コヘレトの言葉第4章17節-第5章8節(9節)、2016・07・14、英語で聖書を読む会
コヘレトの言葉4:17~5:8
神殿に通う足を慎むがよい。
悪いことをしても自覚しないような愚か者は
供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
焦って口を開き、心せいて
神の前に言葉を出そうとするな。
神は天にいまし、あなたは地上にいる。
言葉数を少なくせよ。
夢を見るのは悩みごとが多いから。
愚者の声と知れるのは口数が多いから。
神に願をかけたら
誓いを果たすのを遅らせてはならない。
愚か者は神に喜ばれない。
願をかけたら、誓いを果たせ。
願をかけておきながら誓いを果たさないなら
願をかけないほうがよい。
口が身を滅ぼすことにならないように。
使者に「あれは間違いでした」などと言うな。
神はその声を聞いて怒り
あなたの手の業を滅ぼされるであろう。
夢や空想が多いと饒舌になる。
神を畏れ敬え。
貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、
正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。
なぜなら
身分の高い者が、身分の高い者をかばい
更に身分の高い者が両者をかばうのだから。
何にもまして国にとって益となるのは
王が耕地を大切にすること。
メッセージ「礼拝への正しい姿勢とこの世における搾取の現実」(コヘレト4:17-5:8)
コヘレトは、当時の神殿での犠牲や、さらに広げて言えば、私たちの現在の礼拝におけるあるべき姿勢について、ここで凝視していると言えよう。さらに、それに続く、最終部では、世の中に不正があり、高い地位にある者たちが、低い地位にある者たちを搾取し、貧しい者たちが、それによって苦しんでいる、変わることのない世の現実をさめた目で見ているのである。
旧約聖書の中でも、イザヤなどの預言者は、多くの犠牲を、神のみ心も知らないで、献げる者どもを批判し、必要なのは、神の慈しみを知り、神のみ声、み言葉に聞くことであることを、繰り返し主張している。
神の家に行くことには、十分に慎重であるようにと、コヘレトも警告を発している。私たち、現代の教会に礼拝に通うことについても、ただいたずらに足を向けるだけに陥っていないか、吟味する必要があるのではないか。畏れをもって、主のみ言葉に耳を傾け、聖餐や洗礼という恵みの手段についても、心新たに、主イエスの肉と血にあずかることが求められているのではないか。
続く誓願を立てることについても軽々しく、神に誓いを立てることを戒めている。誓いを立てたら、ぐずぐずしないで、それを果たすように、コヘレトは警鐘を鳴らしている。
新約の時代になると、主イエスは一切誓いを立てることを禁じるまでに至っている。ただ、実際には、使徒パウロも、その伝道の途上で、誓いを立て、剃髪などをしたことが、使徒言行録には記されており、後には、マルティン・ルターも修道士になろうと決心し、修道誓願を、当時のローマ・カトリック教会の制度・慣習の中であったとはいえ、立てている。
私たちも、自分の生活の中で、誓いを立てて、それをすみやかに果たしていくという姿勢が必要な場面もあるのではないか。
コヘレトは、当時のユダヤ人たちの願を、神殿で、祭司の前で立てる場面で、神に向かって、それを精一杯果たすように、当時の形骸化していた祭儀を内面化し、確かな実をもたらすものに、回復しようとして批判しているのではないか。
最後に、コヘレトは、国の中で、あるいは、属州としてのユダヤの国においても悪政がはびこり、貧しい者たちが虐げられている現実に目を向ける。高い者たちが、民衆を虐げているが、その高い身分の者たちを、更に高い無分の者たちがかばっているという。むしろ、かばっているとうよりは、監視しているとも訳せる言葉である。人類の歴史も、その時代から2000年以上も続いているが、今の世界も、日本も、民主主義の社会とは言うものの、実際に力ある者が、力の劣った者たちを酷使するという社会の構造は、基本的には人類の歩みと共に繰り返されている現実だといえよう。
そこで、コヘレトは、最後に、その国の王が、その土地が耕されている、そのような姿が、一番幸いであるとも訳される理解も難しい、不思議な文章を残している。地から実りを生み出す農民たちを持っている王の国こそ、幸いなのだと、この世の幸いを、与えられている地の実りによって、つつましく生きることが、私たちの求めるべき幸福だと、コヘレトは、身近に神を求め、分を知って生きることを奨めているようである。アーメン。
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