2022年1月31日月曜日

悲しい程の労苦(日曜日のお話の要約)

顕現後第4主日礼拝(2022年1月30日)
イザヤ書6章1-8節 ルカによる福音書5章1-11節


 本日は、漁師のペトロがイエス様に招かれて弟子になる出来事を読んでまいります。ペトロという名前はイエス様からいただいた名前で、彼はもともとシモンと呼ばれていました。本日の出来事も聖書にはまだシモンと書かれていますが、ペトロという名前で統一してお話します。

 本日の聖書箇所の少し前、イエス様はペトロの家で彼の姑を癒すという奇跡を行われます。イエス様が姑の枕元に立って熱を叱りつけると、あっという間に彼女は癒されて起き上がり、人々をもてなしました。それを見た近所の人々は多くの病人を連れてきます。イエス様はそれらの病人に一人一人手を置いてお癒しになったのです。その業は朝まで続けられました。しかしペトロがこれについてどう思ったか、ここには一切触れられていません。

 イエス様はこの後、いっときカファルナウムを後にしてユダヤの諸会堂に行って宣教されますが、ペトロがついて行ったという記述はありませんので、ここで一旦、イエス様とペトロの繋がりは終わったように見えます。

 しかしイエス様は再びガリラヤ湖の岸辺に戻ってこられます。するとその土地の人々はイエス様を覚えていて、お話を聞こうと押し寄せてきました。そこでイエス様はそこにいた漁師にご自分を乗せて岸から少し漕ぎ出すようお頼みになりました。その漁師がペトロだったのです。

 ペトロは疲れていましたが、かつて姑を癒していただいたことを思い出したのか、イエス様のご希望通り舟を漕ぎ出すことにします。ただ、イエス様の話が終わるとさっさと帰ろうとしました。ところがイエス様はペトロに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命令をなさいました。

 ペトロは徹夜明けでイエス様の話にも付き合わされもうヘトヘトで、流石に断ろうと考えました。しかしペトロの口から出てきたのは「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という了解の言葉でした。とはいえ、その言葉には棘がありました。「あなたはただ舟に座ってお話をしただけですが、私たちは一晩中悲しい程、痛い程に苦労しました。漁に関してど素人であるあなたの言葉に非常に困惑しておりますけれども、せっかくですから網を降ろしてみましょう。」


 ペトロがイエス様に対してどれだけ失礼な態度をとったかがよく分かります。しかしイエス様はペトロの嫌味な言葉を受け止め、忍耐し、信仰に導くために、ご命令を出されたのです。

 するとペトロの予想もしないことが起こったのです。信じられないほどの魚が網一杯にかかり、網が敗れそうになったのです。ペトロは長年この湖で漁をしてきたプロの漁師ですから、出来事の異常さに唖然となりました。こんなことができるのは神様以外おられないと気づいたペトロは、イエス様に対する呼びかけを「主よ」と変え、「わたしから離れてください」「わたしは罪深い者なのです」と頼みます。これは命乞とも取れる言葉です。

 ペトロは神であるイエス様を見下し、腹を立て、嫌味を言いました。神様を見下すことは信仰を持つものが決してしてはならないことでした。かつてイエス様はペトロの家において、運び込まれて来たたくさんの病人に一人一人手を置いて一晩中癒しを行われました。どんな病人であっても分け隔てなく癒しをお与えになり、それが徒労だなどとは一言もおっしゃいませんでした。魚がとれずに愚痴っていたペトロの脳裏に、その時のイエス様のお姿が蘇ってきました。自分はなんという方に反抗心を抱いたのか。ペトロは自分の過ちに気づき、死の恐怖を感じたのです。


 ユダヤの人々は汚れた人間が神を見れば命はない、という教えがたたき込まれていました。例えば本日読みました旧約聖書のイザヤ書には、汚れた自分が神様を仰ぎ見たのだから、死ぬしかない、と恐怖を感じる場面が記されています。つまりこれはユダヤの民が共通して持っていた恐れだったのです。

