2019年6月15日土曜日

12日は「花の日訪問」でした

ちょっと遅くなりましたが
12日の「花の日訪問」の報告です

こども園の行事として
園児達と一緒に高齢者施設へ行ってお花と歌のプレゼントをしました
ご一緒にカエルの歌の輪唱をするはずが、なぜか大合唱になりました
それはそれで素晴らしい

「花の日」はアメリカのプロテスタント教会で始まった行事で
6月第2日曜日に、子どもたちが教会に花を持ち寄って礼拝し
病人などを慰問します
今回は園の行事なので、平日に行いました

私も子どもからお花をもらえましたよ






2019年6月9日日曜日

全ての人に聖霊を(日曜礼拝のお話・抜粋)

聖霊降臨祭・聖餐式(赤) (2019年6月9日)
創世記11:1-9 使徒言行録 2:1-12 ヨハネ16:4b-11

 今日は聖霊降臨祭、ペンテコステと呼ばれる日です。
 「聖霊降臨祭」と言いますのは、本日読んでいただいた使徒言行録にあるように、イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神が地上の弟子達の元に降臨することによって、現在のキリスト教会が始まりましたので、このように呼ばれています。
 それまで「キリスト教」という呼び方はなく、ユダヤ教の一つのグループにすぎませんでした。しかしこの日を境にユダヤ社会からキリスト教が飛び出して、世界各国に広がっていくのです。「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」というのは有名な聖書の箇所で、キリスト教の、世界への広がりを象徴している御言葉でもあります。

 50日前、私たちはイエス様が復活されてめでたしめでたし、とゆで卵をもらったり、美味しいものを食べたりしてお祝いをしましたが、実はイースター以降の礼拝では、弟子たちがなかなかイエス様の復活を受け入れられず、お化けだ亡霊だ幽霊だと大騒ぎしたお話を何度かいたしました。
 それでもイエス様が根気強く彼らに寄り添い、ご自分が蘇られたことを証明し、その意味を語ってくださったので、彼らはようやく元気を取り戻します。そして、自分たちにはなすべき使命があるのだと考え始めることができたのでした。

 しかしイエス様は蘇られてから40日目に、天に帰って行かれたのです。弟子達が見守る中、天に上げられ、「聖霊なる神があなた方のところに来られるとあなた方は力を受ける」との約束を残して、見えなくなってしまわれたのです。なんと、弟子たちは再びイエス様と離れ離れになってしまったわけです。では、彼らは聖霊降臨祭までのこの10日間、どうやって過ごしていたのでしょうか。唯一分かるのは、その間ずっと「祈っていた」ということです。
 使徒言行録の1章12節からの記録によれば、イエス様が天に帰られてからのこの10日の間に、ペトロをはじめとする11人の弟子たちと女性の弟子達、そしてイエス様の母マリアや、イエス様の兄弟達も集まって、心を合わせて熱心に祈っていた、と記録されています。その数は120人にもなった、と書かれています。

 客観的に考えてみますと、ペトロ達とイエス様の母マリア達が一つとなって祈っていたことに、少し不自然さを感じます。と言いますのは、イエス様が十字架に掛かった時、男性の弟子たちはヨハネを除いてみんな逃げてしまったのです。母マリアが息子を失った悲しみの中にいた時、寄り添ってくれたのは数人の女性の弟子たちとヨハネだけでした。
 「蘇ったのだから、あのことは水に流しましょう」というほど人の心は単純ではないはずです。ペトロ達の心にマリアに対する負い目はなかったのでしょうか。また、母マリアの中に、十字架のイエス様を見捨てて逃げたペトロ達への恨みは無かったのでしょうか。
 ただ、聖書はそこにはあまり深くは触れず、彼らがわだかまりを超えて、一つとなって、共に祈り合っていたことだけを記すのです。
 イエス様は、十字架の上で憎しみや恨みではなく、赦しを祈られました。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」
 イエスを信じる人々はこの祈りを自分の祈りとして心に刻みました。そしてこの祈りに倣うことで、負の感情に取り込まれないで互いに受け入れあい、一つとなることを学んでいきました。その結果が本日の、人々の祈りの姿なのです。この心のあるところに聖霊は降ってくださり、キリストの教会が始まったのです。

 イエス様はその教えを、改めてわかるようにご自分の弟子達に伝えてくださいました。そしてさらにそれを引き継ぐものが、今日において全てのキリスト教会に集う者なのです。私たちは聖霊をこの場所で感じ、そして、この世を生きて参ります。教会を通して全ての人に聖霊が注がれることを祈りつつ、喜びと感謝に満たされてまいりましょう。



雨の合間に、玄関脇の色づき始めたアジサイの間から
カエルの歌が聞こえてきます


2019年6月3日月曜日

とりなしの祈り(日曜礼拝のお話・抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年6月2日)
使徒言行録16:6-15 黙示録 22:7-13 ヨハネ17:20-26


 本日読みました福音書は「イエス様のとりなしの祈り」と言われているところです。

 私たちは日頃、自分自身の願いを叶えていただくために祈ります。また、自分に与えられた喜びや感謝を祈りとして口にします。それに対して、「とりなしの祈り」とは他者のことを神様に祈り求める祈りです。
 幼稚園でも、幼くて神様にどのように祈るべきかわからない子どもに代わって、あるいは、神様とまだ上手に関わりを持てない職員に代わって、そう言った人々と神様の間に入って、祈りを仲介するのが「とりなしの祈り」なのです。

