2019年12月9日月曜日

洗礼者ヨハネ(日曜日のお話の要約)

待降節第二主日礼拝(紫) (2019年12月8日)
イザヤ11章1~10節 ローマ15章4~13節 マタイ3章1~12節

 自動車教習所に通い、運転免許を手にした時、無事故無違反のゴールド免許を目指す人はいても、事故を起こそうと思う人はまずいないでしょう。教習所では何のために法定速度があるのかも習いますし、安全運転の大切さも教わります。しかし運転に慣れてくると、この程度の違反なら捕まらないだろうと思うようになってしまうのです。

 話は飛躍しますが、私たちクリスチャンも似たようなところがあります。イエス様を信じ、洗礼を受けた時、適当なクリスチャンで一生過ごしてやろう、と思う人はほとんどいないと思います。特に大人になってイエス様を信じた人は、クリスチャンとしてどう生きるか、洗礼を受ける前に真剣に考えたはずです。
 しかし何年か経ってみると「そこそこ」のところで落ち着いていたりします。礼拝出席も献金も奉仕もそこそこ。大きくはみ出さなければ良いだろうと自分の中で折り合いをつける。たまに伝道説教などで情熱的なお話を聞いて「悔い改めよう」と思っても、日常の忙しさに負けて、忘れてしまうのです。

 本日の聖書箇所で、洗礼者ヨハネは「そこそこ」のユダヤ教徒たちに厳しい言葉を投げかけています。「私の宗教生活は他の人に比べてそんなに悪くない」と思っている人々に対して「お前の都合は聞いてない」「神様のお気持ちを考えたことがあるのか」と叱り飛ばしたわけです。
 民衆は厳しく叱責されることでむしろ自分達が神様から離れていたことに気づき、罪を告白し、新たに神様を信じ新たに生き直そうしました。

 しかしそこに、のちにイエス様の敵になるファリサイ派の人やサドカイ派の人々も、ヨハネから洗礼を受けようと大勢やってきたのです。これはこれはマタイによる福音書だけに書かれていて、マタイ自身がここを強調しようとしてこの一文を入れたと考えられます。
 ファリサイ派やサドカイ派の人々の多くは自分の血筋や立場、権力を利用して自分の知恵に任せて政治や宗教教育を行い、結果として神様から民衆を遠ざけてしまったのです。その行為は神様の怒りに値しました。ですからヨハネは「差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」と叫んだのです。

 実際、マタイがイエス様に付き従って旅をしていた頃、御言葉を宣べ伝えたり癒しの奇蹟を行ったりするたび、自分たちこそ正しいと自負するファリサイ派や律法学者たちはイエス様に言いがかりをつけ、嫌がらせをしました。彼らはついには自分の立場を守るため、イエス様を十字架にかける計画を立てたのです。
 そういった経緯を全て知っていたマタイは、晩年になって自分が福音書を表すことになった際、ファリサイ派やサドカイ派がヨハネに「蝮の子(つまりサタン)」と叱責されたと書かずにはいられなかったのでしょう。

 ヨハネはファリサイ派やサドカイ派をける一方で、「神様は、石ころからでも、ご自分を正しく敬う民を作ることができる」と言いました。最初の人・アダムを地のチリから作られた神様にお出来にならないことはないのです。自分自身、徴税人出身で、石ころのような存在であったと自覚するマタイはこの一文に素晴らしいメッセージを込めたのです。

 このメッセージは私たちにとって大きな救いを伝えています。血筋でも立場でもなく、どんな功績があったかでもなく、仮に社会から石ころのように価値のない、何もできない人間と思われていても、神様がその気になって招いてくだされば、神様を崇める民の一人となることができるのです。

 ここに記されているのは、傲慢で悔い改めのないものは退けられる代わりに、心から悔い改めて神様の前に跪くなら、どのような人でもここに来て洗礼を受けて救われなさい、という熱い招きなのです。



質素ですが美しい聖家族セットを聖壇の上に飾りました
ファーストクリスマス的なイメージです


2019年12月2日月曜日

エルサレム入城(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝・聖餐式(紫) (2019年12月1日)
イザヤ2:1-5 ローマ13:11-14節 マタイ21:1-11節

 「城」というと塔のような天守閣のある建物そのものをさすイメージですが、もともとは、建物を中心に壁で囲まれた町全体のことを「城」というのだそうです。
本日の福音書はイエス様がロバに乗ってエルサレムに入られる場面です。少し前の文章などでは、イエス様がエルサレムに迎え入れられるシーンを「エルサレム入城」と表記したりしています。それはエルサレムは神殿が町の中心で、その神殿を守るように石垣があります。つまり、エルサレムは都市全体が城壁で囲まれているお城なのです。それで、「エルサレム入城」というわけで、この言葉は私にとってしっくり来ます。

 「エルサレム入城」は、弟子たちにとっても、イエス様に期待する民衆にとっても、待ちに待った出来事でしたが、エルサレムの治安を司る側にとっては迷惑な話でした。イエス様一行は勝手にパレードをして大騒ぎをしている不穏な集団とみなされました。
 しかし、この出来事は、突然何かの思いつきやノリで始まったのではありません。神様ご自身が、イエス様を神殿のあるエルサレムに迎えるためにこの日を選んで、前もって入念な準備をなさったのです。
 何よりも注目するのはイエス様が「ろばと子ろばを引いて来なさい」と命じられたところです。よく知られていることですが、この部分は旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の実現だと言われています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられたも者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。」と書かれており、救い主は普通の王様のように格好の良い軍馬に乗るのではなく、柔和な姿でロバに乗ってくる、と記されているのです。

 イエス様はロバにまたがり、ホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城しつつ、神様のご予定が実現していく(預言の成就)事を体験し、噛み締めておられた事でしょう。
 神様がこの世をお救いになるためには、イエス様が十字架にかかって死なれることは変更できません。イエス様もご自身が十字架に架けられた後、三日ののちに復活することをご存知で、弟子達にも以前からそう告げておられました。しかし三日後に復活するからと言って、死の苦しみそのものが軽くなるわけではありません。鞭打たれ、辱めを受けた上で、最も残酷な死刑とさえ言われる十字架につかなければならないのです。
 ですからイエス様は十字架にかかる前夜、ゲツセマネの園で、できることならこの杯は受けたくない、と神様に祈られました。しかし最後には、この苦難が御心ならば、それを受けます、とおっしゃるのです。
 人々を救うために避けて通れない道を、神様があらかじめ旧約聖書で預言された通りに歩み通すことを改めて決意されたのでした。
 