 しかし、イエス様はペトロを裁くために彼に近づいたのではありません。ペトロを深く愛され、ご自分の弟子と招くために側に来てくださったのです。イエス様がこの段階でペトロのどこをそこまで見込んだのか、私たちにはわかりません。聖書から感じ取れるペトロの性格は一本気で頼れる兄貴分のようでもありますが、単純で目先のことに振り回される傾向があるように見えます。けれども、イエス様を一途に慕い、過ちを犯したときには正直に悔い改める素直な一面も持っていました。イエス様はペトロの欠点は欠点として、長所は長所として、受け入れ、慈しみ、弟子として鍛えてくださったのです。

 こうしてペトロはイエス様によってその働きの場を湖から陸へと移します。「あなたは人間をとる漁師になる」という有名な御言葉によって、宣教の舞台へと押し出されていったのです。


 ここにいる私たち一人一人はイエス様の弟子として招かれたものです。それぞれに異なる場所からイエス様に招かれた私たちは、今同じ教会に集っています。ここはイエス様が私たちの為に選んで招き入れてくださった場所であると気づく時、この場所もまた神様を証し、労苦を厭わず、宣教をしていく場所へと変わっていくのです。



昨日もまたZOOMのみの礼拝でした。

幼稚園と敷地と建物を同じくしているため

色々と制限があります

教会の礼拝に集まるメンバーは

幼稚園の規定では「外部の人」となるので

まん延防止等重点措置が取られている間は

礼拝堂に入ることができません

牧師夫妻も簡易キットを購入して

陰性を確認してから、土曜日の礼拝の準備と

礼拝当日のみ入室しています

その後は念の為アルコールを使って清掃、清掃、清掃

最新の注意を払います

教会員の皆様にはご不便をおかけしますが

どうぞお祈りください

共に祈り、知恵を出し合って

共に乗り越えて参りましょう


礼拝堂は牧師夫妻だけですが
画面の向こうには信仰を同じくする仲間がいます

2022年1月29日土曜日

明日(30日)の礼拝について


新型コロナ感染防止のため
30日の礼拝は引き続きZOOM配信のみで行います
ご迷惑をおかけしますが
明日も教会にはお越しにならないでください
教会総会は2月6日に変更いたします

ZOOMに参加ご希望の方は牧師の携帯までご連絡ください

090−1243−7727(朝比奈)








2022年1月24日月曜日

キリストに聞く者(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2022年1月23日)

詩編19編2-5節 ルカによる福音書4章14-21節


 イエス様が神の子として「霊」の力をいただき、宣教の活動を始められたのは、ご自身がお育ちになったガリラヤ地方でした。この日イエス様はシナゴークという小さなコミュニティーセンターにお入りになりました。これはユダヤの町のどこにでも見られるものでした。紀元前600年ごろユダヤの民は大国バビロニアとの戦争に負けてエルサレムの神殿は壊されました。その上祖国から連れ出され、バビロニアで生きるしかなかったユダヤの民は集会所を開きます。そこで新しい礼拝を始めたのです。そこで聖書を学び、祈り、食事をし、仲間通しのトラブル等を信仰と聖書と照らし合わせて解決を図り、コミュニティーを作って行ったのです。


 のちにユダヤの人々は無事に祖国に帰ってきてエルサレムには再び神殿が再建されましたが、シナゴークは教育や集会所として各地に建設されました。

 

 さて、この日シナゴーグでイエス様は聖書をお読みになりました。この時代に読まれていた「聖書」というのは、私たちの言うところの旧約聖書で、これを用いて礼拝が執り行われていました。その日のテーマに則して「聖書にはこう書いてある」と3人ぐらいの男性がその場で指名されて発表し、最後に指名された読み人がまとめのような形で説教として伝えるのです。全て即興です。日頃からきちんと学んでいなければとても対応できるものではありません。

