2021年8月30日月曜日

イエス様の元に集まる人々(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(2021年8月29日)

詩編15編 マルコによる福音書7章1-8節

 今日は、ZOOMを使用してオンラインで礼拝を行っています。ZOOMは双方向なので、皆さんがどのような服装でモニターの前に座ってらっしゃるかわかってしまいますが、その辺りは気にしないでください。牧師は職務柄、牧師シャツを着ていますが、皆さんはいつもの服装で結構です。

 プロテスタント教会においては、神様は身だしなみをあれこれ悩んで明日のことを思い煩い、礼拝時間に遅れるより、時間通りに来てくれる方が嬉しい方だ、と教えます。それがキリスト教の礼拝の大きな特長です。


 皆さんご存知のように、キリスト教はユダヤ教から分かれ、ユダヤ教を土台にして生まれまました。レビ記あたりを読めばわかるように、ユダヤ教は何かにつけて厳しい生活習慣を民衆に強いました。神様は清さを求めるという言葉の元、身を清める方法や服装、捧げ物のやり方まで、非常に細かく決められていたのです。

 しかし厳しい掟も次第に形骸化し、民衆もそんなやり方に慣らされてしまいました。心の伴わない、形式ばかりの宗教に成り下がろうとしていたユダヤ教社会に忽然と現れたのがイエス様でした。イエス様は、神様がお求めになっているのは形だけの礼拝でもなければ捧げる金額でもなく、神様を愛し、その導きに従おうとする心である、とお教えになりました。そして、社会から除け者にされてきた人々にも手を差し伸べられたのです。その結果、今まで積極的に宗教活動をして来なかった漁師や、神様に背を向けていた徴税人達がイエス様を慕い、弟子となりました。彼らは、自分がイエス様から愛されていることを信じ、新しい生き方を与えていただいたことを感謝して生きようとしました。


 しかしその自由な振舞は、旧約聖書の教えに縛られて来たファリサイ人や律法学者から見れば、眉をひそめるようなものでした。

 ファリサイ人や律法学者達は通は外出から帰るたびに浴槽に入りました。律法によって障害者や病人は「汚れている」と定められていたため、そうした人々にうっかり触れて自分も汚れていたらいけないから自宅に戻ったら真っ先に清めるわけです。全くもって傲慢で失礼な話です。


 率直にいって、イエス様はそのようなしきたりには全く頓着なさいませんでした。一般のユダヤ人は食事の前に念入りに手を洗うのに対し、イエス様はそこに病人がいようと罪人がいようと、最低限の衛生管理にとどめました。それは儀式にのっとったやり方ではありませんでしたし、弟子達にも、形式的に手の清めをするようには指示されませんでした。

 それを見ていたファリサイ人達は強い嫌悪感を抱きます。こ神様に対する冒涜だ、イエス様はどういう指導をしているのだとクレームをつけます。ファリサイ人達は、神様の為に、先祖から定められた規則を守ることで常に清くあろうとしました。しかしそれは神様を愛し慕っているから、というよりもただの習慣であり、心の伴わない形式だけのものでした。彼らは清さを保てない人々を差別し、糾弾することがユダヤ教徒として正しいことだと信じ込んでいたのです。


 ところで、マルコによる福音書は、ファリサイ人たちがイエス様のもとに集まる直前、ゲネサレトで病を抱えた人々がイエス様の元にいやしを求めて押し寄せた様子を描いています。

 人々は必死で神様に対していやしを求めました。ユダヤ教の律法に従うならば、到底神様に近づけない汚れた状態の人々が、イエス様の噂を耳にして走り回って探します。自分自身や大切な家族、友人のために、汗まみれになってイエス様を求めるました。もちろんイエス様も彼らを拒むことはなさいませんでした。人々は何もかもかなぐり捨ててイエス様の前に平伏し、癒しを願い、それに答えて行くイエス様のお姿が、短い文章の中にダイナミックに記されています。


 それに比べて、手を洗うの洗わないのというルールに拘っているファリサイ人や律法学者の姿はあまりにも小さいと言わざるを得ません。神様の厳しさだけを見て、本質である神様の愛から人々を遠ざけてしまっているのです。イエス様はそのことを厳しく、エルサレムから来た律法学者に教えられだのです。