 十字架にかかる前の夜、イエス様はまだ信仰の未熟な弟子たちに代わって、神様に祈りを捧げてくださいました。イエス様が十字架にかかるなど、想像もしていない弟子達と神様の間に入って「とりなし」の祈りを捧げてくださったのです。それが記録されているのが、本日の聖書箇所です。
 イエス様は、ご自分が天にお帰りになった後、弟子達がやがて御言葉に従って心を一つにし、豊かな教会を立て上げる日が来ることを喜びをもって神様に感謝し、しかもそれに伴うあらゆる苦労までもを見通して、弟子達に代わって祈ってくださったのでした。
 本当に、この時の弟子たちには全く見えていなかったものを、迫ってくる十字架の死を前にしながら、イエス様は神様に願い求めておられたのです。
 
 本日読んでいただいた使徒言行録には非常に活動的な伝道者・パウロが登場します。彼もまた、イエス様に招かれた弟子の一人であり、苦労を重ねながらも次々と教会を立て上げていきます。ところがパウロ達がある地方に行った時、聖霊によって伝道にストップがかかります。御言葉を語ることを聖霊から禁じられ、行こうとする道をイエス様の霊が塞いでしまうのです。
 ここには、「み言葉を語ることを聖霊から禁じられた(16章6節)」という表現と「イエスの霊がそれを許さなかった(同7節)」という独特の言い回しが出てきます。
 具体的には何があったのか、聖書には記録されていません。しかし情熱を持って宣教活動をしてきたパウロにとって、何らかのアクシデントによって先に進めないことは非常に苦しく、悩みを伴うものだったはずです。彼らは新しい導きに従って予定を大幅に変更し、行く予定のなかった土地へと足を踏み入れます。
 その土地とはマケドニア、今のギリシアに当たります。ギリシアといえば、今日もギリシャ正教が盛んな土地です。挫折したかに見えた宣教旅行が、大きな広がりを見せた最初の瞬間でした。パウロはここにきて、宣教の計画というものが自分の意思ではなく、一見挫折に見える中に、大きな神様の導きがあることを改めて知るのです。

 辛いとき、寂しいとき、計画が挫折したとき、世間に理解してもらえないとき。人生にたくさんある苦悩の時、何も知らない他人から「そら見たことか」と嘲笑われ、それでも自分が生きているのは意味がある、自分には神様らの使命があるのだ、と信じ抜くのは難しいものです。
 イエス様の導きが具体的な指示書のような形で届けば「ほら、私はこれに従って歩んでいるんだから余計なお節介はやめて放っておいてくれ」と言えるかもしれません。が、そのような形で神様のご計画が示されることは決してありません。
 パウロ達ユダヤ人にとって、ユダヤ教の枠を飛び出して異なる文化背景を持つ人々を群れに加えまとめ上げていくと言うのは、自分に染み付いたあらゆる常識を捨てることを意味していました。それは非常に困難な道と思われましたが、イエス様のとりなしの祈りによって彼らはそれをやり遂げていきます。

 私たちもまた、弟子達の伝道によって産み落とされたキリスト者達であり、イエス様のとりなしの祈りのうちにある者達です。
 一人では力の弱い者であることを知りつつ、イエス様の召し出しによって共に集っています。どうしていいか分からないこと、苦しみを背負ったときでも、イエス様が私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっているのです。
 イエス様は私たちにこの教会を託してくださいました。日本の99%の人々からキリスト者は愚かな人種だと揶揄されたとしても、私たちはイエス様のとりなしの祈りに守られています。一日1日を、互いに支え合い、祈りあって、共に歩んで参りましょう。



5月30日は園児とサツマイモの苗の植え付けに行きました
秋には美味しいお芋ができますように

2019年6月1日土曜日

6月の土曜学校を行いました

土曜学校、第2回めです

今日も、土曜日に登園するお友達と
卒園して小学生に通うお友達
一緒に礼拝をしました

梅雨にちなんで「ノアの箱舟」のお話しでした



礼拝の後はお誕生会
お誕生月のお友達にガラポンを回してもらい
ハンカチかティッシュが当たるゲームをしてみました
楽しく参加してくれたので
7月も継続しようと思います

クラフトは前回に引き続き
石膏を型に流して作る「アロマストーン」
石膏が固まるまでの間
園庭に出ました
なぜか砂場で穴掘りが始まります
何かすごいものが出てこないかと
みんなでせっせと掘りました

次回の土曜学校は7月13日です
朝9時30分から11時30分まで
7月もみんなで楽しく過ごしましょう
教会で待っています

2019年5月29日水曜日

看板が新しくなりました



100年を超える歴史を、教会と幼稚園はともに手を携えて歩んできました。
これからも主に導かれつつ、小さな働きを誠実に積み重ねていけますように。

毎週木曜日の「やさしい聖書入門」は幼稚園の保護者の方向けプログラムです。妻も時折一女性の立場からお話しさせていただきます。

月一回の土曜学校は新しい試みです。
園のスケジュールに合わせて、月によって第一になったり第二になったりしますので、教会掲示板やこの場を借りておしらせします。
子どもたちの楽しい集いの場となりますように。
6月は1日に実施します。