 まだ慣れていない若い男性の場合、緊張して舞い上がってしまったり、正しく解釈できなかったりすることもあったでしょう。しかし、なぜそこが選ばれ、そこが語られるのかきちんと向き合うことで、神様の存在と自分の生き方を考える訓練であり、大切な時間だったのです。


 イエス様がガリラヤの会堂でこれを行った時、聖書箇所の選びも、暗誦も、その解釈も見事であり、イエス様の参加する礼拝に出席した人々は感謝に満たされ、イエス様を尊敬しました。

 お育ちになったナザレで安息日を迎えたイエス様は、いつものとおり会堂に入り、聖書コーナーを任されました。「預言書イザヤの巻物」と書いてあるのは、この時代の聖書は巻物に書かれていたからです。イザヤ書を朗読するのは前もって決まっていたようです。


 ナザレの人々もまた、イエス様の言葉に大いに感動しました。イエス様の語られる言葉を聞いて、神様はここにいると感じることができたのです。ただ、聞いていた人々は、イエス様の幼き日を見ていた人々でした。まだ幼かったイエス様が父ヨセフの事の手伝いをしていたことも知っています。

 そのイエス様から、「本当の神様の働きの為に、これから私の教えに従っていくのだ」という強いメッセージを聞いたのです。ふと我に帰ったナザレの人々は、大いに迷い戸惑い始めました。

 イエス様の幼き日をよく知っているからこそ、「あんたは今、私たちの前で偉そうに言っているけど、本当に神様から遣わされて話しているのか」そう思えて、信じられない人が出てきたのです。

 これはよくあることかも知れませんが、指導者泣かせでもあります。どんな偉大な人物でも、身近な人にとっては大抵思いつくことなのでしょう。


 しかしイエス様を一番困らせたのは、ナザレの人々の検討はずれな期待でした。ナザレの人々は、イエス様がこのままナザレに留まり、活動してくれればいつでも奇跡も起こしてもらえるし、自分の街に偉い人物がいるのだと自慢もできる、と考えました。ですがイエス様はずっとナザレに留まるおつもりはないことを人々は感じ取ってしまったと考えられるのです。


 イエス様がナザレの人々に求めたことは、ご自身に対する信仰でした。イエス様の弟子となってナザレを出て宣教活動をするもよし、ナザレに留まりつつもイエス様の行動を祈りを持って支えるもよし。イエス様を知り神様を知ることがナザレの人々への招きであり、イエス様がお教えになりたいことでした。

 ところがナザレの人々は、そう言った思いを理解しようとはしませんでした。それを察したイエス様はナザレの人々に失望し、旧約聖書から引用してその間違いを指摘し、厳しい言葉を投げかけました。すると人々はイエス様をナザレから出してはならぬと殺しにかかったのです。あまりに腹が立って、理性も信仰も吹っ飛んでしまったのでしょう。イエス様がナザレの批判を他の土地に広めないように、という思いもあったのかもしれません。

 しかし、「人々の間を通り抜けて」立ち去られます。不思議な書き方ですが、正面突破でナザレの人々の間を堂々と通って、ご自身の目的のために、次の場所へ赴かれたのです。


 イエス様はナザレの人であれ、どこに住む人々であれ、神様の豊かな愛を伝え、神様の国へと導こうと願っていました。たとえ人々が死の淵に追い詰められ、神様に見捨てられているのではないかと思う時であっても、神様はあなたを愛し、神の国へと導いてくださることを教えようと願われて、十字架の道を歩まれたのです。

 コロナが蔓延し、遠い昔から続けられたきた礼拝の形が損なわれ、ネットを活用してようやく共に礼拝をする私たちですが、イエス様のみ言葉を信じ平安を得て参りましょう。何があってもイエス様の導きの中にいる限り、私たちの信仰は決して損なわれません。これからも共に「キリストに聞く者」として続けて参りましょう。


