2023年3月29日水曜日

4月の土曜学校のお知らせ

4月の土曜学校は4月8日に行います

4月1日は幼稚園の入園式があるため
第2週になりました
お間違えのないようお越しくださいね



翌日4月9日(日)はイースター
10時30分から特別礼拝があります
リーベクワイヤのハンドベルの演奏と
「こども聖歌隊」改め「ルーテル キッズ バンド」の歌があります
こちらにも、どうぞお越しください
歓迎いたします


2023年3月26日日曜日

「イエスは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(紫)(2023年3月26日)
ローマの信徒への手紙8章10-11節 ヨハネによる福音書11章17-27節


 本日の福音書は「ラザロの復活」という有名な箇所です。ラザロはマルタとマリアの兄弟で、以前から一家揃ってイエス様と関わりのある人々でした。ラザロは死んで墓に納められ4日も経っていたにもかかわらず、イエス様から「ラザロよ、出て来なさい」と呼びかけられると墓から復活して出てくるのです。


 事の始まりはマルタとマリアがイエス様の元に使いを送り、兄弟ラザロが重い病気だという知らせたことです。その時イエス様はベタニアからそれほど遠くない場所に滞在しておられました。きっとすぐに来てくださるに違いないと信じて「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と使いに言わせたのです。


 しかしイエス様は「この病気は死で終わるものではない。神様の栄光のためである」と言われるばかりで、すぐには動かれませんでした。二日間、同じところに滞在された後、ようやく腰を上げられます。


 その間にラザロは死に、マルタとマリアはて打ちひしがれていました。マルタはイエス様が教えてくださったように、神様の守りはいつも自分達と共にあると信じていました。だからこそ、一番助けが欲しい時に助けが来なかったことの意味がわからず苦しんだのです。


 マルタはイエス様の顔を見るなり「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と口にします。それでも彼女はイエス様の権威を傷つけまいと言葉を重ねます。「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエス様には何かお考えがあってのことだろう、愚痴や恨み言はやめなければ、と必死でした。


 するとイエス様は、マルタにこう言いました。「あなたの兄弟は復活する」。すると、マルタは、イエス様の言葉を遮るかのように「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。これは、当時のユダヤ教において模範的な答えでした。自分達はユダヤ教の律法を守りつつ、イエス様にも愛されているのだから、死んでも神の国で復活するのだと信じていました。


 それに対し、イエス様は「わたしは復活であり、命である」という謎のような言葉を語られます。そして続けてこう言われます。「わたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」この言葉にマルタは「あなたはメシアです」と答えるしかありませんでした。


 「死んでも生きる」という言葉を聞くと、私たちはゾンビや幽霊のような存在を思い浮かべます。しかしイエス様が言われる「復活」とは、亡霊のように恨みや悩みを引き摺りながら生き続ける、という意味ではありません。イエス様がその人を苦しめる過去の思いや罪の意識から解放してくださり、どんな状況になろうとも決して手放さなず、ご自分と永遠に共にある、と宣言しておられるのです。


 私たちは誰でも平和に暮らせて、未来に夢と希望が叶う世界が来ることを望みます。それなのに、今この瞬間、病気や事故や天災、戦争、経済の悪化などで多くの人々が命を落としていきます。「神様がおられるなら、なぜこんな不幸なことが起こるのか?」この問いかけを止めるのは人間にとって難しいのです。


 それでも信仰を持つ人々は、亡くなった人々に想いを馳せながら、「きっと今頃天国で幸せに過ごしている」と自分を納得させようとします。ただ、その思いは一つ間違うと、マルタの「終わりの日に復活することは存じています」という言葉のように、自分の悲しみを偽る言い訳になってしまいそうです。


 しかしイエス様は、大切な人が死によって奪われた人間の苦しみを理解してくださる方です。「漠然と天国をイメージしながら自分を慰めるのをやめなさい、イエス様ご自身をしっかり見なさい」と強くおっしゃいます。地上の全てが過ぎ去り、終わってしまっても、イエス様と共にある者は永遠の命を持つ、と力強く約束してくださるのです。