 私がこの出来事の舞台となったエルサレムに行き、エルサレム城壁の周りを歩き回ったのはもう30年以上も前、まだ大学1年の時です。現在のエルサレムの街も、イエス様の時代と同じく城壁で囲まれています。この城壁は1世紀にローマによって破壊された後、長い時を経て16世紀にオスマントルコ時代に再建されたものだそうです。
 現在の城壁には市街に入る門が8つありますが、その中に誰も入ってこられないように塞がれている門が一つありました。アーチになってくぐれるはずの門は完全に閉ざされ、奇妙に思えました。この門は、ちょうど、ゲッセマネの園から目の前に見えるのです。
 あとで調べてみますと、それは閉ざされた門とか黄金の門と呼ばれている門で、イエス様がホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城した位置にありました。実際にイエス様が潜られた当時の門は2000年前に一旦壊されていますので、「これがその門です」と言えないのが残念なところです。

 再建されたその門がなぜ塞がれているのか調べてみますと、世の終わりの時、救い主がここを通る、と言われている門であることがわかりました。そして、それを阻止するために、イスラム教徒の人々はわざわざ城壁を復元した上で塞いでしまったのだそうです。
 世の終わりの時、再びイエス・キリストがここを通るとき、それは裁きの時であり、イエス様を信じない人々にとって滅亡の時です。それを少しでも先延ばししようと、門の入り口を埋め立てたそうです。それを知った時、私は「イエス様を怖がって通せん坊するくらいなら信じればいいのに」と単純に思ったものです。
 と同時に、イスラム教の人は良くも悪くも、本気で救い主イエス様の存在を信じて恐れているのだなあ、とも思いました。

 これから始める新たな年、この場所で、私たちは共に神様を礼拝し聖書と祈りを通してその御心に触れてゆきます。そして又、救い主イエス・キリストを礼拝してまいります。ここで私たちが主イエスを礼拝する時、イエス様が一人一人の心の門をくぐって入って行かれます。一人一人の心が本気でそれを喜び迎えるエルサレム入城となりますように。主に感謝を持って、クリスマスを迎える準備をしてまいりましょう。



いよいよ待降節(アドベント)に入りました
世の中はとっくにクリスマスムードですが(^^;)
教会はクリスマスの四週間前から、という
決まりを守って飾りつけます
今日は今年の礼拝堂の飾りをご紹介


今まで飾っていた小さなベルに
幼稚園から頂いた丸い飾りをくわえ
仕上げにツリーの箱の中に眠っていたリボンをくわえてみました



すっきりと素敵なクランツです

⬿

決して豪華ではありませんが
素敵なクリスマス準備が整いました
十字架の下には小さな馬小屋と聖家族
次の機会に大きめの写真を載せようと思います

2019年11月26日火曜日

世の終わりにも惑うことなく(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後最終主日礼拝(緑) (2019年11月24日)
イザヤ書53:1~6 コリントⅠ15:54~58 ルカ21:5~19

 聖書は世の始まりと終わりについて、はっきりと書き記しています。最初の書である創世記には、神様が6日かけてこの世を創造され、7日目に仕事を完成されて安息なさったとあります。最後の書であるヨハネによる黙示録には、天使が順番に7つのラッパを吹きならすことによって、恐ろしい災厄が引き起こされ、世の終わりが近づいて行く様子が記されているのです。

 何か起きるたびに、そろそろ世の中終わりではないか、と言う噂が流れることがあるのですが、イエス様は私たちに向かって、そういったことに惑わされて大切な人生を浪費するな、と教えられます。
 なるほど、と思いつつ、私たちはどうせ一度限りの人生ならば、成功する人生を歩みたいと願う者です。地道に今を精一杯生きる姿勢はあまり好まれないものです。
 実は聖書に登場するイエス様の弟子たちも、同じ壁にぶつかったことが福音書から見えてきます。
 彼らはイエス様の弟子として、一つの目標と言いますか、野心を持っていました。イエス様は奇跡の力でイスラエルの王様になってくださるに違いない。そうなればイスラエルを我が物顔で牛耳っているローマ帝国を追い払い、ローマの政治家に媚を売っている王様や祭司たちも追い払い、自分たちがその代わりに高い地位につくのだ。そのように考えていたことが、これまでの会話の端々からわかります。

 この日、一行はイスラエル人の誇りである壮麗なエルサレム神殿が見える場所で話をしていたと思われます。その時弟子たちは、この神殿が間も無く特権階級のものではなくなり、素晴らしい神様の宮となるだろうと、うっとりと夢見ていたかもしれません。ところが、そうした弟子たちの思いとは裏腹に、イエス様はこの神殿が間も無く崩壊すると予告なさるのです。
 弟子たちは驚き、「いつ起こるのですか」と問いかけます。そこには、自分が生きているうちは、もしくは元気な内は、そんなことが起こりませんように、と言う願いがあったでしょう。そして、もし神様の住まいである神殿さえも崩壊するなら、本当にこの世の終わりだろうから、その兆候が見えたなら、私は一目散にその場から逃げ出そう、と考えたのかもしれません。
 しかし、イエス様は弟子たちに向かって「惑わされないように気をつけなさい」と教えておられます。これが世の終わりの印だろうか、あれがそうだろうかとパニックになって右往左往するのではなく、たとえ明日突然この世の終わりを迎えても、あなたを受け入れる神の国、天国があることを信じるよう説いておられるのです。

 イエス様はおっしゃいます。「わたしがこの世を救う者だ」というものが現れ、戦争や暴動が起きて、この戦いによってすべての問題が解決すると世間を誘導したり、動員をかけたりすることもあるだろう。しかし、あなたがたはそういうことに惑わされてはいけない、と言われます。また、地震などの天変地異や飢饉や疫病の流行で社会が混乱し、人々の心がざわつく時も、すぐに世の終わりが来るわけでもない、とも言われます。