23日の主日礼拝は牧師館からZOOM配信のみでお送りしました。
飯田ルーテル幼稚園が新型コロナの影響で休園となり
幼稚園と施設を共有する教会も出入りができなくなったためです。
様子を見て礼拝堂からお届けできればと考えています。
教会員の皆さんが今の礼拝形式に順応して
ZOOMに参加してくださることに
本当に感謝いたします。

30日に予定していた教会総会は
ひとまず2月6日に延期いたします。
この日に開けますことを
皆様もどうぞお祈りください。


新型コロナの症状らしきものはありませんでしたが
濃厚接触者扱いなので
初めて簡易検査(抗原定性検査)というものをやってみました
動画を見ながら、かなり緊張しつつ行いました
Cのところだけ線が入るのが陰性だそうです
簡易検査とは言え、ほっとしました






2022年1月21日金曜日

新型コロナウイルス感染症の感染者の発生について

ルーテル飯田教会と敷地、建物を共にする飯田ルーテル幼稚園において
新型コロナ陽性者が確認されました。
保健所の指導により、本日より24日(月)いっぱい
建物に立ち入ることが許されていません。
し訳ありませんが23日の礼拝は
教会にはお越しにならないでください。
礼拝はZOOM配信で行いますので
ご希望の方は牧師の携帯までご連絡ください。
090−1243−7727(朝比奈)
以下は幼稚園のホームページに掲載された内容です。


本日1月21日(金)に、本園の園児が新たに新型コロナウイルス感染症に感染したことが確認されました。
園児ならびに、そのご家族の皆さまには心よりお見舞い申しあげますと共に、一日も早い回復をお祈りいたします。
 保健所と相談した所、20日(木)に登園した子どもたちが共に過ごしていた状況を考え、
登園した全ての園児・職員が濃厚接触者として該当するだという判断を頂きました。
そのため、感染拡大を防ぐためにも休園という措置を取らせて頂くことになりました。

★休園期間は1月22日(土)~1月31日(月)まで
★2月1日(火)より、通常保育を行います。(園バス運行あり、給食あり、延長保育あり)

少しでも体調が悪かったり、食欲がなかったり、微熱があったりする場合など、
気になる様子がありましたら、医療機関への受診をお勧めします。

今回、子ども達から発症したり、経路不明であったり、誰がいつどこで発症するかわからない状況です。

飯田保健所でも、ほぼオミクロン株でても感染力の強いウイルスです。
厚労省の8つのポイントをを検索して頂くと、ご家族に新型コロナウイルス感染症が疑われる場合、
家庭内でご注意いただきたいことの具体的な対応が示されていますので参考にして頂けらと思います。

急なお知らせとなり、保護者の皆様には困惑されている事と思いますが、
ご理解のもと、ご協力をお願い致します。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

                   園長 黒河内 智子





2022年1月17日月曜日

最初の奇跡(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2022年1月16日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節 ヨハネ福音書 2章1-11節


 本日の福音書の出来事は、ガリラヤの西の「カナ」という場所で起きました。イエス様と弟子達、そして、母マリアが婚礼の宴会に招かれていました。ユダヤの風習では結婚の宴会は時には一週間続きました。酒やご馳走が途中で足りなくなれば結婚そのものにケチが付きますから、相当な量を用意する必要があったのです。

 この出来事が宴会の何日目だったのかはわかりませんが、母マリアは、葡萄酒が足りなくなったことに気づきました。このままでは花嫁も花婿も困ってしまう、何とかしてあげたい、そう考えてイエス様に相談したのでしょう。
 しかし、マリアからこのことを聞かされたイエス様は、そっけない態度をとります。母親に向かって「婦人よ」と呼びかけ、「わたしとどんなかかわりがあるのですか」と言われます。さらには「わたしの時はまだ来ていません」と言い切っています。母マリアの願いを他人のように突き放されたのです。

