2021年8月30日月曜日

イエス様の元に集まる人々(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(2021年8月29日)

詩編15編 マルコによる福音書7章1-8節

 今日は、ZOOMを使用してオンラインで礼拝を行っています。ZOOMは双方向なので、皆さんがどのような服装でモニターの前に座ってらっしゃるかわかってしまいますが、その辺りは気にしないでください。牧師は職務柄、牧師シャツを着ていますが、皆さんはいつもの服装で結構です。

 プロテスタント教会においては、神様は身だしなみをあれこれ悩んで明日のことを思い煩い、礼拝時間に遅れるより、時間通りに来てくれる方が嬉しい方だ、と教えます。それがキリスト教の礼拝の大きな特長です。


 皆さんご存知のように、キリスト教はユダヤ教から分かれ、ユダヤ教を土台にして生まれまました。レビ記あたりを読めばわかるように、ユダヤ教は何かにつけて厳しい生活習慣を民衆に強いました。神様は清さを求めるという言葉の元、身を清める方法や服装、捧げ物のやり方まで、非常に細かく決められていたのです。

 しかし厳しい掟も次第に形骸化し、民衆もそんなやり方に慣らされてしまいました。心の伴わない、形式ばかりの宗教に成り下がろうとしていたユダヤ教社会に忽然と現れたのがイエス様でした。イエス様は、神様がお求めになっているのは形だけの礼拝でもなければ捧げる金額でもなく、神様を愛し、その導きに従おうとする心である、とお教えになりました。そして、社会から除け者にされてきた人々にも手を差し伸べられたのです。その結果、今まで積極的に宗教活動をして来なかった漁師や、神様に背を向けていた徴税人達がイエス様を慕い、弟子となりました。彼らは、自分がイエス様から愛されていることを信じ、新しい生き方を与えていただいたことを感謝して生きようとしました。


 しかしその自由な振舞は、旧約聖書の教えに縛られて来たファリサイ人や律法学者から見れば、眉をひそめるようなものでした。

 ファリサイ人や律法学者達は通は外出から帰るたびに浴槽に入りました。律法によって障害者や病人は「汚れている」と定められていたため、そうした人々にうっかり触れて自分も汚れていたらいけないから自宅に戻ったら真っ先に清めるわけです。全くもって傲慢で失礼な話です。


 率直にいって、イエス様はそのようなしきたりには全く頓着なさいませんでした。一般のユダヤ人は食事の前に念入りに手を洗うのに対し、イエス様はそこに病人がいようと罪人がいようと、最低限の衛生管理にとどめました。それは儀式にのっとったやり方ではありませんでしたし、弟子達にも、形式的に手の清めをするようには指示されませんでした。

 それを見ていたファリサイ人達は強い嫌悪感を抱きます。こ神様に対する冒涜だ、イエス様はどういう指導をしているのだとクレームをつけます。ファリサイ人達は、神様の為に、先祖から定められた規則を守ることで常に清くあろうとしました。しかしそれは神様を愛し慕っているから、というよりもただの習慣であり、心の伴わない形式だけのものでした。彼らは清さを保てない人々を差別し、糾弾することがユダヤ教徒として正しいことだと信じ込んでいたのです。


 ところで、マルコによる福音書は、ファリサイ人たちがイエス様のもとに集まる直前、ゲネサレトで病を抱えた人々がイエス様の元にいやしを求めて押し寄せた様子を描いています。

 人々は必死で神様に対していやしを求めました。ユダヤ教の律法に従うならば、到底神様に近づけない汚れた状態の人々が、イエス様の噂を耳にして走り回って探します。自分自身や大切な家族、友人のために、汗まみれになってイエス様を求めるました。もちろんイエス様も彼らを拒むことはなさいませんでした。人々は何もかもかなぐり捨ててイエス様の前に平伏し、癒しを願い、それに答えて行くイエス様のお姿が、短い文章の中にダイナミックに記されています。


 それに比べて、手を洗うの洗わないのというルールに拘っているファリサイ人や律法学者の姿はあまりにも小さいと言わざるを得ません。神様の厳しさだけを見て、本質である神様の愛から人々を遠ざけてしまっているのです。イエス様はそのことを厳しく、エルサレムから来た律法学者に教えられだのです。


 もちろん必死でイエス様に群がり、癒していただいた人々が、後々みんな信仰深いクリスチャンになった、ということはなかったでしょう。イエス様もそれはご存知だったはずです。だからと言って人の上に立つべき宗教指導者達が自分のルールを神様のルールとして塗り替えてしまい、救いを求める一般の人々を通せんぼしてしまうことは許されることではない、とイエス様はお伝えになりたかったのです。


 神様は律法を用いてユダヤの民をしっかり教育されましたから、当時のユダヤ人は高い知性を持っていました。神様はその上で、知性に加えて高い倫理観を持って行動することを望まれたのです。どれほど高い知識や教養があっても、目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べることができないなら、それがなんの役に立つのか、と神様はお考えになり、イエス様を通してそれをお教えになったのです。


 こうして誕生したキリスト教が、神様の思いを伝え、愛によって受け入れ合うことを望まれたのです。その担い手となったのが、私たち一人一人です。

 もしかすると今日から当分の間、リモートで礼拝を守っていかなければならないかも知れません。このような状況は、心が殺伐となりやすいでしょう。しかしイエス様は同じように荒れた心を持つのではなく、このような状況だからこそ御言葉に学び、共に過ごす人々に仕え、愛してゆきなさいと教えてくださっています。

 この時、置かれた場所で、イエス様の教えとその業の元に集まり信仰の歩みを続けて参りしょう。



本文で触れた通り、先週からZOOMを用いて
リモート礼拝を行っています。
教会での礼拝に出席するのは
役員から1名、礼拝当番、オルガニストのみです。
他の皆さんはリモートでご参加ください。
ご覧になりたい方は牧師までご連絡ください。
090-1243-7727
ネット環境のない方には週報と説教要約を郵送
あるいは直接ご自宅までお届けします。



        タネから育てたコスモスの花が咲き始めました

            淡い黄色が可憐な感じです




駐車場の植え込みで育てているオキナグサの花です。
初夏に咲くはずなのですが、条件が合うと
今頃でも咲くのでしょうか?

ギボウシ(ホスタ)の花も駐車場の植え込みで
咲いています。
こちらも本来は初夏から梅雨頃咲く花です。
長雨で調子が狂ったのでしょうか?

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