 この時点でマルタが全てを理解できたとは思いません。それでも彼女は気丈にも家で嘆き悲しんでいるマリアを呼びに出かけ、イエス様の元に来るように促します。マリアはイエス様の前にきたものの、その場に平伏し、マルタ以上に感情をあらわにして同じ言葉を口にし、涙を流します。それを見たイエス様はマリアにはそれ以上何も言わず、そこにいた皆を連れてラザロの墓に向かわれます。


 この時イエス様は「憤っていた」と書かれていますが、この場にいる人々に怒りを向けておられたのではなく、人間を悲しみに突き落とし信仰を奪い取ろうとするサタンへの怒りが燃えていた、と解釈されます。


 ですからイエス様は墓に到着すると、まだ何も起きていないうちから「父よ、感謝します」とサタンに対する勝利の宣言をなさったのです。サタンは人間を絶望させ神様から引き離そうと、ありとあらゆる罠を仕掛けてきます。しかし父なる神様はそれら全てを打ち砕く力をお持ちであり、イエス様もご自分が願うことは全て叶えてくださると微塵も疑わなかったのです。こうしてラザロはイエス様の「出てきなさい」というお言葉に答えて復活したのです。


 もちろんこのラザロもいつかまた肉体の死を迎えるでしょう。それでもイエス様の奇跡を見て信じた人々の心の中には「イエス様と共にいるものにとって死は終わりではない」という強い思いが刻まれたに違いありません。


 私たちは、自分の計画と異なる出来事に直面するとき、絶望したり、投げやりになってしまい、最後までやり通す力を失いがちです。それでも、イエス様を信じるならば、そこに神様の愛とご計画を見る力が備えられていくのです。


 イエス様は何があろうと私たちと共にいてくださり、死すらもそれを妨げることはないのです。私たちはそれを信じ、与えられた役目を果たしてまいりましょう。



最近驚くほど暖かい日が続きます。

教会の道沿いに植えておいたチューリップも一気に花開きました。

クリスマスローズ(レンテンローズ)も花盛りです。

ハナニラも開花し始めました。

冬の間に痛んだ葉牡丹を抜いたところに

少し春の花を植え足して、華やかにしてみました。

写真を掲載しておきます。


近くの桜並木が記録的な速さで開花しました。

春の訪れは嬉しいけれど、温暖化の影響があることを思うと

喜んでばかりもいられません。

私たちもできることから本気で取り組まないと

未来ある子どもたちに申し訳ないですね。













2023年3月19日日曜日

「み神のみ業」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(紫)(2023年3月19日)
エフェソの信徒への手紙5章6-8節 ヨハネによる福音書9章1-12節

 本日の福音書で、イエス様は「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあります。2000年前のイスラエルでは、障害のある人が社会で働いて金銭を得ることはほとんどなかったと思われます。その代わり、彼らは物乞いをし、周囲の人々は彼らに施しをすることで神様の前に善行を積む、そのような社会福祉のスタイルを確立させていたのです。


 彼は連れてこられた神殿近くで、毎日毎日神の教えを聞いていました。周囲の人々は、目の見えない彼は何を聞いても理解できないだろうと偏見を持っていたかも知れません。しかしこの後に巻き起こる議論の中の彼の受け答を読みますと、彼が聡明な人物であることがわかります。彼は、弱者を見下しながら上部だけは信心深い行動をとる指導者達の矛盾を感じとっていたのでしょう。


 イエス様はそんな彼に眼差しを向けられました。ユダヤの指導者たちの多くが堕落しているとはいえ、盲人はそこから恩恵を受けて暮らしていくしかありません。それで彼は幸せなのか、イエス様は立ち止まってじっとご覧になったのです。


 弟子達は、イエス様が何を考えておられるのか知りたくなってイエス様に思い切って質問をしました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」これは本人を前にして、非常に無神経で残酷な言葉とも思えますが、律法によれば障害というものは神様からの罰である、という考え方が当たり前だったのです。


