2016年9月27日火曜日

「死のかなたからの声」(ルカ16:19~31)

ルカによる福音書第1619-31節、2016925日(日)、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)、アモス書第61-7節、テモテへの手紙一第62節C-19節、讃美唱146(詩編第1461-19節)

 ルカによる福音書第1619節~31
 
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷させてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前の間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えてくることもできない。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
 

説教「死のかなたからの声」(ルカ161931

 今日の第1の朗読、アモス書では、エルサレムで贅沢に暮らす支配者階級が預言者アモスによって批判され、当時のユダヤの社会の腐敗・堕落が糾弾されています。
 また、第2朗読のテモテへの手紙一では、使徒パウロが、救われた以上、健全で、堅実な生活をし、キリストを宣べ伝える者としてふさわしく歩むように、テモテを励まし、また、奨め、勇気づけています。
 さらに、まだ、礼拝では読まれていませんが、讃美唱146の、詩編146編は、やがて塵に帰る人間に対しては、たとえいかなる君侯であっても絶対の信頼を寄せてはならない。彼もまた、土から造られた者だから、いつかは、息が絶え、土に帰る存在だからだと、ただ神に信頼するようにと、この詩人は、戒めつつ、主をほめたたえています。
 さて、先週の不正な管理人の譬えに続く今朝の福音、ルカ福音書第1619節から31節は、先週に引き続いて、どのように富を用いるべきかを教えているものであります。私どもの持っている富を誤用してはならないのであって、では、いかに使えばよいのかを、エルサレムでの主イエスの十字架に向かっての旅の途上でお語りになった譬えであります。
 イスラム教にも天国と地獄はあるそうです。仏教でも浄土・極楽と地獄の教えをよく耳にします。主イエスも、ここで珍しいことですが、死後の世界について、この譬えを通してお語りになっています。
 主は、このようにお語りになりました。ある金持ちがいて、毎日、紫の衣や白い亜麻布の下着を着て、見事に祝い楽しんでいた。ところが、その屋敷の外の門のところに、ラザロという貧しい人がいて、できものだらけで、放り投げられていたというのです。
 彼はせめて金持ちの食卓から落ちるもので、満腹になりたいと願っていましたが、それはできませんでした。そして、代わりに犬がやって来て、その体のできもの、膿みの部分を、食後のスープのようになめまわしていたと言うのでです。やがて、ラザロはなくなり、まともな葬儀もなされなかったことでしょう、しかし、彼は、天使たちによって、アブラハムの懐へと連れて行かれたとあります。ユダヤ人たちにとっての父祖であり、また、信仰の父とも仰がれてきたアブラハムのもとに連れて行かれたのです。新共同訳は、アブラハムの祝宴の席に連れて行かれたと訳しています。
 ところが、やがて、金持ちのほうも死んで、葬られました。そして、彼は気づくと陰府において火の中でもだえ苦しんでおり、しかし、ラザロのほうは、はるかかなたに、アブラハムの宴席で憩っているのを見出すのであります。
 彼は思わず、父アブラハムよ、ラザロを遣わして、その指先を水で浸し、私の舌を冷やさせてくださいと声を上げるのであります。
 しかし、アブラハムは、子よ、こちらとあなたの間には、深い淵があって、こちらからも、あなたの側からも行き来することはできないと語るのです。
 それで、今度は、金持ちは、それなら、せめて、私の父の家の5人の兄弟たちの下にラザロを送って、自分のような身にならないように、生活を悔い改めるように言わせてくださいと願い出るのであります。しかし、アブラハムは、あなた方には、モーセと預言者たちがいる。彼らに、彼らは聞くがよいと答えます。
 しかし、金持ちは言います。いや、死人が、生き返って、彼らを戒めれば、その生活を改めることができるでしょうとなお、引きません。
 すると、最後に、父アブラハムは、こう答えるのです。もし、彼らがモーセと預言者たち、すなわち、旧約聖書を聞き入れないのなら、たとえ、死人どもから、だれかがよみがえっても、彼らは、信じゆだねさせられることはないだろうと。
 旧約聖書で、貧しい者を助けるように、慈善、施しの業をしなさいと十分に示されています。そして、この譬えを語っておられる主イエスも、貧しい者を助け、施しをするように、これまで、教えて来られました。主イエスは、ここで、御自分が、この後、復活されるのですが、たとえ、それを見ても、旧約聖書の教えにすら、耳を傾け、聞き入れなかった彼らが、ますます信じがたい主のご復活を知ったとしても、主イエスに確信させられ、信じゆだねることはないだろうと言われます。
 ところで、このラザロとは、だれであり、金持ちとは、だれを指しているのでしょうか。ラザロとは、神の憐れみを必要とする者という意味の名前であります。主イエスのなさった譬えの中で、唯一出てくる名前のついた人物であります。
 私どもは神の憐れみを必要とする者であります。そして、主イエスは、ラザロは、父アブラハムのもとへと連れて行かれると約束しておられるのであります。また、この譬えではラザロは、金持ちのところへ行くことは、深い淵によって不可能であると言われていますが、私どもは、この後起こる主イエスが十字架にかかることによって、この淵の上に、主イエスの十字架が橋渡しとなって、行き来きできるようになったことを知っております。命と死の間の橋渡しが可能になったのであります。
 今泣いているあなた方は幸いである。あなた方は笑うようになる。今満腹しているあなた方は災いである、あなた方は飢えるようになると主は言われました。 
すべての人が神の憐れみを必要としています。この世の財貨を、永遠の命を得るために、用いるようにと、主イエスは今も呼びかけておられます。
 マルティン・ルターは、その死の床で最後に残した言葉として、我々は、神の言葉に飢えた物乞いであるというのは真実だと言っています。死のかなたから聞こえる声に耳を澄ましながら、この世の財貨をいかに用いるべきかを、今一度考えつつ、まことの生き方を、ここから求めていきたいものであります。アーメン。


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