2018年11月16日金曜日

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第12章28節~34節)


20181111日、聖霊降臨後第25主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第61-9節、ヘブライ人への手紙第724-28節、マルコによる福音書第1228-34節、讃美唱119/9(詩編第11973-80節)

説教「あなたは神の国から遠くない」(マルコ福音書第1228節~34節)

 聖霊降臨後第25主日を迎えました。来週の主の日には、乳幼児・児童祝福
式という特別な礼拝をし、122日からは、教会暦での新しい年、アドベン ト、すなわち、待降節が始まります。
 昨年のアドベント以来、主たる福音書としては、マルコによる福音書と共に歩んできた礼拝も、今日を含めても、あと3回しかないところまで、私どもは歩んできました。そして、12月からは、三年サイクルの教会暦のC年として、ルカによる福音書を、主たる福音書として歩む一年が待っています。
 この大詰めのところで、今日与えられています福音書は、マルコによる福音書第1228節から34節までであります。この短い聖書、ペリコペーと言いますが、この個所を中心として、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の福音書の個所の設定では、主イエスは既に、エルサレムに入城しており、エルサレムでの宗教的指導者たち、宗教的敵対者たちとの論争の中に入れられているものであります。
 主イエスも皇帝に税を納めるべきか、そして、今日のすぐ前の個所は、サドカイ派との復活はあるのかないのかの論争、そして、今日の出来事の後には、主御自身が出された質問で、主イエスはダビデの子なのかどうかという議論だ出て来るのであります。
 さて、今日の始めの文章は、ある一人の律法学者が近寄ってきて、主イエスと彼ら、すなわち、サドカイ派どもが議論し合っているのを聞き、主が見事に、文字通りの意味に訳すと、美しく、答えられたのを見て、主イエスに質問したというふうに、始まっています。
 「どのようなものが、すべてのうちで一番の命令でしょうか」と。掟、戒めとも訳されていますけれども、それは、その当時、600以上もあったという律法の掟のうち、どれが第一の命令なのかというもっともな問いかけなのであります。
 何を最たる命令として守っていけばいいのか、この律法学者は、真面目な者として、通常他の個所では、主イエスを試みる者、敵対するグループとして出て来るのですが、ここでは、主イエスが見事にお答えになっているのに感心して、平伏して近づいて来て、教えを乞うているのであります。
 主は、彼に対してこう答えられます。「第一の戒めはこうである。聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は、一なる主である。」そして、文字通りに訳してみますとこうなります。「あなたは、あなたの心の全体から、あなたの生命の全体から、あなたの理解力あるいは理性の全体から、そして、あなたの力の全体から、あなたの主なる神を愛さねばならない。」
 ところが、主イエスは、さらに続けて言われるのであります。「第二は、これである。『あなたは、自分の隣人を自分自身のように、あるいは、自分自身として愛さねばならない、愛するであろう』」と。そして、「これらよりももっと大きな命令は、他にはない」と。
 これらは、今日、第一の朗読で読まれた申命記第64節~5節とレビ記第1918節の言葉から来ているのであります。
 そして、それに対して、この律法学者は言います。もとの文に従って、文字通りに訳しますと、「先生、あなたは見事に、真実に向かって言われました。彼は一である、彼のほかにはない。そして、『あなたは、心の全体から、賢さ、すなわち知性の全体から、そして、力の全体から、彼を愛すること、そして、隣人を自分自身として愛することは、すべての焼き尽くす献げものどもや、その他のいけにえどもよりもはるかに勝っています」と。
 ここで、この律法学者は、主イエスの答えに対してほぼ全面的に賛意を表わしています。
「あなたは、美しく、真実に向かって、言われました。彼は一であり、彼のほかにはいない、うんぬん」と。
 彼は、当時の犠牲制度のすべてを批判しているわけではありませんが、主イエスの言われた二つの命令が、すべての他の命令をはるかにしのいでいる、中核であると、主イエスのお答えにほとんど全面的に、賛成しているのであります。
 そして、主は、彼が賢く、思慮深く答えたのに対して、「あなたは、神の国から遠くない」とこの人を、主イエスがまもなくおつきになる十字架で示される神の愛へと招いておられるのであります。
 「聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は一つである、彼のほかには主はいない。」そして、その神を、私どもの心の全体で、精神・命の全体で、理解力の全体で、力の全体で愛することと、私どもの隣人を、むしろ自分自身として愛することとが、神の命令の第一であり、第二の命令であります。
 神がまず、私たちを愛してくださった。そこから、私どもも自分の隣人を、自分自身のように、むしろ自分として愛することが、出て来るのであります。
 自分を心から愛することは、なかなかできないものであります。しかしながら、そのような私どものありのままの姿を、神は愛して下さっている。
