2016年9月8日木曜日

「神さまに降参した人」(ルカ14:25-33)

ルカによる福音書第1425-33節、201694日(日)、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)、申命記第201-8節、フィレモンへの手1-25節、讃美唱119/14(詩編第119153-160節)

 ルカによる福音書第1425節~33

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえあい。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできなと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

説教「神さまに降参した人」(ルカ1425-33

 今日の福音の記事は、ついてきた大勢の群衆に向けて、主イエスが振り返って語られたみ言葉であります。もちろん、エルサレムへの十字架の旅の途上で語られたものであり、また、当然に、弟子たちに向けても、改めて、主イエスの弟子であることとは、どういうことなのかを語られたものであります。
主イエスは、ここで、不思議な譬え話を二つなさっています。主イエスの弟子となるとは、以下のようなことだと言われるのです。
まず、こう話されました。あなた方のうち、塔を建てようとする者は、まず座って、その費用がいくらかかるのか、腰を据えて熟慮するのではないだろうか。そうしないと、基礎を据えることができただけで、完成するには至らなかったと言って、周りの人たちから嘲られることになるだろうと。
私どもが、主イエスの弟子となるということは、大きな犠牲を要することであることを、十分にわきまえる必要があることだと言われます。使徒パウロも、人に奨めておきながら、自分が倒れてしまうようであっては、もともこもないと私どもを戒めた言葉が思い起こされます。
続いて、同じような文体で、主イエスは、1万の軍備で、2万の兵を率いてやって来る別の王と戦いに出て行く王の譬えを語られます。その王は、櫓を建てようとする人の譬えと同じように、まずは、座って、その戦いに勝ち目があるかどうか慎重に熟慮するのではないかと、問われます。そして、もしそれが無理だとなれば、使節を遣わして、和議を願うのではないかと言われるのです。不面目や、屈辱を味わうとしても、勝ち目のない場合には、賢い王ならそうするだろうと言われるのです。
この二つの譬えは、その前後の主イエスの語られたみ言葉によって、その真意が明らかになりましょう。主イエスは、自分に従ってこようとする者たちに対して、父、母、妻、兄弟、姉妹、また、自分の命まで憎まないならば、私の弟子ではありえないとまで言われています。口語訳は、「憎む」というのを強すぎると考えたのか「捨て去る」と訳しています。主イエスは、かつて、ナインで一人息子をなくしたやもめを憐れまれ、「もう泣かなくてもよい」と言われて、生き返らせた奇跡をなさいました。ここで、主イエスが語られていることは、主イエスに従うために、家族関係や自分自身との関係も、主イエスが中心となっていただくということであります。
そのために、主イエスは、各自自分の十字架を運びながら、私の後について来なさいと言われ、また、自分の自由にできるものを一切放棄してしまいなさいとまで、言っておられます。
主イエスに、一旦、親しい家族の関係、絆も、私どもの自由にできると思っている財産も、まずはゆだねてしまうのです。そのときに、むしろ私共は本当の息子となることができ、あるいは、賢い妻、夫となることができる。

ルカが、この主イエスの語られた譬え、み言葉を、このように福音書に記したとき、紀元後1世紀頃でありますが、非常な迫害の時代を迎えていました。その中で、主イエスの弟子であるということは、大きな犠牲と献身を必要とすることでありました。 主イエスの弟子であるためには、今日の福音の記事に引き続いて記されているように、塩気をなくなさい弟子であることが必要であります。塩は自分を隠し、料理の味付けとして、いわば犠牲となって、料理を引き立たせます。主イエスご自身がそのようなお方として来て下さいました。私どもも、自分を塩として、自分をなくして、犠牲の働きを通して初めて、主イエスの愛を伝えることができるのです。主イエスの弟子となるように招かれているすべての人が、まことの家族関係、人間関係を回復するために、いったんは、今までのその絆を捨て去る、あるいは、新共同訳のように憎むことまですることが、主イエスによって求められている。それによって、主イエスをまことの主とし、すべての関係が本来のもの、あるべき姿となるからであります。罪人である私どもが、それによって解き放たれ、主イエスの愛を宣べ伝える者として生き得るようになるのであります。アーメン。

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