2016年9月20日火曜日

「お金をどう用いるか」(ルカ16:1~13)

ルカによる福音書第161-13節、2016918日(日)、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、コヘレトの言葉第810-17節、テモテへの手紙一第21-7節、讃美唱113(詩編第1131-9節)

 ルカによる福音書第161節~13
 
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


説教「お金をどう用いるか」(ルカ16113

先週の福音ルカ福音書第151節から10節では、主イエスはなぜ罪人たちと食事をし、彼らを歓迎するのかとつぶやくファリサイ派や律法学者たちに対して、主イエスがなさった物語で、滅びつつある者の一人でも取り戻せたならば、天におられる父なる神は何にもまさってお喜びになると、失われた1匹を捜し求める羊の持ち主や、見失った1ドラクメ銀貨を家中探し回る主婦の譬えを語られた記事でありました。
それに続いて、今日与えられた福音は、今度は弟子たちに向かっても語られた譬えであります。それは、一読すれば話の趣旨、筋道はだれにでもすぐ分かるものでありますが、必ずしも承服しがたい内容であって、色々な解釈がなされてきた物語でもあります。
ある金持ちに管理人がいて、その管理人が、不正に主人の財産をばら撒いていると主人に告げられたのであります。主人は、管理人を呼び出して、私があなたについて聞いているうわさは、何なのか、もう管理人の仕事をさせておくわけにはいかない、その管理についての計算書を出すようにと言いつけるのであります。
管理人は、どうしようかと自分に問い、そして、分かった、こうすればよいと考えあぐねた末、自分が職を奪われたとき、人々が自分を迎え入れてくれるようにすればよいのだ、と言って、動き出すのであります。そして、主人に借りのある人を次々に呼び出し、まず一人目から問いただすのであります。あなたは、主人にいくらの借りがあるのかと聞きますと、その借主はオリーブ油100バトスと答えます。管理人は、これがあなたの証文だ、これを受け取って、あなたは座って、すぐに、それを50バトスと書き換えなさいと指示します。次の人にも問いただすと、自分は100コロスの小麦を借りていますと答えましたので、ここにあなたの証文がある、あなたはこれを受け取り、座って80コロスと書き換えなさいと教えるのであります。
ところがこれを見たその主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのであります。しかし、どうも、私どもの目にはそれには合点がいかないようにも思われます。それで、ある人たちは、この主人というのは、主イエスのことなので、主はこの管理人のがむしゃらは生存策をユーモアをこめて、慈しみの眼差しでほめておられるのだと解釈する説もあるのであります。
しかし、いずれにしても、不正そのものをほめているのではなく、色々な当時の事情もあったにせよ、彼の危機に迫った時の精一杯それを打開して生きようとする生き様に対して、ほめているのであります。
そして、主イエスは、この世の子らは、光の子らよりも、この世に対してはより賢く振舞っていると弟子たちに警告されるのであります。私たち、信仰を与えられ、洗礼を受けている主イエスの弟子たち、信仰者たちは、えてして、信仰を持っていない人々よりも、この世の生き方に対して、より思慮深く生きているとはいえない現実があると、主イエスは、自分に従って、すべてを捨てて、十字架に向かって、エルサレムへと旅をしている12弟子たち等に向かって語られるのであります。
そして、弟子たち、私たちに向かって、強調して言われるのです。あなた方は、不正の富を用いて、あなた方自身でもって、友達を作りなさい、そうすれば、金がなくなったとき、あるいは、ことが終わったとき、天に召された時、彼らがあなた方を、永遠の住まいに迎え入れてくれようと。
お金は、自分の力で稼いだものではなく、神から預かったものだというのが、聖書の考え方です。そして、この世の財貨は、自分のためだけに用いるものではなく、友達を作るために、すなわち、貧しい人を助けたり、隣人や弱い人、苦境にある人を手助けするためにも、用いるべきものだと主イエスも説いておられるのであります。
そして、今日の記事の後半部分のその後の格言的な言葉は、この譬えに併せて、あるいは後に、編集的に主イエスがどこかで語られた言葉をここに記したのだと考えられています。
他人のものに忠実でない者、不正である者に、だれが、あるいは神があなた方のもの、あるいは、真実に価値あるものを託すだろうか。ごく小さな事に忠実でない者は、大事なことにも忠実でない。
そして、どんな家の奴隷も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎み、他方を愛し、一方に献身し、他方を低く評価するものだと主は言われます。神と富、マモンとに、あなた方は兼ね仕えることはできないと、主はここでも警告を発しておられます。
お金は、ある程度の余裕をもって、私たちは必要とするものであります。しかし、それを自分のためだけに用いるものではないのであります。周りの人を生かすためにも、用いるべきものであります。そして、永遠の住まいに迎え入れられるために用いるべきものであります。アーメン。





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