2019年10月22日火曜日

やもめと裁判官のたとえ(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(緑) (2019年10月20日)
創世記32:23-31 Ⅱテモテ 3:14-4:5 ルカ18:1-18

 本日のイエス様の例え話に登場するやもめ(未亡人)は、裁判官の元を訪れ「相手をさばいて私を守ってください」と執拗に訴え続けます。初めのうち、ろくに礼ができそうもない彼女の訴えを、裁判官はまともに聞こうとしませんでした。しかし彼女はその諦めない姿勢でついに裁判官の思いを変えることに成功します。
 これ以上無視し続ければ、裁判官自身がノイローゼになりそうなくらい、彼女はしつこかったのです。損得勘定で考えた時、彼女のプラスになる裁判をしてやった方が、自分が楽になる。これが裁判官の導き出した結論でした。

 イエス様はおっしゃいます。この世を損得勘定でしか考えない「不正な裁判官」でさえ、ひたむきに訴え続ければ、それを無視することができなくなる。それならば、あなたを愛しておられる神様は正義に満ちた方なのだから、なおさらあなたの訴えを無視することはない。
 それは、例え話の最初の部分に「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と書かれている通りなのです。

 どうしようも無い不安の中にある時、私たちは神様に向かって、そしてイエス様に向かって、どれほど同じことを祈っても、決して恥ずかしくないのです。
 私たちが父と呼ぶ神は、祈る者から目を背ける方ではありません。本当に聞いてくださっているのかと不安になるときがあったとしても、落胆せずに、疑うことなく、絶えず祈るべきなのです。落胆し「どうせ神様は…」と愚痴を零しそうになる自分自身の心に打ち勝つためにも、絶えず祈り、昼も夜も叫び求めることが許されているのです。

 旧約聖書の時代にも ひたむきに願い祈る姿を神様に受け入れられた人物がいます。旧約聖書の日課に登場するヤコブは、神様から「イスラエル」と言う名前をいただき、それが国の名前ともなって、今日も使われています。
 ヤコブはかつて父イサクと兄エサウを騙して、長男にだけ与えられる神様の祝福をかすめとります。これが兄の激しい怒りを買い、実家から逃げ出します。
 しかしヤコブは、不正に手に入れた祝福であっても、神様は確かに自分と共におられると信じてきました。彼は試練を耐え抜き、豊かな財産や愛する家族を与えられました。
 明日は長い年月を経てついに兄弟が再開する日です。兄をなだめるためにたくさんの贈り物を用意し、準備できることは皆やりました。しかし和解できるのか、殺し合いに発展するのかわかりません。
 今のヤコブが持っている幸せの全ては、兄エサウを騙した結果として手に入れたものです。ここに来て、神様が全て取り上げてしまうのではないだろうか。しかしそうなっても自業自得と受け入れなければならないのだろうか。神様の御心がどこにあるのかわからないまま、ヤコブはヤボクの渡しと呼ばれる場所に一人残って悩苦しみ続けていました。

 その晩、不思議な出来事が起こりました。何者かがヤコブに襲いかかり、二人は夜明けまで格闘することになります。延々と格闘するうちにヤコブは相手が何者であるか気づきます。ヤコブは自分の不安を全てぶつけるように組み打ちを続けます。やがて腿の関節が外れると言うダメージを受けますが、ヤコブは戦いをやめません。
 やがて夜が明けかけるころ、格闘相手は「もう帰らせてくれ」と言いますが、ヤコブは相手が神ご自身であるとわかっていましたから、激しい痛みがあっても必死で祝福を願い、食い下がります。「祝福してくださるまで離しません。」
 神様は、これほどまでに神様ご自身から祝福してほしいと願うヤコブの姿に、「これからイスラエル、つまり神に勝つ者」と名乗りなさい、と告げ、祝福を与えてくださったのでした。
 (※余談ですが、再開した兄エサウは豊かな財産を持って幸せに暮らしており、弟ヤコブに恨み言を言うことはありませんでした)

 この出来事をクリスチャンが読む時、ヤコブの行動は単なる殴り合いではなく、必死で神様に食い下がる、信仰と魂の格闘である、と読み解くのです。

 私たちは、この夜のヤコブのように、自分の信仰の弱さを思い知らされる時があります。あまりに辛い時は、神様を、イエス様を信じ、頼り、委ね続けることに困難を覚えるのです。
 イエス様は、弟子たちに対して、信仰を失ない、妥協する人々が多くなることを危惧しておられます。失望や挫折が信仰を弱らせることをイエス様はご存知だったからです。その結果、神様の愛も、祈りへの応答も気づくことなく、ずっと不安や不満の中で過ごすことになってしまいます。

 この教会で、そしてこの園で行われる祝福は、全て神様からの贈り物です。その祝福を受けるものは「気を落とさず 絶えず祈る」ことで、神様と対話する特権が与えられているのです。
 私たち一人一人は神様に愛され、召し出されてキリストを知り、祈るものに変えられたのです。この原点に立ち返り、私たちのどんな訴えにも耳を傾けてくださる神と共に歩んでまいりましょう。

台風19号が通り過ぎた後
教会の駐車場の植え込みの中に
元気な姿を見せてくれた
カエルくん


2019年10月14日月曜日

感謝するのは難しい(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑) (2019年10月13日)
列王記下5:1-14 Ⅱテモテ 2:8-13 ルカ17:11-19


 本日の福音書は10人の重い皮膚病の人をイエス様が癒された出来事です。この時、イエス様は「エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られ」ます。この旅は、いよいよ十字架に掛かり死ぬことが目的であり、イエス様は堅い決心をしてエルサレムに向かわれる途中でした。
 「ある村」とは、伝染性の病にかかった人々が隔離され、共同生活をしている場所でした。聖書に重い皮膚病と書かれているのは大体「ハンセン病」と理解してよいでしょう。以前は「らい病」と書かれていましたが、日本では強い差別感を引き起こすため、「重い皮膚病」と書き換えられました。
 ※実際はらい菌の感染力は非常に弱く、治療法が確立した現在では治る病気です。