 これに賛意を表した律法学者に、「あなたは、神の国から遠くない」と言われる。
 このあと、まもなく、十字架について死なれる主イエスが、御自分の死と現在のお言葉において、「神の国の入り口にあなたは既に立っている」と招かれるのであります。
 そして、私どもも、いや、私どもは彼以上に、神の国に近くあるのであります。この二つの戒めを通して、神を愛し、人を愛する生きかたへとすべての人は、神の国へと、又平和へと平安へと、遠くにいる人も、近くにいる人も、主イエスの流される血によって招かれているのであります。
 この律法学者が、今一歩なのは、今日のこの二つの命令に従って、悔い改めて、応答していく、従って生きていくことができていないことであります。
 彼は律法学者であり、彼らにとっての聖書、すなわち、旧約聖書について隈なく学び、心得ていたことでありましょう。
 彼らは、厳格な律法の命令を遵守しようと命がけでありました。しかし、主イエスの、それについてのお答えに、この律法学者は感心し、主イエスの言われていることが正しいと直感的に理解したのであります。
 しかし、当時の大多数のエルサレムの宗教的指導者たちは、主イエスを、律法を破る者として裁き、このあと、十字架につけるのであります。
 聖書は、このあと、この律法学者が悔い改めて、主イエスを信じる者となったのかどうか、先に、永遠の命を求めてやってきて、主イエスに質問した金持ちの議員についての物語と同様、何も記していません。
 それは、この物語を聞く私どもが、悔い改め、主イエスを信じて、神の国に入るように、自分の目で命の道を見出し、主イエスに従って歩むように、熟考して決断することを促しているのではないでしょうか。
 ところで、旧約聖書と新約聖書とは、違った教えなのでしょうか。旧約聖書の神は裁く神で、新約聖書の神は、愛の神なのでしょうか。
 律法学者たちが考えていた神と、主イエスが説いた神とは違った別の神なのでしょうか。確かに、当時の律法学者たちは、律法の無数に広がった命令を一つ一つ守らなければ、救われないとして、それを破るように思われた主イエスを裁き、十字架につけるに至ったのでしょう。
 しかし、主イエスの説いた神の国へと入るためには、すべての人が悔い改め、幼子のようにならなければ入ることはできないのであります。
 自分を低くして、子どものように、贈り物として、神の国を受け取る者に変えられなければ、決してそこに入ることはできないのであります。そこが、当時のエルサレムの宗教的指導者たち、サドカイ派も、ヘロデ派も、祭司長たちも、律法学者たちも、分からなかったのであります。そして、彼らが厳格に守っていた律法を打ち破る者として、主イエスを弾劾し、十字架の死を、一致して決議し、ポンティオ・ピラトの下で死刑に処したのであります。
 しかし、主イエスは、もちろん、旧約聖書、すなわち彼らにとっての聖書に反するお方としてお出でになられたわけではありません。かえって、それを成就するお方としておいでになられたのであります。
 今日の第一朗読で読まれました申命記第61節から、9節にありますように、イスラエルの者たちは、出エジプトを通して、十戒が与えられ、聞け、シェマー、イスラエルよ、私たちの主なる神は唯一の主であると、神は言われ、、自分たちの与えられている賜物のすべてを尽くして、この神を愛することを、子孫代々忘れまいとしました。そして、十戒も出エジプトの途上のシナイ山でモーセを通して、与えられました。
 さらに、レビ記題1918節にあるように、「あなたは、隣人を自分自身のように愛しなさい、私は主である」との神よりの命令を受けたのであります。
 そして、十戒の命令は、ルターの大教理問答書にありますように、最初の3つの命令は、神と人との関係を命じたものであり、残りの7つは、人と人との関係を命じたものであります。
 この十戒を要約したものが、今日の主イエスの言われた第一の掟と第二の掟であります。ルターの大教理問答書、そして、小教理問答書は、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼と聖晩餐の二つの聖礼典という構成になっています。
 最初に、今日の主イエスのお言葉に関わります十戒が来るのであります。そして、ルターは、十戒が守れるならば、後は何もいらないのだが、私たちは誰もそれが神の命じられる通りには、守ることができない。それで、自分に絶望して、主イエスへの信仰にやって来ざるを得ない。それが、使徒信条であり、それは、第一条が創造について、第二条が罪の赦しについて、第三条がきよめについてであると言っています。そして次に、救われた私どもは、しかし、生涯、義人にして同時に罪人でありますからそれが十分に果たされるように、地上にあってどのように祈ればよいのかが、主の祈りによって示されます。
 そして、その救いにあずかる目に見える恵みの手段として、聖礼典すなわち、洗礼と聖晩餐すなわち聖餐のふたつが与えられているわけであります。
 今日登場してきた主イエスを心から支持した、熱心な一人の律法学者は、この後どうなったか分かりませんが、この物語を通して、私たちが、これを見て、悔い改め、神と人とを心から愛し、主に従い、隣人に仕えてゆく歩みへの反面教師として、悔い改めへと今一歩を踏み出してゆくように、主イエスの招きに応答してゆくようにと私どもに教えているのであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年11月14日水曜日

