2020年7月4日土曜日

7月4日の土曜学校報告

主題聖句
:初めに、神は天地を創造された。 
 (創世記1章1節)
賛美
:かみさまにかんしゃ
 聖者の行進
礼拝出席
 :子ども 土曜保育8名
      教会学校13名 
  おとな 7名

3密を避けながら
今日も楽しく土曜学校を行いました
土曜保育のみんなと一緒に
礼拝と7月のお誕生会
お誕生月の人は5名!
おめでとうのガラポンで
プレゼントが当たりました

製作は「海のリース」
教会学校のメンバー13名が参加


新曲「聖者の行進」には
りか先生もマラカスで参加してくれました


マスクをしたまま賛美やお話は
なかなか大変ですが
子どもたちも慣れてきたようです


お誕生日ガラポン



海のリース製作中


出来上がりました!














年中さんから中学生まで
同じ様に見えてみんな少しずつ違います
よく頑張りました
おうちに飾ってくださいね

次回の土曜学校は8月1日
みんな来てね

2020年6月29日月曜日

受け入れる人の幸い(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2020年6月28日)
エレミヤ28:5-9   ローマ6:12-23 マタイ福音書10:40-42

 本日の聖書箇所は、受け入れるがテーマです。先ほどお読みしましたように「あなた方を受け入れる人は、私を受け入れる」と書いてあります。この意味は「イエス様の弟子、すなわちクリスチャンを受け入れた人は、イエス様を受け入れたのと同じです」という意味です。そしてまた「そういう人は神様から受け入れられていて、ふさわしい報いがある」とも書かれています。

 月曜日の午前中、この場所で幼稚園の合同礼拝を行なっています。イエス様や神様の話をじっと聞くことは4歳、5歳の子どもにとって楽なことではないでしょう。それでも月曜日の朝は、こども達と共にここで神様を礼拝しています。こうして何十年も続けてこられたのは、神様ご自身が子供たちを受け入れておられ、幼子が少々礼拝から脱線する様子すらも楽しみにしておられるからなのだ、と感じられてなりません。
 今、幼稚園に集う幼子たちの中にクリスチャンはほとんどいませんが、クリスチャンである私の話を聞き、神様の御言葉を受け入れているので、イエス様を受け入れているのと同じだ、という事になります。そしてそのような子どもたちは心の成長という恵みを受けているのかもしれません。

 ところで、本日お話ししている「受け入れる」というのは、クリスチャンでない人がクリスチャンを受け入れる、ということとクリスチャンが神様からの使命を受け入れる、という二つのことが含まれています。神様がひとたび誰かをお選びになったなら、こちらが根負けして神様の存在に向き合い、「私はお前を愛しているよ」というメッセージを受け取るまで呼びかけ続けてくださいます。
 そして受け取ったら、あなたが次に何をすれば良いのか、行動に移せるまで、神様は御心を送り続けるのです。それが厳しいご命令であっても受け取ってそのようにする。それがこの「受け入れる」という言葉の中に含まれているのです。

 神様から受け取った使命を果たすために、誰もが嫌がる苦しい道を歩んだ人々はキリスト教の歴史の中に無数にいます。「神様は愛です」「イエス様を信じましょう」この言葉を伝えるようとするだけで、多くの人が拒否反応を示すのです。
 そこで、直球を投げ込むのはやめて、少しソフトに「キリスト教主義」と名乗って「キリスト教精神ではこう言うことをしていますよ」と様々な社会問題に取り組み、この世において困っている人、助けを必要としている人のお手伝いをしたい、守っていきたいと、その手を差し伸べます。
 しかし、ここで気をつけないといけないのですが最初はキリスト教信仰から始まったことであっても、「キリスト教主義」と言う形だけが残って、そこで働く人々は日曜の礼拝など見向きもしない、と言うことが日本にはよくあります。
 ただ、だからと言って絶望するには及ばないでしょう。神様のご計画は壮大です。神ご自身がこの地に来られ、イエスと名のり、弟子たちを集められ、その働きを託されて、今日に至っており、その働きを今、私たちが飯田の地で受け継いでいるのです。この働きはこの世界が終わる時まで続きます。私たちはその途上にいるに過ぎず、神様が次に何を計画しておられるか知ることはできません。
 ですから、今日神の愛を否定し、日曜礼拝を鼻で笑った人が明日救われるかもしれない、ともにイエス様の御名によって働く、力強い仲間となるかもしれないのです。

 私たちは自分に与えられた時間の中で生きることしかできなくても、神様の国は完成に向かって前進しています。私たちは、今、そのただ中にいます。私たちが、こうして、離れずに、共に礼拝する仲間を思い、また、この世界が救われるために、キリストの名において、祈る人を滅ぼすことはありません。私たちには、イエス様によって、頂いた愛の心があります。この心を守るため、変わらないイエス・キリストの言葉を受け入れ続け、その魂を養い、神様の宮である、この場所に、礼拝に集まることを、人生の喜びとして、日々重ねて参りましょう。
 今日、私たちの働きに冷たい水一杯でも差し出してくれる人が、明日神様の招きを受け入れ、共にに神様の恵みに預かって生きると言う希望を持って歩んでいきましょう。





牧師館の物干し台から
(素朴な空間なのでベランダというには
ちょっと抵抗あり😅)
そこで育てている花とそこからの風景
本日は梅雨の晴れ間です
明日はまた雨の予報
隣の空き地でカエルが鳴いています
近くに田んぼも川もないのに
どこからやって来たんでしょう?

