2019年3月29日金曜日

説教「待ち続ける神」(ルカ福音書第13章1節~9節)


2019324日、四旬節第3主日礼拝(―典礼色―紫―)、出エジプト記書第31-15節、コリントの信徒への手紙一第101節―13節、ルカによる福音書第131-9節、讃美唱126(詩編第1261-6節)

説教「待ち続ける神」(ルカ福音書第13章1節~9節)

 レントに入って3回目の主の日を迎えています。今朝は、与えられましたルカ福音書第131節から5節までを通して、ご一緒に主イエスのみ言葉を味わってみたいと思います。

 「まさにこの時に」というふうな出だしで、今日の福音は始まっています。それは、すぐ前の12章の、時を見分けなさい、主イエスがお出でになられているこの時をわきまえなさい。あるいは、自分を訴える者と裁判所に赴いている者は、一早くその相手と仲直りし、和解しなさいというみ言葉を語っておられた、そのときに起こった出来事であったというのであります。

 ルカによる福音書は第951節から、主イエスはエルサレムに向かって、十字架に向かっての旅を始めておられます。実際には、今日の出来事はまだ、ガリラヤの領域におられるときに起きた出来事だったのかもしれません。しかし、それを、この13章における場面にルカが位置付けたのかも知れません。十字架に向かう旅において、ルカ第12章では、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(49節)と語っておられます。終末が近づいている、そのような中で、私どもがどのように生きればよいのかを、今日の福音書の記事も教えているのであります。

 今日の記事は、ちょうど、主がそのように語っておられる時に、だれかが、それは、弟子たちのうちのある者たちだったのでしょうか、あるいは、ファリサイ派や、律法学者たちであったのでしょうか、ポンティオ・ピラトが、ガリラヤ人たちの血と、いけにえの血をまぜたとの虐殺の知らせを届けたのであります。

 ガリラヤ人たちにおいて、反ローマの熱心党の者などが多くて、彼らがエルサレムの神殿でいけにえを捧げていたときに、安息日のことであったのか、過ぎ越しの祭りで、平信徒も、いけにえを祭壇に供えることができたときのことだったのか、そこに、ピラトが軍隊を送り出してこの政治的事件が起きたのかはよく分かりません。
 しかし、主イエスを、こののち、十字架につけることにもなる残虐なローマ総督であったピラトが、このような虐殺を行ったとしても不思議ではありません。
 
 この知らせを受けたときに、主イエスは、そのガリラヤ人たちは、ほかのガリラヤ人たちよりも罪深かったために、そのような目に遭ったと、あなた方は思うのか。否、そうではない、あなたたちも皆悔い改めなければ、同じように滅びると言われるのであります。虐殺にあった者たちは、ほかのガリラヤ人たちよりも、罪深かったために、そのような事件に巻き込まれたと考える。因果応報でその出来事を考え、自分はそんな者たちに比べれば、それほど罪深くはないと考える人々は少なくなかったでありましょう。しかし、主イエスはそのような考え方をきっぱりと退けられている。そして、皆、自分の罪を認めて、180度、生活を方向転換しなければ、彼らと同じように滅びるとまで言われるのであります。

 そして、当時起きたエルサレムでのシロアムの池の塔が倒れて18人が犠牲になった出来事を、更に、主イエスは、持ち出されて、その犠牲になった者たちは、そう成らなかったほかのエルサレムの住民よりも、神に対して負い目が多かったので、そんな目に遭ったと思うにか。否、そうではない、言っておくが、あなたたちも、悔い改めねば、同じようにみな滅びると同じ言葉で繰り返されるのであります。この二つのエピソードは、ほかの歴史的資料からは確定できないとのことですが、十分あり得た出来事であり、最初のものは、政治的な事件と言え、二つ目のものは、自然災害に近いとも言えるでしょう。しかし、それらの不幸な出来事を通して、自分の罪を思い起こし、悔い改めることを、終末的な視点から、主イエスは私ども一人ひとりに警告を発しておられるのであります。