 とはいえ、本当に世の終わりが来るまでの間、私たちもまた、全ての人と同じように苦難を耐え忍ばなくてはなりません。キリスト者だから苦難に逢わないで済む、と言うわけでもないのです。むしろキリストを信じる者は、正しく生きようとして社会でつまはじきにあったり、無理解に悩まされたり、迫害されたり、身内に疎まれたり、命まで失うこともある。しかし忍耐し続けるように、とはっきりとおっしゃるのです。

 この忍耐、苦難の時代に当たるのが、私たちの生きているこの「今」と言う時です。証の時とも呼ばれ、教会では説教をするようになりました。教会でわたしたちがこうして説教を聞くのも、世の終わりに向けての準備をするためなのです。
 説教を毎週聞き、聖書を学ぶのは、「お前の信じている神様について、何か証をしてみろ」と言われた時の準備でもあるわけです。ただ、前もって理論武装する必要はなく、イエス様を信じる者の心に、神様ご自身が知恵と言葉を授けてくださるから安心していなさい、とイエス様ご自身が約束してくださるのです。

 先週のお話の中でも少し触れましたが、今週の週報には賀川豊彦氏がこの教会のために書いてくださった色紙の写真を載せました。「伊那山峡の若人よ 右に行くな左に傾くな 上に附け そこには天がおまえを待っている」
 私は若人どころかもう年寄りです、とおっしゃるかもしれません。しかし私たちは一人一人、この世の命が終わるまで、イエス様の証をしつつ未来に向かって歩んでいくために召されているのです。その意味では命ある限り誰もが若人なのです。



21日(木)は園庭で焼き芋パーティでした
今まで、畝立てやマルチ張り、植え付け、そして収穫と
牧師夫妻も折に触れて園児たちや保護者の方たちと
一緒に頑張りました
美味しそうでしょう?



園庭にブロックで炉を設置
炉に近づくとものすごい熱気です
(気分はダニエル書3章)


焼けてきた!


熱いよ、熱いよ!
ふ〜ふ〜して食べてください

2019年11月17日日曜日

イエス様とこどもたち(日曜日のお話の要約)

こども祝福式礼拝(赤) (2019年11月10日)
ルカによる福音書 18:15-17


 今日はこうして集まってくれてありがとう。いつもとちょっと違う感じだけど、みんなで仲良く礼拝を守っていきましょう。大人も子どもも一緒に楽しく神様を礼拝することができたらいいなあ、そしてそれが毎週できたらいいなあ、と先生は思っています。

 先生は小さい頃、お母さんがクリスチャンで、毎週教会に連れて行ってくれました。そしていつの間にか、ただ連れていかれるのではなくて、日曜日の教会学校が大好きになりました。

 先生の小さい頃の教会学校は、夏休みの始まりに、小学校2年生以上の友達が沢山集まって、キャンプをしていました。どれくらいたくさんかというと、関西、つまり大阪、京都、兵庫にあるルーテル教会から、全部で100名くらいの子どもが集まるのです。そして3日間、聖書の勉強をしたり、スポーツをしたり、夜になると劇をしたり、踊ったり歌ったりしてとっても楽しく過ごしました。


 去年の今頃、この教会に牧師としてくることが決まった時、教会学校のキャンプはもうなくなったと聞いてがっかりしました。教会のキャンプが大好きな私は、もうずいぶん前に飯田教会の教会学校のキャンプにお手伝いに来たことがあったからです。
 その時は近くのプールにも行きました。あれから20年以上経っているので、もしかしたら、今日来てくださっているお父さん、お母さんのなかに、あのキャンプに来てくれた人がいるかなあ、とも思います。教会学校のキャンプは、とても楽しい思い出がたくさん作れるので、またいつかこの教会でも再開できたらいいなと思っています。

 でも、今日来てくれたお友達やお家の方は、先生たちがどうして、こんなに教会学校やキャンプに来て欲しい言うのかなあ、と不思議に思うかもしれません。
 教会というところは、イエス様の愛を伝えるためなら、どんなことでもしなさい、と神様から命じられています。イエス様はどんな人でも、生きてて良かったな、楽しいことっていっぱいあるんだなと思えるために、この世に来てくださったので、イエス様のことを知れば知るほど心の中が希望でいっぱいになるのです。

 イエス様は初めて会った子どもたちにも「知らないおじさんだ」と避けられることはありませんでした。イエス様から「大人たちの真ん中に立ちなさい」と言われれば、イエス様と一緒にいられる子どもは怖がらずに素直に立つことができました。抱っこされた子どもも、全然嫌そうではありません。

 イエス様は、神様のことをみんなに伝えてくれました。神様は大人だけが都合よく暮らせる世界ではなくて、小さい子どもも安心して暮らせる世界を作りたいと願っておられるのだよ、と教えてくださったのです。
 大人も子どもも一緒に楽しく過ごせる世界。それは本当は当たり前のことだと思います。ところが大人になると、そんな当たり前のことが分からなくなる人がいるのです。子どもが泣くとうるさいとか、子どもに合わせてわざわざあれこれするのは面倒くさいとか、思うようになってしまうんです。子どもが邪魔にされてしまう世界。それは神様がとても悲しまれる世界です。

 そこでイエス様は言いました。神様のことをちゃんと分かっていて、どうすれば平和な世界になるのか知っているのは、こうした小さい子どもなんだよ。お父さんやお母さん、子どもは小さいから神様のことが分からないのではなくて、小さい子どもだからこそ、神様がいらっしゃることや、神様のお考えがちゃんと分かっている。難しい言葉で言えば、直感的に、分かっているわけです。
  
 だから子どもたちは、神様がくださる平和な世界を愛する心を、大人になっても忘れないで欲しいのです。大人になって自分がお父さんやお母さんになっても、忘れないで欲しいし、もし自分に子どもが生まれたら、教えて欲しいとイエス様は思っておられるのです。
 どんな子どもでもイエス様と仲良くなれます。教会とルーテル幼稚園はそれをこれからもずっと伝えてきます。そしてイエス様と子どもたちと一緒に、ここがいつも平和で、愛の溢れる場所であり続けられるよう頑張ります。一人じゃできないからね。だからみんなも協力してね。神様の守りと導きを、いっぱいいっぱいお祈りしよう。