2020年6月24日水曜日

7月4日は土曜学校の日

7月4日午前9時から11時30分まで
土曜学校を行います
保護者の方も参加大歓迎です!

マスク着用だけど
元気に賛美して、工作も楽しんじゃおう!

新しい曲は「聖者の行進」
またまたバンド形式で演奏します
みんな覚えて楽しく歌ってくれたらうれしいです




工作は「海のリース」
おうちにお気に入りの貝殻やビーズ
おはじきなどなど、リースにくっつけたいものがあったら
持ってきてください
ねんど板を持ってくると便利です
(なくてもだいじょうぶです)

2020年6月22日月曜日

殉教しても伝えること(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2020年6月21日)
エレミヤ20:7-13   ローマ6:1b-11 マタイ福音書10:24-39

 私たちはつねごろ大自然の美しさに心惹かれますが、時には自然の驚異を目の当たりにして愕然とするときもあります。また、人間同士が仲良くしていくことは素晴らしい、戦争はいけない、死刑は反対と主張している人が、自分の大切な人が誰かに殺されてしまった時、同じことが言えるかというと、ものすごく難しい問いかけになってしまいます。

 世界には理想だけではどうにもならない悲しさや不条理が数え切れないくらいあります。そのような中で、キリスト教は長い歴史の中で「人はどうやって神を信じていけば良いのか」というテーマに真剣に取り組んできますた。時には教会そのものが堕落して、とんでもなく回り道をしますが、不器用なりに、現在に至るまで真剣に取り組んでいます。なぜ教会が歴史の中から消えなかったのかといえば、やはりイエス・キリストの存在とその教えが人を惹きつけ続けるから、ということに尽きるでしょう。

 かつて人間は神様がどこか遠い空の上から人間を見下ろしている、近寄りがたい存在、というイメージを持っていました。それを180度覆したのがイエス様だったのです。
 イエス様は数々の奇跡も行われましたが、それ以前に平凡な人間の生きざまの中にグイグイ入ってこられ、自分はダメだと思い込んでいる人々の心に寄り添い、新しく生き直せるように導かれました。
 イエス様の教えは、究極に言えば「神の愛」というところにつきます。神の愛は全ての人に平しく注がれていて、誰かが特別に神様に愛されているように思えても、この世に存在する命、全ての命は神様にとって平等な愛の対象なのだと教えられのです。

 この教えをイエス様が2000年前に語り始められた時、誰もがパッと受け入れたわけではありません。何と言っても、そこには権力者の都合というものがありました。権威によって他人を支配しようとする者たちにとって、誰でも平等に神様に愛されている、どの命も大切だ、という教えは都合が悪く、排除すべきものだったのです。
 何しろ2000前の出来事です。戦争によって占領された国の民が「私たちの命もきちんと尊重される権利がある」と言い出したら収拾がつかないと権力者たちは思ったはずです。
 しかしイエス様は、強引に権利を求めるようお教えになったわけではありません。力づくで自由や愛を獲得しようとしたら、それは自分を苦しめている権力者のやることとなんら変わらない、と言われるのです。声高に権利を主張するのではなく、どんなに虐げられても苦しめられても、「神の愛は平等に注がれている」という教えを信じ、どのような時にもひたすら伝えていくことを、ご自分の弟子たちには「敵をも愛せよ」とまでお命じになったのです。

 イエス様からその教えを告げ広めていく使命を与えられた弟子たちは、武器を持って戦うよりも大変な人生を歩むことになりました。誰もが神様の前に平等だ、と思おうとしても、憎い相手、嫌いな相手、自分を迫害してくる相手に神様の愛が注がれていると信じ、教えを伝えるのは非常に困難です。壁にぶつかるたびに自分がどれほど心の狭い人間か思い知ることになってしまうのです。
 それでも彼らは必死になって耐えながら、がむしゃらに宣教していきました。そもそも違う神様を信じている人ばかりです。その上、言葉も肌の色も価値観も違う相手です。しかし、弟子たちはそのような人々の中にも、神様の救いを求める心があることを見出し、時には激しく、時には穏やかに、イエス様から託された教えを伝えていったのです。
 その過程で、無理解な権力者によって弟子の多くが命を落としました。殉教です。しかしそれでも教えは次の世代へと確実に伝わり、世界に広がっていったのです。