そして、主イエスは、「で」、という接続詞でつながれて、一つの譬えを語られるのであります。ある人が、ぶどう園を作っていて、その中にいちじくの木を持っていたというのであります。そして、この所有者は、その時期に、イチジクの実を求めてやって来ますが、その木は実を結んだためしがないのであります。そこで、やって来て、ぶどう園の園庭に言うのであります。私は、いちじくの実を求めてやって来て、3年になるが、実を見出したためしがない。なぜ、その木は土地をふさがせているのか、それ故、切り倒しなさいと。いちじくの木が実を結ぶこともなく、植えられているときには、その根から湿気を吸収し、土地の養分をも吸収して、土地を無駄遣いしていることになります。

 それに対して、園丁は言うのです。ご主人様、もう一年待ってください、私は周りを掘って、さらに、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実を結ぶかもしれません。それでもだめなら、あなたがそれを切り倒してくださいと。

 この園丁とはだれでしょうか。あるいは、このぶどう園の持ち主とはだれでしょうか。ぶどうの木、あるいはこのいちじくの木とは何を指しているのでしょうか。昔からいろいろと考えられてきました。しかし、端的に、この園丁は主イエス御自身であり、このぶどう園の持ち主とは、父なる神と考えることができます。

 最初のガリラヤ人の虐殺と、エルサレムのシロアムの池近くに立っていた塔が倒れて、圧死した18人の痛ましい事故を取り上げて、今は悔い改める時であると示された主イエスは、それに引き続いて、このいちじくの木の譬えを語られたのであります。それらは、悔い改めを迫るものであり、神様の恵みが先にあって、主イエスが、私ども、罪ある者のために、恵みを施し、3年間、実をならせないできた私どものために、絶望することもなく、また1年、周りを掘って、肥やしを入れるという恵みを注いでくださるのであります。そして、主なる神は、もう一年、待ち、切り倒すことを延期なさるのであります。

 今日の主イエスのなさった譬えでは、このいちじくの木が、園丁の懇願に従って、実をつけるに至ったのか、やはりだめで、実を結ぶことなく、主人が切り倒すに至ったのか、結果は記されていません。

 3年間も、実を結ぶことなく、主人によって絶望視されたこのいちじくの木が、園丁の申出、懇願によっても、やはり、実を結ぶことができなかったのか否かは、私どもの悔い改め、生活の改善、改革にかかっているのであります。

 しかし、それは、私どもの努力や功績によって決まることではありません。園庭である主イエスが、私どものために父なる神に執り成してくださり、なおも一年、周りを掘って肥やしを入れ、世話をしてくださることがあって初めて、実を結ぶことも可能になるのであります。

何度も何度も、私どもが実を結んでいるかどうか、実を捜して3年間も、実をつけたためしのなかった私どものところに来た父なる神は、主イエスの執り成しによって、もう一年、主イエスのとりなしの業によって先行されながら、絶望から、希望へと変えられてゆくのであります。私どもは、今、主イエスの十字架の道行きを想起するレントの時を過ごしています。

 私たちが、罪から立ち帰り、主イエスが先に執り成しのわざをなして下さっているので、それに答えてゆくことができるのであります。


 園丁は、なかなか実を結べないでいる私たちに絶望することもなく、このいちじくの木をそのままに、もう一年置いてくださいと主人にとりなしてくれています。この「そのままにする」とは、罪の赦しという場合の言葉から来ています。

十字架の主イエスによる、罪の赦しが先行しているのであります。主イエスは、私どものために、喜んでとりなしのみわざをなさり、この一年も、希望をもって、木の周りを掘り、肥やしを施していてくださいます。私どもは、それに答えて、ふさわしい実を結ぶのか、それとも、実を結ばず、主人の手によって、不毛の木として切り倒されることになるのか。それは私どもが、今日の主イエスの言葉に応答するかどうかにかかっているのであります。

レント、四旬節、受難節とは、私どもが悔い改めるべき時であります。そして、主イエスが先に、私たち不毛のいちじくの木をあきらめることなく、父なる神にとりなして、もう一年そのままにしてください。その間、私は周りを掘り起こして、肥やしを投じましょうと言って下さています。そして、それを聞き入れて、主人である父なる神も、厳しい裁きをなさらず、もう一年待っていてくださるのであります。私どもの、それに対する応答を待ち続けていてくださるのであります。

