2020年9月29日火曜日

考え直す勇気(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第17主日礼拝(2020年9月27日

エゼキエル書18:26-28 フィリピ2:1-2 マタイ福音書21:28-32


 本日の福音書は、イエス様のたとえ話にもよく登場する「ぶどう園」が舞台です。この物語は、イエス様をおとしめようとする祭司長と民の長老たちに向けて語られています。ということは、イエス様はこのお話に厳しいメッセージを込めようとしておられことが予想できます。

 お話の中の「ある人」とはもちろん神様のことです。神様が直接、ご自分の息子たち、すなわち人間たちに「ぶどう園で働きなさい」と声をかけておられます。これに対する人間の反応は2種類です。「嫌だ」と言いつつ、考え直してちゃんと働いた人と、「やります」と言っておいて何もしなかった人に分かれたのです。


 実は本日の旧約聖書のエゼキエル書にもふた通りの人物が出てきます。一人目は「正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬ」パターンです。この人は「自分が行った不正のゆえに死ぬ」と神様に宣言されています。

 二人目は「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」パターンです。神様は、悔い改めて背きから離れた人は、救われて生きる、と言われます。

 エゼキエル書はイエス様の時代から500年以上前に書かれた預言書です。神様はイエス様を地上にお遣わしになる数百年も前から、預言者を通して「悔い改めて背きから立ち直れ」と呼びかけておられたのです。そして今日読んでいただいたところの少し先ですが、神様は「従わないなら滅ぼす」とはおっしゃっていません。「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と言われるのです。

 神様が私たち人間に悔い改めることを望まれる理由はただ一つ、私たちに生きて欲しいからだ、と預言者エゼキエルの口を通して語りかけてくださるのです。

  

 本日の福音書を書いたマタイは、子どもの頃から宗教教育を受けてきましたが、一旦はそれを捨てました。ユダヤ人でありながらローマの手先、徴税人となり、同じユダヤ人からから罪人とされました。しかし欲するものを得ても満たされないことに気づいた時には、もう引き返せないところまで来ていたのです。自分の人生を諦めていた時に、神の国に来いと呼びかけてくださったのがイエス様だったのです。このお話に2度出てくる「考え直して」という言葉は、そんなマタイの心情を反映しているのでしょう。

 マタイは、イエス様の導きによって悔い改め、つまり「考え直す」力を与えられ、神様のために働く道を選んだのです。エゼキエル書の言葉で言うなら「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」、まさにそのような人生に足を踏み入れたのです。

 一方、このお話を聞いていたのは、先ほど言いましたように祭司長と民の長老たちです。彼らはその時代のエリートたちで、神様のお言いつけにしたがって生きてきたと自負していました。しかし彼らはイエス様を神様とは認めず、その教えを受け入れようともしませんでした。

 彼らは自分たちのしていることが神様のお働きを妨害していることになっているとは思わなかったかもしれません。それでもイエス様を迫害することは神様の愛を拒否することと同じでした。

 では、この人たちはエゼキエル書にあったように、「自分が行った不正のゆえに死ぬ」という運命なのでしょうか。


 注意していただきたいのは、この時イエス様が「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入る」と言われたことです。これは徴税人や娼婦たちだけが救われる、という意味ではなく、この人たちが率先して導くという意味なのです。

 イエス様に示され、祭司長や民の長老たちもまた、自分が傲慢で間違っていたと気づいたなら、そこから考え直して神様の深い愛との結びつきを取り戻せるはずなのです。神様は「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と呼びかけられる方だからです。


 イエス様に導かれるなら、誰もが赦された者へと変わり、喜びをもって、神様の御心を行える者へと変えられていくのです。その過程は凸凹と曲がりくねっていて、舗装された一本道のを歩くようなわけにはいかないかもしれませんが、確実に神のぶどう園へと、天国へとつながっている道なのです。



近くの「りんご並木」と呼ばれる植え込みの
りんごも色づいてきました


散歩コースにある公園の噴水も
爽やかに秋を演出しています


隣の空き地では「ガウラ」が花盛りです



西日本で生まれ育つと

りんごが木になっているのはとても珍しい光景に見えて

なんどもシャッターを切ってしまいます

2020年9月22日火曜日

神様の思いは(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第16主日礼拝(2020年9月20日)

ヨナ書3:1-5 フィリピ1:21-24 マタイによる福音書20:1-16

2020年9月17日木曜日

9月5日の土曜学校の報告

主題聖句
:主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
 (詩篇23編1節)
賛美
:フットプリンツ
 さあ賛美しよう
礼拝出席
 :子ども 土曜保育7名
      教会学校11名 
  おとな 8名

製作は「ローズウインドウ(もどき笑)」
教会学校のメンバー11名が参加

送ってきた保護者の方がそのままいてくださり
制作をサポート
教会からも2名お手伝いに来ていただき感謝です

子どもたちの作品、見てくださいね


















2020年9月13日日曜日

主イエスの赦しは(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(2020年9月13日)

創世記50:19-21 ローマ14:1-4 マタイによる福音書18:21-35


 本日の福音書で、ペトロはイエス様に「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?」と疑問を投げかけます。

 ペトロをはじめとする弟子たちはユダヤ人として律法で決められた罪のさばき方は知っていましたが、イエス様はその掟が厳しすぎたり不条理だったりする場合、そこに愛を加えて判断なさいました。ペトロとしては、今までのユダヤ教の掟に従っていくのではなく、イエス様の教えに従っていきたいと考えていました。


 ユダヤ教の教えの中には「過ちは3度ゆるせ」と書かれていたそうで、すが、ペトロはイエス様の寛大さに惹かれていましたから、最大限譲歩して、ユダヤ教の教えに4回上乗せして、7回という回数を考え出し、イエス様に「7回赦す、というのでどうですか?」と問いかけたのです。

 しかしイエス様のお答えはペトロの予想をはるかに超えていました。「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」とおっしゃったのです。これは490回という意味ではなく、「無限に赦しなさい」ということです。

 しかも、イエス様の言われる「赦し」とは、罪を犯したものを放任するのではなく、その人が悔い改めるために、しっかりと寄り添うことを求める「赦し」でした。赦すという行為は、「赦す側」に犠牲と覚悟が必要である、とお教えになったのです。