 だからと言って、あなたも世界中に出て行って死に物狂いで伝道し、殉教しなさい、というつもりは全くありません。殉教は目標ではなく、そうならざるを得なかった、という結果です。私たちが神様の愛を伝えた結果として何が待っているのか誰にもわかりません。
 しかし確実に言えることは、神様からいただいた使命を貫く時、何者にも代えがたい魂の平安が得られるのです。だからこそ数え切れないほど多くのクリスチャンが、自分の置かれた場、導かれた場で、今日も福音を伝え続けているのです。



密を避けつつ
礼拝堂とSkypeで
共に礼拝



でも少しお楽しみもなくては、と
礼拝の後で一曲だけ「父の日特別演奏」😁
全てのお父さんに感謝を込めて
(もちろん父なる神様にも感謝)
即席バンドで「男はつらいよ」
Skypeで何度も見て
楽しんでくださった方もおられたとか
ありがとうございます

2020年6月15日月曜日

世人の救い(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(2020年6月14日)
出エジプト19:2-8a   ローマ5:1-8  マタイ福音書9:35-38

 本日の福音書「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」
 この箇所はマタイによる福音書の4章23節の「町や村を」のところを「ガリラヤ中を」に変えただけで、あとは同じです。4章の方では、イエス様がガリラヤ中を回ってありとあらゆる病気や患いを癒されたので、周辺地方から集まった人々は、イエス様に従った、つまりイエス様を信じた、とあります。
 イエス様はご自分に付いて来る人々を地の塩、世の光にたとえ、あなた方には価値があると教えられました。また、律法についても解き明かし、祈り方に至るまでしっかりと教えられました。

 その後、イエス様は再び様々な病人と出会って、次々といやしの業を行われます。その後で、9章で又同じような書き出しで、物語が再スタートする、という構造になっているのです。

 神様を信じるという単純な心を与えるだけなら、難しいことは何も教えず、いやしの業を続けられても良かったのかもしれません。しかし、イエス様の本来の目的は神様の愛を伝えることです。
 イエス様の願いは自分は神様のものなのだ、神様に愛されているのだ、ということをしっかりと捉えてもらうことですが、人々がそれをしないので、いつまでも苦しみと迷いの中にある。その様子は「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれている」ように見えたのです。イエス様はそんな彼らを可哀想に思わずにはいられませんでした。
 そこでイエス様は、真正面から明確に神の愛を証明する必要がありました。誰からも見捨てられた状況にあっても、絶望と敗北にしか見えない十字架の死に至るまで従順で、最後の最後まで父なる神を信じ続ける姿勢を貫かれ、神のご計画を信じて息を引き取られたのです。

 残念なことにこの様子を見ていた人々は、この時点ではまだなにも理解できませんでした。あれほどイエス様を慕ってた弟子たちはその多くが恐れをなして逃げてしまいました。
 人間は自分が一番可愛い。だから神の子を見捨て、罵り、それまでの関係などなかったことにしてでも自分の身を守りたい。しかしイエス様はそのような人間の弱さ、身勝手な罪を引き受けられました。彼らが罪深ければ罪深いほど、その心の中の苦しみや自己嫌悪は強く深いのだということを理解してくださっていました。
 そして、だからこそ、神様に愛されることを知り、救われて、神に従って生きなければならない。そして地上の命が尽きたのちは神の国、天国に迎え入れられることを知ってほしいと願われたのです。イエス様は最初から最後まで決してブレることはなかったのです。
 
 一方私たちはこの世で神様の業をなしていく時、つまり「世人の救い」のために働く時、自分や仲間の足りないところをあげたり、状況の悪さを理由にして、言い争い、やる気を失ってしまうことがあります。早い話がブレまくりです。
 しかしイエス様は最初から私たちに完璧を求めてはおられません。私たちもまた「飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれた」状態を哀れまれ、招かれたのであり、人より優れているから招かれたのではないことを謙虚にわきまえなくてはなりません。

 イエス様は弟子たちに「収穫は多いが働き手が少ない」と言われました。収穫とはもちろん神様の愛を知って救われる人々のことです。もし私たちが互いに心の中で批判し続けるなら、十分に働くことはできません。収穫は少なく見えます。
 洗礼者が与えられない、二世が繋がらない、そんなことばかりが見えてしまうのです。しかしイエス様ははっきりと「収穫は多い」とおっしゃいました。そして「祈りなさい」と言われました。

 私たち一人一人が自分自身の欠けたところを神様に補っていただき、また互いに補い合い助け合えるよう祈り求め、御声に従うならば、伝道を担う働き人として少しずつ成長していきます。そして「世人を救う」ために自分が何をすれば良いかわかるようになります。喜びをもって働き、多くの収穫を上げることができるようになるのです。


梅雨の晴れ間の夕方
牧師館から見える山々は
息をのむほど美しいです
写真に撮ると電線が邪魔ですが(^^;)


赤石山脈というのだそうです
あれ、違ったかな?
少しずつでも山の名前を覚えていかなければ
勿体無いですね

2020年6月8日月曜日

派遣(日曜日のお話の要約)