―最近読んだ本からー「聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」


―最近読んだ本からー聞き書き-加藤常昭-説教・伝道・戦後をめぐって」
         発行所 教文館
著者 加藤常昭、井ノ川勝、平野克己、朝岡勝、森島豊
編者 平野克己
発行 2018730日 
        (定価):3000+税)
 かつて、私事ながら、岳父西恵三は、毎週の説教を立派にやりこなすことは、至難の業であると、私に語ったことがある。その西の父は、北陸で日本基督教団の牧師であったが、説教が下手なので、中途で、学校の教師になったと、いつであったか、軽妙な語り方で話してくれたことがある。
 さて、加藤常昭先生は、類まれな才能に恵まれ、ひとえに牧師の道を歩まれた方であり、現在89歳で、今なお、後進の特に説教の改善、進化のために説教塾の主宰をなさりながら、ご活躍の先生であり、その著書や訳書は甚だしく多い。ちなみに、私の母は現在、88歳の米寿をこの秋に迎え、今は介護型の老人ホームに移っているが、加藤先生とほぼ同時代を生きてきたことになる。今はベッドの上で認知症になっていて、食事を除いてほとんど動けなくなっているが、この夏にほそぼそと会話して、口をついて出て来ることは、太平洋戦争で米軍の空襲で恐ろしかった体験であった。加藤先生もそのような厳しい戦中・戦後を歩まれた点は共通している。この本はそのような先生のキリスト教との出会い、そして真摯に牧師としての道を歩まれた軌跡を、後進の牧師たちが「聞き書き」し、対話した内容となっている。
 幼いときから、日曜学校、教会学校に通い、また、良き説教者たちと出会って、説教を中心に、いつしか牧師を目指され、当時はまだほとんどなかったと言ってもいい時代に説教学を日本に打ち立てて行かれたのである。私が改めて感心させられるのは、福音書のすべてについて、先生は説教集を刊行されていることである。もちろん、他の部分でもたくさんの説教集を出されているが、福音書の全体を説教集として出されている例は、日本ではほかには存在しないのではないか。
 さて、「聞き書き」して出されたこの本は、加藤先生を知るうえで、貴重な資料となるであろう。先生の息遣いや、人柄がにじみでているし、先生の伝道の生涯の中で、どんな恵みの多い出会いがあったか、それが先生の説教を生み出し、そのほかの著述や先生の神学を形作っていったかを知ることが出来よう。
 説教塾での先生の指導は、厳しいものである。うちのめされそうになった体験をした牧師たちも多いのではないか。しかし、先生の願いは少しでも牧師たちの説教が改善できることであり、日本の伝道が少しでも進展することなのだ。

2018年11月8日木曜日

―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」        


―最近読んだ本からー「神の言葉の神学の説教学」
         発行所 日本キリスト教団出版局
著者 K・バルト、E・トゥルナイゼン
訳者 加藤常昭
発行 2006210日 
        (定価):(オンデマンド版)(3100+税)
 前半は、カール・バルトの説教論、それを補うように後半は、エドアルト・トゥルンアイゼンの説教論となっている。二人は、「神の言葉の神学」といわれる立場の同志であり、改革派ではあるが、宗教改革の神学に立つということができよう。
 説教とは何なのか、説教はいかにあるべきか、そして、実際にどのように説教すべきかが示されている。加藤常昭先生の訳であり、加藤先生の訳者あとがきから読むのが分かりやすいのではないか。私は、そのあとトゥルナイゼンの「説教の始め方、進め方、終わり方について」という終わり近い所から読み進めたが、偶然にもそれで分かりやすく読めたのではないかと思う。
 そこでは、奇をてらった技巧を弄するのではなく、淡々と聖書講解に徹して説いてゆくのがよいとあり、なるほどと頷かされたものである。派手な説教をする必要はないのである。十分に調べた釈義に基づいて、黙想から得られたみ言葉の精髄を語って言えばよいのである。
 それから、最初のページに戻って、バルトの説教論を読み進めた。バルトは、説教はやはり、明確な文章にして臨むべきだと、終わりの方で解いている。
 メモによって、原稿は見ないで説教するということが、一般によく聞く説教の方法であるが、バルトは、きちんと原稿を書いて、説教壇に立つことを勧めている。
 説教とは何なのか、どういう風に、歴史的に考えられてきたのか。神の言葉の神学からは、「神の言葉の説教」が「神の言葉である」と言えよう。神の言葉を、説教者は語るのである。それは、不可能に近いことであるが、それを、説教者は、黙想と釈義などによりながら、週ごとにそのわざに仕えるのである。
 トォルナイゼンは、カトリックの神学と宗教改革の神学との違いを、後半の終わり近くの「説教の課題 Ⅱ」で強調している。神の形(イマゴ デイ)は、カトリック神学では、完全には失われていないと考えるのに対して、宗教改革者たちは完全に失われていると見ている。それは、カトリックとプロテスタントとの対話が進んできた現在はどうなのであろうか。信仰義認に関する共同宣言は既になされているが、微妙な違いがなお残っているということなのか。いずれにしろ、神が人間のする説教をご自分の言葉として用いて下さるのである。











 


2018年10月25日木曜日

―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」


―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」
         発行所 グロリヤ出版
著者 マルティン・ルター
訳者 岸千年
発行 19821130日 
        (定価):古本でお求めください(2000円程度)
 ヨナ書は、第2章が、宗教改革記念日の聖書日課としてあげられている。そして、マルティン・ルターが、このヨナ書講解を、著したのは1525年であり、1526年に、ラテン語とドイツ語で出版されている。
 1525年といえば、ドイツでは農民戦争のたけなわの時期に当たる。ルターがその苦悩の中で、書いた力作と言えよう。この邦訳の訳者は岸千年先生であり、その歯切れのよい訳で、ルターの息遣いが伝わって来る。ルターの時代には、現代のような正確な聖書釈義は、なかったと推測されるが、その環境の中で、大胆で洞察に富んだヨナ書の講解となっているのではないかと想像される。
 ルターは、ヨナ書の主人公、アミタイの子ヨナを、当時の名だたる預言者のひとりとして、旧約聖書の中に出て来る、現実に存在した人物として位置付けている。そして、宗教改革の時代に生きたルターは、この書をも信仰義認の立場に立って、当時のローマ教会を批判したり、農民戦争の熱狂主義に対する戦いのなかで、預言者ヨナの物語を、その時代の枠組みの中でとらえようとしている。ルターの時代の聖書解釈の手法であった比喩的解釈で、そこに出て来る大魚(クジラ)や、アッシリヤの神の都ニネベや、ルターの時代には分からなかった「とうごまの木」等々を最終章第4章の講解の終わりの部分で、展開している。
 ルターの大胆な聖書解釈が、このヨナ書講解では、一段と鮮明になっている。聖書を、そのテキストの本質に向かって、徹底的に分析して、旧約聖書、新約聖書の神髄に迫って解釈していくのである。この書の邦訳は、1982年に出されているが、その「まえがき」で、岸先生は、われわれは、ともすれば、四百年を空白にしてルターの時代を、そのまま、重ね合わせて、教会の問題を考えがちであるが、それは正当ではないと言い、この四世紀の間でも、神のことばは、生きて働き続けていたことを記憶すべきであると指摘している。 ルターのこの書を、現代の先の見えない複雑な世界で、私たちの置かれている現実の中で、そこに光を見出す道しるべとして、読み直し、捉え直すことが求められていると言えよう。本書は、わずか155ページほどの短い講解ではあるが、そして、興味深いヨナ物語の講解で、初心者向きの書物であるように思いがちであるが、何度も読み直すに値する聖書全巻の神髄に迫る名著ということができよう。