 もちろん必死でイエス様に群がり、癒していただいた人々が、後々みんな信仰深いクリスチャンになった、ということはなかったでしょう。イエス様もそれはご存知だったはずです。だからと言って人の上に立つべき宗教指導者達が自分のルールを神様のルールとして塗り替えてしまい、救いを求める一般の人々を通せんぼしてしまうことは許されることではない、とイエス様はお伝えになりたかったのです。


 神様は律法を用いてユダヤの民をしっかり教育されましたから、当時のユダヤ人は高い知性を持っていました。神様はその上で、知性に加えて高い倫理観を持って行動することを望まれたのです。どれほど高い知識や教養があっても、目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べることができないなら、それがなんの役に立つのか、と神様はお考えになり、イエス様を通してそれをお教えになったのです。


 こうして誕生したキリスト教が、神様の思いを伝え、愛によって受け入れ合うことを望まれたのです。その担い手となったのが、私たち一人一人です。

 もしかすると今日から当分の間、リモートで礼拝を守っていかなければならないかも知れません。このような状況は、心が殺伐となりやすいでしょう。しかしイエス様は同じように荒れた心を持つのではなく、このような状況だからこそ御言葉に学び、共に過ごす人々に仕え、愛してゆきなさいと教えてくださっています。

 この時、置かれた場所で、イエス様の教えとその業の元に集まり信仰の歩みを続けて参りしょう。



本文で触れた通り、先週からZOOMを用いて
リモート礼拝を行っています。
教会での礼拝に出席するのは
役員から1名、礼拝当番、オルガニストのみです。
他の皆さんはリモートでご参加ください。
ご覧になりたい方は牧師までご連絡ください。
090-1243-7727
ネット環境のない方には週報と説教要約を郵送
あるいは直接ご自宅までお届けします。



        タネから育てたコスモスの花が咲き始めました

            淡い黄色が可憐な感じです




駐車場の植え込みで育てているオキナグサの花です。
初夏に咲くはずなのですが、条件が合うと
今頃でも咲くのでしょうか?

ギボウシ(ホスタ)の花も駐車場の植え込みで
咲いています。
こちらも本来は初夏から梅雨頃咲く花です。
長雨で調子が狂ったのでしょうか?

2021年8月23日月曜日

聖なる弟子たち(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2021年8月22日)

詩編34編16-23節 ヨハネによる福音書 6章66-69節


 本日読みました福音書の箇所は、ヨハネによる福音書6章のまとめと言えるところです。イエス様の教えを聞きたいと5千人を超える人々が集まり、空腹では可哀そうだとイエス様自らがパンを与えます。その後、イエス様はご自分のことを「天から降ってきたパンである」と言われ、それを巡って議論がはじまります。「私の肉を食べ、私の血を飲むものは永遠の命を得る」というお言葉を、そこにいる誰一人正しく理解できず、結局イエス様の弟子集団の中からも、かなりの数が離れてゆくという事態が引き起こされます。


 その後イエス様は12弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」とお尋ねになりました。これは離れていくことを勧めるのではなく「あなたがたは私から離れることはしないだろう。あなたがたは、自身でたとえ離れてしまったとしても、私はあなたを離すことはしない」という強い意味が込められギリシャ語の言い回しです。

 これを聞いてシモン・ペトロは「主よ、わたしたちは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えます。これは信仰告白の言葉です。


 他の3つの福音書でもペトロは「あなたは、メシアです。」と信仰告白しています。ただ、その場所はフィリポ・カイサリアという場所であったと強調して書かれており、信仰告白が行われた場所が重要であるという印象を受けます。なぜなら、フィリポ・カイサリアという土地は、皇帝を神として祀り、皇帝に忠誠を尽くすことの象徴のような所です。そのような場所で、ペトロは「ローマ皇帝など神ではない、イエス様こそ神様です」と力強く信仰告白したことに強調点が置かれました。


 しかしヨハネ福音書は視点が違います。この出来事はカファルナウムで起きていますが、文章の流れでは場所はそれほど重要でないように思えます。それよりも、多くの人が、イエス様から離れ去っていくにもかかわらず、12弟子を代表してペトロが信仰告白をしている、ということに注目する必要があります。