聖餐式・三位一体礼拝(2020年6月31日)
マタイによる福音書 28:16-20

 信仰への招きは本人が想像もしなかったことから始まるものです。神様がお招きになる時は、本人の経歴や過去の宗教観は関係なく、完全な計画をお持ちの上で様々な人々を招いてくださるのです。
 そして、なぜ招かれるかというと、この地で命を与えられたものが神様の愛を知り、救われるために、そして神の国の完成のために、私たち一人一人を招いてくださるのです。

 この「完成」という言葉ですが、ヨハネによる福音書では、イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言って息を引き取られます。イエス様は地上におけるご自分の役目を、十字架の上で死ぬことで完璧に成し遂げられ、完成させ、お役目を終えて、満足して息を引き取られたのです。

 創世記の最初には、神様が天地万物をお創りになった時、第7の日に神様がご自分の仕事を完成させて休まれたことが記されています。お創りになった世界は極めて良く、全てが満たされており、不足するところが何も無い世界でした。神様は世界を完璧に完璧に完成させた時、「それは極めてよかった」と満足され、業を終えて休まれたのです。神様の「終わり」というのは壮大な業の完璧な終了なのです。
 
 さて、本日の福音書の箇所は「大宣教命令」と呼ばれている箇所です。この御言葉を通して、神様の救いのご計画の業が弟子達に委ねられたことがわかります。何事も完璧に完成させる神様から使命を委ねられるとき、引き受けることには緊張が走るでしょう。
 この時、イエス様は弟子たちに、「行け」という言葉を使われました。ガリラヤ出身の弟子たちに向かって、「ガリラヤに行け」と言われ、「帰れ」とはおっしゃらなかったのです。弟子たちはその言葉に従い、エルサレムから離れてガリラヤへと向かいました。
 ガリラヤは、弟子たちの故郷です。親、兄弟、親戚、仕事仲間がいます。それらの人々には彼らが挫折して故郷に戻って来たように見えるでしょう。宣教しようとしても、話を聞いてくれる人などいないかもしれません。全く知らない土地に行けと言われた方がいくらか気持ちが楽だったかもしれません。しかし、弟子達はそのような場所に、「帰る」のではなく、イエス様から「遣わされた」のです。
 行きたくない場所や、都合の悪い場所へ遣わされていく。これは非常に厳しい試練です。任務を全うするためにはプライドを捨て、過去の自分を心から悔い改め、ただイエス様だけを信じて前進しなくてはなりません。イエス様に委ねられた業を完成することだけを目指して生きるのです。これがイエス様に派遣されて行くということなのでしょう。

 ガリラヤから始めよ、と言われた弟子達は、のちに自分たちも想像しなかった大きな働きを成し遂げていくことになります。ただし、ここが一番大切なのですが、弟子達から始まったこの働きは21世紀の今日もまだ成し遂げられていません。
 「救いの業」はリレーのバトンのように次から次へと手渡され、ここにいる私たちにも回って来たのです。この壮大な働きがいつ完成することになるのか、まだ誰にもわからないのです。私たちは今の時代、この場所で、その働きを担っています。全ての人たちに向かって、福音を伝え、洗礼を授け、教え導け、と言われるのです。

 2020年になって、私たちは新型コロナウィルスの脅威の中で生きなければならなくなりました。緊急事態宣言は解かれたものの、今後もどうなるかわかりません。
 ご本人やご家族の中に重症化のリスクの高い方がいれば、極力外出をひかえ、礼拝出席も見合わせるのは当然かもしれません。しかし、私たちは聖霊の働きを信じる者であり、その聖霊の働きは、キリスト教会の礼拝の中で説教や聖書の言葉を通して与えられます。これはイエス様が定めてくださったので、私たちが勝手に疎かにすることはできないのです。

 私たちは派遣された者の歩みを、今おかれた状況の中で、祈りつつ知恵を用いて、立ち止まることなく行ってまいりましょう。どれほど困難があっても、新しい宣教の方法は必ず見出せます。イエス様から託された救いの業を神の国の実現を見、次の世代へと手渡すために心を一つにして歩んでまいりましょう。




6月6日(土)久しぶりに
土曜学校を行いました
テーマは「2ヶ月遅れのイースター」

即席バンドも登場して
お祝い気分を盛り上げます
朝比奈牧師…ギター
咲子先生…キーボード
はるか先生…鍵盤ハーモニカ
ゆうこ先生…ドラムス

土曜保育の在園児はマスクなし
なるべく密を避けて


小学生はマスク姿
兄弟は並んでいますが
それ以外はポツンポツンと座るので
こじんまりした礼拝堂が
妙に広く感じます





礼拝の後、発泡スチロールの
たまごに絵を描きます


園庭でたまご探しです


こんなにわかりやすいところに
あっても
案外発見されません


ガランとした感じですが
結構盛り上がったんですよ


感染拡大がなければ次回は
7月4日に実施します
「夏らしいリースを作ろうね」
と約束してさようなら
恒例の集合写真が
撮れなかったのが残念です

みんな元気で集まれますように!

