2018年12月7日金曜日

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第6章24節~34節)


     2018121(土)母家族葬葬儀告別式説教 於:ルーテル松山教会

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第624節~34節)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

母が一番、心から敬服した主イエスのみ言葉は、「明日のことを思い煩うな」でありました。私が、高校一年か、二年頃のことではなかったかと思います。当時、宇和島の書店に、講談社から、「亀井勝一郎全集」というのが出ており、どういう経過であったか、その第7巻に、親鸞聖人の伝記のようなもの等東洋の知恵の部分と、それに加えて、西洋の知恵の中に、耶蘇の言葉として、「明日のことを思い煩うな」というみ言葉があって、まだ洗礼を受けていない母親と私とが、このみ言葉に初めて触れたのであります。

 このみ言葉のある個所について、今日は皆さまとご一緒に考えてみたいと思います。それは、先ほどお読みしましたマタイによる福音書第624節から34節であります。

 まず、人は、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を余計に愛し、他方を、当然より少なく愛するということになり、一方に愛着し、他方をより軽視することになるからだというのです。私たちが、尊敬する先輩の先生を自分の先生として二人を敬う場合でも、どちらかを重んじ、それに対して、もう一人の先生はより少なく愛することになりがちであります。

 そして、主イエスは、人は、神と富、お金、財産、マモンと言いますが、それに兼ね仕えることはできないと言われるのであります。

 そして、それ故に、あなた方に言っておくと、この部分の説教を続けて言われるのであります。それゆえ、あなた方は、何を食べ、何を飲もうかと思い悩むな、命は食物に勝り、体は着る物にまさると言われます。

 そして、空の鳥を見よ、彼らは、蒔かず、刈り入れもせず、倉に集めることもしない、しかし、天の父は、それでも彼らを養っておられるというのであります。そして、あなた方は、鳥よりもはるかに価値のある者ではないかと言われます。

 そして又、これを語られたガリラヤ湖の近くで、美しい自然を見ながら語られたことでしょう、あなた方は、野の花を観察しなさい、彼らは、働きもせず、紡ぎもしないが、育ってゆく。あのソロモンの栄華と言われるソロモン王を取り上げて、そのすべての栄光におけるソロモン王も、これらの花一つほどにも着飾ってはいなかったと言うのであります。
 ソロモンは、ダビデ王の子で、ちょうどお主イエスの生まれるよりも1000年ほど前の、イスラエルの歴史では、この二人の王の時代のみ栄えた時代であったのであります。
 その花、野の百合というのは、アネモネの花などを指すのであります。荒れ野の岩陰の間からも、うっすらとピンクや紫の、日本でいえば、レンゲ草のような野の花であります。
  そして、あなた方は何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思い煩ってはならないと繰り返されるのであります。

 亀井勝一郎氏は、耶蘇について、どうしてあのような繊細な心の持ち主が生まれたのだろうかと賛嘆していますが、山上の説教の一部である今日のペリコペー、小聖書のみ言葉はそれでありましょう。

 さらに、主イエスは言われます。今日生えていて、明日は炉の中へ投げ入れられる野の草をもそのように育てておられるあなた方の天の父は、それにも増して、あなた方に良くしてくれないことがあろうか、信仰の薄い者たちよ、と語りかけられる。これは、弟子たちに向けて、信仰のほとんどないあなたたちよと申されるのであります。空の鳥を養い、野の花、野の草を見事に飾られる、あなた方の天の父は、あなた方をもっとよく良いものでよそおわれるに違いないではないかと弟子たちに諭されるのであります。

 私たちを、自分の像に似せて造られた神は、その他の全被造物よりも、もっとよくしてくださらないことがあろうかと言われます。
そして、あなた方は、まず、神の国と神の義とを追い求めよ、そうすれば、あなた方の必要なものは、すべて添えて与えられると約束しておられます。

 何を食べ、何を飲み、何を着ようかと異邦人たちは追い求めているが、それらが人間には必要であることは、あなた方の天の父は、すべてご存じであると
言われます。

 そして、最後に、あなた方は、それゆえ、明日へと思い煩うな、かの明日は、明日自らが思い煩うであろう、十分なのは、その日毎の悪、災いで十分であると言われるのです。昔の訳では、一日の労苦は、一日にて足れりとありました。

母親は、思い煩いがちでありましたけれど、「明日のことを思い煩うな」という主イエスのみ言葉を忘れずに歩んだ、それからの一生ではなかったかと思います。自分が思い煩う者であることを、よく知っていたと思います。人は皆草のようで、今日のみ言葉にありますように、今日は生えていても、明日は炉の中へ投ぜられるはかない存在であります。

 しかし、主が語ったみ言葉は確かであります。明日のことについて、                     思い煩い続けるのではなく、あなた方の天の父のご配慮、摂理を信じて、すべての思い煩いを主イエスに、そして、天の父にゆだねて、新しく生きることができるのであります。

 そのためには、この私どもを今も変わらず、とこしえに守り導いておられる神に全身全霊で仕え、弟子として忠実に従ってゆく。ひとりの唯一の主につき従い、身をゆだねてゆく道を歩まなければなりません。
  神の国と神の義とをまず第一に求めてゆく。それは、私たちの自分の力によるのではなく、賜物として与えられているみ国を、ただただその恵みを受けてゆくことが必要であります。

 母は、晩年は認知症なども進み、思い通りにはならない自己と戦ったと思います。夜、お盆などで帰省しましたとき、夜目覚めて、「キリスト様、お釈迦様、ソクラテスさま」などと独り言のように言い、また、自分の子供や                                                                                孫たちの名を忘れまいと、一人一人名前を言って呟いていたりしました。

 また、デイ・サービスにも、週に三回、四回と熱心に通い、妹たちや兄にも応援されて、無精気味なところがあったのに、喜んで人々のところに足を向け、デイ・サービスのビハーラさんのところでは、五木弘の歌を好んで歌ったりしていた様子でした。私が牧師となったのを心から喜んで、元気なときにも、私の説教テープを喜んで聴いてくれた母でした。「明日のことを思い煩うな」、この主イエスの言葉を、私も忘れないで歩む者とされたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

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