 ペトロは誰よりも先に「イエス様が神の子である」と信仰告白をします。これについてマタイ福音書16章ではイエス様から「あなたは幸いだ」と褒めていただき、「あなたに天国の鍵を授ける」とまで言っていただきます。ところがそのすぐ後、イエス様が十字架の死と復活のことをお話になると、ペトロはイエス様を諌めようとします。そのため今度は「サタン、引き下がれ」と、叱られてしまいます。イエス様から離れないと言ったかと思えば、命惜しさから「あんな奴は知らない」と言って、後で大泣きしたこともあります。福音書から見えるペトロは、素朴な信仰を持つ親分肌の親しみやすい人物ですが、イエス様のお言葉をしっかり理解していたとは言えず、で褒められたり怒られたりします。


 こうしたペトロの言動や人生は、クリスチャンの典型的な例を示すために、神様の導きによってあえて詳しく聖書に刻まれたのではないか、と思うのです。

 教会内部でよくあることなのですが、自分が教会の役員に選ばれ「他でもないあなたが纏めなければ誰も教会の人々をまとめることができない」などとと言われることがあります。


 聖書日課にもあった例ですが、自分が教会役員になった時は熱心に教会に通い、牧師の指示にも従わないほどに、良かれと思ったことを一生懸命にするのですが、一旦、役員から外れると、新しく選ばれた方の意見にことごとく逆らい、最大限の嫌がらせをする方がいた、ということです。これはルーテル教会だけでなく、程度の差はあれ、様々な教会で見られる状況のようです。

 それはキリスト教会が誕生した頃から牧者たちの頭を悩ませて来た問題であり、福音記者ヨハネが属していた教会でも、起こっていた出来事だったのです。


 新約聖書に「ヨハネの手紙1、2、3」があります。この著者が福音記者ヨハネと同一であるかどうかは分かりませんが、おそらく近い人物であったろうと思われます。そのヨハネの手紙の第二には、子ども達の信仰教育を婦人達にお願いしています。当時、男子は強い男性になれるよう教育する考え方が一般的だったはずです。そのような中で愛を教え、神の国を引き継ぎ、世界を愛で満たして欲しいという願いは特殊なものだでしょう。優しい男などいざという時、兵隊として役に立たない、と思われた時代です。しかしそれが神の御心であると確信する著者の思いが行間に溢れています。


 今、私たちの信仰の共同体は、教会の建て直しという明るい目標に向かって歩んでいますが、世の中全体は苦難の時代に突入したように思えます。世界に蔓延した感染症は、変異変異を繰り返し、特効薬が出ない限り、なすすべなしの状態になりつつあります。

 私たちの役割は、そうした世の中に抗いながら、神様の望まれる御国を現実のものとするために、全身全霊を用いることです。損得や自己名誉や、自分がどう思われるのかも脇において、イエス様の為にと歩んでゆく、そこに聖なる者イエス様に続くものとして、聖なる弟子達として歩む道が生まれるのです。


 その歩みは誤解されることも多く、悩むことも多いでしょう。時には、他の目から見れば、明らかな失敗と誤解され揶揄されることもあるでしょう。一番弟子のペトロがそうであったように、クリスチャンとしてうまくいったと思えば大失敗して自己嫌悪に陥る、そんなことを繰り返すかもしれません。しかし、この世で評価されなくても、私たちは神様の目、イエス様の目から見れば、この世の中からわざわざご自分が選び、招き、導いてくださる聖なる弟子たちに変わりはないのです。




昨日は初めてのzoom礼拝でした。

今まではSkypeを利用していましたが

参加人数が限られるので

zoomに切り替えた次第です


現在、礼拝堂に冷房がなく、健康被害が出そうな上

精密機器が動かなくなるトラブルが続出し

幼稚園の保育室をお借りして礼拝している現状です

使用後の消毒にも最新の注意を払います


飯田でも感染者数が増えていますので流石に限界を感じ

役員会決定で「今は集まることを避けよう」ということにしました

予定では牧師、奏楽者、代表役員だけで配信を行う予定でした


しかし御多分に洩れず我が教会も高齢者が多いので

うまくzoomに参加できず四苦八苦

最初からあきらめる方も多く

礼拝の途中「どうやっても見られないので来てしまいました!」と

教会に駆け込んでくる方も


大変な時代ですが

ここは全力で取り組み、共に乗り切りましょう

次週もzoom礼拝です



8月いっぱいはゆり組の部屋からお届けします

2021年8月16日月曜日

わたし達の聖餐式(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝(2021年8月15日)
箴言9章1-6節 ヨハネによる福音書 6章51-58節