2020年6月1日月曜日

共に信じ、共に祈る(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨祭(2020年5月31日)
ヨハネによる福音書 7:37-39

 聖霊降臨祭、おめでとうございます。今の状況では祝日らしいこともできませんが、共に集えることに感謝いたします。

 聖書の舞台・イスラエルの首都エルサレムは堅固な城壁に囲まれた政治と宗教の中心でした。町の中心にはユダヤ民族の誇り、エルサレム神殿がありました。
 そして乾燥地帯であるにも関わらず、城壁内には豊かな水もありました。ギホンの泉と呼ばれる水源が地下トンネルを通って城壁内のシロアムの池に注がれていました。町に新鮮な水があることは存続と繁栄に直結しますから、ギホンの泉の水からシロアムの池に繋がる水は「いのちの水」とも言われていたようです。

 本日の聖書箇所は「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」という書き出しです。これはユダヤ教の三大祭りの一つ仮庵の祭りです。祭りは数日にわたって催され、その期間中毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、祭壇に注ぐ行事がありました。
 祭の最終日、イエス様は立ちあがって水を運ぶ行列に向かって大声で語られました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
 イエス様は、豊かな水を神殿に運んで行こうとしている人々を前にして、「渇いている人よ」と呼びかけられたのです。

 当時のイスラエルはローマの属国で、政治家や宗教家は国を維持していくためにローマの顔色を伺い同胞を押さえつけました。ですから、エルサレムの繁栄は非常に危ういバランスの上に成り立っていることを、民衆は知っていました。祭りで豪華な捧げものが捧げられても、それは偽りの満足感、一時的な豊かさ、かりそめの幸福感しか与えてはくれません。それでも民衆は、神殿さえ大切にしていれば神様の恵みと繁栄は続くと信じ、それが信仰なのだと考えていました。
 エルサレムにいくら豊かな水があっても、人々は本質的なところで渇いていたのです。ただ、多くの人々は自分自身の渇望に気づくことなく、美しい神殿と伝統ある儀式にすがって生きていたのです。
 しかし、エルサレム神殿はイエス様が天に帰られた後、40年も経たないうちにローマに攻められ、跡形もなく壊されます。イエス様はそうなることをご存知でした。だからこそ、今、心が渇いている者を探し求められたのです。形だけの方法では渇きを癒せない人々を探し、ご自分に従えうよう呼びかけられたのです。

 この時ヨハネは「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、人々はイエス様の言葉がで理解できなかったと記します。「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」とは、「イエス様がまだ十字架で死なれておらず、復活もまだ先のことであった」という意味です。
 そしてここが肝心なのですが、「この時まだ聖霊なる神が降っておられなかったので、人々はイエス様のお言葉の本質を理解する力がなかった」と理解することができます。つまり、イエス様が十字架で死なれ、蘇り、天に帰られることで、初めて聖霊なる神が私たちの元に来てくださり、イエス様のお言葉の真意を理解する力を得ることができる、という意味がなのです。

 ヨハネはさりげない書き方をしていますが、聖霊なる神が来られて初めて、イエス様の語られた真理を理解することができる、と記し、私たちに聖霊なる神のお働きの大切さを教えているのです。
 聖霊なる神が、私たちのところに来られた日が聖霊降臨祭、ペンテコステです。私たちはまさに、聖霊を受け、イエス様のお言葉を理解することができるようになった者たちなのです。そしてその力が与えられた今日という日を祝っています。

 私たちの肉体は適切に水分を取らなければ熱中症にもなります。しかし生きていくなかで、共に信じ、共に祈る仲間が教会を通して与えられました。イエス様を信じる私たちには豊かな霊が注がれ、その心は2度と飢え渇くことなく、満たされる群れの中にいるのです。




↑メンバーに郵送したハガキ

コロナの感染状況を見ながら
月一回の土曜学校を再開していく予定です
ペンテコステも過ぎましたが
「たまご探し」を楽しみにしていた子どもたちの気持ちを考え
またイースターの大切さを知ってもらうために
あえて「2ヶ月遅れのイースター」という企画で行います
今度こそ「お流れ」にならないよう
スタッフ一同祈りを捧げています


園内と外掲示板に掲示したポスター
ハガキと微妙に違います笑


2020年5月25日月曜日

キリストの昇天(日曜日のお話の要約)

