2024年2月29日木曜日

「神様の決めた順番」日曜日のお話の要約

マルコによる福音書9章33節~35節


 日本では小さい時からちゃんと並べて、順番をきちんと守るのが良い子とされるので、大人になっても、大抵の人が順番を守ります。もちろんヨーロッパやアメリカの人も順番を守りますが、彼らにとっては日本人はちょっと守りすぎに見えるようで「私は急いでるから順番を譲ってください、と言ってもいいのに」と笑われることも多いようです。


 ところで、小さい頃は順番を一生懸命守っていても、次第に、先に並んだとか、先に始めたからといって、いつも順番通りということはなく、後から抜かされることもたくさんあると気づきます。例えばクラブ活動などで、後から始めた後輩がレギュラーに選ばれて、自分はひかえに回らされるとか、一生懸命ピアノを練習したのに、後から始めた妹がどんどん上手くなって難しい曲を弾けるようになるとか。


 そんな時、「神様は不公平だ」と呟いたりします。辛くて、悔しくてしょうがないからです。ただ、本当に神様は不公平な方なのでしょうか。神様は、私たちがどんなに努力しても、それを無視するようなひどい方なのでしょうか。


 先ほど読んだ福音書では、イエス様は「一番先になりたいものは全ての人の後になり、全ての人に仕えるものになりなさい」と言っておられます。今日はこの聖書箇所からイエス様のお考えを聞いてみましょう。


 2000年前、イエス様のお国ではユダヤ教を教える祭司や律法学者、ファリサイ人たちが「自分たちが一番偉い」と威張っていて、自分達が教える通りやりなさい、と命令していました。


 礼拝や献金の方法だけでなく、毎日の生活も、たとえば手の洗い方にも細かいルールを作って、自分達の決めた通りにできない人たちをダメな人だと決めつけ、そんなことでは神様に嫌われてしまうぞ、と馬鹿にしました。その一方で、自分はなんでもきちんとできているから、神様に愛されていると思っていたのです。


 しかしイエス様は「あなた方の考え方は間違っている」と堂々と言いました。プライドの高いファリサイ人たちは怒りましたが、イエス様のお言葉はいつも神様の愛に満ちていて、聖書に書かれている通りだったので、黙ってしまいました。


 そんなイエス様を「すごいなあ」と思って、たくさんの人が集まってきました。するとイエス様はその中から12人だけを、特別な弟子としてされました。でも、イエス様が選んだ12人は、漁師とか、ごくごく普通の人で、特別りっぱな人はいませんでした。それどころか、12人の中には嫌われ者の徴税人もいました。


 徴税人と言うのは、税金を余分に取って自分がお金持ちになることだけ考えている悪い人がほとんどでした。それで周りの人は、「徴税人は神様を悲しませるダメな人だ」、「死んだら地獄行きだ」と軽蔑していました。徴税人も、どうせ自分は神様に嫌われているんだ、と考えいました。ところがイエス様はそんな徴税人を、たった12人しかいない弟子の仲間に入れたのです。するとその徴税人は、後になって立派な人になりました。マタイによる福音書を書いたマタイのことです。


 マタイの書いた福音書は2000年経っても世界中の人が読んでいます。でもイエス様以外、誰もマタイが有名人になったと思っていませんでしたし、マタイもそんなことは知りませんでしたから、他の弟子たちと一緒になって「誰が仲間の中で一番偉いか」、つまり誰が一番神様に認められているか、と口喧嘩していたようです。


 イエス様は弟子たちが揉めているのを黙って聞いておられました。そして、しばらくして弟子たちにこう言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」


 イエス様は、何かが上手になるために努力するのは大切なことだとわかっておられます。でも、一番になるために人を蹴落としたり、威張ったり、他の人を見下すような態度はみっともない、それでは祭司長ファリサイ人と同じだから、あなたたちはそんなふうにならないでほしい、と弟子たちに言われたのです。


 もちろん、人間には個性があって、得意なことと不得意なことがあります。イエス様の12人の弟子たちも、行動的な人もいれば、静かに祈ったり、何かを観察したりするのが得意な人もいました。みんな個性があるから、得意なことをどんどんすればいい、他の人を羨ましがるばっかりで、自分なんてダメだと決めてしまっては神様が与えてくださった良いところが見えなくなってしまいます。


