことのぶどうの木」について考えるとき、もしかしたら「まことのぶどうの木」に対して「偽物のブドウの木」というものが世の中に存在するのだろうか、と思い、時間をかけて調べてみました。


 しかし、いろいろ調べてみても「毒を持った偽ブドウ」というものは見つけられませんでした。ただ調べているうちに、ワインに関する興味深いホームページに辿り着きました。それによるとパレスチナには120品種もの固有種のブドウがあり、そのうちワイン造りに使えるブドウが20品種もあるのだとか。


 しかし、イエス様の時代、赤と白とか、甘口・辛口などの区別はしても、特定の品種からワインを造っていたわけではないらしいのです。ぶどうに向いた品種を見定めさえすれば、ざっくりした手入でも産地の強みでそこそこのぶどうが実り、良いぶどう酒ができたのでしょう。


 ただ、ざっくりしすぎた場合、「毒ぶどう」とまで行かなくても、使い物にならない、まずいぶどうしかできないこともあったはずです。旧約聖書にも新約聖書にも、農夫たちが手入れを怠ったために酸っぱいぶどうが実ってしまった、という記述があります。ちなみに、酸っぱいぶどうというのは神様への不信仰の例えとしてよく使われます。


 さて、先ほどからお話ししている通り、イエス様はご自分の事を「まことのぶどうの木」と言われました。この木は神様が決して手を抜かず、愛情込めて手入れなさる木です。イエス様は言われます。私に繋がっていなさい、そうすれば神様につながっていることになり、世話をしていただけて、豊かに実を結ぶことができます、とイエス様は呼びかけてくださいます。


 ところで皆さんはこの「まことのぶどうの木」はどのような姿をしていると思われますか?私がイメージするその木は、一見平凡でぶどう畑の中で特別目立つわけでもなく、近寄り難い神々しさもない。あちらこちら傷ついて、厳しい気候に耐えてきたことが想像できる無骨な木です。ただ、よくよく見ればその木には無駄なところがなく、心を込めて手入れがされていることがわかるのです。


 使徒言行録8章で朗読されているイザヤ書53章にはメシアの姿が描かれています。救い主は「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」人物です。預言者イザヤの描き出す救い主は神々しいお姿で人々の上に君臨するのではなく、ひどく傷つけられた姿で登場します。軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、最後には捕らえられ、裁きを受けて、殺されるのです。

 

 しかしこの人物は自らを神様への献げものとすることで人々の罪が神様に赦されたことを知って満足するのです。5節には「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と記されています。 


 神様は罪人である私たちを救うためにイエス様に使命をお与えになり、イエス様ご自身も救い主としてそれを受け入れられます。イザヤ書のこの部分は、鞭打たれボロボロになって十字架の上で死なれたイエス様に重なるのです。 


 だからこそ、私はイエス様が「私はぶどうの木」とおっしゃるとき、ボロボロだけれど力強いぶどうの木を思い浮かべるのです。その木の幹には痛々しい傷が残っているけれど、神様の愛で癒され、手入れが施されているのです。そのぶどうの木、イエス様が自ら枝を差し伸べ、豊かに実を結ぶために、私に繋がりなさい、と呼びかけてくださるのです。


 ではイエス様の言われる「豊かな実り」とは何だと思われるでしょうか。イエス様につながっているというのは、苦難の時もイエス様の元を離れず、何があっても信頼し続ける、という意味です。その結果得られる成果を「豊かな実り」と呼ぶことができるでしょう。


 ガラテヤの信徒への手紙5章には、神様に導かれ、繋がり続けた人々が結ぶ実として「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と挙げられてています。これは、神様に育てられた人々が獲得することのできる長所、良いところと言えるでしょう。


 これに対し、神様に導かれることを拒む人々は「敵意」や「争い」、「そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」しか得られないとも書かれています。私たちがどちらの実を実らせたいか、言うまでもないと思います。


 ただ、わかっていても、どんな時も強く深い信仰を保ち続け、神様の導きを疑わないで従っていくのは難しいことです。しかし最初から「できない」「難しい」と言い切ってしまうのもイエス様を悲しませる発言です。なぜならイエス様は私たちの弱さを理解しておられるからです。

