2020年3月30日月曜日

ラザロの命(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2020年3月29日)
ローマの信徒への手紙8:6-11 ヨハネによる福音書11:17-27


 毎日、コロナウイルスによる死者の数が報道されています。私たちは今、命が失われることに麻痺しそうな社会状況の中にいます。こんな時だからこそ、命について、今一度信仰的に捉え直してまいりましょう。


 本日の聖書箇所に登場するラザロは、イエス様と強い愛で結ばれていました。ここでは関係性を表す「愛」にギリシャ語のアガペーが用いられています。イエス様は全てを与え、全てを失っても惜しくないほどに彼らを愛しておられたのです。
 ところがそれほど深い絆があったにも関わらず、近くにおられたはずのイエス様はラザロが危篤状態になった時、駆けつける事はなさいませんでした。
 弟子たちを伴って行動を起こされた時、ラザロはとうに墓に葬られていました。ユダヤ社会では、葬儀は1週間も続いたと言われ、親族や友人あげて非常に熱心に行われたそうです。集まった人々の中には余計なことを言う人々も必ず混じっているものです。「あんなに親しかったイエス様は、あんたらが人をやっても来なかったではないか。葬式にも来なかったし、死んで4日もたっているのに、顔も見せない、薄情ではないか」そのような会話が遺族をさらに傷つけたことは容易に想像できます。

 そんな時、イエス様がこちらに向かっていると聞いたマルタは、村の入り口まで迎えに行きます。気丈な振る舞いでしたが、その口から出たのは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という嘆きの言葉でした。
 そんな彼女にイエス様が「あなたの兄弟は復活する」と言われますと、とマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。
このマルタの言葉の真意は私たちにも理解できると思います。「私は神様を信じ、そこそこ善人として生活してきた。死んでも地獄に落ちるようなことはしていない。兄弟のラザロも同様だから、死んだら天国で会えると思う」そんな感じの、どことなくあやふやな死生観です。
 イエス様はそれを見透かしたかのように、こうおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
 イエス様は「信仰のあるものは死によって体が奪われても、滅びることはない」と宣言されたのです

 「このことを信じるか」は、重い問いかけです。しかしマルタは「はい、主よ」と答えます。そして続けて「あなたは神の子、メシアです」と答えるのです。これはマルタの信仰があやふやなところから大きく前進した瞬間でした。

 マルタは最初、ラザロを「見殺しにした」イエス様に

怒りを覚えていたかも知れません。けれども、「あなたの兄弟は復活する」という言葉を聞いて、何らかの形でイエス様は救ってくださるだろう、と自分の理解できる範囲で必死で納得しようとしました。

 そんな彼女に、イエス様はご自分こそが復活であり、命であるとおっしゃるのです。遠い未来でもなく、過ぎ去った過去でもなく、今、私は復活であり、命であるとおしゃったのです。マルタはその力強い言葉に打たれ、圧倒されます。そして自分がどれほどイエス様に大切にされ、愛されているかに気づくのです。

 マルタがはじめに口にした、「あなたがここにいらっしゃたら死ななかったでしょうに」というのは「イエス様、ラザロに対してあなたが奇跡を起こしてくださったら、あなたをもっと信じることができたでしょうし、もっと愛することもできたでしょう」という意味で、奇跡を見てから信じるという態度です。
 しかし、イエス様は奇跡を見せて人を驚かせて信仰に導くよりも、信仰を持った人に奇跡をなさることを喜ばれるのです。どっちも結果的には変わらないと言えば、変わらないかも知れませんが、イエス様が私たち一人一人を愛して下さっていると信じるなら、その奇跡にも愛が深まって伝わるものです。

 マルタはここでイエス様の掛け値のない愛を受け止めたからこそ、まだラザロの命の復活を見ないうちから「信じます」と言葉にすることができました。
 イエス様が私たちに求めておられるのは愛のある信仰なのです。それはイエス様御自身が私たちを愛しておられるからです。
 イエス様は私たちに永遠の命を持って共にいてほしいと願われます。私たちに語りかけ、ついてきなさい、と言われます。そんなイエス様に対して、「いえいえ、まず奇跡を見せてください、そうすればあなたを愛し、ついていきます」というのは「愛してる証拠を見せてくれたら私もあなたを愛してあげよう」という、ただの駆け引きにすぎません。

 私たちにとって「信じる」ということは大変なことです。親しい人に裏切られた経験の無い人はいないでしょう。それが辛い思い出であればあるだけ、神の子イエス様であっても、簡単に「信じます」と言うことはできないかもしれません。
 それでも、私たちがイエス様を信じられるのは、イエス様が私たちの心に直接語りかけてくださり、愛を込めて「信じなさい」と導いてくださるからです。

 現在、私たちの社会は、0.3ミクロンという小さなウィルスに翻弄され、パニック状態になっています。しかし、こういう時こそ、信仰が必要なのです。人間の力を過信し、神様よりもこの世の多くに頼りすぎていたこと。つまり神様を愛してこなかったこと、愛することが分からなかったことを悔い改める必要があります。
 そして何があろうとも、自分が神様に愛されている存在であることを信じて、自暴自棄にならないよう落ち着いて、思いやりを持って行動していくことが求められています。
 ラザロの命がイエス・キリストの元にあるように、私たち、一人一人の命も復活も、イエス様の御手の中にあるのです。信じましょう。信じてまいりましょう。



教会の駐車場脇の植え込みで
「ヒメリュウキンカ」や「ハナニラ」が咲いています
植えっぱなしのまま
冬を乗り越えて、忘れずに咲いてくれました


2020年3月28日土曜日

飯田ルーテル幼稚園・2019年度卒園式が行われました

本年度は14名の子どもたちが巣立って行きました
神様の導きと守りを祈っています

例年なら、土曜日1日かけて
卒園式や謝恩会が行われるのですが
コロナの影響で昨日から二日に分けて
「細切れ」で行われました

折も折、東京からこちらに帰省してきた青年が
感染していたとの報道があり
現場には緊張が走りました
その青年は症状が出なかったからか
飯田市内のあちらこちらに出歩いていらしたようで
その方から広がっていないことを願うばかりです

大都市から急遽帰省してこられる若者が増えることでしょう
若い方は感染しても軽く済むことが多いようですが
その方から感染が広がった先には
高齢者やハイリスクの方々がいると言うことを
強く自覚していただきたいと心から思います


卒園式の写真は都合で載せられませんので
例によって、レゴで卒園式の様子を作ってみました
これでさよならではなく
教会学校にも来てくれますように!