 イエス様が弟子たちに分かって欲しかったのは、神様のお心はものすごく広くて、それはもう無限に広くて、あなたたち全員、誰が一番神様に愛されているか、なんて関係なく、まとめて愛してもまだ余裕がある、ということでした。そして、それを一人でも多くの人に伝えてほしいと弟子たちに願われたのです。


 そして神様のことを伝えていくにはコツがあることを教えてくださいました。ファリサイ人たちのように、偉そうに「私はよく知ってるから教えてあげる」と言っても誰もついてきません。後ろから支えてあげよう、ということなのです。


 最後に、ちょっとイメージしてみてください。急な坂道をノロノロと登っている車があります。車の中には小さな子どもや体の弱い人が乗っています。坂道のてっぺんには神様が待っているのですが、このままでは車は坂道を登りきれないかもしれない。そこであなたの出番です。


 あなたは後ろから車を支え、押して登ろうとします。でも一人では無理です。困っているあなたの横を、抜かしてさっさと登っていく人達がいます。でも、あなたが声をかけると、一緒に車を押して坂道を登ってくれる人も少しずつできました。仲間と協力して、ゆっくりだけど、ノロノロだけど、みんなで一緒に神様のところへ登っていくのです。


 もう無理かな、と思う時、あなたの後ろにもう一人いて、力強く支えてくれます。それがイエス様なのです。

 神様は目の前にいてまっすぐ私たちを導いてくださり、イエス様は「すべての人の後になり、すべての人に仕える者」になって、わたしたちを支え続けてくださいます。これが神様の決めた順番なのです。 



2月25日、予定通り韓国の光聖ドリーム中学から1年生のグループがやってきました。スタッフや先生を合わせて総勢35名の大所帯です。
最初は保育室で幼稚園の園長先生副園長先生の指導で「坊主めくり」!
ルーテルキッズバンドも加わり、グループに分かれて大盛り上がりでした。
10時半からは礼拝堂に移動して礼拝です。
いつもは静かな会堂ですが、平均年齢がグッと下がったせいで(笑)華やかな雰囲気に包まれました。
昨年に引き続いての賛美の交換も楽しく、笑顔笑顔の礼拝となりました。

最初は十八番(おはこ)の「主イエスとともに」
イントロに「アルプス一万尺」の手遊びを入れた
特別バージョンでした

2曲目は昨年中学生が賛美してくれた「花も」を
みっちり練習して披露しました
直前になってYURIKOさんにホルンをお願いしましたら
昔取った杵柄、バッチリ決めてくださいました


礼拝通訳は昨年と同じ全さん
牧師と息もあってます

中学生は今年もハングルと日本語で「恵み」という曲を
賛美してくださいました

記念写真もいっぱい撮りました
そのうちの1枚です

帰り際にスタッフの方から「来年もまたここで」と声をかけられました。
幼稚園の建て替えはうまく滑り出しましたが、教会の方は資金繰りがどうなるかわからず、喜んで頂けた分複雑な心境でした。
今の礼拝堂は音の響きがいいので失いたくないのですが、耐震の問題があり立て直すしかありません。神様は私たちにどんな風景を見せてくださるでしょうか。
祈りを重ねて参ります。ご加祷をお願いいたします。

2024年2月20日火曜日

「荒野での誘惑」(日曜日のお話の要約)

四旬節第一主日礼拝(2024年2月18日)(紫)

創世記 9章8-17節(11) 

Ⅰペトロの手紙 3章18-22節(432)

マルコによる福音書 1章9-15節(61)


 本日、読みましたマルコによる福音書は、「荒野の誘惑」としてマタイ福音書とルカ福音書にも記されていますが、他の二つに比べて実に短く記されています。


 イエス様が断食を終えてお腹を空かせているところにサタンがやって来たとか「石をパンに変えろ」とか「高い塔に昇って飛び降りろ」とか「サタンを拝め」と言った細かいやり取りは一切記されていません。