 このやりとりは、さまざまな学者が研究しており、「婦人よ」と言う呼びかけの言葉は、イエス様の最大限の丁寧な断り方とまで言われます。しかし断ったことには変わりません。
 イエス様がここで言われた「私の時はまだ来ていません」という「私の時」とは、「救い主として人々を救う時」という意味です。イエス様は飢えた人々、貧しさに苦しむ人、自分の弱さに絶望している人、罪に苦しむ人々を救うために、神様の手によって地上に送り出されたのです。イエス様は、どんな時もまず神様のご計画に従順に従う、という決意を固めておられました。「今、奇跡を行うのは神様の御心ではない」とお伝えになりたくて「時ではない」と言われたのです。
 それを聞いたマリアは、母親だからと言ってイエス様を自由に操れるわけではない、と気がつきます。とはいえ、彼女はイエス様が奇跡を行う方だと信じていましたし、新郎新婦が悲しむのを放っておかないと確信していました。そこでその場にいた召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と頼んだのです。

 するとイエス様は召使いたちに向かって「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その場には、ユダヤの風習に従って清めに使う水を溜めておく水瓶が6つありました。1つ80リットル以上入る大きな瓶です。水道などない時代ですあら、かなりの労力でしたが、召使い達はその命令に従いました。そしてその水は世話役を唸らせるような、この世で一番おいしいぶどう酒へと変わったのです。
 ここで「イエス様はなぜお考えを変えて奇跡を行われたのか」と詮索することはあまり意味がありません。ただ、イエス様は「壮大な神様のご計画の前では、こんな披露宴など取るに足らない」と上から目線で判断する方ではありませんでした。今ここに新郎新婦の幸せを必死になって神に祈る人がいること、そして、神のご命令に従って素直に奉仕する人がいたことが大切だったのです。

 このお話から私たちが覚えておかなければならないのは、イエス様は私たちがどれほど必死に祈っても、こちらに都合よく救いの手を差し伸べらることはなさらない、ということです。時には私たちが「なぜ今それを?」と思うような命令をなさり、「疑わないで私に従いなさい」とおっしゃるのです。
 ここでは、清めの水瓶6つに水を汲むようにと召使いたちに伝え、彼らはただただ言われた通りに水を汲みました。この素直な行為が、結婚の宴を支え、新郎新婦の幸せを守ったのです。

 この出来事は最初の奇跡として教会の歴史に刻まれました。母マリアとイエス様のやりとりに目が行きがちな箇所ではありますが、私はこの無名の召使いたちに時々自分を重ねます。ただ水を汲むことしかできなかったけれど、イエス様に素直に従った彼らは、礼拝に集う私たちのことだと思うのです。大きなことはできないかもしれない。それでもイエス様のご命令に疑うことなく従えば、誰かの幸せを守ることができる。そんな素朴な信徒でありたいと願うのです。


教会関係の方からクリスマス前に
立派なシンビジウムの鉢をいただきました
一度咲けば長持ちする花だとは知っていましたが
いまだに華やかに咲いています
温かすぎると花もちが悪いらしいので
室内でなく、玄関に置いてます
ただ、この場所は夜間がマイナス近くになるので
君子蘭も一緒に置いて、タイマーでヒーターを入れます
NHKテキスト「よくわかる栽培12か月・シンビジウム」も買いました
さて、うまく育てられるでしょうか

2022年1月11日火曜日

主イエスの洗礼(日曜日のお話の要約)

主の洗礼(顕現後第1)主日礼拝(2022年1月9日)