2019年5月26日日曜日

生ける神に立ち帰る(お話の抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年5月26日)
使徒言行録14:8-18 黙示録 21:22-27 ヨハネ14:23-29

 本日はヨハネによる福音書14章23節から始まります。14章自体の書き出しは「心を騒がせるな」。そして本日、共に読みました27節にも「心を騒がせるな」とあります。「心を騒がせるな」という言葉は「動揺するな」と訳すことができます。イエス様はこれから起こることで弟子たちが心を騒がせることをご存知で、あえて繰り返し言われたように思われます。
 イエス様の弟子たちは、3年半に渡ってイエス様と苦楽を共にしてきました。だからこそイエス様を失った時、大切な人を失った苦しみに耐えきれず、未来への一切の希望を失いました。いい年をした大人の集団でありながら、まるで突然親を失った子どものように、心細さに嘆き悲しんだのです。
 イエス様は彼らがそうなることがわかっておられました。だからこそ十字架にかかられる前の夜、ヨハネ福音書の14章18節において、弟子たちに向かって「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない」と語られたのです。この時、弟子たちはこの御言葉の意味するところを悟ることはできませんでした。イエス様が十字架にかかって死なれるなどと思ってもいなかったからです。しかしそんな彼らも、のちにその意味を知っていくわけです。

 私たちが苦難の時にしばしば見せるやせ我慢や開き直り、つまり『私の悩みや苦難は、よそ様に比べたらちっぽけなもので、イエス様にすがるなんておこがましい』という態度は、イエス様の対してよそよそしい距離をとるようなものです。
 そうではなく、こんなにちっぽけで失敗ばかりの私でさえ、神は顧みてくださり、励ますために共にいてくださっているのだ、と信じられれば、苦難の中にもイエス様の言葉が響いてきて、慰めの言葉になるのです。そのために、心のうちに豊かにみ言葉を蓄え、主がともにいてくださるという信仰をこそ神様に祈り求めていきたいのです。

 ところで、復活祭の後、礼拝では第一の日課として使徒言行録を読み進めています。使徒言行録は、イエス様の弟子たちが、神の言葉を携えて、異邦人のいる町へも、ユダヤ人のいる町へも、導かれるままに宣教に出かける姿を記録しています。
 しかし、宣教を進めていけばいくほどに、民衆の間で意見の食い違いが起き、分裂が生じて行きます。彼らがいく先々で、イエス様の言葉を信じる人と信じない人に分かれてしまうのです。
 本日読んでいただいたところは、リストラという町での出来事です。パウロとその一行は、生まれつき足の不自由な男性と出会います。この人が熱心にパウロの話を聞くのを見て、癒されるのにふさわしい信仰があると認め、奇跡の業を行うのです。それを見ていた人々から、その地方で信仰されている別の神々が起こした奇跡だと勘違いされ、大騒ぎになってしまいます。なんとかその場を収めることができたものの、パウロたちの宣教を快く思わないユダヤ人達が何も知らないその町の群衆を抱き込み、ひどい迫害を行なったのです。
 使徒言行録によれば、このような迫害はどこへ行っても起きたようです。喜んで御言葉を受け止め、キリスト教に改宗する人々がいるかと思えば、使徒達を口汚く罵り、石を投げ、命を奪おうとします。
 このような体験をしても、キリスト者たちは宣教することを決してやめませんでした。彼らは迫害されることすら喜んだのです。それは苦しみの中にあって、生きたイエス様の言葉が彼らを支えたからです。

 今の日本は目に見える迫害はほとんど無いようにも見えます。しかし、み言葉を守って日曜に礼拝を守ろうとする人々にとっては、優しい社会ではありません。何かと言うと日曜日に行事が入るのが日本社会だからです。自分たちがそういう社会に生きていることを肝に命じていないと、いつの間にかイエス様を知らない人々の方に引きずられていき、証しできなくなり、宣教も伝道も絵に描いた餅になってしまうのです。
 教会学校やこども園を通して、子ども達とだんだん親しくなってくると、彼らは無邪気に「先生はなぜ毎週の日曜日に礼拝するの?」と尋ねてきます。私はその時に、「先生、忘れるねん。神様が、イエス様がお前は大事な存在だよと言われても。阿保だから肝心な時に信じられなくなる」と。
 「阿保」は余計かも知れませんが、せっかく今の時代にキリスト者として召されたのです。世間から多少変人扱いされても、嫌われ者になっても、ただ、いい人ねで終わる人生よりも、生きた神を証するために、キリストに従って歩むほうが永遠の幸せだと「阿保」と言われるほどに信じているのです。
 この教会は日本のプロテスタント教会の中でも長い歴史を持っている方ですが、その中でも、キリストにある情熱が喜ばれたり、その情熱がもとで対立があった歴史を持っています。それもまた生きた証なのです。
 どれほど心が騒ぐときも、生ける神・イエス・キリストに立ち帰り、従って参りましょう。


所用で駒ヶ根に行って来ました。美しい風景が広がっていました。

2019年5月19日日曜日

キリストの新しい愛の掟(お話の抜粋)