 礼拝には赤ちゃんからお年寄りまで70人ほどが出席。
 ハンドベルのリーベクワイヤの皆さんの特別賛美も加わって
 豊かな礼拝の時を持ちました。
 礼拝後は、婦人会の皆さんの美味しい豚汁がふるまわれました。
 手作りのクッキーは今年も大好評で完売。
 (写真を撮ってなくて、本当にすみません)


 園庭にはどこからともなく(どこからかは知ってるけど)
 謎のヒーローが(中の人が誰かは秘密)やってきました
 その名も「愛と平和と祈りの戦隊ルタージャー」
 「殴る、蹴る」ではなく、祈りと知恵で平和を作る戦隊です


左からルターイエロー、ルターグリーン、ルターレッド
ルターブルー、ルターピンク
(見たまんまです)


祈りと知恵で喧嘩の仲裁をするルタージャー

来年の祝福式にも来てくれるといいね


2019年11月15日金曜日

神様からの預かりもの(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第22主日礼拝(緑) (2019年11月10日)
歴代誌上29:10-13 Ⅱテサ2:13-3:5 ルカ19:11-27

 マタイ福音書には有名な「タラントの例え」があります。主人からそれぞれに違う金額を預かった3人が登場します。人は生まれつき異なる才能(タラント)を神様から与えられているけれど、どんなに小さいことでも、神様に示されたなら忠実にやりとげなさい、と言う教えと解釈されます。

 一方、本日読みましたルカ福音書の「ムナの例え」は、状況は似ていますが、ここに出てくる10人は公平に1ムナずつ預かります。1ムナは今のお金にしてだいたい100万円です。計算してみますとタラントンより随分少ない金額であることがわかります。預かったお金が少額であることと、公平である、と言うことから、すでに違うメッセージが込められていることが想像できます。

 この例え話が語られた時、イエス様はエルサレムにかなり近いところまで旅して来ておられます。季節は3月ごろで、十字架にかかられるまで、残りひと月あるかないか、といった時期です。
 人々はイエス様が奇跡の力でイスラエルをローマ帝国から解放し、威張りちらす宗教指導者たちを失脚させ、自由で信仰的な国を取り戻してくださると思っていたことでしょう。しかし、それは民衆の身勝手でせっかちな期待でした。それに気づいたイエス様が語られたのが、本日の「ムナの例え」だったのです。

 実はその場に一緒にいた弟子たちも、イエス様がエルサレムに到着すれば、いよいよ神様が地上に降臨なさって、決定的な素晴らしいことが起こるとワクワクしていました。それに対してイエス様は、神様の国が始まるためには、ご自分は一度この世を去らなければならないとお示しになります。それが「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という言葉で示されています。立派な家柄の人とはイエス様ご自身を指しており、地上を離れて神の国に戻られることを表していました。

 つまり、イエス様がこの地上の王となるためには、十字架に掛かって一度死なれ、復活された後、いったん天の国に帰らなければならず、もう一度戻ってこられるまで長い長い不在の時があるのです。
 しかも、ここにはイエス様の敵が登場します。「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」と書かれています。これはイスラエルを仕切っている政治家や宗教指導者たちが、イエス様が神の御子であることを否定して、十字架にかけて抹殺しようとすることを例えているのです。
 弟子たちは、このような敵のいるところでイエス様がお帰りになるまで待つことになります。そんな弟子たちをイエス様は10人のしもべに例え、イエス様不在の間、どのように生きるべきかをお教えになったのでした。

 この例えの中で、高貴な人、つまりイエス様は10人のしもべにそれぞれ平等に1ムナずつを渡し「自分が帰ってくるまで、これで商売しなさい」と命じて旅立ちます。そして先ほど言いました通り、1ムナというのは多めに換算して100万円です。商売の元手にするにはちょっと少ないんじゃないかな、とも思います。
 しかし、この例え話の中で、主人が王の位を受けて戻ってきたとき、最初の忠実なしもべは「あなたの1ムナで10ムナ儲けました」と言います。これを直訳すると「あなたの1ムナは10ムナを作りました」となります。イエス様から与えられたムナ自身が新しいムナを生んだかのように言うのです。

 主人を待ちかねていたしもべたちにとって、ムナとはあくまでも「主人から貸し与えられたもの」です。しもべたちは「自分が努力と苦労を重ねて儲けた」とは言いません。主人に対して自分の業績を自慢することなどしないのです。
 では、この例え話の中で、弟子たちに平等に与えられてる「ムナ」とは、何を例えているのでしょうか。
 ムナは、最初はそれほどたくさんには思えないけれど、大きな力を秘めていて、与えられた一人一人の用い方次第で素晴らしい結果を生むものです。

 「ムナ」とはイエス様を信じる者たちに等しく与えられた、神様の御言葉である、と解釈することができるのです。

 イエス様は、ご自分が地上に戻られるまでの間、弟子たちが時がよくても悪くても、神様から与えられたみ言葉を手放さず、宣べ伝えていくことを望まれました。そうすれば素晴らしい結果が待っている、とお伝えになり、そのように生き続けてくれることを強く望まれました。

 ルカ福音書13章には、小さなからし種が空の鳥が巣を作るほどに成長する、と記されています。弟子たち一人一人に与えられた、からし種のようなムナという名の御言葉は、イエス様が昇天されたのちも、弟子たち一人一人が迫害に負けず大切に語り続けました。それは新しい信仰者を誕生させ、新しい教会を生み出していったのです。
 弟子たちは神様のみ言葉が、自分の思いを超えて大きなものを生み出していくことに驚き、これは自分の能力の結果ではない、神様が働いておられるのだと実感することになるのです。
 
 私たちもまた、この例えに登場する10人の僕のように、イエス様が戻ってこられるのを待つ働き人です。イエス様のことを信じない人々が圧倒的に多いこの日本に住み、いつもイエス様の敵に囲まれていると言っても言い過ぎではありません。
 しかし私たちは、イエス様からお預かりした御言葉に励まされながら、大胆に宣べ伝えてまいりましょう。憐れみに満ちた神は、今日も私たちが忠実なしもべであり続けることを望んでおられるのです。

