2016年9月23日金曜日

「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ4:18-25)

ローマの信徒への手紙第418-25節、20160923、聖研・祈祷会

 ローマ418-25

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが神の義だと認められたわけです。しかし、「それが神の義だと認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。



メッセージ「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ418-25

 アブラハムのたとえから、使徒パウロは、ローマ書第4章を展開している。今日はその最終回である。老アブラハムは希望が見いだせないところで、なお希望を抱いて、主なる神のみ言葉に信じゆだねている。信仰とは、希望が見いだせないところで、なお信じゆだねることである。
 アブラハムも、完全無欠名人間というわけではなかった。試練の連続であったとも言うことができよう。特にその最たるものとして、100歳にしてようやく与えられた一人子イサクを神にいけにえとして献げよとの命令を受けたことがあげられよう。
 老アブラハムは、ただ神の命じられる通りに、モリアの丘へと進んでいくのみであった。ルターが試練によってこそ、信仰は育てられると言っていることが、重ねられて、想起される。
 私たちの信仰は、老アブラハムの信仰を受け継ぐものである。望みなきにも拘わらず、なお望みを抱き、信じるのが、私どもキリスト者の信仰である。
 そして、この節の終わりにおいて、初めて、主イエスキリストが、不意に表われる。アブラハムの信仰は、私どもの、主イエス・キリストへの信仰と一つである。
 私どもは、イエス・キリストがおよそすべての主であることを告白するものである。主イエスは、私どもの間違った行い、背きにゆえに、引き渡されたのであり、そして、それにとどまらず、私たちが、神との関係が正しくされるために、起き上がらされた、すなわち、復活させられたのである。
 そして、私どもは、そのことを信じて、神に栄光を与えつつ、洗礼を受けて、生涯を歩み切る者とされているのである。これにまさる幸いはないと、使徒パウロはアブラハムのたとえのこの第4章を、凱歌をあげつつ終えているのである。キリスト者の幸いを、ここに私どもは、しかと見ることができるのである。

                          アーメン。

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