イザヤ書43章1-4節 ルカによる福音書3章21-22節


 本日は「主イエスが洗礼を生けられる」お話です。神の御子であるイエス様が、人間の私たちと同じように洗礼を受けられたということの意味を聖書から聞いて参りましょう。


 イエス様が洗礼を受けられた出来事は4つの福音書全てに記されていますが、ルカの「民衆が皆洗礼を受け」という言葉には少し驚かされます。民衆が皆、洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたという描写です。この時、洗礼者ヨハネがユダヤの人々に伝えたメッセージは、「もうすぐこの世が終わる」という意味に近いものでした。当時のイスラエルは巨大なローマ帝国との戦争に敗れ、属国とされていました。ローマ帝国は広大な国土で内乱が起きないよう、領民たちを上手に従える方法を持ってたようです。ローマは自分たちの領土の土着の宗教にはある程度寛容でしたが、イスラエルは宗教的に高いプライドを持っていたので、屈辱的な出来事も多かったのです。


 イスラエルの中心ともいうべき神殿の祭司たちは、聖職者であると同時に政治家でもありましたから、ローマとの交渉ごとに当たる役目も負っていました。彼らは国を守るため、また自分自身を守るため、妥協をしたり表面だけ取り繕ったりといったことも行いました。国民を代表して神様に仕える立場でありながら、その内実はかなり堕落していたと思われます。

 この祭司たちと同じようにユダヤ社会で権力を握っていたのがファリサイ派の人たちです。神様からいただいた律法を厳しく守り、人々に教える役割を担っていました。彼らは非常に高いレベルの教えを説き、一般民衆を見下すところがありました。


 その他に、聖書の記述には登場しませんが、ファリサイ派と並んで大きな力を持っていたユダヤ教グループにエッセネ派と呼ばれる人々もいました。彼らは俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより、宗教的な清さを徹底して追及しました。その生活は厳格で、日常の中で自分の欲望をコントロールすることを訓練と捉えていました。また「神殿に行かなくても神様に仕えることができる」という考えは非常に特徴的でした。洗礼者ヨハネは、考え方や身につけているもの、食事などの記述などから見て、このグループに属していたのではないかと考えられます。


 ユダヤの民衆は、忠実に神殿の儀式を守り、子どもに宗教教育を施し、祭りなども積極的に行なってはいましたが、祭司やファリサイ人の醜い面も知っていましたから、心から尊敬できず、かといってそんな自分は不信仰だと思っていました。そんな時、洗礼者ヨハネが叫んだ「悔い改めよ」という言葉は強烈な一言に引き寄せられ、ヨルダン川の荒れ野に集まりました。

 そこで語られるのは「良い身を結ばない木は切り倒される」という厳しい教えでした。しかし、新しく神の民として生きなおそうと徴税人も兵士も集まり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。ただ、せっかく洗礼を受けても、綺麗さっぱり自分の地位や名誉を捨てされるものではなかったでしょう。

 多くの人々が洗礼を受けてグループの人数が増えれば増えるだけ、早めに洗礼を受けた人が後から受けた人に先輩風を吹かせるようなこともあったのではないでしょうか。それによってせっかくの悔い改めが台無しになってしまうような仲違いもあったかもしれません。


 そこでルカはさりげなく、イエス様が最後の最後になって洗礼を受けた、と読み取れる書き方をしました。「民衆が皆洗礼を受けたその後でイエス様が洗礼を受けた」。それは洗礼を受けることの早い遅いが重要なのではなく、洗礼を受けるタイミングにも神様のご計画があると示すのです。これはルカ福音書にしかない記述です。

 ここには他の福音書にないもう一つの言葉がありますそれは「イエス様が洗礼を受けて祈っておられた」と記していることです。イエス様は、救いの御業を始まれられるまさにその時、洗礼を受けた次の瞬間から、私たち洗礼を受けた人々への道しるべになるべく、父なる神様に祈りを捧げられました。


 イエス様の祈りを大切にされるお姿は全てを終えて天に戻られるまで決して変わることはありませんでした。弟子を決められる時、エルサレムに上るその時、十字架の死を目前に苦しまれた時、そして十字架の上でさえも、父なる神様との会話を続けられ、その信頼は揺らぐことはありませんでした。そしてイエス様の最後の祈りは「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」だったのです。