2020年3月24日火曜日

ひかりの子としてあゆみなさい(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2020年3月22日)
エフェソの信徒への手紙 5:8-14 ヨハネによる福音書9:1-11

 私たちは困っている人から心の内を聞かされた時「がんばりなさい」とか「なんとかなるさ」とか、気休めのような言葉を言うかもしれません。あるいは「祈ってるからね」ともよく口にしますが、本当に心から祈っているのでなければ、神様にも相手の心にも届きません。
 自分の知識をあれやこれや動員してアドバイスしようとして、知らず知らずに上から目線になってしまうことさえあります。
 大抵の場合、相手の方が求めているのはそういったことではありません。本気で寄り添ったり、親身になったりするコミュニケーションは本当に難しいものです。誰かの苦しみに本気で寄り添う方法を、私たちはイエス様から学ばなければなりません。

 今日のお話の出来事は、神殿のあるエルサレムの町で起こりました。神様の宮の近くで、目の見えない人が物乞いをしていたのです。ここならば人々が集まりますし、参拝をした後で、お金を恵んで少し善いことをした気分になるのは、よくある事でしょう。また、きっちりした社会福祉制度のない古代国家においては、物乞いに恵みを与えるのは正しいこととされていましたので、エルサレムには大勢の物乞いがいました。

 ここで弟子たちはふと思います。イエス様は常日頃から、神様は愛の方であり、祈り求める者に恵みをお与えになるという教えをいつも語ってくださっている。それなのに、神様の宮のあるエルサレムで、人の哀れみにすがりながら、やっとの事で生きている物乞いがいるのは、なぜなのだろうか。
 そこで出た質問が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」というものでした。

 イエス様は神の御子であり、神様そのものです。物乞いをしているのは神様に裁かれたりバチを当てられたりした結果ではない、と誰よりも知っておられます。イエス様の本質は、救う神であり、助ける神であり、守る神、導く神、愛の神です。イエス様が通りすがりにご覧になった光景は、本来神様の御心ではありませんでした。

 古来より、人間社会の中では、社会の役に立たない障害者は差別されて当然と言う考え方がありました。(残念ながら、現代の日本にもそういう考え方は根強くあります。)イエス様の時代のイスラエルの場合、宗教と政治が間違った形で後押しして、障害のある人々は神に捨てられた罪人と呼ばれていました。
 健常者は気まぐれに哀れみを与えることで満足し、障害者はプライドを捨てて、哀れみを受けながら生活していく、そんなシステムが成立していたのです。

 イエス様はそれをご覧になってお心を痛められると同時に、弟子たちの前で、神様の本当の御心を示そうと決意されます。
 しかしこの日は安息日でした。イスラエルの決まりによれば、この日は労働をしてはならないのです。癒しの技も同様に労働とみなされました。急を要する病人ではないのですから、翌日奇跡を行われても良かったはずです。しかし、イエス様は長い間障害と差別に苦しんできたこの男性をもう1日絶望の中に放置することはなさいませんでした。
 本日の福音書の9章4節に、招きの言葉が記されています。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。

 イエス様が地上で自由に行動なさる時間は限られていました。十字架の死を迎える前に、今、目の前にいるこの盲人に、一刻も早く光を与えることが神様の御心であると確信されたのです。
 ここで注目していただきたいのはイエス様のお言葉です。「わたしたちは、私をお遣わしになった方の業を行わなければならない」と言われています。
 ここでは共にいる弟子たちに向かって言われていますが、実際にはイエス様を信じる人々、こうして礼拝に集う全ての人々に向かって「わたしは、世にいる間、世の光だ」とおっしゃったのです。

 イエス様は2000年後に弟子となった、今ここにいる私たちに向かっても、「あなたがたは世の光だよ、私が導くのだから、あなたたちは、奇跡を信じ安心して愛の業を行いなさい。」と教えてくださっているのです。
 あなたが悲しみや苦しみのどん底にあるとき、あるいは苦しみの中にいる誰かと出会う時、イエス様が共にいると信じるあなたは、悲しみの向こうに必ず光があることを知っている、だから解決を求めて右往左往するのではなく、ただ、私に学びつつ歩みなさい、と言われるのです。
 本当の慰めは、自分の中から出るのではなく、神様から、イエス様から与えられるのだ、それを信じて歩むのが光の子だと教えておられるのです。

 私たちがイエス様の十字架を見上げるとき、完全な敗北がそこにあるように見えます。しかし同時にそこに自分の罪の赦しを見るのです。たとえ負けで終わっても、そこに神様の愛が働き、次に奇跡が起こることを私たちは信じるのです。
 人間の常識を超えた復活は神様の業です。悲劇的な結末に周りが涙しても、それで終わりではなく、必ずその向こうに光があります。
 「ひかりの子として歩みなさい」私たちは、その光を信じ、光を必要とする誰かと寄り添いながら歩んでまいりましょう。



今週の金曜日、卒園式を迎えます
同時に、当教会の代議員で、
長年園バスの運転手を務めてこられた
熊谷兄が運転手を引退されますので
記念に園バスを制作してみました
長い間、園児たちの安全登園に貢献していただき
本当にありがとうございました

2020年3月16日月曜日

イエスとサマリアの女(日曜日のお話の要約)

四旬節第三主日礼拝(2020年3月15日)
ヨハネによる福音書 4:7-15

 イスラエルの国は、紀元前900年代に北と南に分裂しました。北側が「イスラエル王国」で首都はサマリヤでした。南は「ユダ王国」で、首都は神殿のあるエルサレムでした。
 北王国イスラエルは紀元前721年に、当時の大国アッシリアに滅ぼされます。それによって血筋と宗教が入り混じった人々がサマリア人です。
 南王国ユダも紀元前500年代にバビロニア帝国との戦いに負け、人々は捕囚されますが、およそ50年の時を経て故郷に戻ることが許されます。帰還した彼らは、律法に基づいて純血のユダヤ人で神様を再建し、礼拝していくことを誓い合います。
 そんなユダヤ人の元に、サマリア人が神殿建設を手伝おうと訪れますが、ユダヤ人たちがそれを断ったことから関係が悪くなり、何百年もたちました。

 この日、イエス様一行はエルサレムからガリラヤへ帰る途中でした。行きはサマリアを迂回しましたが、帰りは「サマリアを通らなければならなかった」のです。イエス様はサマリア人の中に、救うべき魂があることを知っておられたのです。
 イエス様は正午ごろにサマリアにあるヤコブの井戸の側で、水を汲みにきたサマリア人の女性と出会います。ここは暑い国で、こんな時間に水を汲みに来る人はいません。人々は朝涼しいうちに井戸端会議の一つもしてから一日を始めます。しかしこのサマリアの女性は人目を避け、誰もいないはずの時間を選んでやってきたのです。