2018年10月20日土曜日

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第10章1節~16節)


20181014日、聖霊降臨後第21主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第218-24節、ヘブライ人への手紙第25-9節、マルコによる福音書第101-16節、讃美唱128(詩編第1281-8節)

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第101節~16節)

 今日もまた、聖霊降臨後第21主日の聖書個所として、旧約聖書は創世記第2章から、使徒書はヘブライ人への手紙の第2章から、さらには、讃美唱として詩編第128編があたえられ、今日の福音マルコによる福音書第101節から16節までにふさわしい聖書個所がそれぞれ選ばれています。
 創世記の個所では、人がひとりでいるのはよくないと主なる神は言われて、最後に人のあばら骨を取って、ふさわしい助け手として女をお造りになられたとの記事が与えられていますし、ヘブライ人への手紙の個所では、今でも、主イエスにすべてのものが従っているのを、われわれはまだ見ていないが、その主は、私たちの罪のために死なれ、その死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠」を授けられたのを見ていますと記されており、主イエスが、これから、エルサレムに向かっての受難への旅の途上での、今日のマルコ福音書での主の教えであることを改めて指し示しています。
 讃美唱の詩編第128編も、私たちの礼拝では、朗読はまだなされていませんけれども、主を畏れる人の幸いを語り、その人の家庭は、家の奥に伴侶、妻が母親として、ぶどうの木のように食卓につき、子どもたちがその周りをオリーブの若木のように取り囲んでいる姿のように幸せと祝福に満ちていると歌っていて、今日の主イエスの教えに従うときの幸いにふさわしい詩編が与えられていると思います。
 
 さて、今日の福音は、前段は、結婚と離婚の問題が、テーマとなっていますが、それに続けて、子どもを祝福するというエピソードをめぐってであり、次週の福音は、これに続く財産と富に関わる問題がテーマとなっていて、主イエスは、これらの日常的な問題に対して、主イエスに従う弟子たちが、そして、同じ主の弟子である私たちが、これらの生きていくうえで、関りを持たざるを得ない出来事にどのように対処すべきかを、一つ一つ、主イエスが身をもって教えてくださったみ言葉が、このマルコによる福音書第10章に記されているのであります。その福音の中身について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、主イエスは、ユダヤの地域へと、そして、ヨルダン川の向こう岸へとやって来られます。これは、不思議な言い方であります。エルサレムのありますユダヤへとやって来られ、そしてまた、ヨルダン川の向こう岸であったペレヤという地域へと逆戻りしているようにも取れるのであります。ガリラヤから、南下してエルサレムに向かう途上で、再び、ヘロデ・アンチパスの領土でもあったペレヤへと舞い戻ることもあったのでしょうか。仮にそうだとすると、ヘロデ・アンチパスの敵意の中で、洗礼者ヨハネが、ヘロデヤとの結婚を非難して首をはねられた出来事を思い起こさせられます。そのような場所で、離婚をめぐる問答がなされたということかもしれません。

 主イエスは、そのような中で、いつものように、集まって来た群衆に向かって教えておられたのであります。マルコ福音書によれば、主はもはや、病人を癒すことはなさらず、弟子たちに教えること、群衆にも教えることのみに専念されておられました。そこに、ファリサイ派どもがやって来て質問するのであります。「離縁すること、離婚することは、律法に適っているでしょうか」と。本文には、律法という言葉はないのですが、彼らは、主イエスを罠にかけるために、この質問をしたのであります。離縁することは律法に適っていないと言えば、洗礼者ヨハネと同じ運命に立たされることにもなりかねないでしょう。律法に適っていると答えれば、離婚を大目に見て、姦淫の罪をも容易に赦してしまうことになり、これも窮地に立たされることになるでしょう。ファリサイ派どもは、すでに早い時期から、ヘロデ党と結託して、主イエスの命をねらっていたのであります。

 これに対して主は、モーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆に質問を返されるのであります。彼らは、彼は、離縁状を書いて、夫が妻を出て行かせることを許しましたと答えるのであります。これは、申命記第241節以下に記されているのであります。夫が妻に恥ずべきことがあるのを見出したなら、離縁状を書いて、妻に渡し、家を出させる。出させた以上は、別の男と再婚して後に、もとの夫の下に戻ることはできないなどと書かれているのであります。