 ただ、いくら祈ってもイエス様は十字架の死を免れることはありませんでした。何も知らない人から見るなら、これほど無力なお祈りもないかもしれません。神様は全てを見て、聞いて、知っていながら何もなさらないなら、なんのために祈るのか。馬鹿馬鹿しいではないか。そう思う人がいても不思議はありません。しかしイエス様はどれほど希望を見いだせない困難な状況の中においても、神様の御手に守られているのだということを、お側にいるの弟子達に、そして、遠い未来にイエス様に繋がる私たちに示されたのです。


 私たちは手紙や挨拶の中で「祈っています」という言葉を頻繁に使います。その祈りの一つ一つが、全知全能の神様に聞かれていると信じ、自覚を持つ必要があります。祈りの言葉は、父なる神様との人格的な交わりの会話であり、私たちのわがまま勝手を叶えてくれるおまじないなどではありません。この人格的な交わりこそ祈りの最も大切な意味であり、私たちが信仰的に成長した生き方をする為には、どなたに向かって語りかけているのか、常に意識する必要があるのです。


 いつ、いかなるところにあっても、神様との対話は、信仰者に与えられている恵みです。もちろん頭の中にいきなり神様のお声が響いてくるようなことはありません。しかし正しい道を選ぶ時、神様は私たちの心に豊かな平安を与えてくださいます。そして聖書の御言葉を通してさらに確信を与えてくださるのです。

 私たち一人一人は、立派な人格を手に入れようとあがく必要はないのです。自分の不完全さが情けななくなる時も、神様に祈り、主イエスをお手本として何度でも再スタートを切ることができるのです。



先日の土曜学校で作る予定だった
ソックス・スノーマンです
実は昨年の1月に作る予定だったのですが
コロナでお流れ
今年もやはりコロナ感染拡大のため
土曜学校自体できませんでした
2月は開催できますように!
子ども達のためにも祈りを重ねます


2022年1月7日金曜日

1月8日の土曜学校はお休みとします


飯田市内における新型コロナウイルス感染症陽性者が増加し
県全体の警戒レベルが引き上げられましたので
1月8日の土曜学校はお休みといたします

楽しみにしてくださったおともだち、ごめんなさい
みんなも どうぞ気をつけてくださいね





2022年1月5日水曜日

救い主の言葉(日曜日のお話の要約)

聖餐式・降誕節第2主日礼拝(2022年1月2日)
エフェソの信徒への手紙1章4-7節 
ヨハネによる福音書1章14-18節

 本日はヨハネによる福音書1章4節からです。イエス・キリストの降誕について、実に短く「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と記されています。ここには羊飼いも東の国の博士も登場しませんし、イエス様の母マリアすら出てきません。それでもこれは紛れもなくイエス様の御降誕を表す御言葉なのです。


 一般の方は、神様は清められた場所や醜いところにはおられない、と考えるでしょう。ユダヤ教においても、人間はあまりに汚れているので神を見ることに耐えられないと思われ、神様を見たものは死んでしまうと信じられていました。しかしイエス・キリストはご自身の方から進んで汚れた世界の真っ只中に降誕してくださり、直接人間に手を差し伸べてくださったのだ。神ご自身が人の世に人となって宿ってくださったのだ、とヨハネは伝えるのです。


 ヨハネ福音書を記録したのはイエス様の12弟子の一人、ゼベタイの子ヨハネと言われています。彼はイエス様が天に帰られた後も、かなり長生きして宣教活動を行なったと言われています。ヨハネはイエス様の十字架の死と復活の目撃者でしたから、その生き生きした証を聞いた多くの人々もまたイエス様を信じたことでしょう。ヨハネは地中海沿岸に次々と立ち上がったキリスト教会の指導者的な役割を晩年まで果たしたと思われます。