 

 イエス様は今日読んだ聖書箇所には「あなたがた」という言葉を何度も何度も使っておられます。私たちに向かって「あなたがた」と呼びかけ、「どんな時も、孤独に耐え忍びなさい」というのではなく、あなたのそばには私が招いた他の人々がいる、その人々と一緒に繋がり続けなさい、とおっしゃるのです。


 イエス様という力強いぶどうの木は、神様によって完璧に手入れが施されています。そのぶどうの木に繋がり、仲間と共に良き実を実らせようとする姿は、イエス様の望まれる信徒の集まり、この世の教会の姿そのものなのです。



5月の土曜学校は第1土曜ではなく第2土曜に行います

ギリギリですが、母の日のプレゼントを作ります



おかずカップと紙コップを使います
なんとなくカーネーションに見えるでしょう?

2024年4月21日日曜日

「イエス様は良い羊飼い」(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2024年4月21日)(白)

使徒言行録 4章5~12節(219) 

ヨハネの手紙Ⅰ 3章16-24節(444)

ヨハネによる福音書 10章11~18節(186)


 日本で生活していると、羊を目にすることはあまりありません。まして羊の群れが羊飼いに導かれている様子を見ることは、よほどの規模の観光農場にでも行かない限り、ないと思います。


 私は神戸教会の牧師をしていた時、幸いなことに、六甲山牧場で羊の世話係の方が羊を導いている様子を見せてもらったことがあります。彼の合図に従って羊の群れが坂道を駆け降りて小屋に戻ってくる様子はかなりの迫力で、うっかり跳ね飛ばされたら大怪我をしそうな勢いでした。羊は群れの仲間が見える場所だと、安心して草を食べるそうですが、一頭がパニックに陥ると群全体で突然暴走を始め、なかなかコントロールできないので、初心者がヒツジの番をするのは難しいそうです。


 よくヒツジは視力が悪い、と言われるのですが、それは私たちが考える近眼というのとは少し違うそうです。ヤギや羊の瞳は横長の楕円形をしています。これによって、羊は振り向かなくても自分の背後を見ることができます。その反面、対象を立体的に見る能力が低くて、影や地面のくぼみを見間違え、ひるんで先に進まなくなることがあるそうです。ですから、目に前のちょっとしたくぼみが深い穴に見え、勘違いで動けなくなったりパニックになったりするのです。


 まあ、そんな羊たちを守るのが羊飼いの仕事です。現代の日本では農場で飼われている羊を襲って食べる動物はほとんどいないはずですが、聖書の舞台であるパレスチナ地方では、今でも羊の群れが餌を求めて移動しますから、羊を狙うオオカミやハイエナ、狐、そのほか野生の獣と遭遇します。旧約聖書の時代、羊飼いはパニックに陥りやすい羊を落ち着かせながら、原始的な武器を用いて襲ってくる野獣と戦い、時には羊を盗みに来る泥棒とも戦って群れを守ったのです。


 とはいえ、全ての羊飼いが全力で羊たちの命を守ってくれる訳ではありません。本日の聖書箇所でイエス様が言っておられるように、雇われ羊飼いの中には「羊を置き去りにして逃げる」人々もいたのです。仕事と割り切って羊を世話しているので、羊を守るために命まで投げ出すほどの愛情も熱意もない、というわけです。


 ですから、イエス様はここであえて「良い」という言葉をつけて「良い羊飼い」という言い方しました。「羊のために命を捨てる覚悟があり、またそのように行動する羊飼い」を「良い羊飼い」と呼んだのです。


 この「良い羊飼い」という言葉を聞くと、多くの方が旧約聖書の詩篇23編を思い浮かべるでしょう。そこに描かれている情景は、さらっと読むだけなら牧歌的で美しく、神様に導かれて幸せだなあ、というイメージです。しかしよく読みますと、「死の影の谷を行く」とか「私を苦しめる者」という言葉が出てきます。羊飼いに導かれる羊の群れは、決して花の咲き乱れる野原を、何事もなく平和にのんびりと歩いているのではないのです。どれほど優秀で優しい羊飼いに導かれていても、絶望や恐怖を味わうことはあるし、危険と縁が切れるわけではないのです。