 それに対して、主イエスは、それは、あなた方の心のかたくなさ、頑固さ、冷酷さに向かって、それに対抗して、モーセはまさにその命令を書いたのだとお答えになります。あなた方男の身勝手さに反対して、そう書き、命じたに過ぎないので、離婚することが、律法に適っていることではないのだと、主イエスはおっしゃられるのであります。実際、離縁状を持たせて、家から出させるのは、妻が離婚されたことを証明するためであり、再婚することができる身であることを証明するためであって、女性を守るために、モーセはいやいや認めたに過ぎないと言われるのであります。そして、主は、結婚がどういうものであるのかを、創世記の第2章から説かれるのであります。「創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それゆえ、人は父母を後にし、妻と一体となる。それゆえ、彼らは二人ではなく一つの肉である。」従って神が合わされたものを、人は離してはならないと。結婚は、人の身勝手さによって、縁を断ち切ることはできない神の創造なさった秩序であると言われるのであります。

さて、弟子たちは、家に再び入った後、主にこの問題をさらに立ち入って質問すると、主は、結婚している夫が妻を離縁し、別の女と再婚したならば、夫は離縁した最初の妻に対して姦淫を犯すことになる。妻が夫を離縁し、再婚するならば、妻は姦淫の罪を犯すことになると言われました。これは、当時では、夫が、別の女と姦通した場合は、その女の夫に対して姦淫の責めを負うと考えられていたのに対して、主は、自分の妻に対して姦淫の罪を犯したのだとされ、夫と妻は一体であることを徹底して捉えた結婚観であると言えましょう。

私どもは、このような結婚生活を送ることが、果たして可能なのでしょうか。現実の結婚生活とは、その長い間には、何度も危機が訪れるものではないでしょうか。その中で、悔い改めと神を見上げ、共に欠けたところを補い合って、それぞれの賜物を認め合いながら、支え合っていくときに、主のみ教えは、祝福への招きとして、大きな力を与えてくれるものとなるでしょう。
さて、後段のエピソードと主の教えに移りましょう。エルサレムへの旅の途上で、主イエスの下に、前段と同じように人々が集まり、主が教えておられたときのことでしょうか、人々が、子どもたちを、主イエスの下に触れてもらおうと連れてきます。ところが、弟子たちは、彼らを叱ってやめさせようとするのであります。

弟子たちは、エルサレムへの旅の途上で、何となく緊迫感にとらわれ、主イエスの教えておられるのを妨害するもののように感じて、親たちを叱ったのでしょう。ところが、逆に主イエスはそれを見て憤られ、叱りつけられたのであります。「子どもたちが来るのをそのままにしなさい、邪魔してはならない、神の国は、このような者たちのものである」と。弟子たちは、自分たちこそ、主イエスに最も近い者であり、子どもたちや、彼らを連れて来た親たちは、周辺の者であり、このようなときに主イエスにふさわしい者ではないと思って、この挙に及んだに違いありません。ところが、彼らの思いに反して、主イエスは、弟子たちに憤慨なさったのであります。それどころか、神の国、神の支配とは、このような者たちのものであると宣言なさるのであります。
この子どもたちとは、どのような存在でありましょうか。子どもたちは、自分の力だけではとても生きていけない、助けを必要とする者であり、そして、自分に与えられるものを、贈り物として喜んで受ける存在であります。

それに対して、大人は、自分の功績を誇り、自分こそは抜け駆けの競争をしてでも、偉い存在になりたいと心の底では追及してやまないところがあるのではないでしょうか。弟子たちは、主イエスの招きに応じて、すべてを捨てて、主に従った者たちでありました。しかし、主イエスに自分たちこそ最も近い存在であると自負し、あるいはお互いに、自分こそ主の一番近くにはべりたいとの欲求は捨てきれてはいませんでした。それに対して、主イエスは、ここでも、近づくエルサレムでの死を前にして、弟子たちを真の弟子にするために自分の存在をかけて、教え続けられるのであります。

そして、よく言っておくが、子どものように、神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはないと言われました。新しく生まれ変わる、水と霊とによって、上から生まれ変わらなければ、神の支配に与ることはできないと言われるのであります。今日の出来事の後にも、弟子たちは相変わらず、栄光のときの、主の座の左右を争い、主の教えを理解することに遅い者たちであります。そしてそれは、そのまま、今の私たちの現実でもあります。12弟子たちは、主によって教えられ続け、主のご受難と復活の後に、逃げまどった挙句、再び集められ、この日の主の言葉の真意をようやく理解してゆくのであります。

主は、そのように弟子たちに語られた後、子どもたちを抱きしめながら、彼らに向かって両手を置いて祝福なさると、最後に記されています。親たちは、自分の子供を触れてもらいたくて、有名な、霊的な力もあるとのうわさのもとで主イエスのそばに連れて来たのですが、主はその願いをはるかに超えて、自分から子どもたちを抱きしめて、恐らく一人一人順番に、頭に手を置き、祝福までしてくださったのであります。主イエスの祝福の下に子どもたちだけではなく、弟子たち一人一人も招いておられるのであります。そして、私たちもまた、その祝福に招かれている。今日の詩編第128編の主を畏れる人の家庭が祝福されているように、私たちの結婚も家庭も、主イエスの祝福のもとに。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。

2018年10月5日金曜日

―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語                どのように書かれ、読まれてきたか


