2024年3月18日月曜日

「御子を賜る神の愛」(日曜日のお話の要約)

四旬節第四主日礼拝(2024年3月10日)(紫)

民数記21章4-9節 エフェソの信徒への手紙2章1-10節

ヨハネによる福音書3章14-21節


 信仰の世界に入る時、真面目に続けるならば成熟した人間になれると思う人も多いかもしれません。欲に縛られず、健康的で、公平な心を持ち、あくせくしない。必要なものはしっかり管理し、無駄遣いしない。ものごとに集中し、楽しむ時は楽しむ。時を管理し、勉強する時は勉強し、思い煩いがない。そのような心を持てば、この世の一生はどんな人でも幸せに過ごすことができるでしょう。


 ところが大抵の人は何年経ってもそんなふうにはなれません。相変わらず、すぐに思い煩いの虜になり、「神様に委ねましょう」と口では言いながらなかなか心配事を手放すことができないのです。自分の信仰のあり方がなってないせいなのかなあ、と、かえって悩みが増し加わってしまいます。


 そんな私たちに聖書は「神は、その独り子をお与えになった」という御言葉を与えてくれます。短い言葉ですが、私たちの価値観をガラリと変えてしまうくらい大きな言葉です。福音書を記したヨハネは、人間の弱さを知り尽くした上で、このイエス様の言葉を、賢い人にも、そうでない人にも伝えたのです。


 とはいえ、このみ言葉は賢い人の方が理解しにくかったようで、その典型的な存在が、本日登場するニコデモでしょう。ニコデモはファリサイ派の教師でしたから聖書の御言葉に精通しており、聖書に記されている掟も歴史も人々に教えてきました。その上彼は政治家の一人、議員でもありましたから、当時のイスラエルが置かれている厳しい社会情勢についてもよく知っていました。


 一般庶民はローマ帝国の支配のもとで一杯一杯の生活を強いられていましたが、議員である彼は衣食住で困ることはありませんでしたし、常に多くの人々から尊敬されていました。ですからニコデモは、神様を信じているという自負はあっても、神様に頼るとか、守られているという感覚は薄れていたといえるでしょう。


 彼は礼儀正しく思いやりのある人物でしたが、その優しさは社会からドロップアウトした人に向けられることはありませんでした。彼らは神様から見捨てられた存在だから関わらないようにと教え、自分も関わることはありませんでした。それは指導者である立場の人間として、秩序を守るために当然のことだと思い込んでいたのです。


 今までニコデモは誰かが不幸な出来事に遭遇した時、その人自身が悪い、その人の信仰が足りず神様に罪を犯したせいでそうなったのだ、罪から清められない限り不幸は続く、と教えました。不幸な目に遭うだけでも辛いのに、悪感を煽るというのは、傷口に塩を塗り込むような言葉だったことでしょう。


 しかしイエス様はそのようにはお教えになりませんでした。神様はあなたに愛をもって接している、あなたが辛い目にあったとしても、それはあなたが神様の存在にもう一度気づくためであり、あなたと神様を再び結びつけることになる、とはっきりと教えられたのです。


 ニコデモは、いわゆる「もうお迎えが近い」という年齢になって、イエス様を知り、そこで大きな迷いが生じたのです。ニコデモは、神様を知っていますし、信仰に生きてきたと自負してきました。それでも時折、自分は死んだ後本当に神の国に行いけるだろうか、という不安がよぎることはありました。本当に自分のやり方でよかったのか、という迷いが日に日に強くなっていきます。イエス様に直接お会いして話をしてみる以外、自分の迷いを振り払う方法はない、そう思ったニコデモは夜の闇に紛れてこっそりイエス様を訪ねる決心をしたのでした。


 しかしイエス様のお答えは謎めいており、彼はすっかり戸惑ってしまいました。するとイエス様は「あなたはイスラエルの教師なのにこんなことがわからないのか」と厳しいお言葉をかけます。これはニコデモに神様の愛を気づかせようとなさったからです。言葉だけでは伝わりきれない神様の愛を、ご自分が十字架にかかって晒し者になることで伝えよう、という決心を既になさっていたのです。


 イエス様の評判は日増しに高まっていましたが、それは一部の人々に過ぎず、ユダヤ教の掟に縛られている人々にとって、イエス様の言動は神を冒涜するものと感じられました。当時の権力者たちもまた、自分の保身のためにイエス様を危険人物として捉え、死刑にしようと計画していました。そしてイエス様はそこからあえて逃げようとはなさいませんでした。とうとう十字架に掛かるまでに、ユダヤの掟のみならず、ローマの法においても、人々に見捨てられた者として十字架に掛かったのです。


 これこそが、イエス様が生涯をかけて全ての人に神様の愛が注がれていることを示すための出来事でした。この時人々はイエス様が神様から完全に見捨てられたと考えたでしょう。イエス様を尊敬し、慕っていればいただけ、あれほど神様に忠実な方はおられなかったのに、と神様への不信感が頭をよぎったかも知れません。


 イエス様ご自身も肉体を持っておられたからおそ「我が神我が神、われを見捨てたもうたか」と苦痛の叫び声を上げられました。しかし叫びながらも、イエス様は神様が、復活する命をお与えになることを少しも疑われなかったのです。


 イエス様を信じる信仰が与えられた者は、どんな不条理な生涯を終えたとしても天国で復活し、命を与えられることは約束されています。しかし問題なのは、この出来事を頭では理解し、知識もあるにもかかわらず、自分の功績や、自分の努力によって、天国に行けるものだという考えから離れられない第2第3のニコデモとも言うべき人々が、いつの時代にもいるということです。


 それはイエス様の存在やなさったことを受け入れないということです。ニコデモ自身は神様への信仰を取り戻す事ができましたが、日本のクリスチャンは努力や功績を重視し、真面目な人が多い分、理解が難しいようです。大切なのは、このように信仰を持って集まる一人一人は、神様の愛の対象の中にあり、はっきりと神様の愛を理解するために集められていることなのです。

 共にイエス様を主と仰ぐことで、仮に絶望の中にあっても、希望をもって愛を持って生きることができる。これこそがイエス様の愛を通して神様から与えられたプレゼントなのです。 

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