 一般の方から「クリスチャンになったら、食べることが出来なくなる食べ物がありますか?」と質問されることがあります。キリスト教の母体であるユダヤ教には厳しい食物規定がありますが、キリスト教にはありません。それがはっきりとわかるのが使徒言行録の10章です。

 イエス様の一番弟子のペトロが、伝道旅行の途中、不思議な幻を見ます。あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が大きな布に入れられて天からつり下ろされ、「それを屠って食べなさい」という主の声を聞くのです。しかしまだユダヤ教的な考えから抜けきっていなかったペトロは「清くないから」と拒みます。するとそれに対し、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とおっしゃいます。

 この出来事の直後、コルネリウスという外国人がイエス様のお話を聞くためペトロを家に招こうとします。それまでユダヤ人は外国人の家を訪問するのは律法で禁じられていました。しかしペトロは先程の幻から「神様はイエス様の教えを広めるために、律法にこだわることをやめるよう教えてくださったのだ」と気づき、コルネリウスと交流を始めます。これをきっかけにイエス様の教えはユダヤ教の枠を完全に超えて、伝道は進展して行きました。こうしてキリスト教会の中からユダヤ教独自の生活習慣はどんどん薄れていったのです。


 現在、プロテスタント教会においては食事の規定も服装の規定もありません。教派によってはお酒やタバコを止めるよう勧めるところもありますが、私たちのルーテル教会も含めて、そのあたり非常に寛大な教派が多いのです。外側から見てその人がクリスチャンかどうかわかることはまずありません。

 教会内部でも、聖書知識や信仰にふさわしい考え方が身についたかどうか、確認する試験のようなものも特に行いません。神様は人間を愛するが故に、人間が自由な意思でご自分を慕うことを望まれるからです。


 そもそも神さまの本質は愛ですから、愛される条件を人間の側が作る必要はないのです。神様は人間がまだ未熟な社会しか作れなかった時、倫理観を教えるために、つまり教育のために、細々とした掟をお与えになったのですが、そこを勘違いしたために、掟が先行し、神様の愛が見えなくなってしまったのです。

 神様が愛であるという事実を後の世にも伝えるために、神様はイエス様のなさること、おっしゃることを、人間の手を通して聖書として書き残す方法を取られました。そうして記された聖書は、聖霊なる神に導かれながら、次の時代に、次の時代に、と受け継がれて行ったのです。


 聖書を通して、私たちはイエス様がご自身を「命のパン」とおっしゃったこと、そしてその意図もおぼろげにでも理解することができます。私たちが神様の愛に気づき、自分自身の信仰を養い育てるために、イエス様の御言葉を味わい、自分の血肉にすることの大切さを、日々感じるようになるからです。

 ヨハネによる福音書は、この「パンを食べる」という表現に工夫を凝らしています。長い間イスラエルの民は、出エジプトの記念として過越しの祭りを守る折、パンを食べる時には立って食べなさい、急いで食べなさいと言われたことに従ってきました。けれども、イエス様がパンを食べなさいと言われた時、この「食べる」は、「噛み砕いて食べなさい、よく味わって食べなさい」という意味で書き記されており、「吟味して食べなさい」とも理解できる言葉です。

 それは味の品定めをするということではなく、なぜ私たちは教会の聖餐式でパンを食べ、主の杯を頂くのかを考えることにあります。

 それは決してお腹がすいているからということではなく、そこに込められた、イエス様の思い、神様の思いを味わいつつ、聖書を通して示された神様の愛が、私に具体的に与えられている。それが私の血となり、肉となり、私がイエス様、私たちがキリストの体となって、あらゆる困難や、迫害にあったとしても、神様から頂いた愛を貫いていく、そこに私たちが現代でも、聖餐を頂く意義があるのです。


