2016年7月18日月曜日

「み言葉に生きるとは?」(ルカ10:25-37)

ルカによる福音書第1025-37節、2016717日(日)、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)申命記第301-14節、コロサイの信徒への手紙第11-14節、讃美唱25(詩編第251-9節)

 ルカによる福音書第1025節~37

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしているあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯して、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


 説教「み言葉に生きるとは?」(ルカ1025-37

 今日の個所には、私たちの新共同訳聖書を見ると、「良いサマリア人」と小見出しがつけられています。しかし、内容を一読しますと、最初には、ある律法の専門家が、主イエスに向かって立ち上がり、「先生、永遠の命を受け継ぐには、私は何をすればいいのでしょうか」と質問し、しかもそれは、イエスを試みようとしてなされたものであったことが記されています。
それに対して、主は、律法に何と書かれているか、あなたはそれをどう読んでいるかと逆に問い返しています。律法とは、私たちの今読んでいます旧約聖書全体のことといっていいでしょう。それについては、当時色々と議論がなされていましたが、この律法の専門家は、要約して見せ、「主なる神を全身全霊で愛しなさい、また、あなたの隣人をあなた自身の如くに愛しなさい」と唱えていると答えます。主は、それを認め、あなたもそれを行ないなさい、そうすれば、永遠の命に生きることができようと答えを与えておられます。
ところが、この律法の専門家は、それで引き下がらず、「では、あなたの隣人とはだれのことですか」と主に問い返すのです。それは、自分を正当化しようとしてなされたものであったとルカは記しています。それは、自分を義なる者としようとしてという意味です。
私たちも、自分を正当化しようとして、私どもが愛さなければならない隣人を限定しようとする者であります。誰も彼をも自分の如くに愛し、尽くしていくことはできない。自分も疲れており、電車に乗っても、苦しい時には席を譲る気にはなれない。だから、自分よりももっと年取った人とか、障害者の人とか、お産前のお母さんが小さな子供連れであるとか、自分よりももっと苦しそうな人がいれば仕方がないが、自分が疲れているときには、元気な若者たちには席を譲ってもらいたくなる。
そのように、この律法学者も、愛すべき相手を一定の範囲に限りたかったのでしょう。それに対して、主がなさったのが、いわゆる「良いサマリア人」として有名な今日の部分の後半の譬え話であります。今日の部分に続く来週読まれるエピソードでは、ある村に一行は入り、そこでマルタとマリアに出会う。主と弟子たちの給仕に追われるマルタが、主イエスのみ言葉に聞き入る姉妹のマリアに我慢ができなくなって、何か言ってやって私を手伝うように注意してくださいと、小言を言うと主が必要なものは一つである、マリアはそれを選んだ、それを彼女から取り去ってはならないと主が言われるという実に短いが美しいエピソードが、来週の福音として読まれます。それは今日の永遠の命を受け継ぐためには、主なる神を全身全霊であなたは愛しなければならないという、聖書のもう一つの教えを指し示すものとして置かれている。
さて、主は、隣人とは誰かとの問い返しに対して、「良いサマリア人の譬え」として有名な譬えをここでなさっていますが、これはむしろ、良いサマリア人、もっと正確に言えば、憐れみ深いサマリア人によって助かったある人の譬え話というべきでしょう。そのある人は、エルサレムからエリコに下る危険な場所で、追いはぎ、強盗に出会い、半死半生となる。そのあとに、そこへ時をほぼ同じくしてたまたま、ある祭司が同じ道を通りかかる。しかし、彼は自分も同じ危害に遭うことを避けるかのように、その人を目にしたが、反対側を通って、自分の住んでいた町であったのかエリコへと道を急ぐのであります。
同じようにまた、レビ人も、やって来たが、目にすると反対側を通過してしまうのであります。
ところが、そこにあるサマリア人が、旅の途中で通りかかる。先週の個所で、主イエスの一行を歓迎しなかったサマリア人の村の人々のことが出てきた、その当時犬猿の仲であったサマリア人の一人がここに登場するのであります。
ところが彼は、その瀕死の人を認めると、憐れに思い、近づいて来て、手持ちのぶどう酒とオリーブ油を用いて、手当てをし、腰に巻いていた手拭か何かで包帯をし、自分のろばに乗せ、ある宿屋まで連れて行って介抱するのであります。この、憐れに思って、近づき、介抱するという表現は、主イエスか、父なる神に対してしか使われていない言葉であります。はらわたがちぎれそうになるという表現は、私どもについてではなく、私どもに対する神の思いを表現するためにしか使われない言葉なのです。
ですから、今日の主イエスのなさった譬えの主人公は、この憐れみに満ちたサマリア人というよりもむしろ、その憐れみを受ける犠牲者となった、瀕死の状態で見出されたある人と言えましょう。それはむしろ、神に、主イエスに見出された私どもの物語、譬え話であるとも言えましょう。
主はこの譬えを語られた後、律法学者に再度尋ねます。この三人のうちでだれが、この瀕死の犠牲となった人の隣人となったと思うかと。彼は、その人に憐れみを行った人ですと答えています。それに対して、主は、あなたはここから出て行きなさい、そして同じように行いなさいと告げられるのです。
隣人とは誰かと枠を決めて、愛すべき相手を限定していくのではなく、助けを必要としている人に、できる限りの憐れみのふるまいを行っていく。ちょうど、このサマリア人が旅を続けて、2デナリオン、当時の2週間分くらいの宿賃と介抱してもらう代金を宿屋の管理人に渡して旅を続け、もし余分にかかったら帰りがけにその分は私が支払いましょう
と軽やかに出て行ったように、私どももみ言葉に生きることができるのであります。
 それぞれの生活の中で、私どももまた、主イエスによって憐れみを受け、洗礼に与った者として、分に応じたさわやかな生き方へと再びここから押し出されていきましょう。
 アーメン。










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