 イエス様は女性に声をかけ「水を飲ませてください」と言われます。イスラエルのような乾燥した国々では、旅人から水を乞われれば普通は拒否しません。しかし彼女はイエス様がユダヤ人であることを理由に、断りたいそぶりです。
 そんな彼女にイエス様は「もしあなたが「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」とおっしゃるのです。

 彼女の喉は渇いていなくても、彼女の心は渇いてひび割れて、素直な憐れみの心さえ持てなくなっていました。イエス様は、もしあなたが望みさえすれば、私にはあなたの渇いた心を潤してあげられるるのに、と言われたのです。

 しかし彼女はまだユダヤ人とサマリア人の宗教観の違いを持ち出してイエス様に反論します。この井戸は由緒正しい井戸でこの井戸の水も素晴らしい。それに対してイエス様は「この水を飲んでもまた喉が乾くが、私が与える水を飲んだら二度と乾かない」と言われます。もちろんイエス様が言われるのは魂と信仰の問題です。しかしそれを聞いた彼女は「もし喉が乾かない水をもらえるなら、その水をください」と反応します。
 するとイエス様は「あげるよ」とはおっしゃらず「あなたの夫をここに連れて来なさい」と言われました。

 彼女が今同居している男性は正式な夫ではありません。身勝手な男達に翻弄され、捨てられることを繰り返してきたのです。痛いところを突かれて彼女は戸惑います。彼女はここに至って、自分の心の飢え渇きを知ります。この方は尊い方だ、と気づいた彼女の言葉遣いは変わって来ました。そしてついに「キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と口にします。自分の渇きを潤してくださるのは、この井戸の水ではなく、メシヤ、つまりキリストと呼ばれるかたである。もしかしてあなたがそうなのですか?
 それに対するイエス様のお答えは「その通りだよ」でした。
 
 彼女は大切な水瓶をそこに置いたまま、街へ飛び出していき、イエス様のことを証しします。人目を避けて水を汲みに来ていた彼女の180度変わった姿がありました。
 イエス様の救いがこのサマリアの女の人から伝わり、やがて彼女が伝えなくても、サマリアの人々は神を知るに至ったのです。

 人生の中で知らず知らず命の水を求めて渇いている時、命の水の与え主、イエス様はすぐそばにいてくださいます。サマリヤの女が、イエス様を伝えるために走っていったように、いのちの水の流れるこの教会で、すべての人がその恵を受けられるよう、この場に集う祝福を告げ知らせて参りましょう。


前回お知らせした「牧師VSゆり組」の綱引き大会
元気なゆり組にあっさり負けてしまいました
その後、先生が二人加勢してくれましたが
やっぱり負けました
もうすぐ一年生のゆり組さん、この調子で頑張れ!

2020年3月9日月曜日

イエスとニコデモ(日曜礼拝のお話の要約)

四旬節第二主日礼拝(2020年3月8日)
ヨハネによる福音書 3:1-17

 先ほど朗読していただいた3章16節の御言葉は小聖書と言われるほどの深さを持っています。この御言葉を聞いて「本当にそうだ」と納得できるなら聖書全体を理解したのと同じだとまで言われているのです。

 ここに登場する「ニコデモ」は高齢者でしたが只者ではありません。ファリサイ派の一員として、サンヘドリンと呼ばれるイスラエル最高議会の71人の中に選ばれるほどの人物でした。ニコデモは社会的に高い地位にあり、周囲の人々から尊敬され、お金の苦労もない人だったのです。
 しかし、歳を重ねて、律法通りの宗教行為を行うことに次第に気力や体力がついていかなくなったニコデモは、今の自分が本当に神の国に入れるのかと不安になります。そんなとき彼はイエス様のなさる奇跡を目の当たりにしたのでしょう、お会いして話を聞きたくてたまらなくなりました。
 とはいえ、議員であるニコデモが、自分よりずっと若く、社会的地位もないイエス様を訪ねるのは、勇気のいることです。ですからイエス様の元を訪ねるのに人目につかない夜を選んだのでしょう。
 やっとの思いでイエス様にお会いできたのもつかの間、イエス様のニコデモに対する答えは厳しいものでした。「はっきりいっておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。これはニコデモが、今までの自分の努力は無駄であったと感じられるほどの厳しい言葉でした。
 しかしイエス様の用いられた、この「新たに」という言葉は、実は「上からの」という意味でした。イエス様はニコデモに「これからは上からの、つまり神からの導きをちゃんと受けて生きていきなさい」とおしゃったのです。律法ばかりを見るのではなく、それを与えてくださった神様をこそ見上げなさい、という意味であって、「お前は赤ちゃんになれ」とか「母の胎内に戻れ」という意味ではないのです。

 皆さんはもうお分かりかと思いますが、イエス様がおっしゃったのは、何をするにも、ただ神様が中心なんですよ、というシンプルなことです。
 私たちは、何かを学ぼうとする時、もっと前からやっておけばよかったとか、生まれた時から環境が整っていた人を羨ましいとか考えます。イエス様への信仰に関しても、何かの習い事のように、もっと頭が良かったら、とか、良い牧師や良い教会に巡り合っていたら、もっと信仰深くなれたかもしれないのに、と想像したりします。
 しかしそれは自己中心的な考えなのです。神様が私たちのために用意してくださった御計画とタイミングがあります。過去を振り返って後悔やひがみで心をいっぱいにしてしまうのは馬鹿馬鹿しいのです。
 神様は私たちをずっと愛してくださっているけれど、私たちの方が神様の愛に気づくには一定のタイミングがあります。様々な苦しみや悲しみがあったからこそ、今、神様を信じる私がいるのです。
 
 ニコデモは、イエス様のなさったしるし、つまり奇跡を見て、イエス様を信じるチャンスが与えられました。
 この後、7章50節では、一方的にイエス様を逮捕しようとした議員たちに対し、「きちんと本人から事情を聴くべきだ」と弁護し、却って仲間からバカにされています。しかし19章39節では、十字架にかかって亡くなられたイエス様を、アリマタヤのヨセフと共にに墓に葬るのです。イエス様の弟子たちが恐れて逃げ去った後の事ですから、ニコデモの行動がどれほど勇気と愛に溢れていたかわかります。
 ニコデモは確かに、自分に注がれる暖かい神の眼差しを信じる者として生まれ変わったのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためである」
 この「滅び」というのは「永遠の悲惨」という意味です。イエス様は今この瞬間も、私たちが永遠に苦しむことのないように、救いの手を差し伸べてくださっています。

 イエス様を信じて生きていこうとする者は、歳がいくつであったも生まれ変わった者なのです。互いにそれを堅く信じ、救いに生きる者として歩んでまいりましょう。




3月10日は、牧師vsゆり組14名の綱引きを行う予定です
もうすぐ卒園のゆり組さん
良い思い出になりますように
でも天気予報では雨!?