 イエス様の時代、この病気は非常に恐れられ、皮膚に炎症のできた患者は、祭司に見せに行くことが律法で定められて、祭司が聖書の定めに従って判断しました。「重い皮膚病」と判断されれば、患者は人里離れた不便な場所に隔離されました。祭司から「あなたは汚れている」と宣告された病人は、「私は汚れたものです」と呼ばわりながら、宿営の外に出て、家族と離れて住まなければなりませんでした。病人は病の苦しみだけでなく、親しい人々と接触を禁じられ、地位や名誉も失いました。
 そのような病人を隔離する場所は、沢山設置するわけにはいかないので、対立関係のユダヤ人とサマリア人であっても、両方の場所が近ければ、この村のように共に収容されることもあったようです。
 もしもある朝、目覚めて皮膚が元通りになっていたならば、すぐに祭司の所に飛んで行き、「あなたは清い」と宣言してもらおう。何度もそんな夢を見たことでしょう。しかしそのような奇跡は起きなかったのです。

 この10人は、この頃すでにイエス様の噂を伝え聞いていたと思われます。他に何も望みのない彼らは、もしイエス様が来られたなら自分をいやしてくださるだろうに、と思っていたはずです。しかし彼らは自分でイエス様を呼びに行くことはできません。なんとか通りかかってくださらないものか、とひたすら願っていました。
 その思いが神様に通じたのでしょう。十字架に向かって旅をするイエス様とその一行が、その村を通りかかったのです。
 重い皮膚病の人は健康な人に近づくことは禁じられていたので、遠く離れたところから声を張り上げて「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と口々に叫んだのです。
 彼らはイエス様から癒していただけるなら、どんな厳しい治療でも従う気持ちでした。しかし、彼らをご覧になったイエス様は、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっただけでした。

 病人はこの場所から勝手に出ることは禁じられていましたが、イエス様が行けとおっしゃるならそうしよう、と彼らは出発します。そして10人全員、祭司の元へ行く途中で病が癒されたのです。
 1人を除いて、9人は祭司のところへ急ぎます。祭司に体を見せ、清くされたことを確認してもらったでしょう。治癒が認められれば、すぐに律法に定められた清めと感謝の儀式が始まります。彼らは心の中でイエス様に感謝しながらも、祭司に言われるままに儀式の準備に追われたことでしょう。
 9人とも、自分達を癒して下ったのはイエス様であり、その向こうにおられる神様であることを知っていました。しかし夢にまで見た社会復帰が目前であることに夢中で、彼らはイエス様にお礼を言う機会も、信仰告白をする機会も失ってしまいました。そして神様との本当の意味での繋がりもここで切れてしまったのです。
 
 しかしたった1人、サマリア人だけは、祭司のところへ行く前にイエス様の元にUターンしたのです。彼は神を賛美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏し「感謝」しました。
 サマリア人にしても、すぐに家族の元に帰りたかったことでしょう。しかし、彼は今しなければならないことが何かわかっていました。異邦人の自分さえ憐れんで癒してくださったイエス様と神様に、心からの感謝の言葉を伝えたい。祭司に会うのはその後でいい。
 サマリア人はイエス様こそ神様であることを信じ、戻ってきます。その信仰をイエス様は大いに喜ばれたのです。サマリア人の感謝の言葉はそのまま信仰の深さを告白する言葉となりました。それは十字架で多くの人々に罵られながら不条理な死を迎えることになっているイエス様にとって、大いに慰められる出来事だったに違いありません。

 私たちも、礼拝の中でイエス様に向かって「使徒信条」や「ニケア信条」を用いて「信仰告白」をします。しかし、それがいつの間にかお題目のようになってしまってはいないでしょうか。
 信仰告白は、イエス様への感謝が込められてこそ意味を持つものです。自分のようなものが癒され、きよめられた、そしていつの日かイエス様が用意してくださっている天国へと導かれる。それを信じて日々歩める喜び。この喜びと感謝を言い表す事こそ、イエス様が最も喜んでくださる信仰告白なのです。
 信仰生活に慣れっこになれば、「感謝することは難しい」かも知れません。確かに、サマリア人のような劇的なことは私たちの生涯には起きないかもしれません。しかしどれほど小さなことにも喜びと感謝を見出すことはできます。私たちも信仰の告白の機会を無駄にせず、共に歩んで参りましょう。

教会の方から「食用菊」をいただきました
話には聞いていましたが、食べるのは初めてです
花びらをむしってさっと茹で、醤油をかけていただきました



2019年10月8日火曜日

10月の土曜学校を行いました

10月5日(土) 9:30-11:30
土曜学校(土曜日の教会学校)6回目です

この土曜日は小学校の運動会とかぶるところが多かったようで
「残念だけど行けません」という連絡が相次ぎました
それでも、すでに運動会が終わっている小学校から2人
参加してくれました

クラフトの時間は2人ではちょっとさみしいので
園の年長、年中さんも参加してもらって
一緒に紙飛行機を作りました
園のお友達は途中で園庭に出て
完成した飛行機を飛ばしました

小学生になると手先がぐんと器用になり
集中力も増すようで
もっと複雑なものを!と最後の最後まで
降り続けていました

次回も園のお友達と一緒に
クリスマスらしいクラフトを楽しむ予定です

最後まで頑張って、難しい飛行機を折り上げたメンバー

来月はモールやデコレーションボールを使った
可愛らしいクリスマスツリーです

2019年10月7日月曜日

赦しと信仰(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年10月6日)
ハバクク書2:1-4 Ⅱテモテ 1:3-14 ルカ17:1-10


 スポーツの秋ですね。9月28日(土)はルーテル幼稚園の運動会でした。牧師もいろいろな競技に出させていただだきました。
 運動会で子ども達が賛美する歌に「力」という曲があります。
「神さま、ください、元気な力を みんなと一緒に、遊ぶ力を
 神さま、ください、助ける力を みんなと一緒に、助ける力を。
 神さま、ください、信じる力を みんなと一緒に、生きる力を。」
 クリスチャン家庭の子どもでない彼らがどこまで歌詞の内容を信じているのかはわかりませんが、一人一人、本当に力一杯歌います。この歌詞は大切なことを教えてくれるなあと思うのです。

 人の信仰を否定することは、場合によってはご自分が神を信じないということよりも罪が深いのです。神様を信じている誰かに、「イエス様を信じたってなんでも願いが叶うわけじゃないよ」ともっともらしく教え、神様不信に陥らせることを「人を躓かせるやってはならない事」とイエス様はおっしゃいます。 

 信仰の仲間のみんながみんな「そのお願いはとってもいいね」と言えるような立派なお祈りをするわけではなく、時には「それはどうかな」と言いたくなる願いを神様に申し上げることがあります。それを聞いて思わず口を出してしまう、そんなことが弟子の間でもよくあったからでしょう。
 イエス様の弟子達も「出世したい」と願ったり「ローマ帝国をぶっ壊したい」と願ったり。信仰に力があることをイエス様から教われば教わるほど、突拍子もない願いを抱き、仲間同士で口喧嘩になることもありました。

