2018年10月20日土曜日

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第10章1節~16節)


20181014日、聖霊降臨後第21主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第218-24節、ヘブライ人への手紙第25-9節、マルコによる福音書第101-16節、讃美唱128(詩編第1281-8節)

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第101節~16節)

 今日もまた、聖霊降臨後第21主日の聖書個所として、旧約聖書は創世記第2章から、使徒書はヘブライ人への手紙の第2章から、さらには、讃美唱として詩編第128編があたえられ、今日の福音マルコによる福音書第101節から16節までにふさわしい聖書個所がそれぞれ選ばれています。
 創世記の個所では、人がひとりでいるのはよくないと主なる神は言われて、最後に人のあばら骨を取って、ふさわしい助け手として女をお造りになられたとの記事が与えられていますし、ヘブライ人への手紙の個所では、今でも、主イエスにすべてのものが従っているのを、われわれはまだ見ていないが、その主は、私たちの罪のために死なれ、その死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠」を授けられたのを見ていますと記されており、主イエスが、これから、エルサレムに向かっての受難への旅の途上での、今日のマルコ福音書での主の教えであることを改めて指し示しています。
 讃美唱の詩編第128編も、私たちの礼拝では、朗読はまだなされていませんけれども、主を畏れる人の幸いを語り、その人の家庭は、家の奥に伴侶、妻が母親として、ぶどうの木のように食卓につき、子どもたちがその周りをオリーブの若木のように取り囲んでいる姿のように幸せと祝福に満ちていると歌っていて、今日の主イエスの教えに従うときの幸いにふさわしい詩編が与えられていると思います。
 
 さて、今日の福音は、前段は、結婚と離婚の問題が、テーマとなっていますが、それに続けて、子どもを祝福するというエピソードをめぐってであり、次週の福音は、これに続く財産と富に関わる問題がテーマとなっていて、主イエスは、これらの日常的な問題に対して、主イエスに従う弟子たちが、そして、同じ主の弟子である私たちが、これらの生きていくうえで、関りを持たざるを得ない出来事にどのように対処すべきかを、一つ一つ、主イエスが身をもって教えてくださったみ言葉が、このマルコによる福音書第10章に記されているのであります。その福音の中身について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、主イエスは、ユダヤの地域へと、そして、ヨルダン川の向こう岸へとやって来られます。これは、不思議な言い方であります。エルサレムのありますユダヤへとやって来られ、そしてまた、ヨルダン川の向こう岸であったペレヤという地域へと逆戻りしているようにも取れるのであります。ガリラヤから、南下してエルサレムに向かう途上で、再び、ヘロデ・アンチパスの領土でもあったペレヤへと舞い戻ることもあったのでしょうか。仮にそうだとすると、ヘロデ・アンチパスの敵意の中で、洗礼者ヨハネが、ヘロデヤとの結婚を非難して首をはねられた出来事を思い起こさせられます。そのような場所で、離婚をめぐる問答がなされたということかもしれません。

 主イエスは、そのような中で、いつものように、集まって来た群衆に向かって教えておられたのであります。マルコ福音書によれば、主はもはや、病人を癒すことはなさらず、弟子たちに教えること、群衆にも教えることのみに専念されておられました。そこに、ファリサイ派どもがやって来て質問するのであります。「離縁すること、離婚することは、律法に適っているでしょうか」と。本文には、律法という言葉はないのですが、彼らは、主イエスを罠にかけるために、この質問をしたのであります。離縁することは律法に適っていないと言えば、洗礼者ヨハネと同じ運命に立たされることにもなりかねないでしょう。律法に適っていると答えれば、離婚を大目に見て、姦淫の罪をも容易に赦してしまうことになり、これも窮地に立たされることになるでしょう。ファリサイ派どもは、すでに早い時期から、ヘロデ党と結託して、主イエスの命をねらっていたのであります。

 これに対して主は、モーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆に質問を返されるのであります。彼らは、彼は、離縁状を書いて、夫が妻を出て行かせることを許しましたと答えるのであります。これは、申命記第241節以下に記されているのであります。夫が妻に恥ずべきことがあるのを見出したなら、離縁状を書いて、妻に渡し、家を出させる。出させた以上は、別の男と再婚して後に、もとの夫の下に戻ることはできないなどと書かれているのであります。

 それに対して、主イエスは、それは、あなた方の心のかたくなさ、頑固さ、冷酷さに向かって、それに対抗して、モーセはまさにその命令を書いたのだとお答えになります。あなた方男の身勝手さに反対して、そう書き、命じたに過ぎないので、離婚することが、律法に適っていることではないのだと、主イエスはおっしゃられるのであります。実際、離縁状を持たせて、家から出させるのは、妻が離婚されたことを証明するためであり、再婚することができる身であることを証明するためであって、女性を守るために、モーセはいやいや認めたに過ぎないと言われるのであります。そして、主は、結婚がどういうものであるのかを、創世記の第2章から説かれるのであります。「創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それゆえ、人は父母を後にし、妻と一体となる。それゆえ、彼らは二人ではなく一つの肉である。」従って神が合わされたものを、人は離してはならないと。結婚は、人の身勝手さによって、縁を断ち切ることはできない神の創造なさった秩序であると言われるのであります。