 あまりにもサラリと記されているので、イエス様はまるで何事もなかったようにやり過ごされた印象さえありますが、もちろん何事もなかったはずがありません。サタンの誘惑の種類が余りにも多くていちいち書ききれなかったのでしょう。


 むしろ、ここで著者であるマルコが読者に伝えたかったのは「どんな誘惑があったか」ではなかったのでしょう。イエス様を荒野に導き出したのは神様ご自身であること、イエス様はそれをご承知の上で40日間荒野にとどまり、サタンからの誘惑を受け続けられたこと。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていたこと。そのようにこの40日間の様子を伝えているのです。


 「野獣と一緒におられた」という一文は、旧約聖書を知っている者にとっては「天国」をイメージさせる言葉です。ダニエル書6章やイザヤ書11章には、獰猛なはずの獅子が、子牛や人間を傷つけることなく、大人しく、仲良くしている様子が記されています。


 これが聖書の描く神の国、天国のイメージです。本能や欲望のままに人間が支配する世界ではなくて、神様ご自身が支配されている世界。それがイエス様をとりまく世界にはあると伝えたのです。


 さて、ここには「天使たちが仕えていた」と書かれています。これは「天使たちが休みなく仕え続けていた」という意味です。マルコは他の福音書と違って、イエス様が断食して飢えていたとか渇いていたとかは記していません。原文のニュアンスでは、「天使たちが給仕していた」「給仕し続けていた」と読みとることができます。つまりは、イエス様は荒野においても、神様から必要な糧を頂き、喉の渇きを癒す飲み物も与えられていたということになります。


 荒野の誘惑のエピソードは、よく根性論と混同されてしまいます。イエス様が飲まず食わずで耐え忍ばれたことに倣って、私たちもあえて苦しい思いをすれば、神様に評価され、大きな祝福が受けられるという考え方です。しかしマルコはその考えを真っ向から否定しています。


 この聖書箇所でマルコが伝えたかったのは、「イエス様はこの荒野においても、神様が必要なものを与えてくださることを信じて疑わなかった」その1点なのです。


 みなさんは創世記の中で、最初の人間アダムが、神様から禁じられた木の実を食べてしまった記述をご存じでしょう。神様がアダムが楽園に住み続けるためにたった一つだけ提示した「これだけは食べてはならない」という約束をアダムは守れなかったのです。エバにそそのかされたとも受け取れますが、ようは自分の判断で、神様の思いから逸れてしまい、神様に逆らって罪を犯し、楽園から追い出されてしまいます。


 出エジプト記では、モーセに導かれたイスラエルの民が、荒野に歩み出した途端、パニックになりました。エジプトを脱出した時、苦労は覚悟していたはずなのに、食べ物が足りない、水がない、ないと文句を言い、挙句のはてに「こんなところで野垂れ死させる気か」と、モーセに詰め寄りました。神様が彼らを見捨てるわけがないのに、それを信じることができなかったのです。


 人間は食べる物、飲む物のことで失敗を繰り返します。生きていくために必要なものは神様が与えてくださると信じられないからです。しかしイエス様は違いました。イエス様は食べ物飲み物に限らず、全てを神様に信頼し、ご自分の命さえも神様に委ね切っておられたのです。


 これがマルコの伝えたかった究極の信仰論です。そして、これが十字架の死に至るまで宣べ伝えられたことなのです。殺されても死なない、3日後に蘇る、そして、天に昇る。私たちを信仰に導いて招くために必要だと神様がお決めになったことなら、全てを受け入れる。それがイエス様の信仰なのです。


 私たちはいつも不安の中にいます。今までの人生の中で、困難に陥った時、「不信仰な私をお許しください」と祈り、困難が過ぎ去った時、「神様が守ってくださったのだ」と感謝しても、次にまたピンチがやってくると同じことを繰り返す。これが私たちの弱さです。


 けれども、神様は、イエス様を信じる私たちには、イエス様と同じように天使がそばで仕えていて、それ以上に頼もしいイエス様がいてくださるのです。ですから私たちは心を静めて、日々、歩んでいくことがゆるされているのです。


 私たちはイエス様を信じる神の民として、何事にも動じずに祈り続け、示されたことを積み重ねていくしかありません。誰かを責めても答えは出ません。神様が私に与えた使命として歩むしかありません。神様の守りはあることを覚えて、この四旬節を過ごし、主の導きを共に見出して参りましょう。