2020年3月4日水曜日

教会学校についてのお知らせ



おしらせ

コロナウイルス感染拡大防止について
3月1日の役員会で話し合いました

飯田教会はルーテル幼稚園と施設を共有しているため
施設使用などは園側の防止策に準じることとなりました
(胃腸風邪も園児間で発生しているため、さらに注意が必要です)

1)教会員は礼拝堂とトイレ以外に立ち入らないこと
 ・教会学校および分級教室として使っていた「ゆり組」教室について
  教会員は当面使用不可
 ・手洗いは奥の蓋付き便器のみ使用、蓋を閉めて水を流すこと
 ・教会員が帰宅した後、牧師夫人がトイレの消毒を行う
  (便器、ノブ、蛇口等)

2)教会学校は継続する
 ・分級教室がないため礼拝堂後方のスペースを使用する
 ・3月の土曜学校は休会とし、状況を見て再開する

3)礼拝に関して
 ・可能な限りマスク着用
 ・式文を歌わない
 ・賛美歌は短縮
 ・聖餐式は4月12日イースターまで見送る

4)3月第三週の婦人会主導の愛餐会は休止

5)イースター愛餐会は状況を見て検討する


※追加、修正は順次お知らせいたします
 1日も早く終息宣言が出されますよう共にお祈りいたしましょう





2020年3月3日火曜日

荒野の誘惑(日曜礼拝のお話の要約)

四旬節第一主日礼拝・聖餐式(2020年3月1日)
創世記3:1-7    ローマ 5:12-19 マタイによる福音書4:1-11

 ルーテル教会では、先週の灰の水曜日から始まった40日、イースターまでの日曜日を除いた40日間を受難節(レント)と呼びます。この期間、自分のように罪ある者がいつの日か天国に招いていただけるのは、イエス様のお苦しみあってのことだ、と強く心に刻むのです。

 そのような季節の始まりに、私たちは「荒れ野の誘惑」の説教を共に聞くのです。
 イエス様ほどの方が悪魔の誘惑に引っかかるはずはありません。何のためにこのようなことが書かれているのかといえば、言うまでもなく、私たちのためです。

 神様が作られた最初の人間、アダムとエバは蛇の誘惑に負け、神様と交わしたたった一つの契約「あの木の実だけは食べてはならない」と言う約束を破棄してしまいます。契約破棄の罰はエデンの園から追い出されることでした。
 しかし神様は人間を放っては置けず、イエス様によって、再契約をし、もう一度楽園に招こうとしてくださいます。それが神様がイエス様をこの世に遣わされた大きな目的です。

 この日、イエス様が荒野に導かれたのは、わざわざ悪魔から誘惑を受けるためだったと聖書にはと書かれています。勝利できることが分かっていても、40日間断食をしてお腹ぺこぺこのところに悪魔がやってきてあれこれ話しかけられるのは、イエス様といえども楽しい事ではありません。
 悪魔はまず「腹ペコなら石をパンに変えたらどうだ」とそそのかします。するとイエス様は申命記から引用して「人はパンだけで生きるものでない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と返されます。

 それを聞いた悪魔はすぐにイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と誘惑します。これが二つ目の誘惑です。
 悪魔は「あなたの信仰は立派だ、見上げたもんだ、それだけ信仰があるなら、神様が守ってくれるだろう、その証拠をみせてもらおうじゃないか」と言うわけです。

 人間である私たちは、試練をくぐり抜けた時、自分の信仰が成長したように思えます。そこに悪魔はつけこんでくるのです。そこにあるほんの少しの自惚れを悪魔は突いてくるのです。私たちは、自分の信仰を証ししようとするとき、ただ祈るだけ、というのは地味に感じられ、神様が自分の言うことを何でも聞いてくれる、と他者に対して演出したくなる誘惑に陥るのです。
 しかしそこはイエス様です。やはり申命記を用いて「あなたの神である主を試してはならない」と答えられたのです。これは、派手なことをして試さなくても、神様はいつも私とともにいてくださることは分かっている、という強い確信です。
 
 三つ目の誘惑は「俺を伏し拝めば、世の中の全てを与えよう」。
 「悪魔に魂を売る」という言葉がありますが、確かに信仰そっちのけで血も涙もない商売をすれば、この世の富を得ることができるかもしれません。しかし、この世の命が尽きるとき、そのような生き方をした者はどうなるのでしょうか。

 悪魔がこの世の富や栄誉を与える権限があったとしても、イエス様から頂く平安と、天国への希望には変えられません。悪魔から求めたりしないで、神から、イエス様から与えられることを望むのです。

 今、私たちは大きな試練の中にいます。疫病の流行のせいで、各地で混乱が起き、経済も不安定になっています。礼拝も、幼稚園も、国や役所のお達しに振り回されている感があります。けれども、イエス様はこういうことは、世に起こることになっていると聖書を通して教えられています。むしろ、こういう時こそ、み言葉に聞いて心を鎮め、イエス様に聞き、何が最善であるか祈り、従っていくことが、私たちの務めなのです。そして、そこに平安があるのです。

 私たちには、荒野の誘惑に勝利されたキリストが共にいてくださいます。私たちがたとえ敗北を感じるような時も、どんな時も、どこにいようとも、神ご自身を礼拝すること忘れないで、この出来事を大切な教訓として歩んで参りましょう。




こんな時期ですが、教会員有志と車を乗り合わせ
セツブンソウと福寿草の自生地に行ってきました
現地の福寿草祭りは中止となり
人も少なくてむしろゆっくり
鑑賞することができましたが
準備してきた地元の方は、さぞ無念でしょう

人間の右往左往に関係なく
花たちは静かに咲いていました

2020年2月29日土曜日

お知らせ

日本福音ルーテル教会常議員会より 2月20日に
『新型コロナウイルスに対する「注意喚起」』が出されました
http://jelc-news.blogspot.com/2020/02/blog-post.html

飯田市ではまだ感染者の報告はありませんが
飯田教会礼拝出席者は高齢者が多く
施設もこども園と共有であることから
感染防止が最重要であると考え
礼拝内容の変更を決定しました

飛沫感染を防ぐため、賛美歌を少なくし
式文を歌うこともしばらくの間取りやめます
また、手指消毒用のアルコールが
手に入りにくい現状にあるため
3月1日の聖餐式も行いません

3月1日礼拝後に役員会を行い
今後の諸集会の延期、中止、継続について話し合います

みなさま不安の中におられると思いますが
冷静な判断ができるよう主に祈りましょう
また、感染した方々の癒しと事態の収束を祈りましょう
社会の混乱に振り回されることなく
この危機を乗り越えてまいりましょう

主にありて



2020年2月24日月曜日

イエス様の本当の姿(日曜日のお話の要約)