飯田に来て初めての冬がもうすぐそこです
車のタイヤを変えたりストーブを買い足したり
慌ただしく冬支度に追われています

2019年11月7日木曜日

11月の土曜学校を行いました

11月2日(土) 9:30-11:30
土曜学校(土曜日の教会学校)7回目です

礼拝のお話は「少年ダビデ」
赤ちゃんイエス様を養い守った「お父さん」、ヨセフさんのご先祖の物語を
楽しく紙芝居で学び
子ども賛美歌も少年ダビデの歌「襲いくるライオン」を習いました


クラフトは可愛らしいクリスマスツリー

世の中の飾り付けはハロウィンが終わると一気にクリスマスに向かいます
キリスト教会は決まりに沿って飾り付けを行いますから
本格的な装飾を始めるのはまだ数週間先ですが
気分だけはちょっと先取り

ゆり組、ひつじ組のお友達は
前もってモールを巻きつけて準備しておいたツリー形に
フェルト玉を自由にボンドで貼り付け
カップに固定して出来上がり






小学生以上のお友達は
円錐形にカットしたツリーの土台に
モールを巻きつけるところから始め
そこから先は園のお友達とほぼ一緒
ただ、ツリーの幹をコルクで作って
紙コップに固定するあたりは
実はちょっと上級編です

みんな真剣そのものです







土曜学校レギュラーのI 家の姉弟
みんな上手にできました!



同じように作ってもそれぞれ違う
可愛らしいツリーをお家に飾って
一足早くクリスマス気分を味わってください

12月の土曜学校はいよいよ待降節
イエス様のお誕生について「知ってるつもり」ではなく
もうちょっと深く学びましょう

クラフトは松ぼっくりの土台を組むところから初めて
リース作りに挑戦の予定です

2019年11月4日月曜日

神の然り(日曜日のお話の要約)

全聖徒主日礼拝・聖餐式(白) (2019年11月3日)
出エジプト34:4-9 Ⅱテサロニケ 1:1-12 ルカ19:1-10

 本日の福音書は「ザアカイ」という人物が登場します。ガリラヤ地方からエルサレムに向かって十字架への旅をして来たイエス様が途中立ち寄られた町です。旧約聖書にも登場する古いオアシスで、ヨルダン川の畔の、貿易で栄える豊かな町でした。そこに住んでいたのが徴税人のザアカイです。
 彼は「徴税人の頭で、金持ちであった」と書かれています。徴税人としてはかなり腕が良かったのでリーダーになったのでしょう。大抵の徴税人は同胞のユダヤ人から割り当てられた税額以上を取り立て、私腹を肥やしていましたので、同胞から憎まれ、神の国に行けない罪人と呼ばれていました。
 しかしザアカイもユダヤ人ですから、現在がどうあれ、幼い頃は信仰の教育を受けたはずです。ザアカイという名前は「正しい人」「純な人」という意味を持っています。子どもの頃はその名に恥じないように熱心に宗教施設に通い、信仰を熱くした経験もあったでしょう。
 しかし彼は非常に背が低かったようで、そのことに強いコンプレックスを持っていたでしょう。大人になるにつれて、自分をバカにした人々を見返してやるという憎しみや怒りの感情が膨れ上がり、それが彼を情けや容赦のない腕利きの徴税人に押し上げたのではなかったでしょうか。

 当時イエス様の祖国イスラエルはローマという強大な国に軍事力で押さえつけられ、政治にも宗教にも口を出されていました。それらのことは、もともとプライドの高いユダヤ人にとっては耐え難かったのです。彼らは旧約聖書の「救い主がやってくる」という約束を信じていましたから、今こそ救い主に登場してもらって、自由な国を取り戻したいと願っていたことでしょう。
 ザアカイも、ローマの手先になることで金持ちになったとはいえ、救い主を待ち望む心は持っていました。イエス様とは噂通り救い主なのだろうか、そうなら是非一目見てみたいものだ。しかし、群衆はザアカイがなんとかイエス様を見ようとしているのに気付くと、意地悪な心を起こし、遮ったのです。 
 ザアカイはその小さな体を背一杯伸ばしてもイエス様を見ることができません。それでも諦めきれずにイチジク桑の木に登ります。周りの人々から嘲笑われても構わないと思ったのでしょう。ザアカイ自身がどれほど自覚していたかはわかりませんが、単なる好奇心を超える情熱を持ってイエス様をみたいと思っていることを、イエス様は知っておられたのです。

 ザアカイがイエス様を救い主として探し求めたように、イエス様もザアカイを捜しておられたのです。だからこそ、イエス様はご自分からザアカイと声をかけられたのです。
 人々に囲まれたイエス様が、たまたまふと上を見上げたらザアカイがいた、ということではないのです。イエス様はザアカイがそこにいることを前もってご存知で、彼の心のうちまで見抜き、お会いになることを楽しみにしておられたのです。だからこそ躊躇なく「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。
 そしてザアカイもまた、ためらうことなく急いで木から降り、イエス様を迎えたのです。なんと美しい光景でしょう。

 しかし、聖書には、「これを見た人たちは皆つぶやいた」と記されています。この「つぶやく」とは、「聞こえよがしに「不平をいった」とか「文句をたれた」という意味です。「厳しい批判」、と言った怒りの言葉も含まれる言葉です。
 気高き救い主が、町一番の嫌われ者に声をお掛けになった時、その場にいた人々は「素晴らしい」とか「さすがイエス様だ」とは思わず、不平不満をつぶやいたのです。もし私たちも、自分の大嫌いな人がイエス様から親しくされるのを見たなら、思わず嫉妬や不平不満の声が口をついて出るかも知れません。
 私たちは心の何処かで、イエス様に救われるのはこの世でそれなりに良い人、というイメージを持っているかも知れません。悪人が回心したというのは、どこか遠い出来事としてなら感動できるかもしれませんが、自分に嫌がらせをしてくるような相手がイエス様に愛されて幸せになるなんて簡単には納得がいかないでしょう。そんな奴がイエス様に導かれたところで、再び悪の道に入るのがオチだ、と鼻で笑うかもしれません。
 しかし、イエス様は、本当にザアカイを変えてしまわれました。ザアカイはイエス様から愛されると知ったことで、喜びが心に満ち溢れました。