 その上で、イエス様はもっともっと深いお話をなさいました。あなたがたは自分が赦す立場だと考えているが、実は神様の無限の忍耐によって赦された存在なのだ、言われます。それを気づかせてくださるために「仲間を赦さない家来」の例え話をしてくださったのです。


 例え話には家来に金を貸した王様が登場します。その家来は王様に1万タラントンもの借金がをしていました。円に換算すると、30億円位だそうです。どう考えても返せない額であることを表しています。王様は家来に、自分も妻も子も、持ち物も全部売って返済するように命じました。

 するとこの家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と必死に願います。家来の態度を見た王様は、憐れに思って、心から同情して彼を赦し、その借金を帳消しにする決断をします。

 この憐みというのは、内蔵が痛むという意味で、完全に相手の立場になるということです。こうして王様は、彼が借金したことを忘れ、元どおり家来として雇い入れ、借金は自分が肩代わりしたのです。

 ところが、この家来は外に出ると自分に百デナリオンの借金をした仲間に出会います。日本円で50万円〜60万円くらいです。安くはありませんが、王様から帳消しにしてもらった30億円と比べれば小さな額です。しかし家来は、自分が王様から赦されたことはすっかり忘れ、仲間が必死で「待ってくれ」と頼むのもかまわず、彼の首を絞め、引っ張っていって牢に入れたのです。

 これを見ていた他の人々は心を痛め、王様にこの事件のことを残らず告げます。その結果、この家来がどうなったかは皆様も読んだ通りです。

 なんて愚かな家来なんだろう、そう思うのは簡単です。しかしイエス様は自分の身に当てはめて考えてみなさい、とおっしゃいます。私は犯罪者ではないし、誰かからお金も借りていないから関係ない、と思われるでしょうか。いいえ、私たち一人ひとりはイエス様に到底お返しできない借りがあるのです。


 イエス様が十字架に掛かられたのは、「人々の罪のため」というのは模範解答ですが、もっと正しく言うならば、「私の罪のため」です。イエス様は誰か他の人のためではなく、まさに私のために、そしてあなたのために十字架にかかられたのです。

 かつて私たち一人ひとりは、やがて命が終わる日が来るまで怯えながら待つしかできませんでした。地獄や死後の裁き、自分が消えて無くなる恐怖、そんなものに縛られていたのです。しかしイエス様は私たちに永遠の命の約束をしてくださいました。私たちが死んだ後、聖められて天国に迎え入れられるために、イエス様ご自身が大きな罪も小さな罪も全てご自分の身に負われ、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださったのです。私たちは、このご恩を永遠にお返しすることはできません。

 私たちが自分のことを愚かで価値のない人間だと思っても、イエス様はそのはらわたが痛むほどに憐れに思い、赦してくださったのです。この感謝の心を忘れずに、私も主が与えてくださった隣人と共に、愛と見守りの精神で生き、悔い改めに共に導かれ、群れが形づくられることを喜ぶのです。




3日の礼拝は牧師が所用で

緊急に大阪や名古屋を往復したため

教会役員に司式と説教代読をお願いしました


3日の礼拝は牧師が所用で大阪や名古屋を往復したため 教会役員に司式と説教代読をお願いしました



牧師夫妻は牧師館からスカイプで参加しました
ご配慮、ご協力ありがとうございました



2020年9月7日月曜日

あい はたらきて(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年9月6日)

エゼキエル書3:3-11 ローマ13:8-10 マタイ福音書18:18-20


 私たち人間は、血の繋がった親子、兄弟、家族と言えども、顔も違えば性格も違います。もちろん夫婦でも違います。よく「価値観が違う」と言いますが、人間というのは一人一人、考え方が違うものなのです。

 聖書には、神様が男と女を創った時からそうであったと記しています。エバは神様から禁じられていたにも関わらず、蛇の「賢くなれる」という言葉をあっさり信じ、禁断の木の実を夫と仲良く分けて食べたのです。興味深いのは、この時エバは独り占めせず、アダムと分けて食べようと考えたのです。それだけ、この木の実を食べる以前の人間はピュアだったと言えます。しかしどれほどピュアであろうと、神様よりも蛇の言葉を信じたのは致命的な誤りでした。

 神様は何よりも人間の幸せを考えてこの楽園に住まわせてくださったのに、人間は神様を疑い、裏切り、自分から楽園を去る道を選んでしまったのです。私たち人間は、神様が自分を愛し、関わってくださることをしばしば忘れ、その手を振り払って、自分が正しいと思い込んでいることを優先しようとするのです。


 神様は人間をお作りになった時、なんでも神様の命令に従うお人形のような存在にしようとは思われませんでした。二つの選択肢があったとして、自分で考えた上で神様のお考えを尊重する存在であってほしいと願って「自由な意思」と言うものを人間に与えられたのです。

 この「自由意志」は、最初の人アダムとエバのエピソードが示すように、人間にとって悪い結果、悲劇的な選択になることもあります。それでもなおも、神様は人間を放っておくことはできず、再び良い結果へと導こうと、語りかけ続けてくださるのです。

 こうした深い深い時の流れが、旧約聖書から新約聖書に渡って、書き記されています。聖書を通して神様のメッセージは人々に読まれ、学ばれ、祈られ、行われ、繰り返し繰り返し人の世界や考え方に影響を与えました。大きく間違っても悔い改めて軌道修正していくしていく力は聖書を通して私たちに与えられています。


 本日読みました福音書の中で、イエス様は私達にこうおしゃっています。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれを叶えてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 イエス様の時代、ローマという強大な軍事国家が世界を治めており、ユダヤの国もその支配下にありました。ユダヤ人たちは独立を求めていましたがうまく行きません。その上、彼らは神様の前に本心から悔い改めることを忘れ、神殿さえ豪華に保っていれば神様が守ってくれるという間違った思い込みを持ち、祖先からの信仰の本質を失っていました。

 西暦70年、ユダヤの国はローマに完全に滅ぼされ、神殿も壊され、ユダヤ民族は散りじりになります。普通なら民族ごと消滅してしまうような事態です。ところがユダヤ人たちは度重なる迫害にも関わらず21世紀の今日も民族としての形を保っています。これは世界に類を見ません。それは彼らが旧約聖書を大切にし、神への信仰を持ち続けたからです。

