2020年12月14日月曜日

洗礼者ヨハネについて(日曜日のお話の要約)

待降節第三主日礼拝(2020年12月13日)

イザヤ書61章1節 Ⅰテサロニケ5章16-22節 

ヨハネ福音書1章19-23節


 本日はヨハネによる福音書を読んでまいります。ヨルダン川で洗礼を行なった「洗礼者ヨハネ」と、福音書を書いたヨハネとは別の人物です。紛らわしいので「福音記者ヨハネ」「洗礼者ヨハネ」と呼び分けることにします。

 福音記者ヨハネは、イエス様の12人の弟子の一人で、もっとも若かったと言われており、イエス様に一番愛され、可愛がってもらった弟子であると自負しています。

 ヨハネが福音書を書いた時代は、決して明るい時代ではありませんでした。イエス様を信じてクリスチャンになった人々はユダヤ教の指導者たちの迫害から逃れてイスラエルを離れ地中海沿岸や周辺諸国に生活圏を移していました。

 故郷を追われた彼らは、新しく生きる街で、キリスト教の教えを伝えようとします。それが自分の使命と信じ、「神様から遣わされたメシアこそイエス様だ」と説明するのですが、ローマ文化圏の人々には旧約聖書の知識はほとんどありませんから「メシアとは何のことだ」と言われてしまいます。そこで旧約聖書を知らない人たちにキリスト教を伝えるため、ギリシャ哲学の思想や言い回しを学ぶ必要がありました。

 「初めに言があった」の「言」は「ロゴス」というギリシア語が使われています。ロゴスは真理、真実、理性といった意味です。福音記者ヨハネは自分の信じるイエス様こそ神である、それが真理なのだ、と伝えるために、彼らの思考パターンに合わせて福音書を書いたのです。ここで使われている「言」とは「イエス様」と置き換えて読むことができるので試してみてください。


 本日読みました19節からは、洗礼者ヨハネがヨルダン川で悔い改めの洗礼を開始した時のことが具体的に書かれています。ユダヤの人々は、彼のことを救い主だと考えました。そこでエルサレムから祭司やレビ人たちがやってきて、遠回しに「あなたがメシアなのですか?」と聞いたのです。

 しかし洗礼者ヨハネは否定します。そこで相手は「あなたは一体誰ですか?エリヤですか?」と尋ます。エリヤとは旧約聖書の預言者の中でも大英雄で、信仰によって国を立て直した人物です。すると洗礼者ヨハネは、いやいや私はエリヤじゃない、しかしエリヤどころかもっとすごい方が間も無く現れる、自分はその方の登場のために準備を促しているだけだ、と言い切るのです。

 

 洗礼者ヨハネが行なった洗礼は、ひとりひとりが自らの罪を認め、水で清めて頂くものでした。しかしイエス様が行う洗礼は「聖霊を授けること」ができる、と洗礼者ヨハネは言うのです。

 洗礼によって聖霊なる神と一つにされ、父なる神様と直結した存在となり、イエス様が身代わりになってくださることで完全に赦されるのです。どんな生き方をしてきた者も、神に赦され、愛されているのだと信じ、神様に導かれて生きることが一番楽しい、と思えるようになるのです。聖霊なる神に心のうちに住んでいただき、主イエスと共に歩み、父なる神の御心を実現していくという壮大な使命が与えられているのです。

 洗礼者ヨハネは新しい世界の始まりを告げるために、荒野で叫ぶ声となったのです。

 「洗礼者ヨハネ」は芸術家にとって興味深いモチーフの一つだったようで、様々な画家がその姿をイメージして描いています。フランスのウインターリンデン美術館の「キリストの磔刑図」という絵は、十字架に架けられたイエス様を中心に、左側に卒倒する母マリアとそれを支える福音記者ヨハネ、マグダラのマリアが描かれ、右側には洗礼者ヨハネが描かれています。

 ここに描かれた洗礼者ヨハネは、威厳を保って聖書を広げて持ち、贖罪のシンボルである仔羊とともに立って、人の罪を取り除く神の子イエスを力強く指し示しています。イエス様は今、十字架にかかっているけれど、必ず蘇るのだ、と告げています。

 これとよく似た構図で、宗教改革者マルティンルターが、説教をしている様子を描いた絵があります。週報に挟み込んだ賛美歌のページに小さく載せてあります。

 真ん中には十字架に架けられたイエス様の姿、右側にはルターが説教をしながら十字架に掛かったイエス様を指し示しています。イエス様を挟んだ左側には、学者風の人物から年配者、少年、女性、赤ん坊、まさに全ての人が十字架を見つめつつ、説教に耳を傾け、イエス様の受難の意味を学び、蘇りへの希望を抱いてています。

 私たちは自分がなぜキリスト教を信じるようになったのか、なぜ洗礼を受け信者となったのか、今一度思い返す必要があります。

 私たちは、この小さな町にいくつもある教会の一つに招かれました。なぜ他ではなくここだったのか、お一人お一人が神様と会話していただきたいと思います。そして愚直なまでに、神の御心に従い、殺伐とした世の中にあって、救い主であるイエス・キリストを示し、信仰から愛の業を行う勇気を受けつつ、感謝して毎日を過ごして参りましょう。 



12日(土曜日)近くの公民館で、ルーテル幼稚園のクリスマス会が行われました。
直前までコロナの関係で開始が危ぶまれましたが、今のところ飯田市では陽性者がいないということで(県北から飯田の病院に患者さんが搬送されてはいるようですが)
予定通りの運びとなりました。
金曜日の総練習を祖父母の方に見ていただき、本番は保護者だけ。
アルコール消毒、マスク着用はもとより、健康テェック表を記入して持ってきていただいたり、座席を一つあけて座っていただいたり、できる限りの対策をしました。
例年と比べ物にならないほどやることが多く、先生方も本当にお疲れだったと思います。
園児たちは大人たちの配慮と神様のお守りのうちにびのびと演技しました。
諸般の事情で写真をお見せできないのが残念です。

朝比奈牧師は礼拝の部のお話とお祈りに加え、ゆり組さんの「忘れないで」のギター伴奏を務めました。
往年のフォーク賛美の名曲なので、ご存知の方もおられるかも?

19日は教会婦人会のクリスマス
20日はクリスマス礼拝
24日はイブ礼拝
気の抜けない日々が続きます

「忘れないで」を伴奏する牧師

生誕劇、無事終了です
「やりきった!」という表情が見せられなくて残念です


ささやかな飾り付けですが
飯田教会の小さな礼拝堂も
すっかり
クリスマスらしくなりました



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