 しかし羊飼いは何があっても群れの羊たちを愛しているので、命懸けで、時には自分が傷つき命を落とすかもしれない状況も嫌がらないで、守ってくれます。それを信じるからこそ、羊たちは「死の影の谷」、つまり絶望や恐怖の中を羊飼いと共に潜り抜けますし、自分に危害を与える存在が目の前にいても、安心して食事をすることができます。


 イエス様は、ご自分がこの良い羊飼いである、と断言されます。そして、ご自分の呼ぶ声を聞いて、信頼してついてくる羊とはあなた方だ、教会で礼拝をしてみ言葉に耳を傾けている、まさに君たちなのだ、と言ってくださるのです。


 ここにいる私たちの多くは洗礼を受けてイエス様の羊の群れに加わりました。洗礼を受けたときはよく分からなくても、キリスト者としてイエス様に導かれて「死の影の谷を行く」年月を積み重ねるうちに、イエス様個人と心のつながりが確実に強くなり、離れることなど考えなくなるのです。


 ではイエス様は羊である私たちを、危険から庇いながら、どこに導こうとしておられるのでしょうか。それはイエス様の父のもと、つまり神様の元であり、天の御国なのです。どれだけ苦しくても、あなた方の人生は死んでお終いになるのではない、そう約束して天国に導いてくださるのです。

 

 こんなことを言うと、厳しい修行に耐えなければキリスト者として成長できないのかなあ、人生もっと楽しく楽に行きたいのになあ、とうんざりされるかもしれません。しかし、キリスト者として長くイエス様に従ってきた羊であれば、知っていることがあります。私たちの人生はどんな道を選んでも苦悩も苦労もある、ということです。


 順調に見えても心のうちは孤独であったり、自力では引き返せない過ちの深みにはまり込んでしまったり、誰にも頼れないで寂しい思いをしていたり。


 それを経験的に、あるいは本能的に知っている私たちはイエス様に信頼を寄せ、ついていきます。そしてまだイエス様の元に来ようとしない羊たち、イエス様のおっしゃる「囲いの外にいる羊たち」を呼び寄せ、苦しみや迷いから解き放ち、一つの群れになるために、さまざまな方法を考え、共に学び、共に祈る、そのために私たちは教会に集まるのです。


 囲いの外にいる羊を導く、これが伝道です。これをしない限り教会員の数は決して増えません。伝道とは牧師だけがやればいい、というものでもありません。私たち一人ひとりが囲いに入っていないほかの羊たちに、イエス様の思いを、イエス様の声を届けるために、自分の思いと力を使って、小さなことであってもありとあらゆるチャンスを捉えて積み重ねていくのです。イエス様は命をかけて私たちをここに集め、あなたたちならできる、と語りかけてくださったのです。


 「イエス様は良い羊飼い」私たちはこの思いを胸に刻んで、私たちのために命を捨ててくださったイエス様に信頼し、死の影の谷を共に通り抜けてまいりましょう。


土曜学校の写真
もう一枚貼っておきますね
可愛い笑顔でしょう?


2024年4月15日月曜日

「復活したキリストの願い」日曜日のお話の要約

復活節第3主日礼拝

園職員教会学校教師就任式(2024年4月14日)(白)

使徒言行録 3章12-19節(218) 

ヨハネの手紙Ⅰ 3章3-7節(443)

ルカによる福音書 24章36b-48節(161)


 日曜日はなぜお休みなのでしょうか。何千年も前に書かれた旧約聖書の時代にはすでに一週間に一度休みが設けられており、正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで、労働を休んで神様としっかり向き合う日とされています。これは今でもユダヤ人の生活の中にしっかり根付いています。