 ただ、そうは言っても当時のユダヤ人たちの願い、「自分たちの神様はローマに勝利してくださる」という祈りは全く聞かれなかったではないか、と思うかもしれません。しかし、そうではないのです。


 イエス様は当時、ユダヤ教の間違いを正し、逆にユダヤ教徒に憎まれ、十字架にかかられました。イエス様が復活なさり天に帰られた後は、その教えは弟子たちによって広められました。最初は2人、3人と集まって祈る小さな群れによって伝えられたその教えは、やがて民族を超えて宣教師、違いを認め合うキリスト教となって、世界に伝わっていきました。そしてユダヤの国を迫害したローマはキリスト教を自らの国の宗教とし、神の教えの前にひざまずいたのです。

 かつてユダヤの人々は武力によってローマを叩き潰すことだけを考えていましたが、イエス様を信じる人々は武力ではなく聖書の伝える愛の力こそ、勝利を産むことを確信したのです。

 私達は自分の価値観、自分の考え方から離れることができません。自分は正しい、いう思いをなかなか変えられませんが、神様はその思い、その祈りを全て受け止めてくださいます。私たちが自分の考えに固執するがゆえに感じる、悪いことも良いことも、神様の手によって全てはあいはたらきて、私たちの人生の中でもっとも良い形となるのです。 



昨日は堅信式と洗礼式がありました
お母さんが堅信礼を
そのお子さんが幼児洗礼を受けられました



神様の愛の中で
すくすく大きくなりますように





 

2020年9月5日土曜日

十字架を背負う(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年8月30日)

エレミヤ書15:19-21 ローマ12:15-17 マタイ福音書16:21-28

 「十字架を背負う」という言葉は辞書には「耐えがたい苦難を負うこと」と記されており、責任ある仕事に就いた時、その苦難を表す言葉として使ったりします。また重い病気や障害を負った時などにも「これが私の十字架です」などと使われて、意味はわからなくはないのですが、なんとなく違和感を覚えることがあります。

 クリスチャンは十字架を信仰のシンボルとして大切にしています。元々はイエス様が磔になった道具です。本日はご一緒に、本来死刑の道具であった「十字架」を「背負って」イエス様についていく、とは何を表しているのか、ご一緒に聞いてまいりましょう。

 先ほど読みました福音書では、イエス様は弟子たちに対して「自分の十字架を背負って」と表現されましたが、もちろんイエス様は比喩的な表現として「十字架を背負う」という言葉をお用いになったのです。ご自分は十字架で命を落とすことを知っておられましたが、弟子たちに同じように殉教を進めた言葉ではありませんでした。


 ユダヤ地方を監督するためにローマから派遣された総督、ポンテオ・ピラトは、イエス様が自分の元に連行されてきたとき、イエス様に死刑に値する罪はなく、何かユダヤ人の間に陰謀が有ることを見抜きます。そこで何とかイエスを処刑しないで済むようにユダヤ人を説得しようとしますが、ユダヤ人たちは譲らず、「十字架につけろ」と叫び続けました。

 ユダヤの一般的な死刑は「石打」といい、下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に、大勢の人々が石をぶつけて死に至らしめる処刑法でした。罪人が即死しないよう、握り拳程度の大きさの石打ち用の特別な石を山盛りに準備していたそうです。相当に残酷な死刑と言えます。

 一方十字架刑はもともとローマが国家への反逆者を見せしめにするために支配する属国に対して行った死刑方法です。ユダヤ人たちはその死刑方法をイエス様に要求しました。

 木にかけられるという死に様は、ユダヤ人にとっては神にも見捨てられた最低の死を表しました。旧約聖書の申命記21章23節に「木に架けられた死体は、神に呪われたものである」と書かれています。ですからユダヤ人にとって十字架刑は石打よりも屈辱的な死に方でした。それを承知の上で同胞たちは十字架にかけろと叫んだのです。


 このようにして、イエス様は神からも同じユダヤ人からも徹底的に見捨てられ、名誉も信仰も何もかも奪い取られてローマに屈する形で、ユダヤ人として最低の死に方を選びとられました。

 しかし、全てはご計画としてイエス様の内側にありました。イエス様が地上に生まれる前から神様に定められていたのです。イエス様は人間の愚かさというものを知り抜いておられました。仲間同士でも、ほんの少しの心のすれ違いがきっかけで命を奪い合うような戦いを繰り広げるのが人間です。人は赦し合い、受け入れ合うより、憎み合い、罵り合い、排除し合うのが得意なのです。

 人間社会の中で争いに敗れ、どん底に落とされた人間は、自ら死を選ぶか、他人を憎み呪い、人としての心を失って生きていくかのどちらしかないのです。しかしイエス様はそこに救いの手を差し伸べられたのです。

 「どんなことがあっても神はあなたを見捨てない。綺麗事ではなく、私自身が世界中の全てから裏切られ、捨てられた経験をしたから言えることなのだ」と語りかけられるのです。イエス様は誰よりも説得力を持って苦しむ人間に寄り添い、救ってくださる神の存在がそこに有ることを教えられるのです。


 私たちにとって、十字架を背負っていくということは、結局のところ、イエス様がなさったように、神のご計画と導きを信じ抜くことであり、自分に差し伸べられた神の手を取り、握り返し、そのあと何があろうとも、どこまでも従って生きていくことなのです。自分が何者であるかということは全く関係がないのです。

 この世には罪のない者などいない、自分も含めて誰でも一皮むけばその内側に醜い本性を持っている。そうしたことを全て知った上で、そこに囚われ立ち止まるのではなく、ただイエス様に従うことに集中する。

 神様の下ではどれほどの罪を抱えていようと、全ての人が愛の対象であり、全ての人が平等に扱われていくことを信じ、自分はイエス様の弟子だ、と心に刻むこと。信者というものは、そのことを心に納めておくようにと示されているのです。