復活後第四主日礼拝(白) (2019年5月19日)
使徒言行録13:44-52 黙示録 21:1-5 ヨハネ13:31-35

 本日は、最後の晩餐と呼ばれる食事会の席上でイエス様が語られた御言葉から学びます。ここには「新しい掟」と小見出しがつけられています。
 この「新しい掟」とはイエス様が弟子たちに与えられた「互いに愛し合いなさい」というルールを意味しています。古い掟とは、旧約聖書に記された十戒をはじめとする律法を、とにかく守る、という信仰上の約束を指し、律法を守っていれば神様との正しい関係が保たれる、という考え方です。しかしイエス様は、大切なものが欠けたままで律法を守っても神様は決してお喜びにはらない、と人々に教えられます。
 この日イエス様は、人々の信仰に欠けている大切なものとは「愛である」と弟子たちに教えられたのです。この「愛」という言葉には「アガペー」というギリシヤ語が使われています。日本語では「無償の愛」とも訳され、「見返りを求めないで、何度裏切られてもひたすら与える愛」と理解されています。

 この時、弟子たちはイエス様が間も無く十字架にかかるなどとは誰も思ってもいません。ですからイエス様が『私が行く所にあなた方は来ることができない』と語られても、それが何を意味しているのかわからず、「互いに愛し合いなさい」という大切なメッセージより、イエス様がどこに行くのかと、そちらに気を取られてしまったのです。
 実際ペトロは「主よ、なぜついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と納得がいかない、と言わんばかりの発言をしています。しかし逮捕されたイエス様の様子を伺おうとして大祭司の屋敷に入ったペトロは、すっかり形勢が不利になっていることを知ります。心に怯えが生まれ始めた時、人々に見咎められた彼は「イエスなんか知らない」と3度も否定してしまうのです。
 「鶏が鳴くまでに3度私を知らないと言うだろう」というイエス様の予告が現実になった時、ペトロは自分がイエス様に対して行った裏切りに気づき、号泣したのでしょう。「イエス様のためなら死ねる」つまり「自分くらいイエス様を愛している人間はいない」という自信は、単なる思い上がりに過ぎなかったと気付かされたのです。
 一方、イエス様はペトロがそうなることをご存知で、全て受け入れておられました。ペトロ自身はそれほどの愛で愛されていることに、気づいていません。
 こうした出来事の後、ヨハネ福音書21章の、復活されたイエス様がガリラヤ湖のほとりでペトロに向かって、自分を愛するのか、と尋ねられる場面はこの福音書のクライマックスとも言えます。
 ペトロはイエス様の問いかけに対して、「主よ、あなたはご存知です」と答えます。以前の彼なら「はい、もちろんです」と元気よく答えたでしょう。しかし今のペトロは違います。ペトロは、自分の裏切り行為を恥じていたからです。イエス様を否定し、挙句の果てには呪いの言葉さえも言ってしまった自分は、アガペーの愛どころか、愛の心などひとかけらもないことを思い知らされたからです。

 イエス様は3回のうち初めの2回、「あなたはアガペーの愛で私を愛するか」「自己犠牲の愛」「無償の愛」でご自分を愛するか、と聞いておられるのです。しかしそれに対してペトロが使っている「愛」という言葉は、フィリア、友として愛するという言葉でした。美しい言葉ですが、自分を犠牲にする、というニュアンスは「アガペー」より薄まっているかもしれません。イエス様を裏切った自覚のあるペトロにとって、どうしても「アガペー」という言葉は使えなかったのでしょう。
 しかしイエス様はそれはレベルの低い愛だ、ダメだ、とはおっしゃいません。むしろ3度目の問いかけではペトロの使った、「フィリア」という言葉を用いておられます。言うなれば3度目の問いかけは「あなたは私を大切な友人だと思っていますか」と訳せるでしょう。
 そしてペトロが戸惑いながら「あなたは何もかもご存知です」と答えると、イエス様は「あなたが今抱いているその友愛の心を持って、私の羊を飼いなさい」、すなわち「教会に集まる人々を兄弟姉妹を思うような愛を持って世話をしなさい」と言われたのです。

 さて、思い出していただきたいのですが、十字架にかかる前、イエス様が弟子たちに与えた新しい掟は「互いに愛し合いなさい」でした。この時イエス様は「無償の愛」「アガペーの愛」で互いに愛し合いなさい、と言われたのです。しかしよみがえられた後は、ペトロに対して「兄弟姉妹」を思いやる愛で互いに愛し合いなさい、と言われているわけです。ちょっと「愛」のランクを落としたのでしょうか。つまり、イエス様は気が変わられたのでしょうか。
 素直に考えれば、イエス様がペトロのために「愛」の欄鵜を落としてくださったと受け止めることも可能でしょう。ただ、ある学者によれば、この2種類の単語は、ニュアンスは違うけれど、同じように高いレベルの愛を示しているそうです。
 神様が人間に与えて下さる愛と、人間が人間を愛する愛。それは異なって当然かもしれません。しかし、何れにしても、自分の出来うる限りの愛を持って、打算を排除して、互いに愛し合いなさい、イエス様はそう私たちに求めておられるのでしょう。