2月25日、韓国の中学生グループが今年も

飯田教会の礼拝に来られるのですが

昨年に引き続き、天気はあまり良くないようです

礼拝後は皆さん観光に行く予定なので

雨に降られないといいですね(^^;)



韓国の中学生との交流礼拝に参加のルーテルキッズバンド
保護者のお一人が大学までホルンをおられまして
「ずっと吹いてなかったんだけど、やってみようかな」
と、持ってきてくださいました
すごく嬉しいです!
彼女は最初はベースを一から学んで
参加してくださったのですが
今はお嬢さんに譲っています
長女はドラムス、次女はベース、ママはホルン
すごいでしょ?

2024年2月16日金曜日

「神の御子イエスの変容」(日曜日のお話の要約)

主の変容礼拝・役員就任式(2024年2月11日)(白)

列王下 2章1-12節(577) 

Ⅱコリントの信徒への手紙 4章3-6節(329)

マルコによる福音書 9章2-9節(78)

説教         朝比奈晴朗


 本日読みました福音書には、モーセとエリヤがイエス様と弟子の前に現れます。福音書では「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と書かれていて、あまりに緊張して何を言っているのか分からなくなったようです。なんとなくペトロを見下しているような表現ですが、福音書を記したマルコ自身の主観が入っているからでしょう。


 マルコは元々はイエス様を取り巻く大勢の弟子の一人に過ぎませんでしたが、失敗を繰り返しながらも、徐々にしっかりした信仰を獲得していきます。その成長過程にはイエス様の一番弟子だったペトロの指導もありました。


 やがて福音書を記すまでに成長したマルコは、イエス様が白く変わられた出来事について、ペトロから詳しく聞きました。その様子を隠すことなく伝え、イエス様が神様だと確信していなかった頃の自分や、人々の迷いを、いささか滑稽な雰囲気を交えて記したのかもしれません。


 実はこの出来事の起こる少し前、イエス様とペトロを含む弟子達は、フィリポ・カイサリアという場所に足を延ばしました。ここはガリラヤ湖の北端からさらに40キロほど北西にあり、ローマ帝国の影響を強く受けた贅沢な保養地でした。


 そんな場所で、イエス様は弟子達に「人々は私のことを何者だと言っているか」と尋ねます。彼らが「預言者の一人」と答えると、次に「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問いかけます。するとペトロは「あなたはメシア、キリストです」と答えたのです。


 ペトロはイエス様と暮らす内に、神様への正しい信仰なしに人々の幸せはあり得ない、間違った状況から自分達を救い出すことができるのはイエス様だけだ。ペトロは心の底からそう信じて告白したのです。


 しかし、その直後イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められます。そのお言葉にはあやふやさは一切なく、確信を持って「このようになる」とおっしゃったのです。


 長老、祭司長、律法学者たちはユダヤ社会の政治と宗教の指導者でしたが、偉そうに振る舞う彼らの矛盾点をイエス様が指摘して論破していく様子に、弟子たちは痛快さを覚えていたでしょう。イエス様が彼らを追い落とし、世直しをしてくれる、とも思っていたのです。それなのにイエス様は、ご自身が排斥され、捨てられると言われました。そしてそれが救い主・メシアの役割だとまで言われたのです。


 イエス様は、指導者たちを中途半端に追い払っても、根本が変わらない限り同じことの繰り返しだとわかっておられました。命を奪われることを恐れず行動し、さらに復活するまでやり遂げる、とおっしゃったのです。


 しかしペトロはそれが理解できず、イエス様を人々から引き離し「そんなことを教えるもんじゃありません」と諌めます。ペトロは尊敬するイエス様がこの世的な成功を成し遂げてほしいと願っていました。言い出しっぺが一番を損するようなことにはなってほしくない、余計なことは言わないでほしい、と考えたのです。


 するとイエス様はペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と叱りつけます。イエス様は、やり始めたことを自分の利益を優先するあまり途中で放り投げるのは、サタンの誘惑に乗せられているのと同じことだ、と言われたのです。


