2020年12月7日月曜日

ここに始まる(日曜日のお話の要約)

聖餐式・待降節第二主日礼拝(2020年12月6日)
イザヤ書40章3-8節 Ⅱペトロ3章8-9節 マルコ福音書1章1-8節

  今から2000年前、イエス様が誕生された時代、国同士の争いは絶えず、戦争に負ければ殺されるか奴隷にされるかしかありませんでした。強者となった人々は、自分の立場を維持するためなら弱者を虐げることなど何とも思いませんでした。

 イエス様は、そのような混沌とした社会の中で、弱者の側にお生まれになりました。神の御力によって王族や大金持ちの家に誕生することも可能だったはずです。しかし、イエス様の誕生を伝える福音書は、権力者に虐げられ、翻弄される小さな家族の中にイエス様が誕生されたと記録するのです。

 当時のユダヤの国は、大国ローマとの戦いに敗れ、その他の国々同様

属国として支配を受けていました。しかしユダヤの民は、幼い頃から聖書を学ぶことによって文字を読み書きができ、聖書を学ぶことによって教養を身につけてました。さらに、聖書の歴史から、かつて自分達を支配し占領していた大きな国々も時が来れば滅びると知っていました。ローマ帝国がどれほど強大でも、いつかは滅びると信じていたのです。

 そして他の民族との決定的な違いは、自分達の信仰する神が自分たちを守り導くことを堅く信じ、容易には他の宗教を受け入れず、誇りを保っていたことです。武力で簡単に押さえつけられる民ではなかったのです。

 しかし実際にユダヤの政治を行う祭司やファリサイ人たちは、ローマと正面衝突を避けて民衆をコントロールする必要があり、時には国民からどっちの味方なのだと失望されても、やむなし、というところもありました。

 ローマ帝国の占領下で、神様に愛されていたはずのユダヤの国が、ボロボロになりながら喘いでいる。その国のさらに底辺に近い人々の間に、神の御子イエスが降誕されるのです。ルカによる福音書によれば、「宿屋には彼らの泊まる場所もなく、イエス様は飼い葉桶の中に寝かされた」とあります。しかし福音書は、この一見力なき幼子は神の子である、と記すのです。


 本日読みましたマルコ福音書の最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されています。これはローマ皇帝を「神」と崇める人々に喧嘩を売っているようなものです。現代のクリスチャンにとって当たり前である「神の子」という言葉は強大なローマ帝国に反旗を翻すほどの強烈な言葉だったのです。それでもキリスト教徒達は福音という言葉をローマ皇帝では無く、自分たちの信じ崇める神に対して使い、教会で読み継いだのです。

 本日は洗礼者ヨハネが人々を悔い改めに導く出来事です。荒々しく厳しい世の流れの中で、洗礼者ヨハネは、絶望もせず、かといって武器を持つことも無く、神様がこの世界を救ってくださることだけを堅く信じ、そのためには一人一人の悔い改めこそが重要であると説きました。

 ラクダの毛衣を着て腰に革の帯を締めたヨハネの姿は、ユダヤの人々のイメージする旧約聖書の時代の預言者そのものでした。彼の言葉は威厳に満ちて力強く、その呼びかけに従って多くの民衆が荒野に出向き、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を受けました。

 洗礼は魔術ではありません。ヨハネとともに川に入り、全身を浸すだけです。しかしそこに込められたのは、今までの生き方を悔い改め、神様に従って新しく生き直す、という信仰でした。吹けば飛ぶような存在である私の人生にも神様の思いが働いており、それに応えようとする命が私の中にもあるのだという思いで満たされるのです。こうして、ユダヤの全地方とエルサレムの住人は皆、ヨハネの元に来て罪を告白し、彼から洗礼を受けたのです。

 ただ、ヨハネが一人一人を悔い改めに導いた大きな目的は「こんな時代だけど新しく生きなおそうぜ」と励ますのではありません。間も無く神様から遣わされた神の御子がおいでになるから、自分本位の生き方はやめて、神様に心を向けていよう、という呼びかけだったのです。

 洗礼を受けたからといってパッと人生が良くなる、というものではありません。最初に変わるのは受けた人の心です。不平や不満、悲しみだらけだと思っていた世界の見え方が変わります。自分が今ここにあるのは、イエス様に出会うためだったとはっきりわかった時、なにものにも代えがたい平安が与えられ、その人の人生は変わり始めるのです。

 苦難や問題の多い人生であっても、その道を通らなければイエス様に出会えなかった、今までの出来事は全て自分の糧となる、そう信じて生きる生き方もあるはずです。

 洗礼者ヨハネが呼びかけた言葉は、今も聖書を、悪い時代においても、良い時代においても、ひたすらに神の導きを信じて教会に集い、聖書に学び、キリストに仕えていく中に本当の平安があると、それがあなたの人生だと、私たち一人一人に語りかけているのです。

 繰り返しになりますが、私たちの苦難や問題の背後には、神の思いが隠されています。イエス・キリストが味合われた十字架の背後に、神の思いがあり、復活や永遠の命を示されたように、私たちには、私たちの生き方があります。互いの人生を尊重しながら歩んで参りましょう。神様の支配されている教会の中で共に信仰に歩んで参りましょう。



12月5日は恒例の土曜学校でした。

クリスマス企画なので、小学生だけでなく

土曜保育の年少、年中、年長のお友達も参加しました

一緒に礼拝をした後

12月のお誕生会

大人、子ども合わせて12月生まれが

なんと8人!

ガラポンでプレゼントをもらってみんな笑顔です


そのあとは松ぼっくりツリーのクラフト

年少さん、年中さんは小さなツリー

年長さんと小学生は大きなツリーに

それぞれ挑戦しました


年少さん、年中さんはあらかじめ
松ぼっくりをツリーの形に組んだものに
フェルトボールを貼り付けました


白い絵の具と木工ボンドを混ぜたものを
綿棒で松ぼっくりにちょいちょいと付け
ボールを貼り付けていきます


こちらは年長さん
教会員から献品していただいた
大きな松ぼっくりにボールを貼り付けます
貼るところが多いので
根気も必要です





小学生の中には
ドライフラワーをあしらう人も

次回は1月
みんな素敵な健康に気をつけて
クリスマスと良いお正月を迎えてくださいね

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