 同じ教会に集っているとはいえ、辿ってきた人生や、価値観、生育歴はそれぞれ異なります。互いに愛しなさいと言われ、これが新しい掟ですよと与えられたとしても、最初の内は話も噛み合わないかもしれません。しかし、この違いは、あえてイエス様がそうなさったのだと受け止めていただきたいと思います。気の合う仲間だけで楽しく過ごす、ただそれだけを求めておられるのではなく、異なる相手を受け入れ合うことで、一人一人の心を大きく広げ、信仰が育っていくことを、イエス様は求めておられるのです。
 新しい掟の中で、不完全であっても互いに愛し合うことはご命令なのだと信じて従ううならば、私たちの教会は完成されていくのです。いつの時もイエス様に愛されていることを忘れず、イエス・キリストに愛される兄弟姉妹として共に歩んで参りましょう。


教会の隣の空き地に、可愛らしい季節の花が咲いています

2019年5月12日日曜日

善きわざについて(お話の抜粋)

復活後第三主日礼拝(白) (2019年5月12日)
使徒言行録13:26-39 黙示録 7:9-17 ヨハネ10:22-30



 イースターをお祝いして以来、私たちはルカ福音書を通して、復活されたイエス様と、それをなかなか信じられない弟子達の様子を見てまいりました。本日は少し変わりまして、ヨハネ福音書から、別のメッセージを聞いてまいります。
 イエス様が「私は良い羊飼いだ」と言われたことは、イエス様ご自身が民を守る神だとおっしゃっているのに等しいのです。
 多くのユダヤ人にとって、この言葉は驚きでした。ある人々は「まともな人間ならこんなことは言えないはずだ」「イエスは悪霊に取り憑かれて気が変になっている」と怒り出しました。
 しかし、イエス様のなさった奇跡を知っている人々は、少し前にイエス様が生まれつきの盲人の目を癒されたことを引き合いに出し、「あのような立派なわざのできる人が、悪霊に取り憑かれているわけがない」と反論します。ユダヤ人たちの混乱ぶりが伺えます。

 神殿奉献記念祭という冬の祭りの日、イエス様が神殿の南の端のソロモンの回廊とを歩いておられると、祭りで気持ちが高揚したユダヤ達がぐるりと取り囲み、強い口調で「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い詰めるのです。
 イエス様を取り囲んだ人々は、別の聖書では「ユダヤ人権力者達」と訳されているようで、国会議員に当たる人々だったと思われます。議員達はファリサイ派と祭司達の2種類の人々で構成されていました。日頃は意見が対立しがちな彼らでしたが、ことイエス様に関しては、手を組んで立ち向かったようです。
 彼らはイエス様がメシアなのかそうでないのか、そんな論争にはうんざりしていました。イエス様が「私はメシアだ」と宣言すれば、人間が神様を名乗るなんてとんでもない、神様への冒涜は国を滅ぼすとんでもない行為だ、即刻死刑にしてやる。そう考えていました。どちらもイエス様を邪魔な存在とみなしつつも、心の奥に恐れがありました。もし万が一イエス様が本当にメシアなら下手に逆らったら大変だ、と考えていたからです。

 しかしイエス様は、ご自分に強い口調で迫る彼らの宗教行為や思想は何もかも正しくないことをご存知でした。彼らが「神様のために」と神殿にこだわり、あるいは神殿を保持したり利用したりすることに終始している、それらのわざは、決して善いものではなく、神様を悲しませるだけなのを知っておられたからです。
 イエス様は神様が人間に何を望んでおられるのか告げ知らせ、神様と人間の正しい愛の関係を取り戻すために地上に来られました。神様が私たち人間を徹底的に愛してくださり、その愛には揺るぎがないこと、人間が何度失敗しても何度でも赦して受け入れてくださる愛の姿を聖書から学び取るよう語られました。愛に満ち、力強い父そのものの神様の姿、神様の力強い業を、神殿ではなくご自分のわざから、そして聖書そのものから見るように促されたのです。
 この後、西暦70年にはユダヤの国はローマとの戦争に敗れ、神殿も完全に破壊されます。そしてその時と前後して、神様の愛はユダヤ人という一民族、一つの国の枠から飛び出して、世界の国へと広がっていきます。しかしイエス様を排除しようとした人々はそんな未来については全く予想もしていませんでした。彼らは自分達の古い考えの中に留まり続け、イエス様の言葉に込められた神様の愛の呼びかけに耳を塞いでしまったのです。
 あくまでもイエス様に強く迫る彼らを前にしながら、イエス様の眼差しはもはや彼らを見てはいませんでした。将来ご自分の羊となる世界中の、様々な国の人々を見ておられたのでしょう。ですからイエス様は彼らに向かって言われました。「あなた達はわたしの羊ではない。わたしの声を聞き分けるわたしの羊は他にいる」
 イエス様が見ておられた遠い未来の羊達の中には、今の私たちも含まれていたのです。
 幼子も青年も高齢者も、主の呼びかけを聞くことのできる人々は幸いです。初めの内、なぜ自分がイエス様の御言葉に反応するのか分からないかもしれません。時には「キリスト教は偽善的だ」と反発さえ覚える事もあります。それでも、なんとなく気になるなあ、なんか良いなあ、なぜか惹かれるなあ、といったところからスタートして、やがて神様が自分を呼んでおられるのだと気づき、イエス様の語られるその愛に引き寄せられて行くのです。そしてその「惹かれる」という思いが成長してイエス様を信じる信仰へと結びついて行くのです。
 マルチン・ルターは「良き業について」という書物を書き記しましたが、その冒頭で、『あらゆる尊い良き業の中で、第一の最高のわざは〈キリストを信じる信仰〉である』と述べています。
 日々の営みの中で、私たちは何が正解なのかわからないことに数限りなく出くわします。そんな時、イエス様の導きを信じて必死になって祈り、謙虚になって御言葉に聞きつつ、まず一歩踏み出すなら、そのわざを行う中で必ずイエス様のみ声が聞こえてきます。
 そのまま行くよう示されればそのまま続け、間違っていたのなら引き返す。イエス様の羊である私達にはにはそれができるのです。正解がわからないからと、なんのわざも行わないなら信仰の成長もありません。
 宣教111年を超えて守られ続けてきたこの教会は、今日も神様の愛と守りのうちにあります。100年前、羊達を導いてくださった神様は今日も私たちに変わることのない愛を注いでくださるのです。
 私たちは神様のみ声に耳を傾けながら「良き羊飼い」である主イエス・キリストと共に「良き業」をなし、信仰の喜びを分かち合って参りましょう。