 ペトロは大いにショックを受けたことでしょう。しかし、イエス様はペトロを大切な弟子と認めておられました。特別なことを目撃させるために、他の二人、ヤコブとヨハネとともに山に誘われたのです。


 さて、お話を「神の御子イエスの変容」に戻しましょう。2800メートル級の高い山でイエス様は真っ白い姿に変わります。その場所でイエス様を待っていたのは旧約聖書の英雄にして、すでにこの世の人ではないモーセとエリヤでした。彼らは神の国からイエス様に会いに来たのです。


 彼らがイエス様と話し合ったのは、本当に十字架にかかる覚悟をお持ちですか?ということだったと思われます。「これ以上苦労するのをやめたらどうですか?側近でありながらイエス様のご計画を理解しようとしない弟子達しかいないのに、そうした人々のところに戻られるのですか?」と問いかけたのでしょう。


 これは大きな分かれ道でした。イエス様は神の御子ですから、全てを放棄して天の国に帰ることもできます。しかしイエス様はご自分の変わりない決心を示すために、そのお姿をあえて3人の弟子たちにお見せになったのです。


 神様は一人一人に「こう歩みなさい」と生き方を示されます。イエス様はそのお手本となって、先頭に立って成し遂げるべきことを成し遂げ、十字架の死を選び、神による復活を示されました。このお姿を知っているからこそ、私たちは神様の御心から離れた社会やこの世においても、神の言葉を伝え続けるのです。


 たとえ今、上手く行かなくても、共に生きる人々を諦めることなく御心へと導いていく役割が与えられていくのです。


2月25日、韓国の中学生グループが今年も

飯田教会の礼拝に来られます。

宮田村というところに短期留学しているグループで

昨年は3年生が来てくれました

今年は1年生だそうです


ルーテルキッズバンドも張り切って

歓迎のために賛美を練習しています


日本の子どもらしさを出してみようと考えて

賛美のイントロに「アルプス一万尺」の

手遊びを入れてみました

長野県ですし、ピッタリ?(笑)


それにしてもハイスピードの「アルプス一万尺」を

メンバー最年少の幼稚園児、Iちゃんまで

サラリとこなしてしまうのです

恐るべし、今どきのお子様!






2024年2月4日日曜日

「主の癒し」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・顕現後第5主日礼拝・役員就任式(2024年2月4日)

イザヤ40章21-31節(1125) 

Ⅰコリントの信徒への手紙 9章16-23節(311)

マルコによる福音書 1章29-39節(62)


 本日の福音書にはイエス様がシモン、つまりペトロの姑とどのように拘られたかについて記されています。本日はそこから学んでまいりましょう。


 私たちは日常生活が中断するような病に襲われることがあります。命をおびやかすような重病でなくても、発熱、頭痛、胃腸炎、腰痛などは日常的に私たちを苦しめますし、不調が長引けば精神面にも影響面を及ぼして鬱っぽくなったりします。


 現代は病院に行かなくてもネットを用いて調べることができますが、検索しすぎてかえって自分は重病かもしれないと心配を始める人もいます。オロオロしている姿を見ると、とにかく一刻も早く病院で診断をつけて貰えば良いのに、と思うのですが、体の不調であれこれ思い悩むのは人間特有の弱さなのかもしれません。


 ましてイエス様の時代となれば、医学はまだまだ発達していいません。ペトロの姑も自分の体調の不良に不安になり、必要以上に苦しんだとも考えられます。


 時期的に考えて、彼女は娘の夫が長年やってきた漁師の仕事を辞めてイエス様の弟子になったことは知っていたでしょう。今後の生活はどうなるのか、娘はどうなるのか、などと考え始めればキリがなく、寝込んでしまったとも考えられます。ペトロとしては姑の心配を少しでも軽くするために、イエス様の素晴らしさや、自分の思いを話す必要があったでしょう。しかし、彼女はそれを拒むかのように寝込んでしまったのです。ユダヤ人は「熱が出るのは神様に背いたせいだ」という考え方がありましたから、姑もペトロもどうしたらいいか戸惑う状況だったでしょう。