 そして、ここが大切なところですが、その喜びを表現するために、ザアカイは自分の拠り所であったはずのお金を手放す決心をするのです。もう余分なお金はいらない、お金持ちでなくていい。それはイエス様に命じられてイヤイヤそうしたのではなく、心からの感謝の思いを込めてそう宣言したのです。
 ザアカイは、迷子になった一匹の羊のように、また失われた銀貨のように、そしていなくなった息子のように、捜し出され、あるべき場所に戻ることの出来た人なのです。
 イエス様は、ご自分がこの世に来られた目的は「失われたものを尋ね出して救うためである」と言われました。私たちもまた、この教会を通して神を知り、救い主イエス様を知り、イエス様に見出されてイエス様を信じ、その生涯を歩んでいます。そして今日も、そのイエス様の愛の御元で憩いの時を過ごしている。それが御心にかなうことなのです。



礼拝後、車に乗り合わせて教会墓地へ向かい
墓前礼拝を行いました
今年2月に神様の御元に召された
鈴木姉の納骨式も行われました

2019年10月28日月曜日

芋掘り遠足

話が前後しましたが、土曜日(26日)は幼稚園の芋掘り遠足でした。
大阪のど真ん中で生まれ育った牧師は、恥ずかしながら芋掘り初体験。
園児たちと一緒に楽しみました。
妻は他の先生方と一緒に、収穫された芋のツル切りと大きさの選別でお手伝い。
前日までの雨で、実施が危ぶまれましたが、みんな泥んこになって頑張りました。


義とされて(日曜日のお話の要約)

宗教改革主日・聖餐礼拝(赤) (2019年10月27日)
申命記10:12-22 Ⅱテモテ 4:6-18 ルカ18:9-14

 本日の礼拝は「宗教改革」を記念して行っています。ルターが宗教改革の口火を切ってから502年が過ぎました。ちなみに私たちの教会の「ルーテル」とは、この宗教改革者「ルター」の名前の発音違いです。つまり「ルーテル」と「ルター」は、同じ人物です。

 500年前、世界の中心はヨーロッパで、そのまた中心はカトリック教会の教皇でした。カトリック教徒にあらずんば人にあらず、と言った世界で、教会は絶対的な権力を持ちましたが、その内側はかなり堕落していました。教会の言うことに逆らえば地獄行きだぞ、地獄に行きたくなければ罪の許される免罪符を買いなさい、と言う具合です。
 聖書は一般の人が読むことは禁じられていましたから、庶民は当時の教会の作り出した「裁く神」のイメージを信じ込まされていました。しかし、やがて、「それではいけない、みんなが正しく神様の言葉を聞かなくては」と立ち上がった人々がヨーロッパ各地に出現しましたが、「神に逆らうもの」として次々に死刑になりました。
 そのような中、生き残って改革を成功させたのがルター、つまりルーテルだったのです。ルターたちが始めた運動は、権力に反抗する者、抗議者と呼ばれ、ここから「プロテストする教会」、「プロテスタント教会」と呼ばれるようになりました。

 プロテスタント教会の誕生は、当時のカトリック教会に危機感を抱かせました。ヨーロッパでプロテスタントの勢いが強まれば、カトリック教会の信徒が減ってしまう、と考えたのです。その頃ちょうど、大航海時代が始まり、商人たちは冒険の旅に出はじめます。そこでカトリック教会は絶大な資金にものを言わせてスポンサーとなり、新しい信者の獲得のため、宣教師たちを船に乗せて海外へと送り出しました。フランシスコ・ザビエルもこの流れに沿って、1549年に日本にやってきたわけです。

 さて、本日のルカ福音書の「ファリサイ派と徴税人のたとえ」は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエス様が話された例え話です。
 このたとえに登場する二人の人物の祈りは対照的です。1人目のファリサイ派の人は自分が「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」ではないとアピールして、十戒のすべてを守っていることを告げます。そしてさらに「この徴税人のような者でもない」と言い添えます。彼は「守るべき掟」以上のことを実践しています。彼が「自分は正しい者だ」と自信を持つのもうなずけます。
 これに対し、もう1人は徴税人でした。ファリサイ人から「この徴税人のような者」と蔑まれた張本人でした。この時代、徴税人というのは悪知恵を働かせて仲間に高額の税金をふっかけ、その一部を自分の懐に入れることで知られていました。ですから徴税人といえば「罪人」の代名詞でもあったのです。
 その彼は、本殿から「遠くに立って」います。彼は胸を打って自分の弱さを悲しみます。「罪人のわたしを憐れんでください」と、自ら「罪人」であることを認めています。
 イエス様はこの二人の祈りを比較して、例え話をこう締めくくられています。「義とされて家に帰ったのは徴税人の方で、ファリサイ派の人ではない」。神様が正しいと認められたのは徴税人の方だった、と言われるのです。

 マルチン・ルターはこの福音書の箇所について、このような説教をしています。『ファリサイ人が「神よ、あなたに感謝します」と祈りはじめるとき、神はさえぎって、「そうだ、そうだ、そうだ、おまえが神を必要としないことが、おまえが神の善意とあわれみと、神のすべてを軽んじたことが、十分にわかった」と言われます。』
 ファリサイ派の人の祈りは、自力でちゃんとやれていることをアピールする言葉ばかりです。本人は気づいていないかもしれませんが、自分の人生に神様からの力添えは必要ないと言わんばかりです。
 イエス様はこのような態度を称して「うぬぼれる」と言われたのです。このような生き方は神の目に義とされない、つまり正しいとは認められないと告げられました。
 しかし、徴税人は、自分のどうしようもない弱さ、情けなさに苦しみ、神様の憐れみに頼らなければ生きていけない自分をさらけ出したのです。そのような祈りをイエス様は喜ばれました。なぜなら、イエス様は、自分を正しいと思い込んでいる人のために地上にこられたのではなく、罪に苦しむ人に語りかけ、あなたは神様に愛されている、と告げ知らせるためにこられたからです。