 ヨハネたち指導者によって教会は大きく成長してきましたが、彼らには、一つ心配事がありました。イエス様は復活した後に天に帰られる時、必ずまた戻ってくると約束されました。しかし、時が流れるにつれ、人々は次第に「いくら待っても戻ってこられない」と嘆き始めたのです。イエス様から直接教えを受けた人々は、厳しい迫害によって殉教したり寿命を迎えたりしてどんどん少なくなっていきました。こうしたことが教会に集う人々によくない影響を与え始めたのです。

 多くの信徒たちは明日にでもイエス様が天からお帰りになって、悪い人たちをさばき、社会に秩序をもたらしてくれると信じていました。それまでの間は大変だけど頑張ろう、と思っていたのです。しかし、様々な迫害があって、命を落とす人々が出ても、イエス様がお戻りになる気配がないため、教会の中で信仰がぐらつく人が出始めたのです。中にはイエス様は立派な人物だったけれどただの人間だったに違いない、と考える人まで出てきました。


 そこでヨハネは、イエス・キリストという方は私たちの想像を超えた永遠の昔から存在されていながら、今、私たちと共におられるのだ、ということを壮大なスケールで語り始めました。1章1節に「初めに言があった」という書き出しを用いて、読む人たちに創世記の天地創造を思い起こさせようとしたのです。

 あなたがたはこの世が造られる先から存在していた神の一人子、光の光であるイエス様を信じることによって、神様に愛され新しく生まれ直したのだと伝えます。そしてこれから先、イエス様を理解しない人が権力を握ると、酷い迫害に合うかもしれない、それでも、あなたたちは、イエス様に対して従順であり続けなさい。と教えたのです。


 この、「イエス様がもどってこない問題」について、同じ12弟子の一人、ペトロが書いたとされるペトロの手紙第二の3章にも、「一日は千日のようで、千日は一日のようです」という御言葉が記されています。この御言葉は神と人とでは時間の感覚が違うことを教えています。神の前では、私たちの「長い」は一瞬であり、油断せず心を引き締め、神に愛されている人として相応しい振る舞いをし、信仰を失って心が折れたり闇に囚われたりするものが出ないように諭したのでした。

 

 また、伝道者パウロは、宣教の苦難の中にあった時、フィリピの手紙1章の「この世を去って、キリストと共にいたい」と記しました。パウロは自分が死ぬことでキリストが宣べ伝えられるならそれでよし、もし生きて働く方がよりキリストの役に立つならそれでよし、という重要な使命感の中に生きていたのです。

 パウロは「クリスチャンにはこの世で大きな役割が与えらえている」と宣べ伝えました。その使命とは神様であるイエス様を愛の方だと証することと、その愛の教えを自ら実践し、自分の言葉で伝えることだと教えました。


 新約聖書の書き手たちがこぞって記すのは、私たちの思いと神様の計画とは異なる、ということです。しかしどれほど時間の感覚にズレがあっても、神様は失望する私たちをただ黙って放っておくのではなく、そこには神様のお考えがあるということ、そして私たちにそれを信じて欲しい、とおっしゃる方なのです。それを信じる「神と私の信頼関係」こそが信仰である、ということなのです。

 詩篇84編には「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」と書かれています。これは神と共にある時間の幸せや充実感を表しています。この世にあっても、天の国にあっても、神様と過ごす時間はなんと幸せなのだろう。虚しく長く生きるよりも神様の元にいられる1日の方がはるかに素晴らしい、と熱烈なラブソングのように神様を慕っています。この思いを私たちも新しい年にもう一度抱きたいと思います。


 思いがけないことがあっても、私たちには救い主の言葉に立ち返ることのできる幸いを、この1年も覚えて参りましょう。



ラッパを口に当てているシルエットは
人形劇の盛んな飯田の
シンボル的なキャラクターです
毎日冷え込みますが
お天気はまずまずの日が続いています