―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語
               どのように書かれ、読まれてきたか
発行所 教文館
著者 ブルース・ゴードン 訳者 出村 彰
2017830日 初版発行
        定価:3200円(+税)
『キリスト教綱要』は言うまでもなく、宗教改革者ジャン・カルヴァンの代表的著作である。私共は、ルター派であり、昨年宗教改革500年を祝ったが、ルターと共に、宗教改革者としての彼の名は忘れられてはならない。私は、水俣教会に4年間牧師として在任したが、そこで出会ったチッソの研究所長さんの奥様は、日本基督教団の熱心な信徒であられた。ご主人は、ルーテル教会に深く傾倒されていたが、奥様は、教会を完成したのは、カルヴァンだと言われていたのを思い出す。
 今、私も「キリスト教綱要」を少しずつ読んでいるが、膨大な書物であり、その内容・骨格をつかむのは至難の業だと思う。ルターは、組織神学は打ち建てなかったと言われる。聖書を緻密に体系的にとらえたのは、カルヴァンなのであろう。ルターは、聖書講解でも、自分の気に入ったところを集中的に説いているのに対し、カルヴァンはほとんど聖書全体の講解を几帳面に残しているようである。
 さて、本書は、2017830日に、邦訳が初版発行されている。「キリスト教綱領」がどのように書かれ、読まれてきたかを、当初から現代世界に至るまで、広範な資料に基づいて、考察している。「キリスト教綱要」ほど、色々な評価がなされ、また世界に影響力を及ぼした書物は稀であることを、各時代の神学思想や歴史と突き合わせて、紹介している。宗教改革から500年の歩みの中で、この書がどのように読まれ、あるいは誤解され、多様に影響を与えて来たかを説いている。そして、それは、カルヴァン本人の信仰、神学、生活、行動力がいかに理解され、あるいは誤解され、今日に至っているかを物語っているのである。カルヴァンの神学について、私はあまり知らない。二重予定説や聖餐についての象徴説、また異端のセルベトをジュネーブ市参事会が火刑に処したことにカルヴァンが加担した出来事など、背景を知らずに聞かされて、その実体を知らずにいることも少なくない。特にルターとの対比において、カルヴァンを学ぶことも必要なのではないか。現在、アジアやアフリカでのキリスト
教の成長は著しいと言われ、そこでのカルヴァンの影響力は見過ごしにすることはできないと指摘されている。ルターの、どちらかといえば保守的な神学に対して、カルヴァンから学ぶべきところも大きいのではないか。一読に値する。

2018年9月9日日曜日

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ6:10-20)  


201892日、聖霊降臨後第15主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第41-8節、エフェソの信徒への手紙第610-20節、マルコによる福音書第71-15節、讃美唱15(詩編第15編:1-5節)

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ610-20
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方と共にあるように。 

今日は、第2朗読のエフェソ610-20のみ言葉から、ご一緒に聞いていきたいと思います。先週も言いましたように、エフェソの信徒への手紙は、今では、どうも使徒パウロが書いた手紙ではないと考えられています。
 
しかし、たとえ、パウロ本人が、直接、この手紙を書いたのではないとしても、それでこの手紙の価値が下がってしまうということにはならないと思います。

使徒パウロの名に託して、パウロの精神に立って、この手紙を、今のような形で残してくれたのは、それだけの重要性があったためだとも、考えることができるのでありまして、パウロが生きていたら、書き残してくれたであろう、大事なみ言葉を、パウロの流れを汲む者が、聖書として、私どもに書き記さざるを得なかったとも言えるのであります。
 
先週も言いましたように、本書の内容は、コロサイ書とよく似ています。コロサイ書を神学的により深め、より突っ込んで書かれていると言われます。
 
皆さまにも、今日お帰りになって、コロサイ書とエフェソ書とを、読み比べるようにして、じっくりと両方を読み返し味わっていただければと思います。
 
さて、今日のみ言葉は、まず、終わりに言うが、あなたがたは主において、彼の力の働きにおいて強められなさいと始まっています。私どもの信仰生活は、誘惑や悪魔・悪霊の力によって、絶えず揺さぶられるという霊的な戦いの中に置かれています。
 
それを、どのように克服し、打ち克っていくことができるのか、どのように武装し、防御し、あるいは反撃していけばよいのかが、ここに明瞭に記されているのであります。それは、私どもに自然に与えられている美徳や人間的な力ではとうてい克服することはできないのです。

 主において、主の強力な力において、強められ、そこから来る強く雄々しくなる生活となるのでなければ、とうてい太刀打ちできるものではないのです。

 エフェソ書の記者は、当時のローマ軍の兵士の装備と共に、特に旧約聖書に出て来る表現を十分に生かして、私どもがいかにサタンに対して、装備をすればよいのかを語っていきます。十分な神の武具によって強められるようにと奨めています。
 
さて、本文の内容について、もう少し深めて考えてみたいと思います。
 まず、この手紙の記者は、悪魔の策略に対して、神の武具を着るようにと奨めています。これは、見事な神の武具を、身に装うようにということです。神の十分な武具によらねば、とても悪魔の策略には立ち打ちできないからです。
 
そして、その武具として、6つのものを挙げています。腰の帯紐、胸当て、軍靴、盾、かぶと、そして剣であります。
 
剣以外は、主として防御に用いられる武具であります。そして、著者は、象徴的に、あるいは、隠喩的に、何が本当に強力な敵からの攻撃に耐えうるか、あるいは、反撃の力となるのかを示していくのであります。
 
なぜなら、私どもの闘い、―これはレスリングという意味の言葉ですがー、それは霊肉、すなわち、はかなく脆い人間を相手にするものではなく、支配と権威、この闇の世界の支配者たち、高い所における悪の霊の諸力と対するすさまじい
闘いであるからだというのです。
 