今日は「母の日」
妻は教会学校のお友達から
可愛い手作りブーケをいただいて
ご満悦です

2019年5月11日土曜日

土曜学校 始まりました

「毎月一回のペースで土曜日に教会学校をしましょう」
就任前、打ち合わせに来た時
園長先生からそんなアイディアをいただきました
今日が記念すべき第一回です

土曜日に登園するお友達と
卒園して小学生に通うお友達
一緒に礼拝して、お誕生日会をして
母の日の工作を行いました

幼稚園のお友達と小学生のお友達は
それぞれ違う工作をしました

明日は母の日、感謝を込めてお母さんに渡してくれますように

次回の土曜学校は6月1日です
朝9時30分から11時30分まで
みんなで楽しく過ごしましょう


礼拝ではカエルちゃんとゆうこ先生がお話をしました




幼稚園のお友達は先生と一緒に
おかずカップを使ったプレートを作りました
上手です!ちゃんとカーネーションに見えますね





小学生のお友達は袋に入ったプレゼント
中身は何かというと…


石膏を型取りしてアロマオイルを染み込ませた
アロマストーンです
お母さん、喜んでくれますように

2019年5月5日日曜日

大いなる喜び(お話の要約)

復活後第二主日礼拝・聖餐式(白) (2019年5月5日)
使徒言行録9:1-20 黙示録5:11-14 ルカ24:36-43

 本日の福音書には、イエス様の復活からしばらくが経過した弟子達の様子が記録されています。先週お話しした「エマオの道」の続きの出来事です。
 エマオからクレオパ達が喜び勇んで帰ってきて、使徒達に自分達の体験を話したのは真夜中の頃です。そんな時間に、イエス様がいきなり鍵のかかった部屋に現れて、彼らの真ん中に立たれた、ということになります。
 そのお姿を見た弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思」います。時間が時間ですし、彼らの気持ちはわからないでもありませんが、エマオから喜び勇んで帰ってきたクレオパ達まで怯えているのを見ると、どうなっているんだ、と思ってしまいます。
ともあれ、イエス様が何度弟子達に向かって「私は怒ってなんかいないよ」と言われても、また「あなたがたを以前と変わらず大切に思っているよ」と言われても、なかなか受け止めきれなかったことがわかります。
 そんな彼らに対してイエス様は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これは、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。
 このシャロームは元々、「平和」とか「平和があるように」という相手を思う深い意味が込められています。その言葉をイエス様が弟子たちの真ん中に立って言われたのです。
 この挨拶には、もう怯えるな、恐れるな、そしてしっかり私を見なさい、イエス様のそんな願いが込められていたのでしょう。イエス様は怯えている彼らに向かって「私は亡霊ではない」とはっきり宣言され、わざわざ焼き魚を一切れを食べて見せられます。
 イエス様は別にお腹が空いていたわけではありません。ただ「死人なら食べ物を食べたりしないだろう?ほら私は食べているよ、以前と変わらないよ」と証ししてみせるために、わざわざこれをなさったと思われます。

 イエス様は、人々からどんなに痛めつけられても、それが神様の御心に沿うものであるならば、神様は必ず贖ってくださり、奪われた命さえも取り返してくださる、とお教えになりました。御心に従うために全てのものを失っても、それ以上の恵みを与えてくださる、とお示しになったのです。
 そんな思いを込めて食事されるイエス様の様子を見て、弟子達は落ち着きを取り戻したようでした。
 そこでイエス様は、改めて弟子達に語りかけます。まず、ご自分が十字架で亡くなられたこと、そして蘇られたことは、前もって全て聖書に預言されていたことであり、ご自分が以前から何度も弟子達に話しておられたことだと思い出すように命じられます。ご自分は聖書に預言されていたメシア、救い主なのだ、と宣言されるのです。その上で、これから弟子たちにこれから何をして欲しいのかを語られました。
 イエス様が弟子達の裏切りや不甲斐なさを完全に赦し、以前と変わらず愛を注ぎ続けているのと同じように、神様は人間という存在をどんなときも愛しく思っておられるのだ、とお伝えになりました。
 そして、世の中の人々の間違った神様へのイメージ、すなわち神様は厳しく人間を罰する存在だ、と思い込んでいた人々に、それが誤解であることを伝えられました。神様はご自分の元に帰ってくる人々を決して突き放すことはなさいませんし、むしろ喜ばれること、そして罰することなく受け入れてくださる。そういう方なのだと宣べ伝えなさい。イエス様は弟子達にそう教えられたのです。
 弟子たちは、復活して戻ってきてくださったイエス様のお言葉を聞いているうちに、神様がどれくらい本気で人間を愛してくださっているのかを感じ取ったことでしょう。神様の愛を自分たちに伝えるために、イエス様がここまで辛く苦しく、壮絶な体験をなさったのだと知った時、弟子達は大きな感謝と喜びに満たされ、神様とイエス様を褒め称えないではいられなかったことでしょう。
 弟子達はこれらの出来事を目撃証人としてのべ伝えるよう、改めてこの日、イエス様に任命されたのでした。