変容主日礼拝(2020年2月23日)
出エジプト24:12-18 Ⅱペトロ 1:16-21 マタイ福音書17:1-9

 この日、イエス様は弟子の代表であるペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られます。そこでお彼らの目の前で姿がで変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています。その上、目の前にモーセとエリヤが現れ、3人で語り合い始めたのです。弟子たちはそれはそれは驚いたのではないでしょうか。

 モーセとエリヤは、強い信仰を持ってイスラエルの人々を導き守った、旧約聖書の英雄です。モーセとエリヤは天国にいると信じられ、特に預言者エリヤは、この世の中が終わる時の先ぶれとして必ず地上にやってくると言われていました。
 そんな二人が目の前に現れ、イエス様も今まで見たこともないお姿に光り輝いています。イエス様、モーセ、エリヤの3人がこの山にいるということは、ここは天国そのものです。ペトロは、3人にいつまでもとどまって欲しいと願い、とっさに仮小屋を建てると申し出ます。しかしながら、この申し出は聞き入れられませんでした。
 彼らが今この時に、ここに集まったことにはペトロの予想もつかない、大きな意味があったのです。

 モーセもエリヤも、過去においてなかなか神様のいうことを聞かない民衆を導いてきました。その二人に対してイエス様は、これからのご自分の計画をお話になったのではないでしょうか。イエス様が十字架に掛かり、一人一人の罪を償うことで、神様との和解と赦しが得られるという計画です。和解した人々はこの地上で命を終えた後、再び天国で命を得るという素晴らしい計画なのです。
 モーセとエリヤは賛成とか反対とかいう立場ではなく、イエス様が神様の約束を果たすために、壮大な御計画を実行に移される、その事の励ましのために現れたのだと解釈されるのです。

 イエス様は、ご自分で望まれさえすれば、十字架の死の苦しみや死を回避する道もありました。苦しみの道をこのまま歩んでいかれたとしても、ちゃんと信じる人がいなければ、その計画は失敗であり、苦しみ損ということになります。
 私たちの救いのためにイエス様が選ばれる方法は、本当にこの道しかなかったのでしょうか。

 伝道者パウロはコリントの信徒への手紙一 1章21節に「宣教という愚かな手段」と言う言葉を用いています。宣教とは「十字架につけられたキリストをコツコツと宣べ伝える」ことです。イエス・キリストを、私たちのために十字架につけられた方として受け入れ、その上で、他の人々にもキリストは神の子、救い主と宣べ伝えましょう、と呼びかけるのです。ある意味、なんとまだるっこしいのか、と思わずにはいられません。
 神様は、人間がもっとパッパッと信仰に入れる方法を考えてくれても良かったのではないか、と思いつつ、しかしこれしか方法がないのだ、だからこそこの手段は「愚かなようで愚かではない」とパウロは述べています。

 イエス様が十字架の上で苦しみに耐えて死なれたのは、私たちが神様の救いに招かれていることを伝えるためであり、それを伝えるためならば、ご自分の命などいらない、そう思われるほどに私たちを愛してくださったのです。
 この事実を宣べ伝え、愛されているのは自分だった、自分のためにこそイエス様は死なれた、そう信じられる人を掘り起こしていく。どれほど時間はかかっても、これこそが確実な手段であるとイエス様は確信しておられました。そのために、この苦難の道を選ぶ決意をされたのです。
 そしてペトロに対し、仮小屋など作って神をいたずらにを祭り上げるのではなく、これから十字架の道を行くイエス・キリストに全てを聞けと言われたのです。

 私たちは、些細なことから神様の愛と赦しを疑い、不安に心が占められることがあります。長年信仰的に生きてきたはずの人でさえ、試練の中で救いの確信がぐらつくこともあります。そのような時、私たちはもう一度教会を通して十字架を見つめ、イエス様がどれほど私たち一人一人を愛してくださったことを思い返しましょう。


 イエス様は天地の全てを作られた光り輝く偉大な神であると同時に、私たちの身近にいて手を差し伸べてくださる方なのです。私たちは、そのイエス・キリストの姿を自分の置かれた場所で示す使命を担っています。その声に従っていけますように、祈りあって歩んでいきましょう。


ルーテル幼稚園の先生方に誘っていただき
教会員の推定80歳(!)の方と4人で
開田高原までスキーに行ってきました
(出発前に牧師館の前で撮りました)

一日過ごして一番バテたのは私でした

2020年2月17日月曜日

「腹を立てるな」という教え(日曜のお話の要約)

顕現第6主日礼拝(2020年2月16日)
申命記30:15-20    Ⅰ コリント3:1-9 マタイによる福音書5:21-26

 自分で自分の信仰的限界を決めてしまいがちな方の決まり文句に「こんな私でもイエス様は愛してくださる」という言葉があります。もちろんこれは真理ではありますが、一つ間違えれば信仰の乱用となります。出来ない自分に開き直ることで、自分で自分のクリスチャンとしての成長を止めてしまうのです。
 イエス様は私たちが何者であっても受け入れてくださいますし、どれだけ失敗を重ねても変わらず愛してくださいます。しかしキリスト者として成長する努力をやめてしまいなさい、とは仰らないのです。私たちは生涯、イエス様の教えに従って、人として相当にハードルの高い教えに向かって、挑戦を続けなければならない存在なのです。

 その難しさの極みが、本日の「腹を立てるな」という教えかもしれません。「そんなの無理」と初めから決めてかからず、これを私たちにお教えになったイエス様のお気持ちを考えながら、聖書に聞いてまいりましょう。

 本日読みました箇所の「腹を立てる」という言葉を新約聖書のギリシャ語で見てみますと、「満ちたれる」という言葉が出てきます。
 「満ちたれる」。具体的に考えてみると、教会の仲間に対して、満ちたれることを望むことです。満ち足りた集まりになるのは良いことかもしれませんが、そのために、誰かに向かって「ねえ、もっとできないの」と言い始め、「なんで、できないの」とイライラする状態に変わってしまう。これがすでに腹を立てている、という状態だと言うのです。

 人の欠けたところ、足りないところを指摘して改善してあげたいと思う時、実は自分が満ち足りたい、つまり満足したいために指摘して、それが達成できないのでさらにイライラすることが多いのです。子育て中の親御さんなどによく言われることですが、この構図は教会の中でもぴったり当てはまります。
 もちろんこれは何でもかんでも好き勝手にやらせて注意もせず、放置しておけばいい、という意味ではありません。互いに過ちを犯したら適切にブレーキをかけ合う工夫は必要なのです。ここが難しいところです。

 イエス様の言われるのは、自分の理想を押し付けたり、自分の考えが最高で相手の意見は愚かだと決めつけて、勝手にイライラすることを改めないなら、あなたのクリスチャンとしての成長はありません、ということなのです。