 「自分自身を頼りにする」「自信を持つ」のは、一般的には称賛される生き方です。しかし聖書には、詩編103編にも見られるように「憐み深い神は、わたしたち人間をどのように造るべきかを知っていて 人を弱くはかなく造った」と記されています。人間に、なぜ努力で埋め合わせる事のできない弱さがあるのか、の答えとして、詩篇の作者は「それは神の憐みに出会う機会が与えられるためだ」と歌っています。
 寂しさも弱さも、神様と出会うために、生まれる前から私たちの内側にセットされていたのだと、聖書は教えているのです。

 私たちは「宗教改革」を記念する今日、ここで、イエス・キリストを礼拝しています。欠点も弱さもある私たち一人一人を大切な存在と認めてくださる神様と出会えたことに感謝してまいりましょう。ルターさえも自分の弱さを知っていました。私たちは弱い故に神様に愛され、祝福され、用いられるためにここに集っているのです。


幼稚園の木の臼が古くなったため
前任の教会から使用していない石臼を頂いてきました
この臼は一度に3升つけるそうです
11月7日は楽しいお餅つきになりそうです

2019年10月24日木曜日

たこ焼き愛餐会

10月20日(日)の礼拝後の愛餐会は
7月に続いてたこ焼きでした
前回は準備した数が少なくて、
たこ焼きだけでおなかいっぱいというわけにいきませんでした
今回はリベンジ!参加確定者20人に対し240個分の材料を用意し
たこ焼き機も3台準備
当日参加人数が少々増えてもドンと来い!

シフォンケーキやおにぎり、柿などの差し入れもあり、なんて豪華
たこ焼きの余りを数えたら12カゴいっぱい…とはいきませんでしたが
教会学校の子どもたちがお家の方にお土産に持って帰るほどには
余りました

園の給食のはるか先生も駆けつけてくれて
焼くのをお手伝いしてくださいました
ありがとうございます!


2019年10月22日火曜日

やもめと裁判官のたとえ(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(緑) (2019年10月20日)
創世記32:23-31 Ⅱテモテ 3:14-4:5 ルカ18:1-18

 本日のイエス様の例え話に登場するやもめ(未亡人)は、裁判官の元を訪れ「相手をさばいて私を守ってください」と執拗に訴え続けます。初めのうち、ろくに礼ができそうもない彼女の訴えを、裁判官はまともに聞こうとしませんでした。しかし彼女はその諦めない姿勢でついに裁判官の思いを変えることに成功します。
 これ以上無視し続ければ、裁判官自身がノイローゼになりそうなくらい、彼女はしつこかったのです。損得勘定で考えた時、彼女のプラスになる裁判をしてやった方が、自分が楽になる。これが裁判官の導き出した結論でした。

 イエス様はおっしゃいます。この世を損得勘定でしか考えない「不正な裁判官」でさえ、ひたむきに訴え続ければ、それを無視することができなくなる。それならば、あなたを愛しておられる神様は正義に満ちた方なのだから、なおさらあなたの訴えを無視することはない。
 それは、例え話の最初の部分に「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と書かれている通りなのです。

 どうしようも無い不安の中にある時、私たちは神様に向かって、そしてイエス様に向かって、どれほど同じことを祈っても、決して恥ずかしくないのです。
 私たちが父と呼ぶ神は、祈る者から目を背ける方ではありません。本当に聞いてくださっているのかと不安になるときがあったとしても、落胆せずに、疑うことなく、絶えず祈るべきなのです。落胆し「どうせ神様は…」と愚痴を零しそうになる自分自身の心に打ち勝つためにも、絶えず祈り、昼も夜も叫び求めることが許されているのです。

 旧約聖書の時代にも ひたむきに願い祈る姿を神様に受け入れられた人物がいます。旧約聖書の日課に登場するヤコブは、神様から「イスラエル」と言う名前をいただき、それが国の名前ともなって、今日も使われています。
 ヤコブはかつて父イサクと兄エサウを騙して、長男にだけ与えられる神様の祝福をかすめとります。これが兄の激しい怒りを買い、実家から逃げ出します。
 しかしヤコブは、不正に手に入れた祝福であっても、神様は確かに自分と共におられると信じてきました。彼は試練を耐え抜き、豊かな財産や愛する家族を与えられました。
 明日は長い年月を経てついに兄弟が再開する日です。兄をなだめるためにたくさんの贈り物を用意し、準備できることは皆やりました。しかし和解できるのか、殺し合いに発展するのかわかりません。
 今のヤコブが持っている幸せの全ては、兄エサウを騙した結果として手に入れたものです。ここに来て、神様が全て取り上げてしまうのではないだろうか。しかしそうなっても自業自得と受け入れなければならないのだろうか。神様の御心がどこにあるのかわからないまま、ヤコブはヤボクの渡しと呼ばれる場所に一人残って悩苦しみ続けていました。

 その晩、不思議な出来事が起こりました。何者かがヤコブに襲いかかり、二人は夜明けまで格闘することになります。延々と格闘するうちにヤコブは相手が何者であるか気づきます。ヤコブは自分の不安を全てぶつけるように組み打ちを続けます。やがて腿の関節が外れると言うダメージを受けますが、ヤコブは戦いをやめません。
 やがて夜が明けかけるころ、格闘相手は「もう帰らせてくれ」と言いますが、ヤコブは相手が神ご自身であるとわかっていましたから、激しい痛みがあっても必死で祝福を願い、食い下がります。「祝福してくださるまで離しません。」
 神様は、これほどまでに神様ご自身から祝福してほしいと願うヤコブの姿に、「これからイスラエル、つまり神に勝つ者」と名乗りなさい、と告げ、祝福を与えてくださったのでした。
 (※余談ですが、再開した兄エサウは豊かな財産を持って幸せに暮らしており、弟ヤコブに恨み言を言うことはありませんでした)

 この出来事をクリスチャンが読む時、ヤコブの行動は単なる殴り合いではなく、必死で神様に食い下がる、信仰と魂の格闘である、と読み解くのです。

 私たちは、この夜のヤコブのように、自分の信仰の弱さを思い知らされる時があります。あまりに辛い時は、神様を、イエス様を信じ、頼り、委ね続けることに困難を覚えるのです。
 イエス様は、弟子たちに対して、信仰を失ない、妥協する人々が多くなることを危惧しておられます。失望や挫折が信仰を弱らせることをイエス様はご存知だったからです。その結果、神様の愛も、祈りへの応答も気づくことなく、ずっと不安や不満の中で過ごすことになってしまいます。