祈ります。

天の父なる神さま。
あなたは、私どもが、あなたの憐みに応える生き方をするよう待ち続けておられます。このレントの時に、主イエスの十字架の身代わりの死によって、私たちを新しく恵みに生きる者としてくださいます。どうか、あなたのとりなしのふるまいに対して、喜んで応答する者とならせてください。そして、この一年間を、あなたの愛にふさわしい実を結ぶものとならせてください。キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2019年3月11日月曜日

説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20章1~18節)


説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20118節)

 今年もイースターを共々に祝えますことを心から感謝しています。主ご復活の喜びを、ヨハネ福音書第20章1節から18節までを通して、しばらくご一緒に味わってみたいと思います。
 マグダラのマリアは、七つの悪霊を主イエスによって追い払っていただいた女性で、主イエスの一行に従って、エルサレムにやって来た女弟子たちのうちの一人でした。ヨハネ福音書によれば、彼女は週の初めの日、すなわち、安息日の終わった一日目のまだ暗いうちにやって来て、主イエスの納められていた墓の石が取りのけてあるのを目にします。そして、シモン・ペトロともう一人の主が愛された弟子のもとに走って行って告げます。だれかが、主イエスを運び去りましたと。
 ペトロともう一人の弟子は墓へと出かけ、走りますが、主の愛された弟子の方が速く走り、先に着きます。彼は墓を覗き込みますが、中には入りません。続いて着いたペトロは中に入り、主イエスの着せられていた亜麻布と、それとは別のところにたたまずに置いてある顔覆いを目にします。そして、続いて中に入った別の弟子は、見て、信じたとありますが、彼らは、主が復活することになっているという聖書をまだ知らなかったからであると記されています。弟子たちは空の墓にぶつかり、更に、復活の主が彼らに何度も顕現することを通して、初めて主の復活を信じるに至るのであります。
 さて、その後、マリアは墓に戻って、主イエスのことを思って泣いていました。墓とは、地上の生の一切が無に帰するところであり、しかも主イエスの体まで奪われ、虚脱感に包まれていたからであります。そして、彼女が不意に墓を覗き込むと、二人の天使が、主イエスの遺体が置かれてあった頭の部分と足の部分に座っているのが見えます。天使の二人は、なぜ泣いているのかと尋ねると、マリアは、人々が彼を運び出しました、彼らがどこに置いたのか私には分かりませんと答えます。そして振り向くと、主イエスが立っておられるのが目にとまりますが、彼女は主とは分かりません。主は、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのかと聞きますが、彼女は園丁だと思って、もしあなたが運び去ったのであれば言ってください、私が引き取りますと言います。
 主はその時、「マリア」と呼びかけるのです。そして、マリアは「ラボニ」(先生)と言葉を返します。亀井勝一郎氏は、故人の声を思い出す者こそ、故人を最も愛した人であると書いていますが、マリアは、復活の主から名前を呼ばれて初めて、主イエスであることを知るのです。マリアは、主イエスに触れようとすると、主は私に触れないように、私はまだ父のもとに昇ってはいないのだからと言われます。そして、私の兄弟たちのところに行って言いなさい。「私は私の父、そしてあなた方の父、私の神、そしてあなた方の神のもとに昇る」と。福音書記者ヨハネにとって、主イエスが十字架に上げられ、苦しみを受け、また、天に上げられることは、栄光なのであります。上から来た者以外に、上に上げられる者はいないのであり、その方以外に、私どもを天に上げることのできる者はいないのであります。
ある介護施設で暮らしている、既に90歳を超える高齢の姉妹は、自分が教会につながり、洗礼を受け、不思議な救いの道に与ったことを感慨深げに話され、別れ際に、「復活があるということを納得させられなければ、人々を主キリストにつなぐことは不可能です。その肝心なところを、先生、ぜひとも人々にお伝えください」と遺言のように語ってくださいました。主イエスから、じかに語りかけられたマリアは、もはや以前のマリアではありませんでした。復活の主との新しい関係が始まり、マリアは教会で最初のキリストの伝道者へと変えられたのであります。そして、マリアからその知らせを聞いた弟子たちもまた、この後幾度も復活の主にまみえることを通して、復活の命、永遠の命を証しする者とされていくのであります。アーメン。