 本来ならこの日、姑もまた会堂で聖書から神様の教えを聞くはずでした。しかし、彼女は熱で寝込んでいて、出席することはできませんでした。礼拝が終わると、弟子達は姑の状態をイエス様に知らせました。これには理由があって、礼拝のある休みの日、つまり安息日に、人はどんな業もしてはならないと定められていたからです。弟子たちとしては、イエス様なら姑を治して下さるかもしれないと思っていても、イエス様に癒しの技を行わせるわけにはいきませんでした。


 ですから、日没になって、安息日が終わってからイエス様を姑のところに案内し、癒しの業をおこなってもらおうと考えたのでしょう。しかしイエス様はその話を聞くと日没まで待たず、すぐに姑のところに向かい、彼女の手にとって、あっという間に癒してしまわれたのです。


 言うまでもなくイエス様は神様です。「安息日には働かず神様への思いに集中しなさい」とお教えになったご本人です。だからこそ、ご自分はその掟に縛られることなく、自由に癒しを行われたのでした。

 

 シモンの姑は、それまで直接イエス様と話したことはなかったかもしれません。ただ、周りの噂では、イエス様は慈しみに満ちた、裏表のない優れた先生、指導者であると聞いていたことでしょう。その方が、癒しの行為を行ってはならない安息日のうちに、自分の手を取って起こし、癒してくださったのです。ここで「手を取って」と訳されている言葉は、原文のニュアンスでは、「つかまえて」という意味合いです。


 マルコはイエス様が何を捕まえたのかを、曖昧にしています。熱なのか、姑自身なのか。しかし彼女はこの時、このような自由な行動を取れるのは、イエス様が神様だからだ、と理解したのです。


 時間さえも支配されている自由な存在、それは神様だから出来ること、その神様が私を捉えてくださった。私の手をとってくださった方が神様である以上、私はこのかたに仕え、自分のできることをする。今できるのは、この方が連れてこられた人々をもてなすことなのだ、それが神様から与えられた私の使命だ、と受け止めたのです。


 後にペトロは自分の妻と宣教の旅行を行っています。その時、この姑が自分の娘を外国に送り出すことをどう考えたかはわかりませんが、どれほど寂しかろうと、送り出すことも神様に仕えることだと分かっていたことでしょう。


 さて、日が暮れて安息日が終わりを告げると、癒しを求めて多くの人々がイエス様のところにやってきます。この人たちは、神様の掟を守って安息日を守る、きちんとしたユダヤ人に見えます。彼らはイエス様が優れた癒し人だと確信してやってきましたが、イエス様を神様だと信じているわけではありませんでした。それはまるで「このパワースポットに行けばご利益があるかもしれない」というようなあやふやなイメージです。


 しかもそこに連れてこられた人の中には悪霊に取り憑かれた人いました。イエス様は悪霊が何か余計なことを言って人々を混乱させることをお許しにならず、取り憑かれた人からさっさと追い出してしまわれました。それは目を見張るような光景だったに違いありません。


 今の時代、教会を何かありがたいパワースポットとしか受け止めない人もいるしょうし、楽しいことがある時だけやってきて、責任を負うようなことはしたくない、恩恵だけにあずかりたいという方々もおられるかと思います。そういった社会の中で、私たちはどれほど宣教しても理解されない日々を過ごすことになりますが、心挫けないでいましょう。


 「イエス様は癒し主、イエス様は神様である」ことを信じぬいて参りましょう。そのうちに私たちの教会において、世の人が「新しい共同性の創出」の場として、ここを認識することになるでしょう。そして、その中からイエス様が手にとって、共に教会員として歩みだす人が現れてくることでしょう。



今日の土曜学校はいつもの工作をお休みして「おかしとおまっちゃいかがですか」と題した茶道の入門(?)の会でした。

教会員の田口さん(裏千家・助教授)が教えてくださいました。

初めての試みで、人数が集まるか心配でしたが、「一人でも来ればやりますよ」とのお言葉に甘えてしまいました。Hさん親子は元々茶道に興味があったとのことで二人で来てくださいました。「また参加したいです」との事、嬉しいです!この企画にも期待が持てます。





緊張しながらのお茶会だったけど
お菓子おいしかったよね
また参加してね