 多くの宗教の場合、何かを食べないことで、忠誠を示します。しかし、キリスト教の場合は、食べることで神様への自分の真心を示すのです。自分勝手に「相応しくないから」と食べるのをやめるのではなく、その場に招かれていることを素直に感謝して食事の席に連なるのです。そして、その場で、神様の愛を受け、この人生は、イエス・キリストと共にあるということを、個人個人が、そして、集められた共同体として、確認しあうのです。もし小麦粉アレルギーの方がいらっしゃれば、キリストの愛にならって、共に味わい、食せるものを見つけ出しましょう。遠慮なくおっしゃってください。

 これから先、新型コロナの蔓延によって、いつリモートのみの礼拝になるかわかりません。その時は、各自が用意したものを別々の場所でキリストを味わう聖餐式になる可能性もあります。しかし私たちは、キリストに繋がり、愛において、自由な民です。形や掟に縛られることなく、キリストにある人生を共に覚え、キリストを命のパンとして食し、日々、歩んで参りましょう。



飯田は人形劇の盛んな街で

毎年夏になると、世界各国から人形劇の演者が集まる

「いいだ人形劇フェスタ」開かれてきました


私たちが転任してきた一昨年は

猛暑の中をあちこち見て回って

ふらふらになりました


台湾から来日した中学生の布袋劇

ストリートでもレベルの高い演目がありました

しかしコロナ禍で昨年は中止

今年は規模を大幅に縮小して行われました

もしかしたら来年も以前のような

盛大な催しはできないかもしれませんが

この特色あるお祭りが絶えないようにと

願っています


写真は街中の時計台

毎日正刻になると扉が開き

マスコットの「ぽお」が

コロナに負けじと楽しいダンスを披露しています



2021年8月9日月曜日

引きよせる神(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2021年8月8日)
列王記上19章4-8節 ヨハネによる福音書 6章35-40節

 信仰のありようを語るとき「猿型」とか「猫型」と表現することがあります。「猿型」というのは、仔猿が親猿のお腹の下にしがみついている様子を指しています。一方「猫型」というのは、親猫が仔猫の首根っこを咥えて移動する姿です。危険を察知した母猫は、仔猫の首をくわえて移動します。仔猫は鳴き声を出さず、背中を丸めておとなしくしています。


 キリスト教では、どちらかと言うと、二番目の「猫型」のありようが良いとされています。親猫が仔猫の首根っこを得ると仔猫はどこに連れて行かれるかなどきにするそぶりもなく、完全に信頼して決してジタバタしない。これがキリスト教における神様と私たちの関係の理想に例えられるのです。自分から必死で神様にしがみつこうとして苦労するのではなく、神様の導きに信頼が何より大切だ、という考え方です。

 ただ、人によっては「私たちの信仰は猫型が良いのですよ」と言いますと、ちょっと引っかかるものを感じるかもしれません。時に家族を犠牲にし、時に近所の人々や親戚や友人仲間との付き合いも犠牲にして信仰を貫いてきた。教会内で争いがあっても頑張って教会にしがみついて信仰生活を続けてきた。そんな自分の努力はどうなるのか。もっともな疑問かもしれません。


 この世界を作られた絶対的な存在である父なる神様が、その一人子であるイエス様を十字架にかけても惜しくないほどに私を愛して、救ってくださった。多くの人はこの真理を知って悔い改め、洗礼に導かれます。この思いを永遠に保ち続けることができるなら、私たちの信仰生活はとても幸せでしょう。

 しかし、私たちの日常には様々な誘惑がありますし、天変地異も起こります。また戦争、疫病の蔓延が人間社会を襲います。人生の日数が長かろうが短かろうが、なんの苦しみなく生きていける人はいません。誰もが波乱万丈な日々を過ごします。せっかく信仰に導かれても神様に委ね切るのは簡単なことではありません。 

 イエス様は、そんな人間の弱さをご存知でした。人間というものは「私には信仰がある」と言いながらも自分中心にしか生きられない存在だとわかっておられたのです。


 五千人以上の人々にパンを分け与えたことで、イエス様が王様になられたら自分たちはもはや飢えることはない、と思い込み、人々はなんとかイエス様を担ぎ出そうとして行動はどんどんエスカレートしました。