 しかしイエス様は信仰の基本を根気強く繰り返し彼らにお教になりました。信仰の仲間が何を祈るにしても、それはそれで神様にお任せすべきであり、そんな祈りや思いは幼稚だ、自分勝手だ、といって裁くのではなく、神様ご自身が祈った人に何らかの回答をくださるのだから、あなたが神様の代理人になった気分であれこれ言うのは、小さい者を躓かせることだ、と言われたのです。
 弟子はその時は十分には理解できずとも、なるほどと思いながらお話を聞き「では私たちの信仰を増しくわえてください」と願ったのです。

 やがて、イエス様の十字架の出来事を経て、聖霊なる神に支えられた弟子達は飛躍的に成長します。厳しい迫害も受けましたが、これから後、彼らの信仰が失われることはありませんでした。
 彼らは地中海沿岸を中心に、価値観も言葉も習慣も異なる民族に伝道し、同じ信仰を持つ仲間として受け入れ、新しい教会を立て上げていったのです。
 実際には信徒同士の揉め事に悩まされることもあれば、地位のある人々が教会を間違った方向に持っていこうとすることもありました。しかし彼らは挫けることも諦めることもしませんでした。
 信仰者達は苦難の中で全ての悩みを神様に申し上げながら、教会という信仰の群れを守り続け、一つ一つの問題を信仰の力によって乗り越えながら、次の世代へと繋いでいったのです。

 先ほど読んでいただきました旧約聖書のハバクク書には興味深い部分があります。この書は紀元前600年頃に書かれましたが、その時代は、律法がすたれ、正義が破れた時代でした。ハバククの叫びは切実です。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」
 あまりにも長い間祈りが聞き入れられない時、人は信仰を捨ててこの世的な価値観に流れることもありますし、現実から目をそらして修行僧のように禁欲的な信仰の世界に閉じこもることもできます。
 しかしハバククは、ただひたすら神に向かって「なぜですか」「どうしてですか」「いつまでですか」と疑問をぶつけ、神様からの回答があると信じて苦しみ嘆きながら問い続けたのです。全力で問いかけるハバククの姿は不信仰の現われではなく、むしろ信仰の表明でした。

 そんなハバククに向かって神がお答えになります。ハバクク書2章3節の後半で神様ご自身がこう言われます。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」
 これは彼の求める答えとは違っていたでしょう。それでもハバククは神が見ていてくださることを確信し、この御言葉を書き記したのです。

 新約時代の信徒達は、聖書を通して遠い過去から受け継がれてきた神様のメッセージを自分の出来事として受け取り、自分の力に変え、現代の私たちへと繋いでくれたのです。私たちも彼らの姿勢から学び、一つ一つの御言葉を自分の力にしていく必要があります。

 毎日毎日、不平や不満、なぜですかという疑問が私達を襲います。それなのに聖書からは「愛せよ、赦せよ」そして「待っておれ」という言葉しか聞こえない時があります。それは時には残酷ですらあります。
 しかし、ただ私達は神が、キリストを通して示してくださった最終回答「私はあなたがたを愛している」という思いを信じるものです。その信仰を持つなら、目の前の苦しみや誰かから与えられた躓きも、乗り越える力を持つことができます。
 キリストが教えてくださったように、罪を赦すことや、裏切られたことを赦すという「不可能」が可能になるのです。




散歩に出かけると
金木犀の良い香りがあちこちから漂ってきます


2019年10月2日水曜日

憐みに生きる(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(緑) (2019年9月29日)
アモス6:1-7 Ⅰテモテ 6:2C-19 ルカ16:19-31

 本日のお話のタイトルは「憐みに生きる」といたしました。「憐み」というと、何やら上から目線のような響きを感じる方もおられると思いますが、福音書を通して「憐れみ」について聞いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所は単純に読んでしまえば、この世で金持ちだった人は地獄へ行き、この世で病いに苦しみ、貧しかった人は天国へ行く、と読み取れます。しかしよく読めば、お金持ちとして豊かな生活を生きることが悪い、とは一言も書いていません。その逆に、貧しく慎ましやかに生きることが立派だ、とも書いていません。大切なことは、その人がどのような生涯を送るにせよ、慈愛の心を忘れてはいけない、というテーマが込められているのです。

 この例え話に登場するこのお金持ちは、特に何も書かれておりませんので、ユダヤ人らしく自分の才覚によって富を得た人でしょう。 
 一方、そのお金持ちの家の前に、ラザロという名前の貧しい人が路上生活をしていました。ラザロはできものだらけの体を横たえ、「せめて金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたい」と願っていました。
 この二人、全く顔を合わせる機会がなかったとは思えません。ユダヤ人の学ぶ律法の書には、貧しい者に施しをするよう再三勧められていますから、お金持ちも時には施しをしたと思われます。だからと言って、本気で同情したわけではありません。聖書に書いてあるから施しの一つもしておこう、という程度の考えだったでしょう。

 イエス様はこのお話の中で、この二人をほぼ同時に死なせます。ラザロは天使たちによって天国へと招かれ、信仰の父アブラハムのすぐそばに連れていかれます。ここでのアブラハムは神様の代理人のような役割です。
 一方お金持ちはおそらく立派なお葬式をして、立派なお墓に入れられたのでしょう。しかし彼は死んでから陰府でさいなまれたのです。金持ちの行った場所は、私たちのイメージする地獄に近いような気もしますが、たとえ話ですから、描写に心を奪われすぎないように注意していただければと思います。
 ともかくも、死後の世界では二人の立場が逆転します。その時、お金持ちは忘れていた心を思い出します。それは自分以外の人に対する配慮、憐みの心でした。
 お金持ちは天国にいるアブラハムに懇願します。「私の舌を冷やしてください、それが無理なら、私の五人の兄弟が、こんな苦しい場所に来ることがないよう、ラザロを遣わして言い聞かせてください」
 しかし、アブラハムは答えます。人間が知る必要のあることは「モーセと預言者」、すなわち聖書を通してはっきりと教えられている。お前も5人の兄弟も当然聖書を読んだことがあるはずだ。その聖書を差し置いて他に教えを求めても、お前の兄弟も自分の考えや生き方を変えることはないだろう。
 