 神様の国というものは、特定の場所に行けば入れるというわけではありません。もちろんお金でも手に入りませんし、情熱だけで作り上げられるものではありません。必要なのは、愛と信仰を持ち、どんな時も希望を失わない事です。私たちの心にそれがあり続けるなら、私たちが召されたこの飯田のこの場所に神の国を作り上げることは必ずできます。
 「大きな喜び」とは、「それほどまでに神は私たちを愛してくださる」と知ることであり「こんな私をも用いるために招いてくださった」と心で理解することです。それが信仰の喜びとなります。
 私達がこの世を去るその時まで、苦しみも悩みもあり続けることでしょう。しかしどんなどんな時も神が、生きた神であるイエス様が共にいてくださいます。そして、それを共に信じ、祈り、励ましあえる仲間が与えられている。これもまた「大きな喜び」であり、大きな平安なのです。


朝9時30分からの教会学校では
「蛙野カエル」ちゃんが登場しています
神戸時代からの人気キャラクターなのです

2019年5月3日金曜日

牧師館のベランダ屋根の張り替え

ゴールデンウイーク真っ只中ですね
皆様、どんな風にお過ごしですか?

私は5月1日に牧師館のベランダ屋根の張り替え作業を行いました

ポリカーボネートの屋根がかなり朽ちて
茶色く変色していました
教会&幼稚園の庭から十字架に向けてシャッターを切ると
剥がれ落ちたベランダの屋根が写ってしまいます

あまり良くないなあ、どうしようかと思っていましたら
感謝なことに教会員の皆様から募金があり
貼り直すことに決まりました

午後から雨の予報でしたが
KさんとUさんの協力で
降り始める前に貼り終えることができました

神様に感謝!


十字架の横に写っているのが
牧師館のベランダの屋根
beforeです



こういう感じだったのですが…


剥がします!


Kさん、Uさんと力を合わせます


頑張ってねじ止めします!


これがafterです
綺麗でしょう?


2019年4月28日日曜日

墓前礼拝&清掃奉仕

今日は礼拝の後、有志の方達と「日本福音ルーテル飯田教会墓地」に
出かけました。
お墓をきれいに清掃した後、墓前礼拝を行いました。

落ち葉や雑草を片付け、きれいになった墓地で
ともに賛美歌を歌い、御言葉に聞きました。
参加された皆様、ありがとうございます。お疲れ様でした。




※Yさんが顔出しNGということで加工しましたが、おかしな加工で申し訳ありません



エマオへの道(お話の要約)

復活後第一主日礼拝(白) (2019年4月28日)
使徒言行録5:12-32 黙示録 1:4-18 ルカ24:13-35


 一般的に「道」という言葉は、なんとなく「人生」というニュアンスを感じさせます。「通ってきた道」を振り返る時、いつも前向きで何でも計画通りにうまくいき、自分の思うままに生きてきたという方はごく少数で、大多数の方は挫折を味わったり、お先真っ暗とか、途方に暮れた、と言った経験もおありだと思います。

 「信仰を持っている人間が途方に暮れるなんて間違っている」そう思う方もおられるかもしれませんが、人の心というのはそんなに簡単なものではありません。むしろ何かにつけて痛みを感じることの多い人生だからこそ、信仰によって慰められたり、立ち直りを促されたりするものでしょう。
 本日の話は、途方に暮れる人への励ましの出来事であり、支えとなる出来事でもあります。

クレオパ達がエルサレムを離れ、エマオという村へ向かったのは、イエス様が十字架の上で亡くなってから3日目の夕方のことでした。
失望しきって、他の弟子達とも離れてエルサレムから抜け出し、12キロほど離れたエマオの村に向かいます。どちらかがこの村の出身だったようです。故郷に帰り、これからどうやって生きていくべきか改めて考えようと、トボトボとエマオへの道を歩いていたのです。
 ただ、ユダヤ人という人種は議論が好きだと言われている通り、この時もただ愚痴をこぼし合っていたのではなく、イエス様の身に起こった一切の出来事について、なぜこうなったのか、どこで間違ったのか、と言ったことを論じ合っていたようです。
 そんな彼らの傍に、いつの間にかもう一人の旅人が寄り添ってきます。それはイエス様だったわけですが、聖書には「二人の目は遮られていて、イエスとは分からなかった」と書かれています。イエス様が変装していたから見分けがつかなかった、というのではなく、彼らの信仰に問題があってイエス様とは気付けなかったのだ、ということをそれとなく伝えています。
 それはともかくとして、この不思議な旅人は、クレオパ達の会話を耳にして「それはなんのことですか?」と尋ねてきます。二人は暗い顔をして立ち止まり「エルサレムに滞在していたというのに、あんな大騒ぎを知らなかったのですか」と、少し咎めるかのように聞き返します。

