2016年9月10日土曜日

「割礼の意味は何なのか」(ローマ4:9-12)

ローマの信徒への手紙第49-12節、20160909、聖研・祈祷会

 ローマ49-12 

 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のないものにも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。


メッセージ「割礼の意味は何なのか」(ローマ49-12

 アブラハムはその信仰が義と認められたと創世記第15章にある。そして、その後に、創世記第17章にその契約のしるしとして、アブラハムとその一族は割礼を受けたことが記されている。だから、アブラハムの受けた祝福は、無割礼のときのものであり、その幸いに、すべての人が、すなわち、キリスト以降の異邦人からでる改宗者たちも与ることができるのである。
 アブラハムももとは、偶像崇拝者であったとも記されている。しかし、そのアブラハムに、主なる神は、み言葉を与えられた。そして、アブラハムはそのみ言葉を絶対的に信じたのである。その後も、しかし、完全無欠な歩みではなかった。自分の妻サライに対して、エジプトのファラオの前では妹と言わせ、大きな罪を犯したとも言えよう。しかし、その非を認め、悔い改めて、その生涯は、主のみ声に従った歩みを続けたといえよう。
 それでは、割礼は無意味になったのか。割礼は、神の民イスラエルのしるしとなり、また、無割礼の者、キリスト以降のキリスト教への改宗者にとっても、割礼以前の者も、信仰によって義とされるという封印として、アブラハムは、割礼の父となったと、パウロは12節に記している。
 信仰によって、義とされる祝福、幸いは、割礼の者にも、無割礼の者にもあるのである。
 私たちの受ける洗礼は、キリストによる割礼とも言えようか。私たちはもはや、肉に受けるユダヤ人の割礼を要しなくなったが、恵みによる救いのしるしとして、聖霊により受ける、霊的な割礼とも言えるのではないか。その意味でユダヤ人が、アブラハム、イサク、ヤコブの神を神とし、その民として受け続けてきた割礼は、洗礼というキリストの割礼として、引き継がれたのではなかろうか。そしてまた、割礼は、律法を守ってこそ、意味があるとも聖書は記している。従って、信仰によって義とされるということも、律法をそれによって達成するということになるのであろう。アーメン。

 

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