 この週に一度のお休みの日が土曜日から日曜日になったのは2000年前、イエス様の時代になってからです。イエス様が十字架にかかって亡くなり、蘇ったのが日曜の朝で、この日を記念したのが復活祭、イースターであり、ヨーロッパにキリスト教が日曜が広まっていくと、この考え方が定着していきます。つまり、日曜がお休みになったのはイエス様の十字架と復活からなのです。


 イエス様の最初の弟子たちはほとんどがユダヤ人でしたが、イエス様が神様だと納得してからは、土曜ではなく日曜日に仕事を休んで礼拝を守るようになりました。日曜日が休日でなかった時代に仕事を休むことは大変なことでしたが、イエスの復活を記念して、神様に感謝しながら礼拝を守り続けました。


 4世紀になると当時大国だったローマ帝国が迫害から一転してキリスト教を国の宗教として認め、礼拝を守るため日曜日を休日に定めました。ずーと思い煩って仕事をするよりも、安息の日を定めて神様と自分に向き合う方が人として健康的だと定着したのかも知れません。「キリスト教は日曜日が休日だから礼拝するのではなく、最初の弟子たちの、イエス様を崇める強い思いが日曜日を休日とさせたのです。」


 さて、では最初のイースターについて、聖書にはどんなふうに記されているかご一緒に見てみましょう。


 本日読みました聖書、福音書の箇所は、十字架の死から復活したイエス様が、それを信じられない弟子たちのところに現れた場面です。


 イエス様は以前から「十字架にかけられて死んでも三日目に蘇る」と弟子たちに語っておられました。しかし弟子たちはそもそもイエス様が捕えられて犯罪者のように処刑されるなどとは信じられませんでした。


 イエス様は天の国から来られた神様の独り子ですから、権力者が駆け引きを続ける複雑な古代イスラエル社会にあっても、真っ直ぐに愛や希望や信仰を語り、真っ先にご自分が実践されました。権力者たちはイエス様の活動を妨害しようとしましたが、イエス様はことごとく言い負かされました。それで弟子たちは、この方は絶対負けない、いずれ王様になって、世直しをしてくださる方だ、その時は自分も一緒に出世できるだろう、とまで考えていたのです。


 そんな勘違いをしていたものですから、イエス様が本当に十字架にかかった時、あまりの恐怖と絶望に衝撃を受けます。そして中でも12弟子と呼ばれる中心的な男の弟子たちは隠れ家に閉じ籠りました。イエス様の仲間とバレれば自分達まで十字架にかけられるかもしれない、と怯えたのです。イエス様といたときは気が大きくなって、何でもできそうに思ったのに、今やすっかり情けない姿になってしまいました。


 しかしイエス様は弟子たちの心がそんなふうに折れてしまうことをちゃんと理解しておられました。イエス様は弟子たちが扉を固く閉めて誰にも入れないように閉じこもっている家の真ん中に入って来られます。そして「あなた方に平和があるように」と声をかけられたのです。


 彼らがどれほど驚いたかは、今日の聖書に書いてある通りです。弟子たちがなかなか信じられないので、イエス様はご自分が亡霊や幽霊でないことを示すために、焼き魚を召し上がった、というのはなんともユニークな感じがします。


 イエス様はご自分の復活を弟子たちに納得させるために、決して難しい言葉を重ねたり、魔法のような力を示したりするのではなく、一切れの焼き魚を召し上がることで証明なさったのです。


 45節には「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれた」と書いてありますが、「聖書を理解できるようになる」ということは、特殊な方法を用いなければ無理、ということではないことがよくわかるのです。


 「心の目を開く」というのは抽象的な表現です。私たちは溢れるような情報の中に生きていて、騙されないように、間違えないように、何かと懐疑的に生きています。自分の目に見えるものでさえ、信じられないことがあります。そういった毎日を送っていると知らず知らずのうちにキリスト教に対しても疑い深くなり、聖書に書かれていることも皮肉な目でしか見られなくなり、素直に受け取れなくなってしまうのです。


 そういった「疑い」や「先入観」が私たちの目を塞いでいます。しかしイエス様は私たちが心折れている時にはそばに来てくださり、日常の中に愛や優しさを注ぎ込んでくださいます。怯えた弟子たちを納得させるために、焼き魚を食べてみせた、そんな素朴な愛で私たちを包んでくださるのです。