 生きている間に聖書の教えを軽んじ、憐れみの心を持つこともなく生きてきたお金持ちにとって、誠に救いのない結末となってしまった、とイエス様は言われたのです。非常に厳しい教えと言わざるをえません。

 ところで、イエス様はこのお話を伝えるにあたり、できものだらけの貧しい人を「ラザロ」という名前で呼んでおられます。「ラザロ」には、「神は助けられた」という意味があります。転じて「神の憐みによって生きる」という意味をもった名前です。
 私たち一人一人も、神様の憐みによって生かされたラザロに等しい存在です。何一つ自慢になることをしたわけでもなく、むしろ罪にまみれた生き方さえしてきたのに、神様は私たちに目を留め、憐れみをかけてくださいました。私たちを愛するがゆえにイエス様は十字架に掛かって私たちの代わりに罰を受けてくださいました。イエス様の憐れみによって私たちの罪は赦され、地上の命が終わったならば、天国へと登っていくことができるのです。
 それなのに私たちは、まるでこの例え話に登場したお金持ちのように「やるだけのことはやった」「私はそれほど悪人ではない」と開き直ることがあります。自分には罪がない、と考えてしまうのです。

 そんな時、私たちはこの世において罪に苦しむ人、貧しさや、病に苦しむ人の存在を忘れています。イエス様はみ言葉を通して、そういった人々に目を向けるよう繰り返し教えてくださいます。憐れむ心、その痛みに祈る心、場合によっては深く共感する心を抱いて生きるよう、私たちに常に教えておられるのです。

 本日共に読んでまいりました聖書の教えは、たとえ話を通してイエス様が私たち弟子にお与え下さった心構えです。私たちが「憐みの心」を抱いて生きるとき、神様が、イエス様が大いに喜ばれることを覚えて歩んで参りましょう。


市内の「りんご並木」のりんごです
美しく色づいてきました



2019年9月24日火曜日

不正な管理人のたとえ(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(緑) (2019年9月22日)
コヘレト8:10-17 Ⅰテモテ 2:1-7 ルカ16:1-13

 本日の福音書箇所は、イエス様の例え話の中でもかなり難解だと言われています。イエス様が「不正もOK」と勧められているように読めて、驚いてしまいす。

 この不正な管理人の話には、ちょっとした仕掛けがあります。不正な管理人の前に記されている「放蕩息子の例え」と「不正な管理人の例え」はセットになっているのです。それを心に留めて読んでみましょう。

 まず「放蕩息子の例え」は「自分たちは不正を行っていない」と自負しているファリサイ人や律法学者に向かって語られました。
 「放蕩息子の例え」は、ボロボロになって帰ってきた弟息子をお父さんが暖かく迎え入れてくれて、めでたしめでたし、ではありません。この様子を見た兄息子が父親に不平を言うのです。
 さらっと読んだだけですと、真面目な兄息子にはもっと報いがあっていいではないか、と思うことでしょう。真面目を自負するファリサイ人や律法学者にとっては受け止め難い例え話でした。
 しかし、イエス様は、真面目に生きる者が神様に多く愛される、とはおっしゃいません。むしろ自分なんて愛される資格のない出来損ないだと思う人が神様の愛を頼ってきたとき、その悔い改めた心を神様は非常に喜ばれる、とお話ししてくださるのです。

 その上で、今度はイエス様は、ファリサイ人や律法学者だけではなく、弟子たちにも向かって新たに例え話を始められます。つまり「不正な管理人の話」は、弟子たちにこそ、聞かせ、教えておきたいと思われたことだったのです。

 この管理人は大金持ちの主人のもとで、全ての権限を任され、財産を管理しています。しかし誰かが、「管理人が無駄遣いしている」と主人に告げ口します。
 管理人は主人に呼び出され、会計報告を出すように命じられます。管理人一筋だった彼は、ここをクビになったら生きていく方法がありません。その時彼が思いついたのは、残されたわずかな時間に、主人に借りがある人々を呼び集めて負債を軽くして恩を売り、友人となっておくことでした。こうすればいよいよ職を失った時、助けてもらえるに違いない、彼はそう考え、実行に移すのです。
 全てが明るみに出た時、主人はこの管理人の「抜け目のないやり方を褒めた」というのです。「こいつ、なかなかやりおるわい」というところでしょうか。

 原文を読みますと、イエス様はここで話を一旦締めくくっておられます。そこから分かるのは、イエス様は「友人を作るために上手に嘘をつくことを勧めておられる」のではない、ということです。
 イエス様はここで、この管理人が「これ以上ないほど賢く立ち回った」と語られたのです。言うなれば、この管理人はこの世において要領良く立ち回る人の典型、「この世の子ら」の代表ともいうべき存在なのです。

 「状況を見て賢く立ち振る舞う」。これはこの当時、弟子たちに大いに欠けていたことでした。弟子たちは素朴で純粋な心を持っている人々でした。イエス様のことを尊敬し、愛し、慕い、必死で学び、真似をし、失敗を繰り返しながらもどこまでもついて行こうとしました。そんな弟子たちを、イエス様は「光の子ら」と呼んで愛されたのです。
 その上で、「光の子ら」には大きな弱点があることを指摘されます。教えに従って必死になるあまり、世の中の計算高い人々に足をすくわれてしまうのです。

 この世の中で賢く生きる人々は、上手に計算して人脈を作り、うまい話は見逃さず、うますぎる話は疑って、不要な損失を防ぎます。柔軟性があるのです。

 しかし「光の子」つまり弟子たちは、人を疑うことは悪だと思い込んでは騙され、信仰のない人と親しい友人になることを拒んでは伝道の機会を失い、挙句にずる賢い人たちに騙されたり、そうかと思うと自分の正義を同じ信仰の仲間に押し付けて、群れの中ですら傷つけ合っています。早い話、自分の信念を曲げられない頑固者になりやすいのです。
 この違いが「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている。」という意味なのです。

 『積極的に悪事に手を染めろとは言わない。しかし、結果的にそうなってしまってボロボロになったとしても、悔い改めて帰って来るなら私は赦して受け止める。』
 イエス様がそう言われる「放蕩息子のお話」、その前提をしっかり信じた上で、「清く正しく、間違わず」だけを信仰生活の目標とするのではなく、確かな判断力を持って矛盾だらけのこの世の中を切り抜けながら、新しい仲間を増やしなさい(伝道しなさい)。ここにはイエス様のその強いメッセージが込められているのです。