9月になりましたので
新しいレゴ作品を掲示板に入れました
コロナであまり遠方に旅行できない私たちですが
夢を乗せて、汽車で遠足に出発です






2020年8月25日火曜日

「わたしたちのミッション」

例年でしたらこの日は牧師はお休みをいただいて
飯田を離れ帰省し
引退教職の先生に
講壇奉仕をしていただくのですが
今年はコロナの影響でどこにも行けず
また、東京から来ていただくはずだった
引退教職の先生もいらっしゃれず
あれこれ考えた結果
牧師は休暇返上でここにとどまり
その代わり幼稚園の黒河内智子園長に
お話ししていただくこととなりました



黒河内先生は飯田ルーテル幼稚園の出身で
子どもの頃から幼稚園の先生になりたいと
思っておられたそうです

少人数制の良さを生かして
他の保育園やこども園に適応できなかった
子どもたちを受け入れ
のびのびとした幼児教育を
行っておられます

この日は園が今抱えている問題や
新園舎建築を控えての
これからの目標をお話いただきました

一つ印象的だったのは
子どもたちの間で流行している
いささか血生臭さに過ぎるような
あるテレビアニメに触れられたことです
夢中になる子どもたちを全否定するのではなく
バランスよく関わり
キリスト教保育の現場として
何を伝えていくか
祈りながら進めておられる様子に
現代ならばのご苦労と
ブレない姿勢を感じさせられました


週報にはフィンランドミッションによって
始められた教会と幼稚園の
懐かしい写真をあしらいました






2020年8月16日日曜日

すべては憐れむために(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2020年8月16日)
イザヤ書56:1 ローマ11:29-32 マタイ福音書15:29-32

 本日の新約聖書は、ユダヤ人々が、自分たち民族に高い誇りを持ち、他の宗教を持つ人々を見下げ、積極的な交流をしないよう細かい掟を作り上げていた、という前提を踏まえて聞いてまいりましょう。
 本日の福音書の「そこをたち」ですが、この出来事の少し前、イエス様はガリラヤ湖の西側の街に滞在しておられました。そこにファリサイ人と律法学者たちがわざわざエルサレムからやって来て、イエス様に論争を挑みます。イエス様の弟子たちがユダヤ教の教えを守らず、食事の前に手を洗わないから汚れている、という指摘でした。
 これに対しイエス様は、律法学者逹こそ口先だけの「偽善者」で、神様の教えを踏みにじっている、とおっしゃいます。しかし弟子たちはイエス様のお言葉の意味を理解できません。それでイエス様は代表して質問したペトロに向かって「まだ悟らないのか」とおっしゃっています。

 この後でイエス様が向かわれた先が、「ティルスとシドン地方」でした。ここはイスラエル世界のはずれの海沿いの街です。様々な異文化や、異邦人、異教の教えが混ざり合った土地で、ファリサイ人達に言わせれば「汚れた土地」ということになります。そこで彼らは「カナンの女」つまり「外国人の女性」と出会います。
 彼女の娘は悪霊に苦しめられ続けており、そんな時イエス様が自分の町に来られたことは神の奇跡だと信じました。イエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び、つきまとったのです。
 「ダビデの子」という言い回しはユダヤ人にとって最高の王、という意味です。イエス様は最近、同じユダヤ人のファリサイ人たちから無理解に苦しめられ、貶められたばかりでした。ところがこの異邦人の女性はイエス様を唯一の救い主と信じ、ユダヤ人の使う尊敬の言葉でイエス様に向かって叫んだのです。

 弟子たちが「この女を追い払ってください」とイエス様に願いますとイエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」とおっしゃいます。つまり「私は外国人を助けるためではなく、ユダヤ人を助けるために神様から遣わされたのだ」と言われます。
 しかしこれを聞いた彼女は諦めるどころかイエス様の前に出てひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と懇願したのです。ここでようやくイエス様は女性に目を向けます。そして口調は柔らかでしたが、拒絶の言葉を語られたのです。「子ども達のパンを取って小犬にやってはいけない」
 この「こども達」というのは、ユダヤ教を信じるイスラエルの人々です。イスラエルの人々は、神の多大なる恩寵を受けた民族でした。彼らはその恩恵を聖書に書き記して大切に子孫に伝え、どれほどの苦難が襲っても、ずっと信じ伝えて来たのです。ところがイエス様の時代には、「信じ方」に狂いが生じており、イエス様は人々の間違った信仰を正すために、神様から遣わされた者として苦悩しておられたのです。
 カナンの女はユダヤ人ではありません。しかし彼女は神は小さきものを憐れんでくださる、ということを信じていました。彼女は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」
 言い換えるなら「私はどうしようもなくちっぽけな人間で、苦しい時の神頼みしかできないような、不義理で失礼な人間です。だから神の民であるユダヤ人を差し置いて助けていただく資格など全くありません。しかし、神は大いなる憐みの心をお持ちで、その偉大な御力は、ユダヤ人に十二分に注がれた後、なおも溢れ出て、このような私でもおこぼれが頂けるほど限りないことを知っています。」ということです。

 律法学者やファリサイ人たちやイエス様の弟子たちが理解できなかった神様の御心を、この異邦人の女性は見抜きました。イエス様は彼女の信仰をお褒めになりました。こうして彼女の娘は癒されたのです。この出来事は、「なかなか悟らない人だらけ」の宣教活動の中で、イエス様を大いに力づけたことでしょう。

 私たちは聖書を日々学んでいても、時々大いに勘違いをします。それは自分が罪を犯すことなく、人に憐みをかける側に立つことが正しい、という勘違いです。しかし、誰も自らの力で神に喜ばれる完全なものになることはできません。ただ、どれだけ私たちが不完全で、深い知識など持ち合わせていなかったとしても、神の憐みは注がれているのです。
 辛く不幸なことはこの世に満ち溢れています。しかしそれをはるかに上回る神の憐れみと慈しみは私たちに注がれています。私たちはこれからも共に神の憐みを受けながら、神に感謝し、キリストの愛の中を歩んで参りましょう。


牧師館の「物干し台」で
咲き誇るペチュニア


物干し台からは花火もよく見えます
(手ぶれ写真ですみません)
今年は大きな花火大会は中止ですが
日曜の夜8時から15分ほど
何回か実施されました
打ち上げ場所シークレット
うまく方向が合えば
素晴らしい眺めが楽しめます




2020年8月10日月曜日

キリストに助けを求めて(日曜のお話の要約)