 この教会で、そしてこの園で行われる祝福は、全て神様からの贈り物です。その祝福を受けるものは「気を落とさず 絶えず祈る」ことで、神様と対話する特権が与えられているのです。
 私たち一人一人は神様に愛され、召し出されてキリストを知り、祈るものに変えられたのです。この原点に立ち返り、私たちのどんな訴えにも耳を傾けてくださる神と共に歩んでまいりましょう。

台風19号が通り過ぎた後
教会の駐車場の植え込みの中に
元気な姿を見せてくれた
カエルくん


2019年10月14日月曜日

感謝するのは難しい(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑) (2019年10月13日)
列王記下5:1-14 Ⅱテモテ 2:8-13 ルカ17:11-19


 本日の福音書は10人の重い皮膚病の人をイエス様が癒された出来事です。この時、イエス様は「エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られ」ます。この旅は、いよいよ十字架に掛かり死ぬことが目的であり、イエス様は堅い決心をしてエルサレムに向かわれる途中でした。
 「ある村」とは、伝染性の病にかかった人々が隔離され、共同生活をしている場所でした。聖書に重い皮膚病と書かれているのは大体「ハンセン病」と理解してよいでしょう。以前は「らい病」と書かれていましたが、日本では強い差別感を引き起こすため、「重い皮膚病」と書き換えられました。
 ※実際はらい菌の感染力は非常に弱く、治療法が確立した現在では治る病気です。

 イエス様の時代、この病気は非常に恐れられ、皮膚に炎症のできた患者は、祭司に見せに行くことが律法で定められて、祭司が聖書の定めに従って判断しました。「重い皮膚病」と判断されれば、患者は人里離れた不便な場所に隔離されました。祭司から「あなたは汚れている」と宣告された病人は、「私は汚れたものです」と呼ばわりながら、宿営の外に出て、家族と離れて住まなければなりませんでした。病人は病の苦しみだけでなく、親しい人々と接触を禁じられ、地位や名誉も失いました。
 そのような病人を隔離する場所は、沢山設置するわけにはいかないので、対立関係のユダヤ人とサマリア人であっても、両方の場所が近ければ、この村のように共に収容されることもあったようです。
 もしもある朝、目覚めて皮膚が元通りになっていたならば、すぐに祭司の所に飛んで行き、「あなたは清い」と宣言してもらおう。何度もそんな夢を見たことでしょう。しかしそのような奇跡は起きなかったのです。

 この10人は、この頃すでにイエス様の噂を伝え聞いていたと思われます。他に何も望みのない彼らは、もしイエス様が来られたなら自分をいやしてくださるだろうに、と思っていたはずです。しかし彼らは自分でイエス様を呼びに行くことはできません。なんとか通りかかってくださらないものか、とひたすら願っていました。
 その思いが神様に通じたのでしょう。十字架に向かって旅をするイエス様とその一行が、その村を通りかかったのです。
 重い皮膚病の人は健康な人に近づくことは禁じられていたので、遠く離れたところから声を張り上げて「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と口々に叫んだのです。
 彼らはイエス様から癒していただけるなら、どんな厳しい治療でも従う気持ちでした。しかし、彼らをご覧になったイエス様は、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっただけでした。

 病人はこの場所から勝手に出ることは禁じられていましたが、イエス様が行けとおっしゃるならそうしよう、と彼らは出発します。そして10人全員、祭司の元へ行く途中で病が癒されたのです。
 1人を除いて、9人は祭司のところへ急ぎます。祭司に体を見せ、清くされたことを確認してもらったでしょう。治癒が認められれば、すぐに律法に定められた清めと感謝の儀式が始まります。彼らは心の中でイエス様に感謝しながらも、祭司に言われるままに儀式の準備に追われたことでしょう。
 9人とも、自分達を癒して下ったのはイエス様であり、その向こうにおられる神様であることを知っていました。しかし夢にまで見た社会復帰が目前であることに夢中で、彼らはイエス様にお礼を言う機会も、信仰告白をする機会も失ってしまいました。そして神様との本当の意味での繋がりもここで切れてしまったのです。
 
 しかしたった1人、サマリア人だけは、祭司のところへ行く前にイエス様の元にUターンしたのです。彼は神を賛美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏し「感謝」しました。
 サマリア人にしても、すぐに家族の元に帰りたかったことでしょう。しかし、彼は今しなければならないことが何かわかっていました。異邦人の自分さえ憐れんで癒してくださったイエス様と神様に、心からの感謝の言葉を伝えたい。祭司に会うのはその後でいい。
 サマリア人はイエス様こそ神様であることを信じ、戻ってきます。その信仰をイエス様は大いに喜ばれたのです。サマリア人の感謝の言葉はそのまま信仰の深さを告白する言葉となりました。それは十字架で多くの人々に罵られながら不条理な死を迎えることになっているイエス様にとって、大いに慰められる出来事だったに違いありません。

 私たちも、礼拝の中でイエス様に向かって「使徒信条」や「ニケア信条」を用いて「信仰告白」をします。しかし、それがいつの間にかお題目のようになってしまってはいないでしょうか。
 信仰告白は、イエス様への感謝が込められてこそ意味を持つものです。自分のようなものが癒され、きよめられた、そしていつの日かイエス様が用意してくださっている天国へと導かれる。それを信じて日々歩める喜び。この喜びと感謝を言い表す事こそ、イエス様が最も喜んでくださる信仰告白なのです。
 信仰生活に慣れっこになれば、「感謝することは難しい」かも知れません。確かに、サマリア人のような劇的なことは私たちの生涯には起きないかもしれません。しかしどれほど小さなことにも喜びと感謝を見出すことはできます。私たちも信仰の告白の機会を無駄にせず、共に歩んで参りましょう。

教会の方から「食用菊」をいただきました
話には聞いていましたが、食べるのは初めてです
花びらをむしってさっと茹で、醤油をかけていただきました