 クレオパ達は、突然話しかけてきたこの旅人の目的もわからないまま、ついついイエス様のことを話し始めます。自分たちがいかにイエス様を信頼し、イスラエルを解放してくださる方だと望みをかけていたか、そして、イエス様のご遺体が消えてしまったということまで、とうとうと語ります。
 しかしここで、不思議な旅人が口を開きます。開口一番「あなた達はなんて鈍いんだ」と一喝されます。それを聞いたクレオパはあっけにとられたことでしょう。しかし旅人は続けて「救い主というものは、苦しみを受けることで神様の素晴らしさを現すことが決まっています」と教えられ、聖書を自由自在に引用しながら、救い主について語り始めたのです。
 何しろイエス様ご自身がご自身について語っておられるのです。裏切りに逢うことも、十字架に掛かることも、そして、復活して弟子たちにその姿を示されることも、全ては救い主が目的を達成するために必要な計画だったのだ、遠い昔から聖書にそう約束されているのだ、と、力強く威厳を持って言われるのです。その言葉にクレオパ達は圧倒されて行きます。
 
 やがて目指す村に到着します。弟子達は前もって宿泊する場所も決めていたようでした。予定ではそこで人目を避けて、暗く沈んだ夕食をとるはずだったのですが、二人とも、今は不思議な旅人の話がもっと聞きたくて仕方ありません。村についてもなお先に行こうとする旅人を必死に引き止めます。
 夕食が始まりました。本来なら、パンを裂いて渡すのは、人を招いた側がする仕事です。しかしイエス様は、まるでご自分がその家の主人であるかのようにパンを裂き、二人の弟子に配られたのです。
 その仕草は弟子達にとって見慣れたものだったことでしょう。クレオパともう一人の弟子は、この振る舞いを見た瞬間、一気にイエス様の記憶が蘇ります。そして、今まで一緒にいた旅人がイエス様ご自身だと気づくのです。
 彼らは、イエス様が復活なさったこと、それも弟子に恨み言を言うために化けて出たのではなく、かつてと同じように弟子達一人一人を愛し、招こうとしているお姿に気づくのです。ああ、この方はイエス様だ、そう気づいた途端、イエス様の姿は二人の前から忽然と消えてしまいます。
 イエス様は、ご自分は今も生きていて、あなた方を愛している、と言うメッセージが伝わったとお分かりになると、この場での働きは終わったと言わんばかりに姿を消されたのです。
 しかし二人の弟子は、肉体の目でイエス様を見られなくなった後、むしろイエス様の蘇りと存在をはっきり感じられるようになります。先ほどイエス様が語ってくださった聖書の御言葉の一つ一つを思い出すたび、心のはイエス様への愛と情熱に燃えました。そしてこの大切な知らせを仲間に伝えなくては、と、いてもたってもいられなくなります。
 もう夜も更けているにも関わらず、真っ暗な道をおおよそ12キロ、ダッシュでエルサレムへとって返すのです。先ほど暗い顔をしてとぼとぼ歩いた時とはまるで別人のような彼らの姿がそこにありました。
 こうして、息せき切ってエルサレムに戻ったクレオパ達は隠れて閉じこもっているペトロ達、他の弟子達に自分の経験を伝えるのです。
 弟子達が味わった苦難も、恐怖も、失望も、すべて神様の計画だった、というと神様が意地悪な方のように思えるかもしれません。しかしイエス様ご自身が、最低最悪の苦難の中にも神様がいてくださることを、身を以て証明してくださいました。それを知った時、弟子達はイエス様こそ苦難の中にある自分たちに寄り添ってくださる、ただ一人の神であることを理解していくのです。

 私たちが弱い時、信仰に躓いた時、そのような私を放っておかれる神ではありません。寄り添い、癒し、強めてくださるのです。一番辛かった時に一番近く寄り添ってくださる神の存在を知った時、私たちは苦しむ人に神を知らせる者へと変えられるのです。世の中の人々が神様がいないと嘆けば嘆くほど、私たちは自分の経験を通して神様を伝えて行きましょう。
 希望を失い、挫折して、暗い道をとぼとぼと敵前逃亡してきた自分であっても、復活のキリストに愛されていることを改めて知った時、同じ苦しみの中にある仲間を助けるために走って引き返せる、それが私たちの群なのです。
私たちの人生は主イエス・キリストに用いられて初めて輝きを増すのです。その途上において、途方にくれることがあっても、主イエスが必ず導いてくださることを信じて共に祈り、復活の主イエス・キリストを共に信じる喜びを増し加えて参りましょう。





2019年4月25日木曜日

教会学校のお知らせ

イースターの朝、9時30分からの教会学校の時間に、たくさんのお友達と保護者の方が集まってくれました。礼拝の後は園庭で卵探し。楽しい時間を過ごしました。

大型連休が始まりますが、教会学校はいつも通りの時間に行います。
礼拝堂でみんなを待ってます。
5月から始まる土曜学校にも来てくださいね。