 聖霊降臨後第10主日礼拝(2020年8月9日)
列王記上19:11-12  ローマ10:9-11 マタイ福音書14:22-33

 本日の「イエス様が湖の上を歩く箇所」は、先週の五千人の給食の続きです。食事の後、イエス様は民衆を解散させ、弟子たちには舟で向こう岸に行くよう強くお命じになります。その後でお一人で祈るために山に登られるのです。
 同じ出来事を記録しているマルコ福音書によれば、実は弟子たちは五千人の給食の前、かなり厳しい伝道の働きを終えたところでした。イエス様も弟子たちを休ませてあげるつもりが、思いがけなく五千人が押し寄せてきた、という流れになっています。それならば弟子たちはこの時かなり疲れていたことでしょう。本当は休みたいと思いながら無理をして嫌々やっているので、案の定トラブルが発生するのです。
 漕ぎ出した舟は強い風によって湖の真ん中に吹き寄せられました。この湖は諏訪湖の約4倍くらいの大きさで、山に囲まれているので、四方から風が吹き下ろします。舟は木の葉のようにくるくる回ります。漁師出身の弟子たちはこれが非常にまずい状況であることはすぐにわかりました。
 「イエス様が舟に乗りなさいと言われ、その通りにしたのに、なぜこんなことになったのか」と、弟子たちはパニックになります。こんな時は誰でも最悪のことを想像するものです。例えば、五千人の給食の時、自分達は、人々を帰しましょうと言ってしまった、それでイエス様に愛想をつかされてしまったのではないだろうか。神の子に見捨てられた自分たちはここで死んでしまうのかもしれない。そんな思いが頭の中に渦巻きます。
 福音書を書いたマタイも12弟子の一人ですから、もちろんこの時舟の上で怯えていた一人でした。その記憶を元にかなり興味深い表現をしています。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」
 弟子たちは湖の上の人影を見ました。水の上を歩いてやって来るとしたらこの世の者ではありません。イエス様に見放された自分たちを、亡霊がとり殺しに来たのだ、彼らは恐怖の叫び声をあげたのでしょう。
 そんな弟子たちに人影は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言葉をかけられます。聞き覚えのある声です。それでも弟子たちは水の上に立っている人影がイエス様ご本人であるという確信はまだ持てないでいました。
 しかしペトロは弟子を代表するかのように、口を開きます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」これは「あんたが亡霊でなく本当にイエス様なら、俺に水の上を歩かせてみろ」という、試すようなニュアンスではありません。むしろ「イエス様、あなたでしたか」という安堵の思いが込めれています。
 ペトロはこの人影がイエス様だと信じ、自分も水の上を歩いてイエス様のお側に行きたい、という単純な望みを抱いたのです。招かれて、思い切って舟から降りてイエスの方へ進んだのです。信仰が恐れに勝利し、不要な恐怖を頭の中から追い出したのです。
 ただ残念ながらこの勝利は長くは続きませんでした。ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたのです。イエス様以外のことに気を取られた時、恐怖が再び彼を捉えてしまったのです。しかし今度はすぐそばにイエス様がおられました。ペトロは躊躇なく「主よ、助けてください」と叫び、救われたのでした。
 イエス様は、一度信仰を持ったものに対して、その信仰が薄かろうが弱かろうが、助け導く方なのです。自分の力でなんとかしようとして失敗し、ピンチに陥り、イエス様の声が聞こえなくなってしまった時も、イエス様から「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけてくださり「なぜ疑ったのか」と叱ってくださる、そして改めて共に歩んでくださるのです。

 湖の出来事からおおよそ1年、弟子たちは今度こそイエス様と離れ離れになります。イエス様が十字架にかかられた後、天に帰って行かれたからです。しかし彼らは「イエス様はもう側にいない」と悲嘆にくれ何もで出来なくなった、という訳ではありません。聖霊なる神として、目には見えなくとも常に共にいてくださるイエス様を感じつつ、躓いては立ち上がることを繰り返しながら宣教していったのです。
 私たちは、自分の信仰の弱さを知りつつ、主よ助けてくださいという祈りの声をあげながら、助けられる喜びと感謝を持って生きていく者となりたいのです。日々の歩みの中で、「主よ助けてください」の声を聞いてくださるイエス・キリストが共におられると信じて、先行きの分からない今の時代を乗り切って参りましょう。



遅くなりましたが、8月1日の土曜学校の様子です


あらかじめ金色のスプレーで
着色しておいたアルミ缶に
千枚通しで穴を開け
ランタンを作ります



1個目はこちらで用意した図案を使って
2個目からはオリジナルにチャレンジです


とにかく抜群の集中力!
年長クラスのMちゃん


女子率高い中で
男子だって頑張ってます


万が一のことを考えて
保険に入っておきましたが
怪我もなく
無事に終えることができました



最年少のSくん(年少クラス)
K先生に手伝ってもらいながら2個完成
ご満悦です

ちなみに最年長は小学4年生
みんなのレベルにあった工作を考えるのは
なかなか骨が折れますが
完成した時の笑顔を見ると、いつの間にか
「さて次は何を作ろうか」と
考えています(工作指導:朝比奈優子)



からし種は畑の中に(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2020年7月26日)
列王記上3:10-15 ローマ8:28-30 マタイによる福音書13:31-33

