2016年9月15日木曜日

「我らの滅びるのを喜ばない神」(ルカ15:1-10)

ルカによる福音書第151-10節、2016911日(日)、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)、出エジプト記第327-14節、テモテへの手紙一第112-17節、讃美唱51/2(詩編第5115-21節)

 ルカによる福音書第151節~10

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


説教「我らの滅びるのを喜ばない神」(ルカ151-10

  今日の福音は、ルカ福音書951節以下に収められていますので、時や場所は特に記されてはいませんが、エルサレムへの十字架の死を目指しての旅の途上で語られた主イエスの譬え話とされています。御自分の死をかけて語られたみ言葉と言えます。主が御自分の死を目指しながら、語られた最も記憶に残る物語の一つであります。
 私たちが、洗礼に至ったことを思い起こさせてくれる、よく分かる印象的な譬え話ではないでしょうか。あるいは、求道中の方にとっても、この二つの譬えは、この後の放蕩息子の譬えと言われるものと共に、十分訴えかけるものではないかと思います。
 あなた方のうちに100匹の羊を持っている人がいたとして、その1匹がいなくなれば、99匹を野に残して、それを見出すまで出て行くのではないか。そして、見つかったら、喜びながら肩に抱いて、家に戻り、友人たちや近所の者たちを呼び寄せて、「一緒に喜んでください。いなくなっていた羊を見つけましたので」と祝わないだろうかと、主は言われます。自分の無知や愚かさで、滅びつつあったものを、主イエスの父なる神は、どこまでも捜し求めて見出してくださるのです。御自分のものだからです。私共は、神の目に価高いと主は約束されているのです。
 また、主イエスは、もう一つの譬えを、続けて話されました。ある女の人が10ドラクメの銀貨をもっていて、1ドラクメを見失ったとする。その人は、火をともして、家中を明るくし、掃き続けて、見出すまでやめないのではないか。そして、もし見つかったら、女友達や近所の女たちを集めて、「一緒に喜んでください。私が見失っていた1ドラクメ銀貨を探し当てましたから」と言って喜ばないだろうかと。
 そして、主は言われます。よく言っておくが、神の天使たちの前には、このように、喜びが成ると。
 この譬えは、実は、徴税人や罪人たちをもてなし、食事を共にする主イエスに不平を鳴らしたファリサイ派や律法学者たちに向けて、語られたものでした。彼らは、主イエスが、律法を守れないけしからぬ者たちと食事まで共にするのが我慢がならなかったのです。
 主イエスは、しかし、この譬えを述べて、罪人たちも、自分を義とする者たちも、同様に、自分と一緒に喜ぶように、招いておられます。それが父なる神のご意志だからです。主は、「すべて労する者、重荷を負って苦しんでいる者は、私のところに来なさい、そうすれば休ませてあげよう」と私たち一人一人を招いてくださっています。罪人も、自分を義とする者も、へりくだって主のもとにやって来て、神の喜びを、自分たちも喜び合うようにと、今も招いておられます。私たちのだれひとりをも、滅びることを、天の父なる神は決して喜ばれない、愛と赦しの神様なのであります。自分と他人とを区別せず、共に主のもとに集められて喜び合い、祝い合う者とされていきたいものであります。アーメン。



0 件のコメント:

コメントを投稿