主の昇天日礼拝(2020年5月25日)
ルカによる福音書 24:44-53

 キリスト教では「罪」という言葉が多用され、礼拝の中でも「懺悔」の時間が設けられます。自分はそこそこ善人だと思っている人は「人は皆罪人です」と言われて気を悪くすることもあるでしょう。
 しかし罪という概念は、人類が生まれた後、すぐに登場してきます。園の中央にある知恵の実を食べ、神様との約束を破ったことが罪の始まりでした。これは原罪と呼ばれ、全ての人間の持つ性質となりました。人間は、神様の導きに従わず、自分が良いと思ったことをやってしまい、大変なことになるという、悲しい性質をもっているのです。
 「罪」という言葉は元々のギリシャ語では「的外れ」ですが、更に調べますと「正しい道を迷い出る」という意味もあります。「正しい道」とは神様と共に歩む道です。そう考えますと、「罪」という言葉には「人間の愚かさ」を表すと同時に、「神様が人間を正しい道に導こうとする、切なる思い」が込められているのです。
 「罪」という言葉を突きつけられて腹を立てるのではなく「神様は私が道を逸れていこうとするのを見逃すことができず、導こうとして必死で呼んでおられるのだ」と知ることが大切です。そうすれば、「罪人」と言われても神様がこんな自分を愛しておられるのだ、と感謝の思いで悔い改めの時を持てるのではないでしょうか。

 本日読んでいただいたルカ福音書にも「罪」という言葉が出てきます。ルカの想定した最初の読者は、ルカ自身と同じく、エルサレムから離れた場所で生まれ育った外国人達でした。この人々は旧約聖書の知識がなく、イエス様についても「十字架で死んで三日目に復活した方」というくらいしか知りません。そこでルカは、そういった読者にも読みやすいように福音書を記しました。
 ただ、わかりやすく書きつつも、ルカは、人間のできる良いことには限界があって、そこが人間の弱さ、悲しさであることを表現します。この悲しさを生み出すのは、人の罪です。先ほども申しましたように、人は知らず識らずのうちに正しい道から逸れていく傾向があるからです。ルカは、そこに生まれる葛藤や苦しみ、絶望から人間を救うためにイエス様が地上に来られたことを記しました。
 しかし、イエス様のご生涯に込められた神様の計画を知るためには、外国人クリスチャンも旧約聖書を読む必要があります。そこでルカは、イエス様は御自身が天に上げられる直前に「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」という言葉を記しました。
 心を開くというのは、「ちゃんと説明を受ける」という意味でもあります。神の子としてこの世に来られたイエス様が、愛の業を行い、人々を教え養い、守り通したにも関わらず、同胞からは見捨てられ、この世から否定されて殺されてしまう。しかしこれは聖書、つまり旧約聖書に書かれた全てのことが実現するためだった。そのことが非常に短い言葉で46節、47節に書かれているのです。
 メシア、つまりイエス様がなぜ苦しみを受け復活されたのか、旧約を通してしっかり理解できた人々こそが、神様の愛の深さと自分の罪深さに気づき、心からの悔い改めにも導かれるのです。そして悔い改めて新しく歩みだした人々だけが、あらゆる人々に宣教していくことができる」ルカはそのように考え、自分の福音書を読む人々に伝えたのです。

 さて、最後になりますが、復活したイエス様が40日目でどうして天に昇られたのでしょう。イエス様がずっとそばにおられれば、どれほど心強いだろうに、なぜイエス様は弟子たちを置いて置いて天に帰ってしまったのでしょうか。
 その答えは、私たちが礼拝で共に声を合わせる使徒信条にあります。使徒信条では、イエス様は神の右の座におられる、と唱えています。イエス様が父なる神の右におられることを教える聖書箇所で印象的なのが、使徒言行録7章の最後にあるステファノの殉教です。
 死を覚悟したステファノが天を仰ぐと「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見え」たのです。イエス様はその時まさにステファノの魂を迎え入れようと立ち上がっておられたのでしょう。このステファノの証言は私たちに励ましを与えてくれます。
 イエス様は望む人々全てと共におられるために、肉体という制限あるお姿を脱ぎ捨てられたのです。そしてご自分の代わりに見えざる神、三位一体の神である聖霊を地上に送ってくださいました。私たちが信じるならば、聖霊なる神の存在を通して、いつでもイエス様と共にいることができるのです。


先週の金曜日、花苗を購入しに生産者さんのハウスに行きました
ルーテル幼稚園の園長先生の親戚が作っておられるハウスです
小売もしてくださるというので
牧師夫妻(特にゆうこ先生)喜んで出かけました


ニチニチソウ、ジニア、ブルーサルビア
ガザニア、ベゴニアなどなど
広々としたハウスで元気に育っています


マスクに帽子に日除けサングラス
かなり怪しい姿のゆうこ先生

翌日、彼女は自分の選んだ苗を持って
礼拝堂と道路のすき間の細い花壇に植えるべく
体をねじ込んでいました
なかなか大変な作業です



もう少ししたら大きく育って
また道ゆく人を楽しませてくれるでしょう

2020年5月18日月曜日

弁護者キリスト(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2020年5月17日)
ヨハネによる福音書 14:15-21