 私たちはイエス様に愛されている「光の子」です。だからこそ、「素直に、けれども賢く」(蛇のように賢く、鳩のように素直に・マタイによる福音書10章16節)生きていくことを、神様ご自身から求められているのです。


産直のお店に林檎がたくさん並び始めました
初めて見る品種がいっぱいで
片端から試食したくなってしまいます


2019年9月17日火曜日

私を見つけて下さる神(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(緑) (2019年9月15日)
出エジプト32:7-14 Ⅰテモテ 1:12-17 ルカ15:1-10


 今日の福音書でイエス様が語ってくださる「見失った羊」も「失くした銀貨」も、さらにはそれに続く「放蕩息子」のたとえ話も、「見つけてくださる神」という思いを込めて、イエス様は語っておられます。イエス様がここで三つの例えを通しておっしゃりたい事は「神様はあなたを見つけてくださる方である」ということなのです。

 著者のルカという人物はユダヤ人でもなければイスラエルに住んでいたわけでもありません。ユダヤ人宣教者パウロが地中海沿岸で伝道活動をしていたとき出会い、「異邦人クリスチャン」となった人です。そして「見出された異邦人」として聖書の教えを説き明かす人となりました。
 ユダヤ人は誰でも旧約聖書の知識があり、イエス様の御言葉の深い意味を理解しやすい立場にありましたが、異邦人はなかなかそうはいきません。しかし、そのような人々でもイエス様が神の子・救い主であることや、神様が私たちをどれほど愛しているかということを、できるだけわかりやすく理解できるように、ルカは自分の福音書に工夫を凝らしたのです。
 ルカは、イエス様の言われた「あなたを見つける」というテーマに関して、百匹の羊の群れから迷い出た一匹の羊の話だけでなく、失われた一枚の銀貨を見つかるまで探す女の人の話、そして、有名な放蕩息子の話へと、これならわかるか、これならピンと来るか、とたたみかけていくのです。

 羊にしろ、お金にしろ、人間にしろ、誰がこれほどまで熱心に探し、誰がこれほどまでに喜んでいるのかと言うと、その持ち主なのです。見つけられた側ではなく、持ち主、つまり神様がこれほどまでに喜ぶことを、ルカは伝えたかったのです。神様がイエス様を遣わしてくださり、必死で探してくださった結果として、あなたはここにいるのだよ、と強く強く伝えたかったのです。

 ところで、イエス様がなぜこの例え話をされた時の状況を、ルカは詳しく書き記しています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」
 ここに書かれている「徴税人や罪人」というのは、ユダヤ社会においては神様に見捨てられた人々という意味があります。一緒にいると汚れが移る、だからこいつらとは一緒に食事をしない。ファリサイ派の人々や律法学者たちエリートはそう考えていました。
 「異邦人」という言葉はここにありませんが、異邦人もまた、ファリサイ派の人々や律法学者たちは一緒に食事をしませんでした。彼らにとって、それが当然だったのです。そういう意味において、徴税人や罪人と異邦人は同列だったわけです。
 この辺りをルカは意識して書いたとも考えられます。

 この姿は、そのままルカたち異邦人のクリスチャンとユダヤ人クリスチャンの図式に当てはまるのです。初期の教会において、ユダヤ人クリスチャンたちの中には、古いユダヤ人の考え方が捨てられず、異邦人クリスチャンに対して先輩風を吹かせ、上から目線でものを言ったり、差別したりする様子が随所に見られたのです。
 本当はどちらもイエス様によって見出された、大切な存在です。それなのに教会の中は民族の違いが元で一つにならずにギクシャクしているのです。ルカは指導者の一人としてなんとかしたいと考え、その思いを込めてこの記事を書いたのでしょう。
 もし私たちの教会でこの様なことが起起きた場合、一番悲しむのは、私たちを集めてくださったイエス様であることを覚えておきましょう。

 最後に、あまり取り上げられることのない「失くした銀貨」の例えに触れておきましょす。
 この女の人は死に物狂いでこの銀貨を探しています。ある注解書には、「彼女は欲しいものがあった」と記されていました。それは一点もので、他の人に買われてしまったら2度と手に入らない。それなのに不覚にも落としてしまった。ランプをつけて、必死で家中探してようやく見つかった。そんな様子が描かれています。
 もし1枚でも足りなければ、決して手に入れることができない。つまりここでは10枚はワンセットであることが強調されているのです。
 イエス様が見出し、集めてくださった私たちはワンセットであり、ワンセットでようよう神様の働きができる存在だから、一人として欠けてはいけない、という教えが込められているのです。

 教会においては一人一人、どの人も不必要な人ではないのです。能力が優先される世の中にあって、教会は決してそれに影響されることなく、私たち一人一人が神様によって探され、見つけられた者であり、見つけた時には天使たちも喜びに沸くのだ、と感じ取ることが大切なのです。
 神様の宝として見いだされた私たちは、さらに集まって、神様が願っておられるもの、地上における神の国の実現に向けて働きを続けていくのです。


古いブロック塀が撤去され
新しいフェンスのお目見えです
少し濃いめのペパーミントグリーン?
全体が出来上がるのはもう少し先ですが
なかなか明るく、良い感じになりそうです


2019年9月11日水曜日

弟子の条件(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(緑) (2019年9月8日)
申命記29:1-8 フィレモン 1-25 ルカ14:25-33

 イエス様はご自分に従いたいと願う人々に、弟子の条件を突きつけられます。それはぱっと見、決して厳しい条件とは思えないものでした。どんな時も「私を選ぶか」という、ただそれだけなのであります。が、この条件をきちんと満たそうとすると、どれくらい大変か、弟子となってみて始めてわかるものなのです。

 キリスト教は誰か他人に強制されて信じるものではありませんし、「来るもの拒まず、去る者追わず」というところがあるのは事実です。しかしそこのところを自分に都合良く解釈し、すり替えてしまっているのかも知れないのです。自分の都合が良い時だけ信徒として振る舞い、都合が悪くなると信仰を引っ込めてしまう。イエス様はこういう曖昧な態度をこそ、憎めとおしゃったのです。

 憎めという言葉は、とても強い言葉ですが、元々の言語と合わせて訳してみると、「より少なく愛する」という意味になります。これは「イエス様のもとに来たなら、他に気を取られて上の空になるな」というメッセージなのです。