 「本人ですか?」とは本人が何か神様に罰を与えられるようなことをしたのか?」という問いかけであり、「両親ですか?」とは「両親が何か悪いことをしたから神様からの罰で障害を持った子が生まれたのですか?」と問うたわけです。


 医学で治せない障害や病を「バチがあたったからだ」と捉える考え方は、現代の日本社会にも今も根強く残っています。2000年前のイスラエルとなればそれはもう確定事項のような考え方だったでしょう。今も昔も、本人も家族も原因がかわからず、どうすることもできない病や障害はあります。むしろ思い当たる節がないからこそ「あれが原因だったのか、これが悪かったのか」と思い悩むのです。大切な人なら尚更、代われるものなら代わってあげたいと思います。


 しかし、仮に自分の命を代わりに差し出します、と誓っても、ダメなものはダメなのです。かつて人間が神様を裏切り、エデンの園で禁じられた木の実を口にした時から、人は地上で苦しみと共に生き、それぞれに与えられた命を全うして死んでいくことが決定してしまったのです。


 これは残念ながら100%人間の側に落ち度のあることでした。ですから、自分の命を差し出すといったところで「罪にまみれている命」を身代わりに受け取るようなことは神様はお出来になりません。神様への身代わりの捧げものは完全に清いものでなければダメだからです。


 それでも神様はそのような状態に陥った人間をかわいそうに思っておられました。「私はバチを当てた覚えなどない」と仰る神様のお心を正確に人間に伝え、手を差し伸べることができるのは、神であり人となられたイエス様ただおひとりなのです。だからこそ罪なき子羊、イエス様を遣わされ、その命を身がわりに十字架につけることで、この世ではダメなことでも、天の国においては全てが癒やされ、神様との関係は修復されるのだ、と語りかけてくださったのです。 


 この日も弟子たちの問いかけに対し、はっきりとお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない、神の業がこの人に現れるためである。」


 どのような悩みも苦しみも、神様の御手のうちにあり、いずれは全て癒やされるのだと、確信を持って語ることは、人間の思いの全てを超越しており、イエス様しか言えない言葉なのです。


 想像を超えた苦しみの中にある人々に向かって「この苦しみは神様の栄光が現れるためだ」と確信を持って堂々と言い放ち、人を救うことのできる人間はいないでしょう。それが事実だと知って断言できるのは天の国から来られた神の子イエス様だけだからです。


 最後に癒されるイエス様の行動に眼を向けておきましょう。イエス様は地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になります。これは創世記で神様が人間をお作りになった時、泥をこねて形作られた出来事と重なります。イエス様は神様がなさったように泥を捏ね、生まれつき見える目を持っていなかった彼に新しい目をお与えになったのです。


 ただしそのみ業が完成するためにはシロアムの池で洗わなければなりませんでした。シロアムとは「遣わされた者」という意味です。目の見えない彼がそこに行くのは大変なことでしたし、傍目には馬鹿馬鹿しいとも思える他でしょう。しかし彼がイエス様の言葉を信じて仰った通りにすると、見えるようになったのです。


 これは、単に新しい眼球と新しい視力が与えられたというだけではなく、人間にとって最も大切な目、神様の真実をまっすぐ見ることのできる、罪の汚れや偏見による曇りなど全くない目を持つことができたことを表しているのです。この人は新しい目を作られたと同時に新しい人となったのです。


 「み神のみ業」、これを疑う必要はありません。これからの歩みは、苦難の道のようにも思えますが、イエス様の眼差しは私たち一人ひとりの上に変わらなく注がれています。勇気を持って、信仰を持って、喜びを見出しながら、共に歩んで参りましょう。



3月11日は土曜学校の日でした。

恒例の「いいお顔の写真」UPします。

今回はかなり時間をオーバーしてしまいましたが

なんとかみんな最後まで作り終えることができました。

お迎えに来て、なかなか教会から出てこない子どもたちを待つ保護者の皆様

いつもすみません、ありがとうございます。


「顔出し」の許可をいただいたお子さんは

ネットや建物内外に掲示するポスターに

写真を使わせていただきたいと思っています。

お迎えにいらした時「顔出しOK」と伝えていただけると

とても嬉しいです。よろしくお願いいたします。









2023年3月12日日曜日

「南亜耳伯士(南アルプス)天然水」(日曜日のお話の要約)