2019年3月6日水曜日

説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20章1~18節)


説教「『マリア!』『ラボニ』」(ヨハネ福音書第20118節)

 今年もイースターを共々に祝えますことを心から感謝しています。主ご復活の喜びを、ヨハネ福音書第20章1節から18節までを通して、しばらくご一緒に味わってみたいと思います。
 マグダラのマリアは、七つの悪霊を主イエスによって追い払っていただいた女性で、主イエスの一行に従って、エルサレムにやって来た女弟子たちのうちの一人でした。ヨハネ福音書によれば、彼女は週の初めの日、すなわち、安息日の終わった一日目のまだ暗いうちにやって来て、主イエスの納められていた墓の石が取りのけてあるのを目にします。そして、シモン・ペトロともう一人の主が愛された弟子のもとに走って行って告げます。だれかが、主イエスを運び去りましたと。
 ペトロともう一人の弟子は墓へと出かけ、走りますが、主の愛された弟子の方が速く走り、先に着きます。彼は墓を覗き込みますが、中には入りません。続いて着いたペトロは中に入り、主イエスの着せられていた亜麻布と、それとは別のところにたたまずに置いてある顔覆いを目にします。そして、続いて中に入った別の弟子は、見て、信じたとありますが、彼らは、主が復活することになっているという聖書をまだ知らなかったからであると記されています。弟子たちは空の墓にぶつかり、更に、復活の主が彼らに何度も顕現することを通して、初めて主の復活を信じるに至るのであります。
 さて、その後、マリアは墓に戻って、主イエスのことを思って泣いていました。墓とは、地上の生の一切が無に帰するところであり、しかも主イエスの体まで奪われ、虚脱感に包まれていたからであります。そして、彼女が不意に墓を覗き込むと、二人の天使が、主イエスの遺体が置かれてあった頭の部分と足の部分に座っているのが見えます。天使の二人は、なぜ泣いているのかと尋ねると、マリアは、人々が彼を運び出しました、彼らがどこに置いたのか私には分かりませんと答えます。そして振り向くと、主イエスが立っておられるのが目にとまりますが、彼女は主とは分かりません。主は、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのかと聞きますが、彼女は園丁だと思って、もしあなたが運び去ったのであれば言ってください、私が引き取りますと言います。
 主はその時、「マリア」と呼びかけるのです。そして、マリアは「ラボニ」(先生)と言葉を返します。亀井勝一郎氏は、故人の声を思い出す者こそ、故人を最も愛した人であると書いていますが、マリアは、復活の主から名前を呼ばれて初めて、主イエスであることを知るのです。マリアは、主イエスに触れようとすると、主は私に触れないように、私はまだ父のもとに昇ってはいないのだからと言われます。そして、私の兄弟たちのところに行って言いなさい。「私は私の父、そしてあなた方の父、私の神、そしてあなた方の神のもとに昇る」と。福音書記者ヨハネにとって、主イエスが十字架に上げられ、苦しみを受け、また、天に上げられることは、栄光なのであります。上から来た者以外に、上に上げられる者はいないのであり、その方以外に、私どもを天に上げることのできる者はいないのであります。
ある介護施設で暮らしている、既に90歳を超える高齢の姉妹は、自分が教会につながり、洗礼を受け、不思議な救いの道に与ったことを感慨深げに話され、別れ際に、「復活があるということを納得させられなければ、人々を主キリストにつなぐことは不可能です。その肝心なところを、先生、ぜひとも人々にお伝えください」と遺言のように語ってくださいました。主イエスから、じかに語りかけられたマリアは、もはや以前のマリアではありませんでした。復活の主との新しい関係が始まり、マリアは教会で最初のキリストの伝道者へと変えられたのであります。そして、マリアからその知らせを聞いた弟子たちもまた、この後幾度も復活の主にまみえることを通して、復活の命、永遠の命を証しする者とされていくのであります。アーメン。