 キリスト教主義の様々な施設で大切にしている心構えとして、「愛の精神」があります。これは言うまでもなくイエス様が弟子たちに教えてくださった心構えです。しかし「愛の精神」を持って生きるというのは、自動的に出来るようになるものではありません。イエス・キリストは生まれつきの人間は決してできないからこそ、あえて掟として与え、教えられたのでしょう。
 出来ないことをするのは、とても難しいことです。どんな天才も努力しないで何かを身につけることはできません。「愛」というものも、神様から教わった通りに試みて、失敗して、また学び直す。心が折れそうになっても繰り返し学んでいく。そんな謙虚な姿勢が必要なようです。

 イエス様は最後の晩餐の席上で弟子達をご覧になって「今のままの彼らでは、本当に愛の掟に生きることは難しい」と思っておられました。そこで、「私が天に帰った後、別の弁護者を遣わす」と言われたのです。
 これは「あなたがたは愛の実践なんてできない」と言う意味ではなく、「あなたたちだけでは続かない」という意味なのです。「自分の力だけでは続かないのが愛の実戦だ」そのように教えてくださったのです。
 イエス様の弟子達は、イエス様が生きている時に「愛の業を行いなさい」と命じられた時にはちゃんとできたのです。ヨハネ以外の福音書の話になりますが、イエス様から二人ずつ組になって宣教に行くよう促された時、彼らは素晴らしい働きをし、達成感を得て喜びながら戻ってきたことが記されています。
 この時彼らがうまくいったのは、イエス様が傍らにおられることが分かっていたからです。たとえ宣教に失敗しても、ピンチに陥っても、何があってもイエス様が彼らを受け入れ、待っていてくださると分かっていたから大胆に行動できたのかもしれません。
 ところがイエス様がそばにいてくださらないと、途端に自信を失います。「神様が見ておられますよ」と言われても、目に見えない方を信じて行動するのは難しいのです。かつてイエス様がそばにいてくださった時には自然にできたことが、イエス様が十字架にかかってしまうと、できなくなってしまう。かつての自分の心や行動は何処かに行ってしまい、勇気もやる気も失われてしまう。そしてイエス様を知る前の自分に戻ってしまって、世の大多数の人と同じような考え方になってしまうのです。

 しかし、この世から愛の精神、愛の業や言葉が失われて良いはずはありません 神様は、人々に愛の心をもう一度取り戻させるために、愛の精神をもう一度学び直させるために、イエス様をこの世に遣わしました。そして、イエス様に学び、信じるよう示してくださり、その生き方の中に一人一人を招き入れてくださったのです。

 私たちは他の誰かの痛みを理解しようと心を配り、イエス様に倣って誰かに手を差し伸べようとします。それは時にはうまくいき、時には失敗します。人々に誤解され、嫌われ、絶望的な気持ちになることすらあります。しかし弁護者であるキリストは、失敗した私たちを裁くために存在するのではありません。私たちを力づけ、素晴らしいコーチのとして、「発想は良かった、やり方を変えてもう一度やってみよう」と励ましてくださいます。
 ひどく失敗して、他の誰かから罵られても、すべてわかった上で受け入れてくださり、変わらずにそばにいてくださるのです。イエス様が私たちに愛想をつかすことなどないのです。
 私たちは安心して、諦めることなく間違いを正しつつ、時には、大きな悔い改めをもって、生き直すことも必要です。そのような時間と場が、この世には必要なのです。

 私たちは十字架の主イエスを見つめながら、自分の欠けたところをイエス様が満たしてくださることを信じましょう。
 そうした生き方を選び取る時、主イエスがどんなときも共におられ、見守り、弁護してくださることを思い出し、常に感謝しましょう。そして神の見守りの内に導かれるままに歩んで参りましょう。



5月15日(金)はサツマイモの植え付けでした
例年なら、園児、保護者、先生たちがワイワイと
賑やかに作業をするのですが
今年は三密を避けなければなりません



広々とした畑の中で
限られた先生と…


耕運機を持って駆けつけてくださった保護者の方
そして、そのお子さんだけで作業をしました
畝は半分ほど残して
別の日に園児たちに植え付けしてもらいます



密を避けて、と言いつつも
「棒を斜めに差し込んで苗も斜めに」なんて
おしゃべりをしているうちに
ついつい接近してしまいます(^_^;)

秋のお芋掘りの頃にはもっと自由に
作業ができますように!

2020年5月13日水曜日

前回の記事にコメントをくださった方へ

前任の牧師先生から引き継いだこのページ
実は管理がなかなかうまくいきません
コメントにはお返事を書きたいのですが
あっちこっちクリックしているうちに
なんだか妙なことになってしましました😅

こちらにお返事書き込んでおきます
申し訳ありません

ありがとうございます。他愛無い日常のことも多くupしていますが、よろしかったらお時間のある時にご覧ください😊あなた様の上に神様の恵みが豊かにありますように。草刈り、頑張ります!