 日本のクリスチャン人口が1パーセントからなかなか増えない、というお話は皆さんも耳にしたことがあると思います。少ないがゆえに不便や苦労の多い私たちですが、イスラエルにおいてイエス様が教え始めたその最初は、キリスト教徒は一人もいませんでした。当たり前ですね。イエス様の周りは皆ユダヤ教徒だったのです。
 そんなイエス様の一番弟子となったのはガリラヤの漁師ペトロでした。ルカ福音書によれば、ペトロが夜通し漁をしていても一匹もとれず、落胆をしているところにイエス様が現れ、群衆に話を聞かせたいからと、お願いされ、しかたなく船を出します。お話が終わって船に岸に戻そうとしたら今度は「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われるのです。
 ペトロが渋々「お言葉ですから」と言う通りにしたところ、たくさんの魚が捕れました。あまりのことに恐怖すら感じたペトロは、思わず「わたしから離れてください」と言ってひれ伏すのです。
 一番弟子のペトロでさえ、初めの内はまるでイエス様に対する信仰がなかったのです。ペトロだけでなく、人間の心にはイエス様を信じ受け入れる下地が全くないのです。ただイエス様がお招きになったことで変化するのです。このような過程を経て、イエス様の弟子集団は形成されていきました。
 その業は初めのうち、どこに繋がっていくのかわからないような孤独な働きでした。しかし、イエス様と弟子たちは、誤解や恐れしかない人々の間でも宣教を続けます。
 やがて3年が過ぎる頃には、イスラエルの中でもイエス様を支持する人々が増えていきました。すると今度はイエス様が望まない間違った期待をする人も増えていきます。王様となってローマと戦い、イスラエルの自治を取り戻してくれるのはこの方だ、という期待をかけられるようになったのです。それは一般民衆だけでなく、最初から付き従ってきた弟子たちでさえ、そのように思うようになていました。
 こうなると、権力を持った人々からは当然敵視されるようになり、最後には国家の反逆者として十字架にかかられたのです。イエス様という方は、どこまで行っても、誰からも正しく理解されることのない、孤独な歩みを続けられたようにも思えます。
 ですが、イエス様は、こうした神の業をからしだね に例えられました。その種は、地面に落ちた時、土に紛れて見えなくなります。虚しく死んだように思えるもしれません。しかしイエス様は「成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」と言われました。それは後になって弟子たちにも理解できるようになったのです。

 十字架で命を落としたイエス様が復活された時、弟子たちは初めて出会った時のように、「わたしは罪深いものです。わたしから離れてください」と言ったことでしょう。なんと言っても彼らは十字架に架けられたイエス様を見捨て、命惜しさに逃げ出したのですから。
 しかしイエス様は初めから彼らに怒りなど覚えておられませんでした。ご自分が彼らの弱さを含めて丸ごと受け入れていることを改めてお示しになり、新たな宣教へと押し出されたのです。これが、弟子たちの心に落ちた小さなからし種が芽吹いた瞬間でした。

 この「からしだね」はどの植物を指しているのか、諸説あるのですが、今回は「ガリラヤ湖周辺で普通に見られるアブラナ科の草」という説をとって週報の表紙に載せました。特に黒ガラシと呼ばれる種類は3000年ほど前からタネを香辛料として利用するために地中海沿岸で栽培されていたようですが、植物としての見た目は雑草のような素朴さです。
 私たちが、この植物の種を手のひらに乗せていても、発芽などしません。それはどうしても畑の中に埋められなければならないのです。からし種は、畑の中に入って根を出し芽を出し、殻を破ってどんどん形を変えていきます。素朴な雑草のような植物であっても、神の御心に叶ったとき、樹木のように大きく成長するのです。
 ただ、ここで勘違いしてはならないのは「からしだね が大きく成長するように、あなた方も偉大な伝道者になるよう努力しなさい」ということではありません。もちろん神の言葉を語り伝える過程で、あなた自身も忍耐強くなり、柔和な人となることでしょう。しかしそこが目的ではないのです。大きく成長するのはあなたではなく神の言葉です。あなたという人を介して、神の言葉が大きく広がっていくことをこそ、神様は望んでおられるのです。

 神様が望んでおられるのは、神の言葉を宣べ伝えることの大切さを信じて、素朴にコツコツと努力を重ねる人々なのです。 
 私たちの集うこの小さな教会も、私たちを介して続けられる小さな働きが神の国への一歩であることを信じるならば、その道は、神の国へと通じていくのです。この場所が神の言葉によって成長していくために必要なのは立派な経営者でも、言葉巧みな指導者でもありません。ただひたすらに神の国が実現することを望む、小さな志があれば良いのです。

2020年8月3日月曜日

五千の罪人の給食(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2020年8月2日)
イザヤ書55:3-4 ローマ9:3-5 マタイによる福音書14:13-21

 本日読みました福音書の箇所は「五千人の給食」と呼ばれ、4つの福音書全てに記されている有名な出来事です。この話には前段階があります。マタイによる福音書は、五千人の給食の始まりを、こう記しています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」

 「これを聞くと」とは何かと1パージ遡ると、「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王一族の不道徳を非難して捕らえられていました。その彼がついに処刑されたというのです。
 イエス様は、ヨハネの弟子たちからこの出来事を聞いて、人里離れた場所へと向かおうとなさいましたが、イエス様のこの時の行動について、後世の学者たちは様々な解釈を試みました。イエス様は権力を恐れて逃げた、という解釈もあります。しかしイエス様はそもそもご自分が十字架によって死ぬことをご存知な方ですから、死を恐れて逃げた、とは考えにくいのです。見方を変えれば、イエス様は何があろうと、今この時点で死ぬわけには行かないのです。そこで一時的に身を隠そうと退かれたのでしょう。

 ですが、群衆はイエス様を必死になって追います。民衆はヨハネの死を知り、不安と怒りの中、新しい導き手を求めました。彼らがイエス様を追ったのはそのような状況の中だったのです。
 21節には女と子どもを別にして男が五千人ほど、と書かれていますので、イエス様を見つけ、追いかけたのは、男性五千人に加えて女性と子供、合わせて2万人ほどいたのではないか、と言われています。あえて女性と子どもを別に数えているのは、血気盛んな男性が五千人いた、という意味でしょう。不道徳な権力者を倒すためなら兵士になろう、と思う男たちが五千人いたと考えられます。

 しかし、イエス様ご自身が争いを望んでおられないのは、福音書記者であるマタイはよく知っていました。イスラエルの人々が、血を流しても革命を起こしたいと求める声とイエス様の思いとが食い違っていることをマタイは知っていたのです。
 彼らは勇敢に戦うものこそ神様に愛される資格があると思い込んでいて、情けない弱虫が無条件に愛されているなどとは思いもしません。こそれはイエス様の思いと正反対なのです。
 しかしイエス様は、この群衆を深く憐み、その中にいた弱り果てた病人をいやされます。そして人々に向かって、神の平和が来ることや、神の愛が注がれている事を繰り返し繰り返し、お話しされました。先ほどまで、一人静かに神様と語らい、祈りの時間を持とうとされていたのに、いざこうした人々を目の当たりにすると、放っておくことはお出来にならなかたのです。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させ、各自で村へ食べ物を買いに行かせるのが良いだろう、とイエス様に提案します。
 ところがイエス様は、弟子たちがこの2万人の群衆の食事の面倒を見るように、と言われるのです。弟子たちは、自分達には、パン5つと二匹の魚しかない、無理だ、と答えます。もちろんこれは常識的な答えです。しかし、彼らはこれがイエス様のご命令なのだ、と気づくべきでした。