そこで、まず、真理を腰の帯とし、さらに義の胸当てを、あなた方は着なさいと言います。
 
胸当ては、武具として以外にも、アロンの祭服、祭司の裁きの胸当てを付けることがありました。
 
次には、平和の福音をもたらす準備を、履物として身に帯なさいという。平和を告げる者の足は、なんと美しいことかとイザヤは預言していますが、このメッセージこそ勝利のための武具であると、この記者は言うのです。
 
私どもの闘いは、人間同士の間、ユダヤ人と異邦人の間にある垣根を取り除く、キリストによる平和を告げることによって、勝利する闘いであります。
 
次には、信仰を盾として、受け取りなさいとあります。盾は、あらゆる火矢を消すことのできる、大きな盾であり、当時のローマ軍の兵士たちが用いたものであります。
 
また、旧約聖書では、神こそが私の盾という表現がよく出て来ます。私どもの力によるのではなく、私どもの罪を、その十字架の死と復活によって取り除かれたキリストへの信仰のみによって、サタンのたくらみに打ち克つのです。
 
さらには、救いの手段として、かぶとをかぶりなさい、また、霊の剣である神の言葉を受け取りなさいとあります。

荒れ野で、主イエスがサタンと闘ったとき、その都度、神の言葉によって勝利したことを、私たちは思い起こすべきであります。
 
さらに、記者は続けます。あなた方は、あらゆる時に、霊において、すべての祈りと嘆願において祈りなさい。そして目覚めていて、祈りと忍耐において、すべての聖徒たちのために、執り成しの祈りをしなさい。

そして、私のためにも祈ってほしいと、祈りの必要性について説くのです。私が口を開くときに、福音の神秘をはっきりと知らせることができるように、そのため、私に言葉が与えられるように祈ってほしいと。

 そして最後に、この記者は、そのために、私は、鎖における大使とされているのであり、それゆえに、私がしゃべらなければならない通りに、はっきりと語れるように祈ってほしいと執り成しの祈りを、私どもに求めているのであります。

 私どもは一人で闘っているのではありません。神の見事な武具を着せられ、キリストを着せられ、キリストを頭とする教会の体の一員として、すべての聖徒たちのために執り成しの祈りをささげる。

そうしながら、既にキリストの十字架上での死とご復活によって、勝利を与えられている。その悪霊との霊的な闘いを、闘っているのです。

それは既に勝利が約束されている闘いでありますが、私どもが一致団結して支え合い、共に目を覚まして祈り続ける闘いの中で初めて得られる勝利なのであります。なぜなら、その勝利の日の前に、主の日の前に、邪悪な日の闘いが待っているからであります。私どもは、その約束されている勝利の日まで、共に執り成しの祈りを続けながら、主のみ業に励んでいきましょう。

人知ではとうてい測りすることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。         

2018年9月6日木曜日

「全信徒祭司性」(p68~85)2018年9月7日 「『キリスト者の自由』を読む」


「全信徒祭司性」(p6885201897
「『キリスト者の自由』を読む」

キリスト者は、すべてのものの上に王であって、なにものにも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、すべての者に従属する。この一見矛盾するかのように思われるルターの『キリスト者の自由』の二つの命題であるが、今回のテーマは、「全信徒祭司性」である。キリスト者は王であると共に、祭司でもあるという。祭司とは、神の前に取り次ぐ者であり、王である以上に、すぐれた者であるといえよう。
 キリストは王であり、かつ祭司である。私どもも、主イエス・キリストと共に、すべてのキリスト者が、祭司とされているのである。祭司は神と人とを取り次ぐのであるから、人の上の王である以上に、ひいでた存在である。
 主イエスは地上に、神の独り後であられたにもかかわらず、低きしもべの形を取られ、お出でになられ、終わりの時まで、しかも十字架の死に至るまで、み旨に従われたのである(フィリピ26-11)。しかも、主イエスは罪を犯したことのないお方であったのに、神は、この罪なきお方を十字架につけ、罪ある我々のために身代わりとされたのである。それゆえ、私どもは、このお方への信仰のみによって、義とされ、無罪とされる。そしてこの信仰によって、主イ、エスの義を私どもは与えられ、私どものすべての罪や負い目は、主イエスが負うてくださるのである(属性の交換、神性と人性の交換、喜ばしき交換?)。
 さて、今回の「全信徒祭司性」であるが、それはしばしば「万人祭司性」とも言われてきた。しかし、これは、主イエス・キリストを信じるキリスト者が祭司性を持つとの主張だから、「全信徒祭司性」と言うのがより正確と言えよう。今回の石居基夫先生のこのテーマをめぐっての解説(p6885)においては、キリスト者が祭司であるっことを、より神学的にとらえようとするところに強調点を置いている。
 ルターは、神のみ言葉のみが、その信仰を私たちに与えるというのです。・・神の語りかけ、神のみことばを受け取ることは、それによって、自分の「魂」がどのような現実の中にあっても、その存在をはっきりとさせられ、確かな救いを受け取ることになると言えるでしょう(p7273)と。
 ルターは、「キリストが私に対してなってくださったように、私もまた、私の隣人に対して一人のキリスト(者)になりたい」と言っている。人に仕え、とりなし、生かすようにキリストの愛を生きる者とされる。これがすべての信仰者における祭司としてのキリストのつとめなので、「全信徒祭司性」という言い方がなされる(p78末~p791ℓ)。
 それは、教職と信徒との区別をまったくなくするということではない。すべての人がベルーフ(それぞれの職業や、あるいは家庭内における主婦の役割など)に召命を受けているとルターは考える。私どもが現在の教会の中で、また、社会や世界の中でどのような働きに召されているのかを『キリスト者の自由』を時々読み返してみることで、つかんでいきたい。
 ある出会った、年老いた信徒は、先日93歳位で召されたのだが、毎年、年の始めには、ルターの『キリスト者の自由』(岩波文庫にて50ページほどのもの、石原謙訳)とアウグスチヌスの『告解』(世界の名著、中央公論社、山田晶訳)を読むと語られていたことを懐かしく思い起こす。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2018年8月21日火曜日

