コヘレトの言葉第6章1節~12節、2016・09・08、英語で聖書を読む会
コヘレトの言葉第6章1節-12節
太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。
しかし、長生きしながら、財産に満足もせず
死んで葬儀もしてもらえなかったなら
流産の子の方が幸運だとわたしは言おう。
その子は空しく生まれ、闇の中に去り
その名は闇に隠される。
太陽の光を見ることも知ることもない。
しかし、その子の方が安らかだ。
たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福ではなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。
人の労苦はすべて口のためだが
それでも食欲は満たされない。
賢者は愚者にまさる益を得ようか。
人生の歩き方を知っていることが
貧しい人に何かの益になろうか。
欲望が行きすぎるよりも
目の前に見えているものが良い。
これまた空しく、風を追うようなことだ。
これまでに存在したものは
すべて、名前を与えられている。
人間とは何ものなのかも知られている。
自分より強いものを訴えることはできない。
言葉が多ければ空しさも増すものだ。
人間にとって、それは何になろう。
短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。
メッセージ「人の命は束の間である」(コヘレトの言葉第6章1節~12節)
コヘレトは、主イエス・キリストを知っているわけではないし、復活についても、まだ、彼の時代には聞かされていなかったようである。
先週に続いて、財貨や富やお金を求めるままに手に入れたが、それを別の人に受け取られ、自分は、それによって楽しむことを、神が与えなかった人の例を上げ、それは不幸なことであると、その人の生涯の理不尽を、コヘレトは嘆き、むしろ覚めた目で、見通している。
そして、たとえ、二千年生きても、不幸な生涯を送るよりは、死産のまま、名前も付けられず、闇の葬られた子の方が苦しみを知らず、安らかであり、まだましであると断ずるのである。
私たちは、多くのことを夢見、追い求めているが、人生はつかの間であり、それは、風を追うようなものだと語る。
そして、現在手に入れているもので満足するほうが、欲望に支配されるよりも良いと言う。人のあらゆる労苦は、口のためだと言い切り、自分の得たもので満足するのが幸いな生き方であると、人の人生を割り切っているのである。
確かに、欲望はきりがないし、私たちにできることは、限られている。それを見据えて、与えられた職業、労働に汗を流し、その得た給料で、喜んで、飲み食いし、生活するのが、神を知る者にとっても幸いな道なのであろう。
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