 四旬節第3主日礼拝(紫)(2023年3月12日)大阪教会との中継礼拝
出エジプト 17章1-7節(21)詩編 95編(933)
ローマの信徒への手紙 5章1-11節(279)
ヨハネによる福音書 4章5-42節(169)

※朝比奈牧師は両親の納骨のため大阪教会の礼拝に出席し説教しました。飯田教会とZOOMで繋いでの礼拝となりました。

 

 飯田教会からは南アルプスを仰ぎ見ることができます。南アルプスといえばそこで採取される水が商品名になっているほど美味しい水です。


 昨年は教会員の有志の方々に助けてもらいながら南アルプスの3000メートル級の山、仙丈ケ岳に登りました。仙丈ケ岳の山頂にも湧き水が湧いていました。登山の折り、足の親指の爪を剥がしそうになるなど、大変な思いをしましたがそこで飲む水は格別でした。


 本日読みました福音書ではイエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方へお戻りになる途中でした。洗礼者ヨハネが始めた悔い改めの洗礼は多くの民衆の信仰に良い影響を与えましたが、ユダヤの支配層にとっては迷惑な話でもありました。そこで洗礼者ヨハネを捕らえて牢につなぎます。そしてヨハネよりもたくさんの弟子を持っていたイエス様も亡き者にしてしまおうと計画を立てたようです。


 それを知ったイエス様は急ぎガリラヤに戻ることにしますが、その途中どうしてもサマリアの町を通らなければなりませんでした。この「サマリア人」とは、ユダヤ人と他民族が混血した人々です。その昔サマリア地方がまだ北王国イスラエルの首都であったとき、アッシリアという大国との戦争に敗れます。そのおり強制移住させられてきた人々と混ざり合って生まれたのがサマリア人です。彼らも元を正せばユダヤ人と同じ血筋ですから、旧約聖書の一部を大切にしていました。しかし他民族の宗教も入り混じったため、純潔を重んじるユダヤ人からは見下され、表立った交流はほとんどありませんでした。


 イエス様はサマリヤのシカルという町の井戸のほとりで休憩され、弟子たちは食べ物を買いに出かけました。正午、12時頃のことです。そこにサマリアの女の人が水を汲みに来たのです。


 通常水汲みは陽の登る前の涼しい時間に済ませます。あえてこの時間に来るのは人目を避けたい訳ありの人々ばかりでした。そんな訳ありの彼女にイエス様は丁寧に「水を飲ませてください」と頼まれたのです。

 彼女はイエス様の疲れ切った姿を見、それがユダヤ人だと気づいた途端、見下すような態度を取りました。それはおそらく彼女が周りから白い目で見られ、虐げられていたからでしょう。優位に立てそうな人間を見た時、思わず図に乗った、という感じです。


 しかしこの後、イエス様との会話で明らかになることですが、彼女には周囲の人々から蔑みの目を向けられても仕方ないような倫理的な問題がありました。これまでに、5人の夫と暮らし、今また正式には夫ではない男性と暮らしていたのです。彼女は、彼女なりに信仰を持っていて、この世を救うキリストと呼ばれるメシアが来ることは信じていましたが、いつ来るのかわからないメシアよりも、今の自分の孤独を少しでも癒してくれる男性をついふらふらと受け入れてしまう。そんな生活を送ってきたのです。本当はどんなに高い山があってもそれを越えてきて、自分を救ってくれるスーパーマンのような存在が現れないかと、心の中で夢を抱き続けてきたのかもしれません。


 そんな彼女に対し、イエス様は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったものがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」とおっしゃいます。すると彼女は「あなたは父ヤコブより偉いのか、あなたが飲ませてくれと言うこの井戸はヤコブから与えられたのだ」と答えます。彼女の言うヤコブとはイスラエルが北と南に分裂するはるか昔、創世記に登場するイスラエル12部族の父のことです。