 そもそも「ばか」とか「愚か者」と言われて嬉しい人などこの世にはいません。だからこそ「ばか」と言うものは「最高法院」に引き渡され、「愚か者」と言うものは、火の地獄に投げ込まれるといわれるのです。
 現代の私たちは小さい頃から道徳教育を受け、「お友達にバカと言ってはいけませんよ」などと教わります。欠点を補い合うことや、知的に障害がある方達の人権を保障しなければならないことも知っています。それでも知っているだけで、なかなか身につかないものです。
 ましてやイエス様が活動しておられた時代は今から2000年前の古代社会です。身分の高い人が自分の使用人や奴隷に対して、気分次第で「ばか」とか「愚か者」と怒鳴るのはごく当たり前のことだったでしょうし、仕事場で先輩が後輩に偉そうに振る舞うのも普通の事だったでしょう。
 身体障害者は神様に呪われた存在として偏見の目に晒されましたし、知的障害を持った人々を面と向かって侮蔑の言葉で呼ぶなど、普通のことだったはずです。
 こんな状態の社会だったからこそ、イエス様はご自分の弟子たちに、どんな人にも人として守られるべき尊厳があることを厳しい言葉で一から教える必要があったのです。

 イエス様は、神様の喜ばれる教会というものは、社会的立場や生育歴、受けてきた教育のレベル、個人的な頭の良し悪し、障害と呼ばれるもののあるなし、そう言った要素の一つ一つが異なる人々が集まって形成していくものであり、互いの違いを受け入れ合うことで、より豊かになっていくとご存知だったからです。

 本日の第二の日課、第一コリントの中には、「硬い食物」という言葉が出てきました。困難な教えに挑戦していくことが「硬い食物」を咀嚼(そしゃく)することなのです。自分にとってできそうもない教えだからと無視し続けるなら、いつまでもお乳を飲み、離乳食を食べている赤ちゃんのようなクリスチャン、ということになります。
 
 教会において、思いもかけない人々と出会い、以前の自分では考えられなかった価値観に目覚めていくことがあります。そこにキリスト者としての醍醐味があります。いたずらに腹を立て、相手を拒絶することは、それら全てを台無しにします。感情に振り回されて必要以上に怒ることは人生の時間の浪費に他なりません。イエス様はあなたや私が憎しみや怒りに捉われて、一生をイライラと過ごすことを望まれるわけがないのです。
 
 そして最後に一つだけ。人生の中で、不条理なことが起こった時、私たちは神様その方に腹をたてることもあります。神様が私を愛しておられるのなら、なんでこうなるのかと怒りをぶつけたくなるかもしれません。しかし苦難の中にあっても、本当にとことん自分は神様に愛されている、そう思い出すなら、人は苦しみの中にも喜びを見つけることができます。そのように作られているのです。
 怒りがどうしても抑えられず、心の整理がつかないときには、直接神様に申し上げましょう。決して綺麗な言葉でなくて良いのです。それが祈りになります。神様は必ず耳を傾けてくださいます。
 この世の人々からは呑気な楽観主義者と馬鹿にされても、この生き方を選びとっていきましょう。


教会の隣の空き地に小さなオレンジ色の花が咲いています
「冬知らず(カレンデュラ)」というそうです
妙に暖かくて調子の狂う冬でも
元気に咲いています

2020年2月10日月曜日

地の塩、世の光(日曜日のお話の要約)

顕現第5主日礼拝(2020年2月9日)
イザヤ58:1-9a    Ⅰコリント 2:1-12 マタイ福音書 5:13-20

 塩というのは、大昔から人間いとって欠かせないものでした。
 日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代の終わりから弥生時代にかけて、つまり紀元前400年ごろのようです。
 兵隊のことを英語では、ソルジャーといいますが、元は給料を塩で貰っていたということから。また給料をもらって働く人のことをサラリーといいますが、これもラテン語で、「塩」という意味です。古代から、働いた報酬として「塩」が与えられました。料理だけでなく、防腐剤や、消毒剤となる貴重なものであることがわかっていたからです。

 つまりは、塩というのは、私たちのすぐ身近にあり、日常生活のあらゆる面で決して欠かすことができない、そのような存在なのです。
 
 本日の福音書でも、塩というのはそのような存在としてイエス様の例えに登場します。「地の塩」というのは、もちろん地面に落っこちた塩という意味ではなく、この世の中の人々と共に存在していて、たとえ少数派であっても、その社会が腐らないように、批判する精神を持っている人のことを指しているのです。

 批判的精神というと、あまり良い印象がないかも知れません。人が一生懸命やっていることを、なんだかんだと言ってくる口やかましい人間。そんなイメージが浮かぶからです。あの人の一言で何もかも台無し、ということもあるでしょう。
 しかし、そのような皮肉屋と、イエス様のいう地の塩、つまり批判精神をもっている人とは根本的に違うところがあります。皮肉屋は少なからず「人を凹まして喜ぶ」ところがあります。どうだ俺の意見は正しいだろう、と言いっぱなしで踏ん反り返るのです。
 しかし正しい批判精神をもっている人は違います。自分の批判的な一言で人が凹むのを苦しみをもって見守ります。踏ん反り返るのではなく、たとえ嫌われても、正しい方向は何なのか共に考え、痛みを共有しようとします。そこに「愛」があるのです。

 キリスト者は何のためにこの地上に存在し、誰と共に生きていくよう命じられたのかということを改めて思い出さなければなりません。弱いものと生きていく、小さきものと生きていくということが、神様から求められていることなのです。
 
 私たちがなぜこの教会に集められ、日曜ごとに共に祈りの時を持つのかと問われるならば、小さな集まりの中でボスザルのように権力を持つためではありませんし、単に自分に優しくしてくれる人に依存じたり甘えたりするだけの場所でもありません。
 何よりも、神様が出合わせ、結びつけてくださった集まりの中で、神様の望みと導きに従って、日々誰かに寄り添い、また寄り添われながら、互いが互いにとって欠くことのできない塩となって歩んで行くことなのです。
 
 また、イエス様は、「あなたがたは世の光です」とおしゃってくださいました。もちろんイエス様ご自身は真実の光であり、又、神ご自身も光です。その御方があなたがたも同じく「光」だと言ってくださるのです。あなたがイエス様の招きに応じた時から、あなた自身がどう思おうとも、すでに神の栄光の光に包まれているのです。

