2023年3月19日日曜日

「み神のみ業」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(紫)(2023年3月19日)
エフェソの信徒への手紙5章6-8節 ヨハネによる福音書9章1-12節

 本日の福音書で、イエス様は「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」とあります。2000年前のイスラエルでは、障害のある人が社会で働いて金銭を得ることはほとんどなかったと思われます。その代わり、彼らは物乞いをし、周囲の人々は彼らに施しをすることで神様の前に善行を積む、そのような社会福祉のスタイルを確立させていたのです。


 彼は連れてこられた神殿近くで、毎日毎日神の教えを聞いていました。周囲の人々は、目の見えない彼は何を聞いても理解できないだろうと偏見を持っていたかも知れません。しかしこの後に巻き起こる議論の中の彼の受け答を読みますと、彼が聡明な人物であることがわかります。彼は、弱者を見下しながら上部だけは信心深い行動をとる指導者達の矛盾を感じとっていたのでしょう。


 イエス様はそんな彼に眼差しを向けられました。ユダヤの指導者たちの多くが堕落しているとはいえ、盲人はそこから恩恵を受けて暮らしていくしかありません。それで彼は幸せなのか、イエス様は立ち止まってじっとご覧になったのです。


 弟子達は、イエス様が何を考えておられるのか知りたくなってイエス様に思い切って質問をしました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」これは本人を前にして、非常に無神経で残酷な言葉とも思えますが、律法によれば障害というものは神様からの罰である、という考え方が当たり前だったのです。


 「本人ですか?」とは本人が何か神様に罰を与えられるようなことをしたのか?」という問いかけであり、「両親ですか?」とは「両親が何か悪いことをしたから神様からの罰で障害を持った子が生まれたのですか?」と問うたわけです。


 医学で治せない障害や病を「バチがあたったからだ」と捉える考え方は、現代の日本社会にも今も根強く残っています。2000年前のイスラエルとなればそれはもう確定事項のような考え方だったでしょう。今も昔も、本人も家族も原因がかわからず、どうすることもできない病や障害はあります。むしろ思い当たる節がないからこそ「あれが原因だったのか、これが悪かったのか」と思い悩むのです。大切な人なら尚更、代われるものなら代わってあげたいと思います。


 しかし、仮に自分の命を代わりに差し出します、と誓っても、ダメなものはダメなのです。かつて人間が神様を裏切り、エデンの園で禁じられた木の実を口にした時から、人は地上で苦しみと共に生き、それぞれに与えられた命を全うして死んでいくことが決定してしまったのです。


 これは残念ながら100%人間の側に落ち度のあることでした。ですから、自分の命を差し出すといったところで「罪にまみれている命」を身代わりに受け取るようなことは神様はお出来になりません。神様への身代わりの捧げものは完全に清いものでなければダメだからです。


 それでも神様はそのような状態に陥った人間をかわいそうに思っておられました。「私はバチを当てた覚えなどない」と仰る神様のお心を正確に人間に伝え、手を差し伸べることができるのは、神であり人となられたイエス様ただおひとりなのです。だからこそ罪なき子羊、イエス様を遣わされ、その命を身がわりに十字架につけることで、この世ではダメなことでも、天の国においては全てが癒やされ、神様との関係は修復されるのだ、と語りかけてくださったのです。 


 この日も弟子たちの問いかけに対し、はっきりとお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない、神の業がこの人に現れるためである。」


 どのような悩みも苦しみも、神様の御手のうちにあり、いずれは全て癒やされるのだと、確信を持って語ることは、人間の思いの全てを超越しており、イエス様しか言えない言葉なのです。


 想像を超えた苦しみの中にある人々に向かって「この苦しみは神様の栄光が現れるためだ」と確信を持って堂々と言い放ち、人を救うことのできる人間はいないでしょう。それが事実だと知って断言できるのは天の国から来られた神の子イエス様だけだからです。


 最後に癒されるイエス様の行動に眼を向けておきましょう。イエス様は地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になります。これは創世記で神様が人間をお作りになった時、泥をこねて形作られた出来事と重なります。イエス様は神様がなさったように泥を捏ね、生まれつき見える目を持っていなかった彼に新しい目をお与えになったのです。


 ただしそのみ業が完成するためにはシロアムの池で洗わなければなりませんでした。シロアムとは「遣わされた者」という意味です。目の見えない彼がそこに行くのは大変なことでしたし、傍目には馬鹿馬鹿しいとも思える他でしょう。しかし彼がイエス様の言葉を信じて仰った通りにすると、見えるようになったのです。


 これは、単に新しい眼球と新しい視力が与えられたというだけではなく、人間にとって最も大切な目、神様の真実をまっすぐ見ることのできる、罪の汚れや偏見による曇りなど全くない目を持つことができたことを表しているのです。この人は新しい目を作られたと同時に新しい人となったのです。


 「み神のみ業」、これを疑う必要はありません。これからの歩みは、苦難の道のようにも思えますが、イエス様の眼差しは私たち一人ひとりの上に変わらなく注がれています。勇気を持って、信仰を持って、喜びを見出しながら、共に歩んで参りましょう。



3月11日は土曜学校の日でした。

恒例の「いいお顔の写真」UPします。

今回はかなり時間をオーバーしてしまいましたが

なんとかみんな最後まで作り終えることができました。

お迎えに来て、なかなか教会から出てこない子どもたちを待つ保護者の皆様

いつもすみません、ありがとうございます。


「顔出し」の許可をいただいたお子さんは

ネットや建物内外に掲示するポスターに

写真を使わせていただきたいと思っています。

お迎えにいらした時「顔出しOK」と伝えていただけると

とても嬉しいです。よろしくお願いいたします。









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