2024年3月18日月曜日

「神の御心 主の十字架」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・四旬節第三主日礼拝(2024年3月3日)(紫)

創世記 17章1-7節(21) 

ローマの信徒への手紙 4章13-25節(278)

マルコによる福音書 8章31-38節(77)


 本日の福音書でイエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言っておられます。だからこそキリスト者であれば、アクセサリーとは言え、十字架を身につけるのに覚悟がいることもわかってきます。薄っぺらな思いではなく、覚悟を決めてキリスト者であることを表明するために感謝を込めて十字架を身につける時、イエス様の生涯も、イエス様の十字架も、イエス様の復活も全て私の為であったとしみじみわかってくるのです。


 改めて福音書を見ますと、イエス様は何度もご自分の死と復活について弟子たちにお話ししておられます。本日の箇所もその一つです。しかし何度それを聞かされても、弟子たちはお話の意味を理解せず、一番弟子のペトロなどは「ご自分が殺されるなんて言ってはいけません」とイエス様を諌め、逆に叱られています。


 しかしイエス様は弟子たちが初めのうち非常に鈍感で、イエス様の真意を汲み取る力がなく、イエス様を悲しませることが多かったにもかかわらず、彼らを決して見放すことはありませんでした。イエス様は、そして神様は、彼らが信仰に生き、この世の苦しみから解放される為に、ありったけの愛を注いでくださいました。


 イエス様は弟子たちに予告された通り、十字架にかかり、復活されます。そのことを知った時、弟子たちはようやくイエス様のお言葉を理解し、心から神様を信じるものとして、キリスト者としての信仰のスタートラインに立ったのです。


 弟子たちはそれからもいつも完璧というわけではなく、何度も信仰から脱落しそうになりました。それでもイエス様を信じるものとして、歩み続け、その時に感じる苦しみも恥ずかしさも全て神様の導きだと信じて歩んでいきました。そのような姿を聖書から伝えられているからこそ、わたしたちもまた、完璧でない自分を受け入れられますし、心には平安があるのです。


 とはいえ、キリスト教の信仰理解は、難しいものです。「信じた者が幸せになるのですか?」と言う質問に対して、聖書ははっきりとは答えていません。「イエス様を信じるものは救われる」は確かな真実ですが、この世で報われるかどうかは別の次元です。ただ、この世で辛い終わり方をしたとしても、変わらず天国に招かれていることを信じられることが恵みなのです。


 日本において、キリスト教は迫害の歴史を繰り返してきましたが、今もまた、とても生きにくい時代と言えるでしょう。24時間、薄っぺらで表面的な幸せがテレビコマーシャルやインターネットで垂れ流され、お金がなければ生きていけないと思い込まされている世界です。人生の勝ち組にならなければ、世の中で成功しなければ、生きている意味がない、そんな暗示にかかってしまいそうです。成功や健康で長生きするための情報が溢れ、いつも何か追い立てられるような気がします。


 私たちは、本来、この世界をイエス様の望まれる神の国に近づけていくという大きな使命があるのに、この世の価値観に時間を吸い取られ、志を奪われ、神の御心を聞いていく聖書の学びや祈りの時間が後回しにされ、あっという間に一日が過ぎてしまいます。そして、そんな毎日に悲しみさえ覚えなくなっていくのです。


 だからこそイエス様のご受難を覚えるこの季節に、もう一度立ち止まって思いを新たにするよう、読むべき聖書箇所が備えられています。繰り返しになりますが、私たちは、イエス様の十字架を深く理解しましょう。


 私たちがキリスト者として誠実に歩もうとする時、社会の無理解に晒されます。誤解されたり、身勝手な、いちゃもんつけられたり、嘲笑されたり、宗教に振り回されて大丈夫なの?」と変な心配をされたり、ああやりにくいなあ、生きにくいなあ、と思うことは山ほどあります。


 しかし、そこにも神様のご計画があります。イエス様があの日、あの時、あの場所で、十字架に掛かられたのは、一見、掟や社会制度が社会が整ったユダヤの社会にあって、その支配者自らが自分勝手にその掟を歪め、なし崩しにしてしまう傾向にあったのです。


 それは非常に醜い社会でしたが、神様の目からご覧になれば、非常に哀れな社会でした。そこに住む人々に神ご自身が憐れみをかけられ、悔い改める機会を与えられたのです。


 だからと言って、そのようなずるい人達を見本とはせずに、イエス様に従い、自分の十字架を背負いなさいというイエス様の招きを受け入れることが一人一人の救いに繋がり、さらにはあなたと関わる社会さえも具体的に救っていく働きへと変化していくのです。その有様を見ていくことのできる人は、神の道を知るものであり、永遠の命を知るものであり、幸せなものなのです。


 人間は、その一生の終わりが見えた時、自分の人生とは一体何だったろうかと思うこともある生き物です。たいしたことも成し遂げたわけでもなく、沢山の友人、知人に愛され、慕われたところで、何年か経てば忘れられていきます。

 信仰のつながりのある教会の中でさえ、どれほど奉仕しようと、どれほど献金しようと、次第に忘れられていくものです。けれども、人は忘れても神様はお忘れになりません。生きても死んでも、神様と繋がり続け神様が実現したい神の国を私が担っていることが、私たちの本当の喜びなのです。

 この社会が知らなくても、神様はご存じであること。主イエスを信じていこうと洗礼の時、心に誓ったあの日のこと。その幸いに生きるために、私の十字架があるように、主イエスの十字架があるのです。 

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