 イエス様はかつて悪魔から「石をパンに変えたらどうか」と誘惑され、拒まれました。ご自分のためには、奇跡の力をお持ちいにならなかったイエス様が、ここで食べ物を増やす奇跡をなさったのです。
 ここには、神様に愛されている私たちがまごころをもって捧げるなら、小さな業や捧げも出会っても神様は喜んで豊かに豊かに用いて下さることが示されています。イエス様の人々を思う愛はこれほどまでに深かったのです。
 ただ、この五千人の人々も弟子たちも、イエス様が十字架にかかるその道で、イエス様を裏切り、見捨て逃げてしまうのです。イエス様はそれを見通しておられたはずです。ここにイエス様ご自身の深い孤独がありました。イエス様は注いでも注いでも穴の空いたバケツのように底から抜けてしまうような思いをなさったたことでしょう。
 それでも、罪人を救うという神様の目的が実現するために、ご自分の目の前の人々が決して優等生になり得ないとわかっていても、空腹のまま去らせることができないほどに、慈しまれたのです。

 たとえ今、彼らが罪人であったとしても、また、ただ目先の飢えを満たすことや病の癒しを望むだけであったとしても、そういった人々と関わり続けることにイエス様の目的があったのです。罪人を救う、どんな罪人をも救うという大きな目的を持っておられたからです。
 人の目にどれほど徒労に映ることであっても、五千人の罪人たちは、イエス様にとってかけがえのない愛の対象だったのです。

 五千人の給食は五千の罪人の給食でもあります。ここにいる私たちも、ありとあらゆる罪を犯しつつ、人生を歩むものです。それでも私たちはイエス様の愛に触れて、満たされた愛の中に生きることができます。私たちはイエス様の示される道を共に歩き、この場に人々を招き続けて参りましょう。


道沿いの掲示板の中に
新しいレゴ作品を入れました
前回の続編
「飛んでったバナナ」
船長さんがバナナの島に
上陸しようとしているようです

2020年7月22日水曜日

8月の土曜学校のお知らせ

8月1日(土)
午前9時から11時30分まで
土曜学校を行います
テーマは「ノアの箱舟」
保護者の方も参加大歓迎です!
コロナ禍にありますが
今の所飯田は落ち着いていて
6月の再開以来
連続して実施できていることに
感謝です


工作は、昨年好評だった
「あきかんランタン」をリピ(^^)
出来上がったら
夏の夜、お庭に飾ってみてください

2020年7月20日月曜日

御霊(みたま)に生きる(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2020年7月19日)
イザヤ44:8  ローマ8:12-15 マタイ福音書13:24-30

 本日のたとえに登場する人々が育てているのは麦です。生きるために最も大切な作物です。それなのに、自分達が眠っている、ほんのちょっとの隙に、畑の真ん中に毒麦の種を蒔かれてしまったのです。しかし主人は僕たち責めることなく、収穫する時まで待てと命じます。良い麦と毒麦を一緒に実らせておき、最終的に選別するから大丈夫だ、というのです。
 調べてみますと、イネ科の中にドクムギ属と呼ばれる分類がちゃんと存在していて、アルカロイドという毒を含んでいるそうです。ドクムギは成長しきらないうちは小麦とよく似ていて、根も小麦と入り組んでいるため、無理に引き抜くと良い麦を間違って抜くことになりかねないそうです。そこで主人はあえて収穫の時を待ち、はっきりと二種類の麦の穂が判別できるようになったら、毒麦の穂を先に借り集めて焼いてから安落ち着いて小麦を刈り取ることにしたのです。

 しかし、興味深いことに、どうやら、この僕たちが刈り取る作業をするのではないようなのです。30節を見ますと「刈り取る者」というのは他にいるようです。
 この例えで押さえておくべきは、僕たちの役割は、主人が種を蒔いた畑を見守り、管理し、小麦も毒麦も共に育てていくことなのです。

 このたとえについて、37節以降でイエス様が改めて解説しておられます。これを私たちの身近なところに当てはめてみましょう。 
 「イエス様がこの世に来られて、弟子たちを集め、育てておられます。そこは豊かな畑のようです。今の教会をイメージして見てください。
 しかし教会に集うようになった人の中には、教会を混乱させる者も出てきます。伝道がうまくいかなくなる様子は、まるで悪魔に妨害されているようです。しかしそういった人々を裁いて教会から追い出してはいけない。成長の過程で「悪い」と判断して、抜いて捨ててしまうのは同じ教会の中にいる人々の役割ではない。この世界が終わる時、天使、つまり神様から任命された御使がその役割を果たすことになっている。あなた方はとにかく忍耐し続けるように、そうイエス様がいっておられる」
 
 イエス様は、私たちが憎しみや怒り、自分独自の正義感に振り回されやすいことをご存知です。また、せっかちですぐに白か黒かと決着をつけなければ気が済まないところがあるのも知っておられます。だからこそ、カッと頭に血が上ったり、結論を急いでイライラしたりするときこそ、主の言葉をわが身に当てはめて聞いて行く必要があります。世の中一般の「こうしたほうがいい」という無責任なアドバイスや価値観に振り回されないように注意しなければなりません。

 「御霊(みたま)に生きる」とは、何か根拠のない、見えないものにすがるのではありません。私たちを導く「御霊」、「聖霊なる神」は、聖書のみ言葉を通してどんな時も語りかけてくださいます。自分の心に毒麦のように生えてくる怒りや憎しみを正当化しながら生きるのではなく、また、無理やり抑え込んでストレスを溜めるのでもなく、毒麦かもしれない存在と共に生きることの中にも恵みや楽しみを見出しながら、必ず訪れる収穫の時を待ち望みながら生きる。み言葉に導かれるなら、こんな私たちでも必ずそうなれる事を、主は教えてくださるのです。