 自分が地の塩であり、世の光であることに自信を失う時、聖書と祈りに立ち返りましょう。聖書に記された歴史から、詩編に記された言葉から、多くのことが学べます。預言者の言葉も、そして、新約聖書に移った、イエス様の言葉も、弟子たちの言葉もパウロの言葉、ヨハネ黙示録からも、私たちが何かを学び取るために、私たちに読める言葉として神様が与えてくださいました。信仰を増し加えるために、聖書を素直に学ぶだけなのです。素直に学ぶことで、神様の言葉が蓄えとなり、どんな世の中にあっても生きていくことができるのです。
 泣きたいことを祈りにし、かなしみを讃美の歌に変えていきます。世の中から変人だと言われても構わないのです。それが私の生きる道であり、神様が備えて下さった生涯なのです。

 たとえ、半べそをかきながらでも、主イエスと共に、寄り添うわれながら生きることを喜びとし、周りの人々に誤解されても、やり通すという立派な行いを決して曲げず、いつの日か、この教会に関わる人、この園に関わる人が天の父、神様をあがめるようになることを祈り続けましょう。
 この私たちが、この教会ができることを正しく批判的な言葉と眼差しを持って判断し、次の世代につなげるために、塩のように光のように仕えていきましょう。


先週の土曜日、幼稚園の年長児の降誕劇が「役がわり」で行われました
なぜこの時期に?とお思いでしょう
役を取り替えて遊んでいるうちに、たくさんの人に見ていただける
レベルになったため、急遽礼拝堂での公演の運びと相成ったのです
お家の方もたくさん来てくださり、楽しいひと時となりました




2020年2月6日木曜日

2月の土曜学校を行いました

2月1日(土) 9:30〜11:30
土曜学校(土曜日に行う教会学校)10回目です

日頃お話や歌を担当する優子が風邪の後遺症で声が出にくく
工作指導に専念することにして
お話は牧師が担当
小さな指人形の犬と紙芝居の「コロちゃんのお家」を組み合わせて
ゆっくりでも心を込めてやることを神様が見守ってくださっているというお話でした

工作はアルミの空き缶に目打ちで穴を開け
ロウソクを入れてランタンにするというもの
幼稚園の先生方にアルミ缶を持ってきていただき(晩酌済み😅)
口の部分を切り取ってゴールドのスプレーを吹く、とここまでが
前もっての作業
当日はウエスをギュッギュッと詰めて
目打ちで穴を開けても缶が凹まないようにして
前もって準備した下絵をマスキングテープで止めます


怪我しないように注意しながら
下絵に沿ってコツコツと穴を開けていきます



さて、作品は…




下絵を自由に書いて作ってくれました
十字架のランタンが出来上がりました


恒例の「全員並んで記念写真」を撮りそびれてしまいましたが
みんな誇らしげに作品と一緒に写ってくれました
オマケに渡した小さなキャンドルを入れて
お家で灯してくれたかな



次回は牛乳パックで器を作って
造花でフラワーアレンジっぽいことを楽しみます
ちょっと早いけど「イースターのお祝い」がテーマです

2020年2月4日火曜日

山上の垂訓(日曜のお話の要約)

顕現第4主日礼拝・聖餐式 (2020年2月2日)
ミカ6:1-8    Ⅰコリント 1:18-31 マタイによる福音書 5:1-12

 本日の福音書は、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも記されている、イエス様の説教集と言われている箇所です。
 ここでイエス様は有名な祝福の言葉を語ります。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」
 「心が貧しい」というのは、よく「謙遜」な状態と誤解されますが、そうではありません。「謙遜にしていたら神様がご褒美に天国に入れてくれる、という教えではないのです。
 「心が貧しい」とは褒め言葉ではありません。自分の心の中に、褒められるべきものが全く全然ない。そんな人々のことです。そういう人々は、この世では嫌われ者で、ピンチに一行ったとき助けてくれる人はいません。苦しいとき、困ったとき、神様の救いに寄り頼むしかなく、最後の望みとして天の国を求めるしか救いがない。そういう意味です。
 「心が貧しい」という状態、今の自分がそうである。そう気づいた人が自分に絶望して、イエス様にすがる時、イエス様は決してお見捨てにならないから、幸いだ、というのです。

 聖書の教えは、その教えに愚直に従えば従うほどに、信じる人々に喜びや繁栄をもたらす仕組みになっています。自分の欲望を優先させず、神様の御心に従って、愛と平和を目標し、それぞれに謙虚になって分け隔てなく生きていこうとすれば、自ずと祝福された社会が形成され、恵みが集まります。
 しかし、ヨーロッパやアメリカでクリスチャン人口が多いにも関わらず、キリスト教が誕生して2000年経っても、今だに恵に満ち溢れた社会にはなっていません。教えの内容がどれほど素晴らしくとも、権力者が教えを軽んじて自分を律することをせず、思うままに政治を行おうとすれば、あっという間に宗教はただの飾りになってしまいます。

 旧約聖書の列王記には、ユダヤ人の信仰の象徴である神殿が建設される様子と、その後の堕落の様子が記録されています。
 イスラエルは3代目の王であるソロモンによって神殿が建設され、栄華を極めましたしかしソロモン王は国を安定させるために政略結婚を繰り返し、異国から嫁いできた妻たちがそれぞれの国の宗教を持ち込み、異国の神を祀る神殿があちらこちらに建てられたそうで、肝心のイスラエルの神への信仰がないがしろになっていきます。
 結果としてソロモン王の次の代でイスラエルは南北に分裂し、後々まで大変な苦しみを背負うことになってしまうのです。

 また、キリスト教の歴史においては、ヨーロッパ社会で権力を一手に握っていたカトリック教会が、方向性を間違えて堕落します。500年前の宗教改革は、それをを見かねて始まったことでした。

 一方、私たちの住む日本は、1549年のキリスト教伝来以来、繰り返し迫害が起きました。江戸時代にはほとんど絶えてしまって、わずかな人々が隠れて生き残っただけでした。キリスト教の教えを信じ、素直に信仰を全うすようとすれば、命を失うしかなかったのです。
 今は信教の自由が認められていても、仏教や神道以外の人々が生きにくい社会の仕組みが出来上がっているので、キリスト教人口はなかなか増えていきません。

 私たちにも身に覚えがあると思いますが、少ない人々が一生懸命維持しようと努力した場合、努力が空回りして仲違いに発展することも多くあります。何しろクリスチャン人口が少ないので、一旦関係が悪くなれば紛らわす方法がありません。そこで、教会に行くことも、礼拝に出ることもやめ、自分勝手な信仰スタイルを作り上げてしまう人も多いのです。

 クリスチャンは、その人口が多い国々では権力と結びついて堕落し、少なくても仲間同士で意見が合わずに崩壊する。
 人間の罪はどれほど深いのだろうと、考え込んでしまいます。

 しかし、だからこそ私たちが信仰に生きるために、日々聖書を学ぶのです。そこには信仰の危機がどうして起こるのかをはっきり記されているからです。それを自分のこと、自分達のこととして、一人一人が読み続けていく必要があります。