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ6:30-44)


2018819日、聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第231-6節、エフェソの信徒への手紙第211-22節、マルコによる福音書第630-44節、讃美唱23(詩編第23編:1-6節)(松山教会での礼拝説教)

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ630-44

今日の福音書の出来事は、使徒たちが初めての宣教旅行から戻って来て、主イエスに、彼らが行ったことをみな報告したという記事から始まっています。この使徒たちというのは、特別な12使徒という職務の人たちを指しているのではなく、主から遣わされた者たちという意味であります。
主から遣わされて、主と同じわざをし、悪霊を追い出し、病人たちに油を塗り、彼らを癒すみわざをなして、戻って来たのであります。
そして、その間に、マルコは、洗礼者ヨハネが、首をはねられるというエピソードを入れているのであります。
それは、主イエスが、その後どのような道を辿らねばならないのか、その道が神によって定められていることを、暗示しているかのようであります。
さて、主イエスは、弟子たちに、しばらく休みを取るように、寂しい場所へ、人気のない場所へと、自分たちだけで出て行くようにとお命じになります。
もちろん、御自身も一緒に出て行くわけですが、それは、やって来た莉出て行ったりする群衆が多くて、彼らは食事を取るひまもなかったからであります。
弟子たちは、初めての宣教旅行から戻って来て、非常に疲れており、肉体を休める必要があり、主イエスはそのことを十分に察知しておられ、御自分もそうであったように、人気のない所へ行って体を休め、あるいは、父なる神と向かい合って祈る時を必要としていたのであります。
ところが、マルコは一番最初に書かれた福音書の著者らしく、他の福音書には記されていない事情を、生き生きと書き残してくれています。主イエスとって来て、主イエスの一行の行き先に、徒歩で、先に一緒になって駆け付けたというのであります。
それがどこであったかは定めることはできませんが、彼らがひそかに祈る場所を人々は察知していて、舟よりも先に、その地に着くことができたのであります。
そして、主イエスは、出て来られると、彼らが羊飼いのいない羊たちのようであるのをご覧になって、腸が痛むような思いとなられます。これは、神にのみ使われる言葉で、主は人々の有様をご覧になって「憐れまれた」と訳されていますが、ただ同情するというのではなく、共に苦しまれるという意味の言葉が使われているのであります。
そして、主は、多くのことどもを教え始められたと記されているのであります。
そして、時がだいぶたって、弟子たちが、イエスの下にやって来て言うのであります。「時は既に遅くなりました。人々を、あなたが解散して下さって、近くの村落や村里に行かせてください。そうすれば、彼らはそこで食料を手に入れることが出来ましょう」と。
ところが、主は言われます。「あなた方が、彼らに食べることを得させなさい」と。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買ってきて彼らに食べさせよと言われるのですか」と不平を表します。
主イエスは、「どれだけ彼らはパンを持っているのか、あなた方は行きなさい、見て来なさい」と言われます。弟子たちは、行って、それを確認してきて「5つです。それに2匹の魚を」と答えます。それは、13人分の食料に過ぎません。
すると主は、それを取り、天を仰いで、賛美の祈りをしと訳してありますが、これは元の文では「ほめたたえる」あるいは「祝福する」という意味の言葉でありますが、そのようにして祈られた後、それを裂き、弟子たちに与え続けておられたのであります。
そして、弟子たちはそれを彼らに分配し、魚をも同じように彼らに分け与えられるのであります。
以上のような所作を取られる前に、主は人々を組にならせ、あるいはグループごとに、50人、100人ずつ縦の列にして、食べるために、青草の上に、あるいは黄緑の草の上に横になるように弟子たちにそうさせるように命じておかれました。
そして、5つのパンと2匹の魚をそのようにして、与え続けておられたというのであります。そして、人々は、それによってすべての人が食べて、しかも、満腹したというのであります。そして、
残ったパン屑や魚の残りを集めると12籠に一杯になったというのであります。これは、12弟子を暗示し、イスラエルの12部族を暗示し、ここから新しい神の民、教会が生まれることを暗示しているのであります。
さて、今日のこの奇跡は一体どういうことであったのでしょうか。それは、聖餐における主イエスの言葉と所作に近接しています。そこにいた、羊飼いのいない羊どもの魂の飢えを、また、心の満たされない渇きを、主イエスは弟子たちと共に満たすことができたということであります。
確かに、今の世界でも、多くの人々が飢えて、十分な食卓につけずに亡くなっております。しかし、今日の讃美唱、詩編23編が語るように、「主は、私の羊飼い、青草の茂る憩いのみぎわに伴いたもう。」その言葉が、今日の主イエスの5千人への供食を通して実現しているのであります。
私どもも、この渇きと飢えを満たす主のみ業に参加し、関わることができる。5千人の飢えを、主イエスの命令通りに行うことを通して、私たちもまた彼らに食べさせることができるのであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。