2016年9月3日土曜日

「アブラハムとダビデ」(ローマ4:1-8)

ローマの信徒への手紙第41-8節、20160902、聖研・祈祷会

 ローマ41-8 

 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、
   幸いである。
  主から罪があると見なされない人は、
   幸いである。」

メッセージ「アブラハムとダビデ」(ローマ41-8

私どもが、恵みによって赦されるということを、パウロは旧約聖書を引用して論証します。新約聖書の著者たちは、旧約聖書を引用して、自分たちの主張が正しいことを、私どもに納得させる手法を取っており、ことにパウロにおいてそのことは一段と鮮明に現れます。
私どもが救われたのは、律法の行いによってではなく、信仰によるのであり、それによって、神の前に義とされる。罪があり、有罪として裁かれても当然の私どもが、キリストの十字架の死によって、罪なき方が、私たちの罪のために、罪ありとされることによって、あたかも私どもが無罪であるかのように、弁明されるのである。
まず、アブラハムの信仰が挙げられている。アブラハムは私どもの信仰の一番大きな先祖である。不信仰のカルデアの地において、まことの神の声を聞き、アブラハムは、主なる神の導かれるままに、約束の地に出て行った。
肉によるアブラハムは、行いによって信仰を得たのなら、誇れもしようが、神に向かっては誇れない。神の言葉を、アブラハムは聞き、それを信じて義と認められたからである。
アブラハムもまた、肉としては完全無欠な者ではなかった。自分の妻を、エジプトに飢饉で避難したときには、自分の命を守るために、妻サライにファラオには自分はアブラハムの妹だと言うように策を弄して罪を犯し、人間的な弱さを暴露している。しかし、彼は、危機を主なる神の声に導かれて乗り越え、従って行く。ようやく、約束されていた世継ぎ、イサクが与えられたが、そのイサクを犠牲として、献げるようにと言われると、忠実にその通りにしようとして、寸前のところで、主によって、もう献げなくてよいとその信仰と従順を認められて、助かっている。
パウロは、このアブラハムを、行いによって義と認められたのではなく、信仰によって、義と見なされた、私どもの信仰の原型として論証しているのである。賃金は、恵みではなく、当然支払われるべきものである。しかし、不敬虔な者、すなわち、以前の私どもを、仮に働きがなくても、その信仰のみで、義と認めてくださる神を信じる者は、義と認められるのである。
次に、ダビデの例が持ち出される。彼は、自分の部下でもあるウリアの妻を、ウリヤを戦場に派遣して戦死させてまでして、奪ったのである。
そのダビデの犯した罪を、悔い改めるダビデに対して、神が取り去ったと宣言される。私どもの多くの罪、数え切れない不法を、神が赦してくださり、罪と見なさないで、生かしてくださる。これは、神の憐れみ、恵み以外の何物でもない。
旧約のアブラハム、ダビデの信仰は、私ども、キリストの死によって、私どもの行いによるのではなく、私どもの罪を取り除いてくださったお方への信仰のみによって、既に義とされているとの信仰の原型なのである。アーメン。


 

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