さて、弟子たちは、家に再び入った後、主にこの問題をさらに立ち入って質問すると、主は、結婚している夫が妻を離縁し、別の女と再婚したならば、夫は離縁した最初の妻に対して姦淫を犯すことになる。妻が夫を離縁し、再婚するならば、妻は姦淫の罪を犯すことになると言われました。これは、当時では、夫が、別の女と姦通した場合は、その女の夫に対して姦淫の責めを負うと考えられていたのに対して、主は、自分の妻に対して姦淫の罪を犯したのだとされ、夫と妻は一体であることを徹底して捉えた結婚観であると言えましょう。

私どもは、このような結婚生活を送ることが、果たして可能なのでしょうか。現実の結婚生活とは、その長い間には、何度も危機が訪れるものではないでしょうか。その中で、悔い改めと神を見上げ、共に欠けたところを補い合って、それぞれの賜物を認め合いながら、支え合っていくときに、主のみ教えは、祝福への招きとして、大きな力を与えてくれるものとなるでしょう。
さて、後段のエピソードと主の教えに移りましょう。エルサレムへの旅の途上で、主イエスの下に、前段と同じように人々が集まり、主が教えておられたときのことでしょうか、人々が、子どもたちを、主イエスの下に触れてもらおうと連れてきます。ところが、弟子たちは、彼らを叱ってやめさせようとするのであります。

弟子たちは、エルサレムへの旅の途上で、何となく緊迫感にとらわれ、主イエスの教えておられるのを妨害するもののように感じて、親たちを叱ったのでしょう。ところが、逆に主イエスはそれを見て憤られ、叱りつけられたのであります。「子どもたちが来るのをそのままにしなさい、邪魔してはならない、神の国は、このような者たちのものである」と。弟子たちは、自分たちこそ、主イエスに最も近い者であり、子どもたちや、彼らを連れて来た親たちは、周辺の者であり、このようなときに主イエスにふさわしい者ではないと思って、この挙に及んだに違いありません。ところが、彼らの思いに反して、主イエスは、弟子たちに憤慨なさったのであります。それどころか、神の国、神の支配とは、このような者たちのものであると宣言なさるのであります。
この子どもたちとは、どのような存在でありましょうか。子どもたちは、自分の力だけではとても生きていけない、助けを必要とする者であり、そして、自分に与えられるものを、贈り物として喜んで受ける存在であります。

それに対して、大人は、自分の功績を誇り、自分こそは抜け駆けの競争をしてでも、偉い存在になりたいと心の底では追及してやまないところがあるのではないでしょうか。弟子たちは、主イエスの招きに応じて、すべてを捨てて、主に従った者たちでありました。しかし、主イエスに自分たちこそ最も近い存在であると自負し、あるいはお互いに、自分こそ主の一番近くにはべりたいとの欲求は捨てきれてはいませんでした。それに対して、主イエスは、ここでも、近づくエルサレムでの死を前にして、弟子たちを真の弟子にするために自分の存在をかけて、教え続けられるのであります。

そして、よく言っておくが、子どものように、神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはないと言われました。新しく生まれ変わる、水と霊とによって、上から生まれ変わらなければ、神の支配に与ることはできないと言われるのであります。今日の出来事の後にも、弟子たちは相変わらず、栄光のときの、主の座の左右を争い、主の教えを理解することに遅い者たちであります。そしてそれは、そのまま、今の私たちの現実でもあります。12弟子たちは、主によって教えられ続け、主のご受難と復活の後に、逃げまどった挙句、再び集められ、この日の主の言葉の真意をようやく理解してゆくのであります。

主は、そのように弟子たちに語られた後、子どもたちを抱きしめながら、彼らに向かって両手を置いて祝福なさると、最後に記されています。親たちは、自分の子供を触れてもらいたくて、有名な、霊的な力もあるとのうわさのもとで主イエスのそばに連れて来たのですが、主はその願いをはるかに超えて、自分から子どもたちを抱きしめて、恐らく一人一人順番に、頭に手を置き、祝福までしてくださったのであります。主イエスの祝福の下に子どもたちだけではなく、弟子たち一人一人も招いておられるのであります。そして、私たちもまた、その祝福に招かれている。今日の詩編第128編の主を畏れる人の家庭が祝福されているように、私たちの結婚も家庭も、主イエスの祝福のもとに。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。

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