2020年5月11日月曜日

天の国の住まい(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2020年5月10日)
ヨハネによる福音書 14:1-7
 本日の福音書には「心を騒がせるな」「信じなさい」という言葉が、何度も出てきます。この言葉はイエス様が十字架に掛かる前、最後の晩餐の席上で弟子たちに語られました。
 これまでの3年半、弟子たちはイエス様と共に様々な苦難を乗り越えてきました。仕事も故郷を捨てて、旅から旅へ宣教して回る新しい生活に飛び込んだ彼らは、イエス様と共にあれば大抵のことは乗り越えられる事を体験を通して知りました。
 イエス様の教えと奇跡の力をみた民衆も、ローマに虐げられているイスラエルを再び自由にしてくれるリーダーはこの人かもしれないと期待し始めましたし、弟子たちもイエス様の元でイスラエルの大臣になることを思い描いていました。

 彼らは、自覚はしていなくても、イエス様を押し上げることで自分も高い地位につこうとしていたのです。しかしそれはイエス様を利用する、神様を利用しようとする心の芽生えに他なりませんでした。

 「イエス様を利用する」という発想は「神様を自分の都合で動かそうとする」といことと同じで、神様への裏切りの始まりです。自分の願いや期待を叶えてくれない神様は神様じゃない、と思うようになってしまうのです。もちろん神様は、イエス様を信じる人々に豊かな恵みを与えることを望まれましたが、それは彼らの刹那的な望みを叶えるという意味ではありませんでした。仮に生きている間だけ欲望を満たしてやっても、それは限定的な恵みでしかありません。
 イエス様は、弟子たちに、「自分の願いを叶えてくれるのが良い神様」というイメージを、決して抱かせたくはなかったのです。
 神様がお与えになる恵みとは、神と共に歩もうとしている人々を永遠に変わることのない楽園、神の国にお招きになることでした。人はこの世の命を終えた後、その国に入ることができると信じてほしい、そう願っておられたのです。そしてイエス様は、ご自分が神様の国に至る道そのそのものであると、お教えになりました。

 この食事が終わって数時間ののちには、「私は道である」と言われたその方が、捕らえられ、強盗達と並んで十字架につけられるという、惨めな最期が迫っています。しかし、イエス様はそれを覚悟した上で、弟子たちを真剣な眼差しで見つめながら語られました。
 あなたがたは、人の力に寄らず、自分の成し遂げた行為にもよらず、守ってきた掟やルールにもよらず、神様の力によって、イエス様を信じ、生きている。この一点に揺らぐことなく、天の国があること、その住まいがすでに与えられていることに安心していなさい、と教えられ、迷ったり心を騒がせたりせず、一度信じたイエス様への信仰を保ち続けることを望まれたのです。目には見えなくても、神の国は自分と共にあるのだと確信して、これから起きる事を耐えなさい、と言われたのです。

 ところで、「心を騒がせるな」というイエス様の御言葉を、ギリシャ語から訳しますと、「心が騒がせられるな」という受け身の形で記されていることがわかります。人の心の動きには外からの力が強く影響しています。外からの力によって動揺し、なぜ、このようなことが起こったのか、こんなことが起こるなんて、本当に神様がおられるのだろうか、という風に心が傾きます。
 特に大切な人の死を経験したり、自分の命が脅かされたりしますと、その悲しみと苦しみに我を忘れ、天国なんてない、神様なんていない、と嘆き悲しみます。
 これはイエス様の弟子たちも経験したことでした。弟子たちにとって、かけがえのない存在であるイエス様が十字架に架けられて死に、自分たちにも命の危険が迫っている。その恐ろしい現実に打ちのめされ、一度は閉じこもった彼らでしたが、蘇ったイエス様の力強い証を受けて、天国の存在を信じ、立ち直ることができました。

 死が迫るような出来事があっても、それによって死ぬことになったとしても、神様を信じること、イエス様を信じることを、何があっても止めてはいけないというイエス様の命令を、自分自身のこととして受け止め直し、新たな歩みを始めることができたのです。
 私たちは今、外からの力で心がザワザワと乱れることの多い生活を送っています。こんな時だからこそ、いつにも増して強く神を信じ、世の中に溢れている不安な雑音に心を乱されることなく、イエス様を信じていくことが大切なのです。


教会の隣に空き地があります
園児がときおり先生に引率されて
虫取りに来たりするので
定期的に草刈りをしていますが
なかなか追いつかなくなってきました

ムラサキツメクサは昨年秋に
近くの畦道から頂戴してきたもの
可愛らしい花を咲かせ始めました


ヒメジョオンも一斉に咲き始めました
どこにでもある雑草ですが
江戸時代末期に観賞用として輸入されたものが野生化したそうで
そう思ってみれば可愛らしいかな…とそのままに
しておくことにしました

※上記の植物はハルジオンではないかとの指摘を受け
改めて調べたところ、茎が中空で蕾がうなだれる
などの特徴から、やはりハルジオンのようです
失礼しました



一月前は草刈りも楽でしたが
暑さとともにかなり大変になってきました