 「憎む」とは、人間関係や仕事関係を、全て信仰の為に否定し拒絶しろということではありません。仏教の始祖ゴータマ・シッダールタはコーサラ国という国の王子で、妻も子もありながら、全部捨て去って出家し、悟りの道に入ったそうですが、宗教に入るというと、なんとなくそういう心の状態が求められると思われがちです。
 しかしイエス様は、むしろ、普段の生活を続けながら、愛着のある者たちとの間で苦悩しながらも、イエス様に従っていくという、悩みある信仰の歩みを良しとされる方なのです。

 飯田教会は100年を超える歴史を持っています。長い歴史の中で、たくさんの洗礼者が与えられ、多くの人々がここに集いました。すでにこの世を去った方々はさておき、ご存命であるにも関わらず教会から遠ざかってしまった人々は、葛藤に負けて立ち去ってしまったという事なのでしょうか。そして今、残っている私たちは、たまたま運が良かった、ひどい葛藤に陥らずに済んだので続けて教会生活を送っているのでしょうか。
 いいえ、そんなはずはありません。誰にも、信仰のピンチはあるのです。今、こうして共に集い、礼拝していても、日々、誘惑やピンチにさらされているのです。

 では、なぜ信仰生活を続けることができるのかと言えば、イエス様の愛に応えようとする必死の思いがあるからです。この日、この時ばかりは、キリストの愛、神の愛に応えようとするあなた自身の愛が働いているからです。
 愛されていることを知っている者にとって、礼拝の懺悔の時は、1週間のうちにイエス様に従いきれなかった一つ一つを思い出して「イエス様ごめんなさい」の思いを持つことです。そのために私たちはともにここに集うのであり、その上で、改めてイエス様の愛に従う誓いを立てるのです。

 私たちは完全な愛を持ち合わせてはいません。生まれついて優しい性格の人は確かにいます。ですが、愛そうとするなら強い意志が必要なのです。私たちはその意志が時折萎えてしまうのです。自分がそういう存在であることを自覚した上で、そんな私でもイエス様が愛してくださることを信じて、気持ちを新たにして従っていくのです。
 福音書には、あんなにもイエス様を尊敬し、弟子として従ってきた12弟子さえも、そして一番弟子のペトロさえも、イエス様が逮捕された時、「お前は弟子の一人なのか」と名もなき人に咎められ、心が揺り動かされて「イエスなど知らない」と偽りの誓いを立ててしまう様子がはっきりと記録されています。
 私たち人間はその様な弱さを持っているのです。まず完全な優等生的を目指すのではなくて、自分のことを不器用で、弱いものだと認めつつ受け入れ、それでも神様の愛は変わらない、イエス様の愛は変わらないと信じ続けることが、イエス様の弟子、神様の弟子の条件なのです。

 「イエス様を一番に愛する」ということは、言い換えれば誰よりもイエス様に甘えるという事です。それが心のそこからできるようになることを祈りましょう。一人一人を命をかけて愛してくださった尊いイエス様の犠牲を心に刻んで、キリストの弟子として生涯をかけて歩んで参りましょう。


今月28日(土)はこども園の運動会です
応援の気持ちを込めてレゴで玉入れの風景を作って
掲示板に飾りました

2019年9月10日火曜日

9月の土曜学校を行いました

9月7日(土) 9:30-11:30
土曜学校(土曜日の教会学校)5回目です

まず礼拝からスタートです。

こども園からも担任の先生に連れられて
たくさんのお友達が参加してくれました

小学校以上のお友達は9人

礼拝後はお誕生会
9月生まれのお友達はいませんでしたが
5月から始まった土曜学校を覚えて、参加者全員で
「ハッピーバースデー土曜学校」と歌ってお祝いしました


クラフトの時間は
木片を使ったミニチュアロボット風のマスコットを作りました
先月見本を見せて予告しましたら
ぜひ作りたい!と集まってくれたお友達が9人
いつもより多い人数に
指導の優子先生はてんてこ舞いでしたが
同じような材料を使っても
みんな少しずつ違う、小さなロボット達が出来上がりました





全員の作品はFBにUPしてありますので、どうぞご覧ください

来月は朝比奈牧師の「世界一飛ぶ紙飛行機を目指そう」です



紙飛行機と侮るなかれ!よく飛ぶ飛行機には工夫と研究が必要です、とは
牧師の弁(^^)お楽しみに!

2019年9月4日水曜日

神様の招き(日曜礼拝説教の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年9月1日)
エレミヤ9:22-23 ヘブル 13:1-8 ルカ14:7-14

 本日読みました福音書のタイトルには「教訓」という言葉が記されておりイエス様は「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」とお話になります。しかし、イエス様のおっしゃることはこの世を器用に渡って行くための処世術ではありません。そして、もちろん、教会の礼拝に来た時、前の方に座らない方が良い、などと指南したものでは、決してありません。
 少し話が逸れますが、牧師になるために神学校に通っていた時、学校に教えに来ていた牧師先生が、君たちは前に座りなさい、前に座りなさいと何度も何度もおしゃるのです。教会では後ろに座る人が多くて、前に座ってもらうことに難儀する、と言われるのです。
 日本人が奥ゆかしいからだ、という考え方もありますが、どうもそれだけではないようです。どんな人でも、状況が違えば前に座りたいこともあるはずです。
 以前関わっていた保育園では、クリスマスページェントなどは、教会の礼拝堂で行っていましたが、なんとかして我が子の、あるいは我が孫の晴れ舞台をスマホなどで記録しようとする方のために、後ろの席は長椅子の上に立ち上がっても良いルールになっていたようです。
 それなのに、同じ礼拝堂でありながら、日曜の礼拝となると状況が違います。説教中に牧師にうつらうつらしているところを見られたくないから、と説明する方もおられましたが、前に座ろうが後ろに座ろうが、牧師から見れば寝ている方は分かりますので、そういう心配はご無用といったところです。
 どうして礼拝堂の席は後ろから埋まっていくのかなあ、やっぱり自分の責任なのかなあ、と神の代理人とまで言われているはずの牧師はちょっと悲しい気分になるわけです。
 つまりは、目立たない場所にそっと座るからといって、必ずしもそれが謙虚の表れとは限らない、ということになります。
 私たちが通常考える「謙虚な振る舞い」というのは、自分に対して自信がない時ついつい出てしまう行動であって、なるべく恥をかかなように目立たないようにしておこう、という処世術に過ぎないことが多いのです。
 本日の福音書で、イエス様が教訓としてお教えになる「謙虚」というのとは、私たちが日常的に考える謙虚とは本質的に異なると頭を切り替えて、読み進めてまいりましょう。