 祈りつつ繰り返し繰り返し聖書を読んでいると、ある時何かがストンと納得できることがあります。それは、聖書を理解するのに最も大切な「イエス様への素直な心」を手に入れた瞬間です。それをイエス様が自ら与えてくださるのです。その時、あなたのそばにイエス様がおられるのです。



4月13日は4月の土曜学校でした

2週間遅れのイースターのお祝いです


礼拝ではゆうこ先生手作りの紙芝居を見た後

工作とエッグハントという盛りだくさん(?)のプログラム


工作を始める前に

事前に先生がゆで卵をたくさん作っておき

お友達と一緒に、お湯につけるとピタッと張り付くシールで

可愛いイースターエッグを作りました



心の中とやることがバラバラなばらばらくんの物語
みんな真剣に見てくれました

お湯に3秒つけるだけ
昨年もやったけど
やっぱりなんだかおっかなびっくりのみんな

工作は紙皿を使ったゆらゆらひよこ
みんな真剣にハサミを使っています

そうそう、紙芝居は
「一番はじめのイースターとばらばらくん」
バラバの物語を下敷きにしてPCでざっくり作りました
上演は一昨年に続いて2度目で、見てくれるおともだちは
入れ替わりましたが、こんな絵でも(笑)
しっかりお話を聞いてくれます


兄弟で参加したM君とH君
工作と卵を持ってピース!
お揃いのシャツで決まってます



もう一組ご紹介
久しぶりに来てくれたIちゃんとNちゃん
とっても春らしいゆらゆらひよこができました


最後にみんなで「ハッピー イースター!」

2024年4月7日日曜日

「光あるうちに」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・復活節第2主日礼拝(2024年4月7日)(白)

使徒言行録 4章32-35節(220) 

ヨハネの手紙Ⅰ 1章1-10節(441)

ヨハネによる福音書 20章19-29節(210)


 科学や医療が発展した現在、以前は不治の病とされたものでさえ、治療や改善方法も見えてきました。このことで「人間は死ぬもの」という考えを頭の片隅に押しやって、死んだ後に与えられる「永遠の命」を求めなくなったと言われています。


 この世が楽しければ、少しでも長くこの世に留まることを望むのは理解できます。だいぶ前にアメリカ留学から戻った牧師先生から伺った話ですが、「永遠の命」を信じないわけではないが、「天国」に行ったらイエス様に会えるからではなく、クリスチャンである先祖にあえる、教会のクリスチャン仲間に会えるという程度なのです。


 この考えが広がることは日本のキリスト教にとっては大きな痛手です。あの世、この世を教え、先祖代々の仏様を守ることを教えることを美徳とすることは、すでに日本文化の中で当然のこととなっており、死んだらあの世でご先祖様や先に死んだ家族に会える、という考え方はほとんどの日本人に定着しているからです。


 先祖崇拝や初詣をするだけで「仏教徒」を名乗り、必要以上にキリスト教を毛嫌いする方もたくさんおられます。聖書には「天国」もあるけど「地獄」もあるという教えをお話しすると、妙な新興宗教に染まっているように思えるのか、「地獄へ行くなんて「かわいそうじゃないか」と敬遠されるのです。しかし今この瞬間も、たった一つの核兵器のボタンで世界の終わりがやってくるかもしれません。私たちは本当に死と隣り合わせの人生を生きているのです。


 本日の福音書は、イエス様の復活を女性の弟子たちから告げられたにも関らず、権力者たちを恐れて家の戸に鍵をかけた弟子たちの物語です。時はもう夕方になっていました。この時の彼らはイエス様に教え学んだ日々のこと、宣教して人々に喜ばれた日々のこと、イエス様に議論を挑んできた律法学者やファリサイ人をギャフンと言わせた出来事などを思い出していたことでしょう。楽しく豊かな日々は過ぎ去り、イエス様は一人で十字架に掛けられ、自分達は逃げ出した。思い出が楽しければ楽しいだけ、彼らは自分の弱さに傷つき、ふさぎ込んでいました。