 私たちは、イエス・キリストが十字架の死を味わってまでも救いへと招いてくださった一人一人だということを忘れてはなりません。イエス・キリストの教えに「一足飛び」はありません。どれほど時間がかかるように思えても、「うさぎとかめ」の亀のように、一つ一つの出来事に感謝しつつ、信仰を積み重ねながら前へ前へと進んでいく必要があります。
 私たちがなすべきは「うさぎ」と競うことではありません。自分に与えられた時間と業を用いて、イエス様が待っておられるゴールに向かって、ひたすら誠実に歩んで行くことだけなのです。
「もしもしかめよ、ここにいるキリスト者よ」
 神様からの愛の言葉をゆっくり聞こうではありませんか。


 聖書を通して語られる神の言葉を大切にしながら、日々の歩みを、キリストに捧げながら、キリスト者として歩んで参りましょう。



先日の土曜学校の作品です
アルミ缶に穴を開け、ランタンにしました
Nちゃんに「自由にデザインしていいよ」と言いましたら
十字架のランタンを作ってくれました
彼女の心にイエス様の明かりが灯りますように


2020年1月28日火曜日

ONE TEAM(日曜のお話の要約)

総会聖餐礼拝(顕現3) (2020年1月26日)
イザヤ8:23-9:3 Ⅰコリント 12:27-31 マタイ福音書4:12-23

 昨年は、ラクビーのワールドカップが日本で開催され、日本チームは大方の予想を裏切る素晴らしい活躍でした。その日本チームが掲げたスローガンが「ワンチーム」です。私たちの教会は今年はこの言葉の元に活動してまいります。

 ラグビーには「ワンチーム」という言葉の他に、「ワンフォーオール、オールフォーワン」という考え方があり、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために。」と訳されています。ラグビーですから、ここでいう目的とはトライです。一つの目的、つまりゴールのために全員が役割をしっかり果たすのが重要だ、ということなのです。
 イエス様も神様の命を受けて、宣教活動という目的のため、弟子を集め、ご自身のチームを作られました。
 今日の聖書箇所で、イエス様の先触れとしてヨルダン川で人々に悔い改めを促したヨハネが「捕らえられた」と書かれています。彼はヘロデ王を批判したかどで牢に入れられたのです。
 この知らせを聞いたイエス様は、ご自身がお育ちになったガリラヤ地方に戻られます。参考までに、ヨハネが洗礼活動をしていたと言われるのは、死海のすぐ上のベタニア周辺であったようです。(ベタニアは地図には二つあって、マルタとマリアの住んでいた村ではない方です)
 ここから地図のずっと上の方にヨルダン川をたどっていくとガリラヤ湖があります。
 ガリラヤ湖の西側にあるティべリアスはローマ人の保養地もあるような大きな街でしたが、ガリラヤは全体的には田舎です。ヨハネ逮捕で状況が悪くなったと見たイエス様が宣教を中止して一回田舎に撤退した、と取られかねません。しかしイエス様がエルサレム周辺に留まるのではなく、ガリラヤに戻られたことは、本日のイザヤ書にもあるように、神様のお約束だったのです。
 イエス様は暗闇に住む民の心に大いなる光を差し込ませるため、ガリラヤに戻られたのです。

 弟子集めを開始されたイエス様がペトロとアンデレをご覧になった時、彼らは湖に網を投げているところで、イエス様など見てはいませんでした。この時二人は素の自分達を晒していたわけです。
 兄弟ですから、かしこまった会話などしません。幾分荒っぽく、傷つけ合う言葉も交わしていたでしょう。自己中心の屁理屈や、自分こそ正しくお前は間違っている、そんな傲慢な物言いもあったに違いありません。
 そういう様子も、イエス様は見ておられたのです。彼らの罪だらけの日常の一場面をイエス様は見守っておられたことでしょう。

 イエス様が地上に来られたのは、この世を救いに導くためが第一の目的ですが、もう一つ、旧約時代の預言者のように、神様の言葉を預かり、王様にも民衆にも、身分の高い低いを問わず世界の全ての人々にみ言葉を伝える伝道者を育てることでした。
 そのためにイエス様が見つけ、最初に白羽の矢をたてたのが、ペトロとアンデレだったのです。漁師の兄弟の中に、イエス様は何をご覧になって弟子に招かれたのか、私たちにはわかりません。しかし使徒言行録などを通して、彼らが伝道者として命をかけていく記録を見れば、イエス様のお見立てに間違いはなかった、と思わざるを得ません。

 先週お話ししたヨハネ福音書では、弟のアンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネに示されてイエス様の弟子となって、その後で兄であるペトロを紹介した、となっています。
 それに対して、マタイ福音書とマルコ福音書は、声をかけられた時、ペトロもアンデレも、そしてヤコブとヨハネも、すぐに従ったと記しています。それも網を捨てて従った、自分の仕事を投げ捨てて従った、と記している。まさにこの時を待っていた、このタイミングを待っていたという感じすらします。
 どちらがより事実に近いのか、わかりません。しかし大切なのは、彼らはイエス様にお声をかけていただいた時、そのタイミングを逃さなかった、ということです。心の闇にイエス様の光が差し込んだ時、彼らは躊躇せず立ち上がりました。今の自分が弟子にふさわしいかどうかと悩んだり、こいつと一緒なら嫌だとか、そういうことは一切彼らの中になく、招いてくださったイエス様を信じ、宣教するチームの中に飛び込み、役割を果たしながら成長していったのでしょう。

 本日は教会総会です。総会というのは、昨年1年の歩みを報告を通して振り返りつつ、今年度の歩みを確かなものとするための、重要な会議です。聖書を通して与えらえている神の言葉に耳を傾けながら謙虚に行わなければなりません。
 いつも順風満帆というわけではなく、むしろ逆風に悩まされるのが教会なのかもしれません。けれども、イエス様は私たち一人一人が心に闇を抱えていることをご存知の上で、そこに光を差し込ませてくださいました。そしてここにいる一人一人を引き合わせて、この社会の中で、救いの業を行っていくワンチームとなっていけ、と命じてくださるのです。

 神様から与えられたこの場所で、乳幼児から高齢者まで、備えられた関わりを大切にしながら、まずは信仰を持つもの同士がワンチームとなりましょう。この1年も、み国の前進の為にタッグを組んで参りましょう。



HPに掲載する教会外観写真を新しくしようと
正門前に行ってみました
いざ写真を撮ろうとすると、幼稚園の洗濯物が翻っています
これがこの教会のありのままの姿なのです


園庭で遊ぶ子どもたちはこちらを目ざとく見つけ
「いい写真を撮ってね」と激励してくれました😊