イエス様は、ご自分が幸せな生涯をお送りになるためではなく、神様の存在を示し、神様の栄光をこの地に表わすために人としてお生まれになったのです。
 しかし神様の栄光を現わすために、神様によって用意された道は、十字架への道であり、自分自身を無にするほど低くなる道でした。
 今日の福音書の10節に面目(めんぼく)という言葉が出てきます。もともと面目という言葉は、『世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価』という意味で、人の目からどのように見られているかを表すときによく使います。
 しかし、聖書のこの箇所で使われている「面目」とは「栄光」という言葉と同じ単語が使われています。「主の栄光」というと、漠然としていますが、「主の面目」と言い換えると、だいぶ捉えやすくなる気がします。「主に栄光を返す」というのは分かりにくくても、「主の面目を施した」と言い換えると、神様の評判を高めた、という意味になって、分かりやすいのではないでしょうか。
 つまりイエス様は「神様は素晴らしい、偉大な方だ」と、より多くの人々に伝えるためにこの世に来られ、そのために十字架の上で命を投げ出されたのです。

 イエス様は神様の偉大さを示すために、ご自分を小さくする道を選ばれました。偉大なのは神様であって、ご自分はその証をしているに過ぎないのだという考えをお持ちでしたから、次々と奇跡の業をなさいながらも、ご自身が教祖のように祭り上げられるのをお嫌いになりました。
 それどころか、人々を救うために、自分は罪人になっても構わないという過酷な道を選ばれたのです。もし私たちが、周囲の人々から「あなたのしていることは悪いことだ」と指摘された時、それでも自分は十字架に掛かるほど、死刑になるほどの罪は犯していないと声をあげるでしょう。
 しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。自分が全く無実であるにも関わらず、そして全く罪が無かったにも関わらず、あえて十字架に掛かられたのです。
 それは、私たち一人一人が、神様なんていない、と神様から注がれる愛に気づかず、それを否定し、身勝手な思いや振る舞いをしたがゆえでした。それは神様の目から見れば赦しがたい大きな罪となりました。その一つ一つの罪を償うために、私たちに代わってイエス様は十字架に掛かられたのです。私の罪、あなたの罪、全ての罪を償うために、一切の罪のない方が、とことん低くなり、へりくだって、もうボロ雑巾のようにクタクタになって死んで下さったのです。
 イエス様はそうすることで、私たちがどんなひどい罪の状態の中にあっても、「私はあなたを理解できる」と手を差し伸べてくださるのです。それがイエス様のお役目だからです。私たちはこの方に感謝し、その手にすがって新しい命を生き始めることができるのです。
 ただ、私たち、特に日曜日に礼拝を守る堅実な信徒であればあるほどに、自分のことを、本心から「私は罪人に過ぎません」とは言えないものです。そこそこ良い人であると自負し、それなりの良識ある人間であると信じているはずです。けれども、私は神様に逆らってはいないが、従ってもいない、そんな生き方をしていることが、ある時ふっと分かることがあります。変な言い方ですが、自分に死んでいないことが分かる時です。
 洗礼とは、一度死に、主と共に蘇って新しい命を生きることのはずです。私たちは罪人に過ぎないものであり、土くれに過ぎないものだったのです。しかし、イエス様の呼びかけが、神様の招きがあり、キリスト教信仰の道が与えられました。新たな神様からの息を受けて悔い改めの心を知り、聖霊なる神の存在に気づかされ、日々導かれて生きているのです。この事実に胸が震える時、イエス様を通して自分を神様が招いてくださったのだと信じることができるのです。
 どれほど遠回りした信仰生活でも、今主の近くにいることを覚えつつ、主イエスの教えに従いながら、恵みの時を覚えて歩んで参りましょう。


今日から外壁のブロック塀の取り壊しが始まりました
一ヶ月後にはフェンスとして新しく生まれ変わる予定です


2019年8月26日月曜日

神ご自身に生かされる(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第10主日礼拝(緑) (2019年8月18日)
エレミヤ23:23-29 ヘブル 12:1-13 ルカ12:49-53

 本日の福音書には「分裂をもたらす」というタイトルが付けられています。イエス様に従うことで幸せになるのでは無く、親子が分裂するなんてありえない、と思われるでしょうか。しかし、私たちがイエス様に従う生き方を貫こうとする時、多かれ少なかれ、「分裂」というものを経験することがあるのです。
 家族一族の中で、自分が初めてのクリスチャンとなるとき、反対を受けた、という経験をお持ちの方もおられるはずです。職場仲間で日曜日にみんなで出かけよう、と誘われ、断ることで同僚との間に亀裂が入った経験をお持ちの方もおられるでしょう。
 ここ飯田でも、地域のお祭りの時期ともなれば、ご近所さん、地域の方々と宗教感覚を巡って、「分裂」と呼ぶには大げさかもしれませんが、軋轢を経験される方もおられるでしょう。
 
 キリスト教は、2000年前に生まれましたが、その母体は古代の中近東で生まれたユダヤ教です。天地を作られた唯一の神だけを信じ、律法を柱として厳格な掟とともに何世紀もの間ユダヤ人に信じられて来た民族宗教です。
 しかしイエス様は、このユダヤ教が儀式優先、形だけになっていることや、祭司たちが宗教者として堕落していることなどをきびしく批判し、神様の愛の本質を語られました。そしてそれを信じる人々が次々と救われたのです
 ところがイスラエルの指導者たちは、イエス様を生かしておくと国が混乱に陥ると考え、イエス様を捕えて一方的に裁き、ローマ人の総督に彼を処刑するように求めたのです。
 こうしてイエス様は十字架の上で命を落とされました。が、イエス様が復活されたことによって、全ての人が等しく神様から愛されているという教えや、罪からの解放、いたずらに死を恐れなくてもよい、ということなどなどはもっと具体的に、もっと明らかにされました。イエス・キリストを信じる人々は神の国、天国への希望が与えられたのです。

 こうしてキリスト教はユダヤ教から分裂して誕生したわけです。そもそもの最初から「分裂」がつきものだったとも言えるでしょう。

 キリスト教が誕生した本当の初期、12弟子達が生きていた時代、ユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者と、そのほかの宗教から改宗した異邦人キリスト者の間で、またまた対立と分裂が起きたのです。
 ほかの宗教から改宗した異邦人たちの行いは、律法をきっちり守って生きてきたユダヤ人キリスト者と大きく異なっていました。双方のグループは同じイエス様を信じているにも関わらず、なかなか理解し合うことができず、初期の指導者たちは本当に苦労したようです。