 イエス様は人々がそんな浅ましい思いを抱いてご自身に群がってきたことを知りつつも、「わたしは命のパンである」と言い、「わたしの元に来るものは決して飢えることがなく、また、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言なさったのです。これは神様からのはっきりとしたプロポーズと言える御言葉でした。イエス様は「私についてくるお前には決してひもじい思いはさせない」と言い切られたのです。


 ところで、ヨハネによる福音書を残したヨハネとは、イエス様の弟子として三年半を共にし、直接触れ合い、十字架の死と復活の目撃者でもある人物でした。そのヨハネが新約聖書の4つの福音書の中で一番最後に福音書を書いた頃には、エルサレムはローマに壊滅させられ、神殿は焼き払われていました。

 しかし、その悲惨な戦いが始まる以前に、イエス様を信じる者たちはユダヤ人たちに厳しく迫害されたことによって、エルサレムから逃げ出します。そして逃亡先の地中海沿いの各地でイエス様の教えを少しずつ広め始めます。やがてその集まりは教会となり、イエス様を信じる人々がどんどん増えていきました。エルサレムで迫害されたからこそ今がある。人々はそのように神様の配剤に感謝したのです。 

 ですから、ヨハネはイエス様に群がった多くの人々がその後どうなったのかよく知っていたのです。むしろその時を振り返りながら書き記した、と言えるでしょう。ヨハネは改めて過去を振り返るとき、イエス様のもとに集まる人々は、神様がイエス様に与えてくださった人々であり、イエス様の元に集まった一人一人は、神ご自身が引き寄せてくださった者たちなのだと確信するに至ったのです。

 

 この「引きよせられていく」という言葉は、綱で引っ張るという意味があり、舟とか車といった大きくて重い物を力一杯ひっぱる時に用いられる言葉です。人一人がひっぱったところで、うんともすんとも動かなかったものが、神様の力で動き出すというイメージを思い浮かべてみてください。

 その強い力は、決して暴力的ではなく、するすると自分の足もそちらに歩いていくような心地さえしながら、神様に引き寄せられていくのです。


 初めに「私たちの信仰は猫型が良いのですよ」と申し上げました。この酷暑、さらにコロナ禍にあっても、こうして努力して教会に来ているのに、親猫に首根っこを噛まれてただ無力に持ち上げられている子猫のようになれ」と言われてもよくわからない、と思われるかもしれません。しかし皆さんは今、神様の見えざる手によって引き寄せられていることを忘れないでいただきたいのです。


 聖書に無数に記されている証し人の生き方を心に刻みながら、今置かれた困難な状況の中でも丁寧に信仰生活を続けて参りましょう。イエス様が、神が私たちを引き寄せてくださり、この場で出会わせてださったことに感謝を覚えつつ、信仰の歩みを進めてて参りましょう。




牧師館ではプランターで何種類か夏野菜を育てています

わずかな量ですが採りたてを食べるのは楽しいものです

また、オクラやナスは花も美しく

観賞用の草花にも負けていません





2021年8月2日月曜日

イエスは命のパン(日曜のお話の要約)

 聖餐式・聖霊降臨後第10主日礼拝(2021年8月1日)
詩編78編23-28節  ヨハネによる福音書 6章24-35節


 今日の福音書はイエス様が五千人以上の人々に食事を分け与えた後のお話です。人々は満腹し、家路に着いたと思われましたが、翌日にはまたイエス様のもとに集まってきました。奇跡の給食を受けて感動した人々は、イエス様を王様にしようと盛り上がったのです。

 それに気づいたイエス様は一旦はお一人で山に退かれました。しかし人々は諦めず、翌日になって、イエス様とその弟子たちが船に乗って出かけたことを突き止めると自分たちも小舟に乗りイエス様を追いかけます。その様子からは執念のようなものさえ感じます。

 イエス様はご自分を探す人々の心の内を見抜き、こう言われました。「あなた方が私を探しているのはパンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

 ようやくイエス様を見つけて、またパンを与えてもらおうと思っていた民衆は、今度は打って変わって厳しいお言葉を投げかけられ、面食らったかもしれません。


 ところで、話は少しそれますが、イエス様が分け与えられたパン、その味はどんな味だったでしょう?