 そんな彼らの気持ちをイエス様は誰よりも感じ取っておられました。なんの手順も踏まずに、いきなり鍵をかけた部屋に、落ち込む弟子達の真ん中に立たれたのです。すでに夕方だというのに、その様子は夜明けの光が部屋に差し込むようでした。弟子たちは、明るい光の中で、イエス様の手にあるくぎ跡と深々と開いた脇腹の傷をはっきりと見たのです。

 

 普通なら死んでいるはずのボロボロの肉体のまま、イエス様がそこに生きていたのです。彼らは強い衝撃を受けます。人間によって奪われた命を、神様は新たに与えてくださるということを目の前のイエス様のお姿を見て直感的に悟ったのです。人間は人間によって生きるのではなく、神によって生きるのだということを、心から納得した瞬間でした。


 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」この言葉を聞いた弟子達は、イエス様を地上に送られた神様の意図を理解し、また自分達をお集めになったイエス様の思いも受け止める用意ができたことでしょう。そしてイエス様も、弟子達の決意を部屋に溢れる空気から感じとられたのでしょう。喜びと平安を取り戻した弟子たち一人一人に向かって、イエス様は息を吹きかけ言われました。「聖霊を受けなさい」。

 

 このみ言葉は、神の思いから離れて世界が闇に包まれようとするときにあっても、いえ、そのような時だからこそ、あなた方は神様から与えられた力によって光になったのだということです。人間という、土から出来たものに過ぎない存在が、イエス様によって新たに創られたのです。


 さて復活後の出来事で、24節から、トマスの物語がまるで付け足したかのように始まります。弟子達が復活のイエス様とお会いした時には、そこにいなかった、と「そうそう、忘れてたけどそうだったんだよ」とばかりに記されています。トマスは最初の場にいなかったため、「聖霊を受けなさい」と言われませんでした。そんな彼は仲間はずれにされてひがんだ子どものように「イエス様の傷跡を見ない限り信じない」と宣言します。イエス様がこの世で受けた傷であり、辱めを受け、最後は殺されてしまった、そんな闇の象徴のような傷跡を見たがったのです。そのような状態から生き返ることなんてありえない、と言い放ったのです。


 しかしイエス様は、そのようなトマスの思いを知った上で、またもや弟子達の中心に立たれ、「安かれ」と言われたのです。そして今度は「聖霊を受けなさい」ではなく、「信じなさい」と言われたのです。「見ないで信じる者は、幸いです」という言葉は、「聖霊を受けなさい」と同じく、力強い言葉なのです。


 イエス様の弟子達は、エルサレムを拠点に宣教を始め、あるものは伝道旅行に出発しました。その中で一番遠く、今でいうインドまで旅をしたのがこのトマスと言われています。彼は暗闇の中を歩く人に神の光を届けるために、イエス・キリストを宣べ伝えました。ただこの世界を神の光で照らされることを祈り願ったのです。


 「疑り深いトマス」という不名誉な名前で呼ばれたトマスですが、イエス様の弟子として残りの生涯を捧げ切りました。力が支配する世の中にあって、光あるうちに、本当の光を届けるために、トマス自身もボロボロになりながら、宣教の旅をしたことでしょう。


 私たちもまた、人々が、自分ではそうとは知らず闇の世界に生きようとする中で、光を差し出し、光の中を歩みなさいと宣べ伝えるのです。現代の価値観の中では夕方の弱々しい光くらいでしかないようにも思えます。もうすぐ夜がやってくる。たとえ、そうなっても私たちは「光ある」うちにと、イエス・キリストを宣べ伝え、信じることを、凝りもせず、傷つきながらでも積み重ねて参りましょう。



今週の土曜日は土曜学校
2週間遅れのイースターをお祝いする予定です
大人も子どももアレルギーを持った方が多くなり
卵も小麦粉も要注意です
イースター恒例のたまご探しも
工夫して行います
みんなで楽しくお祝いしましょう!