 その後もしばらく会話が続きますが、そのうち彼女は痛いところをつかれて話をうやむやにして切り上げようとしたのか「やがてキリストと呼ばれるメシアが来て全てのことを教えてくれるから」と言い出します。するとイエス様ははっきり言われます「それは、あなたと話しているこの私である」


 ちょうどその時、弟子たちがイエス様の元に帰ってきます。それをきっかけに彼女は町に行き、「メシアが現れたかもしれない」と触れて回ったのです。人目を避けてきた彼女が街に出かけイエス様の存在を証するとはなんという変わりようでしょう。


 イエス様は、あえて「一杯の水を求める」ことをきっかけに、寂しく乾き切った女性に手を差し伸べ、その魂を潤し、救われました。

 イエス様はこの世の争いや分断のすべてを悲しまれ、慈しみを持って一人一人を魂の生き返りを促してくださいます。イエス様に語りかけられ、その愛を知った私たちは、神の民として、どこにいても、心に豊かな水を与えられながら生きることができるのです。


 この世のキリスト者には色々な苦難があります。しかし、その荒れ野や、高い山を越したところには、神様が備えてくださる、ほとばしるほどの水が備えられています。神様は私たちにその水を与えようと、すでにその計画を立てて下さっています。私たちは、イエス様を通して、神様を知るものとなりました。

 山登りのような厳しい日々が続いたとしても、全てを知る神様に委ね、その渇きはやがて潤されるのだと今一度固く信じて参りましょう。



2月19日、下伊那郡宮田村に短期留学中の韓国の中学生と共に礼拝したことをこのページでもご報告しました。

その中学から「お礼」としてお菓子がたくさん届きました。

飯田教会は小さく建物も古いので、お話があった時「うちのいいの!?」という思いがありました。

キリスト教人口の多い韓国の中学生たちはがっかりしたのではないかと思っていましたが、お菓子の中に入っていたお手紙が、とても心温まるもので素敵だったので写真でご紹介したいと思います。



枕くらいの大きな袋がいくつも届きました
中には子供たちの好きそうなハングルのパッケージのお菓子が
詰め込まれていました

とても配慮と愛のあるお手紙に感動です

2023年3月5日日曜日

「イエスとニコデモ」(日曜日のお話の要約)

四旬節第2主日礼拝・聖餐式(紫)(2023年3月5日)
創世記12章1-4節(15) ヨハネによる福音書3章1-17節(167)


 人生は順調な時ばかりではなく、病気や怪我、受験や仕事の失敗、愛する者の死、そんな逆境が突如襲ってきます。順調な人生を送ってきたとしたらその分だけ、挫折感や失望は大きいでしょう。神様に腹を立て、信仰から離れそうになるのもそんな時だと思います。

 世の中の優れた教師や先生、社会的なリーダーと呼ばれる人々の中には、そういった苦しみを経て、他人の痛みがわかる人間へと成長した例が多くあります。自分が辛い経験をしたからこそ、苦しむ人になんとか手を差し伸べようとします。
 宗教のリーダーであれば、傷付いた人が信仰を取り戻し、立ち直ることができるよう祈り、指導します。

 本日の福音書に登場するニコデモは、そのような生涯を送ってきた、名のある教師でした。ファリサイ派として人を指導し、議員としてイスラエルの政治に関わり、誠実で温和で優れた人格を持って、苦しむ人を救おうとしてきたでしょう。
 しかし当時のイスラエルはユダヤ教に統一される宗教国家とは名ばかりで、ローマの属国として支配されており、独立を勝ち取ろうと過激な行動に出る人々がいる一方、ローマに取り入って生活し、ユダヤ人としてのプライドも信仰も捨ててしまったような人々もたくさんいました。ニコデモは自分のやってきたことは何だったのか、と無力感を抱いていたことでしょう。

