2016年7月2日土曜日

「罪と律法」(ローマの信徒への手紙3:9-20)

ローマ39-2020160701、聖研・祈祷会

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
義を行う者はいない。
ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

説教「罪と律法」(ローマの信徒への手紙39-20

私たちの周りには、別に聖書のことを知らない人であっても、信仰を与えられている私たち以上に、立派に見える人々が確かにいるように思われます。しかし、使徒パウロは、この世界のうちに、罪から自由な者は誰一人としていないというのであります。
今日の箇所の前の文章では、ユダヤ人の優れた点は何なのかと問いを出し、それは、一つには、彼らに神の言葉がゆだねられたことであると言っています。
今日の部分では、それでは、私たち、ユダヤ人には、利点があるのだろうかと問い、
それは、全くないと言い切るのであります。
 そして、旧約聖書の詩編や、イザヤ書から、み言葉を取り出して、だれもかれもが、道からそれて、共々に、すべての者が、律法から、離れて生きていると言い切るのです。
 最初のほうの引用では、私たちの口が犯す罪の事を言っています。それから、それを達成する、私どもの足のことを、詩編などから取り出して言っています。私たちは、口で罪を犯し、そのための道具として足を用いて、人を殺したりする始末であると、パウロは、私たちの罪を喝破しているのであります。
 そして、律法は、そのもとにある人々に語りかけているが、それを守ろうとしても、守ることができず、律法の行いによっては、結局、罪の認識しかもたらさないと、断言しています。だからといって、律法が無意味なもの、不必要なものになっているというのではないのです。この律法の下にあり、嘆かざるを得ない、私たちすべての人類の下に、ガラテヤの信徒への手紙による表現によれば、また、ルターの解釈によれば、キリストが、私たちの皆のために、罪となり、木にかけられて呪いとなり、死そのものとなってくださったという福音が訪れるのであります。

 そこへ移るためにも、まずは、律法の下にある私たち人類皆が、罪の嘆きの中に閉じ込められている現実を知らなければならないのであります。その認識から初めて、平和への道の曙が訪れるのであります。アーメン。

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