 旧約聖書の出エジプト記の中に、飢えた人々に神様が食事を与える、有名な記述があります。旅の途中で食べ物がなくなった時、人々はモーセに詰め寄り「荒野で飢て死にするくらいならエジプトから逃げてこなければよかった」と怒りをぶつけます。エジプトで奴隷として苦労していたことはすっかり忘れ「エジプトでは肉もパンも腹いっぱい食べられたのに」と懐かしむのです。

 神様はそんな勝手な民衆に、天からマナという食べ物を振らせて与え、さらにはうずらの肉までお与えになりました。このマナというのは「蜜の入ったウェファースのような味であった」と記され、非常に上品で美味であったことがわかります。

 この時、神様はモーセを通して「毎日きちんと足りるだけ食べ物を与える」とおっしゃったのですが、何人かは浅ましくも余分に溜め込み、結局腐らせて無駄にしてしまいます。この出来事は、神様が民衆に愛情を注いでくださっているにもかかわらず、本心から信頼し、頼ることことをしない、その様子を記録しています。

 「旧約聖書の神様は怖い」という印象をお持ちの方が多いようですが、神様と人間との関係はいつもこのような出来事の繰り返しです。どうすれば人間が神様を信頼してくれるのか、どうすれば神様の思いを理解してくれるのか、と神様の側の苦悩が記されているのです。

 ですから、神の御子として地上に来られたイエス様は、神様がどんな時も私たち一人一人を養ってくださる、導いてくださるという真実を伝えようとなさいました。五千人の給食もそのような思いから実行なさった奇跡でした。

 民衆は奇跡に感動し「イエス様にくっついていれば、食べることに困ることはない」と考えます。彼らはイエス様の近くにいることで、神様の愛を感じ、平安を得られる、というよりも、ただただ物質的な満足だけを求めました。


 地上の食べ物は一度食べれば無くなりますから、もっと食べようとするなら、額に汗して働き、お金を得なければなりません。仕事がなくなったら、病気になったら、と、いつも不安がつきまといます。人々はこの時、そんな苦労から解放されることだけを望みました。

 しかし、それはイエス様がお教えになりたいことの、ほんの一部にすぎませんでした。イエス様が本当にお伝えになりたかったことは、神様が自分を愛してくださっていると信じて平安を得、生き方そのものを変えなさい、ということだったのです。

 仮に、どんなに貧しくても神様が共にいてくださる、と信じて生きるなら、心は豊かです。イエス様はそう信じる信仰をさして、「朽ちないパン」と言われたのです。神様と人間をつなぐ信仰を正しく与えることのできるのはイエス様だけです。イエス様は人々の信仰がもう一段階成長することを心から願って「わたしが命のパンである」と言われたのでした。


 しかし残念ながらこの時、この場にはイエス様のお言葉を正しく理解したものはいなかったのです。やがてイエス様は民衆が見当違いな期待を押し付けようとすることを否定し、政治家や宗教家とも対立し、弟子たちにも理解されないまま、孤独の中で十字架の道を歩んでいかれました。

 ただ、時間はかかりましたが、イエス様の復活の出来事は人々を変えていきました。神の御子であるイエス様が「私は命のパンである」と語られたのを思い出した時、イエス様がどれほどの愛の心と覚悟を持って、自分たちを救いに導こうとされたかに気づいていったのです。こうして人々は、朝に夕に食事をするたび、イエス様の守りと神様の愛を思い出し、導きに感謝して祈りをささげる者となっていきました。

 本日の続き、37節でイエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」とおっしゃっています。タイミングは少し後になりましたが、まさにイエス様が言われた通りのことが起こったのです。


 私たちの日常は困難に満ちています。社会全体が大きな不安を抱えているとき「信仰があれば腹は満たされる」と言い切るのは非常に難しいと思います。けれども、信仰は、そうした状況の中でこそ鍛えられるものです。歴史の中の無数のキリスト者は、自分のために命を捨ててくださったイエス様が間違ったことをお教えになるはずがないとひたすら信じて祈り、信仰を研ぎ澄ませていきました。

 私たちも困難の中にあるからこそ幼児のように信頼して祈り、神様の導き、配慮、愛を素直に受け、感謝するものとして歩んで参りましょう。




新型コロナの感染が長野県内でも再びじわりと広がり
飯田でもポツリポツリと陽性者が出始めました
残念ながら今回の土曜学校は中止です
せっかくの夏休みだというに
残念です