 この毒麦のたとえを記したマタイは徴税人でした。社会の嫌われ者、と軽蔑の目で見られたマタイは、イエス様に招かれて弟子となり、やがて伝道者となります。かつてのマタイは、他の人から見れば抜かれて当然の毒麦のような存在でした。しかしマタイは自分をそのように扱った人々に、イエス様の愛を伝える立場となったのです。
 伝道活動していく中でマタイは、ユダヤ教とキリスト教のぶつかり合いを体験します。ある場所ではユダヤ教徒がキリスト教徒を迫害し、別の場所ではその反対のことが起こります。どちらも自分たちこそ神様の教えに忠実だ、と張り合い、憎しみあい、結局御心から離れてしまう様を何度も見たことでしょう。だからこそマタイはすべてのキリスト者が、収穫の喜びを待つ間に起こる憎しみや怒りの感情で暴走するのではなく、主の手に委ねながら生きていくことを教えたのです。

 大人も子どもも、主に招かれてここに集う私たちは何度でも何度でも、み言葉に耳を傾け、やり直していく必要があります。わたしたちも、今も、これから先も御霊に生きるものです。憎しみや怒りに生きる以外にキリストの愛に生きていくという道が与えられているのです。





先週の金・土は
年長クラスの「一泊お泊り保育でした
あいにくの雨でしたが
先生方の周到な準備によって
無事に楽しく終えられ、感謝です
写真は1日目3時過ぎに行われた
「お買い物」の様子
あらかじめ10円玉を10枚渡された子ども達が
セットしてあるおやつを買いにきます
さっと決める子
迷いに迷う子
様々で見ていて興味深いです

2020年7月13日月曜日

種蒔く人(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(2020年7月12日)
イザヤ55:10-13   ローマ8:9―11 マタイ福音書13:18-23

 聖句を丸暗記する習慣は、大切なことだと私は思っています。聖書のみ言葉は神様からのメッセージの完全な現れとして、私たちに与えられ、時に誘惑から救いだし、時に弱った信仰を強くする、励ましと愛と力にに満ちた言葉だからです。
 覚えるよう促された時は、その行為にどんな意味があるのか、わからないかもしれません。しかし身に危険が迫った時、突如としてその言葉が蘇ってくる。そして神様が私に「どうせよ」とおっしゃってるのかわかる。それこそが神様が共にいてくださる証拠であり、それを感じられることが、聖句を覚えることの大切な意味なのです。
 イエス様は、聖書の言葉を、そして、イエス様の言葉ご自身を、そして、その後に続く弟子たちの言葉全てを、聖霊の言葉と示されました。そして後の時代にそれらを聖書としてまとめるよう信徒たちを導かれ、神ご自身の言葉となさって、長く後世に伝えられるようにされたのです。

 先ほど読みました福音書は「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と始まります。直訳すると、「あなたがたは、そのような関りで、この種を蒔く人の譬えを、過去も現在も未来も聞け」という意味の言葉となります。
 イエス様は、一度覚えたつもりで忘れてしまっても、何度でも耳を傾け直し、新しい発見をすることを願っておられるのです。もしあなたが自分の信仰生活になんの実りも感じられないとしたら、本気でみ言葉を聞いていないからです。イエス様に言わせると、心にみ言葉の種を撒かれていながら、それを育てようという気がないから、ということにもなります。

 本日のたとえ話で、イエス様はみ言葉をタネにたとえ、御国の言葉をいつまでも聞いて悟らなければ、道端に落ちたタネ同然にを悪い者がやってきて奪いとるとおっしゃいます。み言葉の学びが続かない人の心を、石ころだらけの土地や茨だらけのやぶにたとえたりなさいます。
 この話を聞いていた主だった弟子たちはガリラヤ湖の漁師出身で、農夫ではありませんでしたが、イエス様の導きに従って自分自身が成長していくにはどのような心構えが必要なのか、また、伝道して新しい仲間を増やしていくときには何が大切なのか、タネのたとえ話とその解釈を通して、次第次第に理解できるようになっていったのです。
 ここで注意しておかなければならないのは、イエス様は一足飛びに高い収穫量を目指せとはおっしゃっていません。イエス様のみ言葉に促され、信徒として成長しようと努力し、伝道の苦労を重ねても、一気にたくさんの結果を得られるわけではないことをイエス様はご存知だったからです。
 あなたがクリスチャンとして伝道に携わっていこうと決心し、苦しみがあっても、収穫が上がらなくても、止めることなく続けられているということは、あなたの心はすでにイエス様によって耕された良い土地だということなのです。そこを疑う必要はありません。
 しかし、あなたがより多くの収穫を得ていくには、より多くの失敗を経ていかなければならないであろうことをイエス様は誰よりも知っておられました。ただ、「私を受け入れたあなたの心は良い土地なのだ、それを忘れないように」と語りかけ続けてくださるのです。

 収穫の上がらない働きを続けながらも、神様の言葉を伝えていきたい、神様からの救いの言葉をより多くの人々に伝えたい、神様はあなたのこともちゃんと愛している存在であることを気づかせてあげたい、といった思いが途切れないなら、それが神様が蒔いて下さった種が育った結果であり、イエス様の思いなのです。
 
 私たちは、与えられたこの場所を、神様の喜ばれる豊かな場所にしていく必要があります。聖書の言葉、イエス様の言葉、信仰の言葉を大事にしながら、私たちは地上の命が終わる時まで育ち続ける存在であり、み言葉に繰り返し繰り返し聞き、新たに悟り、発見していくことができるのだ、と心に刻んで参りましょう。
 どのような時代が来ても、また、どんなに環境が変わろうとも、人が生きている限り、命がある限り救いは必要です。私たちも種蒔く人となり、成長し、又、誰かの成長を促す者となるために、日々み言葉を心に抱いて、それに基づく歩みを一歩一歩進めながら、豊かな収穫の時が来ることを信じて参りましょう。


幼稚園では今「ミックスジュース」や
「飛んでったバナナ」などが
うたわれています
こんなお天気なので
せめて掲示板の中だけは明るく、と
「飛んでったバナナ」をイメージした
レゴ作品を入れました


ミックスジュースといえば
朝比奈牧師の出身地
大阪が本場(?)でしょう
コロナの影響でなかなか大阪に
帰省できないので
先日、お取り寄せをしてしまいました