 そういったことを超えてヨーロッパ最大の宗教となった後も、ローマ・カトリックの考え方に異議を唱えたルター派の人々との間に、分裂が起きます。これもまた、同じキリスト教を信じていながら起きた分裂でした。
 
 他の宗教を信じている方々との分裂、同じクリスチャン同士に起きる分裂。どうしてこのような事が起こるのかと、悲しくなることもあるでしょう。しかしこれはおそらく、人間が自分の主張を通そうという性質を持っている限り、終わらない出来事なのだと思います。
 もしルターが強い権力を持った教皇たちの顔色を伺うばかりだったら宗教改革は起こらなかったでしょう。その結果、キリスト教はもっと堕落したものになっていたかもしれません。分裂は悲しい事だけれど、必要な時もあるのです。イエス様により正しく従おうとする人々と、このままでいいじゃないかと考える人々の間に、今この瞬間も分裂が生じるかもしれません。

 だからと言って、理解し合えない相手を「消えてしまえ」と呪い、対立する相手をこの世から滅ぼそうと考えるのは明らかに間違っています。イエス様はそのようなことを望んではいません。イエス様は折に触れ「あなたがたに平和があるように」とおっしゃっておられます。イエス様は心から平和を望んでおられる方なのです。

 イエス様は、信仰を持ったがゆえに、相容れない相手が出てくることは予測しておられました。それでも、イエス様の救いを信じるか信じないかは二つに一つで、どっちでもいいや、というのは信仰ではありません。

 そのことをご存知の上で、自分たちが生きているこの世界が無意味な分裂によって崩壊することのないように、「平和があるように」と望んでおられるのです。私たちはそのために、イエス様から与えられた信仰を用いていく使命があるのです。

 この世の裁きを恐れないで、真実の平和を求め、祈り、頭を使う。
 神ご自身に生かされるものであることに、私たちの信仰があり、喜びがあり、本当の愛があるのです。



18日の礼拝もゆり組の部屋で行いました。
礼拝の後は冷房の効いた涼しい部屋で
流しそうめんで愛餐会です

2019年8月17日土曜日

全てを神に帰すとは(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(緑) (2019年8月11日)
コヘレト2:18-26 コロサイ 3:5-17 ルカ12:13-21

 本日の福音書では、ある人がイエス様に「私に遺産を分けてくれるよう兄弟に言ってください」と願い出ます。イスラエルの文化を知らなければ筋違いのように言える話ですが、この国では、宗教家が律法に基づいて判断するのが普通でした。彼はイエス様を立派な宗教家の一人と見込んで頼んできたようです。実際には筋違いでもなんでもなく、イエス様が周囲からどれほど尊敬を受けていたかを示す出来事でもあったわけです。
 しかしイエス様はこの男性から持ちかけられた話をあっさりと退けられます。ご自分は、この世において裁判官や調停人をするために来られたのではない、と言われたのです。イエス様は自分に話を持ちかけた男性が「金さえ手に入れば、その他のことはどうでも良い」と考えるような、危険な精神状態にあることを見抜いておられたのです。この男性が、少しでも多く財産を獲得できなければ生きていくことができない、と考えている様を見て取られたのでしょう。

 イエス様は財産にまつわる一つのたとえ話をされました。『畑が大豊作で、今持っている倉では入りきらないと知った金持ちが、喜んで古い倉を壊し、大きな新しい倉を建てて、これで残りの人生安泰だ、と安堵した夜、ぽっくり死んでしまった』というたとえ話です。
 蔵を建てることが悪いのではありません。ただこの金持ちは、飢饉への備えというより、この蓄えさえあれば、もはや神様の導きも教えも必要ない、と考えるようになっているのです。そのような精神状態をイエス様は「愚か」と言われるのです。幸福の絶頂にある時、彼は死を迎えます。

 イエス様は、この世の富は人が幸せに生きていくことに直接関係はない、と言われます。自分の安心のために富を蓄えても、神様に背を向けて生きていくなら、その人生は虚しくあっけないものだ、と言われるのです。
 イエス様は、人が心の底から恐れなく生きるには、何より神様の愛が必要だ、とお教えになりました。ただし、22節には「イエスは弟子たちに言われた」と書き始められています。ここからは、「なんとなくええ話を聞きたい」という人にではなく、イエス様に従って生きようと決心した人々に語りかけられておられるのです。言い換えるならば、神様と正しい関係を築きたいと願っている私たちに向かって、積極的な心構えと秘訣について語っておられるわけです。

 イエス様は、「悩んでも仕方のないことを思い悩むな」と言われます。あなた方の父は、何があなたに必要なのかすべてわかっていらっしゃるのだから、先回りして思い悩んだり恐れたりしないで神様を信頼しなさい、と言われるのです。
 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とイエス様は宣言されます。とても有名な御言葉ですが、この御言葉をすんなり信じられたら苦労はしない、と心の中でつぶやく方もたくさんおられるでしょう。ただ、そんな風に開き直ってしまうのはイエス様の弟子にふさわしい態度ではないのです。

 ルカ福音書18章には、有名な「金持ちの青年」のお話があります。彼は永遠の命を受け継ぎたくてその方法をイエス様に尋ねます。するとイエス様は、持っている全てを売り払い私に従いなさい」と言われます。彼は財産を放棄することができず、悲しみながらイエス様の元を立ち去るのです。
 私たちが、思い煩わない生活を求めながらも、イエス様の言葉に従いきれないなら、この青年と同じだ、ということになります。一度イエス様についていく、と決めたなら、神様を信じ、次々襲いかかってくる不安を振り払いながら歩んでいくのです。もちろん簡単なことではありません。簡単でないところを、あえて歩むところに信仰を持って生きることの意味があるのです。

 信仰を持たない人から見れば、呑気な楽天家のように見えるかもしれません。しかし歯を食いしばってでも呑気な楽天家であり続ける努力を続けるとき、「神に栄光を帰す」という出来事が、この地上に起こるのです。
 イエス様と共に生きる人々は、なんと脳天気なのだろう、と呆れられることもあるかも知れませんが、それこそが、私たちに与えられた恵みであり、財産なのです。
 不確かで不安に満ちた今の世の中であるからこそ、私たちは神様に栄光を帰しながら、一人一人の生き方に信仰と誇りを覚えて歩んで参りましょう。


大好きな五平餅でほっと一息