 ニコデモがイエス様の存在を知ったのはそのような時です。イエス様は通常はガリラヤ地方で癒しや宣教の旅をなさっていましたが、この時はユダヤの大切な祭り過越祭に参加するため、神殿のある首都エルサレムに来ておられました。そこでいくつもの奇跡の業をおこなわれたのです。それはご自分の名声を高めるためではなく、救いを求める人々に純粋に手を差し伸べた結果でした。

 イエス様の噂はニコデモに衝撃を与えました。ニコデモはイエス様こそ神様のところからやって来た方に違いないと確信し、なんとかして直接イエス様にお会いしたいと願いました。しかしエルサレムで顔を知られた存在である彼は、イエス様に教えを乞いに行く姿を誰かに見られたくない、とも思いました。強い葛藤の結果「夜にこっそりイエス様に会いに行く」ことにしたのです。

 すでに高齢だったニコデモは、自分の仕事が不十分だったとは恥じ、死んだのち神様から厳しい裁きを受けるだろう、と不安を抱いていました。ですからなおのことイエス様の救いの手を欲したのです。ところがようやくお会いして会話が始まると、彼の染み付いたプライドが邪魔をして、話がかみ合わなくなっていきました。

 イエス様はそんなニコデモの心の内を最初から見抜いておられました。イエス様は矛盾を抱えたニコデモに対し「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、はっきりした言葉でお教えになりました。これは「神様からの力によって、人は神の国を見ることができる」という意味でした。

 しかしこのお言葉を理解できなかったニコデモは、さらに焦ります。イエス様に彼が今までしてきたことを全て否定されたように思えたからです。「私は神様の為に一生懸命やってきたのに、成果がないから最初からやり直しですか?ご命令なら私は母の胎に戻って、そこからやり直します。しかし、そんなことができますか?」これは半ば逆切しているような言葉で、ファリサイ派の温厚な教師のとるべき態度とは思えません。それほどニコデモはショックを受けたのでしょう。
 ただただ、どうしたら神様に赦していただけるか、認めていただけるか、愛していただけるか、と必死だったのです。

 イエス様はニコデモの様子から、今どんなに素晴らしい言葉を聞いたとしても理解できないとわかっておられました。しかし同時に、ここにニコデモを招かれたのは神様ご自身なのだから、信仰によっていつか必ず理解できる時が来る、と確信もしておられました。

 結局この夜ニコデモは、つかめそうで掴めない、不完全燃焼の思いで家路に着いたに違いありません。しかし、本日、読みました福音書の3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」はニコデモとの会話の中で語られた言葉です。

 「聖書の中の聖書」、「福音の全ての要約」とも言われています。その言葉を直接イエス様から聞きながらも、その時のニコデモの腑には落ちなかった、落ちなかったけれども、確かに彼の心に御言葉の種が蒔かれたのです。

 ニコデモはこれ以降あまり福音書には登場しませんが、ヨハネ福音書の7章50節では、他のファリサイ派の人々がイエスを一方的に非難するのに対し、「我々の律法では、本人から事情を聞き、何をしたか確かめた上でなければ判決を下してはならないことになっている」とイエス様を弁護しています。さらに、イエス様が十字架で亡くなり、弟子たちが逃げ去った後で葬りの手伝いまで行いました。

 あくまで伝承ですが、ニコデモは復活のイエス様に出会って回心してキリスト教徒となり、のちに殉教したとされています。殉教はさておき、私もニコデモはクリスチャンになったに違いないと思っています。

 イエス様の生涯を真剣に見つめ続けた彼は、あの夜に語られた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉の意味がしみじみ分かったのでしょう。神様に認められよう認められようと努力する以前に、自分はすでに神様の限りない愛で愛され、永遠の命を与えられていたのだ、それに気付きさえすればよかったのだ。そう信じることのできたニコデモは間違いなく天の国に入ることができたはずです。

 ニコデモが新しく生きたように、私たちもイエス様を仰ぎ、この世の人生を歩んで参りましょう。


教会の道沿いに植えたクリスマスローズ(レンテンローズ)
明け方はまだまだマイナス気温ですが
元気に花開き始めました

白いクリスマスローズも開花中
まだまだ蕾があり、次々開くのが楽しみです